第4話
「それは……」
店長の声が、ぐっと言い淀む。
だけどシュロさんの言葉にたじろいでしまっているのは、私も同じだった。
(今、店がつぶれるって……)
中途半端に片手を伸ばしかけたまま、石像のようにピクリとも動けなかった。
「……ごめんなさい、言い過ぎたわ」
「いや、大丈夫だ。いつかはそうなるかもしれないと、分かっていて始めたことだからな」
さっきの自分の発言を気にしてか、シュロさんの声色はひどく意気消沈している。
店長もそれを理解しているらしい。返されたその声に咎めるような印象は受けなかった。
「俺も考えてはいたんだ。このまま現状維持が無理なら、せめて彼女たちの望むことをしてあげた方が良いと思う」
「……貴方がそれを望むのなら」
付け加えるような彼女の口調からは、賛同の意が含まれていないことが分かる。
そして、それを機に扉の向こうからは声が聞こえなくなった。
しかし扉越しからでも、諦念のこもった空気がじんわりと冷たく伝わってくる。
沈黙が続いて、何十秒かが経過した。
さっきから自分の身体が固まったまま、退くことも進むこともできない。
足下で狼の尻尾が支えを求めて所在なげに揺れ動く。
店長とシュロさんが話すこと自体は珍しいことじゃない。
シュロさんはここのバイトリーダー的存在だ。
シフト調整や経費の計算、バイトの魔物娘たちの教育指導、導入するキャンペーンや新メニューの開発など、店長とは普段からかなり食い込んだ話をしているのは店の誰もが知っている。
シュロさんがここで別格とされているのは、そういった理由も含まれている。
そのシュロさんが、いつもなら堂々と構えているはずのシュロさんが。
誰に聞かれるかも分からない昼間の控え室で、誰かを不安にさせることを口走るなんて、『らしくない』ことだった。
(これ以上無いってくらいのタイミングね)
しかし自分の運のなさを恨んでいる場合じゃない。
たとえ不可抗力だとしても、一介のバイトがこれ以上の聞き耳を立てるわけにはいかない。
今はこの場を一刻も早く離れるべき。
そう思うと、次第にガチガチに固まっていた手足が再稼働を始める。
音を立てないように意識を巡らせ、右手と右足、左手と左足をセットにして、ゆっくりとドアの前から引きづり戻す。
―――しかし、それも少しばかり遅すぎた。
「それじゃあ、また後でね」
一際低いシュロさんの声とともに、控え室の扉が開かれた。
「あっ……」
「っ!」
突然、飛び出てきたシュロさんと見つめ合ってしまった。
急な邂逅に対応しきれず、私の全身の毛がビリリと垂直に立ち上がる。
両脇が締まり、肘がキュッと閉じ、尻尾がまっすぐに天を突く。
カマキリみたいな妙ちくりんの格好のまま、再び私の身体は固まってしまう。
「どうしたのナベちゃん、ホールは?」
シュロさんはそう言いつつ、後ろ手で静かにドアを閉める。
その声は妙に穏やかで。
それなのに、鋭く細められた瞳は私から片時も離れようとしない。
「あの、その、お手洗いで偶然通りかかって……」
まずい。
額にじわりと、小さな汗が浮かぶ。
互いに冷静でいられるわけもなかった。
どうしよう? いきなり見つかった、しかも最悪のシチュエーションで。
「聞こえていたの?」
シュロさんが質問を重ねる。
その声色にはさきほどよりも、警戒心が多めに含まれている。
「あの、本当に偶然でその……」
「私と店長の話、聞いていたんでしょ?」
「う……」
ぴしゃりと告げるその一声で、喉が詰まったみたいに声が出なくなってしまう。
シュロさんの視線は俄然鋭く、何人も何事も寄せつけない静かな敵意が放たれている。
その重圧に耐えられるわけもなく、ましてや誤魔化すことなどできるはずもなかった。
「……すみません、でした。聞くつもりはなかったんです」
深く、床に頭をぶつけるくらいに深く頭を下げる。
それしかなった。ああ、今日は本当についていないわ。
「……いえ、人目につくところで話していた私も悪いわ」
だけども、床を見つめながら罪状を待つ私に下りてきたのは、存外に穏やかな内容だった。
「大丈夫なんですか?」
「いずれ皆が知ることだし、それにここでナベちゃんを咎めたところで、何かが変わるわけじゃないもの」
シュロさんは片手で髪を梳くと、「あっ」と短く声を上げる。
「でもまだ決まったわけでもないから。他の子には言わないでね?」
シュロさんの手が私の頬に添えられる。
そのまま、私の下がっていた顔をぐっと持ち上げる。
「えっ?」
気がつくと目の前には、丸みを帯びた朗らかな目つきの、シュロさんの顔があった。
彼女との距離は、拳一つ分位しか空いていない。
「約束、できる?」
「あ……は、はい」
―――ドキン。
胸の奥がきゅんと音を立てる。
動揺が微塵も隠れない。心臓の急速なペースアップについていけない。
緊張で四肢が痺れるように震えてしまう。
(何これ恥ずかしいっ)
少女漫画のヒロインかと思えるくらいに、顔全体に血の巡りを感じる。
今の状態―――世間で言う"顎クイ"という名前の決め技だった。
そう、普通は男性が女性にするものだ。
それを魔物娘同士でやるなんて。
みるみるうちに恥ずかしさが全身に行き渡る。
シュロさんの吐息が、唇を掠めるたびに心臓が異様なまでに暴れまわる。
彼女の柔らかく冷たい手が、か細い親指が、フニフニと優しく頬を撫でてくる。
「ふふふ」
「あ、あぁ……」
いや、ダメ。
待って。
無理。落ち着いて。
息が荒れる。
心臓にクールダウンの指示を出すも、全く受けつけてくれない。
目の前の控え室には店長もいる。
彼がほんの少しでもそのドアを開けるだけで、問題の現場だ。
もしこんな場面を見られたら、何を邪推されるだろうか?
