連載小説
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第3話
 その顔を見た途端、自分でも分かるくらいに眉が皺だらけになる。
 今日ばかりは見ることはないと思っていたのに。

「よぉ、葵っ!」
「なっ……」

 舌打ちが漏れないように、必死になって奥歯を噛みしめる。



 昨夜の一件の後、私はまたいつも通りにブルーバードに出勤していた。
 初対面であれだけ気の滅入ることを言われたとはいえ、仕事は休めなかった。 
 いえ、本当は休めなかった訳じゃない。
 昨日だってシュロさんに無理をしないように言われていた。
 それでも、あの悠希のせいで仕事に穴を空けるというのが、どうしても癪で仕方がなかったのだ。

 なのに。
 弱った精神に鞭を打って出勤してきた私に、この仕打ちはなんなの?

 私の目の前にいる魔物娘は、先ほど突如として来店してきたばかりだ。
 彼女はその飄々とした態度でカウンター席に座り。
 メニュー表を開いて。
 わざとらしく感心するような態度をとり。
 そして、オーダーにわざわざ私を指名してきたのだ。

 自分の名前―――サンダーバードの榎本悠希だと言えば分かると宣って。
 
「……なんで来たんですか?」

 私は周りに聞こえないように小声で呟く。
 しかし悠希は、そんな遠慮など知らぬとばかりに天井に顎を突き上げ、声高に言葉を放つ。

「おいおい、お嬢様のお帰りだぜ? 例の挨拶はどうした、ほれほれ」
「……ぐ」

 なんて性格の悪いやつなのかしら。
 私は苦虫を噛み潰したみたいに口元を歪める。
 しかし、そう思ったのもつかの間、すぐさま取り繕う。

「お、おかえりなさいませ……お嬢様。メニューはお決まりでしょうかぁ?」
「おう、決まっているぜっ!」
 
 肩をプルプルと震わせながらも、何とかにこやかな笑顔を作り直してメイドを装う。
 屈託のない笑顔を返してくる悠希が実に腹立たしい。
 
 だけど、今は仕事中。
 さすがに抑えないとダメだ。
 私はぎこちなくも、手に持ったお冷やを掴む。
 そしてそのまま悠希に向かってぶちまけることなく差し出すことに成功する。
 誰か誉めて欲しいくらいだったけど、そんな母性的存在など居るわけもなく。
 目の前にいるのは、さっきの意地の悪いやり取りなどとっくに忘れて、メニュー表を楽しげに捲る悠希だけだった。

「えーと、この『しあわせのとりさんパンケーキ』ってやつな」
「……かしこまりましたぁ」

 私は極めて冷静にポケットから注文用紙を取り出すと、彼女のオーダーを指先で殴り書く。
 しかし脳内では、悠希に対するあらんかぎりの猜疑と罵倒が飛び回っていた。

 どうして? なんで来たの?
 昨日あんなひどいことを言ったはずでしょう?
 あと少しで怪我をする寸前だったでしょう?
 それなのに、なんでその"翌日"に会いに来るのよ。
 何考えているの? このハリネズミ頭は……。

「別に、アタシは昨日のことを聞きに来たわけじゃないぜ」
 
 メニューから一切目を離さずに、不意に悠希が告げる。
 その声のトーンはさっきのふざけた時よりも明らかに低い。
 しかしその言葉の意味をすぐに理解できず、私は黙ったまま顎を引く。

「あれだよ。うちのバーで働かないかって話さ」

 私の怪訝な様子を察知したのか。さらに悠希は言葉を継ぎ足してきた。
 ああ、そういえば隣町に勤めているって言っていたわね。
 一瞬納得した顔をしそうになるけど、すぐにムッと眉をひそめる。
 
「イエス、とでも言うと思っているんですか?」

 私も低く声を絞り、皮肉を込めて回答する。
 
「まぁそうだろうな。よく知りもせずにあんだけアンタを否定しちまったわけだし、第一印象は最低だろうな」

 実に平坦な声色で、悠希はそう言ってのけた。

「だから今日は、詫びにきたんだ。昨日は不躾なことを言って悪かった」

 そして悠希はこちらに向き直り、鳥脚を大きく股開き、深く頭を下げる。
 私は無言を貫く。
 無論、そんな形だけの行為なんて信用してないからだ。
 謝罪自体は最もだと思う。でも時として、理屈は感情に負ける。

