第2話
「夕ご飯、面倒ね……」
あまりの辛さに現実逃避を口に出してみたけれど、時間は速度を緩めることなく流れていく。私の脳内が、一秒が一瞬にも永遠にも思えるような、生温い泥沼の思考に埋もれている。
昼間のあの一件以来、どうも調子が良くない。今日のバイトはいつも以上に疲れた気がする。
私は店のタイムレコーダーを目前に、ぽつねんと立ち尽くしている。
レコーダーに表示された時刻はすでに22時半を回っていた。
私がやるべきことは一つだけ。
だけどそれと向き合いたくなくて、ぎこちなく背後を振り返る。
皿洗いはOK、床の掃除も終わった。
食材の在庫のチェック、音響機材等の片付けも大丈夫。
売り上げの計算も、あとは店長の最終計算を残すのみ。
完ぺきね。
本当に、悲しいくらいに完ぺきだわ。
本来なら良いことなのに、今日ばかりは喜べるはずもなかった。
それに、仕事が残っていないことくらい分かっている。帰りたくなくて、ここで何度目かも分からないくらいに、確認作業を繰り返しているのだから。
私がやるべきことは一つだけ。
それは、この手に持ったタイムカードを押すことのみ。
分かってはいるのだけども、どうしても腕が持ち上がらないのだ。
『閉店後、また来る。話はそこでする』
まただ。
私は顔を横に振って、きゅうと力強く瞼を閉じる。
頭の中で何回も繰り返される、あの鳥のさえずりに身悶えてしまいそう。
まさか本当に、あのサンダーバードが今も待っているとは思いたくない。
だけど可能性というものは存在するだけで、これでもかと精神に訴えかけてくる。
「お疲れさまでしたぁ〜」
すると更衣室のある後ろの通路の方から、複数の甘めの声が重なって響いてくる。
それと同時に、私と同じく帰り支度を整えた他のメイド達がぞろぞろと現れる。
茫然と立ったままの私に、メイド達の訝しい視線が集中する。
「……お疲れさまでしたぁ〜」
「お疲れさま、でした」
互いに業務的な挨拶しか口にしない。
メイド達は、用は済んだとばかりに私の脇をさっさと通りすぎる。
そして、一人、また一人と。
彼女たちが矢継ぎ早にタイムカードを押していく。
目の前のレコーダーは次々と刺されるカードを、流れ作業的に何度も吸い込んでは退勤の二文字を刻みつける。
別に私はメイドたちと仲が悪いわけではないし、いつものことだ。
最初は『メイド兼音響担当』という特殊な立場が原因ではないかと思っていたけれど、どうにも違うらしい。
だけど、今さらそんなことでは悩まない。
関わり方なんてそうそう変えられるものではないし、私ももう深く考える気はない。彼女たちだって、私なんかよりも大切な彼氏や旦那がいるはずだ。いや、これから探すのかもしれない。
どっちにしても、単なる仕事の同僚なんかに力を割くのは惜しいはずよ。
ただ一名を、除いて。
「ナベちゃん?」
やがて連続する打刻音が途切れる頃、その誰かが私の後ろから声をかけてくる。
「あ……お疲れ様でした」
私は声をかけてきた相手に軽く会釈を返す。
そこにいたのは、帰り際のシュロさんだった。
「皆、着替えて帰っちゃったわよ?」
「えぇ。その、お手洗いに……」
「あら、そう」
シュロさんはすでにメイド服を着替え終わっていた。
上半身にはゆったりした白のニットを着込み、腰周りには膝上丈の黒いフレアスカートをふわりと漂わせている。色合いやデザイン自体はとてもシンプルなものだけど、それゆえにシュロさんのスタイルの良さが際立つ。
彼女の足元からはショゴスの特徴である、紫色の不定形な触手がいくつも伸びている。
その中で一番太い二本が、人間の足のように黒いパンプスとネイビーのニーソックスを身に付けている。
人と同じ衣服のはずなのに、それらは違和感を発するどころか、むしろどこかの裕福な家庭の娘さんのような気品に満ちていた。
「はぁ、だから言ったのに」
ファッションを食い入るようにじっと見つめすぎたせいか、シュロさんに心配そうに顔をのぞき込まれる。
「まだ昼のこと、引きづっているの?」
自分の悩みの種が筒抜けなことに、思わず肩が跳ねる。
「そんなに、表に出ていました?」
「出過ぎ。今日はもう大丈夫だから、明日はご主人様達の前でそんな顔しないようにね?」
「……すみませんでした」
柔らかい言い回しながらも、手厳しい叱咤だった。
私は平謝りするものの、それさえもシュロさんの手の平によって止められてしまう。
「いいのいいの。知らない相手にいきなり絡まれたら、そりゃ調子崩すわよ。ただ崩れたのなら無理をしちゃダメよ」
暗い雰囲気にならならないよう、シュロさんは明るい口調でそう言う。
そして、他の子と同じように私の脇を通り越してタイムカードを差し込む。ピピッと音を立てて吐き出されるカードを、シュロさんは慣れた手つきで引っぱり上げる。
「ああいうのはね、いちいち気にしちゃダメ。ストーカーや変質者の場合は迷わず警察を呼ぶ! 例え何かされる前でもね」
「そ、そういうものですかね?」
「当然。誰だって相手を選ぶ権利くらいあるんだから。理不尽過ぎるくらいが丁度いいのよ。それじゃ、お先」
「あ、はい。お疲れさまでした」
シュロさんはそういうと踵をさっと返し、軽い足取りで店の自動ドアの方へと向かっていく。そして扉が開くと、あっという間に私の視界から消えてしまう。
私はただひたすらその様子を眺めていた。
ほぼ毎日シフトに入っているのに、シュロさんの背中はまるで疲れを感じさせない。
おまけに私のような、およそ魔物らしくない子にも躊躇なく関わってくれる。
なんて肉体的にも精神的にも、恐ろしいほどにタフな方なんだろう。
「……帰ろ」
シュロさんを見送った後、私も観念してタイムカードを持ち直す。
しかし順調に稼働していたはずのレコーダーは、私の名前が刻まれたカードを受け付けてくれない。何度差し込んでも、頑なにエラーを繰り返し、吐き戻される。
私は一度カードを確認する。
どうやら端の部分が曲がっているようだった。私は折り目を整えて、再度カードを差し込む。
だがそれでもなお、レコーダーは私を拒否し続ける。