(―――ダメでしょう、色々とっ!)
とにかく一旦離れないと。
しかし後ろに下がろうにも、通路が細いせいで逃げ場がない。
そもそも彼女の瞳に狙いを定められると、それだけで身動きが取れない。
(ど、どうしよう……)
予想外の事態に視界がチカチカと白く光る。
こうしているうちに、通りがかった誰かに見つかるかもしれないのに。
何より店長が、ああでも、あの店長なら魔物同士でも別に気にしないかもしれない。
いえそういう問題ではなく、逃げ道を。
あ、シュロさんすごくまつげ長いのね。それに何故かしら、不思議と甘い匂いがする。
いえ、そうじゃなくて―――ああ。
乱雑に思考が巡り巡って、訳が分からなくなる。
五感が整理できず、視覚と嗅覚と触覚の情報が渋滞を起こす。
「ええと、えと……」
慌てふためく私の挙動を見つめながら、シュロさんは満足げに笑う。
やがて満喫したとばかりにささっと手を引き戻し、私から距離をとる。
「冗談よ。可愛いんだからもう。悪戯しがいがあるわね」
「悪戯……」
彼女に触れられていた頬に、今度は私自身で触れる。
「不可抗力とは言え、一応盗み聞きしたお仕置き。約束破ったら、もっとひどいことしちゃうわよ?」
シュロさんはぺろりと舌を出して答える。
悪戯にしてはあまりに艶めかしすぎるし、その言い方では逆にやれというようなフリに聞こえなくもない。
無論言うわけがないし、それを指摘をしたら今すぐにでも何かされそうだった。
狼毛の混じった右手に火照った頬の赤さを感じる。
緊張で掻いた手汗が、熱暴走を起こした頭を冷やすには丁度良かった。
「ところで」
お戯れは終わりとばかりに、シュロさんはいつもの凜とした仕事顔に戻る。
「昨日言っていた変なサンダーバード。今日も来ているじゃない」
シュロさんの心配そうな顔に、思わず声が詰まる。
そうだった。シュロさんには悠希のことを話していたのだった。
「え、ええ。ここが気に入ったみたいで」
そう言いつつ奥歯をぐっと噛みしめる。
余計な発言には気を付けないと、どこで疑いの目を向けられるか分からない。
だがシュロさんは私を一瞥し、細い眉を針のように鋭く歪ませる。
「ごめんね。言いづらかったわよね? 待ってて、店長を呼ぶわ」
「えっ?」
思わず、かん高い声のリアクションが出てしまう。
こんな予想外の早さで、あっさりとジョーカーを提案されるとは思わなかった。
「いえいえっ! 何もそこまで大ごとにしなくても」
「今さら遠慮する仲じゃないでしょ。性懲りも無く来ている方が悪いのよ」
「いや、別に彼女は悪い魔物じゃないですし、今だってほら、普通に注文もしてますし」
手元のオーダー表をひらつかせて、そこで自分の悪手に気づく。
こんなに取り乱しては余計に何かあったと疑われてしまう。
かといって、下手にシュロさんに悠希がここに来ている理由を言うと、"昨日の夜のトラブル"も話さなくてはいけなくなってしまう。
それは避けたかった。
何かそれらしい理由、理由をでっちあげないと―――
「実は彼女、俊介ご主人様と仲が良いらしくて。お客様同士の交流もサービスの内ですし、今は楽しんでいるようなので邪魔をしてはいけないと思いまして……」
空気を食むように口を大げさに動かし、とっさに言い訳を繰り出す。
シュロさんはこちらを見つめて予想通りに訝しんでくる。
グネグネとシュロさんの足下の触手が何度も何度も、絡んでは解けてを繰り返す。
「まぁ、そういうことなら、無理強いはしないけども」
「あ、ありがとうございます」
ほっと胸をなで下ろす。
あながち全くの嘘ではないし、とっさの言い訳にしてはよかったのかもしれない。
「あぁでも、今の様子だけでも見ておきたいわ。どこにいるの?」
当然断るわけにもいかず、私は彼女の問い合わせに了解する。
同時に、もうしばらくは休めそうにないことに落胆しそうだった。
そして頭痛と共に、今度はシュロさんも連れて、必死に辿ったはずの廊下を後戻りすることになった。
―――――
すぐ側にあるキッチンから、アラクネの怪訝そうな視線が飛んでくる。だけどこんな状態ではそれも仕方がなかった。
クリーム色の壁に左肩を寄せて、悠希のいるカウンター席の方をのぞき込む。
壁の角をガッチリ掴んで腰を屈めていると、まるで腰痛に悩む老婆になったみたいだった。
その老婆の私の上から覆い被さる形で、シュロさんが同じように顔を出している。
刑事ドラマや漫画の追跡シーンの現場のような状態。
ヒラヒラなメイド服の二人組がそんなことをしていたら、探偵ごっこか何かに興じていると勘違いされるかもしれない。
キッチンは、カウンター席の後方に伸びる階段状の通路の最上部にある。
私の使う音響室に並ぶ形で配置されていて、調理をしながら店内を一望できるようになっているのだ。
俊介ご主人様曰く、「学校の視聴覚室みたい」らしい。
視線の先では、悠希が先ほどと変わらずに俊介ご主人様とのお喋りに勤しんでいた。
時々、あの快活な笑い声が聞こえてくる。
「たしかに、今は普通のお客みたいね……」
「でしょう?」
