連載小説
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V Electrocution
 ニコラスが屋敷に通い始めて、はや2ヶ月が経とうとしていた。空が晴れ渡る秋も終わりに近づき、ミルキーピークの町には感謝祭の季節が到来していた。通りに面した軒先には七面鳥やカボチャが並べ立てられ、道行く人々は浮かれ騒ぎながら町の広場へと歩いてゆく。
 彼らの向かう先、町の外れに位置する広場には、色とりどりの布でけばけばしく飾られた仮設の野外劇場が建てられていた。サーカスの興業や町の音楽団の演奏をはじめとした様々な催し物が行われ、牧場と教会しかないこの田舎町にやってくる年に一度の楽しみを享受しようと、町の人々が連日詰めかける場所であった。

 しかし、その日の午後に限っては、他の催し物とは比べものにならない数の人々で客席は埋め尽くされていた。この小さな町の人口よりも明らかに巨大な群衆の中には、町の外からの見物人も多数含まれている様子で、観客の誰もが次に始まる出し物を今か今かと待ち構えていた。
 ニコラスは、そんな群衆の中にあって誰よりも早くこの野外劇場に到着し、最前列の席に陣取って舞台上を注視していた。客席の最前列には彼の他にも、新聞記者らしき男たちが手帳とペンを片手に盛んに言葉を交わしている。ニコラスが、記者たちが、そして群衆が待ちわびているもの。それは間もなく行われる予定の、「ミルキーピークの魔術師」による発明品の公開実験であった。

「今のお父様の、唯一の収入源ですわ」
 数日前、メアリはそう言って苦笑した。
「人前に出るのはお嫌いな方なのですけれど……冬を越すにはどうしてもまとまったお金が必要ですから。暮らしていくためには仕方がないのだと、ぼやいておりましたわ」
 本人は嫌々執り行っているというこの舞台だったが、ニコラスをはじめ会場に集まっている群衆はみな、これから行われるエリオットの実験に最大級の関心を注いでいた。なにしろ、変人偏屈で有名なあのトーマス・エリオットが、人前に姿を現す年に一度の機会である。新聞記者たちはペンを握りしめ、大発明家の発する言葉を一言も聞き漏らすまいと待ち構えていた。
 博士の登場をじっと客席に座って待つニコラスもまた、抑えきれない期待感で密かに胸を膨らませていた。この2ヶ月間、まともにエリオットと会話する機会をとうとう得られなかったニコラスにとって、彼の実験を直接目にするのはこれが初めてであった。全神経を集中して実験の過程を目に焼き付けるため、彼は紙もペンも手にしていなかった。

 人々の興奮が収まらぬ中、シルクハットを被った小太りの紳士が舞台上に姿を現した。ニコラスも顔を見たことのある、ミルキーピークの町長だった。町長は恭しく一礼すると、声を張り上げて前口上を述べ始める。
「紳士淑女の皆々様、本日は我がミルキーピークの誇る世紀の大発明家、トーマス・エリオット博士の公開実験にお集まりいただき、誠に感謝いたします……我らが開拓の父祖がこの地へ入植して以来、この町がこれほどの賑わいを見せたことはなく……そもそもの始まりは……」
 しかし町長の長話などに、誰も耳を傾ける者はいなかった。ざわめきは止まず、客席から早く始めろという野次を飛ばす者さえいた。町長は額の汗を拭うと、仕方なしに舞台袖に手で合図を送る。
 合図のあった方向に目を向けた時、観客の誰もが息を呑んだ。なんとそこには、既にエリオット本人が立って待機していたのである。町長が指し示すまで、誰も彼の存在に気が付いていなかった。それほどまでに、エリオットの発する存在感は希薄だった。
 ニコラスもまた、そのことに対し驚きを隠せないでいた。彼がエリオットの姿を間近で目にするのはほぼ2ヶ月ぶりのことだったが、たったそれだけの間に博士はまるで別人のようにやつれきっていた。この世の人間全てを疑うような鋭い目つきはそのままだったが、豊かだった白髪は大部分が禿げ上がり、頬はこけ、やせ細った身体は以前よりも小さく縮こまって見えた。ふと、ニコラスはメアリのことを思い出して辺りを見回す。しかし、客席は数百人の群衆の顔で埋め尽くされており、彼女がこの場にいるかどうか探し当てるのは困難だった。