何度も吐き戻されるカードを差し直すたびに、苛立ちが一つ一つ積み上がっていく。
「なんでよ……何もおかしくないじゃない」
結局九回目の差し込みでようやく、よれたカードに退勤時間が刻まれたのだった。
―――――
「お先に失礼します、お疲れ様でした」
計算をしながら手を振る店長に挨拶をして、私は店の出入り口である自動ドアから、外へと踏み出す。
途端に、出勤時よりもぐんと冷たさを増した空気がぶつかってくる。
風が衣服の隙間へと滑り込むたびに、秋とは名ばかりの寒々しさが身に染みるようだった。
私は空気が侵入するのを拒むため、ぐっと脇に力を込める。
キキーモラは腕と頭部以外の毛が少なく、保温能力は存外と低い。
「こっちは……やばそうね」
店の扉のすぐ目の前に大きめのエレベーターと屋内階段がある。
けれど今日だけは使わないほうがいい。
それらは普段から、ブルーバードのご主人様達やメイド喫茶の魔物娘が使う。言わば店へのメイン経路だ。当然さっきの、あのサンダーバードと鉢合わせる可能性だって高い。
私は不格好に上半身を強ばらせたまま、エレベーターの前を通過する。続けて屋内階段もスルーして、そのままビルの端まで歩いていく。
通路の奥には、避難誘導灯がぼんやりと浮かんでいる。
緑色の光に近づくと、その明かりの下に細い通路が見える。
夜の暗闇に紛れていて、遠くからだとその存在が分かりづらい。
私は気持ち早歩きでそこへ入り込む。
廊下は怪しげな緑に染まっていて、非常に居心地がよくない。私は呼吸を止めるようにして渡り切る。
やがてたどり着いたのは、ビルとビルに挟まれた裏路地の真上。
ひゅうひゅうと冷気が通り抜ける暗い踊り場からは、今にも何かが現れそうだ。そびえ立つビル壁のせいで、月明かりもろくに差し込まない。
踊り場の側には螺旋状に渦巻く金属の非常階段が、下へと伸びている。
階段に鍵はかかってないけども、平時の通行は基本的に禁止されているから、当然階段の周りには誰もいない。
(でも今はある意味非常時だし、問題ないわよね……)
私は少し息を飲む。
周囲を警戒しながら、階段の手すりに右手をかける。
ところどころに赤い錆びがついた手すりの隙間から、おそるおそる顔を突き出す。
しかし昼ならまだしも、今はほぼ真夜中。
そして、ここはビルの6階。
一番下の階も隅までは、流石に見通せるはずもない。
「……行くしかない、か」
私は深くため息を漏らす。
こんな夜遅くにこんな古びた階段を下りるのは不安ではある。けどここ以外に、もはやこのビルから出る道は残されてない。
コツ、コツ―――
私は足音を立てないように足先に力を込めて下っていく。
鳥の鱗に覆われた私の足が、薄汚れた灰色の階段をリズムよく叩く。
キキーモラである私の足先は、まるでブーツのような形状をしている。
こう見えて、実は素足だ。少しくらいの足音はもう仕方がない。
コツ、コツ。
コツ―――
階段を降りる途中でも、何度か立ち止まって四方八方を見渡してみる。
見たところで意味がないことくらい分かっているけども。
もしも彼女がいたら、すぐに走り出す準備をしておかないと。
やがて最後の一段を降りきる。
私はしつこいくらいに警戒をするも、やはり誰かがいる様子はない。
当然怪しいサンダーバードなんてのも見当たらない。
(やっぱり、エレベーター側の正面口にいるかしら?)
一瞬だけ覗いてみようとも思ったけど、とっとと退散した方がいいと考え直す。私は急いでその場を離れようと、歩みを進めていく。
まだ、油断はできない。
この遅い時間では、通りにある店のほとんどは既に閉店を終えている。
明かりらしい明かりはコンビニのライトと外灯くらいのものだ。もしかしたら私の裏をかこうと、ビルから離れた暗い小道にでも潜んでいるかもしれない。
次の瞬間、突然サンダーバードが飛び出てくるなんてのもゼロじゃない。
私の呼吸のテンポが、歩みと共に上昇していく。
ビルの影から抜け出すと、丁度昇り始めたばかりの下弦の月の光が顔を見せる。
私は逸る足を転ばないように精一杯、抑えながら歩き続ける。ほのかな月光に照らされる分、姿をみられるのではという焦りも芽生えてくる。
このままブルーバードのあるビルを道なりに歩いていけば、駅近くの大通りへと抜ける。
流石に23時近くになると人気も少ないけど、そこまでいけば多少は安心できると思う。
それに駅周辺なら24時間常駐の交番がある。あの派手な容姿に追いかけられたら、嫌でも目立つはず。
自分の呼吸が荒くなっていくのを、どこか他人事のようにも感じる。
とにかく、人の目の多い所へ。
「そんなに警戒すんなよ、逆にアンタが怪しまれるぜ」
「……っ!」
その声は、予想外に近くから飛んできた。
私は慌てて首を左右に振りながら見回す。
しかしいくら目をこらしても、それらしき姿はない。
「上だよ、上」
ふと見上げてみると、街灯の上に何かの影が見える。
ライトの光が強くて見辛いけど、大きな鳥のシルエットが止まっているのは分かる。
大鳥はその両腕の翼を器用に折り畳んで、丸い外灯の上で器用にバランスをとっている。
不思議なことにそのナイルグリーンの羽は、暗闇でもその色を失わない。
間違いない。
昼間にやってきた、あのハリネズミ頭のサンダーバードだった。
私は自前の鱗ブーツに意識を向ける。
「そう警戒するなよ。別に怪しい者じゃない、といったところで信用はされるわけはねぇか……よいしょっと」
そういうと、サンダーバードは街灯の上で立ち上がる。
そして、何を思ったのか。
彼女はその直立姿勢のまま、前のめりに倒れてきた。
軽く見ても6、7メートルはありそうな高さ。
なのに、しかもやけにあっさりと。
「ちょ……何して」
彼女の身体がどんどん傾いていく。
45度、90度、120度。
150度。
そして、180度。
今のサンダーバードは完全に逆さまの状態。
そのまま、崩れ落ちるように。
彼女の身体が地面に落ちていく。
突然の行動に、私は一歩もう動けなかった。
彼女の飛び降りがあまりにも自然で、かつ淡白過ぎたせいだ。
(嘘でしょ……!)