シュロさんの言葉に便乗する。
"今は"という言い回しが気になったけど、またさっきみたいな事態になったら嫌なのでスルーする。
あとはこのまま、シュロさんが見張り飽きるまで耐えるだけだ。
「……っつ」
ほんの少し安心したせいか、再び頭に掘削されるような痛みが走る。
先ほどの切羽詰まった状態で忘れかけていたけど、また蘇ってきたみたいだ。
「ナベちゃん大丈夫? 体勢辛い?」
頭の上からシュロさんが壁にもたれながら、私の顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫です。むしろ頭を低くしていた方が楽です」
頭上から降り注ぐ視線を遮るように、左手でこめかみを押さえる。
別に体調不良は隠す必要ないのだけれど、シュロさんにバレるのは何故だか抵抗があった。
シュロさんは「そう」と小さく答えて、また悠希の方へと向き直る。
「彼女、今日は随分と豪快ね。まるで人が変わったみたい」
「そうですね。昨日はもっと、静かだった気がします」
「無頼というか、なんというのかしらね? ああいうの」
シュロさんの言葉の通りだと思った。
今の悠希は、無頼という単語がよく似合う。
言葉遣いは基本的に粗野で乱暴。加えて鮮やかなナイルグリーンの翼のせいで、その場に立つだけで否応にも目立つ。
その強烈な見た目からでは、とてもオタクっぽい俊介ご主人様と馬が合いそうな雰囲気は感じない。
コミュニケーションの取り方も大ざっぱで、馴れ馴れしいとすら言える。
そして今の彼女からは想像もできない、昨夜の猛禽類のような暗くて鋭いあの目つき。
どこか卑屈ともとれる、暗闇を連想させる不穏な発言。
どれをとっても無頼、その一言に尽きた。
「注文は何をとったの?」
「パンケーキです」
「……ヤンキーみたいな格好をして、アレを食べるの?」
「ええ、言いたいことは分かりますよ」
お互いに怪訝そうに眉を歪めるも、個人の食の好みにまで小言を垂れる権利はないと思って、口をつぐむ。
しかし、なんというか。アレね。
私なんかに興味を持ったり、似合わないパンケーキを食べようとしたり。
悠希は本当におかしな魔物娘だ。
物陰でPCとAV機器をいじるだけの地味メイドの私に、何の魅力を感じたのか。
何でここまでして、私とコミュニケーションをとろうとするのか。
まるで理解が及ばない。
大体にして、昨夜の一件だってそうだ。
人には第一印象というものがあり、それが強ければ強いほど相手の記憶に強く刻まれるものだ。
それは興味のある相手に顔を覚えてもらうにはなおさらで、だからそういった意味では、昨夜の暴言も悠希が自分をより強く印象付けるためとも考えられる。
でもあの悠希が実際そこまで考えているかは正直不明だし、あそこまでインパクト重視な出会いにする必要があったのかも疑問だった。
悠希自身、私を怒らせたせいで怪我を負いそうになったのだ。それ以外にも失敗すればリスクだって伴うはず。
仕事のバンドメンバーを集めていると言っていたけど、本当にそんな理由でここまでのことをするかしら?
(断じて、NOね。)
おそらく悠希には何か別の目的があるのだろう。
殴られかけた相手の元に翌日に会いに行くなんて、普通なら気まずくて取らない選択も『私の記憶が新しいうちに、その目的を達成するため』という理由なら説明できる。
しかしそれだと、今度はあんな風に俊介ご主人様と駄弁っている理由が分からない。
二人は今日出会ったばかりで、お互いに何かを企んでいる素振りは感じ取れない。
(はぁ、まずいわ。結局分からないことが多すぎるのよ)
私はシュロさんの頭を見上げる。
このまま悠希をブルーバードから追い出すだけなら簡単だ。
シュロさんにただ一言、「出禁にして下さい」といえばいい。
だけどそれではきっと根本的な解決にならない。
きっと昨日のように、どこか別の場所で待ち伏せされることになるだろうし、そうなれば当然、私はこれから毎日どこかに潜んだストーカーに怯える生活になる。
そんな状態になれば、いよいよシュロさんも黙っていてはくれない。
店長や警察、他の魔物娘メイドたちも巻き込むことになる。私の愚行だって、日の目を浴びることになるかもしれない。
当然、日陰者の私が、そんな状況に耐えられるわけがない。
それだけは断言できるわ。
だったら悠希の居場所や行動を少しでも特定出来るよう、この店に留まらせた方が多少はマシだと思った。とにかく今は、悠希の本当の目的が分かるまではそうするべきだ。
皮肉な話ね。
さっきまであんなに嫌っていたのに、今は悠希のフォローをしないといけないなんて。
「彼女、榎本悠希っていう名前らしいです。隣町のバーで働いているそうですけど……」
「ふうん……」
予想に反してシュロさんは興味がなさそうに答える。
首をもたげて彼女の方を見るも、シュロさんは何か? とばかりに首を傾げる。
実際、悠希が働いているというのも怪しい話だとは思う。
バーの仕事とは言っていたが、だったら平日の昼間は寝ているものではないの?
