６．大事なことに気づくのは、いつだって遅すぎる。
「な、何を言っているんですか！」
声を張り上げるクリス。
「じょ、冗談ですよね？」
「冗談を言う目に見えるか？」
「…！」
クリスは後ろめたそうに目をそらした。
「まず、違和感を感じたのは、アンタの言葉だ。」
俺は機械的に話を進めていく。
「俺の傷を見たとき、アンタは、『どうしたんですか？』ではなく、『一体誰に？』と言った。何故この傷が他人に負わされたものだと分かったのか？」
「た、たまたま言ってしまっただけです。深い意味は…。」
「次に奇妙に感じたのは、マルコについて。」
クリスが言い終わるより前に俺はまた話し出す。
「マルコは、俺の羽織を借りて着ていたがために、俺と間違われて刺された。」
「それが…、どうかしたんですか？」
クリスが、鋭い声で訊く。
「考えても見ろ、夕暮れ時とはいえ、まだ多少日はあったのに、どうして犯人は顔を確認せずに背中を刺したんだ？」
クリスの眉がぴくりと動く。
「殺人を実行するなんて時だから、焦っていたんじゃないですか？」
「それ以前の四人は、袋小路の隅まで追い詰めた上で、真正面から刺されてたんだぞ？」
「それは…。」
クリスがす、と一歩身を引いた。
「考えられることは一つ。犯人は、俺に顔を知られている人物であった。」
「それは、推測に過ぎません！」
クリスが細い声を張り上げた。
「まあ、そうだな。確かに偶然だと言ってしまえば言えないこともない。じゃあ、これは？」
俺はゆっくりと足を上げ、汚れた足跡を見せた。
「…。靴が、どうかしたんですか？」
怪訝な目でこっちをにらむクリス。
「雨が降ったのは、知ってるか？」
「ええ、窓から見えました。」
「あの時、俺は、ちょうど警察署の前に居たんだ。」
「…。だから？」
クリスがいらだった様子で尋ねる。
「つまり、アンタが来たのは雨の前だったわけだよな？」
「ええ、だからなんだと…。！」
クリスは目を見開き、慌てて足元に目を落とした。
「察しが良いな。」
俺は、ゆっくり、確認するように話す。
「雨の後買い物に行ったエドモンドは分かる。では、署に着いてから一歩も外に出ていないはずのアンタの靴に、何でまだ乾いていない泥がついているんだ？」
「それは…。ですね…。」
バン！
突然、クリスが壁に手のひらを叩きつけた。
壁一面に複雑な魔方陣が展開していく。
クリスが、にやりと笑った。
と、
突然術式にひびが入り、魔方陣が崩壊していく。
「な！？」
そのまま、魔方陣は跡形も無く掻き消え、もとの殺風景な壁だけが残った。
「なんで…？」
俺はポケットからお札のような紙を一枚取り出した。
「悪いな。ドアの外側に魔瘴封じを貼らせてもらった。この室内では、魔力に依存する力は使えない。」
「くっ…！」
口元をゆがめるクリス。
俺はふう、と一息深いため息をつく。
「完全に盲点だったよ。パンデモニウムを経由すれば、移動時間も距離も関係ない。」
「いつ、私がダークプリーストだと？」
クリスの頬を汗が伝う。
「まあ、この国じゃ放埓な聖職者も多いからな、初めは違うかと思っていたが、確信があった。」
「確信？」
「そりゃ、まあ、いろんな奴がいるさ。礼拝をサボる奴もいる。女色に溺れる奴もいる。でもな、」
俺は指を一本立てた。
俺たちが、彼女にはじめて会った、あの時。
「主神教の信者で、くしゃみしてる相手に十字を切らない奴など、俺は見たことが無い。」
クリスがはっと口元を隠す。
「そ、そんな、ことで…。」
俺は彼女をまっすぐと見据え続ける。
綺麗な二重の目が、怯えるようにこちらを睨んだ。
「なんで？なんで！？絶対分からないはずだったのに…。」
俺はまた一息つき、そして、ゆっくり口を開く。
自分でも、恐ろしいほどに、重たい声がこぼれた。
「何故殺した？」
クリスは、糸が抜けたように俯いた。
ぶらり、と細い腕が力なく垂れ下がる
「だって…、だってあの人たち、泥棒だもの。」
「泥棒？」
「そう！」
跳ねるように顔を上げるクリス。
「なんでもないようなフリして近寄ってきて、騙して、下品な手で誘って、奪おうとする。私の、エドを！」
凍えるような叫びが、部屋の壁にしみこんでいく。
「私は、エドを愛してる。世界の、誰よりも。魔物になって、いや、なる前から、私に居場所なんて無かった。誰も、私を見なかった。それなのに、あの人は、隣にいていいって、言ってくれたのよ。私を見てくれるのは、愛してくれるのはエドだけ。なのに、あの人達は、遊びみたいな気持ちで、私からエドを奪おうとした。」
