第七十九話・クスコ川防衛ライン①
「龍雅、準備が出来た。」
「…ギリギリ間に合ったな。」
ルオゥム帝国軍の本陣から４里西へ、クスコ川の上流に仮設したテントの中で紅龍雅は、ノエル帝からもらった周辺の地図を見ながら、アルフォンスから作業終了の報告を聞いた。
無事、川の塞き止めが終わった。
「伝令は出したか？」
「ええ、もちろん。アキたちにはすでに対岸に渡って、合図があり次第打って出れるようにしています。ダオラ様や双子将軍には帝国軍本陣にて、我々の連れてきた傭兵の残り２０００人を指揮していただき、帝国軍と共同戦線を張り、防衛に努めていただく手はずです。」
「……助かる。」
龍雅は地図と地形を交互に見比べながら、一睡もせずに朝を迎えた。
彼にしてみれば何度目の戦かもわからないが、彼の指揮下に入る者たちにとっては初陣。
彼は一人でも多く生き残らせたいと考え、絶えず思案を続けていた。
「……た、龍雅。少し休んだらどうですか。」
「心配してくれるのか。でも安心してくれ、こんなことは慣れっこだよ。俺が沢木を裏切ってから、新生丸蝶を作り上げた時もこんなものだった。」
「ロウガ様を裏切った…！？」
しまった、という顔をした龍雅だったが、すまなそうにアルフォンスに向き合う。
「……昔の話だよ。俺の国では御家を残すために多くの血縁を残すものでな、領主に滅ぼされそうだった沢木の血筋を残すために、俺たち紅家は沢木家を見限った。あの蝶の旗印も、元々はあいつが若い頃に率いていた組織の旗印だったものさ。アルフォンス、お前は裏切り者が自分の連れ合いでは…、嫌か？」
「……………いえ。それを言うなら私も裏切り者。私も砂漠のオアシス都市で今日を生きるために種族の誇りを捨て、力なき人々を守ってやれませんでした。あなたが自らを裏切り者だと仰るのでしたら、それで結構。お互い誇りに目を背け、後ろ暗い過去を持つ者同士。釣り合いが取れていると思いますよ。」
そっとアルフォンスは龍雅の手を握る。
龍雅は目を伏せ、彼女に感謝した。
「お前は……、やさしいな。」
「あなたこそ、兵卒を一人でも生き残らせようと策を考える将なんて大陸では聞いたことがありませんよ。」
「それはこの大陸の戦自体おかしいんだ。大体戦を知る物は誰でも理解している。戦を動かすのは一握りの将でも、実際に戦を決めるのは兵卒の群れだ。この大陸はあまりに兵卒を消耗品のように扱いすぎる。だから傭兵として金で命を買ったというのに、誰も彼もが湯水のように使い捨てる。それではいくら兵がいても足りない。」
龍雅は双眼鏡を取り出すと、遠くに見えるヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の広大に広がった陣を観察する。
雨が上がり、龍雅たちによって川が治まり始めたと知らずに、慌しく渡航準備をしている連合軍を見て、龍雅は毒付いた。
「あれが、兵と言えるか。具足の手入れもせず、血糊で汚れたまま戦に臨む。連中、神様の尖兵だと信じているらしいが、あれじゃあ地獄の悪鬼と変わりない。俺の故郷で知り合った稲荷様の方が余程神々しかった。」
見てみろ、と龍雅はアルフォンスに双眼鏡を渡す。
「……………酷い。血の臭いがここまで臭ってきそう。」
「皇帝に聞いたが、あれで宗教国の兵らしい。故郷にも僧兵というものがいたが、連中の方がもっと小奇麗にしていたぜ。」
あんなやつらと戦わなきゃならんとは、と龍雅は溜息を付く。
「みんなは？」
「……作業が終わって、そのまま泥のように寝ています。」
「よし、しばらく寝かせてやってくれ。俺たちの出番は、この川の堰を切った後なんだからな。」
うまくいくでしょうか、とアルフォンスは不安そうに尋ねた。
