中篇
「ねえ、日野君。ちょっといいかな。」
放課後の、授業が終わったことで発散される独特の解放感や安堵感に包まれる教室で日野清志に話しかけてきたのは、学級委員長を務める堀越茜だった。
「ああ、堀越さん。僕に何か用事?」
「用事、というかお願いなんだけどいいかな。」
「急がなきゃいけない用事もないし、僕でよければ。」
「実はみんなが提出してくれた化学のノートを職員室に運ばなければいけないんだけど…量が多いから運ぶのを手伝ってもらえないかしら?」
委員長が指さす教卓の上には、うず高く積まれたノートの山がある。
「ああ、あれは一人だと大変だね。分かった、僕でよければ手伝うよ。」
「助かるわ!!ありがとう日野君。じゃあお願いするわね。」
そう言って茜は明るい笑顔を浮かべた。
「日野君がこっちに転校して一週間経つけど、もう馴れた?」
二人で分けたノートの山を運び、職員室に向かう道中で茜に質問された。
「うん、だいぶ馴れたよ。みんないい人ばかりだし。」
茜はこうして、転校生である自分をいつも気にかけてくれる。
彼女の種族的特徴から来るのか、それとも彼女自身がもつ優しさなのかはっきりと区別することはできないが、転校生という異分子である清志にとってこういう彼女の気遣いは非常にありがたいし嬉しかった。
「それに親の関係で転校することには馴れているからね。」
金融関係の仕事をしている父は、所謂転勤族というやつだった。
こういう職業についている一般的な家族の場合では夫だけが単身赴任というパターンが多いのだが、両親は一つのところに固執することのない性質で、父の転勤が命じられると直ぐに新しい転居先を見つけそこに移り住む生活を営んでいる。そのせいで清志は昔から何度も転校を、ある程度出来上がったコミュニティーに途中から参加するという場面を幾度も経験している。だが、そのことで両親の事を恨んだことはとくになかった。小さい頃からどこかそういうことに関して醒めていた清志は、仕方のないことなのだと理解していた。むしろそうやって様々なところから求められる父が誇らしかったし、父のような存在になりたいと幼いころから清志は思っている。だから自分に出来うる限りの力を勉学に向け、自分なりに努力しているつもりだ。未だに自分がどのような力をもっているか、それをどうやって活かすことができるのかはっきりと顕在化させることはできないが、一先ず大学に入学して様々なことを学び、ゆっくりと自分を探していくことが当面の目標だ。
「私は一回も転校をした事が無いから想像しかできないけど、大変そうね。」
どこまで自分の真意が伝わったかは分からないが、納得したように頷きながら茜は理解を示してくれた。
「仲良くなった友達とすぐ別れなきゃいけないのは辛いけど、こればかりはどうしようもないから。」
少し自虐を含んだ笑いを上げると、委員長は少し表情を変化させる。
「ここももしかして直ぐに転校しちゃうの?」
「いや、どうもそれはないみたい。詳しくは聞いてないんだけど今度の転勤は所謂栄転らしくって、他の所よりもずっと長く住むことになるんじゃないかって母さんが言っていたから。」
「そう…なんだ。それはよかった…」
「え?」
清志の言葉を聞いて、何故か安堵したようにつぶやかれた彼女の言葉の真意が分からず、驚きと疑問の混じったリアクションをしてしまった。すると茜は慌てたようにばたばたと尻尾を振り乱しながらその理由を話しだす。
「ああ、いや…ほら、もうすぐ私たちも受験でしょ?だから志望大学を決めるのにそういうことは大事じゃない。だからよかったねって思って!!」
「あ、ありがとう。堀越さんは、優しいね。」
「そんなことは…」
「いや、何度も転校しているけど…こんなに親身になってくれた人は初めてだよ。さすがみんなや先生たちの頼れる委員長だね〜。」
「褒めても何もでないよ、日野君。」
口では否定するが、今度は嬉しそうに尻尾が振られている。
「でも、もしクラスや学校で困ったことがあったら私に相談してね。」
そう言って微笑む彼女の笑顔は誇らしげで、だけど嫌味なところが全くない今までに出会った事の無いものだった。
その後、前の学校での出来事や世間話をしつつ職員室にたどり着き、ノートを所定の場所に置いた。生徒会の副会長を務める彼女は、ついでにいくつかの雑務をこなしていくと言っていたので職員室で別れることにした。その旨を告げると「日野君、これから頑張って。」と最後まで自分の事を心配してくれた。本当に面倒見のいい人だと再認識すると同時に、他人に優しくしてもらったことでじんわりと嬉しさがこみあげる。そのおかげかいくらばかり軽い足取りで教室に荷物を取りに向かった。
