連載小説
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猫村さんと俺の宵の口から夜更けにかけてA
 最初はCDショップやレンタルビデオ屋を冷やかしていたが、存外に早く飽きが来てしまった。しばらく暗くなった道をふらふらとうろつき、俺がスーパーマーケットの近くまで来て、何気なく買い物をしに来た親子連れの客を見ていると、
「あれ、新藤君?」
肩を叩き俺に声をかける人がいた。それは猫村さんだった。

 俺は結構驚いた。猫村さんは会社の制服を着て、手には布製のバッグを下げていた。そこから、そこで買ったのだろうか、長いアスパラガスの先端が覗いていた。
「お、猫村さん」
「どしたの、こんなところで」
 俺は会社でのこともあったからなんとなく気まずい気持ちで、猫村さんに聞き返した。
「猫村さんこそ、どうしたんすか。買い物?」
「うん、お買い物。晩御飯のね」
「へー」
 俺がそれ以上何も言わないでいると、猫村さんもそれきり黙ったままだった。覗き込むようにしてそっと猫村さんの表情を盗み見ると、猫村さんもどこか気まずい表情をしているのが分かった。
 そうか、彼女は俺があのことを聞いていたことは知らなくても、やはり俺をオカズにしていたことの後ろめたさみたいなことは、今日改めて意識したのかもしれない。
 今回は珍しく、俺の方が話題を切り出したくて口を開いた。
「あ、猫村さん、お代返します。昼間のやつ渡しそびれちゃったんで」
「え? ああ、ありがとう」
 俺は財布から代金を取り出すと、猫村さんに手渡した。猫村さんは、ちょっと恐縮した感じで受け取った。
それが済むと、何とも言えない静けさが、もう一度俺たちの間に吹き抜けていった。俺はポケットに手を突っ込んで片足をぶらつかせ、猫村さんは鞄から出たアスパラの先端をいじくった。
 俺は一瞬ここで彼女と出会えたことに何かを期待したが、自分からそれを求めに行くのはなんとなく出来なかったのだ。
「えと、じゃあ、俺はここらへんで」
「あ、うん。またね」
 俺と猫村さんはぎこちなく挨拶をして別れようとした。しかし、猫村さんは背を向けた俺にもう一度さっきの質問をした。
「新藤君って、なんでここに来たの?」
「あー、夜飯っす。ラーメン。今日、両親いないんで」
「……また?」
 猫村さんは、その形の良い柳眉をちょっとしかめた。今度は久しぶりに見るくらいの険しい表情だった。
「まあ、最近多いっすけど。なんか、忙しいみたいなんで、邪魔しちゃ悪いっすから」
「……大丈夫なの、新藤君の方はそれで」
「あーなんか、虐待とか、育児放棄とかではないっすよ。普通に家の事情です」
「……そう」
 猫村さんはその場でちょっと考える仕草をした。俺の両親が仕事に忙しく、俺がたびたび一人で夜食を食べているのは、この六か月の中で猫村さんの知るところだったのだ
 俺はもう一度手を上げた。
「んじゃ、また。今日は楽しかったっす」
 しかしその手を下げてポケットに突っ込み、去ろうとしている時、俺のジャケットの裾が引っ張られた。
「新藤君」
「何すか」
「今日は、私の家でご飯食べてきなさい」
「へ?」
「作る。二人分」
「いや、いいっすよ。迷惑になりますし」
「いいから」
「いやでもそんな…猫村さんも、明日仕事あるでしょ」
「うるさい」
 そう言うと、猫村さんは裾を離し、俺の手を取ってずんずんと歩き出した。普段の彼女からは考えられないほどの強引さだった。俺は戸惑いながらも、猫村さんのされるがままになっていた。俺は彼女の手を振りほどくことが出来なかった。
 本当のことを言えば、この時の俺の心はだいぶ救われた気持ちになっていた。ここにきて俺は、俺が今まで恋焦がれていたあのラーメンが食えなくなったことが、この上なく嬉しくてたまらなかったのだ。
頬に冷たいものを感じて俺は空を見上げた。夜空に星はなく、ぶ厚い大きな雨雲が広がっているのが目を凝らせば見えた。春の嵐が近かった。