クリスの口元だけが、にこりと笑顔を作る。
「だから、殺した。それだけ。まだまだ、足りないの。変な女に、言い寄られて、エドは困ってるの。だから、もっと、殺さなきゃ。」
クリスが襟元に手を当てた。
気づいたときには、もう、遅かった。
「そいつらも…。アナタも。」
次の瞬間、鋭く光るナイフが、俺のシャツをかすめた。
「くっ…！」
床に転がる俺。
見覚えのあるナイフに、新しい赤い汚れと、古い、黒ずんだシミ。
「逃がさない。」
クリスがナイフを天井にかざし、一気に振り下ろす。
「ち、くしょ！」
転がった姿勢のまま、近くのテーブルを引き倒し、盾にする。
ズガッ！
ナイフはいとも簡単に合板の天板を貫き、俺の眼前まで迫った。
五人刺してまだこの切れ味って。
額の汗を拭い、部屋の端と逃れる。
「ちっ…！」
慌ててナイフを抜き、間合いを取るクリス。
「ちょっと待て！違う！それは全部勘違い…！」
言い終わる前に、彼女が突っ込んできた。
闇雲にかわす。
一瞬前まで俺の頭があった壁に、ナイフが柄までめり込む。
「勘違い？そんなわけない。あいつらは、私からエドを奪うために近づいてきたの。だから、だから殺さなきゃ。そうすれば、エドと私は、幸せになれるの。」
彼女の手が逃げ道を塞ぐ。
目が完全に据わっている。
追い詰められた。
もう、逃げ場が無い。
以前までの俺なら、大人しく死に甘んじたところだが、今は違う。
戻ってやらなきゃ、アイツが、悲しむだろうが。
なにか、何かないか？
「もう、これで、終わり。これで、幸せに、なれるの。」
脳内を、あらいざらい引っ掻き回す。
何か、何か！
「これで、おしまい。」
クリスがナイフを引き抜き、振りかざす。
天井のランプと重なり、動きが止まった。
そのとき。
「コーロ・ポーシュカ！」
俺は力の限り叫んだ。
彼女の腕が、ぴくり、と動く。
「２２歳！男性！ガンマルク市在住！製薬会社に勤務し、今年の春結婚！夫婦仲のよさは近所でも評判だった！」
クリスが奇異なものを見るようにこちらを見つめる。
「何？誰の話をしてるの？」
「誰の話って、そりゃ…。」
吐き出しつくした酸素を補給し、俺は、言った。
「エドウィ・ポーシュカの旦那だよ。アンタが三番目に殺した、な。」
クリスの笑顔が、わずかに引きつる。
「そ、それって、どういう。」
「現場に身元確認に来たときは、正直、見てられなかった。」
今でも鮮明に、脳裏にこびりついて、洗い落とそうとしても、取れない。
不吉な知らせに侵され、不安で染まった顔。
そして、その知らせが事実だと気づいた瞬間の、あの顔。
俺は、一生夢に見るだろう。
「アンタのように、怯えたよ。アンタのように、叫んだ。俺たちが止めなきゃ、あの場で壁に頭を打ち付けて死んでた。」
クリスの手が、かすかに震えだす。
「知ってるか？彼女が発見された時、鞄の中に、ケーキがあったそうだ。ハートマークと、旦那の名前の入ったケーキ。店で売ってないデザインのものだった。」
「それは…、それは…、」
クリスの眉が、苦しそうに歪んでいく。
声は、力なく弱気なものへと戻っている。
「他の被害者だってそうだ！大切な人がいて、幸せになりたかったんだよ！アンタと同じ気持ちだったんだよ！アンタの思っているようなことは、何処にも無かった！」
俺の叫びは尾を引いて、部屋の静寂に融けていった。
クリスの目から、涙がこぼれる。
作り笑顔のまま大粒の涙をこぼす彼女は、まるで機械人形のようで。
「嘘。うそよ。嘘嘘嘘嘘嘘嘘！嘘だ！ねえ、嘘でしょう！？」
俺は黙ってかぶりを振った。
「嘘だ嘘だ嘘だ！ねえ！お願い！嘘だと言って！」
何も言わない。否。言えないのだ。
全ては、悲しい事実なのだから。
たとえ悲劇でも、三文芝居だ。
クリスは、俺が黙っている事で全てを理解したようだった。
「そう…。そっか。勘違い…。それで、五人も、殺しちゃったの。」
床にへたり込む彼女。
光を失った目が、茫然と天井を見上げている。
「おい、大丈夫か？立てるか？」
クリスが、す、とナイフを持った手を上げた。
受け取ろうとした俺の右手が、宙を掴む。
「ん…？どうした…。おい！止めろ！」
ナイフの切っ先は、彼女の白磁のような喉元を、まっすぐ指していた。
「刑事さん。エドに、ごめんなさい、って伝えてください…。」
言い切ると同時に、彼女は勢いよく手を引き寄せた。
床に鮮血が滴る。
その劇的な赤は、殺風景な部屋の中にあって、鋭く目に沁みた。
思わず歯を食いしばる。
俺は、守れなかった。
被害者も、守れず。
仲間も、守れず。