「とにかく分かったわ。昨日までとは事情が違うみたいね」
これ以上、悠希を見ていても対した意味は無いと判断したみたいだった。
私も何とかこの場を乗り切れたことに安堵する。
「にしても本当に、不思議な魔物ねぇ」
「演技しているんですよ。どうせ」
何気なく言った一言。
だけど、シュロさんはぐるりと振り向き、私の顔を凝視してくる。
私は思わず目を見開いてしまう。
目の前に映るのはシュロさんの、いつもと同じ凜とした表情。
そう。そのはずなのに、なぜか今にも泣きだしてしまいそうなほどにその目には水気を帯びていた。
そして、その原因が私の言葉に反応したからなのだと気がつき、つい目をそらしてしまう。それは決して、私が本当は悠希を快く思っていないという、内容に食いついた訳じゃないということも分かっていた。
シュロさんはほぼ毎日、この店のステージで、ダンスや歌のパフォーマンスを繰り返してきた。
いつでもどんな時も、ご主人様達に笑顔を魅せて続けてきた。
この店はシュロさんの笑顔で成り立っていると言ってもいい。
でもきっと、それは彼女のそういう演技だ。
彼女も本当は別の誰かだけの都合のいい存在でありたいのに、お店のためにああやって振る舞っている。
こうして私の前でも、例外なくそうしている。
『……貴方がそれを望むのなら』
先ほど控え室の前で、自分が聞いたばかりの会話を思い出す。
演じることが、シュロさんにとっての奉仕だ。
それが誰の為の奉仕かなんて、言うまでもなかった。
『本来、献身ってのは自身の利益を顧みずにするもんだ』
昨晩、悠希に言われた言葉を思い出す。
そして、今しがた自分が口走った言葉を思い出す―――
プツリと。
胸の中に、針で穴を空けてしまった気分だ。
余計なことを言ってしまったことに後悔するも、一度言った言葉は取り消せない。
「あの―――」
「演技っていうのはね」
私の言葉を打ち消すようにシュロさんがそう呟く。
「演技っていうのはね。誰かが望んだことが形になったものなのよ。簡単にできることじゃないし、裏切っていいものでもないわ」
それがどういう意味か。この時の私には理解が及ばなかった。
そして、私がそれについて質問する時間も考える時間も、与えられることはなかった。
「さて! 探偵ごっこは終わり! 仕事をしましょう。ホールもキッチンも人数が足りてないわ」
「は、はい!」
パシッと手を叩く音に、ほとんど条件反射で返事をしてしまう。
さっきまでの空気をブツ切りにするようなシュロさんの切り替えの早さに、すっかり圧倒されてしまう。
そんな私には構いもせずに、シュロさんの粘液状の下半身が素早く波を打つ。
エスカレーターにのっているかのように、彼女の身体が滑らかにスライドする。
その勢いのまま、彼女はすぐ傍のキッチンへと突入していった。
私は壁に触れる左手を握り、膝に強めに力を入れる。
「くっ」
立ち上がった途端にまた頭痛が走る。
さっきまで治まっていたからピークは過ぎたと思ったけど、誤魔化していただけだったみたいだ。
―――私は貴方の□□□□□□□るのに。
まただ。
あの妙なノイズが聞こえてくる。
この声は何?
誰が、誰に言っているの?
分からない。何も分からない。
思い出そうにも、その記憶の糸口すら掴めない。
私は何を忘れているのかしら?
