連載小説
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第6話
「よぉ、葵。元気か?」
「……今しがた、無くなりましたよ」

 その軽快な挨拶と共に、私の気力がボトボトと削ぎ落とされていく。
 流石に聞き飽きた。
 と、私がそう思っている間にも、すでに声の持ち主—――榎本悠希は足を止めることなく入店する。
 いつものステージ前のカウンター席へと鎮座し、刺々しい右翼で扇ぐような仕草で私に注文を通す。

「へへ、今日もアレを頼むぜ」
「またですか……あぁいえ。かしこまりました、お嬢様」

 最後の一言にはなかなか慣れず、ついおざなりに応対する。
 ガサツで粗野な悠希のどこに『お嬢様』なんて言葉が当てはまるというのかしら。

「いつもいつも、どれだけ暇なんですか?」
「何言ってんだ。暇じゃねえ奴がバンドなんてやらねぇよ」
「またそんな同業者に喧嘩を売るようなことを……」
「虚勢を吐くのもバンドマンの仕事のうちさ。いいじゃねえか。夜はちゃんと仕事しているんだから」

 悪びれもせずにそう告げる悠希を、返事も返さないでじぃっとだけ睨み返す。 
 
「今更疑うなよ……本当フリーターじゃないってば。マジで」

 何を言わずとも伝わったのか。
 悠希が勘弁してくれとばかりに苦言を漏らす。

「いえ別に。代金の支払いさえして頂ければ、何も文句はございませんので」
「へいへい。今日はえらく刺々してんなぁ」
「そんなことありませんよ。どこかの胡散臭い鳥さんが、何度もしつこくパンケーキを囓りにやって来たからって、そんなことではイラっとしません」
「メイド喫茶のメイドがこんなひねくれ無愛想な娘でいいもんなのかね……?」
「他の方にはちゃんと応対していますので」
「え、何? アタシだけ特別扱い? やめろよ興奮するだろうが」
「注文通してきますねー」

 華麗にスルーしてキッチンへと踵を返す。 
 何度もこの手の会話をこなしてきた賜物というべきか。

 悠希が初めてブルーバードに来てから一週間ほど経つ。
 悩みの種だったはずの彼女の扱いにも段々と慣れてきて、今ではこうしたスルーパスが日常業務の一つと化している。 
 ご主人様の写真の一件以来、何故だか悠希はここへ毎日欠かさずに通い続けていた。
 いつも夕方近くになると、悠希はフラッとやって来て、朝飯代わりだとあの特大の要塞パンケーキを必ず食べる。
 食後は俊介ご主人様や他のメイドと適当にお喋りして、日が沈み切った頃にはまたフラつきながら帰っていく。

 ただそれだけの流れを今日までずっと、ずっと悠希は繰り返していた。

 人を食ったような道化的態度はそのままで、これと言って何かをするわけでもない。
あくまでただのメイド喫茶【ブルーバード】のお客様の一人として、ひたすらに入り浸っていた。初めて会った日の夜のような、あの不穏な雰囲気な立ち振る舞いも、ここのところは全く見せていない。
 この一週間も気づけば経っていたという方が正しく、悠希の存在はすでに喫茶の日常に溶けきっていた。
 まるでこれからもずっと通い続けるかのような気さえしてくるほどに、それはあまりにも自然で。

 だからこそなのか、その不自然さがぬぐえなかった。
 違和感や警戒心こそ薄くなったとはいえ、悠希のことを何の屈託もなく信用しきれるといえば、ノーだ。
 むしろ逆に何もしないというのが、何かの前触れかのようで気にかかってしまう。
 悠希がただのピエロではないことを知っている分、その不信感は私の心にひどく絡みつくように根を下ろしていた。
 それでもまぁ別に、なにか問題を起こさない限りはこちらも特に何をするつもりもないけども。
 それに悠希ばかりを構っているほど、私は暇ではない。
 抱える問題は他にもあるのだから。