そして、犯人さえ守ることができなかった。
そんなことに、
なってたまるかよ！
「え…？」
「あー…、くっそ…！痛つつ…！」
ナイフの切っ先が、彼女の喉元の寸前で静止し、光を放っている。
そして、刃を握り締めた俺の右手から滴った血が、ナイフの柄を真っ赤に染めている。
「な…！何を！？」
クリスがおびえたような目でこちらを見つめる。
俺の額から玉のように汗が噴出す。
「離して！離してよ！死なせてよ！私は…！」
「うるせえ！！」
俺の声に、壁がびりびりと振動する。
「そうだよ、お前は、殺人犯だよ。ろくでもない勘違いで、五人殺したよ、人生を、幸せを、奪ったよ。けどな、」
吐き出すように、声をぶつけていく。
「ここでお前が死ぬことは、逃げだ！お前が死んだら、殺した人間は帰るのか！？残された人間は、幸福になるのか！？」
クリスの手から、ゆっくりと、ナイフが離れる。
「お前は、自分がやった事を悔いているかもしれない。罪を償う気になったかもしれない。だとしても、俺はお前を許せない。だから。」
俺は握った手を開いた。
ナイフが床に落ち、冷たい金属音が、辺りをつつんだ。
「だから、生きて、悩め。何か分かるまでな。」
クリスの顔がくしゃっと歪み、泣き崩れた。
彼女の鳴き声は、透き通っていて、悲しいほど、綺麗で。
思わず、つられてしまいそうになるほど。
突然、大きな音をたてて、ドアが開いた。
「主殿！すっごい声が聞こえたでありますけど、大丈夫でありますか！？」
駆け込んできたのは、少女と、もう一人。
「クリス…。」
呆然とクリスを見つめるエドモンド。
「そんな、まさか…。」
「ごめんなさい、エド。ごめん。私…。」
クリスは泣き声と混じった、かすれた声で、必死にエドに謝ろうとしている。
「主殿、血が…！！」
「俺はいい、それより、クリスのほうを。」
ひれ伏すように、泣き続けるクリス。
「エドモンド、分かるとは思うが…。そういうことだ。」
「そんな、まさか、そんな、」
エドモンドの声が暗く翳った。
かちゃり、と何か金属の鳴る音がする。
「まさか、こんなに速くばれるなんて。」
「危ない！！！主殿！！」
少女が、視界の端から、飛び出していった。
と、次の瞬間。
耳をつんざく轟音が、深く、暗い闇に、こだました。
何が、起こったんだ？
目の前では少女が腹部を抑えて、倒れこんでいる。
エドモンドの手には、拳銃。そして、その銃口からは、硝煙の匂いの煙が細く立ち上っている。
「な、な！？」
状況が把握できない。
「かっ…、はっ！」
声にならない声を出してもがく少女。
「おい、おい！しっかりしろ！」
「おっと、あまり騒がないで下さいよ。人が来てしまう。」
エドモンドがゆっくり腕を持ち上げる。
銃口の、深い闇と目が合う。
「いやいや、刑事さん。侮っていました。まさかこんなに短時間で露呈してしまうとは思ってもいませんでしたよ。感服です。」
にやり、と笑うエドモンド。
「やめて！エド！もういいの！みんな間違いだったの！」
クリスがエドモンドを制止するように、手を伸ばす。
「私のことはもういいの！だから…。」
「五月蠅いな。」
再び、鋭い破裂音。
「え…？」
クリスの頬に一筋の線が入り、赤い雫が白い肌を伝った。
そっと顔を撫で、手についた血を呆然と眺めるクリス。
「え、え…！？どう、いう、こと？ねえ、エド…。」
「黙らないと、次は本当に撃つよ。」
クリスはびくりと身を竦ませ、口元を手で押さえながら何度も頷く。
「どういうことだ？」
俺の声に反応し、再び銃口が俺のほうへと向けられる。
「どういうことも何も、彼女がアナタに話したでしょう？犯人はこの女です。」
クリスはやれやれとでもいうように肩をすくめる。
「そういうことじゃねえ！それでどうしてお前がコイツを撃たなきゃならない話になる！？」
「別に撃たんとして撃ったんじゃないです。事故ですよ。本当ならここに倒れているのは、刑事さん貴方だ。」
エドモンドの口が、にいっと不気味に歪む。
「犯人を追い詰めるまでのお手際は実に見事でした。ただ、そこから先が若干難ありです。殺人鬼と対峙し、その上刃物を向けられているんですよ？とっとと射殺してしまえばいいものを、無意味に長引かせ、挙句の果て、負傷。あまり褒められた結果じゃない。」
「俺のやり方に口出しされる義理はねえな…。」
エドモンドが含み笑いをする。
「やり方、ですか。まあ、貴方の流儀など知ったことじゃないですが。ただ、今回はそれだと少し困ったことが起こるんですよ…。」