「パンケーキ、そろそろ出来るわよー」
アラクネの呼び声がキッチンの銀色の壁に反射してこちらへと聞こえてくる。
いつの間にか、シュロさんがアラクネと肩を並べて作業をしていた。
「結局、休めなかったわね……」
頭痛のことを言い出せなかったこと。
悠希がここに来る目的が分からないこと。
どうあがいても思い出せない誰かの言葉とノイズ。
気が滅入りながらも、二秒後には振り切って、何とか踏ん張って残りの身体を持ち上げきる。
精一杯の力で、とりあえずの右足の一歩を踏み出す。
さらに左足の二歩目。
身体の動きが鈍い。
三歩目を続ける。
飲み込めない不信感は全身を錆び付かせ、足取りを阻害する。
四歩目、五歩目。
次第にギシギシと軋む身体に慣れ初める。
その勢いに任せて、私はのろのろと亀みたいに歩き出した。
店長の声が、ぐっと言い淀む。
だけどシュロさんの言葉にたじろいでしまっているのは、私も同じだった。
(今、店がつぶれるって……)
中途半端に片手を伸ばしかけたまま、石像のようにピクリとも動けなかった。
「……ごめんなさい、言い過ぎたわ」
「いや、大丈夫だ。いつかはそうなるかもしれないと、分かっていて始めたことだからな」
さっきの自分の発言を気にしてか、シュロさんの声色はひどく意気消沈している。
店長もそれを理解しているらしい。返されたその声に咎めるような印象は受けなかった。
「俺も考えてはいたんだ。このまま現状維持が無理なら、せめて彼女たちの望むことをしてあげた方が良いと思う」
「……貴方がそれを望むのなら」
付け加えるような彼女の口調からは、賛同の意が含まれていないことが分かる。
そして、それを機に扉の向こうからは声が聞こえなくなった。
しかし扉越しからでも、諦念のこもった空気がじんわりと冷たく伝わってくる。
沈黙が続いて、何十秒かが経過した。
さっきから自分の身体が固まったまま、退くことも進むこともできない。
足下で狼の尻尾が支えを求めて所在なげに揺れ動く。
店長とシュロさんが話すこと自体は珍しいことじゃない。
シュロさんはここのバイトリーダー的存在だ。
シフト調整や経費の計算、バイトの魔物娘たちの教育指導、導入するキャンペーンや新メニューの開発など、店長とは普段からかなり食い込んだ話をしているのは店の誰もが知っている。
シュロさんがここで別格とされているのは、そういった理由も含まれている。
そのシュロさんが、いつもなら堂々と構えているはずのシュロさんが。
誰に聞かれるかも分からない昼間の控え室で、誰かを不安にさせることを口走るなんて、『らしくない』ことだった。
(これ以上無いってくらいのタイミングね)
しかし自分の運のなさを恨んでいる場合じゃない。
たとえ不可抗力だとしても、一介のバイトがこれ以上の聞き耳を立てるわけにはいかない。
今はこの場を一刻も早く離れるべき。
そう思うと、次第にガチガチに固まっていた手足が再稼働を始める。
音を立てないように意識を巡らせ、右手と右足、左手と左足をセットにして、ゆっくりとドアの前から引きづり戻す。
―――しかし、それも少しばかり遅すぎた。
「それじゃあ、また後でね」
一際低いシュロさんの声とともに、控え室の扉が開かれた。
「あっ……」
「っ!」
突然、飛び出てきたシュロさんと見つめ合ってしまった。
急な邂逅に対応しきれず、私の全身の毛がビリリと垂直に立ち上がる。
両脇が締まり、肘がキュッと閉じ、尻尾がまっすぐに天を突く。
カマキリみたいな妙ちくりんの格好のまま、再び私の身体は固まってしまう。
「どうしたのナベちゃん、ホールは?」
シュロさんはそう言いつつ、後ろ手で静かにドアを閉める。
その声は妙に穏やかで。
それなのに、鋭く細められた瞳は私から片時も離れようとしない。
「あの、その、お手洗いで偶然通りかかって……」
まずい。
額にじわりと、小さな汗が浮かぶ。
互いに冷静でいられるわけもなかった。
どうしよう? いきなり見つかった、しかも最悪のシチュエーションで。
「聞こえていたの?」
シュロさんが質問を重ねる。
その声色にはさきほどよりも、警戒心が多めに含まれている。
「あの、本当に偶然でその……」
「私と店長の話、聞いていたんでしょ?」
「う……」
ぴしゃりと告げるその一声で、喉が詰まったみたいに声が出なくなってしまう。
シュロさんの視線は俄然鋭く、何人も何事も寄せつけない静かな敵意が放たれている。
その重圧に耐えられるわけもなく、ましてや誤魔化すことなどできるはずもなかった。
「……すみません、でした。聞くつもりはなかったんです」
深く、床に頭をぶつけるくらいに深く頭を下げる。
それしかなった。ああ、今日は本当についていないわ。
「……いえ、人目につくところで話していた私も悪いわ」
だけども、床を見つめながら罪状を待つ私に下りてきたのは、存外に穏やかな内容だった。
「大丈夫なんですか?」
「いずれ皆が知ることだし、それにここでナベちゃんを咎めたところで、何かが変わるわけじゃないもの」
シュロさんは片手で髪を梳くと、「あっ」と短く声を上げる。
「でもまだ決まったわけでもないから。他の子には言わないでね?」
シュロさんの手が私の頬に添えられる。
そのまま、私の下がっていた顔をぐっと持ち上げる。
「えっ?」
気がつくと目の前には、丸みを帯びた朗らかな目つきの、シュロさんの顔があった。
彼女との距離は、拳一つ分位しか空いていない。
「約束、できる?」
「あ……は、はい」
―――ドキン。
胸の奥がきゅんと音を立てる。
動揺が微塵も隠れない。心臓の急速なペースアップについていけない。
緊張で四肢が痺れるように震えてしまう。
(何これ恥ずかしいっ)
少女漫画のヒロインかと思えるくらいに、顔全体に血の巡りを感じる。
今の状態―――世間で言う"顎クイ"という名前の決め技だった。
そう、普通は男性が女性にするものだ。
それを魔物娘同士でやるなんて。
みるみるうちに恥ずかしさが全身に行き渡る。
シュロさんの吐息が、唇を掠めるたびに心臓が異様なまでに暴れまわる。
彼女の柔らかく冷たい手が、か細い親指が、フニフニと優しく頬を撫でてくる。
「ふふふ」
「あ、あぁ……」
いや、ダメ。
待って。
無理。落ち着いて。
息が荒れる。
心臓にクールダウンの指示を出すも、全く受けつけてくれない。
目の前の控え室には店長もいる。
彼がほんの少しでもそのドアを開けるだけで、問題の現場だ。
もしこんな場面を見られたら、何を邪推されるだろうか?