「……でもな。あんなこと言った手前だが、アンタのことは嫌いじゃないんだ」

 しかし悠希はケロッと面を上げたかと思うと、そう切り出す。
 彼女の頭の中では、もう次の話題に移っているようだ。
 どうやら謝罪に時間をかける気はないらしい。
 確かに店で長々と謝られても困るし、そこは構わない。
 けど、それでイラッとしないかどうかは別だ。

「もう少し、誠意ってものを見せて欲しいんですけど」
「すまねぇな。興味がある奴には積極的にアタックするタイプでね。頭を下げてる暇があったら、葵と話したいんだ」
「何ですか、その言い訳……」

 悠希は実に楽しそうにニカリと笑っている。
 私はその浮ついた視線を避けるように、そっぽを向く。
 
(全く、鬱陶しいったらないわ。大体興味って、なんで私なんかに)

 私はその心の声を、モゴモゴと口の中で咀嚼する。

「それはな、アンタを見てるとお節介を焼き……ああ、それも言ったっけか」

 しかし押し殺した文句でさえも、悠希はいちいち拾って反応してくる。

「気になるんだ。"およそキキーモラらしからぬキキーモラ"がどんな風に生きて、考えて、働いているのか。ぜひ見てみたいと思った」
「いい迷惑です」

 その言い方に昨日のことを思い出し、流石にカチンときてしまう。
 つい、声に出してしまった。
 
「……もういいでしょう? お詫びならさっきの一言で十分ですので」
「ごもっともだな。まぁせっかく来たことだし、昼飯時だ。帰る前にパンケーキだけでも食わせてくれよ」
「……っ」

 もはや、呆れるしかなかった。
 悠希のあまりの図々しい詫びに溜め息しか出ない。
 悪意たっぷりの私の言葉にも、悠希はまるで気にせずに肩を揺らすだけだ。
 確かに『しあわせのとりさんパンケーキ』は、この店で一番値がはる。
 でも、額の問題じゃないのよ。

 私は返事の代わりと言わんばかりに、無造作に注文用紙を千切る。
 そして千切った紙を、彼女のカウンター席の脇のバインダーに挟む。

 これ以上、彼女を相手にしていたら具合が悪くなる。
 私は勢いのまま、素早く踵を返す。
  
「だから昨日の"最後のアレ"も、アタシは気にしていないぜ」
「……うぐ」

 歩きだそうとした私の脚が、意図せずピタリと止まる。
 蜘蛛の糸で絡みとられたみたいに、自分の全身が引きつくのが分かる。
 全く、本当にやっかいだわ。
 
「幸いアタシも怪我をしていないし、元はこっちに非がある。店の連中にも言わないと約束する。アンタもそれでいいだろ?」
「それは、まぁ。ありがたい、といえば……」

 言葉の続きを返せず、私は閉口してしまう。

 アレとはきっと昨晩、私が悠希に向かって傘を振り下ろしたことだ。
 悠希は自分も悪いように言ってはいるものの、実際のところは私の方に非がある。
 命中こそしなかったが、結果的に直接的な暴力を奮ったのは私だ。

 もしも、私が悠希に怪我をさせてしまったら?

 もちろん立場的にどちらが辛いかなんて言うまでもない。
 一歩間違えれば、こうして今日の仕事に出てくることすら怪しかった。

 あれがきっかけでシュロさんや店長、ご主人様達に迷惑をかけていたらと思うと、ぞっとする。
 メイドとしては、これ以上ないほどの失態だろう。
 想像するだけで尻尾の毛が逆立ちそうだった。

「分かりました……何も言わないと、約束できるのなら」
「おう! 約束するぜっ!」

 悠希の無駄に小気味いい返事を、渋い顔で聞き入れる。
 冷やかしよりは幾分マシだと思うしかない。

 幸い彼女は、ただの客に徹すると宣言した。
 パンケーキ程度で昨日の過ちを帳消しにしてくれるのなら、このまま荒波を立てない方がいい。
 少しでも問題行動があれば、すぐにでも出禁にできる。
 それまでは私が我慢すればいい話なのだから。