 店の存続のこと。
 ご主人様の写真のこと。
 あの謎のノイズのこと。

 頭の片隅には、いつもそれらの問題が燻っていた。
 
 本当のところは、まだ何も解決していない。
 なのにこうして何気なく、しがないメイド喫茶のバイト暮らしの日々を過ごしてしまっている。やるべきことを何一つ理解せず、成さないままに。
 ―――正直、焦りを感じていた。
 夏休みの宿題を投げ出して遊び呆けているかのような。
 吊り橋の上で辛うじてバランスを保っているような。

 そんな奇妙な浮遊感が私に張り付いたまま、離れようとしてくれない。
 安寧と雑務の日々で塗りつぶそうとしても、落ち着かない感情が冷や汗と共に背中に滲んで、私の歩みを幾度無く無意味に押し早める。
 本当は、今ここに立っていることすらも悪いことであると思えて仕方なかった。

「早く、何かをしなければいけないのに」

 呟いた言葉さえも、不思議と他の誰かにそう言われているかのように感じられた。
 


―――――



「おお来た来た、いただきやすっ!」

 目の前に例の要塞パンケーキを置いた途端、悠希の瞳がキラキラと宝石のように輝きだした。

「子供みたいなはしゃぎぶりですね、お嬢様」
「スイーツでテンション上がらないとかあり得ねぇだろっ!」

 言うや否や、悠希はハーピー用の特殊仕様のナイフとフォークを翼に取りつけ、早速パンケーキの解体に取り掛かる。そして切り分けた中の一つにイチゴをチョンと乗せると、上から豪快にフォークを突き刺す。

「やっぱ世の中、糖分が全てだぜ。ちゃんと摂らなきゃぶっ倒れるってもんだ」

 自分で自分の発言に納得しながら、悠希は一人ウンウンと頷いている。
 一体何がやっぱりなのか、私にはその真意がさっぱり理解できない。
 生クリームの食べ過ぎで頭の中まで砂糖まみれなのかしら?
 しかし悠希はこちらの意見なんてどうだっていいらしい。
 ものすごい勢いで糖分の塊を食べ始め、その顔面が白く染まっていく。
 決して卑猥な喩えではなく、本当にクリームで真っ白なのがまた嘲笑を誘う。
 相変わらずのいい加減な食べっぷりを尻目に、私は注文伝票をテーブルの脇に置く。
 
「慣れ始めた私も、相当なのでしょうね……」
「あん? なんだって?」 
「いえ。よく飽きないで食べ続けられますねと言ったんです」
「アタシもここまでとは思っていなかったがな。旨いもんは何度食っても旨いもんだ」
「だからって普通、一週間も食べ続けますかね?」
「ああ余裕だね。胃袋には自信があるんだ」

 無意味に踏ん反り返るも、彼女の薄い胸では言うほど自己主張が激しくない。
 ハーピー族である以上、あまり脂肪が多いと飛行が困難なのもあるでしょうし、どちらかというと悠希はパンケーキのサイズの方が気になるタイプの娘だ。
 喋りながらも次々とパンケーキがその腹の中へと消えていくのを見てそう思う。
 この会話だって、口いっぱいに頬張っているせいで半分も喋れていない。
 けれど、それも何度も聞いているせいで、何を喋ったのかを大体補完できる技術が身に付いてしまった。  

(まるでリス。いや、そんな可愛い絵面じゃないわね)
 
 袖の部分がボロボロなジャケットと、爪で切り裂いたような跡のついたダメージジーンズ、いつもどうやってセットしているのか分からない尖ったハリネズミヘアー。
 そんないかにもヤンキーな格好の娘が、窒息しそうなくらいに顔面を生クリームだらけにしているのだ。その風貌はどこかのお笑い番組のパイ投げ的なものを彷彿とさせる。