「……えー、本日は、『光力』に関する装置の公開実験といたしまして……発表いたしました……新開発の装置の……」
 ボソボソとした声でエリオットが挨拶を始めると、ざわついていた観客が一斉に静まり返る。博士の声があまりにも小さく、注意しなければ聞き逃してしまうほどだったからである。
 二言三言ですぐに挨拶を打ち切ったエリオットは、舞台袖に向けて手招きする。それに応えて3人の屈強な男たちが舞台上に運んできたのは、台車の上に載った巨大な鉄製の装置だった。婦人用のクローゼットほどの大きさのその装置は、側面にいくつものレバーを持ち、その下から伸びた素材の分からない黒い紐が蔦のように地面を這っていた。側面から見える装置の内部には、真鍮の円盤、幾重にも螺旋を描く銅線の束、無数の球形ガラスが隙間なく整然と詰め込まれ、さながら鉄とガラスの巨大迷路の様相を呈していた。
 巨大装置に続けて、さらに男たちは木製の檻を舞台に運び込む。その中では、丸々と太った七面鳥が立派な羽根をばたつかせ、落ち着かない様子で檻の中をグルグルと歩き回っていた。暴れる七面鳥を押さえつけてその両脚に黒い紐の端を結びつけると、仕事を終えた男たちは足早に舞台上を去る。
 後に残されたのは、エリオットと謎の巨大装置、そして檻に入れられた一羽の七面鳥だった。
「なんだ。去年と同じ実験じゃないか」
 記者たちの誰かが呟く声が聞こえた。しかし昨年の実験を知らないニコラス、そして観客たちは、息を潜めてエリオットの次なる言葉を待つ。七面鳥がせわしなく翼を羽ばたかせる音が、やけに大きく劇場に響いた。
「……これより行います実験は、『光力』の持つ危険性を皆様にご理解いただきたく行うものであり……」
 エリオットが聞き取りづらい声で説明を始めようとした、その時だった。
「気分を害されたとしても……どうか目を逸らすことなきよう……う、ゴホッ!」
 突如、エリオットが喉を押さえて激しく咳き込んだ。人々がどよめく。咳が止まらないエリオットは、立っていることもできずその場にへたり込む。手で押さえた口元から、わずかに赤い色が飛び散ったように見えた。
 町長が血相を変えて舞台袖から飛び出そうとする。しかし、慌てて駆け寄ろうとする町長を、不意にその後ろから伸びた細い腕が制した。その腕の主は、振り返って唖然とする町長を置き去りにし、音もなく舞台上に姿を現す。
 観客席から再びざわめきが起こった。全員の目が、突如として舞台に現れた謎の女――レモン色の野外用ドレスに身を包み、つばの広い純白の帽子を頭に載せた絶世の美女、メアリに釘付けとなっていた。
 メアリは少しも慌てた様子を見せず、優雅な足取りでエリオットの下へ向かう。一分の隙もない、完璧な美貌。都会的な社交界の貴婦人を思わせる洗練された所作に、人々の口からため息が漏れる。しかし、その姿を見て逆に息が止まるほどの衝撃を受けていたのは、彼女の美貌を見慣れていたはずのニコラスだった。純白の礼装に身を包んだ彼女の姿は、彼がこれまでに目にしてきたどんな彼女の姿よりも美しかった。それはどこか人知の領域を超えた、恐ろしさを感じさせるほどの凄まじい美だった。
 メアリは咳き込み続けるエリオットの傍にしゃがみ、優しい手つきでその背に手を置く。そうすることで発作が和らいだかのように、息も絶え絶えになりながらもようやくエリオットは呼吸を落ち着かせ、差し伸べられたメアリの手を握りしめた。
 人々が固唾を飲んで見守る中、メアリによってエリオットは助け起こされる。メアリの両腕にしがみつき、よろめきながらもやっとのことで立ち上がるエリオット。その時、老人はメアリに顔を近づけると、その耳元で何かを囁いた。メアリはその言葉を、表情を変えずにただ黙って聞き入れていた。エリオットの声はか細く、最前列の観客の耳にもその言葉は届かない。しかし、たった一言、それに答えて口を開いたメアリの言葉が、ニコラスの耳にだけ強く響いた。
「はい、お父様」
 そう答えた彼女の表情は帽子に隠され、ニコラスから見ることはできなかった。

