連載小説
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第7話
 休憩室のテーブルにつき、突っ伏して額を当てていると、冷たく硬い感触がやんわりと伝わってくる。
 今日は考えることが多いせいかしら。
 茹ったお湯みたいに、ぼんやりとして落ち着かない頭には丁度良かった。 

 二時間ほど経過したでしょうか。
 悠希が店を去った後、気付けばいつの間にか、私はあい変わらず仕事に従事していた。
 というのもあれから、店内はほどなくしてあの糖分だらけな雰囲気を取り戻していたからだった。
 悠希が騒いだ後だというのに、ほんの十分程度経過しただけで、メイドもご主人様達もこぞって雑談に興じ、あははという笑い声を引っ切りなしに上げている。
 
 しかし、皆、表向きはそう見えるようにしているだけだと分かっていた。

『あの子が辞めたのか』『◯◯とあのお客が付き合ったんだってさ』
『あのサンダーバード、出禁なのでは?』『この店にそういう制度あったっけ?』
『フラれた、辛い……』『でも、あの啖呵はちょっとスカッとしたかも』『あの子、もうヤったんだろうなぁ』『あのキキーモラ、愛想悪くない? あの娘と一緒にいたから?』『つうかあのサンダーバード、結構可愛くなかった?』『暴言も一回だけなら出禁にはならないはず』『前はあんなじゃなかったのに……』『もう店を辞めたい。貴方と一緒になりたい』『いっそ風俗にすればいいのにね。この店』『あの人は今日も来ていないの?』
『早く帰ってシたいわ』『私、もう決めたの』『ここじゃ無理だよ』

 私の狼耳に飛び込んでくる、小さくも膨大な雑音の数々。
 取るに足らない雑談だらけの喧噪の中に、ポツリポツリと混じっていた。
 どれもこれも関わるのも面倒な内容ばかり。誰が何を喋っているかまでは分からない。
 けど、確かに聞こえてくる。
 不思議なことに、そんな雑多な状況であるのに、誰もが決してお互いの言葉には関与せず、また大っぴらに話すこともなかった。
 おそらくは言及した途端、同じになるからでしょうかね。
 先ほど悠希に問い詰められた、あの二人組の男と。

 皆、あんな風に自分の中身がバレないように聞こえないように、必死に悟られないように晒されないように、本当の声を潜めている。
 もしバレてしまえば、また"彼女"が戻ってきてしまう―――
 店全体からは、不思議とそう団結した意志すらも感じ取れた。

(悪魔の訪れか何かと思っているのでしょうか? 決してそんなことはありえないはずなのに)

 だけどそれも仕方がないでしょう。悠希の一番近くにいた私自身でさえも、時間が経つうちに段々とそう思えてきてしまうのだから。
 彼女の行為はそれだけ深く、この店の何かに亀裂を走らせたのだ。グレーゾーンに無理矢理に境界線を作ってしまった。それを正しいと言うには、あまりにも愚直すぎた。
 頭を抱え、二の腕で視界を塞ぎ、両腕で顔を覆う。
 そうすると気休めだがほんの少しばかり安心できた。
 すると私の左側から、テーブルをコツコツと叩く音が響く。

「ナベちゃん、今、話をしても大丈夫?」

 正直顔を上げたくなかった。
 けれど、呼ばれている以上は無視はできない。
 しぶしぶやおら顔を上げると、椅子に座る私のすぐ左隣に見慣れたメイドが立っていた。

「シュロさん……」
「いつになくひどい顔色ね。ここのところずっと調子悪そうだったけど、今日は特にね。さっきの一件、まだ後を引いているの?」
「ええ。まぁ」

 立ち尽くしたまま指摘するシュロさんに返す声が私にはなく、力なくぐっと顎を引くだけだった。
 
「今さっき聞いた話なんだけどね」

 向かいの椅子を引いて、シュロさんはそこに腰掛ける。
 触手をいくつも持つショゴスであるシュロさんでは、座るというより、のしかかるや覆い被さるに近かった。
 そして腕を胸の前で組ませて、私と同じようにテーブルに両肘をつく。