(―――ダメでしょう、色々とっ!)
とにかく一旦離れないと。
しかし後ろに下がろうにも、通路が細いせいで逃げ場がない。
そもそも彼女の瞳に狙いを定められると、それだけで身動きが取れない。
(ど、どうしよう……)
予想外の事態に視界がチカチカと白く光る。
こうしているうちに、通りがかった誰かに見つかるかもしれないのに。
何より店長が、ああでも、あの店長なら魔物同士でも別に気にしないかもしれない。
いえそういう問題ではなく、逃げ道を。
あ、シュロさんすごくまつげ長いのね。それに何故かしら、不思議と甘い匂いがする。
いえ、そうじゃなくて―――ああ。
乱雑に思考が巡り巡って、訳が分からなくなる。
五感が整理できず、視覚と嗅覚と触覚の情報が渋滞を起こす。
「ええと、えと……」
慌てふためく私の挙動を見つめながら、シュロさんは満足げに笑う。
やがて満喫したとばかりにささっと手を引き戻し、私から距離をとる。
「冗談よ。可愛いんだからもう。悪戯しがいがあるわね」
「悪戯……」
彼女に触れられていた頬に、今度は私自身で触れる。
「不可抗力とは言え、一応盗み聞きしたお仕置き。約束破ったら、もっとひどいことしちゃうわよ?」
シュロさんはぺろりと舌を出して答える。
悪戯にしてはあまりに艶めかしすぎるし、その言い方では逆にやれというようなフリに聞こえなくもない。
無論言うわけがないし、それを指摘をしたら今すぐにでも何かされそうだった。
狼毛の混じった右手に火照った頬の赤さを感じる。
緊張で掻いた手汗が、熱暴走を起こした頭を冷やすには丁度良かった。
「ところで」
お戯れは終わりとばかりに、シュロさんはいつもの凜とした仕事顔に戻る。
「昨日言っていた変なサンダーバード。今日も来ているじゃない」
シュロさんの心配そうな顔に、思わず声が詰まる。
そうだった。シュロさんには悠希のことを話していたのだった。
「え、ええ。ここが気に入ったみたいで」
そう言いつつ奥歯をぐっと噛みしめる。
余計な発言には気を付けないと、どこで疑いの目を向けられるか分からない。
だがシュロさんは私を一瞥し、細い眉を針のように鋭く歪ませる。
「ごめんね。言いづらかったわよね? 待ってて、店長を呼ぶわ」
「えっ?」
思わず、かん高い声のリアクションが出てしまう。
こんな予想外の早さで、あっさりとジョーカーを提案されるとは思わなかった。
「いえいえっ! 何もそこまで大ごとにしなくても」
「今さら遠慮する仲じゃないでしょ。性懲りも無く来ている方が悪いのよ」
「いや、別に彼女は悪い魔物じゃないですし、今だってほら、普通に注文もしてますし」
手元のオーダー表をひらつかせて、そこで自分の悪手に気づく。
こんなに取り乱しては余計に何かあったと疑われてしまう。
かといって、下手にシュロさんに悠希がここに来ている理由を言うと、"昨日の夜のトラブル"も話さなくてはいけなくなってしまう。
それは避けたかった。
何かそれらしい理由、理由をでっちあげないと―――
「実は彼女、俊介ご主人様と仲が良いらしくて。お客様同士の交流もサービスの内ですし、今は楽しんでいるようなので邪魔をしてはいけないと思いまして……」
空気を食むように口を大げさに動かし、とっさに言い訳を繰り出す。
シュロさんはこちらを見つめて予想通りに訝しんでくる。
グネグネとシュロさんの足下の触手が何度も何度も、絡んでは解けてを繰り返す。
「まぁ、そういうことなら、無理強いはしないけども」
「あ、ありがとうございます」
ほっと胸をなで下ろす。
あながち全くの嘘ではないし、とっさの言い訳にしてはよかったのかもしれない。
「あぁでも、今の様子だけでも見ておきたいわ。どこにいるの?」
当然断るわけにもいかず、私は彼女の問い合わせに了解する。
同時に、もうしばらくは休めそうにないことに落胆しそうだった。
そして頭痛と共に、今度はシュロさんも連れて、必死に辿ったはずの廊下を後戻りすることになった。
―――――
すぐ側にあるキッチンから、アラクネの怪訝そうな視線が飛んでくる。だけどこんな状態ではそれも仕方がなかった。
クリーム色の壁に左肩を寄せて、悠希のいるカウンター席の方をのぞき込む。
壁の角をガッチリ掴んで腰を屈めていると、まるで腰痛に悩む老婆になったみたいだった。
その老婆の私の上から覆い被さる形で、シュロさんが同じように顔を出している。
刑事ドラマや漫画の追跡シーンの現場のような状態。
ヒラヒラなメイド服の二人組がそんなことをしていたら、探偵ごっこか何かに興じていると勘違いされるかもしれない。
キッチンは、カウンター席の後方に伸びる階段状の通路の最上部にある。
私の使う音響室に並ぶ形で配置されていて、調理をしながら店内を一望できるようになっているのだ。
俊介ご主人様曰く、「学校の視聴覚室みたい」らしい。
視線の先では、悠希が先ほどと変わらずに俊介ご主人様とのお喋りに勤しんでいた。
時々、あの快活な笑い声が聞こえてくる。
「たしかに、今は普通のお客みたいね……」
「でしょう?」
