第1話
「ねぇナベちゃん、面白いから今度の休みに見に行こうよぉ、劇場版『0(ラブ)ライフ惨社員』」
私の目の前のテーブルカウンターに、興味のないアニメをひたすら紹介をし続ける小太りの青年がいる。
べっとりと湿った汗が吹き出る手のひらが、私の手を絡めとるように握っている。
本当はこの手も振り払わないといけないのだけれど、下手に拒絶して騒がれたらと思うと抵抗できない。
もう世間は段々と涼しくなってきたというのに、彼のTシャツには臭気を放つ汗じみの沼が広がっている。
その下にあるベージュのチノパンも、膝元の生地が擦れて薄くなっていて、涼しさに拍車をかけている。
くわえて、汗とニキビにまみれたその顔。
彼を形成するもの全てが、彼から秋という季節を奪っていた。
この不細工な男を、私は「ご主人様」と呼んでいる。
(ああ、早く裏手に戻って手を洗いたい)
しかし今は仕事中。
ましてや接待の最中に席を外すわけにはいけない。
「もう、だめですよぉ俊介ご主人様。そういうお店じゃないんですからぁ」
私は不快さを顔に出さないよう精一杯の笑顔を取り繕う。
鼻の上から音を放り投げるイメージで、自分でも不自然に思うほどに甘ったるい作り声を何とか絞り出す。
「へへ……ごめんね。ナベちゃんがかわいくてつい」
すると俊介ご主人様はすこぶる気を良くしたようで、ニタリと笑う。
爽やかなスーツの青年の方ならともかく、ご主人様みたいなピザに言われても全然嬉しくないのよね。
しかし、物事には嫌でも首を縦に振らないといけない時もある。
「そんな恥ずかしいこと言わないで下さいよぉ〜。でもありがとぉ。キキーモラの私にとってココは天職ね♥」
私はあざとくスカートを翻しながら、体をくねらせてポーズをとる。
すると予想通りに、俊介ご主人様はさらに口元を持ち上げる。
だけども、彼の舐め回すような視線を責めることは出来なかった。
私は彼の熱烈な視姦の元凶である、自分の格好をちらりと見る。
このメイド喫茶のアルバイトを初めて何ヵ月か経つけど、ここのメイド服には未だに慣れない。
まさにそれは、男の卑猥な欲望を具現化させたような逸品だった。
フレンチメイドをベースにした、水色のミニスカートの要所にフリルのリボンがいくつも付けられている。
エプロンには、派手で真白い大量のフリルが。
背中には、プラバン製の青い小さな羽がちょこんと装飾されている。
なのに、胸元だけはぽっかりと空いているところが実にあざとい。
自前の狼の尻尾や獣耳には、ひときわ大きな水色のリボンとカチューシャが、当の本人以上に自己主張をしている。
(もう少しバイト先を粘って、ヴィクトリアンタイプのメイド服のところを探すべきだった……なんて、今まで一体何回考えたかしらね)
私は目の前でヘラヘラとにやけるご主人様の顔を直視しないよう、彼の顎の辺りに視線を下げる。
本当の主従の関係だったのなら、こんな不適切な行為は決してしないのでしょう。
だけど、それはあくまで本物のメイドの話。
私がこの男のことをご主人様と呼ぶのは、あくまでもこのメイド喫茶内でのみだからだ。いったんこの店から彼が出てしまえば、この関係は成り立たない。
それに何回か会っていれば、その相手の人となりというのは大概分かってくる。
特に『その人がどういう理由で、自分と関わりたがっている』のか、そんなものはすぐにでも。
目の前の太った男が、決して"私に会いに来ている"わけではないという事も。
ご主人様はまだアニメを語り足りないらしく、更に話を続ける。
そろそろ解放して欲しいわ。
まだ仕事が残っているのに。
「ナベちゃーん。そろそろ、はじめていい?」
密かに辟易する私を見て、助け船を出してくれたのか。
後方から、穏やかな声量の割に、やけに楽しげな声が私のニックネームを呼ぶ。
「あ、シュロちゃん!」
とたんに俊介ご主人様が身を乗り出して、その声の持ち主に手を振る。
そこには私の先輩メイドであるシュロさんが立っていた。
彼女はこちらへ近づきながら、右手をヒラヒラと振ってご主人様に応える。
それを見て気を良くしたのか。
俊介ご主人様が妙にかん高い声を発する。
「シュロちゃん!もしかして、これから『ご奉仕』の時間かいっ⁉」
脇から見ていても、彼のテンションが明らかに上がっているのが分かる。
私にアニメを語っている時もすごいけど、シュロさんと話している時の方がもっと高い気がする。
でも、それもそのはずだった。
このメイド喫茶でのご指名率ナンバー1。
休日はご指名の声を独占するほどで、まさしくココの看板娘と言うべき絶大な人気を誇るカリスマ的魔物。
それが目の前にいる彼女、ショゴスのシュロ・デ・ローランドなのだ。
彼女を見て舞い上がらない男など見たことがない。
「ええ、そうよ。俊介ご主人様、今日も応援よろしくね!」
シュロさんは右手を上げたまま、彼にハイタッチの仕草を要求する。
「うほぁ!任せてください!盛り上げますよぉ!」
俊介ご主人様はそう答えながら、シュロさんのハイタッチに答える。
水気を含んだクラップ音がしたけど。お互いに気にする素振りすらみせない。
「ああ、そうだ。アレを出さないと」
そういうと俊介ご主人様は、自分の黒いリュックサックの中に手を突っ込む。
もぞもぞとまさぐった後、彼の手がペンライトと小さなビニール袋を取り出した。
「ふふふ……」
ビニールの中身を開けると、出てきたのは二十枚以上はある丸い紙束だった。
ご主人様はその紙束を一枚ずつ、丁寧にカウンターテーブルの上に並べ始める。
それは私やシュロさん、その他のメイドたちのブロマイドだった。
ここに来店するとランダムで一枚貰えるものだ。
それらをテーブルにぎっしりと並べ終えると、俊介ご主人様は満足そうに頷く。
「では俊介ご主人様。私たち、これから準備をしますから……」
「おけ!全裸待機してます!」
ご主人様の気持ち悪い儀式を見届けた後、私はここぞとばかりに身を引く。
「よぉし! みんなぁ! そろそろアレやるわよー!」
シュロさんはその場をクルリと一回りして、店内にいるご主人様達に向けて声をかける。
彼女と目が合った瞬間、他のご主人様達はことごとく諸手を上げていく。
シュロさんが一回転し終わる頃には、店内は十分に賑やかになりつつあった。彼女は最後に店内を軽く見回すと、私の方へと向き直る。
「さてと……じゃあ、今日もお願いね。ナベちゃん」
「はい、よろしくお願いします」
そう返事をする私の脇を、シュロさんがするりと通り抜ける。
そして俊介ご主人様のいるカウンター席の隅へと歩いていく。
席の端は通り抜けられるようになっていて、その向こう側には畳三畳分ほどの開けたステージがあった。
実際のところ、ステージというにはお粗末なものではある。
床にはラメ入りのハート形シールがたっぷりと散りばめられていて、照明の光をキラキラと反射している。
奥の壁には、水色の生地に白いハート柄のカーテン。
その生地の上からさらにまた、ハート型の風船やミニクッションがぶら下がっている。
ハート。とにかくハート。
もはやハートが視界に入らない部分はないほどのハート全開のスペースだった。
シュロさんはそのハートだらけの空間へ、臆することなく慣れた様子で踏み入る。
いや、正確にはショゴスであるシュロさんの脚はない。
粘液を固めて脚の形になっているけど、実際にそれで歩くわけではなく、まるで氷の上をスケートで滑るようにして進むのだ。
ステージの中央にはすでに、二人のコボルトのメイドがひかえていた。