「…うまくいくとは？」
「あの川を利用して……、あれだけの数を押し流せるかどうか…。」
龍雅は不安そうなアルフォンスに笑いかけて、無理だと言った。
「あれだけの数を押し流す、なんていうのは……、お前さんの妹の好きな芝居や物語の世界だけだよ。うまく行って二千か三千……、まぁいくらでも良いんだ。俺たちがこの川に陣取っている間は、何度でもそんな手痛い打撃を受けることになると連中に思い込ませることが大事なんだよ。この策はそういう策なんだ…っと、そうだ。内通者からは何か連絡があったか？」
「ええ、つい先程。軍師様もそれと同じくして本陣へ戻られました。」
アルフォンスの下へクロコがハインケルの手紙を持参してきた。
兵卒をどう動かすか、将兵をどう動かすか、そして寝返りそうな可能性のある兵はどこに配置されているかという内容の手紙だったが、最後に『健闘を祈る』という彼らしからぬ気遣いの一言が添えられていた。
その手紙を龍雅はアルフォンスから渡され、読み終えるとフッと苦笑いをした。
「なるほどね。内通者殿はご存知のようだ。」
セラエノ軍のほとんどが初陣の者たちであること。
傭兵頼みの軍であることをハインケルは看破している、と龍雅は気付いた。
「まもなく戦闘が始まる。みんなには十分な休息を。俺たちの戦果は、如何に相手の不意を付き、敵兵を分断するかにかかっている。アルフォンス、お前も休んでくれ。この策は、お前の武も頼りにしている。」
「わかりました…。では、私も休ませていただきます。」
そう言ってアルフォンスは龍雅の腕に手を絡めた。
「…おい。」
「……休ませていただきます。あなたの副将アルフォンスとしてではなく、今しばらくは…、あなたを恋慕う女として傍にいさせていただきます。」
「………………いつか、戦が終わったら。」
「終わったら？」
「………いや、言うまい。続きは世が治まってから、言わせてもらう。」
龍雅はアルフォンスの肩を抱き寄せ、彼女の頭に頬を摺り寄せる。
アルフォンスも彼に寄り添い、束の間の安らぎに身を委ねた。
鎧に身を包んだ奇妙な恋人たち。
荒れ狂う大河に、自らの運命を重ねて、明日を生き抜くことを心に誓う。
―――――――――――――――――――――――
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の最前線は慌しくなった。
連日降り続いた雨が止み、クスコ川の流れが徐々に緩やかになっていったことで、軍上層部により渡河作戦が採決された。
これにはセラエノ軍との足並みを揃えるハインケルの言が大きな影響力を与えたとされている。
渡河作戦に、真っ先に投入されることとなったのはヴァルハリア領民の兵卒およそ五千、それに戦果を上げて稼がねばならない傭兵たちが投入されることになった。
その傭兵たちの幕舎が並ぶ中、歴戦の戦士を思わせるような老兵が戦の身支度をしていた。
彼の名を聞けば、古い人物であれば『ああ、あの。』という感嘆の声を上げる。
彼の名はローゴールト。
齢七十を迎えようかとしている生粋の自由人にして、古老の傭兵。
１３歳で傭兵として初陣を飾り、以来老齢に達するも戦場を去ることが出来ない男。
彼に主義主張はない。
それはロウガにも似た思想であったが、彼の場合は金さえもらえたらなら親魔物勢力であろうと反魔物勢力であろうと、その金額に見合った武働きをするため、大金を積まれた戦での彼の勇姿を知る将兵にしてみれば、見事な武働きだったと思いで話に華を咲かせる。
事実、彼が４４歳の時に勃発した第１５次領地奪還運動（レコンキスタ）で親魔物派に味方した彼は、当時のフウム王国で頭角を現し始めた若き日のパブロフ＝カルロ＝ド＝メナードをまるで赤子の手を捻るように打ち破るなど数々の武功を上げた。