「もう少し、ゆっくり食べられてはいかがですか?」
「こういうのはな。勢いが大事なんだよ」
「言っている意味が分かりませんが……」

 だけどこちらの言葉に耳を貸す様子もなく、さらに追い打ちで生クリームを口にグイグイと押し込んでいる。
 到底マネできない行為を前に、思わず眉をクシャリとつぶす。
 いくら並外れた胃袋を持っているといっても、この甘味要塞は一度食べるだけでかなり辛いはず。
 それを彼女は、一週間、毎日のように食している。
 流石に心配になってくるというか、見ているこっちの胃袋と舌が馬鹿になりそうなくらいだった。逆にむしろ味覚がすでに手遅れだからできる芸当なのかもしれない。
 そもそもこの甘味要塞は一応スイーツであって、食事じゃないですし。
 色々と言いたいことを脳内で処理していると、ふいに悠希の食べ進むフォークの動きが止まる。
 そして、何かを訝しむように私の方を窺ってくる。

「何か?」
「あー……その、頭痛はさ、平気なのかよ?」

 こちらには視線を向けず、極力食べる素振りを崩さないままでそう聞いてきた。
 さっきまでのふざけた道化の声ではなく、平坦で小さく気遣うような印象だった。

「少し、顔を歪ませてただろ。ここ最近頭痛の話を聞いてなかったから、気になってな」

 一人で勝手に喋っているかのように見えたけど、案外そうでもなかったらしい。
 
「あなたパンケーキだけでなくて、人の顔もちゃんと見ているのね」
「喧嘩売ってんのかコラ」

 がらにもなく人を心配するのが気恥ずかしいのか。悠希は誤魔化すように語気を荒げる。悠希の視線は依然パンケーキに向けられているものの、時々私の顔色を窺うように、分かりやすく瞳がこちらへと動く時もあった。

「別に、さっきのは頭痛とは関係ありません。最近は痛みもありませんし、だから、大丈夫です」

 もうしばらく悠希の様子をみていようかと思ったけど、仕事もあるので早めに答える。

 不思議なことに、ここ数日はあの頭痛が全く起きていない。
 考えすぎによるストレスか、ただの体調不良だったのか。
 もちろんまだ油断はできないけれども、とりあえずは平気だった。
 私の声を聞いて安心したのか。悠希は妙にニカリとした笑顔をこぼす。

「そうか、大丈夫か。無理をして体調崩したら困るからな」
「別に困るようなことはないでしょう?」
「いいや、困るね。葵に会えなくなるだろ」
「馬鹿なんですか?」
「おっおっ? 何、照れてんの? お?」
「うるさいですよお嬢様」

 上半身を左右に揺らしながら何故か得意げな表情をする悠希に、顔を逸らしながらそう返す。
 断じて照れているわけじゃない。
 口説き文句にしては安直だし、そもそも魔物同士だし。
 実際に言われてみると分かったけど、うっとおしいことこの上ない。

 (一つだけいい点を上げてみれば、その勢いかしらね……?)

 ほんの少し、ちらりとだけ悠希の方を見る。
 当の悠希はいつの間にか、パンケーキ要塞の攻略を再開している。
 折角の口説き文句も、間抜けに膨らむ頬のせいで台無しだ。
 自分の口からため息が、盛大に漏れ出すのが聞こえた。 

「なんだか、肩の力が抜けてきました……」
「お疲れかい? 葵もコレ喰った方がいいんじゃね? 砂糖こそパワーだ」

 そう言って突き出してきたフォークには、ピンポン玉くらいの大きさのパンケーキが刺さっている。

「砂糖ジャンキーも大概にして欲しいですねぇ」
「えー、無理」
「……」

 思わず閉口してしまう。
 本当に、魔物娘らしくない娘ね。
 店の男性客を執拗に狙ったり、色に染まった会話が全然無いのはまだいいけれど。
 ただ食ベ物、こと糖分に関してには異様なこだわりを見せるうえ、それをダシに男ではなく魔物娘の私に向かってグイグイ来るのは少し勘弁して欲しい気はする。
 しかもそれが彼女の素というわけではない。時折、猛禽類のように何人も許さない、鋭くて暗いオーラだって見せるのだ。ただの脳みそスイーツな女子なら、私だって警戒はしない。
 だけども、こうやって一週間も観察していると、嫌でも分かってきたことがあった。
 その"魔物らしくない"という特徴も、おかしな食へのこだわりも。
 それが全て、悠希が悠希である所以なのだということに。
 必ずしも魔物娘の型に嵌まらない、ただ感じたままにものを食べて、ただ感じたままに喋り倒し、全身でふざけるように生きるそのスタイル。
 