シュロさんはそのメイド達とアイコンタクトをとる。
と、二人のメイドの間―――つまりセンターへと、滑らかにポジションをとる。
シュロさんのステージ入りを尻目に、私は一人、ステージと反対側へ向かう。
棚田のように段差上になった店内の通路を早足で進んでいくと、様々なメイド達とすれ違う。
大概は、テーブルでご主人様達と当たり障りのない話をしている者がほとんどだ。
やがて一番の段まで上りつめると、その端の方にハートのステージを一望できる座席が、一つだけポツンと設置されていた。
席の周辺にはDAWソフトが起動されたノートPC、その他音響機材がずらりと並んでいる。
テーブル下では、店内のスピーカー等に繋がっている黒いコードの群れが、ごちゃ混ぜになって絡み合っている。
要塞じみたその光景は、糖分が溢れそうなメイド喫茶にはおよそ似合っていない。
なのでこの席だけは、店のイメージを崩さないために、カタカナのコの字に三面を白い壁で覆われている。
私は物音を立てないように、ゆっくりとそこへ座る。
手元の機材のマイク音量のメモリを確認し、横目でステージを見る。
ステージとテーブル席を隅まで全て見渡せるので、何気に特等席だったりする。
シュロさんと、視線が合う。
その手にはいつの間にか、ワイヤレスのマイクが握られていた。
私は右手をあげ、人差し指と親指で輪を作る。
「はぁい! ご主人様たち! 今日は魔物娘メイド喫茶【ブルーバード】に来ていただいて、本当にありがとうございまーす!」
さっき私と話していた声とは全く違う高音で、シュロさんが声を張る。
その一声で、ざわついていた店内が一気にシュロさんの元へと注目する。
「今からご主人様たちのために、私達メイドが日頃の感謝を込めて『お歌とダンスのご奉仕』をさせて頂きたいと思いまーす!」
(すごいわ。たった一言で皆の目が……)
音響席にいながらも、私はその姿に見惚れてしまう。
私達の働くメイド喫茶【ブルーバード】は、メイドが魔物娘であることを売りに運営している。
そして今から行われるのは、この店のメインのイベント。
昼と夜の一日二回、『ご奉仕』と称した、メイドによるダンスと歌のパフォーマンスだ。
ちなみにメンバーは希望者のみで、日替わりシフト制。
もちろん、パフォーマンスである以上それなりに見せられるように練習を重ねたメイドでないと、ステージに立つことなど許されない。
なのでこの店ではあの場に立つことが、一人前のメイドとして認められるための一つの基準となっていたりする。
私はマウスを素早く操作し、音楽ソフト内に作成済みの曲ファイルが読み込まれていることを確認する。
それと同時進行で、スピーカーの音量や配線など音響の最終チェックも済ませておく。
直前でバタつかないように大体の準備はしてあるものの、確認は何度でも必要だ。
その間もシュロさんは、軽快かつ可愛らしいトークで場を温めていた。
おかげで店内のお客様は笑顔を絶やすことなく、ステージに注目している。
流石は、この店のトップというべき存在感。
ご主人様達からの人気も絶大で、メイド達からの支持も圧倒的。
誰もが彼女のことを羨望の目で見ている。
そして俊介ご主人様も例外ではなかった。
彼が私に話しかけてくるのは、私がシュロさんと仲が良いという、それだけの理由なのだろう。
でも、それは仕方がないことだった。
キキーモラという種族に生まれたけど、私には仕えたいと思うべき相手がいない。
なんとなくメイドの仕事を探してはみたものの、そんな漠然とした想いでは雇ってくれるなど、あるわけもなかった。
私自身もそこまでメイドという職に恋焦がれていたかと言われると、首を縦には触れない。
必要最低限の情熱さえ、私は持ち合わせていなかったのだ。
そうしてたどり着いたのが、この魔物メイド喫茶【ブルーバード】だった。
以前はあれほど栄えていたメイド喫茶ブームも、現在では随分と下降気味だ。
このメイド喫茶も一時の流行で立てたらしいけど、その脇では次々と同業の店がつぶれている。
お給与だって、ちょっとやそっとのメイド歴ではその辺のアルバイトと大差がないのが現状だ。
それでもここが、私みたいな半端者でもメイドの仕事が出来る唯一の場所なのだ。
(我ながら不真面目すぎるけど、こうして雇ってもらえるだけありがたい話よね)
音響の最終準備を終えてシュロさんの方を見ると丁度、トークに一区切りの付いたようだった。
シュロさんは軽く右手を振り、私に音楽を催促してくる。
それを見て私は手早く音楽を再生する。
曲が流れるまでの、たった数秒の静寂。
この店で一番時間が長く感じられる時。
私は全ての音が消える、この瞬間が一番好きだった。
何かが始まる予感と期待に満ちた、照明の僅かな暗転。
次第にシュロさんを含め、ステージに立つ三人のメイドの顔つきが変わる。
さらに数秒後。
アップテンポのドラム音と軽快なギター音が、天井とステージ横のスピーカーから飛び出す。
視界に赤と緑と青の、安物のライトの光が舞う。
店内に音と光が満ちると、店内のご主人様たちが感嘆の声を上げる。
やがて何小節か経つと、走りがちのピアノと煌びやかな電子音が現れ、先に飛び出た二つの楽器の音と混じり合う。
シュロさん達はそれに合わせて、華が咲き開くかのように柔らかく両手を開く。
そして楽曲にのせて、三人が同時にふわりと、数歩ずつ幅を開く。
何度も練習したであろう彼女たちの腰つきが、四肢の躍動が、私と同じメイド服を華やかにヒラヒラと揺らす。
三人の動きが綺麗に揃いながら移動して、三角に陣形を組む。
流れる音楽は次第にAメロへと差し掛かり、シュロさん達は顔とマイクをやおら持ち上げて、華々しく歌い始める。
(シュロさん、やっぱり可愛いなぁ)
魔物の私でさえ、見とれてしまいそうだった。
シュロさんの高らかな歌声が店内に響き渡る。
その歌声にのせて、ご主人様達はペンライトを一心不乱に振りかざしていた。
もちろん左右のメイドたちも決して負けてはいない。
シュロさんに置いていかれないように、精一杯に踊り、声を振り絞る。
しかしそれでも、シュロさんにはどこか届かない。
彼女と二人のメイドとは、決定的に何かが違っていた。
特にシュロさんの放つ眩しい笑顔、見た目だけなら二人と同じ。
だけど、その笑顔の質というか、芯にある何かが全く違うのだ。
今のシュロさんは、完全にパフォーマーだ。
彼女は『演じること』に全力に集中している。
まるで、こうやって演じることが幸せだと言わんばかりに。
なんて眩しい。なんて羨ましい。
それに比べて、私は―――
振り払うようにして、首を左右に振り回す。
私はまだ大丈夫。
ギリギリだけど、まだ何とかやっていけている。
シュロさんのようなトップレベルではないけれど、この社会にもしっかり対応できている。
シュロさんみたいに狙われてはいなくとも、直接的にじゃなくても、贔屓にしてくれているご主人様もいる。
あの汗まみれのスキンシップも慣れてきたし、多少嫌なことがあったって、受け流す術や演技も身につけた。
充分に、私は頑張っている。
この世界に、この現実に留まれているはず。
(……いけない、仕事中よ)
集中力が途切れている自分に気付き、慌てて現実に戻る。
今はシュロさん達の時間なのだから、裏方が光を浴びてはいけない。
私は両親指で口元を持ち上げ、自分で笑顔を作り直す。
そうして作った顔を持ち上げると、何かに見られている気配を感じた。
さっき俊介ご主人様に視線で舐められた時の、あの悪寒とは少し違った。
鋭く刺さるようなそれ。
(一体、誰?)