「コボルト姉妹に店を辞めたいと言われたわ。これで今月は四人目ね」
「えっ……」

 私は思わず目を見開く。
 既にそれだけの人数の魔物娘が辞めることも驚きだったけど、それ以上にショックなのはその姉妹のことだった。
 コボルト姉妹とは、シュロさんの創作ダンスのサイドで踊っている双子の魔物で、私と同期のアルバイトだった。
 この店ではダンスのシフトを組む時はいつも三人セットで回している。その中で一番シュロさんと組むことが多いのが、その姉妹だった。
 二人とも彼女ほどではないといえ、それでもダンスの技術は店の中ではかなり高い。
 異常な完成度ゆえに組むのを避けられがちなシュロさんのサイドを率先して参加するあたり、そこには誇りのようなものも感じていた。
 だからまさか、その姉妹がいなくなるなんて考えてもみなかったのだ。
 
「その、理由、聞いてもいいですか?」
「もう、"店のため"には踊れないって言っていたわ。だいぶ前から知り合った男と付き合っていたらしくてね。今まで辞めるタイミングをずっと考えていたらしいんだけど。あの子の言葉を聞いてから、吹っ切れたんだって」
「あの子って……」
「わかっているでしょう? あのサンダーバードの影響よ。他の二人も同じことを言っていたもの」

 サンダーバード―――その単語を聞くだけで、背筋に緊張が奔る。

『理想と都合ってのはな。全くの別物なんだぜ?』

 悠希が放った言葉がフラッシュバックする。
 あれを聞いていたのは私だけではない。分かっていたけど、こんなに早くその影響がくるなんて。

「いくら何でも、そんな急に浸透するものとは……」
「それだけここも限界だったのよ。表面に出ていなかっただけでね。だからあの子の発言がこんなにも響いている。流石に私の予想以上よ。悪化の進行が早いわ」

 シュロさんは大げさに伸びをした後、扉の脇にもたれ掛かると、黒と黄色の瞳をななめ下に向ける。

「でもね。なんとなくこうなる気もしてたの」

 まるで、あらかじめ予習でもしていた口ぶりだった。
 努めて冷たい諦念の元、そう告げられるのを呆然と聞き入るしかなかった。
 テーブルの向かい側には滑車付きの姿見の鏡が置いてある。ここ最近は動かしていないのか、鏡の隅には埃がたまっていた。

 ダンスというものは一朝一夕で出来るものではない。
 課題曲を何十と何百と聞き込み、音のタイミングを頭に叩き込み、足先や指先の角度まで神経を尖らせ、魅せるための練習を何度も積み重ねる。
 それは強制しても意味はなく、そしてうちはそこまでダンスに時間が割いてあげられるほど余裕のある店ではなかった。
 それでも各々が持つ普段の仕事をこなしつつ、合間をぬっては練習するコボルト姉妹のような魔物娘は本当に貴重な人材だった。
 
「あの姉妹、いつも二人セットでしたよね」
「そうね」
「交代で仕事を抜けて、こっそりダンスの練習をしていて、店長とシュロさんで怒ったこともありましたよね」
「懐かしいわね」
「いつもお店のために頑張っていました、よね?」
「……」
 
 イベントのたびにシュロさんの技術力に圧倒されて、陰で悔し涙を流していたことも。
 そのことをシュロさん自身も、気に病んでいたことも。
 私は知っている。シュロさんも知っている。
 だから、何も言えない。

(気づけばお客様もメイドも、皆このブルーバードからいなくなっていく―――)

 一緒になりたいから、少しでも長くいたいから、店を辞める。
 この場所よりも大切な人が出来たのだから、魔物娘にとっては喜ばしいことだ。
 なのに、どうしても胸がざわついて仕方なかった。

「引き留めるのは……無理ですよね」
「好きな男と魔物娘を引きはがすようなことして、状況が良くなるわけないでしょ?」
「下手をすれば、店全体の士気に関わりますね」
「それだけならまだいい方ね」

 シュロさんは額に手の平を当てる。
 そのまま何も告げはしないけど、シュロさんが何を危惧しているかは明白だった。 
 以前不可抗力にも聞いてしまった、今後の店の存続の話を思い出す。
 確かにこのままだといつか本当にこの店はいつか消えるでしょう。経験を積んだメイドであるコボルト姉妹を含めた四名のアルバイトの突然の辞職。
 それをきっかけに、店の衰退が始まるのは目に見えていた。 
 
