第七十八話・荒れ狂う大河、それは…
クスコ川の様子、そしてハインケル=ゼファーについて報告しようと、リトル=アロンダイトが養父である騎士団団長ファラ=アロンダイトの幕舎に入ると、まだ夜も明けないうちであったにも関わらず彼は目覚めていた。
簡素な椅子に腰掛け、ファラは目を閉じ微笑んでいる。
「あ…、お邪魔でしたか。」
「…………そうでも、ない。」
ファラは雨に濡れたリトルに大きなタオルを投げる。
これで身体を拭けと、やさしい目が言っていた。
一言礼を言って、リトルはガシガシと髪を拭き、鎧を拭く。
「………夢を…、見た…。」
タオルに身体が隠れてしまったリトルに、ファラは語りかけた。
「珍しいですね。義父上がそんなに嬉しそうな顔をするなんて。」
「……ネヴィアの、……夢、だ。」
「…!?」
彼が見たという夢にリトルは身体を拭く手が完全に止まる。
自分の憧れ。
子供心の幼い初恋。
そして行方不明の今でも心の母だと思っている人。
「…………あの頃の、俺の……、罪だ…。」
ファラの心にはいつもネヴィアへの罪悪感があった。
彼女に何かをした訳ではない。
だが、彼はいつも感じていた。
自分が彼女を愛さなければ、きっと今でも彼女は燦然と輝く天使のままだった。
快楽からではないにしろ、神の教えを裏切り、ファラという一人の人間を愛してしまったが故に堕天してしまったネヴィアを、裏切り者を討てと迫り来る教会の命を受けたフウム王国所属の騎士たちから守れなかったことを、十数年経った今でも悔いていた。
その頃の記憶が、夢という形で彼をしばしば責めていた。
「……リトル。」
「はい…。」
「…ネヴィアが、………恋しいか?」
それはリトルにとって、義理の母になってくれたかもしれない人として。
それはヴァルハリアに味方する立場の彼にとって、今でも心に焼き付いた人であり、王や大司教に睨まれても尚、魔物を斬れない彼のやさしいトラウマ。
そんな両方の意味での問いかけであった。
「…はい、今でも…、あの人は僕の憧れですから。」
「………俺も、だ。」
そう言ってファラは椅子から腰を上げ、リトルの横をすり抜けると幕舎の入り口の幕を開いて、雨の降り止まぬ空を見上げた。
いつだってこんな空模様だ、と彼は自分の心を例える。
届かない思い、こんな時代に彼女が守ろうとした若い世代を巻き込んだことを、彼はいつも声を殺して、心を殺して、ただ心の内で涙し続ける。
王国の騎士に襲撃を受け、幼かったリトルは人質になり、ネヴィアの身の安全を図るために彼は自ら投降し、暗い幽閉生活を孤独の中で選んだ。
ネヴィアは彼女の存在を感じ取った堕天使たちの手で危機を逃れ、彼女たちと共にパンデモニウムへと旅立っていった。
それ以来、ファラはネヴィアの消息を知らない。
彼はいつもそんな辛い過去を夢で見せ付けられ、自らの無力さを突き付けられる。
だが、いつもと変わらない夢だったにも関わらず、その日、ファラの目覚め心地は違っていた。
「………気分が、…良い。」
まるでこれまでの悪夢から解き放たれたような心地。
それはまもなく始まる戦乱に心が躍るのか。
それとも何か別の良い予感を感じているのか。
贖罪の日々の終焉は近い。
―――――――――――――――――――――――
「余が皇帝、ノエル=ルオゥムである。誰もが見放した我が帝国に援軍を送っていただいたこと、全臣民に代わって礼を言う。だが、最上の礼を以って、そちたちの想いに報いたいのだが、陣中であり、余もご覧の有様故にこのような格好で失礼をする。」
「いえ、お構いなく。それに我らはただラピス殿の熱意に打たれただけ。そして我らが王に戦えと命じられたからこそ、参上したのです。ですから、その感謝は我らではなく、ラピス殿へとお向けいただきたい。」