私は辺りを見まわすと、ふと妙なものが目に付く。
ステージから一番遠くて、かつ店の入り口に一番近い壁際の座席。
壁や装飾の関係上、メイド達の歌やダンスが見えづらい場所。
よほどの恥ずかしがり屋でないと選ばないその座席。
そこにふと、見慣れない女性を見つけた。
「……青い、鳥?」
つい、見つめてしまった。
だけど数秒後、本当の青い鳥ではないことにも気づく。
その女性は、鳥系の魔物だった。
あれはハーピー族だ。
種族名は確か、サンダーバード……のはず。
彼女の二の腕から先は人間のそれではなく、大型の鳥の翼のようになっていた。
先ほど私は青色だと錯覚したが、よく見るとナイルグリーンという方が近い。
美しくグラデーションに彩られたその大きな翼を、彼女は気だるそうにだらんと垂れ下げていた。
イベントを楽しんでいる様子ではないことはすぐに理解した。
退屈そうに揺れながら組まれている脚も、当然人間のものではなかった。
猛禽類のような厳つい鱗によって、太ももから先が鎧のように覆われていた。
刺々としたその金髪は、まるでハリネズミだ。
この店で働く身としてはあるまじき愚行だけど、見た目だけで判断すれば、ヤンキーといった風貌の女性だった。
(魔物の方が来客?それにこんな毛色の違う方が来るなんて……)
あまりに稀有な光景だったので、思わず気になってしまう。
魔物メイド喫茶というだけあって、ここで働いているメイドは全員魔物だ。
それゆえ、ここの客は九割が人間の男性である。
女性の客も全く来ないというわけではないが、その中でも魔物の来客となると本当に極少数になる。
サンダーバードが私の視線に気が付く。
そして、にやりと微笑むと投げ出された翼を軽く降ってくる。
どうみても、初心な性格の持ち主がとるような態度ではない。
だとしたらアルバイトの募集? いや、朝礼でそんな予定は言っていなかったはず。
(……って、またよそ見。ダメね、本当に)
仕事に集中しなければと、私は意識をステージに戻す。
しかし、サンダーバードの視線がどうにも気になって仕方がない。
音響などの裏方の仕事で最も避けることは、主役よりも注目されてはいけないことだ。
だというのに、サンダーバードはシュロさん達の方を見向きもせずに、私の方だけを見続けている。
(何? 何なのあの人? なんで私を見てるの?)
サンダーバードの放つ異様な視線に、思わず私は狼狽する。
まるで鷹に目をつけられた小動物の気分だ。
今すぐ逃げ出したいが、この場を離れるわけにもいかない。
彼女の方を見なくとも分かるくらいの露骨さに、頬に冷や汗が垂れる。
「どうか、後で絡まれませんように……」
その後もずっと謎のサンダーバードは、熱のこもった視線を浴び続けてきた。
私は居心地の悪さをごまかそうと、頑なに正面のシュロさんのダンスを見つめ続けることで、何とかこらえ続けた。
―――――
一通りのダンスと歌が終わり、シュロさん達が深々とお辞儀をする。
辺りには踊り終わった彼女たち以上に、汗を掻いたご主人様達の拍手が飛び交っている。
「ふぅ……」
私は全身の強張りをほぐすように椅子の背もたれに寄りかかる。
どうにかトラブルなくイベントを終えることが出来た。
こんなに緊張したのは、はじめて音響を任された時以来かもしれない。
強張った尻尾もだらりと地面に投げ出すと、ステージ周辺の喧騒の様子を遠い視線で見つめる。
少々だらしない恰好だけど三面の壁のおかげで、意識して見ない限り私の姿がご主人様達に見えることはない。
さてと。
私は伸びをする不利をして身体を後ろに反らせる。
そして、ゆっくりと。
決して彼女と目が合わないように。
ちらりとだけ、さっきのサンダーバードの座っていた座席の方を見る。
彼女の姿は、なかった。
すでにそこは、空席となっていた。
緊張の糸が途切れかのように、伸びた上体を起こしてうずくまり、盛大に息を吐き出した。
「さっきのは一体、なんだったのかしら……」
「よう」
「ひぃ!」
不意に後方から飛んできた言葉に驚き、私の獣耳がピンと跳ねてしまった。
噂をすればなんとやら。
いつの間にか、さっきのサンダーバードが私のすぐ隣まで近づいてきていた。
「やぁお疲れ様」
「は、はい。どうも」
「すごく良い曲だったよ。楽しかった」
とっさのことで慌てふためく私を余所に、彼女は気楽そうに声をかけてくる。
本当に一体なんなの、この方は。
「えっと……ありがとうございます」
不信感が漏れそうなところを、ギリギリ何とか誤魔化せた。
「アタシ魔物で、しかもメイドでDAW使っているヤツ初めてみたよ。尊敬するぜ」
「わっ……」
妙にテンション高めの声で、サンダーバードは私の両手を掴む。
正確には掴むというより、羽根で包むといった感じだ。
「そんな、大したことではないですよ」
「謙遜するなよ。作詞や作曲とかも全部アンタが?」
「いえ、作詞やダンスの振り付けはシュロさ……他のメイドにも協力してもらってます」
「へぇ、すげぇな。最近のメイドもやるもんだな」
ナイルグリーンの翼にブンブンと腕を振り回されながらも、私はとりあえずの社交辞令を返しておく。
だけど、その胸の中は猜疑心で満たされていた。
突然現れたかと思えば、暑苦しい熱視線を送り、馴れ馴れしく振る舞ってくるなんて、妖しすぎる。
怪しい何かの勧誘の人?