私が目を反らそうとしたした瞬間。
落下するサンダーバードの身体が空中で膝を抱えて丸くなる。
そのまま、まるで水泳競技の飛び込みのように、流麗な動きでくるりと一回転をする。
直後にその強靭な両翼を広げ、地面を叩くように力強く扇ぐ。
あっという間にサンダーバードの身体が減速すると、コンクリの地面へと、そのまま鮮やかに着地を決めた。
頭をあげたサンダーバードの表情は、まさにしてやったりといった感じだった。
「どうよ? 今のちょっと、カッコよくなかったか?」
「……知りませんよ」
慌ててしまったのが恥ずかしくて、私はぶっきらぼうにそう答える。
まんまと驚かされてしまった。
よく考えれば鳥系の魔物なのだ。多少のアクロバティックな動きも出来てもおかしくはない。
そもそも、私が心配する義理がないでしょうに。
「つれねえ反応だなぁ。せっかく一発芸を見せたのによ」
今のを一発芸と称されると納得がいかないのだけれど、敢えて何も言わなかった。
サンダーバードは眉をひそめる私にかまうこともなく、言葉を続ける。
「それにしても、本当に待ちくたびれたぜ。随分と遅くまで働くんだな」
「……だったら無理せずに帰ればいいじゃない」
「アタシは一途なんでね。一度目をつけたら逃がさねぇのさ」
異様に陽気な声で話すサンダーバードに、私は静かに射抜くような視線を投げかける。
困ったわ。
さっきの飛び下りを見ていたせいで、完全に逃げ出すタイミングを見失ってしまった。
「まぁ、とりあえずはお勤めお疲れさん」
「どうも。それで、何の用です?」
私は出来るだけ低く唸るような声で、サンダーバードに言い放つ。
もう今日の営業は終了したのだ。
『甘ったるい声で可愛い子ぶるメイドのナベちゃん』を演じる必要などない。
「おお、怖い怖い。昼間と全然性格違うのな」
口ではそういうものの、顔に怖じ気付いている様子は微塵も感じれない。むしろ挑発的なその態度は、一体何を誘っているのかが分からなくて不気味なくらい。
サンダーバードがおもむろに踏み出してくる。
私は少し考えて、ちらりと横目で足元を見る。
誰かが置き忘れたのか。
自動販売機の脇にビニール傘が引っかけられている。
(こんなのでも、無いよりはマシかしら……)
私はそれを素早く拾い上げ、さっと両手で握りしめる。
そして、傘の先端の部分をサンダーバードの眉間へと向ける。
「それ以上近づいたら、容赦しないわよ」
私は精一杯のドスを込めて、そう言い放つ。
正直、効果があるとは思えない。
本当は暴力だって好まない。
それでも警戒態勢を解けるほど、私の心に余裕はなかった。
「夜中になると騒音を出しながら大暴れをする、っていうアレか? でもアンタ、戦うメイドなんてガラじゃねぇだろ?」
しかしそんなハリボテの警戒心なんてお見通しらしかった。
案の定、サンダーボードはまるで物怖じする様子を見せずに軽口を飛ばしてくる。
「……意外ね。キキーモラに詳しいのかしら?」
「あの後、少し調べたんでね。昔は鳥の翼と脚をもっていたらしいな。つまり、アタシらは元は同族ってことだ。仲良くしようぜ」
「あなたみたいな自由奔放を魔物にしたタイプなんかと仲良くしたくないわ。『働き者には幸福を、怠け者に死を』って言葉、調べたのなら知っているでしょ?」
「アタシも無礼者だけど、アンタも相当だな。一応アタシはこれでも働いているんだぜ。働き者とは言えねぇけどな」
私は傘を下ろさずに沈黙する。
負けじと舌戦に切り替えたものの、それでもやはりサンダーバードは態度を崩さない。
しかし、ここで簡単に折れるわけにもいかない。
どうにかして、隙を作って逃げ出さないと。
数秒の間、警戒しながら固まっていると、サンダーバードが快活に声をかけてくる。
「まぁ安心しな。アンタや店の連中に危害を加えたりしない。少しだけ、アンタに話を聞いてもらえばそれでいい。そしたらアタシは退散するよ」
サンダーバードはそのまま両翼の力を抜いて、だらんと腰の辺りでぶらつかせる。
攻撃の意志はないとでも言っているつもりだろうか?
「アタシの名前、榎本悠希っていうんだ。隣町のバーで働いている。アンタは?」
「……」
「おいおい、名前くらい教えてくれたっていいじゃねぇか。流石のアタシだって名乗り損は嫌だぜ?」
「……渡辺、葵(あおい)」
しぶしぶ、私は名前を告げる。
本当は名乗りたくなかったけど、仕事場までバレているなら名前を隠しても、いずれバレるだろう。
「渡辺……ああ、なるほど。だからナベちゃんっていうのか」
「そんなことどうでもいいわよ。あなた、私の最初の質問に答えてないわ。ねぇ、何の用なの?」
イライラを少しも隠すことなく、私は悠希と名乗る魔物へと傘を突きつける。
そろそろ傘を握る手も、我慢の限界だった。
すると悠希は、やれやれと言わんばかりに両翼をひらつかせる。
「分かったよ。理由を言う。アタシはアンタを勧誘に来たんだ」
やっぱり。
勧誘という言葉から後の繋がりをいくつか予想する。
「宗教? 薬? いずれにしたってお断りよ」
「ちげーよ早とちりすんな。実は、うちのバーで雇う人材を探してんだ」
「人材?」
「そうだ。うちはちょっと変わった店でな。働く奴もそれに見合うのを探してたのさ。けど、これがなかなか見つからなくてね」
「それで、わざわざうちに?」
それを聞いて、私はますます分からなくなった。
バーの職員を集めるために、わざわざメイド喫茶に?
「いや、本当は一休みのつもりでね。気まぐれにあのメイド喫茶に立ち寄ったんだけどな。でもアンタに興味が湧いた」
「なんで、わざわざ私に……?」
「魔物で音楽関連の仕事しているのってそう多くなくてさ。うちは演奏もするから、そういう知識のある奴がいると助かるんだ。だから色々聞いてみて、あわよくば、人材候補にと思ってよ」
今の私はきっと、ポカンとした表情をしているのだろう。
「……本当に、それだけ?」
「ああ、それだけだ」
肩がガクンと落ちそうになるのを、何とかこらえる。
なんか、思った以上にしようもない話だった。
確かに勝手にキナ臭い方向に勘違いしていたのは私の落ち度だけど。
思わず、その場にへたりこみそうだった。
「あぁ、楽器は別にできなくてもいいぜ。たぶん、きっと大丈夫だろうしな」
「何を根拠にそんな自信を……」
まるで見当違いの、意味不明なフォローを入れてくる悠希に対しては、もはや溜め息しか出てこない。
「そういう話なら、別にあんな言い方しなくても……」
「悪いね、メイド喫茶の勝手が分からなくてよ。あそこで立ち話をしたら迷惑かと思ってさ。あ、ちなみに楽器は何かやったことあるか?」
「……電子ピアノなら、少しだけ」
「おっいいね! 丁度いなかったんだよ」
気力が完全に抜けてぼやくような私の一言に、悠希は完全に舞い上がっていた。
確かにピアノは今でもたまに弾いているが、あくまで仕事の範疇だ。
作曲や音響だって、店長直々に依頼されたから断れなかっただけだ。
本来ならちゃんとした作曲家に依頼をするのだが、そこにかけるお金がなくてであって。
つまるところ、私はそこまで音楽に興味があるわけじゃない。
「なぁ、もし良かったらよ……一度でいいから、うちの店に来てくれねぇか? 魔物の手が足りなくて困ってんだ」
「お断りします。私は今の職場を変える気はありません」
私は即答する。
考えるまでもなかった。
「えーなんでさぁ?」
悠希はくちばしのように口を尖らせてわざとらしく不満を漏らす。
この人、面倒くさいなぁ。
「理由って……私には面倒を見てくれる先輩や、ひいきにしてくれるご主人様がいます。やるべき仕事があります。今更どこかに行くつもりもないわ」
彼女の言う通り、私は断る理由をわざわざ丁寧に並べ立てる。
勧誘自体は本当だとしても、どうしてあの場では誤魔化すような言い方をしたのか。
別にやましいことをしているわけではないのだし、閉店まで待つ必要はないだろう。
それに本当に本気なら、店側にも相談を持ち込むべきだ。
音響や作曲の担当を、何も言わずに急に引き抜いたら迷惑でしかないの、分かっているのかしら?
