連載小説
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W Episteme
 腕の良い時計職人として知られていた男がいた。叩き上げの職人として、男は毎日のように時計を造り、毎日のように時計を修理し、来る日も来る日も工房の机に向かい、そうして40年余りを生きてきた。そうするより他に生き方を知らなかったし、それが立派な生き方だと信じていた。しかし、男がたった一人で生きてきた長い年月は、着実に彼の身体に衰えをもたらし、単調に続いていく孤独の日々に耐え抜くための心の強さを奪っていった。自分はもはや若くはない。そのことに気がついたとき、拭いがたいシミのように男の心にこびり付いていたのは、焦りにも似た漠然とした不安だった。
 自分の人生とはいったい何だったのか?男は問うた。40年間、真面目に愚直に働き続け、家族も友人も持たずに生きてきた。やがて誰にも知られずにその人生を終えることになる自分は、いったいこの世に何を残せたのだろうか?顧客の依頼を受け、顧客の要望通りに時計を制作し、期日通りにそれを納入するのが男の仕事だった。作り上げた作品に、男の名など刻まれてはいない。男は芸術家でもなければ、科学者でもなかった。どこにでもいる、しがない時計職人の一人にすぎなかった。

 一人寂しく老いていくだけの残りの人生、気がつけば男の手に残されていたのは、長年にわたって積み上げられた経験と技術だけだった。子を成すこともなく、作品に名を残すこともなかった自分がこの世を去れば、男がこの世に生きていた証など、跡形もなく消えて無くなってしまうのだろう。…本当に?
 男は職人として、自分の腕に誇りを持っていた。だからこそ、たった一つの財産である自らの技術が、自らの死と共にこの世から消えてしまうという未来に、どうしても納得することはできなかった。
 ならば最後に、自分が本当に納得のゆく一つの作品を作り上げよう。そう男は考えた。自身が持てる全ての知識と技術を結集し、機械と向き合ってきた自分の人生の全てを一つの作品に注ぎ込もう。世間の人々になど評価されなくとも構わない。自分自身の人生に決着をつけるための、職人人生の集大成となる傑作を。
男は、機械というものを心から愛していた。幾重にも重なった歯車と歯車が奏でる、完璧に統御された数学的秩序。それは男にとってどんな音楽よりも美しい、人類の生み出した最高の芸術だった。ならば、男の目指すものはその美を極めること。「この世で最も美しい機械」を作り上げること。それが男の目的となった。

 目標を見定めてからというもの、男は生活のほぼ全てをその「作品」作りに費やした。請ける仕事の数を大きく減らし、空いた時間にはひたすら機械弄りに没頭した。
 「この世で最も美しい機械」という未知の存在に、男はあらゆる角度から接近を試みた。歯車を組んでは分解し、組んでは分解する、毎日がその作業の繰り返し。失敗を重ねるごとに、試作品やガラクタの山は工房の床にうず高く積みあがっていった。前人未踏の偉業に挑もうとしていたこの男は、その理論的方法について誰かに教えを乞うことをしなかった。そもそも学校などというものに通ったこともなかった男にとって、この世で信頼できるものといえば、修業時代に師匠から盗み出し、その後長い時間をかけて研鑽してきた己の腕だけだった。
 何か月間も、何年間も、男は工房に籠り続けた。あまりに長い間人前に姿を現さなかったために、男は死んだのではないかと一部の人が噂するほどであった。
そうして、およそ10年もの月日が流れた。
 


 その発明は、男のふとした気づきから生まれた。あるとき男は、自らが極限まで複雑に組み上げた1つの装置が、これまでにないある能力を秘めていることを発見する。
 それは、「自らの頭脳で思考し、行動する機械」という、まったく新しい概念。言い換えればそれは、世界最初の職人たる創造主が作り出した最高傑作、つまり「人間」の再現に他ならなかった。
 そして、この新たな「人間」が考え、動くために必要なものは、水でもパンでもなかった。研究の最中に男が発見した、磁鉄鉱と針金から生み出される未知のエネルギー。男はこの力を「光力」と名付け、機械の動力源とすることに成功した。のちに世界を騒がせることとなるこの発明だったが、男にとっては、自らのもう一つの発明に比べれば、まるで価値のないものだった。
もはや食事も睡眠も忘れ、男は自らが思い描く究極の作品を組み上げることだけに没頭した。長年にわたって夢見た偉業の達成を目の前にして、自らの身体など顧みてはいられなかった。


 そして、さらに数年の月日が流れた頃、「この世で最も美しい機械」は、一人の女の姿となって遂に結実した。自らの頭脳を持ち、自らの足で歩く、世界で初めての自動人形(オートマトン)。同じものをもう一度作ろうと試みても、おそらく不可能であっただろう。それは男の類まれなる技術と、長きにわたる試行錯誤、そしていくつかの偶然が結びついて生まれた、奇跡の産物であった。かの偉大なる聖処女が、この世に生を受けた瞬間から原罪の穢れを身に宿していなかったのだとすれば、男がたった1人で作り上げたこの自動人形こそは、現代に蘇った新しき聖母であると言えた。男はこの人形を、メアリと名付けることに決めた。
 

「メアリ。わしの可愛いメアリや」
「はい、お父様」
「お前は、わしの大切な娘だ。愛しているよ、メアリ」
 メアリは、おそらく心と呼べるものを持っていた。美しいものを愛で、思い出を記憶することができた。人間のように話し、人間のように笑うことができた。その「心」が作り物に過ぎないことを、男が十分に理解していたとしても。

 男は、今や老いていた。人嫌いにはますます拍車がかかり、身体は年々言うことを聞かなくなっていった。
しかし、男は満足していた。富も名声もいらなかった。「光力」研究の過程で戯れに作った発明品を日銭稼ぎのために嫌々公開したことも、そのことが噂を呼び「ミルキーピークの魔術師」と呼ばれるようになったことも、男にとっては問題ではなかった。忌々しい資本家たちが技術を求めて群がってきても、喧噪を嫌って町外れの一軒家に引っ越しても、男は幸福であった。
 メアリの存在が、男の全てだった。世間から遠ざかっていても、今や男は孤独ではない。男がこの世を去った後も、その墓を守ってくれる娘がいる。
 残り少ない男の人生。メアリさえ側にいれば、男は幸福だった。人生の最高傑作であり、愛する娘であるメアリさえいてくれたなら。2人で心静かに暮らす、この日々が続いてくれたなら。


 他に何も望むものはないはずだった。
 科学者を名乗る1人の若者が、屋敷の扉を叩いた、あの日までは。

20/10/19 16:36更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
次回、最終回(の予定)です。

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