「じゃあアタシは表向きは"普通のお客"としてパンケーキを食いに来た。アンタも、昨日のことはこれでチャラになる。win-winってやつだな」
「……はぁ」

 私は諦念のこもった息をひっそりと吐く。
 仕方ないけど、もうそれでいいわ。
 彼女のそれが何故winなのかという指摘すらも面倒だった。
 
「ナベちゃ〜ん!来たよぉ〜!」
 
 ふいに店の入り口の方から、重量感のある声が響いてくる。
 聞き慣れた声だから考えなくても誰だか分かる。
 声の主は、その脂で重たそうな四肢をばたつかせるようにして、私の元へ歩み寄ってくる。
 
「俊介ご主人様っ! お帰りなさいませぇ」 
 
 私は条件反射的に"彼用のメイドキャラ"に切り替える。

「へへへ、今日も来ちゃった〜。あ、いつものコーヒーでね」
「はい。かしこまりましたぁ」

 滑り気のある笑いとともに、俊介ご主人様が私の側のカウンター席へと寄ってくる。
 あい変わらず、シャツにはひどい汗シミが浮いている。
 替えの衣服を持ち歩いた方が良いんじゃないかしら?

「あれ? 見慣れない子だね。新人さん?」

 俊介ご主人様は悠希の方を見ながら、そう尋ねてくる。
 さすがこのブルーバードに通い詰めているだけあって、魔物娘への食いつきが異様に早い。

「はは、アタシにこんなヒラヒラなメイド服が似合うかよ。ただの客さ。つい昨日来たばかりの新参者だ。な?」

 そう言いつつ悠希は私に、謎のウインクを飛ばす。
 会話を合わせてやるよ、とでも言いたげだ。
 正直鬱陶しいけど、その方が助かるのも事実。
 とりあえず合いの手でも入れておこうかしら。

「いやいやご謙遜を、サンダーバードのお姉さん。結構細身な印象ですし。きっとメイド服も似合うと思うのですが」
「おお、そうかい? 照れるねぇ」

 俊介ご主人様におだてられた悠希が、自分の身体を見下ろす。
 おまけにモデル気取りでポーズまでとり出した。
 私はそんな悠希に、ひっそりと冷ややかな眼差しを浴びせる。

(お調子者だけど、あながち嘘でもないのよね……)
 
 確かに悠希は中性的な顔立ちで粗野な印象だ。
 ハリネズミな髪型に、どうやってきたのかも分からない古着の黒いベトジャンの組み合わせは、実に奇抜すぎる。
 だけどその服の上からも、スラッとした腰回りが見え隠れしている。
 仮にメイド服を着たとしても、酷い有様にはならないと思う。
 無論、私は一緒に働くなんて願い下げだけど。
 
「大丈夫だ、問題ない……いや、一番良い装備(メイド服)を頼む」
 
 突然、無駄にキメ顔をするご主人様。
 ニチャアという効果音が文字付きで見えそうだった。
 うわぁ何その斜め顔、本当にうざいわね。

「うわぁ、その斜め顔うぜぇな」
「ちょ……!」

 悠希と思考がシンクロしてしまったことよりも、罵倒を躊躇なく口にしたことに動揺してしまう。 
 
「フヒヒ、ひどい言われよう」
「ネタが古い、汗すごい、あとその顔がうざい。スリーアウトだな」

 ニチャニチャ笑う俊介ご主人様を、悠希が容赦なく切り捨てる。流石に止めようと思ったけど、彼女のことをなんて呼べばいいかを考えて、躊躇ってしまう。

「ちょ、二回も言わなくてもいいではないですかぁ!」
「はは! 悪い悪い。まぁここ座りなよ」

 悠希は自分の隣の丸イスをポンポンと叩く。

「はあ……では失礼」

 多少渋りながらも、俊介ご主人様は悠希の指示通りにカウンター席へと座る。
 私はその状況を、呆気にとられながら見ていた。
 今日出会ったばかりなのに、罵倒されたばかりなのに、いきなり隣同士で座るなんて。
 