大体あなたみたいな、今日あったばかりの魔物について行くわけがないじゃない。
他にも言いたいことは沢山あるけれど、多すぎて私の舌が追い付かなかった。
「……ひいきにしてくれているご主人様、ねえ。随分とおかしなことを言うんだな」
突然、何故かため息混じりに、悠希はそう呟く。
「何が、不満なの?」
さっきの彼女の言い回しのせいか、自分でも分かるくらいに不満気な言い方になっていた。
「なるべく明るいキャラでいこうと思ったけど、想像以上に重症だなこりゃ」
私の問いをそっちのけで語る悠希の目は、明らかにさっきまでと異なっていた。お茶らけた雰囲気などまるでなかったかのように消え去り、じっと獲物を狙う猛獣のように動かない。
その視線は細く鋭く、瞳には不純物が混じったみたいな濁りを見せる。
(なに、急に態度が……)
悠希の周りの空気が突然、変貌する。
その重圧に、私は気圧されてしまう。
「な、なによ……? 私、何もおかしなこと言ってないわよ?」
「確かにそうだ。アンタは真っ当なことを言っている。アンタが"本当に"メイド喫茶で働きたくて働いてんなら、これ以上何も言えないさ」
「だ、だったら何も問題ないじゃない……なんなのよ?」
狼狽する私に向かって、悠希は一歩前に踏みより、告げる。
「だがよ……ルール違反は、良くねぇな」
「ルー、ル?」
短く、それでいて強く悠希は言い切る。
その勢いに完全に押し負けて、つい言葉尻が濁ってしまう。
「ひいきにしてくれるご主人様? 世話になっている先輩? 本当にそう思ってんのか?」
「何が、言いたいのよ?」
「今アンタがいった理由さ。ご主人様にひいきにされているっていったよな? キキーモラってのは献身の姿勢がウリだからな」
悠希の視線に耐えかねて、私は一歩後退する。
彼女のその瞳には、叱責の感情が色濃く混じっている。
いえ瞳だけじゃない。その声や呼吸さえも、私を責める圧力となっている。
「だから何よ……あなたには関係ないじゃない」
「いいから聞けよ。本来、献身ってのは自身の利益を顧みずにするもんだ。だけどアンタがここで仕事をするのは、そのご主人様とやらに『ひいき』にされているからだ。金をもらっているからだ。それがまず前提の報酬として働いている。それはただの仕事であって、献身じゃない」
「……っ」
詰まりそうなくらいの、息苦しさが私を襲う。
猛禽類の爪に、直接心臓を掴まれたかのようだ。
冷たい空気の中なのに、頬につうっと汗が垂れてくる。
「これはおかしい話だぜ。普通の魔物ならまだいい。だが"キキーモラ"のアンタは、それじゃあダメだ。『図鑑』にあるべき立ち振る舞いでないと、献身的で、無償の奉仕であるべきだろ?」
「な、何を言って……」
「まぁそれを言い出したら、あの店自体がグレーゾーンだけどな。だがアンタはさっき自分で『働き者は幸福を、怠け者に死を』と言ったんだ。まるでアタシみたいに、どこかの本の文章をそのまま読んだみたいにな」
悠希の見透かしたような発言が次々と私を襲う。
彼女の言葉を聞いているだけで、脳がシェイクされそうだ。
私の手が傘を降り下ろそうと、構えた傘の先を震わせる。
私の足がこの場から逃げ出そうと、半歩後ろに下がる。
それぞれが別の行動をとろうとして、その場から動けない。
「なのに働いている時のアンタときたらよ、ちっとも幸せそうには見えなかった」
「もういい、もう黙って」
「音響やっている時は最低だった。口に出さねえだけでつまんなさそうにしてさ。どうみてもご主人様のために働く魔物には見えなかったぜ」
「黙ってってば!」
思わず怒声を張り上げて必死で拒むものの、悠希の容赦ない言葉の攻撃は続く。
止めることも逃げることも出来ず、私はその場で足をもたつかせる。
「アンタをうちに誘ったのはな。ただ、おせっかいを焼きたかっただけなんだ。魔物として歪すぎるアンタを……なぁ」
不思議と私は、その次の言葉を直感で理解した。
だけど、やめてほしい。もう聞きたくない。
それを言わないで。
「アンタ、"本当に"キキーモラか?」
バキィ―――!
正気をとり戻したのは、その衝突音が自分の獣耳に届いてからだった。
私は返事の代わりに、悠希に向かって傘を振り下ろしていた。
コンクリートに激しく叩き付けられた傘は、骨という骨があらぬ方向にひん曲がってしまっている。
しかし、それは悠希に当たることはなかった。
「あぶねぇな。マジで殴りかかってきやがった」
またしても、声は頭上から聞こえてくる。
今度は街灯も何もない、完全な空中からだった。
傘が当たる瞬間、悠希はその場で飛び上がっていたようだ。
「……もう、帰って」
私はそう吐き捨てるのが精いっぱいだった。
自分の愚かさに顔を上げられなかった。
口喧嘩に負けて、暴力に奔るなんて。
魔物として、いや。奉仕をする者として最低だ。
「いや悪い……アタシもつい言いすぎた。初対面の奴に言うことじゃなかったな。ただ鬱憤が溜まっている奴の顔を見ると、我慢がならん性格でね」
悠希はバツが悪そうにそう告げると、両腕を一段と大きく持ち上がる。
鞭をしならせるみたいに、その両翼が勢いよく羽ばたく。すると悠希の小柄な胴体が、さらに上空へと浮き上がる。
「あ、言っとくがさっきのバーで雇いたいってやつ。アレはマジだからな! ちゃんと考えとけよ?」
「あっ、ちょっと!」
「じゃあな、葵!」
そう言い残して、悠希は藍色の空の中へと飛び去っていった。
ナイルグリーンの翼は暗闇に混ざり込み、あっという間に見えなくなってしまう。
「なんなのよ。一体……」
呆然と立ちつくすのはもう何度目かしら。
私の辺りに残ったのは、冷や汗の伝う頬とそれを照らす弱々しい月光、そして近くを通る自動車達の僅かな喧噪のみだった。
だけど、私の獣耳にはそれらの音が入り込む隙などまるで無かった。
「私は、ちゃんと働いているわ。何も間違ってなんか……」
自分に無理矢理言い聞かせるように、私は一人そう呟く。
だけど誰でもない私自身が、自分の口から出ている言葉に納得ができなかった。
私は手に握るひしゃげた傘を、言い様のない敗北感ごと、乱暴に近くのゴミ箱に放り込む。そして現実から目を背けるように夜空をやおら仰ぐ。