学園都市セラエノを発って4日後、雨が降りしきる中、龍雅たち先発隊は帝国軍の本陣に合流し、龍雅は4日間休みなく走り続けた先発隊の面々の慰労をアルフォンスやサイガに任せると、一人、ノエル帝との謁見を果たしていた。
セラエノ軍先発隊が僅か4日で辿り着けたのは、龍雅がこの先発隊をすべて熟練した騎兵で構成したこと、そして大陸の鎧のように重い鋼の鎧ではなく、全員が東洋系の比較的軽量の鎧を身に纏っていたことで、実現出来たのである。
そして、ノエル帝はこのような格好で、と言ったのは、未だ腹の刀傷が癒えておらず、彼女は正装はしたものの、侍従のキリエの押す車椅子に乗って龍雅の前に現れたからである。
「まさか余の同盟国ではなく、余と敵対する立場、それもヴァルハリアの定めた神敵が余に援軍を送ってくれるとはな…。いや、余も考えを改めねばなるまい。魔物に対する認識を…、な…。」
ノエル帝は脇腹を押さえ、顔を歪める。
「…陣中では治療も満足に出来ないでしょう。僅かばかりではありますが、我が軍にも医療に従事した者がおります。もしも皇帝陛下がお嫌でなければ、その者たちに治療を命じます。即刻治る、などとは申しませんが、せめて痛みは和らぐかと思います。」
龍雅の申し出にノエルは感謝し、彼にそのことを頼んだ。
龍雅には別の目的があった。
それは帝国軍の陣に入った時に、人々が龍雅たちを見て口々に陰で罵っていたことに起因する。
汚らわしい人外の者、堕落した者たち。
反魔物勢力に入ればきっと嫌でも耳に入る言葉を彼らは囁き合っていた。
もし、皇帝が彼女たちを認めれば。
それは否が応にも誰もが認めざるを得ないであろう。
そうでなければ、今後の戦闘に差し支えるからであった。
「お聞き入れ感謝致します。それとついでではございますが、あの対岸の連合軍に手痛い大打撃を与える策があるのですが、お聞き入れ願いますか?」
「あの、大軍に大打撃!?……痛っ。」
「あまり無理をなさいますな。簡単な話です。今は荒れ狂うあの川を利用するのです。それも荒れ狂っている方が都合が良い。事は速さを要します。もしも皇帝陛下に我が策を用いていただけたならば、我ら紅蝶の旗に集う者たちがその作業に当たらせていただき、この手柄を我らの手土産として献上致したく思います。」
龍雅は帝国軍本陣へ参上する前に、周囲の地形を頭に叩き込んで来た。
どの土地に兵を伏せるべきか、どの土地に注意しなければならないのかを偵察隊と共に注意深く観察して来たのである。
「して、その策とは…?」
「は、水計にございます。」
「……!そうか、その手が……!……クソ、この痛みさえなければ…!」
ノエル帝も学のない人物ではない。
だが、数百年間もの長きに渡ってクスコ川は防衛のための天然の堀であるという慣習と固定観念が、彼女の視野を狭めていた。
「……そうか、この長雨で益した水かさこそが最大の武器だった。余は恥ずかしい。生まれ育った祖国を知り尽くした気になって、祖国を守る最大の手を目の前で放置していたとは…。タツマサ殿、お頼みしてよろしいか。この通り、動けない余の代わりに…。」
「心得ております。作業はすべて我らが手勢にて……。軍師殿、出番ですぜ!!」
皇帝の幕舎にレインコートを着たバフォメットが飛び込んで来た。
「すでに準備済みじゃ!傭兵たちから特に力の有り余った若いのを千人見繕ってスコップとツルハシ担いで、オヌシの号令を待っておる。オヌシに人選をする時間はないと思っておったから、ワシが勝手に見繕っておいたわ!!」
「…タ、タツマサ殿?彼女は一体…?」
ノエル帝は初めて見る魔物、それも大物であるバフォメットを目の当たりにして目を丸くした。