その積まれた契約金は数千万とも億とも言われている。
「父さん、みんなもう準備が出来てる。」
「まぁ、待てよガキ。オイラみてぇな年寄りゃな、準備にはそれなりに時間がかかるってもんなのさ。」
彼を父と呼ぶのはフェィミヌという名の十四、五歳の少年。
父と呼ぶが血の繋がりはない。
ローゴールトがどこからか連れてきた少年で、物心が付く頃には戦場にいたという経歴の持ち主なのだが、そのせいか感情の起伏が小さく、常に冷静で淡々とした性格に育ち、感情と同じく抑揚のない話し方をするので、聞くものが聞けば一種不気味な感覚に襲われてしまう。
お互いのことを「父さん」と「ガキ」と呼ぶのは、二人の気楽な関係とお互いに発音し難い名前に起因している。
「早く行かないと金が逃げる。」
「がっつくなよ。金は逃げねえ。雑魚の首１０００個獲ったって、大将首１個より価値がねぇんだ。テメエが生まれる前（めぇ）から戦場でションベン洩らすくらいこえー目に遭って生き延びてきたオイラが言うんだから間違いねぇ。」
よし、と言ってローゴールトが身支度を終えて立ち上がる。
「急に立ち上がるな。また腰をやるぞ。」
「てやんでぃ！そりゃ一体何年前の話をしてやがんだ。」
傭兵親子は集結しつつある兵卒に混ざってクスコ川へと近付く。
ヴァルハリア領民だった兵卒たちは、今か今かと開戦の時を待っている。
それは初めて知った勝利の味。
それは初めて知った暴力の味。
それは初めて知った凌辱の味。
ありとあらゆる甘美な戦争の魅力に信仰が負けた瞬間。
だが、彼らは信じている。
その喜びも神に与えられたものだと。
「まったく……、オイラたちの味方ってわかっているが、気持ちの良い連中じゃねえな。相変わらず。博打に誘ったって、宗教上の理由とやらで友好を温める訳でもねぇのに、やたらあーしろこーしろと口五月蝿え連中だし……。おい、ガキ。むかつくからって今殺すなよ。報酬貰えなくなる。」
つまり殺るなら乱戦中にコッソリ殺れ、と彼は言っている。
フェィミヌはただ黙って頷いた。
実際に腹いせと、進軍の邪魔だったという理由でこれまで何人かドサクサ紛れに二人は味方殺しをやっている。
クスコ川の轟音がローゴールトの耳に入る。
「ああ、もうこんなに近えんだ………………！？」
ゾワッとローゴールトの背中の毛が総毛立った。
クスコ川へ向かう足が止まったのを不審に思ったフェィミヌが訊ねる。
「どうした父さん。」
「………駄目だ、引き返すぞ！」
フェィミヌの頭の上に疑問符が見える程、彼は不審を露わにしたが、ローゴールトはフェィミヌに構わず、今来た道を引き返し始めた。
ローゴールトがこれまでの戦場人生で絶対に自信を持つもの。
それは武力でも頭脳でもない。
直感。
特に危険を察知するという直感だけが抜きん出ていた。
それが戦友を亡くし、雇い主を亡くしても生き延びてきた彼だけの能力。
そんな彼の後ろを、今も不思議そうな顔をしてフェィミヌは付いて行った。
―――――――――――――――――――――――
暗い礼拝堂の奥。
神を模った像の前で、男は足を組んでそれを読み続ける。
それはまるで聖書を読み耽るようにも見える仕草で彼が読むのは、分厚い報告書。
任務を終えた彼の部下が本格的にまとめた報告書であった。
「ふふふ…。」
時々、聞こえてくる笑い声。
だがそれは決して楽しいから笑っているのではなく、ただ自らの決断が正しかったのだという確信から来る笑いであった。
（随分、楽しそうじゃねえか。クレイネル。）
その声に振り向くと、死者がまるで彼の真似をするように足を組んで無愛想に毒付いていた。