 それが榎本悠希という魔物娘なのでしょう。
 まぁそれを俗に言うと、『珍獣』という呼び方になるのだけれども。

「しかしよぉ。一週間ぶりに、休日に来たがよ」

 すでに三分の一近くの要塞を侵略し終えた悠希が、休憩代わりに口を開く。
 
「やけに人が少ないな。客もいつもと変わらねぇし。メイド喫茶ってこんなもんなのか? もっと人の出入りが激しいもんだと思っていたぞ」

 予想外の発言に、息が詰まりかけた。
 やはり彼女の道化は演技だということを改めて理解する。
 おどけていても気付くことにはちゃんと気づく目が、彼女にはあるらしい。
  
「確かに、最近は特に休日の方がテーブルの空きが目立つようになった気がします」
「普通は平日よりも休日の昼間の方が賑やかだよなんぐ。それが平日とほぼ大差がないんあぐ。メンツの固定化あむっ。ようは新規客がいないんだな」
「食べるか喋るかどっちかにしてくださいよ……」
「おうっ!」

 悠希はそう言ってハモッと大きなパンケーキを口に押し込むと、それから黙々と食べ始めた。十秒ほど待ってみても発言はなく、どうやら会話の方を切ったことにようやく気付いた。

 私は一人、彼女の指摘を反芻するように店内を見渡す。
 確かに悠希の言う通りだ。
 こうしてみると普段と様子が何も変わらないように見えるけど、それはちゃんと見ていないだけ。お客様の顔ぶれすら、全く変わっていないことは問題なのだ。
 おそらく水面下で、店の状況は悪化している。 
 私も言われるまで気づかなかったわけじゃない。
 ただ"気づいたところで魔物の私にはどうしようもない"と言う話だ。

「あーあ。あの子、辞めちゃうってよ。ショックでけぇ」

 ふいに後方から、不満げな低い男の声が聞こえてくる。
 振り向くと数m離れた位置にある木目の四角いテーブルがあり、そこで眼鏡をかけたチェック柄の二人組の男が話しているのが見えた。

「随分でけぇ声で喋るなアイツら……」

 食べることに集中していたはずの悠希がそう呟く。

「あなたと同じで、つい最近来たばかりの二人組です。私もあまりよくは知りませんけど」
 
 訝しむ悠希に努めて柔らかい言葉を返す。
 私も含めてだけど、基本的に魔物娘はコレと決めたご主人様の相手をしていることが多く、新規の人とは言葉を交わすことが少ないのだ。

「魔物娘って可愛いんだけどなぁ。一旦男と付き合ったら、もう手の出しようがねぇってのがな」
「フラれブサメン乙」
「ほっとけ。仕方ねぇよ、元からあの子とは脈なしってのは分かっていたし。早い物勝ちっつーのがな、世の流れっていうか」
「それを言ったらここにいる大体の魔物娘がそうだろ。メイドも客も、お互いお気に入りを作ってやがる。俺ら新参者には厳しすぎるぜ、ここは」
「魔物娘にだって選ぶ権利あるもんな。俺らじゃあダメだわ」
「うっせぇ。つうか男がもういるのに働いている魔物娘とか意味が分からんわ」
「それな。俺も魔物娘に興味あって来たけど、これじゃあ普通のメイドカフェと変わらんな」

 二人の男は悪びれる様子も無く、実に不穏な会話を繰り出していた。 
 周りにいるメイド達も、流石に唇や眉を苦々しく歪めている。
 しかも妙なことに、誰も二人を咎めようと近づく者が一向に現れない。 