「エド…！どうしちゃったの！？ねえ！私のこと愛してるんなら、今すぐこんなことやめてよ！」
エドモンドはクリスのほうを一瞥すると、何の感情も無く、言った。
「いや、別に。」
「…！」
瞬間、クリスの目から、光が消える。
「う、そ、だよね。だって、あんなに、やさしくしてくれたじゃない。笑いかけてくれたじゃない。一緒にいてもいいって、言ってくれたじゃない！」
「いやあ、それは。」
エドモンドはさわやかな笑顔で言う。
「御しやすそうだったから。」
吊上がった唇の端から、笑い声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、刑事さん。不思議なもんですよね。苦労して、辛酸を舐めて、シビアな人生を送ってきた人間ほど、薄っぺらい甘言に簡単に引っかかる。」
あまりの予期せぬ言葉に、俺は怒りを覚えることさえ忘れていた。
エドモンドは俺に視線を戻すと、また喋りだした。
「しかし、ただの美人は三日で飽きると言いますが、その通りですね。まあ、いつものことですが。でもって、なんと理由をつけて廃棄するかと考えている矢先に、あの事件が起きた。」
エドモンドは愉快そうに目を細める。
「本人は秘密にしているようでしたが、バレバレでしたよ。態度や口ぶりにどうしても出ます。刑事さんもお分かりの通り、彼女は嘘が下手で。」
「俺としては、アンタがこんなに上手いことに驚きだよ。下手糞なフリをするってのは、何事においても高度テクニックだ。」
「お褒めに預かりどうも。」
俺の背を、冷たい汗が伝っていくのが分かる。
畜生、どうしてこう俺は詰めが甘いんだ。
「そして、気づいたんです。面倒事が、こんなに簡単に、一つ片付いている事にね。これを利用しない手などありません。」
エドモンドの手が、クリスを指し示す。
「いやあ、彼女は実に熱心でしたよ。恋は盲目、ですか？まさにそれだった。女性達からの思わせぶりな手紙が、まさか僕自身の筆跡だなんて思いもしなかったんでしょうね。」
「…！じゃあ、私は…！」
それだけ言うと、クリスは糸が切れたように失神した。
俺もやっと理解した。
只の勘違いなどではなかった。全ては仕組まれていたのだ。
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
が、
その波は、押しとどめられるかのように、堆積している。
俺は、つぶやくように言った。
「おまえ、か。」
叫ぼうとしても、声が出てこなかった。
張り付くほどに、のどがからからに渇く。
向けられた銃口の威圧感が、思考力を、奪う。
この期に及んでも、まだ、俺は臆病者のままだった。
「そうだ、いい事を思いついた。刑事さん、銃を貸してください。」
エドモンドは、そんな俺の心を見透かすように、へらっと軽薄に笑う。
「な、何でまた？一丁持ってれば十分じゃないのか？」
「これで貴方とこの女を射殺するのは簡単ですよ？ただ、それでは僕が捕まってしまう。そこでね、考えたんですよ。」
エドモンドが指で銃の形を作る。
「まず、貴方は犯人を追い詰めた。しかし犯人は銃を隠し持っており、苦し紛れの発砲に巻き込まれ、無関係の少女が死亡。逆上した貴方は犯人を射殺し、その後、民間人を死なせた罪悪感から、自らの銃で、」
エドモンドが、指先をこめかみに当て、軽く跳ね上げる。
「バーン。と。」
大仰に目をつぶるエドモンド。
「ああ、なんて悲しい結末。これこそまさに悲劇ですよ。そして誰もいなくなった。誰も僕の存在には気づかない。」
エドモンドが芝居がかった様子で手を広げる。
俺は思わず一歩足を下げる。
「おっと、抵抗したって無駄です。そのときは、面倒ですが、貴方を殺して、懐から銃を拝借すればいい。順序が変わるだけですから。」
畜生、マジかよ。
こんな結末って、ありか？
まったく、神様って奴がいるなら、一度顔を拝んでみたいもんだ。
「分かった。」
俺は内ポケットから銃を取り出すと、エドモンドの足元に投げた。
カシャン、と軽い金属音が鳴る。
「あ、もしかして、拾う隙を突こうとか思ってませんでしたよね？」
エドモンドはサッカーボールのように、器用に足で銃を手元まで跳ね上げた。
「残念でした。」
エドモンドはにやりと笑う。
「さてと、まずは、貴方からだ。」
見慣れた銃も、銃口から覗くとまるで異質なものに見える。
俺は迷っていた。
窮地に立たされた俺の脳は、一つの結論を導き出した。
俺は、逃げられる。
ただし、ここで逃げたら、クリスと、少女は…。
選べる答えは、一つしか無い。