「ああ、アンブレイ。どうしました、こんなところで。」
それは彼、クレイネル＝アイルレットが処罰した男。
クゥジュロ草原で無様に死んでいったアンブレイ＝カルロス。
（あんまり悔しくて化けて出てやったぜ。俺様の部下がテメエに寄越した報告書ってのもどんなのか興味があったからよ、わざわざ地獄の底から舞い戻ってやったんだ。もっと嬉しそうな顔をしろよ。）
「迷惑です。ただでさえ無能の相手をするのは疲れるのですから、出て来られては困るのですよ。どうせ出てくるのでしたら、もっと名のある英雄だったのならお茶とお菓子を用意してお出迎えをするのですが、あなたのような悪霊。さっさと地獄へ帰っていただきたいものですね。」
相変わらず可愛げのねえ、とアンブレイは顔を歪める。
「興味がおありですか？」
クレイネルは手の中の報告書を彼にかざす。
（ああ、テメエみたいな化け物が何であんなクズ相手に手を退くような真似をしやがったのか。地獄の釜の中で気になって仕方なかった。その気になればヴァルハリア教会くらい、中東教会が乗っ取れたはずなのによ。）
「地獄の釜で少しは知恵を付けたようですね。良いでしょう。」
そう言ってクレイネルはさらに深く腰かけた。
「私がヴァルハリアやフウム王国と関係を絶つと決定したのは、彼らの主義主張が我々と袂を分かってしまったからですよ。」
（………俺たちと同じく魔物を滅ぼそうって連中だぜ？）
クレイネルは首を振る。
「そう、同じ立場。同じ主義でしたが、彼らは道を誤った。神を敬い、魔物を呪い、そして神に唾を吐いた。言っている意味がわからないという顔をしていますね。彼らは手段を間違えた。魔物から世界を取り戻したければ、我々人間の手で行わなければならなかった。しかし、彼らがやったことは……。」
バサッ、と分厚い報告書をクレイネルはアンブレイに投げて寄越す。
読むぜ、と言ってアンブレイはその報告書に目を通し、しばらくすると驚きの表情を浮かべて、視線を再びクレイネルへと向ける。
（こいつは……。）
「……そう。彼らは魔物を滅するために、より強力な生命体を作り上げようとした。彼らは神を偽造するつもりだったようですが、彼らが作り上げたのは人間の負の意志を雛形にした……。」
………………。
……………。
…………。
………。
……。
………さま。
ク……ネルさ…。
「クレイネル様。」
「……………ああ、すまない。私としたことが転寝をしてしまっていたようですね。」
目の前には修道士見習いの青年。
どうやら司祭が私を呼んでいるとのことで呼びに来たようですが、私としたことがかなり深い眠りに落ちていたようですね。
「ありがとう…。この書類を見てはいませんね。」
「え……、はい。私も今来たばかりですので…。クレイネル様でも居眠りをなさる時があるのですね。たまにはお休みにならないと、お身体に障りますよ。」
「まったく恥ずかしいところを見せてしまったね。あなたの言う通り、たまには休暇でももらった方が良いのかもしれません。本当、居眠りをするなんて私らしくもない。」
何か夢を見ていたような気がする。
酷く嫌悪感しか残っていないのだから、きっと悪夢だったのだろう。
私が……、夢？
「ふふふ…、ありえない。」
そう、夢などない。
この時代と同じように。
ヴァルハリアや旧フウム王国と同じように未来はない。
「…クック＝ケインズ、早く私の前に来なさい。そうでなければ時代が終わってしまいますよ。混沌に満ちた時代から、一切の希望のない闇の時代に。」
神に唾する者に未来はない。
未来は我々の手に。
思いとは裏腹に礼拝堂を出る私の足取りは軽かった。
閉ざされた礼拝堂。
ただ冷たい石の神の模造品が、無人の礼拝堂を見下ろしていた。