「彼女は我が軍の軍師の一人でございます。筆頭軍師は我らが本拠地にて、我らの勝利を祈って本拠地の守りを固めてございますが、彼女もなかなか。特に攻勢に打って出るならば、彼女程適任はおらぬと断言出来まする。軍師殿、皇帝陛下の許可はいただいた。早速、作業を始めてくれ!!」
バフォメットは親指を立てて、了解した。
「任せるのじゃ!ソロモン宮殿並みのすんごい仕掛けを作ってやるわい!!」
バフォメットは幕舎から駆け出ると、外に繋いでいたポニーに跨り、1000人の傭兵、そして後学のためにとサイガを引き連れてクスコ川の上流へと向かって行った。
ただし………。
かっぽ、かっぽ、かっぽ、かっぽ
「ま、待って〜!ワシの愛馬の歩幅を考えるのじゃ〜!!お、置いて行かないで〜!ひ、一人で暗い雨の中を走るのは嫌じゃあ〜〜〜!!!」
案の定、置いてきぼりを食らっていた。
しかし、そんな彼女がどうやって龍雅たちに追い付いたのか。
それは戦後50年経った今尚、オーパーツやピラミッドと並ぶ歴史ミステリーとしてしばしば歴史研究者たちの頭を悩ませているのである。
―――――――――――――――――――――――
「陛下、良かったですね。」
龍雅たちが退室して、ノエル帝は再び床に臥した。
簡易ベッドの上で、傷のために熱を出してしまったノエル帝は侍従キリエに濡れたタオルを額に当てられて、その献身的な看病を受けていた。
彼が皇帝に良かった、と言ったのは援軍をラピスが連れて帰ってくれたこと。
ラピス以外の使者はすべて援軍を連れて帰って来れなかった。
それ故に皇帝は、すでに半ば援軍を諦めていたところがあった。
キリエの言葉に、皇帝は彼に意外な言葉を言った。
「キリエ……、これは嘆くべきことだ。」
「え……。」
「ラピスは運良く、彼らを味方に付けることが出来た。それだけなのだよ。その証拠に他の国に、それも祖父の代から同盟を続けてきた国々に向かった者たちは誰一人、援軍を連れて帰って来れなかった。キリエ、覚えておきなさい。今、時代は混迷を極めている。盟とは、何か。盟とは互いの信頼に成り立つもの。それは軽々しく破ってはならぬものなのだ。だが、彼らは教主国が相手だからと、不確かな神罰を恐れ……、また劣勢に陥った帝国が死に体になったところを喰らい付こうとするハゲタカのように虎視眈々と盟を破る者たちで溢れている。」
ノエル帝は拳を握って涙を流す。
「キリエ、お前は忘れてはいけない。どんなに時代が牙を剥こうと、仁義を忘れてはいけない。我らの味方が危機に陥れば、余は自ら大軍を率いて、あらゆる理不尽からそれらを守る気持ちだった。だが、彼らはどうか。仮初めの大義に怯え、己が欲と利に心奪われ、同胞である我らを見捨てた。キリエ、お前はその目で理解してくれたであろうな。余と同じ義で動いたのは、味方ではない。余や多くの信者たちが神敵と信じる者たちが、これまでの反魔勢力のしてきたことへの恨みや憎しみを心の奥底に沈め、ただ義のために動いてくれた。余は……、これで完全に教主国への思いを断ち切れた。」
「陛下は、帝国を親魔物勢力へと体制を移行されるおつもりですか?」
キリエの言葉にノエル帝は笑って首を振った。
「今更、余が軽々しく鞍替えなど出来ぬ。だが、余の代が終わったらそうしても良いと思える。何故であろうな。あの者たちを見ていると、もう少しだけ生きてみたくなる。命とはあれ程までにキラキラと輝いていたのだな…。」
「そうですね。本当に、戦場ではなく…、どこかピクニックにでも行くような感じですものね。」
「会ってみたいな…。あの者たちによって選ばれた王に。あの者たちが笑顔で死んでいけると断言する程の王とは如何なる存在なのだろうな。」