「すみません、私のせいで」

 深々と頭を下げる。
 結果的にとはいえ、悠希をここに呼ぶきっかけは私だ。
 シュロさんの再三の注意にも関わらず、彼女を出禁にせずに店に置いたままにしたのも私の落ち度だ。
 悠希ははじめから不可解な態度だった訳だし、せめてもっと目をかけておくべきだったと言われれば否定できない。
 シュロさんは何も返さず、じっと壁にもたれたままだった。沼の底のような光のない瞳がこちらを見据えてくるだけだった。
 いっそのこと、分かりやすく怒気や苛立ちをぶつけてくれれば、捌け口にしてくれればマシだったかもしれない。

「ねぇ、ナベちゃん」
「……はい」
「本当はもう、誰も必要とされていないんじゃない? こんな店」
「そんな、ことは……!」
 
 それ以上の言葉が出てこなかった。喉がガチガチに詰まって単語一つ出てこない。
 身体がずぶ濡れになったみたいに震えてくる。
 できることなら反論したかった。
 諦めるにはまだ早い。
 今からでも何か手を探してみるべきじゃないか。 

 ―――そんな都合がいいばかりの、月並みのくだらない妄言が浮かぶ自分が嫌だった。
 
 なんて浅ましい。
 そんなことを考えながら、本当は頭の隅のどこかでこの状況を受け入れている私がいるくせに。

「シュロさんは、それでいいんですか?」
「仕方ないじゃない。確かに分かるものね。どうだっていいじゃない? "恋人以外の他人"なんて」
 
 失望に染まった視線が脇にある窓に向けられる。
 もうすぐ、日が沈みきる頃だ。今日は新月だから帰り道は相当に暗いはず。

 反対する気力なんて、とっくに消え失せていた。
 そう、今さら足掻きようのない話だったのよ。
 シュロさんだってもうきっと納得している。
 本当は他の魔物娘達も、この店で働くことが好きではないのかもしれない。
 要は好きな男性と一対一で居られれば満足なだけで、ただ都合のいい相手と出会うための足がかりに過ぎないのかもしれない。
 でも本来ならそれが魔物娘の正しい生き方だということも分かっていた。 
 魔物娘は男と愛し合い、快楽を貪るために生きる存在。
 私たちが肯定されているのはそれのみ。わざわざこんな面倒なしがらみの中で、汗水垂らして働く必要なんて私たちにはない。 

 ここは青い鳥の幸福の花園。
 愛する男と結ばれれば、それで幸せなんでしょう。 
 だって世の中は、それだけなんですからね。
 


 ―――それで済ませられたら、この話はここで終わっていたかもしれない。
 でも残念ながらそれだけでは私の、私自身の疑問は消えない。
 
 シュロさんも、他の魔物娘も、ご主人様達も、他の人ならば納得しているのでしょう。

 でも、じゃあ私は?
 私は何のためにブルーバードにいるのか。
 店が気に入っているから? メイドでいられるから? 安心できるから?
 ……俊介ご主人様がいるから?
 
 きっとどれも違う。
 私は"余計なものを知ってしまった"魔物だ。
 人には、世界には、受け止めるには重すぎるものがあることを知ってしまった。
 知ることで見えてしまう不幸を知ってしまった。
 そのどれもが魔物娘には不要だというのに。

 私は心の中でふてくされて、引きこもっていただけだ。
 "何も知らない幸せ"と、"何も分からない幸せ"に甘んじていたかっただけ。
 もしもこのまま店がなくなってしまったら、私の心身は裸のまま、きっとどこへも行けなくなる。

『本当はあの店自体がグレーゾーンだけどな』 

 悠希に初めて会った夜、突きつけられた現実。
 考えないようにしてきたツケがここにきて、回ってきてしまった。 
 もしこの状況に何か発言していいのだとしたら、それはきっと悠希だけだ。
 それはきっと、ちゃんと声を上げられた者だけが持てる権利だから。
 