「で……アンタ、俊介だっけ? ここには結構来ているのかい?」

 しかも、いきなりの呼び捨て。いくら何でも馴れ馴れしすぎるわ。

「ちょっと、流石に失礼……」
 
 しかし私がそう言おうとした瞬間、さっきまでの困惑した態度はどこへいったのか。
 俊介ご主人様が、急に得意そうな顔になる。
 
「もちろん! この店のメイドさんは、種族も勤務年数も持ち歌もダンスも、全て把握しておりますとも。俺ほどの古参ファンは中々いないのではと自負する」

 嬉々とした口調で語りだすご主人様に圧倒される。
 まるで罵倒なんてなかったかのような熱量。
 私は口を開けたまま、呆気にとられてしまっていた。

「マジか、すげぇな。どんだけ魔物娘好きなんだよ」
「私は魔物娘という存在そのものを愛してますからね!」
「発言がド変態すぎるぞ。良い趣味してんな!」
「ふふ、もっと褒めてもいいのよ?」
「うわ、その顔うぜー」

 そういって俊介ご主人様はフフンと鼻を鳴らす。  
 その脇では、悠希が息を漏らすようにして笑っている。
 
「アンタ、相当この店に入れ込んでるんだな。何かきっかけがあったのかい?」
「おお、聞いてくれますか!? 実はですな……昔この店で、それは運命的な……」

 俊介ご主人様はすっかり機嫌を良くして、自分の魔物娘の愛を語り出した。
 悠希もすっかり彼の話を聞く態勢になっている。

(ああ、これはもう、お互いさっきのことなんか気にしていない顔ね)

 今さら私が何か言ったら、逆にこじれてしまうわね。
 
 私は手元の紙に注文のコーヒーを書き留めながら、目の前の二人を遠くの出来事のように眺めていた。
 さっき会ったばかりの二人だというのに、すっかり彼らは仲良くなってしまったようだ。
 まるでマシンガンのようにトークを重ねる二人の間には、もう私では入り込めそうにもない。 
 それにしても俊介ご主人様、何だかいつもより楽しそうな気がするわ。
 私と話している時だってここまで盛り上がることは少ない。
 
 普段の私とご主人様の会話は、いつも彼の一方的になる。
 私は俊介ご主人様のオタク趣味には到底ついていけない。それに私は気を使いながら聞くので、こういう性癖じみた類の話は、むしろ嫌いだった。 
 
 でも、もしかしたら、いつもの会話は加減をしていて。
 俊介ご主人様は、本当はこれくらい白熱して話したいのかもしれない。



 ―――ん?
 その時、私は何か、違和感に気がつく。
 ついボヤッと見ていたけれど、
 この二人、どんどん距離が近くなってない? 

 俊介ご主人様と悠希の間は、今にも引っ付きそうなくらいに狭まっていた。
 今も悠希の肘の羽毛が、二度……いや、三度と彼の二の腕に触れている。



 (まさか悠希、俊介ご主人様を?)

 即座に、私は首を振る。
 いやいや、そんなわけないでしょう。 
 確かに悠希は魔物で、俊介ご主人様は人間だ。
 でもだからってこんな出会ってすぐになんて……。
 いえ別に、気になってはいないけど。
 ええ、だって、俊介ご主人様だし?
 どう見てもまるでダメなオタクの部類だし?
 魔物娘やアニメの話題以外に話せない人だし?
 悠希だって、きっと何かを企んでいるっぽいし?

 気になってなんか、いないわよ。
 
 沸き立つモヤついた思念が煙たくて、思いきり首を左右に振る。
 当の悠希は、どんどん俊介ご主人様との距離を物理的に縮めていく。

「鳥系の魔物娘さんはいいですよね! あのモフモフ感! 最近は寒いから羽毛が最高に心地いい」
「はは、サンダーバード冥利につきるな。まぁその汗じみじゃあ少々説得力に欠けるけどな!」
「暑がりなものでね、あはは!」
「いや、どう考えてもこの肉のせいだろオラ」
 
 悠希はご主人様の脂肪に満ちた腹を、その翼で小突く。

「いやん、エッチ」

 ご主人様もそれに嫌がる様子もなく許している。 
 
 俊介ご主人様が何かを言うたびに、悠希は大げさにリアクションをとる。 
 笑ったり、感心したり。
 厳しいツッコミ返したり、膝を叩いたり。
 実に楽しそうだ。
 ご主人様も興が乗ってきたのか、冗談を交えて声高に性癖を語る。

 対する悠希は彼の言葉を否定することなく、すべてを傾聴し、受け入れている。
 ようするに悠希は話の聞き方が、とても上手いのだ。その様子はまるで旧知の友人のようだった。
 例えそれが何か裏があるとしても、彼女とのコミュニケーション力の差を見せつけられているようで、胸がむず痒くなってくる。
 いつも気分を損ねないためだけの『お客さん』として言葉や態度を取り繕っていた私とは違う。
 
