ソフィリアは１０回の敗北を重ねた。



チェスで勝ち続けるということは非常に難しい。
例えどのような腕を持った棋士であろうと、少しの判断ミスで簡単に敗北するのである。
チェスの大会で頻繁に用いられるルールは三回勝負を行い、成績が良い方の勝利とするものだ。
そもそもチェスには引き分けのルールが存在する。それはステイルメイトと言うルールだ。
自分の手番に反則にならずに駒を動かすことが不可能になった場合、引き分けとなる。
数が減ってしまった指し手の選択肢の一つとして引き分けに持ち込むという戦術が存在するのだ。
最上位の戦いになるとなんと引き分けの可能性は５割を超えるとすら言われた。
いや、ステイルメイトの説明をする必要はあまり意味が無い。
今回のルールではステイルメイトになった方が負けという明快なルールの元に行っている。
しかし、王子の勝利は引き分けですら無い、王子の一方的な勝利で終わっていた。



だから、１０回連続の敗北というこの状況は。


　　異常である。


ここまで引き離される程の差は無かったはずだ、現に最初の対局は互角であった。
いや、最初の対局は宛にならない。二回目以降の対局の指し手は初回と全く性質が違う。
気品、力強さ、鋭さ。そのようなものは一切感じられない。別人が指しているかのような違和感。
駒の好み、戦況構築の手管、選択する戦略。その全てが最初の対局と似ても似つかないのだ。
切り分け、隙間を抜い、磨り潰す。自動的に駒を動かしているとすら思える手の数々。
ただ淡々と駒をすすめるだけの機械的なチェス。そこに彼の感情は一切介入しない。


誰だ、この男は。


ソフィリアは今度こそ替え玉という話を真剣に検討した。
しかし、観察中に魔力の色なども見ている、彼が本人であることには間違い用が無かった。
なにせ魔力の色を観察したのはソフィリア自身なのだ。これは否定された。
次に他者に遠隔操作されている可能性を考慮した。だが、それはこの戦いにおいてはありえない。
決闘の為に用意されたこの部屋には強力な対魔法の処置が施されている。
魔法の中には頭の巡りを活性化するものある。魔法はどのようなものでも公平性を保てない。
この空間の中では殆ど魔法は効果を維持できないようになっている。
しかもその機能を用意したのは部下のバフォメット。
彼女達に感づかれずに上書きするなど、そのようなことが可能なのだろうか。
もし、可能であるならばそれは勇者でも、大魔術師でもなく、もはや神の所業だ。
むしろ不正を行えるとしたらそれはこの場所を用意した魔王軍の陣営なら可能だ。
しかし当然ながら自分が敗北するような不正などを行う必要性は無い。
故にこの戦いにおいて一切の不正は認められなかった。


つまり、目の前に座る男がマクシミリアン王子であることには疑いようが無かった。


護衛の部下たちも戸惑っている。いや、王子の護衛としてついてきた騎士ですら当惑していた。
彼に何が起きたのか誰も分からなかった。対局しているソフィリアからすれば混乱するしかない。
初日の戦いですら読み合いと先を見越した判断を要求される高度なものであった。
しかし、そこから先の対局全てにおいてソフィリアは彼の指す手に対応出来なかった。
まるでソフィリアの思考、いや。ソフィリア自身が全て見ぬかれているかのような指し手の数々。
最早これは決闘と呼べる戦いでは無い。それほどの実力差が存在した。

ソフィリアの頭には勝利のイメージはついに浮かばなかった。

一切の不正は無い。内容そのものは正しくチェスの試合である。
だが、これはマクシミリアン王子による一方的な暴力。勝負では無かった。

「 ･････あなたは、何者ですか。 」
ソフィリアは必死の思いで言葉を搾り出し、疑問を投げかける。
息が荒い。全力を尽くした敗北からダメージが抜けきっていないのだ。

「　４回めの対局の時と同じ質問ですね。
　　王子マクシミリアンです。私はそれ以外の答えを持ちませんね。
　　替え玉をお疑いならば出生に立ち会った者、教育担当、果ては兄までお呼びしますが？　」
笑みを崩さず王子は答える。柔和なものに見えていた笑みが今はまるで仮面に見える。
一切の感情を映さぬ鉄壁の仮面。それがマクシミリアン王子の表情に張り付いていた。
しかもその返答は彼がマクシミリアン王子であることを証明出来るものであった。
たとえ彼らが誘惑されて隠し事を洗いざらいさらけ出しても痛くも痒くもない、と。