 間もなく実験は再開された。しかし今、実験装置の前に立っているのは科学者の娘、メアリであった。老人エリオットは舞台端に用意された椅子に腰かけ、厳しい表情で実験装置を睨みつけていた。
 メアリは一歩踏み出して観客席に顔を向けると、ドレスの端をつまんで優雅に一礼をした。そして実験装置に歩み寄ると、正面に取り付けられた一番大きなレバーに手をかけた。
 誰も、一言も発しなかった。七面鳥の不安げに羽ばたき、歩き回る音だけが、その場を支配する沈黙に抗っていた。
手袋をはめたメアリの手が、一息に、躊躇いなく重いレバーを下した。

 その瞬間、動き回っていた七面鳥が身体をビクンと震わせた。レバーが下される重い音と、寸分違わず同時であった。七面鳥は支えを失ったように力なく倒れると、そのまま動かなくなった。鳴き声すら上がらなかった。
 メアリは檻へ歩み寄ると、蓋を開けて中から七面鳥を掴み上げる。脚を掴まれ、逆さ吊りになって観客に向けて見せつけられるその生き物は、明らかにその命を絶たれていた。大部分の観客が、声を失っていた。レバーのたった一振りで、手も触れずに七面鳥の命が奪われたという事実を、多くの人々はまだ呑み込めずにいるようだった。その中でごく一部の観客――新聞記者と、おそらくは地元の町民たち――は、大して面白くもなさそうな顔で死んだ七面鳥を眺めていた。その視線は、どちらかといえばメアリの美貌に注がれているようでもあった。
 メアリが舞台袖に目配せをすると、控えていた男たちがすぐさま動いた。七面鳥の死体を檻ごと回収し、続けて少し大きめの別の檻が運ばれてくる。
 そこに入れられていたのは、白く美しい毛並みの子羊だった。子羊はいたって大人しく、檻の外の光景を興味津々といった様子で見回していた。男たちが脚に紐を括り付けている間も鳴き声を上げることなく、全くされるがままであった。
 装置の前に立つメアリは、そんな子羊の様子をただ黙って見つめていた。彼女の表情は極めて穏やかで、うっすらと微笑んでいるようにすら見えた。しかしニコラスには、その落ち着いた眼差しが子羊ではなく、この巨大な実験の舞台そのものに注がれているようにも見えた。その微笑みは、父にとって大切な公開実験の工程が、滞りなく進んでいることに満足している表情であるように思えてならなかった。

 子羊が、首を回してメアリの方を見た。そして控えめな声で、一声だけメェと鳴いた。

 レバーの下りる音。子羊の身体が痙攣し、膝から崩れ落ちる。動くことを止めたその身体から幾筋もの白い煙が立ち上り、肉の焼ける香ばしい匂いが漂った。
 メアリは再び檻に近づき、子羊を抱え上げて観客に見せる演出を繰り返す。まばらな拍手が客席から上がった。白い子羊を両腕に抱え、艶やかに微笑むメアリの姿。それはまるで、愛する我が子を包み込むような眼差しで見守る聖母の像の如くであった。
 ただ一点、子羊が既に息絶えていることを除いては。