ノエル帝は目を閉じ、深い息をする。
自分は皇帝になった。
しかしセラエノの王は選ばれた。
その大きな意味の違いを噛み締めながら、彼女は改めてこの戦争に勝つことを誓う。
「余は皇帝。余は神聖ルオゥム帝国22代皇帝、ノエル=ルオゥムだ。神を騙り、無為に憎しみをばら撒くヴァルハリアに鉄槌を!例え数で勝り、武運尽きようとも我が臣民には、命に代えても手出しはさせぬ!!」
それは新たな決意表明。
重臣たちはいなくとも、彼女は傷付いた身体に、熱い心を再び燃やす。
その彼女の決意を、キリエは跪き、感動に震えながらノエル帝に誓った。
「そのような重大な決意を……、従僕の私にお聞かせいただけたとは、まさに至上の喜びであります。微力ながら私も陛下に付き従い、この命尽きるまで……!」
「キリエ、それはいけない。」
「陛下…。」
「お前は死んではならない。お前は余の語り部として生き、帝国の存亡をその目に焼き付けることを命じる。もしも余が先に地平の楽園へと旅立ってしまったら、お前は抱えきれない程の土産話をその脳漿に詰め込んで余の下へ来るのだよ。そうでなければ、何を楽しみにあちらで生きるのかい?」
皇帝は笑って、跪くキリエの頭を撫でる。
少年はただ顔を伏せ、皇帝の気遣いに涙していた。
その時、幕舎の入り口が開き、セラエノ軍の軍医が薬と治療道具を持って現れた。
ノエル帝は足を運んでくれた彼らに礼を述べると、キリエを下がらせる。
「余の裸がまた見たいのであれば、いても良いぞ。」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉に、キリエは慌てて否定すると、もつれる足に転びながら奥へと下がっていくのであった。
まるでセラエノ軍を待っていたかのように、その夜、雨が止む。
日が昇れば、再び戦争が始まるであろう。
その時、果たして生き残るのはどちらなのか…。
簡素な椅子に腰掛け、ファラは目を閉じ微笑んでいる。
「あ…、お邪魔でしたか。」
「…………そうでも、ない。」
ファラは雨に濡れたリトルに大きなタオルを投げる。
これで身体を拭けと、やさしい目が言っていた。
一言礼を言って、リトルはガシガシと髪を拭き、鎧を拭く。
「………夢を…、見た…。」
タオルに身体が隠れてしまったリトルに、ファラは語りかけた。
「珍しいですね。義父上がそんなに嬉しそうな顔をするなんて。」
「……ネヴィアの、……夢、だ。」
「…!?」
彼が見たという夢にリトルは身体を拭く手が完全に止まる。
自分の憧れ。
子供心の幼い初恋。
そして行方不明の今でも心の母だと思っている人。
「…………あの頃の、俺の……、罪だ…。」
ファラの心にはいつもネヴィアへの罪悪感があった。
彼女に何かをした訳ではない。
だが、彼はいつも感じていた。
自分が彼女を愛さなければ、きっと今でも彼女は燦然と輝く天使のままだった。
快楽からではないにしろ、神の教えを裏切り、ファラという一人の人間を愛してしまったが故に堕天してしまったネヴィアを、裏切り者を討てと迫り来る教会の命を受けたフウム王国所属の騎士たちから守れなかったことを、十数年経った今でも悔いていた。
その頃の記憶が、夢という形で彼をしばしば責めていた。
「……リトル。」
「はい…。」
「…ネヴィアが、………恋しいか?」
それはリトルにとって、義理の母になってくれたかもしれない人として。
それはヴァルハリアに味方する立場の彼にとって、今でも心に焼き付いた人であり、王や大司教に睨まれても尚、魔物を斬れない彼のやさしいトラウマ。
そんな両方の意味での問いかけであった。
「…はい、今でも…、あの人は僕の憧れですから。」
「………俺も、だ。」