シュロさんの言葉に便乗する。
"今は"という言い回しが気になったけど、またさっきみたいな事態になったら嫌なのでスルーする。
あとはこのまま、シュロさんが見張り飽きるまで耐えるだけだ。
「……っつ」
ほんの少し安心したせいか、再び頭に掘削されるような痛みが走る。
先ほどの切羽詰まった状態で忘れかけていたけど、また蘇ってきたみたいだ。
「ナベちゃん大丈夫? 体勢辛い?」
頭の上からシュロさんが壁にもたれながら、私の顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫です。むしろ頭を低くしていた方が楽です」
頭上から降り注ぐ視線を遮るように、左手でこめかみを押さえる。
別に体調不良は隠す必要ないのだけれど、シュロさんにバレるのは何故だか抵抗があった。
シュロさんは「そう」と小さく答えて、また悠希の方へと向き直る。
「彼女、今日は随分と豪快ね。まるで人が変わったみたい」
「そうですね。昨日はもっと、静かだった気がします」
「無頼というか、なんというのかしらね? ああいうの」
シュロさんの言葉の通りだと思った。
今の悠希は、無頼という単語がよく似合う。
言葉遣いは基本的に粗野で乱暴。加えて鮮やかなナイルグリーンの翼のせいで、その場に立つだけで否応にも目立つ。
その強烈な見た目からでは、とてもオタクっぽい俊介ご主人様と馬が合いそうな雰囲気は感じない。
コミュニケーションの取り方も大ざっぱで、馴れ馴れしいとすら言える。
そして今の彼女からは想像もできない、昨夜の猛禽類のような暗くて鋭いあの目つき。
どこか卑屈ともとれる、暗闇を連想させる不穏な発言。
どれをとっても無頼、その一言に尽きた。
「注文は何をとったの?」
「パンケーキです」
「……ヤンキーみたいな格好をして、アレを食べるの?」
「ええ、言いたいことは分かりますよ」
お互いに怪訝そうに眉を歪めるも、個人の食の好みにまで小言を垂れる権利はないと思って、口をつぐむ。
しかし、なんというか。アレね。
私なんかに興味を持ったり、似合わないパンケーキを食べようとしたり。
悠希は本当におかしな魔物娘だ。
物陰でPCとAV機器をいじるだけの地味メイドの私に、何の魅力を感じたのか。
何でここまでして、私とコミュニケーションをとろうとするのか。
まるで理解が及ばない。
大体にして、昨夜の一件だってそうだ。
人には第一印象というものがあり、それが強ければ強いほど相手の記憶に強く刻まれるものだ。
それは興味のある相手に顔を覚えてもらうにはなおさらで、だからそういった意味では、昨夜の暴言も悠希が自分をより強く印象付けるためとも考えられる。
でもあの悠希が実際そこまで考えているかは正直不明だし、あそこまでインパクト重視な出会いにする必要があったのかも疑問だった。
悠希自身、私を怒らせたせいで怪我を負いそうになったのだ。それ以外にも失敗すればリスクだって伴うはず。
仕事のバンドメンバーを集めていると言っていたけど、本当にそんな理由でここまでのことをするかしら?
(断じて、NOね。)
おそらく悠希には何か別の目的があるのだろう。
殴られかけた相手の元に翌日に会いに行くなんて、普通なら気まずくて取らない選択も『私の記憶が新しいうちに、その目的を達成するため』という理由なら説明できる。
しかしそれだと、今度はあんな風に俊介ご主人様と駄弁っている理由が分からない。
二人は今日出会ったばかりで、お互いに何かを企んでいる素振りは感じ取れない。
(はぁ、まずいわ。結局分からないことが多すぎるのよ)
私はシュロさんの頭を見上げる。
このまま悠希をブルーバードから追い出すだけなら簡単だ。
シュロさんにただ一言、「出禁にして下さい」といえばいい。
だけどそれではきっと根本的な解決にならない。
きっと昨日のように、どこか別の場所で待ち伏せされることになるだろうし、そうなれば当然、私はこれから毎日どこかに潜んだストーカーに怯える生活になる。
そんな状態になれば、いよいよシュロさんも黙っていてはくれない。
店長や警察、他の魔物娘メイドたちも巻き込むことになる。私の愚行だって、日の目を浴びることになるかもしれない。
当然、日陰者の私が、そんな状況に耐えられるわけがない。
それだけは断言できるわ。
だったら悠希の居場所や行動を少しでも特定出来るよう、この店に留まらせた方が多少はマシだと思った。とにかく今は、悠希の本当の目的が分かるまではそうするべきだ。
皮肉な話ね。
さっきまであんなに嫌っていたのに、今は悠希のフォローをしないといけないなんて。
「彼女、榎本悠希っていう名前らしいです。隣町のバーで働いているそうですけど……」
「ふうん……」
予想に反してシュロさんは興味がなさそうに答える。
首をもたげて彼女の方を見るも、シュロさんは何か? とばかりに首を傾げる。
実際、悠希が働いているというのも怪しい話だとは思う。
バーの仕事とは言っていたが、だったら平日の昼間は寝ているものではないの?