 その後実験は最後まで、滞りなく行われた。子羊の次はおとなの羊、そして最後には立派な牡牛が、舞台上の台に乗せられた。メアリは実験の全ての過程を、一分の躊躇いもなく執り行ってみせた。彼女の白い手により、装置の重いレバーは次々と下されていった。淡々と、粛々と、家畜たちの処刑は行われた。
 最初は控えめであった観客たちの拍手は、死体の数が増えるたびに大きくなっていった。最後に牡牛の巨体が音を立てて崩れ落ちた時には、割れんばかりの拍手が会場を埋め尽くした。メアリは、絵に描いたように完璧な微笑みを顔に貼り付けたまま、黙ってその歓声を受け止めていた。
「あの美人さん、いったい何者かね?」
「博士の娘さんよ。たぶんね」
「娘?まさか、あの偏屈爺さんに?」
 ニコラスの後方の席から、地元住民らしき年配の女性たちの会話する声が聞こえてきた。
「あたしも驚いたんだけど、うちの人が前に見たって言うのよ。博士が町に住んでた頃に、えらい美人が時計屋にいたって」
「でも、あの人結婚なんてしてないんじゃなかった?」
「さあ……そもそも何をしてるんだかよくわからない人だったもの。若い頃の隠し子とか……町の外で育った娘かも……」
「そりゃあかわいそうに……あの器量なのに結婚もできないで、ずっと年寄りの世話なんてねぇ……」
 女性2人の会話を耳に入れながらも、ニコラスの心はその内容を理解するだけの余裕を持ってはいなかった。

 自分の目が見たものが信じられなかった。絹のように白く清らかな彼女の手が、家畜たちを次々と処刑していったという事実が。メアリによく似た別人なのではないかと、心のどこかで叫ぶ声が聞こえた。そう信じ込むことでしか切り離せない、強烈な違和感が胸の内に巣食っていた。しかし同時に、あの人形のように完璧な微笑みが目に焼き付いて離れなかった。
 あれは、あの完璧な調和から生まれる美しさは、初めてメアリの顔を目にした時に、自分が彼女に抱いた印象と同じではなかったか。
 鳴りやまない拍手の中、メアリは優雅に一礼すると、台車に乗った実験装置を1人で押して、早々に舞台を後にしてしまった。それに代わって、舞台端で実験をずっと見守っていたエリオットが重い腰を上げ、足を引きずりながらも舞台中央に歩み出た。
「……えー、以上で、公開実験は終了といたします……ご覧いただいた通り、この『光力』という危険な力が、世界にこれ以上広まることのないよう、切に願う次第であります……」
 申し訳程度に述べられたエリオットの挨拶は拍手の音にかき消され、ほとんどの観客の耳には届かなかった。観客の反応など意に介さないエリオットは、そのまま踵を返して舞台を歩み去る。席から立ち上がってわれ先に取材を申し込もうと群がる記者たちにも、一瞥もくれることはなかった。
 