星なんて数えるほどしかないのに、いつまでもそうやって見上げていた。
下弦の月のみがやたらと強く、東の空にポツンと光る。
ああ、そういえば。
「本名、久しぶりに呼ばれたわね」
あまりの辛さに現実逃避を口に出してみたけれど、時間は速度を緩めることなく流れていく。私の脳内が、一秒が一瞬にも永遠にも思えるような、生温い泥沼の思考に埋もれている。
昼間のあの一件以来、どうも調子が良くない。今日のバイトはいつも以上に疲れた気がする。
私は店のタイムレコーダーを目前に、ぽつねんと立ち尽くしている。
レコーダーに表示された時刻はすでに22時半を回っていた。
私がやるべきことは一つだけ。
だけどそれと向き合いたくなくて、ぎこちなく背後を振り返る。
皿洗いはOK、床の掃除も終わった。
食材の在庫のチェック、音響機材等の片付けも大丈夫。
売り上げの計算も、あとは店長の最終計算を残すのみ。
完ぺきね。
本当に、悲しいくらいに完ぺきだわ。
本来なら良いことなのに、今日ばかりは喜べるはずもなかった。
それに、仕事が残っていないことくらい分かっている。帰りたくなくて、ここで何度目かも分からないくらいに、確認作業を繰り返しているのだから。
私がやるべきことは一つだけ。
それは、この手に持ったタイムカードを押すことのみ。
分かってはいるのだけども、どうしても腕が持ち上がらないのだ。
『閉店後、また来る。話はそこでする』
まただ。
私は顔を横に振って、きゅうと力強く瞼を閉じる。
頭の中で何回も繰り返される、あの鳥のさえずりに身悶えてしまいそう。
まさか本当に、あのサンダーバードが今も待っているとは思いたくない。
だけど可能性というものは存在するだけで、これでもかと精神に訴えかけてくる。
「お疲れさまでしたぁ〜」
すると更衣室のある後ろの通路の方から、複数の甘めの声が重なって響いてくる。
それと同時に、私と同じく帰り支度を整えた他のメイド達がぞろぞろと現れる。
茫然と立ったままの私に、メイド達の訝しい視線が集中する。
「……お疲れさまでしたぁ〜」
「お疲れさま、でした」
互いに業務的な挨拶しか口にしない。
メイド達は、用は済んだとばかりに私の脇をさっさと通りすぎる。
そして、一人、また一人と。
彼女たちが矢継ぎ早にタイムカードを押していく。
目の前のレコーダーは次々と刺されるカードを、流れ作業的に何度も吸い込んでは退勤の二文字を刻みつける。
別に私はメイドたちと仲が悪いわけではないし、いつものことだ。
最初は『メイド兼音響担当』という特殊な立場が原因ではないかと思っていたけれど、どうにも違うらしい。
だけど、今さらそんなことでは悩まない。
関わり方なんてそうそう変えられるものではないし、私ももう深く考える気はない。彼女たちだって、私なんかよりも大切な彼氏や旦那がいるはずだ。いや、これから探すのかもしれない。
どっちにしても、単なる仕事の同僚なんかに力を割くのは惜しいはずよ。
ただ一名を、除いて。
「ナベちゃん?」
やがて連続する打刻音が途切れる頃、その誰かが私の後ろから声をかけてくる。
「あ……お疲れ様でした」
私は声をかけてきた相手に軽く会釈を返す。
そこにいたのは、帰り際のシュロさんだった。
「皆、着替えて帰っちゃったわよ?」
「えぇ。その、お手洗いに……」
「あら、そう」
シュロさんはすでにメイド服を着替え終わっていた。
上半身にはゆったりした白のニットを着込み、腰周りには膝上丈の黒いフレアスカートをふわりと漂わせている。色合いやデザイン自体はとてもシンプルなものだけど、それゆえにシュロさんのスタイルの良さが際立つ。
彼女の足元からはショゴスの特徴である、紫色の不定形な触手がいくつも伸びている。
その中で一番太い二本が、人間の足のように黒いパンプスとネイビーのニーソックスを身に付けている。
人と同じ衣服のはずなのに、それらは違和感を発するどころか、むしろどこかの裕福な家庭の娘さんのような気品に満ちていた。
「はぁ、だから言ったのに」
ファッションを食い入るようにじっと見つめすぎたせいか、シュロさんに心配そうに顔をのぞき込まれる。
「まだ昼のこと、引きづっているの?」
自分の悩みの種が筒抜けなことに、思わず肩が跳ねる。
「そんなに、表に出ていました?」
「出過ぎ。今日はもう大丈夫だから、明日はご主人様達の前でそんな顔しないようにね?」
「……すみませんでした」
柔らかい言い回しながらも、手厳しい叱咤だった。
私は平謝りするものの、それさえもシュロさんの手の平によって止められてしまう。
「いいのいいの。知らない相手にいきなり絡まれたら、そりゃ調子崩すわよ。ただ崩れたのなら無理をしちゃダメよ」
暗い雰囲気にならならないよう、シュロさんは明るい口調でそう言う。
そして、他の子と同じように私の脇を通り越してタイムカードを差し込む。ピピッと音を立てて吐き出されるカードを、シュロさんは慣れた手つきで引っぱり上げる。
「ああいうのはね、いちいち気にしちゃダメ。ストーカーや変質者の場合は迷わず警察を呼ぶ! 例え何かされる前でもね」
「そ、そういうものですかね?」
「当然。誰だって相手を選ぶ権利くらいあるんだから。理不尽過ぎるくらいが丁度いいのよ。それじゃ、お先」
「あ、はい。お疲れさまでした」
シュロさんはそういうと踵をさっと返し、軽い足取りで店の自動ドアの方へと向かっていく。そして扉が開くと、あっという間に私の視界から消えてしまう。
私はただひたすらその様子を眺めていた。
ほぼ毎日シフトに入っているのに、シュロさんの背中はまるで疲れを感じさせない。
おまけに私のような、およそ魔物らしくない子にも躊躇なく関わってくれる。
なんて肉体的にも精神的にも、恐ろしいほどにタフな方なんだろう。
「……帰ろ」
シュロさんを見送った後、私も観念してタイムカードを持ち直す。
しかし順調に稼働していたはずのレコーダーは、私の名前が刻まれたカードを受け付けてくれない。何度差し込んでも、頑なにエラーを繰り返し、吐き戻される。
私は一度カードを確認する。
どうやら端の部分が曲がっているようだった。私は折り目を整えて、再度カードを差し込む。