 激しい雨が窓の外で振っていた。俺はガラス越しに巨大ですごい勢いの雨粒が窓や地面をたたく音を聞いていた。手にしたタオルで未だ水の滴る自分の髪の毛を拭いた。  
 猫村さんは、町のはずれのマンションの一室に住んでいた。彼女の部屋に付いた時には、頭とは言わず、全身が濡れネズミだった。猫村さんは俺を家に上げると、自分はさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。冷たい水に体が包まれているのが耐えられなかったらしい。俺に謝りながらも、彼女は急いでバスルームに入っていった。
 後に残された俺は、リビングで彼女が戻ってくるのを、タオルを片手に、ぼんやりと座って待っていた。急に降り出した雨は、衰える気配が全くなかった。
 俺は座ったまま、首を巡らせて何気なく部屋全体をぐるりと見渡した。猫村さんの家は案外生活臭にあふれていて、椅子の背にかけられたシャツやごみ箱にかけられたビニール袋を見ているとそれがしきりに感じられた。見ないようにしたが、普通に下着とかも落ちていた。
 ふと背後を見ると、几帳面に並ぶ本の背表紙が目に入った。
(お、本棚)
 俺はまじまじと、背の低い棚に並べられた本の数々を眺めた。かなり低い位置に整理されていることから、おそらくは猫村さんが休日に、ちょうど俺の今いるこの位置に寝転びながら本を取り出すためにそうされたのだろうということが予想できた。
(ホッブス、ロック、ルソー、うーん古典。あ、でも、養老孟司とか加藤修一とか、レヴィ・ストロースもあるな)
 猫村さんの本棚には、哲学関係の書籍が多かった。ちょっとした参考書まで揃えて置いてあったから、ひょっとしたら彼女は大学で哲学を専攻していたのかもしれない。しかし、そうかと思えば、O・ヘンリーやチャンドラー、ブラッドベリやハインラインの短編集までそろえてあったりするのだから、彼女の趣味がよくわからなかった。
 洋書系が好きなんだろうか。
 とにかく、普段の彼女の博識ぶりはここに並ぶ数多くの本によって形作られたものなのだろうということだけはよく分かった。
 それらの本を手に取って何ページかめくってみては、元の場所に戻すという作業を俺が繰り返していると、シャワーの音が止んで、猫村さんの声がした。
「お風呂先に入らせてもらったよー。新藤君も入ってねー」
「はーい。ありがとうございまーす」
 俺が洗面所に向かうと、ちょうど猫村さんは、全身から湯気を上げつつ、キャミソールの裾を引き下ろすところだった。パンツ(ズボンの方な)の端から下着のレースがはみ出ていた。風呂の湯の雫がうなじのあたりの後れ毛を伝わっていて、彼女の顔は少し火照っていた。
「ぅあ、サーセン」
「大丈夫、今着たところだから、セーフ」
「セーフなんすか」
「猫村さん的にはオッケー」
「緩いなー」
「私向こうでご飯作ってるし、しっかり温まってきて。出来たら呼ぶから」
「なんか、ほんと色々とすいません。飯とか風呂とか」
「いいの、持ちつ持たれつ」
 そう言って猫村さんは上気した顔で、キッチンの方へ軽やかに歩いて行ってしまった。
 部屋着なのかもしれないが、肢体を際立たせる黒いパンツ(ズボンの方な)とキャミソールに身を包んだその姿は、少なくとも俺から見たら、あんまりセーフと言えるような恰好ではなかった。
 俺は洗面所で体に張り付く濡れた衣服を脱ぎながら、
(なんなんだろあれ、誘ってんのかな)
と思った。
 実際のところ、俺は今こんな風にして夕飯に誘ってくれた猫村さんに対して、多大なる恩義を感じつつも、また心の別の面ではどこか冷静に、ひょっとしたらワンチャン一発ヤらせてくれるかもしれない、もしかしたらそういう空気に持っていけるかもしれない、ということを平然と期待していたのだ。
 俺は、若干自分に呆れつつ、まぁでもあんだけエロい格好なんだから、そんぐらい考えてしまうのも仕方ないとも思って、パンツ(トランクスな)をうずたかく積もった自分の衣類の頂上に落とし、浴室に入った。


19/08/03 11:18更新 / マモナクション
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■作者メッセージ
ちなみに、この日、猫村さんの隣の部屋に住む猫村さんの同僚は彼氏のところに泊まりにいってて帰ってませんでした。
8月3日修正 本文が長くなっていたので分割しました。

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