わざわざ、こんな昼間の時間に?
相手は魔物だし、もしかしてご主人様の身内の一人かもしれない。
こういう仕事をしていると、変な人も時折いらっしゃる。
いったん絡まれると、しばらく粘着される可能性もあるので警戒は必要だった。
しかも相手は珍しい魔物の来客ということだけあって、不安な要素が多い。
とにかく相手を下手に刺激しないよう、私はあくまで笑みを保ちつつ、警戒を解かないように出方をうかがわねば。
「それじゃあいいモンも見れたし、アンタの仕事の邪魔もしちゃ悪いから、アタシはこれで」
「えっ?あ……はい。ありがとう、ございました」
一通りの激励を送ってきた彼女が、ふいに私の手を離す。
ついお礼を言ってしまったが、頭の方は拍子抜けていた。
てっきりどこかに呼び出されて、ネズミ講とか変なお薬を売りつけるとか、胡散臭い契約の話をされると思っていたのに。
(考えすぎだったかしら?)
私は訝しみながらも解放されたことに、少しばかりホッとする。
でももし本当にただのお客なら、あの熱い視線の割に、引き際が妙に淡泊なのが少し気になる。
いえ。
そもそもメイド喫茶にまで来て、裏方の私に興味を持つなんて、それだけで普通じゃないわね。
そんな風に考えていたせいで、油断していた。
「閉店後、また来る。話はそこでする」
ふいにサンダーバードの顔が、私の耳元に近づいた。
「な……!?」
一変して、彼女の低いトーンが私の耳元に響く。
私はこらえきれずに、肩を震わせてしまう。
「それじゃあな。待ってるぜぃ」
用は済んだとばかりに、サンダーバードはさっと踵を返す。
そのまま会計を済ませると、さっさと店を出ていってしまう。
彼女の姿が完全に見えなくなったところで、ようやく私は肩と獣耳の力を抜くことが出来た。
「はぁ……」
「ナベちゃん、どうしたの?」
先ほどまでご主人様達に手を振っていたシュロさんが近づいてきた。
「いえ、今サンダーバードのお客さんが……」
「サンダーバード?」
首を傾げたシュロさんは、少し考えた後に、口を開く。
「そういえば、確かにさっき来ていたわね。珍しいとは思ったけど、なんだか気難しい顔をしていたし、私はあまり声をかけなかったわ」
気難しい?
シュロさんのその言葉に、私は引っかかる。
確かに怪しい雰囲気は漂わせてはいたし、実際面倒なお客だった。
しかし私に接してきた彼女の様子は少なくとも、気難しいと言う印象は受けなかった。
でも詐欺師の方って基本的に優しい雰囲気だって聞くし……。
「そのサンダーバードの方が、どうかしたの?」
「……実はイベント中、その方にずっと見られていまして」
「えぇ? 何よそれ、怖いわね……何かされなかった?」
「いえ、特に何もされませんでした。その、曲を褒められたくらいで」
「曲を?」
本当はシュロさんに、彼女の去り際の発言も話すべきだったかもしれない。 つい、ごまかしてしまったことを後悔してしまう。
でもさっきの、シュロさんの彼女への印象を聞いて、巻き込みたくないと思ってしまった。
シュロさんは、私の不自然な態度を怪しんだのか。
勘ぐるような目つきで私を捉えてくる。
「本当に、何もありませんよ」
「そう……なら、いいけど」
そういうとシュロさんは諦めたように、頭をガクンとななめ下に落とす。
その仕草に少しばかり罪悪感も沸いたけど、確かに何もされていないのは本当だ。
だけど「閉店後に待っている」という意味深な言葉。
それだけが私の胸に引っかかっていた。
こんな昼間にやってきておいて、閉店後まで待つなんてまともじゃない。
でも、なんで?
そこまでして、何のために私に会いたがるの?
「ナベちゃん?」
「え……」
シュロさんの声と覗き込むような顔つきで、ようやく我へと返る。
自分の顔を触ると、頬が引きつっていることに気付いた。
「ねぇ。本当に大丈夫?もし何かあるなら警察を……」
「ご心配ありがとうございます。でも実害は本当に何もありませんから」
「あってからじゃ遅いのだけど」
「うっ、すみません……」
「いいのよ。言いたくなってからいいから。私はいつでも相談にのるわ」
シュロさんは脇から私の肩を叩き、囁くように耳元でそう告げる。
私が小さく頷くと、気を取り直したかのように、笑みを漏らす。
「さ、ナベちゃん。ほら」
シュロさんがそういって、カウンター席の方へと私の背中を押す。
その先では俊介ご主人様が、汗だくになりながら手を振っていた。
「一人で考えていると気落ちするわ。こういう時は俊介ご主人様のオタ話でも聞いて気をまぎらわしたら?」
「あはは……そうですね」
シュロさんのアドバイスに従い、私は俊介ご主人様に手を振り返す。
ご主人様の手には、さっきの私達メイドのブロマイドが握られている。
彼の手汗に塗れたメイド達の顔を見ていると、どうにも複雑な気分になる。
横にいたシュロさんも、いつの間にか次のご主人様の対応に向かっていた。
(大丈夫、大丈夫よ)
心の中で呪文のように繰り返すが、胸の奥はいつまでもむず痒いままだった。
ふとさっきのサンダーバードの、ナイルグリーンの翼を思い出す。
この店のモチーフにもなった、童話の『青い鳥』とは全く違うあのサンダーバードを、なぜ私はさっき「青い鳥」と呼んでしまったのか。
いえ、今はそんなことはどうでもいいわ。
さっきのことは、とりあえず忘れることにしよう。
「俊介ご主人様、どうでしたぁ?」
私は営業用の笑顔を用意して、俊介ご主人様に寄っていく。
最初は苦労したこの甘ったるい声の出し方だって、軽く意識するだけで簡単に出せるようになった。
私は大丈夫。
秀でた部分は何もない。むしろダメなところの方が目立つけど、ちゃんと働いている。
今のこの仕事場を見つけられたことだって幸運だと思っている。
アルバイト並みの給料でも、メイドとして働けるのなら、大抵のことは水に流せる。
私はちゃんと、"メイドのキキーモラ"として生きている。
童話『青い鳥』のチルチルは、己の幸せのために、どこにいるかも分からない幸せの青い鳥を無我夢中に求めて彷徨っていた。
しかし結局は、彼の家の元にいた普通の鳥が、その青い鳥だったという。
幸せは、自分自身の回りに隠れているのだと言いたいのだろう。
そしてキキーモラにとっての幸せとは、使える主人の世話をすること。
そういうことならば、今のこの【ブルーバード】こそが、まさにそうじゃない。
何も考える必要なんて、ないじゃない。
私の目の前のテーブルカウンターに、興味のないアニメをひたすら紹介をし続ける小太りの青年がいる。
べっとりと湿った汗が吹き出る手のひらが、私の手を絡めとるように握っている。
本当はこの手も振り払わないといけないのだけれど、下手に拒絶して騒がれたらと思うと抵抗できない。
もう世間は段々と涼しくなってきたというのに、彼のTシャツには臭気を放つ汗じみの沼が広がっている。
その下にあるベージュのチノパンも、膝元の生地が擦れて薄くなっていて、涼しさに拍車をかけている。
くわえて、汗とニキビにまみれたその顔。
彼を形成するもの全てが、彼から秋という季節を奪っていた。
この不細工な男を、私は「ご主人様」と呼んでいる。