…………………………………………
日暮れに沈む教室には誰もいなかった。
先程までクラスメイトの声が響いていたとは思えないほど静間に返った空間に少しばかり奇妙な感覚を持ちつつ、荷物を回収し帰路につくために自分の席へ向かった。
「ん?甘い…匂い?」
だが、その途中でなにかが鼻孔を掠めた。
花の蜜の様に甘く、鼻の奥深くに粘りつくように濃厚で一度嗅ぐと忘れられない様な…そんな匂いがこの教室の何処からか漂っている。香水の様な不自然さがないその香りは今まで清志が嗅いだ事の無い、経験した事の無い魅惑に満ちていた。
「(もっと、匂いを嗅いで…みたい…)」
甘い匂いを知覚してから、何故か体の芯が熱くなって仕方がない。
火照った体の中でその香りをもっと嗅ぎたいという一つの欲望が膨れ上がっていく。まるで心の奥底の何かを掻き毟る様な、とにかくその匂いは清志の心をざわつかせる。その感情が何なのか分からず、息を荒げながら匂いが濃くなる方向へと歩いていく。食虫植物におびき寄せられる虫のようにふらつきながら匂いを辿っていくと、匂いを放っているそれは清志の席のすぐそばに落ちていた。
「こ、これが…匂いの元…!?」
最初はただの黒い布、ハンカチか何かだと思った。
だがそれを床から拾い上げ、広げた瞬間驚いて思わず息が止まり、顔が強張ってしまった。それは女性用下着―――薄い黒のレースの生地で、真ん中に一つ可愛らしく小さな赤いリボンがついたパンツだったからだ。
「………。」
少しの間放心したように、ただじっとパンツを眺めてしまう。
普通の、正常な状態の清志であればこういう状況に遭遇してしまった場合、すぐ落ちていた場所に下着を戻し、そそくさとこの場を離れていただろう。しかし、このパンツから放たれる芳香はそんな自制心や理性をじくじくと蝕み、揺るがせた。
「だ、誰も…いないよ、ね……」
忙しなく顔を振って改めて、誰もいないことを確認する。
「ちょっと、ちょっとだけ…そう、匂いをちょっとだけ嗅ぐだけ…」
誰もいないのに、言い訳がましい独り言をつぶやきながらゆっくりと下着に鼻を近づける。そしてまるで痙攣したかのように引くつく鼻に力を込めて、空気を吸い込んだ。
「………!!」
言葉を失った。
パンツから放たれる蟲惑的な匂いは吸い込んだ途端に、乾いた地面に降り注いだ雨が沁み渡っていくように一瞬で清志の体に浸透していく。鼻孔、気管を経て肺胞、そして神経と吸い込まれた空気に触れた場所が次々に魔性の香りに降伏していった。思考は蕩け体の熱は一層上がり、芳香に毒された血液がドクドクとペニスの海綿体に充填されていく。
「(誰のものなのか分からないパンツ…いや、匂いで興奮しちゃってる……)」
持ち主の分からないパンツを鼻にあて、股間を膨らませる。
自分が何をしているのか、誰かに見られたら言い訳も出来ない状況であることをどこか冷静な自分が心の中で叫んでいるが、大多数の清志はそんな声に耳を傾けることはない。いやそのこと自体を十分理解しているのだが、分かっているが匂いをかぐことを止めることができなかった。まるで中毒者がそうするように、あと少し、もう少しだけなら大丈夫だと自分をごまかしながら一心不乱に鼻を下着に押しつけて匂いを嗅いでいた。下着から漂う香りは、何度かいでも飽きることなく清志を翻弄し楽しませる。
しかし、そんな耽美な時間は突然終りを迎えた。
「おい」
突然、教室内に低くどすの利いた声が響いた。
「!?」
この教室に誰もいないと思っていた上に、決して人には見られてはいけない事をしていた清志は飛び上がらんばかりに驚いた。それでも咄嗟に下着を掴んだ右手をズボンのポケットにねじ込み、声のする方を振り向くと、一人の魔物娘がいた。
「あぁ…栗原さん」
戸口に立っていたのは栗原麗だった。
彼女は180を超える清志と同じくらいの身長で、胸は小玉のスイカと見間違わんばかりに大きく、悩ましい膨らみとは逆に腰はきゅっとくびれ、臀部は大きすぎないがその存在を強く主張するなんとも扇情的な体つきをしている。そんなわがままな体つきからのびるたおやかな首の上に小ぶりな顔がのぞき、その小顔には下唇が少し大きめのぷっくらとした血色のいい濡れた唇、小ぶりで整ったどこか可愛らしさを感じさせる鼻、少し小さめな紅に光る瞳が浮かび、見る者に威圧感を感じさせるような目力をたっぷりと持った両の眼が浮かぶ。美しく艶のある赤い髪は一房だけ三つ編みが垂れているが、それ以外は実に無造作に結い上げられている。そして彼女達マンティコアの特徴でもある黒々とした体毛を纏う獣の耳、猛々しい獣の手足、それらの端々に点在する真っ白な体毛、サキュバスのそれよりも蝙蝠に近い翼、まるでそこだけ旧時代の魔物の姿をしたような、彼女が人並み外れて美しいだけにより一層グロテスクに感じてしまうその尻尾が、栗原麗という存在を作り上げていた。
