猫村さん
猫村さんは、頭の良い人だった。ここでいう頭が良いっていうのは、単に勉強が出来るとか、仕事ができるとかそういう意味ではなく、むしろそういったものは彼女の聡明さが副次的に生んだ一面的なものにしかすぎないというものをつねづね感じさせるような頭の良さだった。 例えばそれは、何かをとても客観的に見る力だったり、もしくは常に冷静に、その時々の問題に関して、常に最善の答えを即座に導き出せるということでもあるのかもしれない。あるいは、人間の心の機微にとても敏感であることとか、とても深い教養を持っていることとか……。 ところで、俺は受験時代、猫村さんには大変お世話になったものである。たとえば、大学生となった俺の中で、今でも通用するいくつかの教訓は、そのほとんどが、彼女に勉強を見てもらっていた時に猫村さんから教授されたものなのだ。 確かこれは、冬休みのある日、俺が猫村さんに頼んで、喫茶店で俺の勉強を見てもらっていた時のことだ。 「あのね、新藤君。新藤君って今受験生だったよね。新藤君が何学科を受けるかまでは知らないけれど、これだけは覚えておいて欲しいことがあるの。『教養』のことよ。 英語読解、国語現代文、古文、漢文、世界史現代史、果ては自由作文に至るまで、とにかく人文学系の学問に関して、最も強い武器は、『教養』なの。 もちろん新しく物事を覚える力や、思考力というのもとても大切だけれど、それらだって、小さい頃からの読書や教育によって育まれてきた『教養』に勝るものではないわ。 例えば英語の長文なんかに関していえば、これをより深いレベルで理解しようと思ったら、欧米の思想に根付くキリスト教主義的思想、そしてそこから派生した人間中心主義的思想のことを考慮しながら英文を読む必要があるのよ。たとえ筆者本人が無宗教でも、周囲の環境がその文章に多大な影響を与えるの。あるいは、そういった、特に大学入試で出題されるような論説文を書いているのは、高度な教育を受けた知識階級の人間だということも頭に入れておかないと、話についていけなくなる。 このことは英語だけじゃなくて、今挙げた他の教科にも当てはまるの。国語現代文の評論、論説であれば西洋の哲学思想の流れや、ポスト・モダンの基本的な思想はまず知っていないといけないし、古文ならば、出典元はある程度(と言ってもやっぱりたくさんあるけど)、絞り込めるわ。今昔物語、宇治拾遺物語、十訓抄、沙石集、平家物語、大鏡、発心集、栄花物語、そして何より源氏物語。少なくともこれらは、現代語訳されたものでもいいから、一度は読んでおくべきね。 教養は一朝一夕で形作られるものではないし、また高めるのがとても難しいものだけれど、でも決して無駄にはならない。敢えて言うのなら、教養を高めるのに最も手っ取り早いのは読書かな。 今新藤君って高三だっけ。今更本を読め、なんていうことは非現実的だし、そんな余裕もないと思うから言わないけれど、何にせよ、例えば大学入る前とか、入った後とか、とにかく自由に使える時間が出来たのならば、その時は出来るだけたくさんの本を読みなさい。いつか必ずあなたを助けてくれるから」 俺は突然の説教にしばし呆然とした。俺のそんな反応を見て、猫村さんはしまったという顔をした。 「ごめん、私、いきなりべらべら喋っちゃって」 「いや、大丈夫っすけど……」 猫村さんとは、まあ、こういうことを至って真面目な顔で、一息に喋って、その後ちょっと恥ずかしくなって 「やだ、私何熱弁しちゃってんだろ」 なんて言って照れ隠しに笑って誤魔化してしまうような人間だったのだ。 とにかく、今述べたようなどんな意味でも猫村さんは俺の知る人々の中で抜群に頭が良かった。そういう訳だから、彼女には時々受験勉強で作文なんかを見てもらっていたのだ。これは、おれの大学入試が一段落し、そのお礼を言いたくて、俺が猫村さんをお昼ご飯に誘ったある春の日のことである……。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー |
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