(ああ、早く裏手に戻って手を洗いたい)
しかし今は仕事中。
ましてや接待の最中に席を外すわけにはいけない。
「もう、だめですよぉ俊介ご主人様。そういうお店じゃないんですからぁ」
私は不快さを顔に出さないよう精一杯の笑顔を取り繕う。
鼻の上から音を放り投げるイメージで、自分でも不自然に思うほどに甘ったるい作り声を何とか絞り出す。
「へへ……ごめんね。ナベちゃんがかわいくてつい」
すると俊介ご主人様はすこぶる気を良くしたようで、ニタリと笑う。
爽やかなスーツの青年の方ならともかく、ご主人様みたいなピザに言われても全然嬉しくないのよね。
しかし、物事には嫌でも首を縦に振らないといけない時もある。
「そんな恥ずかしいこと言わないで下さいよぉ〜。でもありがとぉ。キキーモラの私にとってココは天職ね♥」
私はあざとくスカートを翻しながら、体をくねらせてポーズをとる。
すると予想通りに、俊介ご主人様はさらに口元を持ち上げる。
だけども、彼の舐め回すような視線を責めることは出来なかった。
私は彼の熱烈な視姦の元凶である、自分の格好をちらりと見る。
このメイド喫茶のアルバイトを初めて何ヵ月か経つけど、ここのメイド服には未だに慣れない。
まさにそれは、男の卑猥な欲望を具現化させたような逸品だった。
フレンチメイドをベースにした、水色のミニスカートの要所にフリルのリボンがいくつも付けられている。
エプロンには、派手で真白い大量のフリルが。
背中には、プラバン製の青い小さな羽がちょこんと装飾されている。
なのに、胸元だけはぽっかりと空いているところが実にあざとい。
自前の狼の尻尾や獣耳には、ひときわ大きな水色のリボンとカチューシャが、当の本人以上に自己主張をしている。
(もう少しバイト先を粘って、ヴィクトリアンタイプのメイド服のところを探すべきだった……なんて、今まで一体何回考えたかしらね)
私は目の前でヘラヘラとにやけるご主人様の顔を直視しないよう、彼の顎の辺りに視線を下げる。
本当の主従の関係だったのなら、こんな不適切な行為は決してしないのでしょう。
だけど、それはあくまで本物のメイドの話。
私がこの男のことをご主人様と呼ぶのは、あくまでもこのメイド喫茶内でのみだからだ。いったんこの店から彼が出てしまえば、この関係は成り立たない。
それに何回か会っていれば、その相手の人となりというのは大概分かってくる。
特に『その人がどういう理由で、自分と関わりたがっている』のか、そんなものはすぐにでも。
目の前の太った男が、決して"私に会いに来ている"わけではないという事も。
ご主人様はまだアニメを語り足りないらしく、更に話を続ける。
そろそろ解放して欲しいわ。
まだ仕事が残っているのに。
「ナベちゃーん。そろそろ、はじめていい?」
密かに辟易する私を見て、助け船を出してくれたのか。
後方から、穏やかな声量の割に、やけに楽しげな声が私のニックネームを呼ぶ。
「あ、シュロちゃん!」
とたんに俊介ご主人様が身を乗り出して、その声の持ち主に手を振る。
そこには私の先輩メイドであるシュロさんが立っていた。
彼女はこちらへ近づきながら、右手をヒラヒラと振ってご主人様に応える。
それを見て気を良くしたのか。
俊介ご主人様が妙にかん高い声を発する。
「シュロちゃん!もしかして、これから『ご奉仕』の時間かいっ⁉」
脇から見ていても、彼のテンションが明らかに上がっているのが分かる。
私にアニメを語っている時もすごいけど、シュロさんと話している時の方がもっと高い気がする。
でも、それもそのはずだった。
このメイド喫茶でのご指名率ナンバー1。
休日はご指名の声を独占するほどで、まさしくココの看板娘と言うべき絶大な人気を誇るカリスマ的魔物。
それが目の前にいる彼女、ショゴスのシュロ・デ・ローランドなのだ。
彼女を見て舞い上がらない男など見たことがない。
「ええ、そうよ。俊介ご主人様、今日も応援よろしくね!」
シュロさんは右手を上げたまま、彼にハイタッチの仕草を要求する。
「うほぁ!任せてください!盛り上げますよぉ!」
俊介ご主人様はそう答えながら、シュロさんのハイタッチに答える。
水気を含んだクラップ音がしたけど。お互いに気にする素振りすらみせない。
「ああ、そうだ。アレを出さないと」
そういうと俊介ご主人様は、自分の黒いリュックサックの中に手を突っ込む。
もぞもぞとまさぐった後、彼の手がペンライトと小さなビニール袋を取り出した。
「ふふふ……」
ビニールの中身を開けると、出てきたのは二十枚以上はある丸い紙束だった。
ご主人様はその紙束を一枚ずつ、丁寧にカウンターテーブルの上に並べ始める。
それは私やシュロさん、その他のメイドたちのブロマイドだった。
ここに来店するとランダムで一枚貰えるものだ。
それらをテーブルにぎっしりと並べ終えると、俊介ご主人様は満足そうに頷く。
「では俊介ご主人様。私たち、これから準備をしますから……」
「おけ!全裸待機してます!」
ご主人様の気持ち悪い儀式を見届けた後、私はここぞとばかりに身を引く。
「よぉし! みんなぁ! そろそろアレやるわよー!」
シュロさんはその場をクルリと一回りして、店内にいるご主人様達に向けて声をかける。
彼女と目が合った瞬間、他のご主人様達はことごとく諸手を上げていく。
シュロさんが一回転し終わる頃には、店内は十分に賑やかになりつつあった。彼女は最後に店内を軽く見回すと、私の方へと向き直る。
「さてと……じゃあ、今日もお願いね。ナベちゃん」
「はい、よろしくお願いします」
そう返事をする私の脇を、シュロさんがするりと通り抜ける。
そして俊介ご主人様のいるカウンター席の隅へと歩いていく。
席の端は通り抜けられるようになっていて、その向こう側には畳三畳分ほどの開けたステージがあった。
実際のところ、ステージというにはお粗末なものではある。
床にはラメ入りのハート形シールがたっぷりと散りばめられていて、照明の光をキラキラと反射している。
奥の壁には、水色の生地に白いハート柄のカーテン。
その生地の上からさらにまた、ハート型の風船やミニクッションがぶら下がっている。
ハート。とにかくハート。
もはやハートが視界に入らない部分はないほどのハート全開のスペースだった。
シュロさんはそのハートだらけの空間へ、臆することなく慣れた様子で踏み入る。
いや、正確にはショゴスであるシュロさんの脚はない。
粘液を固めて脚の形になっているけど、実際にそれで歩くわけではなく、まるで氷の上をスケートで滑るようにして進むのだ。
ステージの中央にはすでに、二人のコボルトのメイドがひかえていた。
シュロさんはそのメイド達とアイコンタクトをとる。
と、二人のメイドの間―――つまりセンターへと、滑らかにポジションをとる。
シュロさんのステージ入りを尻目に、私は一人、ステージと反対側へ向かう。
棚田のように段差上になった店内の通路を早足で進んでいくと、様々なメイド達とすれ違う。
大概は、テーブルでご主人様達と当たり障りのない話をしている者がほとんどだ。