「正直あのサンダーバードを店に入れたくなかったのはね。なんとなく、こうなると思ったからよ」

 シュロさんは吐き捨てるように、そう告げる。

「じゃあ、何で分かってて、見逃したんですか? 初めからそうでしたよね? 私なんかの言葉なんて無視して出禁にすればよかったじゃないですか?」

 彼女の言葉に対して、食ってかかるような物言いになってしまう。
 これじゃほとんど八つ当たりだ。責任転嫁も甚だしい。
 でも別に今更、シュロさんにどう思われようと関係ないとも思った。
 多分それくらい、自分の失態の重さに、弱さに耐えきれなかったのかもしれない。
 次に来るカウンターを覚悟しつつ、私はシュロさんからの言葉を待つ。

「……ナベちゃんに、話しかけたからよ」

 しかし返ってきた答えは、予想していた罵倒とはかけ離れていた。
 まるで別人のようにか細く曖昧なその物言いについキョトンとしてしまう。
 いつもの店のことを考えているはずの、ハキハキした印象のシュロさんらしくない歯切れの悪い態度も気になった。

「どういう意味です? 私に話しかけることが何か、いけないことなんですか? 私、何かまた失敗を……」 

 執拗に食いかかる度にシュロさんの眉間はみるみるうちにくしゃくしゃになっていく。
 明らかに口を滑らせた、といいだけな顔だった。
 しかしここで引けるわけもなく、問いただす姿勢を一切崩さずに、ここぞとばかりに視線を浴びせ返す。 

「何を知っているんですか? シュロさん」
「いえ、いえ大丈夫。貴方は何も悪くないから」
「分かりません。分かりませんよ。それじゃあ何も」
「あのサンダーバードには気をつけて。何をされても、もう近づいちゃダメ」
「……っ! シュロさん」
「いいからっ。ね?」

 相手の話など聞く様子もなく、お互いに一方通行な会話。
 シュロさんはそれを無理やりに遮ると、言葉の勢いのまま立ち上がり、隣の扉に手をかける。 
 だけど、そこまでいって、シュロさんはなぜか突然に立ち尽くしてしまう。
 ドアノブを握って中途半端に扉を開けたまま、押すことも引くこともせず、ただうつむき続けていた。

「ごめんね。休憩時間。もう、終わるから……」

 独り言のように投げられた、拒絶のような謝罪。
 もうこれ以上、彼女に何を聞いたとしても、きっとまともな答えは返ってこない。
 それでも私は一つ、確認したいことがあった。
 
「シュロさん……俊介ご主人様のことで、何か隠していますね?」

 それから先は続かなかった。
 本当は、あのモヤの写真のことについて聞きたかった。だけど寸前のところで妙に喉に引っかかってしまって、取り留めのない質問になってしまった。
 それでも、シュロさんには伝わったようだった。
 振り向いてきたその表情は、明らかに普段と様子が異なっていた。
 凜々しさ溢れる瞳には異様に力が込められて、黄色い瞳孔が揺れ動く。
 細く尖った顎は何かを食い破るかのように堅く食いしばられて、息一つ外に漏らせまいとしている。

「さぁ。何のことかさっぱり」

 けれど、あくまでもシュロさんは冷めた物腰でそう言うと、さっさと扉を開けて出て行ってしまう。扉の向こうからは、シュロさんの足音があの雑多な喧噪の中へと吸い込まれていくのが聞き取れた。
 
 彼女は答えなかった。
 だけどその態度がもはや明らかだった。
 シュロさんが俊介ご主人様の何かを知っていることを。
 それは同時に、他人には言えない類いの話であることも理解した。
 だけど、理解と納得は違う。
 言われなかったからそれでいいなんて、誰が受け入れるというのか。
 もしかしたら、本当にあのモヤに関係することではないのかもしれない。
 むしろ、浮気とかの色欲めいた話であったならば、逆に安心できるような気さえしてしまった。
 ドアの向こうは聞こえはしないものの、相変わらずメイドやご主人様達の放つ薄い膜のような笑い声が何重にも充満している。
 私も休憩時間が終われば、そこへ出向かなければならない。
 ご主人様達の都合のいい魔物娘らしくあろうと、魔物娘を屈託なく愛する男であろうと、誰もが取り繕って、演じているにすぎないその場所へ。
 