悩み、苦しみ、息をするのも忘れる。
その瞬間。
「…るじ、どの…。」
声が、聞こえた。
「あるじ…、どの…、」
幻聴ではない。間違いなく、目の前の少女が発した声だった。
「おや、まだ生きていましたか。けどまあ、そう長くない。」
思えば俺は、こいつに出会ってから、本当に助けられっぱなしだった。
こいつがいなかったら、俺は潰れていたかもしれない。いや、いただろう。
「よかったですね。大事なお嬢さんと一緒に死ねますよ？」
目の前で震えるか細い命に、俺は、救われてきたんだ。
おい、俺よ、一体何をそんなに悩んでたんだ？
知るかよ。
腹はくくった。
逃げる、という選択肢は、頭の中から消え去った。
なあ、お前の声が聞けて本当によかった。
これで、心おきなく…。
「さようなら。刑事さん。」
引き金が、容赦なく引かれた。
これで、
心おきなく、戦える。
スタートの合図は、かちり、という虚しい音。
「え？」
エドモンドは再度引き金を引く。
またしても軽い音を残し、俺の銃は押し黙る。
俺はすばやく体勢を立て直すと、目の前でうろたえる男に足払いを食らわせた。
「なっ！？」
すばやく距離をとる。
「悪いな、さっきうっかり自殺なんか考えちまったもんで、危ないと思って弾丸全部抜いたんだ。お陰でクリス嬢に襲われたときなんか、心臓が飛び出るかと思った。」
「くっ…！！」
エドモンドは跳ねるように身を起こすと、自前の拳銃をこちらに向ける。
「上手くいきますように…。」
俺はクリスのナイフを拾い上げると、手首のスナップを利用して、投げた。
ナイフの刃は回転しながら飛んでいき、エドモンドの腕に突き刺さる。
「ぐあっ！？」
銃を取り落とすエドモンド。
深夜に手裏剣の練習をしていたときは、いい年して俺は何をやっているんだと空しくなったものだが、人間何が幸いするか分からない。
「はあ、はあ、くっ、そ…。」
ほうほうのていでナイフを引き抜き、荒い息をするエドモンド。
俺は一歩ずつ、エドモンドに近づいていく。
「や、やめろ！来るな！」
エドモンドの目は、恐怖に見開かれている。
その手は手探りで取り落とした銃の行方を探っている。
「来るな！来るな！来るな！」
絶望に歪んだその顔に、取り繕った爽やかさは見る影も無い。
「来るなああぁぁぁぁ！！！」
やっとの思いで銃へとたどり着いた手は、それを勢いよくこちらへと突きつける。
「遅いっての。」
「…！」
俺は、伸ばした腕の内側で、エドモンドと額を付き合わせた。
「なあ、お前、今、後悔してるか？」
俺は、恐怖の浮かぶ目に向かって、訊いた。
そして、エドモンドは答えた。
「何を？」
ああ、そうかよ。
俺は修道服を強引に掴むと、そのまま重心を動かす。
エドモンドの体が、中空に浮かぶ。
「う、わああああ…っ！？」
部屋全体が揺れる。
エドモンドは大の字に伸びて、気を失った。
「背負い投げ一本、と。」
俺は着衣の乱れを軽く直す。
そして、ふう、と一息つき、
脱力し、床に崩れ落ちた。
「死ぬかと、思った…。」
数秒間、茫然自失としていたが、やがて、気がつく。
アイツは！？
俺は這うようにして少女の下へと向かう。
「おい！しっかりしろ！おい！」
「あるじ、どの…？どうなったで、ありますか…？」
少女はうつろな目で俺のほうを見る。
「終わったよ。全部終わった。」
「そうで、ありますか…。あるじどのは、ぶじでありますか…？」
小さな手が、俺の手を気遣うように、差し伸べられる。
「ああ、大丈夫。若干怪我してるが、たいしたことは無い。すぐ治る。」
少女は、にっこり微笑んだ。
「よかった…！ちゃんと、守れたであります…！」
この、馬鹿。
お前は良くても、俺は…。
「帰るぞ。とっととその傷を見てもらわないとな。」
俺は少女の手を取る、が、
すっ、と少女は俺の手を振りほどく。
「何してんだ！速く…。」
「無理で…、ありますよ…。」
少女は力なく笑う。
「ちょっと、魔力が抜けすぎちゃったで、あります…。もう、小生はダメでありますよ…。」
「馬鹿。何言ってんだ？そんなわけねえだろ！帰るぞ！飯作ってやるから！」
小さくかぶりを振る少女。
「米だって良いぞ！好きな物食わしてやるから！なんなら…、俺を好きにしたっていい！」
少女はくすりとかすかに笑い声を立てた。
「もうちょっと…、速く…、言ってほしかったでありますな…。」
少女の目が、遠くを見つめるように細まる。
「…！本当に…、本当にダメなのかよ！？何でだ！？」
「大丈夫でありますよ…、小生は、元の提灯に、戻るだけであります…。小生は、いつでも主殿のそばに、いるでありますよ…。」