そう言ってファラは椅子から腰を上げ、リトルの横をすり抜けると幕舎の入り口の幕を開いて、雨の降り止まぬ空を見上げた。
いつだってこんな空模様だ、と彼は自分の心を例える。
届かない思い、こんな時代に彼女が守ろうとした若い世代を巻き込んだことを、彼はいつも声を殺して、心を殺して、ただ心の内で涙し続ける。
王国の騎士に襲撃を受け、幼かったリトルは人質になり、ネヴィアの身の安全を図るために彼は自ら投降し、暗い幽閉生活を孤独の中で選んだ。
ネヴィアは彼女の存在を感じ取った堕天使たちの手で危機を逃れ、彼女たちと共にパンデモニウムへと旅立っていった。
それ以来、ファラはネヴィアの消息を知らない。
彼はいつもそんな辛い過去を夢で見せ付けられ、自らの無力さを突き付けられる。
だが、いつもと変わらない夢だったにも関わらず、その日、ファラの目覚め心地は違っていた。
「………気分が、…良い。」
まるでこれまでの悪夢から解き放たれたような心地。
それはまもなく始まる戦乱に心が躍るのか。
それとも何か別の良い予感を感じているのか。
贖罪の日々の終焉は近い。
―――――――――――――――――――――――
「余が皇帝、ノエル=ルオゥムである。誰もが見放した我が帝国に援軍を送っていただいたこと、全臣民に代わって礼を言う。だが、最上の礼を以って、そちたちの想いに報いたいのだが、陣中であり、余もご覧の有様故にこのような格好で失礼をする。」
「いえ、お構いなく。それに我らはただラピス殿の熱意に打たれただけ。そして我らが王に戦えと命じられたからこそ、参上したのです。ですから、その感謝は我らではなく、ラピス殿へとお向けいただきたい。」
学園都市セラエノを発って4日後、雨が降りしきる中、龍雅たち先発隊は帝国軍の本陣に合流し、龍雅は4日間休みなく走り続けた先発隊の面々の慰労をアルフォンスやサイガに任せると、一人、ノエル帝との謁見を果たしていた。
セラエノ軍先発隊が僅か4日で辿り着けたのは、龍雅がこの先発隊をすべて熟練した騎兵で構成したこと、そして大陸の鎧のように重い鋼の鎧ではなく、全員が東洋系の比較的軽量の鎧を身に纏っていたことで、実現出来たのである。
そして、ノエル帝はこのような格好で、と言ったのは、未だ腹の刀傷が癒えておらず、彼女は正装はしたものの、侍従のキリエの押す車椅子に乗って龍雅の前に現れたからである。
「まさか余の同盟国ではなく、余と敵対する立場、それもヴァルハリアの定めた神敵が余に援軍を送ってくれるとはな…。いや、余も考えを改めねばなるまい。魔物に対する認識を…、な…。」
ノエル帝は脇腹を押さえ、顔を歪める。
「…陣中では治療も満足に出来ないでしょう。僅かばかりではありますが、我が軍にも医療に従事した者がおります。もしも皇帝陛下がお嫌でなければ、その者たちに治療を命じます。即刻治る、などとは申しませんが、せめて痛みは和らぐかと思います。」
龍雅の申し出にノエルは感謝し、彼にそのことを頼んだ。
龍雅には別の目的があった。
それは帝国軍の陣に入った時に、人々が龍雅たちを見て口々に陰で罵っていたことに起因する。
汚らわしい人外の者、堕落した者たち。
反魔物勢力に入ればきっと嫌でも耳に入る言葉を彼らは囁き合っていた。
もし、皇帝が彼女たちを認めれば。
それは否が応にも誰もが認めざるを得ないであろう。
そうでなければ、今後の戦闘に差し支えるからであった。
「お聞き入れ感謝致します。それとついでではございますが、あの対岸の連合軍に手痛い大打撃を与える策があるのですが、お聞き入れ願いますか?」
「あの、大軍に大打撃!?……痛っ。」