だがそれでもなお、レコーダーは私を拒否し続ける。
何度も吐き戻されるカードを差し直すたびに、苛立ちが一つ一つ積み上がっていく。
「なんでよ……何もおかしくないじゃない」
結局九回目の差し込みでようやく、よれたカードに退勤時間が刻まれたのだった。
―――――
「お先に失礼します、お疲れ様でした」
計算をしながら手を振る店長に挨拶をして、私は店の出入り口である自動ドアから、外へと踏み出す。
途端に、出勤時よりもぐんと冷たさを増した空気がぶつかってくる。
風が衣服の隙間へと滑り込むたびに、秋とは名ばかりの寒々しさが身に染みるようだった。
私は空気が侵入するのを拒むため、ぐっと脇に力を込める。
キキーモラは腕と頭部以外の毛が少なく、保温能力は存外と低い。
「こっちは……やばそうね」
店の扉のすぐ目の前に大きめのエレベーターと屋内階段がある。
けれど今日だけは使わないほうがいい。
それらは普段から、ブルーバードのご主人様達やメイド喫茶の魔物娘が使う。言わば店へのメイン経路だ。当然さっきの、あのサンダーバードと鉢合わせる可能性だって高い。
私は不格好に上半身を強ばらせたまま、エレベーターの前を通過する。続けて屋内階段もスルーして、そのままビルの端まで歩いていく。
通路の奥には、避難誘導灯がぼんやりと浮かんでいる。
緑色の光に近づくと、その明かりの下に細い通路が見える。
夜の暗闇に紛れていて、遠くからだとその存在が分かりづらい。
私は気持ち早歩きでそこへ入り込む。
廊下は怪しげな緑に染まっていて、非常に居心地がよくない。私は呼吸を止めるようにして渡り切る。
やがてたどり着いたのは、ビルとビルに挟まれた裏路地の真上。
ひゅうひゅうと冷気が通り抜ける暗い踊り場からは、今にも何かが現れそうだ。そびえ立つビル壁のせいで、月明かりもろくに差し込まない。
踊り場の側には螺旋状に渦巻く金属の非常階段が、下へと伸びている。
階段に鍵はかかってないけども、平時の通行は基本的に禁止されているから、当然階段の周りには誰もいない。
(でも今はある意味非常時だし、問題ないわよね……)
私は少し息を飲む。
周囲を警戒しながら、階段の手すりに右手をかける。
ところどころに赤い錆びがついた手すりの隙間から、おそるおそる顔を突き出す。
しかし昼ならまだしも、今はほぼ真夜中。
そして、ここはビルの6階。
一番下の階も隅までは、流石に見通せるはずもない。
「……行くしかない、か」
私は深くため息を漏らす。
こんな夜遅くにこんな古びた階段を下りるのは不安ではある。けどここ以外に、もはやこのビルから出る道は残されてない。
コツ、コツ―――
私は足音を立てないように足先に力を込めて下っていく。
鳥の鱗に覆われた私の足が、薄汚れた灰色の階段をリズムよく叩く。
キキーモラである私の足先は、まるでブーツのような形状をしている。
こう見えて、実は素足だ。少しくらいの足音はもう仕方がない。
コツ、コツ。
コツ―――
階段を降りる途中でも、何度か立ち止まって四方八方を見渡してみる。
見たところで意味がないことくらい分かっているけども。
もしも彼女がいたら、すぐに走り出す準備をしておかないと。
やがて最後の一段を降りきる。
私はしつこいくらいに警戒をするも、やはり誰かがいる様子はない。
当然怪しいサンダーバードなんてのも見当たらない。
(やっぱり、エレベーター側の正面口にいるかしら?)
一瞬だけ覗いてみようとも思ったけど、とっとと退散した方がいいと考え直す。私は急いでその場を離れようと、歩みを進めていく。
まだ、油断はできない。
この遅い時間では、通りにある店のほとんどは既に閉店を終えている。
明かりらしい明かりはコンビニのライトと外灯くらいのものだ。もしかしたら私の裏をかこうと、ビルから離れた暗い小道にでも潜んでいるかもしれない。
次の瞬間、突然サンダーバードが飛び出てくるなんてのもゼロじゃない。
私の呼吸のテンポが、歩みと共に上昇していく。
ビルの影から抜け出すと、丁度昇り始めたばかりの下弦の月の光が顔を見せる。
私は逸る足を転ばないように精一杯、抑えながら歩き続ける。ほのかな月光に照らされる分、姿をみられるのではという焦りも芽生えてくる。
このままブルーバードのあるビルを道なりに歩いていけば、駅近くの大通りへと抜ける。
流石に23時近くになると人気も少ないけど、そこまでいけば多少は安心できると思う。
それに駅周辺なら24時間常駐の交番がある。あの派手な容姿に追いかけられたら、嫌でも目立つはず。
自分の呼吸が荒くなっていくのを、どこか他人事のようにも感じる。
とにかく、人の目の多い所へ。
「そんなに警戒すんなよ、逆にアンタが怪しまれるぜ」
「……っ!」
その声は、予想外に近くから飛んできた。
私は慌てて首を左右に振りながら見回す。
しかしいくら目をこらしても、それらしき姿はない。
「上だよ、上」
ふと見上げてみると、街灯の上に何かの影が見える。
ライトの光が強くて見辛いけど、大きな鳥のシルエットが止まっているのは分かる。
大鳥はその両腕の翼を器用に折り畳んで、丸い外灯の上で器用にバランスをとっている。
不思議なことにそのナイルグリーンの羽は、暗闇でもその色を失わない。
間違いない。
昼間にやってきた、あのハリネズミ頭のサンダーバードだった。
私は自前の鱗ブーツに意識を向ける。
「そう警戒するなよ。別に怪しい者じゃない、といったところで信用はされるわけはねぇか……よいしょっと」
そういうと、サンダーバードは街灯の上で立ち上がる。
そして、何を思ったのか。
彼女はその直立姿勢のまま、前のめりに倒れてきた。
軽く見ても6、7メートルはありそうな高さ。
なのに、しかもやけにあっさりと。
「ちょ……何して」
彼女の身体がどんどん傾いていく。
45度、90度、120度。
150度。
そして、180度。
今のサンダーバードは完全に逆さまの状態。
そのまま、崩れ落ちるように。
彼女の身体が地面に落ちていく。
突然の行動に、私は一歩もう動けなかった。
彼女の飛び降りがあまりにも自然で、かつ淡白過ぎたせいだ。
(嘘でしょ……!)