*  *  *

 それから、約2週間が過ぎた。
 冷え込みはいっそう厳しさを増し、冬の訪れをひしひしと感じさせていた。ニコラスは、町で購入した黒テンの毛皮を首に巻いて、屋敷への道を歩かなければならなくなっていた。どんよりと空を覆う灰色の雲の下、町を見下ろす山の中腹まで登ってくると、北風はより冷たさを増すように感じられた。
 ニコラスはあの公開実験以来、エリオット邸を訪れていなかった。久しく目にしていなかった屋敷の前に立ち、その屋根を見上げると、そびえ立つ煙突からは相変わらず灰色の煙が途切れることなく立ち上り、空の雲に溶け込んでいた。
 メアリの姿は見えなかった。重い足取りで、以前のように屋敷の裏手へと向かうニコラス。すると、裏庭の一角、様々な種類の花が植えられている家庭菜園に、メアリの姿があった。それを目にした瞬間、ニコラスの心臓が一瞬跳ね上がる。
 ほぼ同時に、メアリもニコラスの来訪に気がついた。
「まあ、ニコラスさん?お久しぶりね!」
 ニコラスを見たメアリの顔が、パッと日が差したように華やいだ、ように見えた。そのことはニコラスに、軽い安堵に似た感情をもたらした。帽子を取って胸に当て、軽い会釈を返すニコラス。
「ご無沙汰してしまって、申し訳ありませんでした」
「本当にご無沙汰ね。どうなさったの?」
「少し……町で冬支度に追われていまして」
 ニコラスは、あらかじめ用意していた答えをメアリに返す。しかし、それに続く言葉を見つけることができずに、ニコラスは一時口ごもった。
藍色のドレスで着飾った彼女は、今日もその人知を超えた美しさによって彼の目を惹きつけてやまない。それはあの日、あの舞台で観客全てを虜にしてみせた、純白の美女の魔力に他ならなかった。公開実験のことに触れるべきか否か、一瞬迷ったニコラスは、ためらいがちに尋ねた。
「博士の具合はいかがですか?この間は、その……体調が優れなかったようで」
「あら、お気遣いいただいて……。ご心配には及びませんわ。自分の体のことは自分で面倒を見られると、おっしゃっておりましたもの」
 メアリの返事は、驚くほどあっさりとしたものだった。園芸用ハサミで植え込みの剪定をしながらそう答えたメアリの様子は、まるで天気の話でもしているかのように、父親の容態について語っていた。
 心に生じた戸惑いを悟られぬよう、平静を装ってニコラスは会話を続ける。
「それにしても驚きましたよ。突然のことだったというのに、立派に博士の代役を務めておられて……」
「ありがとうございます。……でも、大したことじゃありませんのよ。ただ、お父様のなさっていたことを真似ただけですもの」
「博士は、昨年もあの実験を?」
「ええ。以前は違う実験も行っていたのですけれど、去年からあの形に。なぜそうなさったのかは存じませんわ」
 やはり他人事のように、メアリは答えた。
 年季の入った園芸ハサミを器用に使い、余分な枝を切り落としてゆく。植物のことなど詳しくないニコラスは、そこに植えられた花が何という種類なのかわからなかった。未だ花を咲かせたことのない硬い蕾が、植え込みの所々から顔を出していた。

「花が、お好きなのですか?」
 言うべき言葉に窮していたニコラスは、思わず的外れな質問を口にする。以前花束を贈ったことのある相手に尋ねるには間の抜けた質問だと、気づいたのは口に出した後だった。
「ええ。美しいものは、みな好きです」
 しかしメアリは、さして気にする様子もなく答えた。
「きっとお父様の影響ね」
「エリオット博士の?」
「花も鳥も空も、この世で主がお造りになったものは全て素晴らしいと、よく話してくださいましたわ。……私もそう思います」
 そう語る彼女は、彼女自身こそが自然の生み出した美の最高傑作であると、果たして自覚していないのだろうか。そうニコラスは考えずにはいられなかった。
「ですからこうしてお屋敷の外に出ると、たくさんの美しいものに出会えて……」
 言葉を続けようとするメアリの手元に、ニコラスがふと目を向けた、その時だった。

「待って、メアリさん!」
「え?」
 突然声を出して肩を掴んだニコラスに、メアリが驚いて顔を上げる。
「そこを切ってはいけませんよ。花が死んでしまいます」
 ニコラスが指さす先にメアリが目を向けると、彼女の持つ園芸ハサミの先端、刃の切っ先が、今まさに花の茎を根元から切り落とそうとしていた。すんでのところでそれに気づいたニコラスが、彼女の肩を掴んで制止したのだった。
「危なかった。ハサミは気をつけて扱わないと」
「花が……何とおっしゃいましたか?」
「ですから茎を切ると花が死んでしまうと…」
「死んでしまう?」
 メアリは、不思議そうな顔でニコラスを見上げていた。