「とにかく分かったわ。昨日までとは事情が違うみたいね」
これ以上、悠希を見ていても対した意味は無いと判断したみたいだった。
私も何とかこの場を乗り切れたことに安堵する。
「にしても本当に、不思議な魔物ねぇ」
「演技しているんですよ。どうせ」
何気なく言った一言。
だけど、シュロさんはぐるりと振り向き、私の顔を凝視してくる。
私は思わず目を見開いてしまう。
目の前に映るのはシュロさんの、いつもと同じ凜とした表情。
そう。そのはずなのに、なぜか今にも泣きだしてしまいそうなほどにその目には水気を帯びていた。
そして、その原因が私の言葉に反応したからなのだと気がつき、つい目をそらしてしまう。それは決して、私が本当は悠希を快く思っていないという、内容に食いついた訳じゃないということも分かっていた。
シュロさんはほぼ毎日、この店のステージで、ダンスや歌のパフォーマンスを繰り返してきた。
いつでもどんな時も、ご主人様達に笑顔を魅せて続けてきた。
この店はシュロさんの笑顔で成り立っていると言ってもいい。
でもきっと、それは彼女のそういう演技だ。
彼女も本当は別の誰かだけの都合のいい存在でありたいのに、お店のためにああやって振る舞っている。
こうして私の前でも、例外なくそうしている。
『……貴方がそれを望むのなら』
先ほど控え室の前で、自分が聞いたばかりの会話を思い出す。
演じることが、シュロさんにとっての奉仕だ。
それが誰の為の奉仕かなんて、言うまでもなかった。
『本来、献身ってのは自身の利益を顧みずにするもんだ』
昨晩、悠希に言われた言葉を思い出す。
そして、今しがた自分が口走った言葉を思い出す―――
プツリと。
胸の中に、針で穴を空けてしまった気分だ。
余計なことを言ってしまったことに後悔するも、一度言った言葉は取り消せない。
「あの―――」
「演技っていうのはね」
私の言葉を打ち消すようにシュロさんがそう呟く。
「演技っていうのはね。誰かが望んだことが形になったものなのよ。簡単にできることじゃないし、裏切っていいものでもないわ」
それがどういう意味か。この時の私には理解が及ばなかった。
そして、私がそれについて質問する時間も考える時間も、与えられることはなかった。
「さて! 探偵ごっこは終わり! 仕事をしましょう。ホールもキッチンも人数が足りてないわ」
「は、はい!」
パシッと手を叩く音に、ほとんど条件反射で返事をしてしまう。
さっきまでの空気をブツ切りにするようなシュロさんの切り替えの早さに、すっかり圧倒されてしまう。
そんな私には構いもせずに、シュロさんの粘液状の下半身が素早く波を打つ。
エスカレーターにのっているかのように、彼女の身体が滑らかにスライドする。
その勢いのまま、彼女はすぐ傍のキッチンへと突入していった。
私は壁に触れる左手を握り、膝に強めに力を入れる。
「くっ」
立ち上がった途端にまた頭痛が走る。
さっきまで治まっていたからピークは過ぎたと思ったけど、誤魔化していただけだったみたいだ。
―――私は貴方の□□□□□□□るのに。
まただ。
あの妙なノイズが聞こえてくる。
この声は何?
誰が、誰に言っているの?
分からない。何も分からない。
思い出そうにも、その記憶の糸口すら掴めない。
私は何を忘れているのかしら?
「パンケーキ、そろそろ出来るわよー」
アラクネの呼び声がキッチンの銀色の壁に反射してこちらへと聞こえてくる。
いつの間にか、シュロさんがアラクネと肩を並べて作業をしていた。
「結局、休めなかったわね……」
頭痛のことを言い出せなかったこと。
悠希がここに来る目的が分からないこと。
どうあがいても思い出せない誰かの言葉とノイズ。
気が滅入りながらも、二秒後には振り切って、何とか踏ん張って残りの身体を持ち上げきる。
精一杯の力で、とりあえずの右足の一歩を踏み出す。
さらに左足の二歩目。
身体の動きが鈍い。
三歩目を続ける。
飲み込めない不信感は全身を錆び付かせ、足取りを阻害する。
四歩目、五歩目。
次第にギシギシと軋む身体に慣れ初める。
その勢いに任せて、私はのろのろと亀みたいに歩き出した。
17/07/10 01:01更新 / とげまる
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