「ああいうの、大口に出して言うかね?」
「……そういう男の人も、世の中にはいますから」
 
 悠希の刺々しい発言を諫めるように言葉を返すも、私の内心は揺らいでいた。
 メイド達の考えていること、仕事仲間として十二分に分かる。

 『魔物娘にだって選ぶ権利がある』

 いつしかシュロさんも似たようなことを言っていた気がする。
 乱暴な言い方とはいえ、あの男二人組の言い分はおおむね正しかった。

 【ブルーバード】は普通のメイド喫茶と比べて、決定的に違うところがある。 
 私たち魔物娘はコスプレなんかではなく、"本物の人外であること"だ。
 魔物娘喫茶という店で売りにしている以上、言うまでもなくそのサービス内容は魔物娘という存在そのもの。
 だからここに来る人間にとって、魔物娘は魔物娘であること自体がサービスである。
 一見、良い関係性のように見えるかもしれない。
 でもそれは錯覚だった。
 こと、この店においては。 
 
 確かに元々魔物娘はつがいの男の都合に合わせて生きる存在。
 だけどそれゆえに、時にはその都合というものに縛られることもある。
 メイド喫茶店である以上、ここには不特定多数の男性がやって来る。
 当然のこと、男性に奉仕することは魔物の生きがいだもの。
 
 でもそれは本来、不特定多数の相手をすることではなく、一対一の関係であることが"魔物娘の設定"として正しい。
 夫でもない、ましてやよく知りもしない相手に、魔物娘の設定や理想を、都合を求められたところで、魔物娘にとっては非常に酷なことだ。ともすればそれは、私達が私達自身の存在意義を偽っていることに他ならないのだから。
 もちろんサービス業の得意な魔物もいるにはいる。
 多様な魔物達の中には、仕事は仕事として割り切れるコミュニケーション能力の高い者もいる。だけどそういうタイプの魔物でも、求められているのは結局は同じだ。 
 
 この店はメイド喫茶。幻想と理想と嘘を売り物にするお店。

 あくまで与えるものは自分ではなくサービス、相手は夫ではなくお客様。
 そこにあるのは現実ではなく、幻想。
 "夫との真実の愛"などあってはならないし、魔物娘という存在は、男性のご都合のままで提供しなければならない。
 そうなれば結局、ここでは私たちの存在は"サービスでしかなくなる"のだ。

 その男性の理想を拒否するか。その理想を嘘で取り繕うか。
 この店に勤めるということはそのどちらか、片一方だけ。
 そしてそのどちらを選んでも、現状は変わらない。
 
 故にこのブルーバードで働くのなら、自分の与えるものが紛い物だと、理想とは程遠いものだと認めることになる。
 それでもなお、求められた鋳型に己を上手く身じろぎさせて埋め込んで、出来る範囲で応えようとしている。
 まるで人間のようにあがくその醜い姿は、第三者から見ればきっと滑稽にしか見えないでしょうね。
 でもね、理想を叶えられない魔物娘など、何の価値もないのよ。
 
 私は祈るようにして、静かに押し黙る。
 二人組の男が自身の暴言に気づいて、自主的に止めてくれることを信じていた。
 だけどその願いは届くことはなく。
 彼らは一向に、毒を吐く口をつぐむ気配を示さない。

「さてと。推しももう辞めるしなぁ、これからどうするかなぁ?」
「そうだな。どっか別の所のメイド喫茶でも探すか」
「おい、クソ童貞共」
「「「えっ?」」」

 三人分の声が重なって聞こえる。
 二人組の男が多少オーバーなリアクションで驚く。
 だけど私の反応もそれに負けないくらいに、予想外に大きく出てしまった。
 それもそのはずだった。
 男達の目の前にはいつの間にか、さっきまでパンケーキを食べていたはずの悠希が立っていたのだから。

「な……何? お姉さん。誰?」
「メイドが何も言わないからってよぉ、言いたい放題言ってくれんじゃねぇか」
「なんだよコイツ……?」」
「DQNかよ。やべぇって」
「魔物娘にだって選ぶ権利がある? 何当たり前のことをほざいてんだ。お前らみてぇなのを誰が選ぶってんだコラ」