そういうこっちゃねえだろうがよ。
「なあ、おい、いいから起きろよ！起きて、帰るぞ！」
「…、主殿…、一つ…、お願いがあるであります…。」
少女は、ふっと目をつぶり、言った。
「小生、名前が欲しいであります…。」
「名前？」
「主殿に…、名前で呼んでもらいたいのであります…。」
「…。分かった。」
俺は、混乱した頭を振り絞って考える。
そういえば、少女の服の紋章について、なんか聞いたような記憶がある。
一見すると揺らめく炎のような、花の形の紋章。
orchidの花を模しているという。向こうの言葉では、確か…。
「蘭…？」
少女の顔が、一瞬ぱっと明るくなる。
「ラン…、ラン…！小生の、名前…！」
目を瞬かせる少女、いや、ラン。
「主殿…。」
「ラン。どうだ？嫌か？」
「いやな訳…、無いでありますよぉ…。」
少女の目から、ぽろりと涙がこぼれる。
「主殿、小生、ひっく、主殿と会えて、ぐす、ほんとに、良かったであります…。」
ランは涙を流しながら、最高の笑顔で、微笑んだ。
「いつまでも、幸せに、なって、ほしいで、ありま…、」
ふいに、空気が、冷たくなった。
「おい、おい！おい！？ラン！ラン！しっかりしろ！ラン！」
返事は、もう、返ってこない。
目の前の少女の体が、徐々に淡い光に包まれていき、やがて、穴の開いた一つの提灯だけが、そこに残された。
「ラン…。お前…。」
俺は震える手を持ち上げると、転がった提灯を、叩いた。
「お前ばっかり、助けっぱなしで行きやがって、あまつさえ…。」
提灯の油紙に、丸い染みができる。
「お前のせいで、お前のために、俺は、泣いてんだぞ…。これじゃ、俺が…。」
俺はゆらりと立ち上がり、何処へともなく、叫んだ。
「格好悪ぃだろうが！！」
嗚咽の混じった、情けない叫び声が、朝ぼらけの街へとこだましていった。
声を張り上げるクリス。
「じょ、冗談ですよね？」
「冗談を言う目に見えるか？」
「…！」
クリスは後ろめたそうに目をそらした。
「まず、違和感を感じたのは、アンタの言葉だ。」
俺は機械的に話を進めていく。
「俺の傷を見たとき、アンタは、『どうしたんですか？』ではなく、『一体誰に？』と言った。何故この傷が他人に負わされたものだと分かったのか？」
「た、たまたま言ってしまっただけです。深い意味は…。」
「次に奇妙に感じたのは、マルコについて。」
クリスが言い終わるより前に俺はまた話し出す。
「マルコは、俺の羽織を借りて着ていたがために、俺と間違われて刺された。」
「それが…、どうかしたんですか？」
クリスが、鋭い声で訊く。
「考えても見ろ、夕暮れ時とはいえ、まだ多少日はあったのに、どうして犯人は顔を確認せずに背中を刺したんだ？」
クリスの眉がぴくりと動く。
「殺人を実行するなんて時だから、焦っていたんじゃないですか？」
「それ以前の四人は、袋小路の隅まで追い詰めた上で、真正面から刺されてたんだぞ？」
「それは…。」
クリスがす、と一歩身を引いた。
「考えられることは一つ。犯人は、俺に顔を知られている人物であった。」
「それは、推測に過ぎません！」
クリスが細い声を張り上げた。
「まあ、そうだな。確かに偶然だと言ってしまえば言えないこともない。じゃあ、これは？」
俺はゆっくりと足を上げ、汚れた足跡を見せた。
「…。靴が、どうかしたんですか？」
怪訝な目でこっちをにらむクリス。
「雨が降ったのは、知ってるか？」
「ええ、窓から見えました。」
「あの時、俺は、ちょうど警察署の前に居たんだ。」
「…。だから？」
クリスがいらだった様子で尋ねる。
「つまり、アンタが来たのは雨の前だったわけだよな？」
「ええ、だからなんだと…。！」
クリスは目を見開き、慌てて足元に目を落とした。
「察しが良いな。」
俺は、ゆっくり、確認するように話す。
「雨の後買い物に行ったエドモンドは分かる。では、署に着いてから一歩も外に出ていないはずのアンタの靴に、何でまだ乾いていない泥がついているんだ？」
「それは…。ですね…。」
バン！
突然、クリスが壁に手のひらを叩きつけた。
壁一面に複雑な魔方陣が展開していく。
クリスが、にやりと笑った。
と、
突然術式にひびが入り、魔方陣が崩壊していく。
「な！？」
そのまま、魔方陣は跡形も無く掻き消え、もとの殺風景な壁だけが残った。
「なんで…？」
俺はポケットからお札のような紙を一枚取り出した。
「悪いな。ドアの外側に魔瘴封じを貼らせてもらった。この室内では、魔力に依存する力は使えない。」