「あまり無理をなさいますな。簡単な話です。今は荒れ狂うあの川を利用するのです。それも荒れ狂っている方が都合が良い。事は速さを要します。もしも皇帝陛下に我が策を用いていただけたならば、我ら紅蝶の旗に集う者たちがその作業に当たらせていただき、この手柄を我らの手土産として献上致したく思います。」
龍雅は帝国軍本陣へ参上する前に、周囲の地形を頭に叩き込んで来た。
どの土地に兵を伏せるべきか、どの土地に注意しなければならないのかを偵察隊と共に注意深く観察して来たのである。
「して、その策とは…?」
「は、水計にございます。」
「……!そうか、その手が……!……クソ、この痛みさえなければ…!」
ノエル帝も学のない人物ではない。
だが、数百年間もの長きに渡ってクスコ川は防衛のための天然の堀であるという慣習と固定観念が、彼女の視野を狭めていた。
「……そうか、この長雨で益した水かさこそが最大の武器だった。余は恥ずかしい。生まれ育った祖国を知り尽くした気になって、祖国を守る最大の手を目の前で放置していたとは…。タツマサ殿、お頼みしてよろしいか。この通り、動けない余の代わりに…。」
「心得ております。作業はすべて我らが手勢にて……。軍師殿、出番ですぜ!!」
皇帝の幕舎にレインコートを着たバフォメットが飛び込んで来た。
「すでに準備済みじゃ!傭兵たちから特に力の有り余った若いのを千人見繕ってスコップとツルハシ担いで、オヌシの号令を待っておる。オヌシに人選をする時間はないと思っておったから、ワシが勝手に見繕っておいたわ!!」
「…タ、タツマサ殿?彼女は一体…?」
ノエル帝は初めて見る魔物、それも大物であるバフォメットを目の当たりにして目を丸くした。
「彼女は我が軍の軍師の一人でございます。筆頭軍師は我らが本拠地にて、我らの勝利を祈って本拠地の守りを固めてございますが、彼女もなかなか。特に攻勢に打って出るならば、彼女程適任はおらぬと断言出来まする。軍師殿、皇帝陛下の許可はいただいた。早速、作業を始めてくれ!!」
バフォメットは親指を立てて、了解した。
「任せるのじゃ!ソロモン宮殿並みのすんごい仕掛けを作ってやるわい!!」
バフォメットは幕舎から駆け出ると、外に繋いでいたポニーに跨り、1000人の傭兵、そして後学のためにとサイガを引き連れてクスコ川の上流へと向かって行った。
ただし………。
かっぽ、かっぽ、かっぽ、かっぽ
「ま、待って〜!ワシの愛馬の歩幅を考えるのじゃ〜!!お、置いて行かないで〜!ひ、一人で暗い雨の中を走るのは嫌じゃあ〜〜〜!!!」
案の定、置いてきぼりを食らっていた。
しかし、そんな彼女がどうやって龍雅たちに追い付いたのか。
それは戦後50年経った今尚、オーパーツやピラミッドと並ぶ歴史ミステリーとしてしばしば歴史研究者たちの頭を悩ませているのである。
―――――――――――――――――――――――
「陛下、良かったですね。」
龍雅たちが退室して、ノエル帝は再び床に臥した。
簡易ベッドの上で、傷のために熱を出してしまったノエル帝は侍従キリエに濡れたタオルを額に当てられて、その献身的な看病を受けていた。
彼が皇帝に良かった、と言ったのは援軍をラピスが連れて帰ってくれたこと。
ラピス以外の使者はすべて援軍を連れて帰って来れなかった。
それ故に皇帝は、すでに半ば援軍を諦めていたところがあった。
キリエの言葉に、皇帝は彼に意外な言葉を言った。
「キリエ……、これは嘆くべきことだ。」
「え……。」
「ラピスは運良く、彼らを味方に付けることが出来た。それだけなのだよ。その証拠に他の国に、それも祖父の代から同盟を続けてきた国々に向かった者たちは誰一人、援軍を連れて帰って来れなかった。キリエ、覚えておきなさい。今、時代は混迷を極めている。盟とは、何か。盟とは互いの信頼に成り立つもの。それは軽々しく破ってはならぬものなのだ。だが、彼らは教主国が相手だからと、不確かな神罰を恐れ……、また劣勢に陥った帝国が死に体になったところを喰らい付こうとするハゲタカのように虎視眈々と盟を破る者たちで溢れている。」