「『死ぬ』って、いったい何のことでしょう?」


「え……?」
 ニコラスは耳を疑った。思わずメアリの顔をまじまじと見返す。メアリは、何も言わずにただニコラスの目を見つめ返した。その目は、彼の答えをじっと待っているように見えた。
「何を……言っているのですか?」
「ええと……ごめんなさい。聞いたことがない言葉だったもので……。私、おかしなことを聞きましたかしら?」
 首をかしげ、怪訝な表情で聞き返すメアリの様子は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 ニコラスは言葉に詰まった。2人の間に、突如として見えない断絶が口を開けたような感覚に襲われていた。自分と相手との間に最初から存在していた決定的な認識の相違に、初めて気がついたような違和感。ニコラスは、その溝を埋めるための言葉、『死』という概念を説明するに相応しい言葉を必死で探した。
「死ぬというのは……命が終わることです。生き物の身体がその活動を止めて、永遠に停止することです」
「命……の終わり……ですか」
 しかし彼の懸命な説明も、メアリの心にはあまり響いていないようだった。今一つピンとこないという様子で首をかしげるメアリ。
 すると何か思いついたように、メアリが手を叩いた。
「ああ!わかったわ……『壊れる』とおっしゃりたいのかしら?」

 2人の間の断絶は、まだ大きく開いたままだった。ニコラスは、自分が伝えるべき言葉を吟味しながら、慎重にメアリの真意を探ろうとした。
「……私が思うに……『死ぬ』ことと『壊れる』ことは決定的に違います。壊れた物は直すこともできますが、死んだ命は……もう二度と元に戻ることはありませんから」
 そこでニコラスの脳裏に、あの実験のことが思い浮かんだ。
「そうです、あの時の子羊や七面鳥のように!あなたが命を奪った動物たちが、解体されて、感謝祭の料理になったように……一度死んだ命は、どのような手段を使っても、生き返らせることはできないではないですか……!」
「でも……でも……、」
 ニコラスの口調は、知らず知らずのうちに責めるようなものへと変わってきていた。メアリは失敗の弁解をする子供のように、困惑した表情で言葉を重ねた。
「この地上で動くものはみんな、いつか壊れて土の下で眠らなければいけないことは、私も知っていますわ。……でも、お父様が前に教えてくださったんです。『すべてのものは主がお造りになったものなのだから、腕の良い職人が古い時計の歯車を取り換えるように、壊れてしまったものもいつか、すべて主が元通りに直してくださる』って」
「それは……」
 今度こそニコラスは、完全に言葉に詰まってしまった。 
 あまり敬虔とはいえない家に育ったニコラスは、彼ら南部人の独特な宗教観について今さらながらに思い出させられた。
 他人の信仰について自分があれこれと口を出すべきではない。とりわけ、それが命のあり方や死後の救いに関するものであるなら。もうこれ以上ニコラスは、この話題に触れるべきではないように思われた。

 
 ……いや、違う。何かがおかしい。
 彼の直感が告げていた。
 この父娘は、何かがおかしい
 南部人ということを差し引いても、彼女が語る命の思想には、宗教や文化の違いでは説明できない、何か決定的な異質さが感じられてならなかった。
 彼女が「そう」なった原因は、明らかだった。
エリオット博士。彼から話を聞かなければ。