「くっ…！」
口元をゆがめるクリス。
俺はふう、と一息深いため息をつく。
「完全に盲点だったよ。パンデモニウムを経由すれば、移動時間も距離も関係ない。」
「いつ、私がダークプリーストだと？」
クリスの頬を汗が伝う。
「まあ、この国じゃ放埓な聖職者も多いからな、初めは違うかと思っていたが、確信があった。」
「確信？」
「そりゃ、まあ、いろんな奴がいるさ。礼拝をサボる奴もいる。女色に溺れる奴もいる。でもな、」
俺は指を一本立てた。
俺たちが、彼女にはじめて会った、あの時。
「主神教の信者で、くしゃみしてる相手に十字を切らない奴など、俺は見たことが無い。」
クリスがはっと口元を隠す。
「そ、そんな、ことで…。」
俺は彼女をまっすぐと見据え続ける。
綺麗な二重の目が、怯えるようにこちらを睨んだ。
「なんで？なんで！？絶対分からないはずだったのに…。」
俺はまた一息つき、そして、ゆっくり口を開く。
自分でも、恐ろしいほどに、重たい声がこぼれた。
「何故殺した？」
クリスは、糸が抜けたように俯いた。
ぶらり、と細い腕が力なく垂れ下がる
「だって…、だってあの人たち、泥棒だもの。」
「泥棒？」
「そう！」
跳ねるように顔を上げるクリス。
「なんでもないようなフリして近寄ってきて、騙して、下品な手で誘って、奪おうとする。私の、エドを！」
凍えるような叫びが、部屋の壁にしみこんでいく。
「私は、エドを愛してる。世界の、誰よりも。魔物になって、いや、なる前から、私に居場所なんて無かった。誰も、私を見なかった。それなのに、あの人は、隣にいていいって、言ってくれたのよ。私を見てくれるのは、愛してくれるのはエドだけ。なのに、あの人達は、遊びみたいな気持ちで、私からエドを奪おうとした。」
クリスの口元だけが、にこりと笑顔を作る。
「だから、殺した。それだけ。まだまだ、足りないの。変な女に、言い寄られて、エドは困ってるの。だから、もっと、殺さなきゃ。」
クリスが襟元に手を当てた。
気づいたときには、もう、遅かった。
「そいつらも…。アナタも。」
次の瞬間、鋭く光るナイフが、俺のシャツをかすめた。
「くっ…！」
床に転がる俺。
見覚えのあるナイフに、新しい赤い汚れと、古い、黒ずんだシミ。
「逃がさない。」
クリスがナイフを天井にかざし、一気に振り下ろす。
「ち、くしょ！」
転がった姿勢のまま、近くのテーブルを引き倒し、盾にする。
ズガッ！
ナイフはいとも簡単に合板の天板を貫き、俺の眼前まで迫った。
五人刺してまだこの切れ味って。
額の汗を拭い、部屋の端と逃れる。
「ちっ…！」
慌ててナイフを抜き、間合いを取るクリス。
「ちょっと待て！違う！それは全部勘違い…！」
言い終わる前に、彼女が突っ込んできた。
闇雲にかわす。
一瞬前まで俺の頭があった壁に、ナイフが柄までめり込む。
「勘違い？そんなわけない。あいつらは、私からエドを奪うために近づいてきたの。だから、だから殺さなきゃ。そうすれば、エドと私は、幸せになれるの。」
彼女の手が逃げ道を塞ぐ。
目が完全に据わっている。
追い詰められた。
もう、逃げ場が無い。
以前までの俺なら、大人しく死に甘んじたところだが、今は違う。
戻ってやらなきゃ、アイツが、悲しむだろうが。
なにか、何かないか？
「もう、これで、終わり。これで、幸せに、なれるの。」
脳内を、あらいざらい引っ掻き回す。
何か、何か！
「これで、おしまい。」
クリスがナイフを引き抜き、振りかざす。
天井のランプと重なり、動きが止まった。
そのとき。
「コーロ・ポーシュカ！」
俺は力の限り叫んだ。
彼女の腕が、ぴくり、と動く。
「２２歳！男性！ガンマルク市在住！製薬会社に勤務し、今年の春結婚！夫婦仲のよさは近所でも評判だった！」
クリスが奇異なものを見るようにこちらを見つめる。
「何？誰の話をしてるの？」
「誰の話って、そりゃ…。」
吐き出しつくした酸素を補給し、俺は、言った。
「エドウィ・ポーシュカの旦那だよ。アンタが三番目に殺した、な。」
クリスの笑顔が、わずかに引きつる。
「そ、それって、どういう。」
「現場に身元確認に来たときは、正直、見てられなかった。」
今でも鮮明に、脳裏にこびりついて、洗い落とそうとしても、取れない。
不吉な知らせに侵され、不安で染まった顔。
そして、その知らせが事実だと気づいた瞬間の、あの顔。
俺は、一生夢に見るだろう。
「アンタのように、怯えたよ。アンタのように、叫んだ。俺たちが止めなきゃ、あの場で壁に頭を打ち付けて死んでた。」