私が目を反らそうとしたした瞬間。
落下するサンダーバードの身体が空中で膝を抱えて丸くなる。
そのまま、まるで水泳競技の飛び込みのように、流麗な動きでくるりと一回転をする。
直後にその強靭な両翼を広げ、地面を叩くように力強く扇ぐ。
あっという間にサンダーバードの身体が減速すると、コンクリの地面へと、そのまま鮮やかに着地を決めた。
頭をあげたサンダーバードの表情は、まさにしてやったりといった感じだった。
「どうよ? 今のちょっと、カッコよくなかったか?」
「……知りませんよ」
慌ててしまったのが恥ずかしくて、私はぶっきらぼうにそう答える。
まんまと驚かされてしまった。
よく考えれば鳥系の魔物なのだ。多少のアクロバティックな動きも出来てもおかしくはない。
そもそも、私が心配する義理がないでしょうに。
「つれねえ反応だなぁ。せっかく一発芸を見せたのによ」
今のを一発芸と称されると納得がいかないのだけれど、敢えて何も言わなかった。
サンダーバードは眉をひそめる私にかまうこともなく、言葉を続ける。
「それにしても、本当に待ちくたびれたぜ。随分と遅くまで働くんだな」
「……だったら無理せずに帰ればいいじゃない」
「アタシは一途なんでね。一度目をつけたら逃がさねぇのさ」
異様に陽気な声で話すサンダーバードに、私は静かに射抜くような視線を投げかける。
困ったわ。
さっきの飛び下りを見ていたせいで、完全に逃げ出すタイミングを見失ってしまった。
「まぁ、とりあえずはお勤めお疲れさん」
「どうも。それで、何の用です?」
私は出来るだけ低く唸るような声で、サンダーバードに言い放つ。
もう今日の営業は終了したのだ。
『甘ったるい声で可愛い子ぶるメイドのナベちゃん』を演じる必要などない。
「おお、怖い怖い。昼間と全然性格違うのな」
口ではそういうものの、顔に怖じ気付いている様子は微塵も感じれない。むしろ挑発的なその態度は、一体何を誘っているのかが分からなくて不気味なくらい。
サンダーバードがおもむろに踏み出してくる。
私は少し考えて、ちらりと横目で足元を見る。
誰かが置き忘れたのか。
自動販売機の脇にビニール傘が引っかけられている。
(こんなのでも、無いよりはマシかしら……)
私はそれを素早く拾い上げ、さっと両手で握りしめる。
そして、傘の先端の部分をサンダーバードの眉間へと向ける。
「それ以上近づいたら、容赦しないわよ」
私は精一杯のドスを込めて、そう言い放つ。
正直、効果があるとは思えない。
本当は暴力だって好まない。
それでも警戒態勢を解けるほど、私の心に余裕はなかった。
「夜中になると騒音を出しながら大暴れをする、っていうアレか? でもアンタ、戦うメイドなんてガラじゃねぇだろ?」
しかしそんなハリボテの警戒心なんてお見通しらしかった。
案の定、サンダーボードはまるで物怖じする様子を見せずに軽口を飛ばしてくる。
「……意外ね。キキーモラに詳しいのかしら?」
「あの後、少し調べたんでね。昔は鳥の翼と脚をもっていたらしいな。つまり、アタシらは元は同族ってことだ。仲良くしようぜ」
「あなたみたいな自由奔放を魔物にしたタイプなんかと仲良くしたくないわ。『働き者には幸福を、怠け者に死を』って言葉、調べたのなら知っているでしょ?」
「アタシも無礼者だけど、アンタも相当だな。一応アタシはこれでも働いているんだぜ。働き者とは言えねぇけどな」
私は傘を下ろさずに沈黙する。
負けじと舌戦に切り替えたものの、それでもやはりサンダーバードは態度を崩さない。
しかし、ここで簡単に折れるわけにもいかない。
どうにかして、隙を作って逃げ出さないと。
数秒の間、警戒しながら固まっていると、サンダーバードが快活に声をかけてくる。
「まぁ安心しな。アンタや店の連中に危害を加えたりしない。少しだけ、アンタに話を聞いてもらえばそれでいい。そしたらアタシは退散するよ」
サンダーバードはそのまま両翼の力を抜いて、だらんと腰の辺りでぶらつかせる。
攻撃の意志はないとでも言っているつもりだろうか?
「アタシの名前、榎本悠希っていうんだ。隣町のバーで働いている。アンタは?」
「……」
「おいおい、名前くらい教えてくれたっていいじゃねぇか。流石のアタシだって名乗り損は嫌だぜ?」
「……渡辺、葵(あおい)」
しぶしぶ、私は名前を告げる。
本当は名乗りたくなかったけど、仕事場までバレているなら名前を隠しても、いずれバレるだろう。
「渡辺……ああ、なるほど。だからナベちゃんっていうのか」
「そんなことどうでもいいわよ。あなた、私の最初の質問に答えてないわ。ねぇ、何の用なの?」
イライラを少しも隠すことなく、私は悠希と名乗る魔物へと傘を突きつける。
そろそろ傘を握る手も、我慢の限界だった。
すると悠希は、やれやれと言わんばかりに両翼をひらつかせる。
「分かったよ。理由を言う。アタシはアンタを勧誘に来たんだ」
やっぱり。
勧誘という言葉から後の繋がりをいくつか予想する。
「宗教? 薬? いずれにしたってお断りよ」
「ちげーよ早とちりすんな。実は、うちのバーで雇う人材を探してんだ」
「人材?」
「そうだ。うちはちょっと変わった店でな。働く奴もそれに見合うのを探してたのさ。けど、これがなかなか見つからなくてね」
「それで、わざわざうちに?」
それを聞いて、私はますます分からなくなった。
バーの職員を集めるために、わざわざメイド喫茶に?
「いや、本当は一休みのつもりでね。気まぐれにあのメイド喫茶に立ち寄ったんだけどな。でもアンタに興味が湧いた」
「なんで、わざわざ私に……?」
「魔物で音楽関連の仕事しているのってそう多くなくてさ。うちは演奏もするから、そういう知識のある奴がいると助かるんだ。だから色々聞いてみて、あわよくば、人材候補にと思ってよ」
今の私はきっと、ポカンとした表情をしているのだろう。
「……本当に、それだけ?」
「ああ、それだけだ」
肩がガクンと落ちそうになるのを、何とかこらえる。
なんか、思った以上にしようもない話だった。
確かに勝手にキナ臭い方向に勘違いしていたのは私の落ち度だけど。
思わず、その場にへたりこみそうだった。
「あぁ、楽器は別にできなくてもいいぜ。たぶん、きっと大丈夫だろうしな」
「何を根拠にそんな自信を……」
まるで見当違いの、意味不明なフォローを入れてくる悠希に対しては、もはや溜め息しか出てこない。
「そういう話なら、別にあんな言い方しなくても……」
「悪いね、メイド喫茶の勝手が分からなくてよ。あそこで立ち話をしたら迷惑かと思ってさ。あ、ちなみに楽器は何かやったことあるか?」
「……電子ピアノなら、少しだけ」
「おっいいね! 丁度いなかったんだよ」
気力が完全に抜けてぼやくような私の一言に、悠希は完全に舞い上がっていた。
確かにピアノは今でもたまに弾いているが、あくまで仕事の範疇だ。
作曲や音響だって、店長直々に依頼されたから断れなかっただけだ。
本来ならちゃんとした作曲家に依頼をするのだが、そこにかけるお金がなくてであって。
つまるところ、私はそこまで音楽に興味があるわけじゃない。
「なぁ、もし良かったらよ……一度でいいから、うちの店に来てくれねぇか? 魔物の手が足りなくて困ってんだ」
「お断りします。私は今の職場を変える気はありません」
私は即答する。
考えるまでもなかった。
「えーなんでさぁ?」
悠希はくちばしのように口を尖らせてわざとらしく不満を漏らす。
この人、面倒くさいなぁ。
「理由って……私には面倒を見てくれる先輩や、ひいきにしてくれるご主人様がいます。やるべき仕事があります。今更どこかに行くつもりもないわ」
彼女の言う通り、私は断る理由をわざわざ丁寧に並べ立てる。
勧誘自体は本当だとしても、どうしてあの場では誤魔化すような言い方をしたのか。
別にやましいことをしているわけではないのだし、閉店まで待つ必要はないだろう。
それに本当に本気なら、店側にも相談を持ち込むべきだ。
音響や作曲の担当を、何も言わずに急に引き抜いたら迷惑でしかないの、分かっているのかしら?