やがて一番の段まで上りつめると、その端の方にハートのステージを一望できる座席が、一つだけポツンと設置されていた。
席の周辺にはDAWソフトが起動されたノートPC、その他音響機材がずらりと並んでいる。
テーブル下では、店内のスピーカー等に繋がっている黒いコードの群れが、ごちゃ混ぜになって絡み合っている。
要塞じみたその光景は、糖分が溢れそうなメイド喫茶にはおよそ似合っていない。
なのでこの席だけは、店のイメージを崩さないために、カタカナのコの字に三面を白い壁で覆われている。
私は物音を立てないように、ゆっくりとそこへ座る。
手元の機材のマイク音量のメモリを確認し、横目でステージを見る。
ステージとテーブル席を隅まで全て見渡せるので、何気に特等席だったりする。
シュロさんと、視線が合う。
その手にはいつの間にか、ワイヤレスのマイクが握られていた。
私は右手をあげ、人差し指と親指で輪を作る。
「はぁい! ご主人様たち! 今日は魔物娘メイド喫茶【ブルーバード】に来ていただいて、本当にありがとうございまーす!」
さっき私と話していた声とは全く違う高音で、シュロさんが声を張る。
その一声で、ざわついていた店内が一気にシュロさんの元へと注目する。
「今からご主人様たちのために、私達メイドが日頃の感謝を込めて『お歌とダンスのご奉仕』をさせて頂きたいと思いまーす!」
(すごいわ。たった一言で皆の目が……)
音響席にいながらも、私はその姿に見惚れてしまう。
私達の働くメイド喫茶【ブルーバード】は、メイドが魔物娘であることを売りに運営している。
そして今から行われるのは、この店のメインのイベント。
昼と夜の一日二回、『ご奉仕』と称した、メイドによるダンスと歌のパフォーマンスだ。
ちなみにメンバーは希望者のみで、日替わりシフト制。
もちろん、パフォーマンスである以上それなりに見せられるように練習を重ねたメイドでないと、ステージに立つことなど許されない。
なのでこの店ではあの場に立つことが、一人前のメイドとして認められるための一つの基準となっていたりする。
私はマウスを素早く操作し、音楽ソフト内に作成済みの曲ファイルが読み込まれていることを確認する。
それと同時進行で、スピーカーの音量や配線など音響の最終チェックも済ませておく。
直前でバタつかないように大体の準備はしてあるものの、確認は何度でも必要だ。
その間もシュロさんは、軽快かつ可愛らしいトークで場を温めていた。
おかげで店内のお客様は笑顔を絶やすことなく、ステージに注目している。
流石は、この店のトップというべき存在感。
ご主人様達からの人気も絶大で、メイド達からの支持も圧倒的。
誰もが彼女のことを羨望の目で見ている。
そして俊介ご主人様も例外ではなかった。
彼が私に話しかけてくるのは、私がシュロさんと仲が良いという、それだけの理由なのだろう。
でも、それは仕方がないことだった。
キキーモラという種族に生まれたけど、私には仕えたいと思うべき相手がいない。
なんとなくメイドの仕事を探してはみたものの、そんな漠然とした想いでは雇ってくれるなど、あるわけもなかった。
私自身もそこまでメイドという職に恋焦がれていたかと言われると、首を縦には触れない。
必要最低限の情熱さえ、私は持ち合わせていなかったのだ。
そうしてたどり着いたのが、この魔物メイド喫茶【ブルーバード】だった。
以前はあれほど栄えていたメイド喫茶ブームも、現在では随分と下降気味だ。
このメイド喫茶も一時の流行で立てたらしいけど、その脇では次々と同業の店がつぶれている。
お給与だって、ちょっとやそっとのメイド歴ではその辺のアルバイトと大差がないのが現状だ。
それでもここが、私みたいな半端者でもメイドの仕事が出来る唯一の場所なのだ。
(我ながら不真面目すぎるけど、こうして雇ってもらえるだけありがたい話よね)
音響の最終準備を終えてシュロさんの方を見ると丁度、トークに一区切りの付いたようだった。
シュロさんは軽く右手を振り、私に音楽を催促してくる。
それを見て私は手早く音楽を再生する。
曲が流れるまでの、たった数秒の静寂。
この店で一番時間が長く感じられる時。
私は全ての音が消える、この瞬間が一番好きだった。
何かが始まる予感と期待に満ちた、照明の僅かな暗転。
次第にシュロさんを含め、ステージに立つ三人のメイドの顔つきが変わる。
さらに数秒後。
アップテンポのドラム音と軽快なギター音が、天井とステージ横のスピーカーから飛び出す。
視界に赤と緑と青の、安物のライトの光が舞う。
店内に音と光が満ちると、店内のご主人様たちが感嘆の声を上げる。
やがて何小節か経つと、走りがちのピアノと煌びやかな電子音が現れ、先に飛び出た二つの楽器の音と混じり合う。
シュロさん達はそれに合わせて、華が咲き開くかのように柔らかく両手を開く。
そして楽曲にのせて、三人が同時にふわりと、数歩ずつ幅を開く。
何度も練習したであろう彼女たちの腰つきが、四肢の躍動が、私と同じメイド服を華やかにヒラヒラと揺らす。
三人の動きが綺麗に揃いながら移動して、三角に陣形を組む。
流れる音楽は次第にAメロへと差し掛かり、シュロさん達は顔とマイクをやおら持ち上げて、華々しく歌い始める。
(シュロさん、やっぱり可愛いなぁ)
魔物の私でさえ、見とれてしまいそうだった。
シュロさんの高らかな歌声が店内に響き渡る。
その歌声にのせて、ご主人様達はペンライトを一心不乱に振りかざしていた。
もちろん左右のメイドたちも決して負けてはいない。
シュロさんに置いていかれないように、精一杯に踊り、声を振り絞る。
しかしそれでも、シュロさんにはどこか届かない。
彼女と二人のメイドとは、決定的に何かが違っていた。
特にシュロさんの放つ眩しい笑顔、見た目だけなら二人と同じ。
だけど、その笑顔の質というか、芯にある何かが全く違うのだ。
今のシュロさんは、完全にパフォーマーだ。
彼女は『演じること』に全力に集中している。
まるで、こうやって演じることが幸せだと言わんばかりに。
なんて眩しい。なんて羨ましい。
それに比べて、私は―――
振り払うようにして、首を左右に振り回す。
私はまだ大丈夫。
ギリギリだけど、まだ何とかやっていけている。
シュロさんのようなトップレベルではないけれど、この社会にもしっかり対応できている。
シュロさんみたいに狙われてはいなくとも、直接的にじゃなくても、贔屓にしてくれているご主人様もいる。
あの汗まみれのスキンシップも慣れてきたし、多少嫌なことがあったって、受け流す術や演技も身につけた。
充分に、私は頑張っている。
この世界に、この現実に留まれているはず。
(……いけない、仕事中よ)
集中力が途切れている自分に気付き、慌てて現実に戻る。
今はシュロさん達の時間なのだから、裏方が光を浴びてはいけない。
私は両親指で口元を持ち上げ、自分で笑顔を作り直す。
そうして作った顔を持ち上げると、何かに見られている気配を感じた。
さっき俊介ご主人様に視線で舐められた時の、あの悪寒とは少し違った。
鋭く刺さるようなそれ。
(一体、誰?)