「お前、何してんだ?」
マンティコアは静かに尋ねてきた。
「なに、もしてない。ちょっと委員長の手伝いをしていたから帰るのが遅くなっただけだよ。栗原さんはどうしたの?」
なんとか彼女の質問に答えることは出来たが、どれほど冷静さを装う事ができていたかは分からない。
「…アタシはなあ」
麗はまるで清志の動揺を見抜くかのようにじっとこちらを見据え、ゆっくりとこちらに近寄りながら想像もしなかった内容を口にした。
「パンツを…探してんのさ。」
「!?」
冷や汗が、いや脂汗が体中から噴き出る。
まさか、彼女のいうパンツとは…いま清志が右手で握っている、これのことなのではないだろうか。幸いにも麗が立っている方向に背を向けていただけに先程までの行動を見られていないと思うが、それだけでは何の救いにもならない。心中に不安や心配が一気に溢れだし、股間で元気に存在を示していた分身が途端に萎み始める。
「なあ、日野。」
「な、なに?」
「三時間目に体育があっただろ?」
「…うん。」
いきなり話題がすり替えられ、清志の動揺はさらに増幅する。
「このくそ暑い時期に運動するとよ、いやでもたっぷりと汗をかく。」
そうだろといって同意を求める視線を投げかけてくる彼女に、無言で頷くと満足そうに口を歪める。
「だから体育がある日は持ってくるんだよ。替えの下着を、な。」
「………。」
「それでな、今日も勿論替えのパンツを使った。なんせ家から履いてきたパンツはたっぷり汗が沁み込んで…いやだったからなあ。まあ、そんなことはどうでもいいか。重要なのはここからだ。実はな、その元々履いていたパンツが見当たらなくて困っているんだよ。」
無言で黙りこむ清志を追いこむようにじりじりと近寄りながら、麗は大きく手を広げ演説でもするように話し続ける。
「かったるい授業が終わって、さあ帰ろうと荷物を整理していて気がついたんだ。体操服やジャージはあるのにパンツだけが、黒のレース生地にワンポイントで可愛らしい赤リボンが付いているパンツがなくなっているってな。」
「!!」
黒の、赤いリボンがついたパンツ…それはまさに―――
「不良のアタシがパンツ一枚でみみっちいと思うかもしれないが…お気に入りだったんだ、あのパンツ。だから更衣室やその道中に落ちていないか探しているのさ。」
「へぇ…そう、なんだ。」
「で、ここまで探してみたがどうにも見つからない。なあ、日野。どっかでアタシのパンツ見なかったかい?」
「さ、さあ…知らない、なあ。」
慌てて視線を麗から反らし、焦る心中をなんとかなだめて否定の言葉を口にする。
「ふ〜ん。そうかい。じゃあ…」
しかし、その言葉を聞いた彼女はすっと目を細めてこれ以上ないほど愉悦に顔をゆがませたかと思うと、大きな獣の手で、抗う事は出来ないと観念させる強い力と素早さで清志の右手を掴み、どうしようもなくただ震えながらパンツを握るその手をズボンの中から引きずりだした。力いっぱい握りしめられたパンツを麗に見られた瞬間、血の気が体中から失せ、目の前が暗くなる。
「さっきお前が顔を埋めて興奮していた、そして今こうして握りしめているこれはなんなんだ?」
「あ…これ、は…」
「素直に出してれば、少しは自重してやろうかと思ったが。人様の下着に悪戯してこれじゃあ…何されたって文句はいえねえよなあ?」
悪魔の様に笑う魔物娘を前にして、清志はただ頷く事しかできなかった。
ただの下着では無い、この学校の誰もが恐れる“不良”である栗原麗のパンツに粗相をしでかしてしまったのだ。これから自分にどのような未来が訪れるかは彼女の気分次第だが、とにかく無事では帰れないだろうという悲観的な予想が頭を駆け巡る。
「よし。ならこの落とし前をどうつけるか…いい場所があるからそこでたっぷり話しあうとしようか。なあ、変態の日野君?」
「……。」
あまりのことに言葉を発することもできない清志は、麗に胸倉を掴まれ引き摺られる様にして教室を出た。
こうして再び教室は静けさを取り戻したのだった。
14/06/28 00:14更新 / 松崎 ノス
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