 その視線は二人の男を射殺すかのごとく、鋭利に放たれる。
 憤怒や憎悪とは違う。違うけれども、恐ろしい何かであることは分かった。
 悠希の中からあふれ出る絶対的なまでのその感情は、一切の言葉も赦免も受け付けない。
 
「お、おい。どうする?」
「なんだコイツ。頭おかしいって……」
「わかんねぇかね。理想と都合ってのはな。全くの別物なんだぜ?」

 悠希は男達の言葉もまるで聞かずに遮り、容赦ない言葉を浴びせる。

(本当に思いつきだけで生きているのかしらっ! あの娘は!)

 後ろ姿しか見えないけど、すぐに分かった。
 あの周囲が暗くなったかのような居心地の悪い雰囲気。
 さっきと打って変わって冗談一つ言いそうにないほどに、暗くて低い口調。
 
 間違いない。今の悠希は"夜の悠希”だ。

 今の状況、まるでサラリーマンをカツ上げするヤンキーだ。
 ネズミを追い詰める猛禽類のようにも見えるかしらね。
 いえ、そんな悠長なこと考えてる場合じゃない。
 
 緊張し固まった足を精一杯の力をいれて、私は踏み出す。
  
 早く、動かなきゃ。
 しかし一歩は踏み出たものの、二歩目が動かない。
 あの状態の悠希は、私的にも苦手だからなのかもしれない。
 鳥脚全体が地面に引っ付き、前進を阻害する。

 まずい。
 このままじゃ彼女は、間違いなく二人に手を上げる。
 魔物娘として、最も醜い行為をしてしまう。
 私と初めて会った日の夜のように。
 今、同じことを悠希がやろうとしている――― 

「さっきから何なんだよ。お姉さんに関係な」
「関係アリアリだね。ここは"アタシのお気に入り"なんだ」
「おき? はぁ? 何言って……」
「パンケーキがな。不味くなるんだよ」
 
 そう言うと、悠希は右翼をやおら持ち上げる。
 そのまま翼を男のシャツの襟に差し込むと、万力のごとく捻り上げようとする。
 
 背中に悪寒が走った。
 
 ―――いけない、いくら何でもそれだけは。 
 それだけはやってはいけない。

 鈍く床に張り付いた足が、一気に剥がれる。

「お、お嬢様っ!」
 
 何とか喉を振るわせながら必死に駆け寄ると、悠希が目を見開きながらこちらを振り向く。

「……」
「……あの」
 
 お互い、次の言葉が続かない。
 普段のおどけた悠希の姿は見る影も無く。
 ただ満月のように丸く開かれた悠希の瞳が、引き気味な私の姿を延々と映し続ける。
 下手なことを言えば、何をされるか分かったものじゃない。
 でも言葉を選んでいる場合でもない。
 私は大きく息を吸い込むと、意を決して告げる。

「その、パンケーキが、冷めて、しまいますよ……」

 古いラジオみたいにブツブツと途切れた口調でそう答える。
 これしか悠希の気を引くものが思いつかない自分が情けなかった。
 視線がどこかに逸れてしまないよう、ぐっと目元に力を入れる。
 悠希は相変わらず黙ったまま、ピクリとも動かずに私を見つめ返す。

(お願い。どうか冷静に……)

 数秒間後、彼女が左右に首をゆっくりと振る。
 自分の状況を確認しているのかもしれない。
 悠希は椅子に座ったまま、壁に背中を押しつけられて怯えている男を見る。
 今度はそれを目の前に、今にも殴りかかりそうなくらいに発憤した自身の右翼を見下ろす。