私は辺りを見まわすと、ふと妙なものが目に付く。
ステージから一番遠くて、かつ店の入り口に一番近い壁際の座席。
壁や装飾の関係上、メイド達の歌やダンスが見えづらい場所。
よほどの恥ずかしがり屋でないと選ばないその座席。
そこにふと、見慣れない女性を見つけた。
「……青い、鳥?」
つい、見つめてしまった。
だけど数秒後、本当の青い鳥ではないことにも気づく。
その女性は、鳥系の魔物だった。
あれはハーピー族だ。
種族名は確か、サンダーバード……のはず。
彼女の二の腕から先は人間のそれではなく、大型の鳥の翼のようになっていた。
先ほど私は青色だと錯覚したが、よく見るとナイルグリーンという方が近い。
美しくグラデーションに彩られたその大きな翼を、彼女は気だるそうにだらんと垂れ下げていた。
イベントを楽しんでいる様子ではないことはすぐに理解した。
退屈そうに揺れながら組まれている脚も、当然人間のものではなかった。
猛禽類のような厳つい鱗によって、太ももから先が鎧のように覆われていた。
刺々としたその金髪は、まるでハリネズミだ。
この店で働く身としてはあるまじき愚行だけど、見た目だけで判断すれば、ヤンキーといった風貌の女性だった。
(魔物の方が来客?それにこんな毛色の違う方が来るなんて……)
あまりに稀有な光景だったので、思わず気になってしまう。
魔物メイド喫茶というだけあって、ここで働いているメイドは全員魔物だ。
それゆえ、ここの客は九割が人間の男性である。
女性の客も全く来ないというわけではないが、その中でも魔物の来客となると本当に極少数になる。
サンダーバードが私の視線に気が付く。
そして、にやりと微笑むと投げ出された翼を軽く降ってくる。
どうみても、初心な性格の持ち主がとるような態度ではない。
だとしたらアルバイトの募集? いや、朝礼でそんな予定は言っていなかったはず。
(……って、またよそ見。ダメね、本当に)
仕事に集中しなければと、私は意識をステージに戻す。
しかし、サンダーバードの視線がどうにも気になって仕方がない。
音響などの裏方の仕事で最も避けることは、主役よりも注目されてはいけないことだ。
だというのに、サンダーバードはシュロさん達の方を見向きもせずに、私の方だけを見続けている。
(何? 何なのあの人? なんで私を見てるの?)
サンダーバードの放つ異様な視線に、思わず私は狼狽する。
まるで鷹に目をつけられた小動物の気分だ。
今すぐ逃げ出したいが、この場を離れるわけにもいかない。
彼女の方を見なくとも分かるくらいの露骨さに、頬に冷や汗が垂れる。
「どうか、後で絡まれませんように……」
その後もずっと謎のサンダーバードは、熱のこもった視線を浴び続けてきた。
私は居心地の悪さをごまかそうと、頑なに正面のシュロさんのダンスを見つめ続けることで、何とかこらえ続けた。
―――――
一通りのダンスと歌が終わり、シュロさん達が深々とお辞儀をする。
辺りには踊り終わった彼女たち以上に、汗を掻いたご主人様達の拍手が飛び交っている。
「ふぅ……」
私は全身の強張りをほぐすように椅子の背もたれに寄りかかる。
どうにかトラブルなくイベントを終えることが出来た。
こんなに緊張したのは、はじめて音響を任された時以来かもしれない。
強張った尻尾もだらりと地面に投げ出すと、ステージ周辺の喧騒の様子を遠い視線で見つめる。
少々だらしない恰好だけど三面の壁のおかげで、意識して見ない限り私の姿がご主人様達に見えることはない。
さてと。
私は伸びをする不利をして身体を後ろに反らせる。
そして、ゆっくりと。
決して彼女と目が合わないように。
ちらりとだけ、さっきのサンダーバードの座っていた座席の方を見る。
彼女の姿は、なかった。
すでにそこは、空席となっていた。
緊張の糸が途切れかのように、伸びた上体を起こしてうずくまり、盛大に息を吐き出した。
「さっきのは一体、なんだったのかしら……」
「よう」
「ひぃ!」
不意に後方から飛んできた言葉に驚き、私の獣耳がピンと跳ねてしまった。
噂をすればなんとやら。
いつの間にか、さっきのサンダーバードが私のすぐ隣まで近づいてきていた。
「やぁお疲れ様」
「は、はい。どうも」
「すごく良い曲だったよ。楽しかった」
とっさのことで慌てふためく私を余所に、彼女は気楽そうに声をかけてくる。
本当に一体なんなの、この方は。
「えっと……ありがとうございます」
不信感が漏れそうなところを、ギリギリ何とか誤魔化せた。
「アタシ魔物で、しかもメイドでDAW使っているヤツ初めてみたよ。尊敬するぜ」
「わっ……」
妙にテンション高めの声で、サンダーバードは私の両手を掴む。
正確には掴むというより、羽根で包むといった感じだ。
「そんな、大したことではないですよ」
「謙遜するなよ。作詞や作曲とかも全部アンタが?」
「いえ、作詞やダンスの振り付けはシュロさ……他のメイドにも協力してもらってます」
「へぇ、すげぇな。最近のメイドもやるもんだな」
ナイルグリーンの翼にブンブンと腕を振り回されながらも、私はとりあえずの社交辞令を返しておく。
だけど、その胸の中は猜疑心で満たされていた。
突然現れたかと思えば、暑苦しい熱視線を送り、馴れ馴れしく振る舞ってくるなんて、妖しすぎる。
怪しい何かの勧誘の人?