「…ギリギリ間に合ったな。」
ルオゥム帝国軍の本陣から４里西へ、クスコ川の上流に仮設したテントの中で紅龍雅は、ノエル帝からもらった周辺の地図を見ながら、アルフォンスから作業終了の報告を聞いた。
無事、川の塞き止めが終わった。
「伝令は出したか？」
「ええ、もちろん。アキたちにはすでに対岸に渡って、合図があり次第打って出れるようにしています。ダオラ様や双子将軍には帝国軍本陣にて、我々の連れてきた傭兵の残り２０００人を指揮していただき、帝国軍と共同戦線を張り、防衛に努めていただく手はずです。」
「……助かる。」
龍雅は地図と地形を交互に見比べながら、一睡もせずに朝を迎えた。
彼にしてみれば何度目の戦かもわからないが、彼の指揮下に入る者たちにとっては初陣。
彼は一人でも多く生き残らせたいと考え、絶えず思案を続けていた。
「……た、龍雅。少し休んだらどうですか。」
「心配してくれるのか。でも安心してくれ、こんなことは慣れっこだよ。俺が沢木を裏切ってから、新生丸蝶を作り上げた時もこんなものだった。」
「ロウガ様を裏切った…！？」
しまった、という顔をした龍雅だったが、すまなそうにアルフォンスに向き合う。
「……昔の話だよ。俺の国では御家を残すために多くの血縁を残すものでな、領主に滅ぼされそうだった沢木の血筋を残すために、俺たち紅家は沢木家を見限った。あの蝶の旗印も、元々はあいつが若い頃に率いていた組織の旗印だったものさ。アルフォンス、お前は裏切り者が自分の連れ合いでは…、嫌か？」
「……………いえ。それを言うなら私も裏切り者。私も砂漠のオアシス都市で今日を生きるために種族の誇りを捨て、力なき人々を守ってやれませんでした。あなたが自らを裏切り者だと仰るのでしたら、それで結構。お互い誇りに目を背け、後ろ暗い過去を持つ者同士。釣り合いが取れていると思いますよ。」
そっとアルフォンスは龍雅の手を握る。
龍雅は目を伏せ、彼女に感謝した。
「お前は……、やさしいな。」
「あなたこそ、兵卒を一人でも生き残らせようと策を考える将なんて大陸では聞いたことがありませんよ。」
「それはこの大陸の戦自体おかしいんだ。大体戦を知る物は誰でも理解している。戦を動かすのは一握りの将でも、実際に戦を決めるのは兵卒の群れだ。この大陸はあまりに兵卒を消耗品のように扱いすぎる。だから傭兵として金で命を買ったというのに、誰も彼もが湯水のように使い捨てる。それではいくら兵がいても足りない。」
龍雅は双眼鏡を取り出すと、遠くに見えるヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の広大に広がった陣を観察する。
雨が上がり、龍雅たちによって川が治まり始めたと知らずに、慌しく渡航準備をしている連合軍を見て、龍雅は毒付いた。
「あれが、兵と言えるか。具足の手入れもせず、血糊で汚れたまま戦に臨む。連中、神様の尖兵だと信じているらしいが、あれじゃあ地獄の悪鬼と変わりない。俺の故郷で知り合った稲荷様の方が余程神々しかった。」
見てみろ、と龍雅はアルフォンスに双眼鏡を渡す。
「……………酷い。血の臭いがここまで臭ってきそう。」
「皇帝に聞いたが、あれで宗教国の兵らしい。故郷にも僧兵というものがいたが、連中の方がもっと小奇麗にしていたぜ。」
あんなやつらと戦わなきゃならんとは、と龍雅は溜息を付く。
「みんなは？」
「……作業が終わって、そのまま泥のように寝ています。」
「よし、しばらく寝かせてやってくれ。俺たちの出番は、この川の堰を切った後なんだからな。」
うまくいくでしょうか、とアルフォンスは不安そうに尋ねた。
「…うまくいくとは？」