 端から見てそれがどんな状況であるか―――落ち着いて見れば分かるはず。
 
 そこはボーダーラインだ。
 どんなに魔物娘であろうと、たとえ人間であろうと、絶対に認めてはいけない、越えてはいけない境界線。
 それに気づいてほしい。

 今、何秒経ったかしら?
 一秒一秒が、息が吸えなくなりそうなほどに緊迫した重みを含んでいた。
 そして、やがて悠希はふぅと一息吐くと、捻り上げかけたその翼をそっと下ろす。
 男から数歩後ろに離れると、くるりと私の方に向き直る。

「すまなかった。ついカッとなっちまった」

 加害者の定番の台詞と共に腰を九十度曲げ、頭を私の腰辺りまで深々と下げてくる。そしてその場でくるりと回ると、今度は男の方へと向き直る。

「アンタも悪かった。アタシが口出すようなことじゃなかったな」
「……あ、いや」
「詫びにしては安いけど、会計は持たせてくれな」

 男の方にも同じように謝罪をすると、二人組のテーブルから強引にレシートをもぎ取り、静かに元のカウンター席に戻っていく。

「な、んだったんだ? あの魔物」
「殺されるかと思ったぞ……」

 ポカンとしたまま、ずるりと二人の男がその場に座りこむ。
 どうやら怪我はしていないようだった。
 私はほっと胸をなで下ろす。
 本当に危ないところだった。
 止めなければきっと、行くところまで行ってしまうところだったかもしれない。

 私は二人の男に悠希と同じくらいに深く頭を下げると、カウンター席へと向かう。 
 先に戻っていた悠希は、手元にある水を翼で掬うように持ち、一気に飲み下していた。
 
「―――スイーツとインスト音楽だけで、この世界が出来ていればよかったと、思うことがあるんだ」

 プラ製のコップをカウンターに置きながら悠希がそう呟く。 
 その翼は拳を握りしめたかのようにブルブルと震えている。
 彼女にとっては、あれでもよく耐えた方なのかもしれない。

「この世には余計なモンがその辺にいくらでも転がってる。魔物娘がそんなんにいちいち関わっちゃいけない。アタシら魔物娘は、快楽の権化だ。それ以外は必要ねぇ。分かっているんだが、なかなか直らなくてな。悪かったよ」

 二人の男の方を見やると、近くにいた別のメイドがフォローのために声をかけている。
 どうやらその子が彼のいう"お気に入り"の魔物娘らしい。
 彼の顔には安堵感と共に、別の心が鼻の下に浮かんでいる。
 
「貴方が私にこだわる理由、なんとなく分かった気がします」
「ほう? そこまで聡い奴だったのか。流石だな」

 多少の皮肉も、ただの虚勢にしか聞こえない。

「捻じ曲がっているんでしょうね。"見なくていいもの"を見てしまっている」
「そいつは困ったな。そりゃあ生きるのも大変だろ?」
「……貴方のことをいっているんでしょうに」
「は。葵に気を回されるほど切羽詰まってなんかいねぇよ」

 ふいに悠希はおどけて、さも気楽そうに答える。
 あの現場を見てさえいなければ今も無理をしているように見えなかったかもしれない。
 それほどに悠希のポーカーフェイスは完璧だった。
 悠希は確かに魔物娘らしくない。一定の在り方に縛られない。
 だけどそれ故に、らしくない故に、彼女は"魔物娘として持たなくていい要素"をも持ってしまっている。

 それは"悪意"を認識することだ。
 自分の都合や感情だけで物事を考え、理不尽を振るう―――。
 魔物とか人間の都合云々ではなく、知性を持って生きる者としての最低限のそんなマナーさえも、時としてないがしろにされることがある。
 それはこの世界という籠の隙間から、どこからともなく染み出すように湧いてくるものであって。認識してしまえば最後、籠の中を埋め尽くし、逃げることも出来ず、まともな呼吸さえもままならなくなる。