 ―――正直、悔しい。

 目の前の二人が、比喩ではなく、本当に遥か彼方に感じる。
 脳裏に、昨日の悠希の言葉が浮かぶ。

『アンタ、"本当に"キキーモラなのか?』

 私は目をギュッとつぶり、頭を軽く振る。

「……ざっと言ってもこんな感じですかな。俺は一種族にこだわらず、魔物娘全般を愛しているのです」

 一通り語りつくした俊介ご主人様は、満足そうに鼻息を出す。

「……へぇ。お気に入りの子とかはいないのか?」
「ええ! みんな等しく、愛しておりますとも。皆違って、皆いいってやつです」

 すると悠希は、何かに感づいたかのように片眉を吊り上げる。

「……ん? じゃあ、ナベちゃんはどうなんだ?」
「ああ! もちろん今の一推しはナベちゃんですよ! 期待の新人だし贔屓にしないと!」

 嘘だ。
 私はそう切り捨てる。
 貴方が好きなのは、シュロさんでしょう?
 今、悠希と楽しそうに話していたでしょう?

 何、軽々と嘘をついているのよ。
 
 ズキン―――
 
 脳の奥が痛む。
 二人の会話が鎹みたいに突き刺さってくる。
 賑やかな笑い声にディストーションがかかり、私の鼓膜をえぐる。
 その歪みが大きくなり、私の中で一つの形になっていく。

(何か、不愉快だわ)

 よく分からないけど、自分でもその歪みを、そうはっきりと自覚した。
 この二人の何もかもが不愉快の炎の薪になる。
 二人の顔も。
 笑い声も。汗も。
 身振り手振りも。
 
 不愉快だ。

 私は。
 
 私は。


『私は貴方の■■■■■■■■のに―――』

 何―――今の?

 突如、脳裏に疾走する不協和音。
 耳の奥で聞こえた機械のエラーのようなそれ。
 聞き覚えがあるような。でも決して私のものではない。
 でも間違いなく、それはどこかで聞いた声だった。

「おい、葵」

 気が付くと、悠希がやおら体を反らして私の顔をのぞき込んでいた。

「お前、顔ヤバいぞ?」
「えっ? あっ……」

 まずい。
 悠希に言われて初めて気づく。
 私の顔からメイドの仮面が外れかかっていることに。

「どうかしたのナベちゃん? 具合でも悪いのかい?」

 夢中に話していた俊介ご主人様も気づいたらしく、私に声をかけてくる。

「いえ!その、実は寝不足で……」
「それはよくない! 女の子はちゃんと寝ないと、いくら魔物でもお肌によくないですぞ!」

 適当についた嘘を信じてしまったのか、俊介ご主人様は両手を扇のようにバタバタと広げて仰ぐ。

「ええ、気をつけます。ああ、そうです! 俊介ご主人様、オーダーを……コーヒーでしたね! では少々お待ちくださいませ〜」

 全てをごまかすため、私はひたすら笑顔を振る舞って、その場を離れる。
 
 小走りで厨房に入り、キッチン担当のアラクネに注文を届ける。
 そして俊介ご主人様と悠希から見えない、奥の壁の裏に回り込む。
 
「はぁ……」

 そこでようやく、肩の荷が下りた。
 あっという間に身体が重たくなる。
 疲れた。下腹部の辺りがグルグルと回っている。
 痛みはない。だけどどうにも落ち着かない。

 あの二人が喋っているのを見ているだけで、なんでこんなにも不安定になるのかしら。

 それに、あの謎のノイズ。
 まるでウイルスにやられたパソコンみたいに不可解な現象。

 あれは一体なんだったのかしら?
 ストレスからの幻聴? いや、それこそ魔物には縁遠いはず。
 訳の分からないことだらけで、文字通り頭を抱えてしまう。
 
 何か……大事なことを忘れているような。
 大切な、致命的な忘れものをしている気がする。

 しかし、そこで考えたところで答えなど出るわけもなく。

「……いえ」

 結局、私は思考を放棄した。
 思い出せないということは大概、ロクなことではない。
 それに、今は思い出さない方がいい。
 何となくだけど、そう思った。
 
 私はその場で大きく、ゆっくりと深呼吸をする。

 1つ、2つ、3つ。

 乱れた呼吸が落ち着くにつれて次第に、視界がクリアになっていく。
 そうして平静が戻ってきた私の頭に。
 ぼんやりと、一つの思考が廻る。

 (ひょっとして私、あの二人に嫉妬しているの?)