「あの川を利用して……、あれだけの数を押し流せるかどうか…。」
龍雅は不安そうなアルフォンスに笑いかけて、無理だと言った。
「あれだけの数を押し流す、なんていうのは……、お前さんの妹の好きな芝居や物語の世界だけだよ。うまく行って二千か三千……、まぁいくらでも良いんだ。俺たちがこの川に陣取っている間は、何度でもそんな手痛い打撃を受けることになると連中に思い込ませることが大事なんだよ。この策はそういう策なんだ…っと、そうだ。内通者からは何か連絡があったか？」
「ええ、つい先程。軍師様もそれと同じくして本陣へ戻られました。」
アルフォンスの下へクロコがハインケルの手紙を持参してきた。
兵卒をどう動かすか、将兵をどう動かすか、そして寝返りそうな可能性のある兵はどこに配置されているかという内容の手紙だったが、最後に『健闘を祈る』という彼らしからぬ気遣いの一言が添えられていた。
その手紙を龍雅はアルフォンスから渡され、読み終えるとフッと苦笑いをした。
「なるほどね。内通者殿はご存知のようだ。」
セラエノ軍のほとんどが初陣の者たちであること。
傭兵頼みの軍であることをハインケルは看破している、と龍雅は気付いた。
「まもなく戦闘が始まる。みんなには十分な休息を。俺たちの戦果は、如何に相手の不意を付き、敵兵を分断するかにかかっている。アルフォンス、お前も休んでくれ。この策は、お前の武も頼りにしている。」
「わかりました…。では、私も休ませていただきます。」
そう言ってアルフォンスは龍雅の腕に手を絡めた。
「…おい。」
「……休ませていただきます。あなたの副将アルフォンスとしてではなく、今しばらくは…、あなたを恋慕う女として傍にいさせていただきます。」
「………………いつか、戦が終わったら。」
「終わったら？」
「………いや、言うまい。続きは世が治まってから、言わせてもらう。」
龍雅はアルフォンスの肩を抱き寄せ、彼女の頭に頬を摺り寄せる。
アルフォンスも彼に寄り添い、束の間の安らぎに身を委ねた。
鎧に身を包んだ奇妙な恋人たち。
荒れ狂う大河に、自らの運命を重ねて、明日を生き抜くことを心に誓う。
―――――――――――――――――――――――
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の最前線は慌しくなった。
連日降り続いた雨が止み、クスコ川の流れが徐々に緩やかになっていったことで、軍上層部により渡河作戦が採決された。
これにはセラエノ軍との足並みを揃えるハインケルの言が大きな影響力を与えたとされている。
渡河作戦に、真っ先に投入されることとなったのはヴァルハリア領民の兵卒およそ五千、それに戦果を上げて稼がねばならない傭兵たちが投入されることになった。
その傭兵たちの幕舎が並ぶ中、歴戦の戦士を思わせるような老兵が戦の身支度をしていた。
彼の名を聞けば、古い人物であれば『ああ、あの。』という感嘆の声を上げる。
彼の名はローゴールト。
齢七十を迎えようかとしている生粋の自由人にして、古老の傭兵。
１３歳で傭兵として初陣を飾り、以来老齢に達するも戦場を去ることが出来ない男。
彼に主義主張はない。
それはロウガにも似た思想であったが、彼の場合は金さえもらえたらなら親魔物勢力であろうと反魔物勢力であろうと、その金額に見合った武働きをするため、大金を積まれた戦での彼の勇姿を知る将兵にしてみれば、見事な武働きだったと思いで話に華を咲かせる。
事実、彼が４４歳の時に勃発した第１５次領地奪還運動（レコンキスタ）で親魔物派に味方した彼は、当時のフウム王国で頭角を現し始めた若き日のパブロフ＝カルロ＝ド＝メナードをまるで赤子の手を捻るように打ち破るなど数々の武功を上げた。