大体あなたみたいな、今日あったばかりの魔物について行くわけがないじゃない。
他にも言いたいことは沢山あるけれど、多すぎて私の舌が追い付かなかった。
「……ひいきにしてくれているご主人様、ねえ。随分とおかしなことを言うんだな」
突然、何故かため息混じりに、悠希はそう呟く。
「何が、不満なの?」
さっきの彼女の言い回しのせいか、自分でも分かるくらいに不満気な言い方になっていた。
「なるべく明るいキャラでいこうと思ったけど、想像以上に重症だなこりゃ」
私の問いをそっちのけで語る悠希の目は、明らかにさっきまでと異なっていた。お茶らけた雰囲気などまるでなかったかのように消え去り、じっと獲物を狙う猛獣のように動かない。
その視線は細く鋭く、瞳には不純物が混じったみたいな濁りを見せる。
(なに、急に態度が……)
悠希の周りの空気が突然、変貌する。
その重圧に、私は気圧されてしまう。
「な、なによ……? 私、何もおかしなこと言ってないわよ?」
「確かにそうだ。アンタは真っ当なことを言っている。アンタが"本当に"メイド喫茶で働きたくて働いてんなら、これ以上何も言えないさ」
「だ、だったら何も問題ないじゃない……なんなのよ?」
狼狽する私に向かって、悠希は一歩前に踏みより、告げる。
「だがよ……ルール違反は、良くねぇな」
「ルー、ル?」
短く、それでいて強く悠希は言い切る。
その勢いに完全に押し負けて、つい言葉尻が濁ってしまう。
「ひいきにしてくれるご主人様? 世話になっている先輩? 本当にそう思ってんのか?」
「何が、言いたいのよ?」
「今アンタがいった理由さ。ご主人様にひいきにされているっていったよな? キキーモラってのは献身の姿勢がウリだからな」
悠希の視線に耐えかねて、私は一歩後退する。
彼女のその瞳には、叱責の感情が色濃く混じっている。
いえ瞳だけじゃない。その声や呼吸さえも、私を責める圧力となっている。
「だから何よ……あなたには関係ないじゃない」
「いいから聞けよ。本来、献身ってのは自身の利益を顧みずにするもんだ。だけどアンタがここで仕事をするのは、そのご主人様とやらに『ひいき』にされているからだ。金をもらっているからだ。それがまず前提の報酬として働いている。それはただの仕事であって、献身じゃない」
「……っ」
詰まりそうなくらいの、息苦しさが私を襲う。
猛禽類の爪に、直接心臓を掴まれたかのようだ。
冷たい空気の中なのに、頬につうっと汗が垂れてくる。
「これはおかしい話だぜ。普通の魔物ならまだいい。だが"キキーモラ"のアンタは、それじゃあダメだ。『図鑑』にあるべき立ち振る舞いでないと、献身的で、無償の奉仕であるべきだろ?」
「な、何を言って……」
「まぁそれを言い出したら、あの店自体がグレーゾーンだけどな。だがアンタはさっき自分で『働き者は幸福を、怠け者に死を』と言ったんだ。まるでアタシみたいに、どこかの本の文章をそのまま読んだみたいにな」
悠希の見透かしたような発言が次々と私を襲う。
彼女の言葉を聞いているだけで、脳がシェイクされそうだ。
私の手が傘を降り下ろそうと、構えた傘の先を震わせる。
私の足がこの場から逃げ出そうと、半歩後ろに下がる。
それぞれが別の行動をとろうとして、その場から動けない。
「なのに働いている時のアンタときたらよ、ちっとも幸せそうには見えなかった」
「もういい、もう黙って」
「音響やっている時は最低だった。口に出さねえだけでつまんなさそうにしてさ。どうみてもご主人様のために働く魔物には見えなかったぜ」
「黙ってってば!」
思わず怒声を張り上げて必死で拒むものの、悠希の容赦ない言葉の攻撃は続く。
止めることも逃げることも出来ず、私はその場で足をもたつかせる。
「アンタをうちに誘ったのはな。ただ、おせっかいを焼きたかっただけなんだ。魔物として歪すぎるアンタを……なぁ」
不思議と私は、その次の言葉を直感で理解した。
だけど、やめてほしい。もう聞きたくない。
それを言わないで。
「アンタ、"本当に"キキーモラか?」
バキィ―――!
正気をとり戻したのは、その衝突音が自分の獣耳に届いてからだった。
私は返事の代わりに、悠希に向かって傘を振り下ろしていた。
コンクリートに激しく叩き付けられた傘は、骨という骨があらぬ方向にひん曲がってしまっている。
しかし、それは悠希に当たることはなかった。
「あぶねぇな。マジで殴りかかってきやがった」
またしても、声は頭上から聞こえてくる。
今度は街灯も何もない、完全な空中からだった。
傘が当たる瞬間、悠希はその場で飛び上がっていたようだ。
「……もう、帰って」
私はそう吐き捨てるのが精いっぱいだった。
自分の愚かさに顔を上げられなかった。
口喧嘩に負けて、暴力に奔るなんて。
魔物として、いや。奉仕をする者として最低だ。
「いや悪い……アタシもつい言いすぎた。初対面の奴に言うことじゃなかったな。ただ鬱憤が溜まっている奴の顔を見ると、我慢がならん性格でね」
悠希はバツが悪そうにそう告げると、両腕を一段と大きく持ち上がる。
鞭をしならせるみたいに、その両翼が勢いよく羽ばたく。すると悠希の小柄な胴体が、さらに上空へと浮き上がる。
「あ、言っとくがさっきのバーで雇いたいってやつ。アレはマジだからな! ちゃんと考えとけよ?」
「あっ、ちょっと!」
「じゃあな、葵!」
そう言い残して、悠希は藍色の空の中へと飛び去っていった。
ナイルグリーンの翼は暗闇に混ざり込み、あっという間に見えなくなってしまう。
「なんなのよ。一体……」
呆然と立ちつくすのはもう何度目かしら。
私の辺りに残ったのは、冷や汗の伝う頬とそれを照らす弱々しい月光、そして近くを通る自動車達の僅かな喧噪のみだった。
だけど、私の獣耳にはそれらの音が入り込む隙などまるで無かった。
「私は、ちゃんと働いているわ。何も間違ってなんか……」
自分に無理矢理言い聞かせるように、私は一人そう呟く。
だけど誰でもない私自身が、自分の口から出ている言葉に納得ができなかった。
私は手に握るひしゃげた傘を、言い様のない敗北感ごと、乱暴に近くのゴミ箱に放り込む。そして現実から目を背けるように夜空をやおら仰ぐ。
星なんて数えるほどしかないのに、いつまでもそうやって見上げていた。
下弦の月のみがやたらと強く、東の空にポツンと光る。
ああ、そういえば。
「本名、久しぶりに呼ばれたわね」
17/04/30 16:03更新 / とげまる
戻る
次へ