「メアリさん、お話の途中で失礼ですが、エリオット博士にお聞きしなければならないことができました」
「え……お父様に?」
 怪訝な顔をするメアリを置き去りに、ニコラスは一礼して山高帽をかぶった。
「すみません。一刻を争いますので」
「待って……待ってください!」
 そのまま屋敷の裏口へ向かおうとするニコラスの腕を、メアリがとっさに掴んだ。
「私の言ったことのどこがおかしいのですか?教えてください!」
「メアリさん、続きは後でお話ししますから、今はどうか博士に……」
「今お話しているのは私です!私に説明してください!」
 メアリが譲らない様子なのを見て、ニコラスは多少強引に手を振り払おうとした。
 しかし、驚いたことにメアリの力は異常なほど強く、ニコラスの腕はびくともしなかった。それどころか、掴む力はどんどん強くなり、メアリの口調が強くなるほどに万力のような力が彼の腕を締めつけた。
「私だってそれで本当にいいのかなんてわかりません!でも……でも、お父様が、それが正しいのだとおっしゃるから!お父様の言う通りに、今までたくさんの生き物を『壊して』きたわ!それが間違いだったというの?」
「メアリさん……」
「教えてくださいニコラスさん……。私がしてきたことは、いったい……」
「メアリさん……腕が……!」
 メアリがハッとした顔で手を離した。ニコラスは思わず腕を抑える。掴まれていた部分が恐ろしいほどに冷たくなり、そこから先の感覚が無くなっていた。
「ごめんなさい……私、あなたを壊すつもりは……」
 メアリは青白い顔で数歩後ずさった。あと少しでニコラスの腕を折っていた手が、小刻みに震えているように見えた。
「……ごめんなさい!」
 絞り出すような声でそう言うと同時に、メアリは踵を返して駆け出した。
「メアリさん!」
 ニコラスの声にも振り返ることなく、メアリは一直線に屋敷へ向かって走り去ると、裏口の扉から屋敷の中へ消えていった。

 しばらくの間、ニコラスは呆然とその場に立ち尽くしていた。掴まれた腕に次第に感覚が戻ってくると、今度は火に当てられたようにずきずきと熱を持って疼き始めた。ニコラスは袖をまくった。素肌の腕には、メアリの細い指の形が、紫色の痕となってくっきりと残っていた。
 ニコラスの頭の中で、メアリの発した言葉が、群れをなして頭の中に渦巻いていた。生き物の死という概念を知らないという彼女。それどころかあの口ぶりからは、生きるということそのものを理解していないようにさえ感じられた。ニコラスの脳裏を、これまでに彼が目にしたいくつものメアリの顔が駆け巡った。井戸の機械ポンプと父の想い出を語るメアリ。機械の小鳥を愛おしそうに抱えるメアリ。息絶えた子羊を抱いて微笑むメアリ。思い返せば、彼女の周りを取り巻いているものは、いつでも命なきものではなかったか。彼女が共感を寄せるのは、いつでも血の通わない、命なきモノではなかったか。
 やはり、このまま立ち去る訳にはいかない。ニコラスは心を決めた。何より、メアリの身に何が起きているのか、それを確かめずに終わることは彼には考えられなかった。
 裏口へと走るニコラス。扉に飛びついてドアノブを回すが、扉は施錠されていた。おそらく正面玄関も同様であろう。もはや手段を選ばぬことを決めていたニコラスは、裏手の納屋を漁って手斧を探し出すと、ドアノブを叩き壊してそこをこじ開けた。

 裏口から屋敷へ足を踏み入れたニコラスが見たものは、おそらくメアリの手によって掃除が行き届いた小綺麗な室内と、そこかしこに置かれた大小様々な機械の数々だった。納屋に積まれていたものとは違い、博士が自ら傑作と認めた作品たちであろうか、まるで芸術品のように美しい時計やオルゴールたちが、正確に時を刻む音を響かせ続けていた。
 ニコラスは屋敷の中をさまよい始めた。屋敷の内部構造は、外から眺めた印象そのままに、恐ろしいほどに入り組んだ迷路と化していた。廊下は無秩序に曲がりくねり、角を曲がる度に方向のバラバラないくつもの階段に出くわした。屋敷中に置かれた異常な数の時計からは、絶えず鳴り響く針の音がニコラスに付きまとい、明かりが少なく薄暗い内装が方向感覚を狂わせた。