その積まれた契約金は数千万とも億とも言われている。
「父さん、みんなもう準備が出来てる。」
「まぁ、待てよガキ。オイラみてぇな年寄りゃな、準備にはそれなりに時間がかかるってもんなのさ。」
彼を父と呼ぶのはフェィミヌという名の十四、五歳の少年。
父と呼ぶが血の繋がりはない。
ローゴールトがどこからか連れてきた少年で、物心が付く頃には戦場にいたという経歴の持ち主なのだが、そのせいか感情の起伏が小さく、常に冷静で淡々とした性格に育ち、感情と同じく抑揚のない話し方をするので、聞くものが聞けば一種不気味な感覚に襲われてしまう。
お互いのことを「父さん」と「ガキ」と呼ぶのは、二人の気楽な関係とお互いに発音し難い名前に起因している。
「早く行かないと金が逃げる。」
「がっつくなよ。金は逃げねえ。雑魚の首１０００個獲ったって、大将首１個より価値がねぇんだ。テメエが生まれる前（めぇ）から戦場でションベン洩らすくらいこえー目に遭って生き延びてきたオイラが言うんだから間違いねぇ。」
よし、と言ってローゴールトが身支度を終えて立ち上がる。
「急に立ち上がるな。また腰をやるぞ。」
「てやんでぃ！そりゃ一体何年前の話をしてやがんだ。」
傭兵親子は集結しつつある兵卒に混ざってクスコ川へと近付く。
ヴァルハリア領民だった兵卒たちは、今か今かと開戦の時を待っている。
それは初めて知った勝利の味。
それは初めて知った暴力の味。
それは初めて知った凌辱の味。
ありとあらゆる甘美な戦争の魅力に信仰が負けた瞬間。
だが、彼らは信じている。
その喜びも神に与えられたものだと。
「まったく……、オイラたちの味方ってわかっているが、気持ちの良い連中じゃねえな。相変わらず。博打に誘ったって、宗教上の理由とやらで友好を温める訳でもねぇのに、やたらあーしろこーしろと口五月蝿え連中だし……。おい、ガキ。むかつくからって今殺すなよ。報酬貰えなくなる。」
つまり殺るなら乱戦中にコッソリ殺れ、と彼は言っている。
フェィミヌはただ黙って頷いた。
実際に腹いせと、進軍の邪魔だったという理由でこれまで何人かドサクサ紛れに二人は味方殺しをやっている。
クスコ川の轟音がローゴールトの耳に入る。
「ああ、もうこんなに近えんだ………………！？」
ゾワッとローゴールトの背中の毛が総毛立った。
クスコ川へ向かう足が止まったのを不審に思ったフェィミヌが訊ねる。
「どうした父さん。」
「………駄目だ、引き返すぞ！」
フェィミヌの頭の上に疑問符が見える程、彼は不審を露わにしたが、ローゴールトはフェィミヌに構わず、今来た道を引き返し始めた。
ローゴールトがこれまでの戦場人生で絶対に自信を持つもの。
それは武力でも頭脳でもない。
直感。
特に危険を察知するという直感だけが抜きん出ていた。
それが戦友を亡くし、雇い主を亡くしても生き延びてきた彼だけの能力。
そんな彼の後ろを、今も不思議そうな顔をしてフェィミヌは付いて行った。
―――――――――――――――――――――――
暗い礼拝堂の奥。
神を模った像の前で、男は足を組んでそれを読み続ける。
それはまるで聖書を読み耽るようにも見える仕草で彼が読むのは、分厚い報告書。
任務を終えた彼の部下が本格的にまとめた報告書であった。
「ふふふ…。」
時々、聞こえてくる笑い声。
だがそれは決して楽しいから笑っているのではなく、ただ自らの決断が正しかったのだという確信から来る笑いであった。
（随分、楽しそうじゃねえか。クレイネル。）
その声に振り向くと、死者がまるで彼の真似をするように足を組んで無愛想に毒付いていた。
「ああ、アンブレイ。どうしました、こんなところで。」