「何も言わない。言わない……言わない」

 呪文のように何度も反芻しては飲み込んだ。
 今の私に、もう何一つ言っていいことなどない。
 でももう、"何も知らないこと"に幸せなど見いだせそうになかった。

 俊介ご主人様がヲタクの仮面の下に何を隠しているのか。
 シュロさんが彼の何を知っているのか。
 
 ―――それらにケリをつけない限り、私は納得できない。
 納得して"人を愛する魔物娘"になんてなれないわ。 

『私は全ての魔物娘を愛していますからね』

 違う。そんなのは違う。
 いつか聞いた俊介ご主人様の言葉を、脳内の狼牙で思い切り噛みつぶす。
 何が全てよ。くだらない。
 貴方が魔物娘の何を知っているというのよ?
 愛とやらの何が分かるの?
 魔物娘になら何でも簡単に受け入れられるとでも思っているの?
 だから嫌いなのよ。
 そういう自分本位なところが気持ち悪いのよ。
 "私にさえ"好かれていないのに、"たった一人にさえ"愛されていないのに。"本当のこと"を言わないのに。

 外の社会で上手くいっていないから、慰めて欲しいの?
 うだつの上がらない人生を送っているから、優しくして欲しいの?

 そんなものは理想じゃない、ただの都合。そんな虫の良い話は現実じゃない。
 自分の欠点ばかり棚に上げて。自分の都合ばかり考えていて。自分が本当に言うべきことは隠していて。

 私の気持ちなんて、まるで蚊帳の外。
 このままだと俊介ご主人様だって、この店が無くなれば出て行くことになるのよ?
 ここには真実の愛なんてものはない。全部が演技だ。
 ここにいる限り、私とあなたは紛い物の主従関係でしかない。
 いつの日か、彼も私じゃない本当に気の合う魔物娘と出会って、仲良くなって、ここから消え去って―――

「うぇ……」

 想像するだけで吐き気がした。
 頭を振り回し、意図的に考えないようにしても、可能性を認識しただけで手遅れだった。
 私の目の前にあったはずのものが消える。
 あの汗まみれの汚いシャツを着て、どうでもいいアニメの話をする男がいなくなる。
 そんなことがどうしてこうも恐ろしくて悔しくて―――受け入れがたいのかしら。
 右手側にある窓からは橙色の細い光が、私の身体にズシリとのし掛かっている。
 
 そろそろ、私の休憩時間も終わる―――行かなくちゃ。



 ―――ドクン。
 
 突如、心臓が跳ねる。
 血の流れが一瞬止まった。
 全身から大量に冷や汗が吹き出す。
 俊介ご主人様のことを言えないくらいにひどく流れ出る。頭を鈍器で殴られたみたいに、目の端に輪形の白い光が幾重にも重なって見える。
 今までとは比べものにならないほどの強烈な頭痛が奔った。
 パニックになって思わず立ち上がるも、すぐに膝をついてしまう。
 身体のバランスがとれない。数秒ふらついた後そのまま一気に降下し、視界が急に暗くなる。地震かと思い、反射的にその場で頭を抱え、身を縮こませるけど、テーブルも椅子も揺れていない。
 そこでやっと揺れているのが床ではなく、自分の身体であることに気づいた。
 膝と肘の痙攣はさらにひどくなり、次第に四肢から身体の中心に向かって伸びていくようだ。 

(何? 何が起きているの?) 

 何一つ把握できないまま、症状は悪化していく。
 痺れが頭部にまで届くと五感さえも鈍っていき、天地がひっくり返ったみたいに全身が揺さぶられる。
 目の前が真っ白に染まり、どこを向いているのかも分からなくなる。
 あるはずの自分の両手の触覚を見失う。まるで地の底へと沈んでしまったようだ。
 尻尾に力が入らない。重力はこんなに抗えない重さだったかしら。
 両の鳥足がよれた紙みたいに頼りない。頑丈が取り柄だったはずなのに。
 耳鳴りがひどく、空調の音さえも聞きとれない。

 誰か。
 誰か、助けて。
 
 声を上げなきゃ。

 私の、私の声を、声。
 
 こ、え。

 こえ?

 声……って、どうやって出すん、だっけ?

 ああ、たしか―――こうだ。



『―――私は貴方の□□を□□ているのに』

 その次の日から数日間。
 私は、シフトに穴を空けることになった。 
17/10/08 08:03更新 / とげまる
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■作者メッセージ
7話でした。
やっと本題に入ったような気がします。
コボルト姉妹は一話で踊っている二人です。
 

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