 もはや自分がどこから来たのか、忘れかけてしまうほどに歩き続けた頃。
「……ニコラスさんが…………私は……」
 時計と歯車の音に混じって、女性と老人が話す声がどこからか聞こえてきた。
 ニコラスは注意深く聞き耳を立て、それが今いる場所からほど近い、おそらくは地下へと続く階段の奥から聞こえてくることに気がついた。
 足音を立てないよう注意しながら短い階段を降り、暗い廊下の先に目をこらす。
 そこにあったのは、入り口を鉄格子の扉で固く閉ざされた、窓のない部屋だった。時折何かから発せられる青白い光が闇の中に閃いており、中からはメアリの声がかすかに聞こえてきた。 
「お父様……私、恐ろしいの……。私、今までいったい何を壊してきたの……?」
「お前が心配することではない……メアリ、いいから少し休みなさい。今日は少し動きすぎたな……」
 親に寝かしつけられた子どものように、メアリの声はそれきり聞こえなくなった。
「わしに全て任せておけ……何も心配はいらない……」
 これまでに聞いたことがないほど穏やかなエリオットの声が、暗闇の中に響いた。

 エリオットに気づかれぬよう、ニコラスは息を潜めて鉄格子の中を覗き込んだ。その部屋の壁という壁は、エリオットの美しい作品たちとは似ても似つかない、鉄と銅線をむき出しにした無機質な装置たちで埋め尽くされていた。壁の装置から突き出た無数のレバーやハンドル。内部で青白いスパークを迸らせる細長いガラス管。まるでその部屋だけが50年後の未来に存在しているような、異質な雰囲気を放つ空間の中で、エリオットは黒い手袋を両手にはめ、壁面のレバーを黙々と操作していた。エリオットが操作するレバーの一つ一つには、牛の首輪につけるような小さな札が、鈴なりにぶら下がっていた。
 エリオットの背後、実験室のほぼ中央には、一台の巨大な椅子が鎮座していた。鉄製らしきこの椅子にも、壁の装置と同様に無数の銅線とガラス管がまとわりつき、さながら鋼鉄に彩られた機械の玉座といった風情であった。玉座の背からは弧を描く細いパイプのようなものが上方に伸び、その先には金属製の輪が、まるで王冠のように取り付けられていた。
 闇の中でそれに目をこらした瞬間、ニコラスは気づいてしまった。その王冠が、椅子に体を横たえたメアリの頭に載せられていることに。

 それと同時に、恐ろしい直観がニコラスの脳裏に閃く。2週間前の公開実験の光景が、まざまざと彼の眼前に蘇る。いまエリオットが操作している巨大な装置は、あの実験で使われた死の装置と同じものではないか。目に見えない力で、数々の動物たちを死に追いやった、あの禍々しい装置そのものではないか。
 確証はなかった。しかしあの椅子の周りを覆う、無機質な鉄の塊が不吉な確信を与えていた。エリオットの手が、装置の一番大きなレバーを握る。それを目にした時、ニコラスの頭からは他のあらゆる感情が消え去り、身体は衝動に突き動かされるままに叫んでいた。
「博士!メアリさんに何を……!」
 無我夢中で叫び、鉄格子に飛びつくニコラス。その瞬間、
「……ッ!!」
 凄まじい衝撃が身体を襲った。鉄格子を握った両手が焼けるような熱さを感じ、ほぼ同時に経験したことのないほどの痛みが身体中を駆け巡った。目の前に火花が散った。
 一瞬にして、意識は闇に閉ざされた。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちてゆくニコラスの身体。
 その目が光を失う直前に見えたものは、こちらを振り返って無感情な一瞥を送る、エリオットの姿だった。
20/10/19 21:13更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
公開実験でエリオット博士が実験台としたのは、牧場から彼が直接買い取った食肉用の家畜たちです。動物たちはこの後、感謝祭のご馳走として祭の来場者たちに振る舞われました。

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