「　いえ、そうではありません。あなたは本当にただの人間なのですか・・・？　」
ソフィリアは疑問に思っていた事をつい口に出してしまった。
侮辱する意図は無かったが軽率な発言である。しかしソフィリアにその余裕はなかった。
何か一つでも情報が欲しい。せめて"何が起きているのか"を解決する糸口が欲しい。

「　正真正銘、ただの人間です。戦の才も無い、魔法の才も無い非才な人間です。」
王子はそう告げた。だが、その後に告げた王子の言葉はソフィリアを更に混乱させた。



「　リリムの誘惑に膝を屈したことがあるだけの。ただの人間です。　」



＊　　　＊　　　＊



次に対局を挑むのに一週間の休息を挟んだ。
これからも１日１回ではなく、間を開けた対局をしていく予定になっていった。
心を整え、体力を取り戻すためにそれほどの休息が必要だったのだ。
ソフィリアはひどく消耗していた。心を磨り潰すような戦い。
上手く睡眠を取ることも出来ていなかった。夢ですら王子と対局していたのだ。
夢の中ですら首を握りつぶしてくるような王子のチェックメイトの声。
飛び上がるように起きてしまう。汗でびっしょりになっており息を整えるのに時間が掛かる。
もはや王子との対局は悪夢そのものとなっていた。


ソフィリアの自信とプライドは完全に打ち砕かれていた。


しかもソフィリアはこの休息の１０日間を有効に過ごすことが出来ていなかった。
なぜなら、この１０日間は魔王軍にとって致命的なダメージを与えていた。
士気が激減していたのだ。幸い優秀な部下達が統率していたが、不満の声は隠せなかった。
すぐに国を落とすことが出来るという戦争であったのに停戦は解除されず降伏もされない。
軍の殆どを構成する魔物達は餌を目の前にしておあずけを食らっているようなものだ。
元より感情での行動が非常に強い魔物達に長期間の待機というのは向かない。
しかもそれがいつまで続くか分からない。不満の声が上がるのは当然と言えるだろう。
その理由はソフィリアが軽率に受諾した決闘。総指揮官の解任の声すら上がっていた。
ソフィリアは士気を維持するための策を複数出し、事なきを得たが一時凌ぎにしかならない。

結局、ソフィリアが王子に勝てねば現状を打破出来ないのだ。
約束を反故にし、侵攻すればあっという間に決着がつく戦況。
しかし総指揮官であり、魔王の娘であるソフィリアが決闘の内容を反故することは出来なかった。
決闘の誓いを反故すればソフィリアの名声は地に落ち、更には魔王の威信にも傷をつける。
反故を期に親魔物領が寝返る可能性すら生まれるのだ。故に決闘の内容は覆せない。
しかもソフィリアが敗北した時の条件がまた厄介であった。

次の対局が終わるまでの間、停戦の協定を結ぶ。

最悪の場合、王子が死んでしまったらもう魔王軍はこの国を侵攻することができなくなる。
いや、自殺や病死などの場合は難癖をつけることも出来るだろう。
しかし、王子を此方としても守らねばならないし、此方から害すなど絶対に出来ない。
王子には対局の場に座って戦ってもらわねばならないのだ。


だが、実際に対局するソフィリアは王子と戦う気勢が削がれていた。
何をやっても勝てるビジョンが浮かばない。

無力感と絶望感。

ソフィリアがどんな手を使おうとも無意味とすら思える。
上回ってくるのではない。その手を打たれた時点でチェックメイトまでの道筋が立ってしまう。
ソフィリアが動かせば駒がそれに応じて自動で動く、機械的なチェス。
王子の長考は少ない。それが決まった手順で決まった動かし方をしている、という感覚にさせる。
何手目でどの駒をどう動かすかまで既に彼は知っているかのような早打ち。
それは最早未来予知の領域である。
いや、それは疑った。しかしここまで多く、狭く、長く、正確な未来予知など不可能だ。
時間の操作も疑った。だがバフォメットですら難しいとされる禁呪を安々と使えるわけが無い。
やはり、魔術の匂いは一切感じられないのだ。

だがもうあの盤の前に立ちたくない。
なにせ、決闘という名目で向かい合った盤を前に一人で座っている感覚にすら襲われていたのだ。
あのチェス盤の天幕が、まるで白塗りで窓も扉もない牢屋のように思えた。
実際にはソフィリアが用意した天幕である。
だが、逃げ場も味方もいない。狭く作ったつもりはないのに圧迫感を覚える。
その牢屋で一人でチェスを打たされる。それは、拷問か断罪か。
敵が見えない孤独な戦い。揺さぶられミスを重ねていき、自分のミスで敗北を繰り返す。


もはやマクシミリアン王子との対局に恐怖すら覚えていた。

■作者メッセージ
打ちひしがれる女の子って可愛いですよね（微笑）