連載小説
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猫村さんと俺の宵の口から夜更けにかけて@
 …そうして次第に眠気のようなものを覚え始めていた時に、外から車の音がした。そして黒いスーツに身を包んだ母親が帰って来た。
「おかえりー」
「ただいまー。あら、帰ってたんだ」
「うん」
「どっか遊びに行かなかったの?」
「なんか色々あってね」
「へー、友達と喧嘩でもした?」
 母親は、暗っ、と呟きながら、電球のスイッチを押した。日が暮れ始めた室内に明るさが満ちた。俺は身を起こした。
「いやいや、そんなんじゃなくて。もっと何でもないことだよ」
「あらそう? ならいいんだけど」
 まさか自分がオカズにされていた、しかも年上の、俺が知る限りの一番の美人に、なんてことはとても言えない。母親はこっちを見てちょっと不安そうな顔をした。
「お母さん心配なのよ。お父さんも私も、二人とも家にあんまりいないでしょ? だから寂しい思いしてないかなーって」
「おかげさまで知り合いに恵まれましたー」
「あら、ならよかった」
 母親は冷蔵庫を開け、そこにあった麦茶をコップに移し飲み干した。
「お母さん安心しました」
「そうですか」
 俺は苦笑いをした。猫村さんも、その一緒にご飯を食べてくれる知り合いの内の一人だったのだ。
 俺は何気ない気持ちで、
「そーいや、今日の晩飯って何?」
と聞いた。
 麦茶を飲みほした母親は、また真顔に戻って言った。
「あっそうだ、そのことなのよ。今日の晩御飯なんだけどね、ごめん、今日急な打ち合わせが入っちゃったの」
「ありゃ」
 また? というセリフを俺はかろうじて飲み込んだ。今週で二回目だったのだ。
「というわけだから、ごめん、晩御飯は一人でお願いー!」
 母親は俺に向かって手を合わせた。こういうのは、たまにあることだったのだ。ここ最近は顕著だが、多分、仕事が切羽詰まっているのだろう。俺は笑って言った。
「いいよいいよ、なんか適当に済まします」
「ホントごめん! また埋め合わせするし」
「いいってば」
「かーちゃんの手抜き料理じゃなくてごめんねー」
「作っても手抜きかい!」
「あはは」
 しばらく俺と言葉を交わしたのち、母親は身支度を整え、自分の部屋から持ってきた書類を鞄に詰めてから、テーブルの上に夕飯代を置いて、慌ただしく家を出ていった。
 玄関の扉を開ける時、母親は改めて念を押すように言った。
「なんだか、小さい頃からこんなことばっかりね。一人のご飯ばっかり。寂しくない?」
「大丈夫だよ」
「本当?」
「大丈夫だってば。愛してるぜ、かーちゃん」
「そう? ありがとー」
 母親ははにかんだような、安心したかのような子で笑って、扉を開けて出て行った。車のドアが開き、エンジンのかかる音がした。思えば俺はこの音ばかりを聞いてきた気がする。
 そうして、車の音はすぐに家から遠ざかっていった。いつかの地下鉄のトンネルの中のライトと同じ色のテールランプが去っていくのを、俺は窓の外からちらりと見やった。
 静かな住宅街には、涼しさと薄暗闇と、ほんの僅かな寂しさがが漂っていた。
感謝しているからこそ、愛しているからこそ、相手を困らせたくないがために言うことの出来ないことは、確かに存在するのだ。

 
 俺はやはりソファにもう一度横たわって時間が経つのを待った。テレビを見たり、スマホゲームを久しぶりにやったり、本を読んだりして時間を潰した。大体30分ほどの間、俺が必死に(時間を潰すことに)地味な努力をした結果、ようやく俺の体は空腹を覚えてくれた。ようやく俺は上半身をもたげ、ちょっとした眩暈にくらくらしながら、
(さーて、どこ行こっかな)
大きく息を吐いて立ち上がった。
 机の上に置いていた財布を、無造作にポケットにねじ込み、ハンガーにかかったジャケットを羽織りって外に出た。そして家に鍵をかけて歩き始めた。うっかりすると気づかずにいてしまうような肌寒さ残す春の夜の宵の中、俺は地下鉄の駅に向けて歩いた。


 歩きながら、俺は何を食べようか迷っていた。中華はこの前に部活の後輩とお昼で行ったところだったし、ファストフードはすぐに食べ終わってしまってつまらなかった。少し足を延ばして喫茶店でディナーを頼んでも良かったが、それさえもどこか億劫だったのだ。
 地下鉄に乗り込んで、(車内の明かりのせいかもしれない)やけに顔色の悪い乗客たちを見ているうちに、俺は結局、駅からほど近い繁華街にあるラーメン屋に行くことに決めた。彼らの顔色がラーメン屋のスープンの色に似ていたからかもしれない。
 あそこは、少し高かったけれども、今日ぐらいならそれぐらいは許されても良いような気がしたからだ。母親からもらったお金を超過する分は、自分の小遣いで補おう。
 繁華街の、いつでもにぎわっている雰囲気を思い出し、俺は少しだけそこに行くのが楽しみになった。それと同時に、俺の心の中で何かを囁くものがいた。
(うーん、今日なら無理に賑やかさを求めなくて済むと思ったのにな)
(あーあ、惜しいなー、もうちょっとだったのになー)
(もうちょっとで、三食全部誰かと一緒に食えたのになー)
 俺はそいつの声に耳を貸さないようにした。聞きたくなかった。
 突然、俺はあの、塩っ気がきつく効いた、背脂が大量に浮かぶラーメンの茶色いスープが、何故だか途方もなく恋しく思えた。栄養価なんてものは考えたくもなかった。
 高い値段を払って、味の濃いものを食べる。上手くやれば、それこそが幸せなのだと自分を誤魔化せそうな気がした。
 俺はどこか春の寒さを忘れさせてくれそうな繁華街を歩いた。ただラーメン屋に行く前に、あるいは帰る前にどこかに寄り道をしようと思い立ったのだ。
 あんまり早く行って夕飯を食べ終わってしまうと、まだ夜も更け切らないうちから、一人で家路につくことになる。
 だから無理に遅い時間に、油分の多い夕飯を食べることで胃やそのほかの消化器官、そして体をわざと疲れさせる。そのことによってその疲労感で今日は充足した一日だったと思い込める。これは俺が最近発見した一人の夜のやり過ごし方だった。
19/08/03 10:24更新 / マモナクション
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■作者メッセージ
ちなみに、新藤君の母親は外資系の会社に勤めています。
8月3日修正 本文が長かったので、修正させていただきました。

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