ノエル帝は拳を握って涙を流す。
「キリエ、お前は忘れてはいけない。どんなに時代が牙を剥こうと、仁義を忘れてはいけない。我らの味方が危機に陥れば、余は自ら大軍を率いて、あらゆる理不尽からそれらを守る気持ちだった。だが、彼らはどうか。仮初めの大義に怯え、己が欲と利に心奪われ、同胞である我らを見捨てた。キリエ、お前はその目で理解してくれたであろうな。余と同じ義で動いたのは、味方ではない。余や多くの信者たちが神敵と信じる者たちが、これまでの反魔勢力のしてきたことへの恨みや憎しみを心の奥底に沈め、ただ義のために動いてくれた。余は……、これで完全に教主国への思いを断ち切れた。」
「陛下は、帝国を親魔物勢力へと体制を移行されるおつもりですか?」
キリエの言葉にノエル帝は笑って首を振った。
「今更、余が軽々しく鞍替えなど出来ぬ。だが、余の代が終わったらそうしても良いと思える。何故であろうな。あの者たちを見ていると、もう少しだけ生きてみたくなる。命とはあれ程までにキラキラと輝いていたのだな…。」
「そうですね。本当に、戦場ではなく…、どこかピクニックにでも行くような感じですものね。」
「会ってみたいな…。あの者たちによって選ばれた王に。あの者たちが笑顔で死んでいけると断言する程の王とは如何なる存在なのだろうな。」
ノエル帝は目を閉じ、深い息をする。
自分は皇帝になった。
しかしセラエノの王は選ばれた。
その大きな意味の違いを噛み締めながら、彼女は改めてこの戦争に勝つことを誓う。
「余は皇帝。余は神聖ルオゥム帝国22代皇帝、ノエル=ルオゥムだ。神を騙り、無為に憎しみをばら撒くヴァルハリアに鉄槌を!例え数で勝り、武運尽きようとも我が臣民には、命に代えても手出しはさせぬ!!」
それは新たな決意表明。
重臣たちはいなくとも、彼女は傷付いた身体に、熱い心を再び燃やす。
その彼女の決意を、キリエは跪き、感動に震えながらノエル帝に誓った。
「そのような重大な決意を……、従僕の私にお聞かせいただけたとは、まさに至上の喜びであります。微力ながら私も陛下に付き従い、この命尽きるまで……!」
「キリエ、それはいけない。」
「陛下…。」
「お前は死んではならない。お前は余の語り部として生き、帝国の存亡をその目に焼き付けることを命じる。もしも余が先に地平の楽園へと旅立ってしまったら、お前は抱えきれない程の土産話をその脳漿に詰め込んで余の下へ来るのだよ。そうでなければ、何を楽しみにあちらで生きるのかい?」
皇帝は笑って、跪くキリエの頭を撫でる。
少年はただ顔を伏せ、皇帝の気遣いに涙していた。
その時、幕舎の入り口が開き、セラエノ軍の軍医が薬と治療道具を持って現れた。
ノエル帝は足を運んでくれた彼らに礼を述べると、キリエを下がらせる。
「余の裸がまた見たいのであれば、いても良いぞ。」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉に、キリエは慌てて否定すると、もつれる足に転びながら奥へと下がっていくのであった。
まるでセラエノ軍を待っていたかのように、その夜、雨が止む。
日が昇れば、再び戦争が始まるであろう。
その時、果たして生き残るのはどちらなのか…。
11/02/18 00:53更新 / 宿利京祐
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