「男の股間だって右や左に曲がってんだ。一度ねじ曲がったモンを無理に戻そうとしたって、到底無駄なことだぜ」

 そう言って悠希は乾いた嗤い声を上げる。
 もう何度も見た顔のはずなのに、その冷めた笑顔だけは初めて見るような気がした。

「今日はもう帰るぜ。騒いだ本人がいちゃ店に迷惑だろ」

 軽い調子の声と共に悠希が立ち上がる。
 ジャケットのポケットから取り出した小銭をテーブルの上に乱雑に乗せると、代金分を器用に寄り分けていく。

「……」
「……」 
 
 一分にも満たない僅かな時間なのに、どうしてか妙に長く感じる。
 やがて精算を終わらせた悠希がゆったりと鈍い動きで店の出入り口に向かう。

 何といえばいいのか。何かを言った方がいいのか。
 悶々と気を巡らせたところで、何も答えが出ない。
 そもそもあの二人を前に黙するばかりで、現実をちゃんと見ようとしなかった私が悠希に何を言える?

 賛同も、同情も、非難も、謝罪も。
 きっとこの口から出たら取り繕うばかりのでまかせになるに違いない。 
 そんなものは悠希は必要としていない。

「じゃあな」

 結局私には一瞥もくれないまま、悠希はいつものフラフラした足取りで自動ドアから出て行った。 

 彼女が去って数秒後。
 店内がメイド喫茶にあるまじき静観さだったことに気づかされる。

 やがて誰かが、飲んでいた息をぶはぁっと吐き出す。
 誰かが、なんだあのイカれた魔物娘は? と呟く。
 誰かが、お騒がせして申し訳ありませんと謝罪する。
 そうやって店内にいる一人一人が緊張感を吐き出して、少しずつ店の正常へと戻っていく。
 そうしているうちに、ブルーバードは元通りのメイド喫茶としての顔を見せ始めた。
 いつものメンツ。いつものメイド。いつもの日常。
 まるで悠希なんて魔物、ここには初めからいなかったかのように、誰もが"普段の自分"を取り繕う。
 分かっている。そう、誰もが店のためにやっているということに。 
 
 だけど、皆が安心を手に入れている中で、私だけが腑に落ちていない。
 悠希一人だけが悪を背負ったまま、あっさりと去っていった―――必要とされていないその事実を、悠希のいう『余計なモン』として処理することが、どうしてもできなかった。

 本当にこれでよかったの?
 なぜ皆、そうして笑っていられるの?

 ルールに従えない者や逸脱した者は孤立する、彼女もそれを自覚していた。
 それでも、あの二人の言葉が許せなかったのでしょう。
 いくら店を気に入っていても、いくら人間でも、それをスルーしてはいけないと、悠希自身のルールがそれを認めなかった。
 あのままでは、悠希は悠希でいられなかったのでしょう。
 自分を保つために、そのために悠希はこの店を出て行った。

 右手で悠希の残した代金を掴んでエプロンのポケットに入れ、左手で悠希が食べ残したパンケーキを手元に引き寄せる。
 皿にはまだ三分の一くらいは残っていた。
 持ち上げると、むせ返りそうな生クリームの甘い匂いが立ちこめてきて、思わず鼻をつまみたくなる。

『理想と都合ってのはな。全くの別物なんだぜ?』

 悠希はあの二人にそう言ってのけた。
 あれはきっと言うまでも無く彼女自身への発言だ。
 自分が正しくないことを、真っ当でないことを分かっている。
 悠希はきっと男に興味がないのではない。
 魔物娘として不適格だと分かっているからだ。
 それでも納得できないことがあって、だからこそ、真正面からぶつかっていった。
 あの場で立ち上がったのは悠希であり、拳を振りかざそうとしたのも悠希だ。
 あれは確かに咎められるべき行為だった。確かに悪意だった。
 それでも彼女は分かっていて、それを選んだのだ。
 
 悠希の去り際のあの寂しげな姿が、存外に小さな背中が、私の心にいつまでも、引っかかりを残していた。

17/09/23 18:08更新 / とげまる
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■作者メッセージ
遅くなって大変申し訳ありません。6話でした。
魔物の労働については賛否両論あると思いますが、あくまでこの喫茶店だけでの話なのでご容赦を。

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