 そんな考えが浮かんだ瞬間、ぶわりと嫌悪感が昇ってくる。
 
 くだらない。
 馬鹿馬鹿しい。
 
 再度、私は息を吐く。
 今度は落ち着くための深呼吸ではなく、不快感を垂れ流すために。
 
 そんなわけないじゃない。
 私はあの二人のことが嫌いなの。
 私の唯一無二の幸せの場所に、私がメイドでいられるブルーバードに、あんな風に我が物顔で居座っているのが、嫌いで仕方がないのよ。

「嫌い……大嫌いよ。大嫌い」

 そうやって、自分の気持ちを吐露すればするほど。
 鬱屈した何かが胸元で焼けるように燻っていく。
 
『アンタ、本当に"キキーモラ"なのか?』

 再び、悠希の声が反響する。

 分かっている。
 本当の魔物と人間ってのは、あなたたちみたいに楽しく仲良く過ごすべきなんでしょう。

 それが魔物娘のルール、分かっているわよ。

 けど、それを認めてしまったら。
 ―――あの人を嫌う私は、どうなるのよ?

(ああ、ダメね。少し休もう……)

「すみません……具合が、少し、外します」
「はーい」

 ひどく低いトーンで、アラクネにそう伝える。
 アラクネはパンケーキの準備に手一杯で、こちらを振り向くことはなかった。
 私もそれを見届けることなく、その脚で控え室へと向かう。




 ズキン、ズキン―――

「つぁ……」

 左手で額を押さえる。
 さっきのノイズが起きてからずっと、削られるような頭痛がする。
 控え室まであと少しだ。そうしたら休もう。
 重い足取りでノロノロと、精一杯前へ進む。
 
 (あまりひどいなら、本当に早退しなければいけないかもね……)

 ぼんやりとした思考のまま、たっぷりと時間をかけて。
 私はようやく控え室の前にたどり着いた。
 
 そして、頭を刺激しないように静かに、入り口のドアノブに手を伸ばす。
 
 ―――その時だった。

「なぁ……やっぱり、難しいのか?」

 扉の向こう側から、話し声が漏れている。
 どうやら、先客が来ていたらしい。
 聞こえてきたのは低い男性の声。これはおそらく店長だ。

 困ったわ。
 お昼時だから、この時間に休む人は少ないと思ったのに。

 人前で気を抜いている姿を晒すのは得意じゃない。
 だからといって、このまま仕事に戻ってまたヘマを重ねたら、それこそ目に当てられない。

 ……仕方ないわ。

 私は壁に寄り添い、漏れ出る声に集中する。
 盗み聞きはどうかと思うけど、もし深刻な話じゃないのなら入らせてもらおう。

「はぁ……だから何度も言わせないで、無理よ。むしろ今の状況の方がおかしいくらいなの」

 さっきの店長の声に対して、女性の声が聞こえる。
 芯の通る、ハキハキした物言いだ。
 こちらも聞き覚えがある。むしろ、男性の方よりもよく聞く声だ。
 これは、もしかして―――シュロさん?

「貴方も、もう見えているんでしょう? 限界が来ているの」
「それは、まぁ……」

 いつになく重みのある声色に、私はただならぬ予感を感じる。
 これはやはり深刻な話の部類かもしれない。
 やむを得ない。最悪、トイレにでも籠ろうかしら?
 私は伸ばしかけた手を、ゆっくりと引く。 

 するとその直後。
 部屋の中から、一層に力強い言葉が飛び出した。
 
「断言してもいい。このままじゃ、この店は近いうちに潰れるわ」
17/04/30 16:04更新 / とげまる
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■作者メッセージ
 4ヶ月ぶりの投稿ですね……お久しぶりです。
 筆が滑るとついグダグダになってしまいますね。
 魔物娘で謎っぽいの?をやってみたかったのですが、思ったより長くてエロくないお話になりそうです。何とか書き切ってあげたいですね。

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