わざわざ、こんな昼間の時間に?
相手は魔物だし、もしかしてご主人様の身内の一人かもしれない。
こういう仕事をしていると、変な人も時折いらっしゃる。
いったん絡まれると、しばらく粘着される可能性もあるので警戒は必要だった。
しかも相手は珍しい魔物の来客ということだけあって、不安な要素が多い。
とにかく相手を下手に刺激しないよう、私はあくまで笑みを保ちつつ、警戒を解かないように出方をうかがわねば。
「それじゃあいいモンも見れたし、アンタの仕事の邪魔もしちゃ悪いから、アタシはこれで」
「えっ?あ……はい。ありがとう、ございました」
一通りの激励を送ってきた彼女が、ふいに私の手を離す。
ついお礼を言ってしまったが、頭の方は拍子抜けていた。
てっきりどこかに呼び出されて、ネズミ講とか変なお薬を売りつけるとか、胡散臭い契約の話をされると思っていたのに。
(考えすぎだったかしら?)
私は訝しみながらも解放されたことに、少しばかりホッとする。
でももし本当にただのお客なら、あの熱い視線の割に、引き際が妙に淡泊なのが少し気になる。
いえ。
そもそもメイド喫茶にまで来て、裏方の私に興味を持つなんて、それだけで普通じゃないわね。
そんな風に考えていたせいで、油断していた。
「閉店後、また来る。話はそこでする」
ふいにサンダーバードの顔が、私の耳元に近づいた。
「な……!?」
一変して、彼女の低いトーンが私の耳元に響く。
私はこらえきれずに、肩を震わせてしまう。
「それじゃあな。待ってるぜぃ」
用は済んだとばかりに、サンダーバードはさっと踵を返す。
そのまま会計を済ませると、さっさと店を出ていってしまう。
彼女の姿が完全に見えなくなったところで、ようやく私は肩と獣耳の力を抜くことが出来た。
「はぁ……」
「ナベちゃん、どうしたの?」
先ほどまでご主人様達に手を振っていたシュロさんが近づいてきた。
「いえ、今サンダーバードのお客さんが……」
「サンダーバード?」
首を傾げたシュロさんは、少し考えた後に、口を開く。
「そういえば、確かにさっき来ていたわね。珍しいとは思ったけど、なんだか気難しい顔をしていたし、私はあまり声をかけなかったわ」
気難しい?
シュロさんのその言葉に、私は引っかかる。
確かに怪しい雰囲気は漂わせてはいたし、実際面倒なお客だった。
しかし私に接してきた彼女の様子は少なくとも、気難しいと言う印象は受けなかった。
でも詐欺師の方って基本的に優しい雰囲気だって聞くし……。
「そのサンダーバードの方が、どうかしたの?」
「……実はイベント中、その方にずっと見られていまして」
「えぇ? 何よそれ、怖いわね……何かされなかった?」
「いえ、特に何もされませんでした。その、曲を褒められたくらいで」
「曲を?」
本当はシュロさんに、彼女の去り際の発言も話すべきだったかもしれない。 つい、ごまかしてしまったことを後悔してしまう。
でもさっきの、シュロさんの彼女への印象を聞いて、巻き込みたくないと思ってしまった。
シュロさんは、私の不自然な態度を怪しんだのか。
勘ぐるような目つきで私を捉えてくる。
「本当に、何もありませんよ」
「そう……なら、いいけど」
そういうとシュロさんは諦めたように、頭をガクンとななめ下に落とす。
その仕草に少しばかり罪悪感も沸いたけど、確かに何もされていないのは本当だ。
だけど「閉店後に待っている」という意味深な言葉。
それだけが私の胸に引っかかっていた。
こんな昼間にやってきておいて、閉店後まで待つなんてまともじゃない。
でも、なんで?
そこまでして、何のために私に会いたがるの?
「ナベちゃん?」
「え……」
シュロさんの声と覗き込むような顔つきで、ようやく我へと返る。
自分の顔を触ると、頬が引きつっていることに気付いた。
「ねぇ。本当に大丈夫?もし何かあるなら警察を……」
「ご心配ありがとうございます。でも実害は本当に何もありませんから」
「あってからじゃ遅いのだけど」
「うっ、すみません……」
「いいのよ。言いたくなってからいいから。私はいつでも相談にのるわ」
シュロさんは脇から私の肩を叩き、囁くように耳元でそう告げる。
私が小さく頷くと、気を取り直したかのように、笑みを漏らす。
「さ、ナベちゃん。ほら」
シュロさんがそういって、カウンター席の方へと私の背中を押す。
その先では俊介ご主人様が、汗だくになりながら手を振っていた。
「一人で考えていると気落ちするわ。こういう時は俊介ご主人様のオタ話でも聞いて気をまぎらわしたら?」
「あはは……そうですね」
シュロさんのアドバイスに従い、私は俊介ご主人様に手を振り返す。
ご主人様の手には、さっきの私達メイドのブロマイドが握られている。
彼の手汗に塗れたメイド達の顔を見ていると、どうにも複雑な気分になる。
横にいたシュロさんも、いつの間にか次のご主人様の対応に向かっていた。
(大丈夫、大丈夫よ)
心の中で呪文のように繰り返すが、胸の奥はいつまでもむず痒いままだった。
ふとさっきのサンダーバードの、ナイルグリーンの翼を思い出す。
この店のモチーフにもなった、童話の『青い鳥』とは全く違うあのサンダーバードを、なぜ私はさっき「青い鳥」と呼んでしまったのか。
いえ、今はそんなことはどうでもいいわ。
さっきのことは、とりあえず忘れることにしよう。
「俊介ご主人様、どうでしたぁ?」
私は営業用の笑顔を用意して、俊介ご主人様に寄っていく。
最初は苦労したこの甘ったるい声の出し方だって、軽く意識するだけで簡単に出せるようになった。
私は大丈夫。
秀でた部分は何もない。むしろダメなところの方が目立つけど、ちゃんと働いている。
今のこの仕事場を見つけられたことだって幸運だと思っている。
アルバイト並みの給料でも、メイドとして働けるのなら、大抵のことは水に流せる。
私はちゃんと、"メイドのキキーモラ"として生きている。
童話『青い鳥』のチルチルは、己の幸せのために、どこにいるかも分からない幸せの青い鳥を無我夢中に求めて彷徨っていた。
しかし結局は、彼の家の元にいた普通の鳥が、その青い鳥だったという。
幸せは、自分自身の回りに隠れているのだと言いたいのだろう。
そしてキキーモラにとっての幸せとは、使える主人の世話をすること。
そういうことならば、今のこの【ブルーバード】こそが、まさにそうじゃない。
何も考える必要なんて、ないじゃない。
17/05/01 01:42更新 / とげまる
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