それは彼、クレイネル＝アイルレットが処罰した男。
クゥジュロ草原で無様に死んでいったアンブレイ＝カルロス。
（あんまり悔しくて化けて出てやったぜ。俺様の部下がテメエに寄越した報告書ってのもどんなのか興味があったからよ、わざわざ地獄の底から舞い戻ってやったんだ。もっと嬉しそうな顔をしろよ。）
「迷惑です。ただでさえ無能の相手をするのは疲れるのですから、出て来られては困るのですよ。どうせ出てくるのでしたら、もっと名のある英雄だったのならお茶とお菓子を用意してお出迎えをするのですが、あなたのような悪霊。さっさと地獄へ帰っていただきたいものですね。」
相変わらず可愛げのねえ、とアンブレイは顔を歪める。
「興味がおありですか？」
クレイネルは手の中の報告書を彼にかざす。
（ああ、テメエみたいな化け物が何であんなクズ相手に手を退くような真似をしやがったのか。地獄の釜の中で気になって仕方なかった。その気になればヴァルハリア教会くらい、中東教会が乗っ取れたはずなのによ。）
「地獄の釜で少しは知恵を付けたようですね。良いでしょう。」
そう言ってクレイネルはさらに深く腰かけた。
「私がヴァルハリアやフウム王国と関係を絶つと決定したのは、彼らの主義主張が我々と袂を分かってしまったからですよ。」
（………俺たちと同じく魔物を滅ぼそうって連中だぜ？）
クレイネルは首を振る。
「そう、同じ立場。同じ主義でしたが、彼らは道を誤った。神を敬い、魔物を呪い、そして神に唾を吐いた。言っている意味がわからないという顔をしていますね。彼らは手段を間違えた。魔物から世界を取り戻したければ、我々人間の手で行わなければならなかった。しかし、彼らがやったことは……。」
バサッ、と分厚い報告書をクレイネルはアンブレイに投げて寄越す。
読むぜ、と言ってアンブレイはその報告書に目を通し、しばらくすると驚きの表情を浮かべて、視線を再びクレイネルへと向ける。
（こいつは……。）
「……そう。彼らは魔物を滅するために、より強力な生命体を作り上げようとした。彼らは神を偽造するつもりだったようですが、彼らが作り上げたのは人間の負の意志を雛形にした……。」
………………。
……………。
…………。
………。
……。
………さま。
ク……ネルさ…。
「クレイネル様。」
「……………ああ、すまない。私としたことが転寝をしてしまっていたようですね。」
目の前には修道士見習いの青年。
どうやら司祭が私を呼んでいるとのことで呼びに来たようですが、私としたことがかなり深い眠りに落ちていたようですね。
「ありがとう…。この書類を見てはいませんね。」
「え……、はい。私も今来たばかりですので…。クレイネル様でも居眠りをなさる時があるのですね。たまにはお休みにならないと、お身体に障りますよ。」
「まったく恥ずかしいところを見せてしまったね。あなたの言う通り、たまには休暇でももらった方が良いのかもしれません。本当、居眠りをするなんて私らしくもない。」
何か夢を見ていたような気がする。
酷く嫌悪感しか残っていないのだから、きっと悪夢だったのだろう。
私が……、夢？
「ふふふ…、ありえない。」
そう、夢などない。
この時代と同じように。
ヴァルハリアや旧フウム王国と同じように未来はない。
「…クック＝ケインズ、早く私の前に来なさい。そうでなければ時代が終わってしまいますよ。混沌に満ちた時代から、一切の希望のない闇の時代に。」
神に唾する者に未来はない。
未来は我々の手に。
思いとは裏腹に礼拝堂を出る私の足取りは軽かった。
閉ざされた礼拝堂。
ただ冷たい石の神の模造品が、無人の礼拝堂を見下ろしていた。
11/02/22 22:50更新 / 宿利京祐
戻る
次へ