クリスの手が、かすかに震えだす。
「知ってるか？彼女が発見された時、鞄の中に、ケーキがあったそうだ。ハートマークと、旦那の名前の入ったケーキ。店で売ってないデザインのものだった。」
「それは…、それは…、」
クリスの眉が、苦しそうに歪んでいく。
声は、力なく弱気なものへと戻っている。
「他の被害者だってそうだ！大切な人がいて、幸せになりたかったんだよ！アンタと同じ気持ちだったんだよ！アンタの思っているようなことは、何処にも無かった！」
俺の叫びは尾を引いて、部屋の静寂に融けていった。
クリスの目から、涙がこぼれる。
作り笑顔のまま大粒の涙をこぼす彼女は、まるで機械人形のようで。
「嘘。うそよ。嘘嘘嘘嘘嘘嘘！嘘だ！ねえ、嘘でしょう！？」
俺は黙ってかぶりを振った。
「嘘だ嘘だ嘘だ！ねえ！お願い！嘘だと言って！」
何も言わない。否。言えないのだ。
全ては、悲しい事実なのだから。
たとえ悲劇でも、三文芝居だ。
クリスは、俺が黙っている事で全てを理解したようだった。
「そう…。そっか。勘違い…。それで、五人も、殺しちゃったの。」
床にへたり込む彼女。
光を失った目が、茫然と天井を見上げている。
「おい、大丈夫か？立てるか？」
クリスが、す、とナイフを持った手を上げた。
受け取ろうとした俺の右手が、宙を掴む。
「ん…？どうした…。おい！止めろ！」
ナイフの切っ先は、彼女の白磁のような喉元を、まっすぐ指していた。
「刑事さん。エドに、ごめんなさい、って伝えてください…。」
言い切ると同時に、彼女は勢いよく手を引き寄せた。
床に鮮血が滴る。
その劇的な赤は、殺風景な部屋の中にあって、鋭く目に沁みた。
思わず歯を食いしばる。
俺は、守れなかった。
被害者も、守れず。
仲間も、守れず。
そして、犯人さえ守ることができなかった。
そんなことに、
なってたまるかよ！
「え…？」
「あー…、くっそ…！痛つつ…！」
ナイフの切っ先が、彼女の喉元の寸前で静止し、光を放っている。
そして、刃を握り締めた俺の右手から滴った血が、ナイフの柄を真っ赤に染めている。
「な…！何を！？」
クリスがおびえたような目でこちらを見つめる。
俺の額から玉のように汗が噴出す。
「離して！離してよ！死なせてよ！私は…！」
「うるせえ！！」
俺の声に、壁がびりびりと振動する。
「そうだよ、お前は、殺人犯だよ。ろくでもない勘違いで、五人殺したよ、人生を、幸せを、奪ったよ。けどな、」
吐き出すように、声をぶつけていく。
「ここでお前が死ぬことは、逃げだ！お前が死んだら、殺した人間は帰るのか！？残された人間は、幸福になるのか！？」
クリスの手から、ゆっくりと、ナイフが離れる。
「お前は、自分がやった事を悔いているかもしれない。罪を償う気になったかもしれない。だとしても、俺はお前を許せない。だから。」
俺は握った手を開いた。
ナイフが床に落ち、冷たい金属音が、辺りをつつんだ。
「だから、生きて、悩め。何か分かるまでな。」
クリスの顔がくしゃっと歪み、泣き崩れた。
彼女の鳴き声は、透き通っていて、悲しいほど、綺麗で。
思わず、つられてしまいそうになるほど。
突然、大きな音をたてて、ドアが開いた。
「主殿！すっごい声が聞こえたでありますけど、大丈夫でありますか！？」
駆け込んできたのは、少女と、もう一人。
「クリス…。」
呆然とクリスを見つめるエドモンド。
「そんな、まさか…。」
「ごめんなさい、エド。ごめん。私…。」
クリスは泣き声と混じった、かすれた声で、必死にエドに謝ろうとしている。
「主殿、血が…！！」
「俺はいい、それより、クリスのほうを。」
ひれ伏すように、泣き続けるクリス。
「エドモンド、分かるとは思うが…。そういうことだ。」
「そんな、まさか、そんな、」
エドモンドの声が暗く翳った。
かちゃり、と何か金属の鳴る音がする。
「まさか、こんなに速くばれるなんて。」
「危ない！！！主殿！！」
少女が、視界の端から、飛び出していった。
と、次の瞬間。
耳をつんざく轟音が、深く、暗い闇に、こだました。
何が、起こったんだ？
目の前では少女が腹部を抑えて、倒れこんでいる。
エドモンドの手には、拳銃。そして、その銃口からは、硝煙の匂いの煙が細く立ち上っている。
「な、な！？」
状況が把握できない。
「かっ…、はっ！」
声にならない声を出してもがく少女。
「おい、おい！しっかりしろ！」
「おっと、あまり騒がないで下さいよ。人が来てしまう。」
エドモンドがゆっくり腕を持ち上げる。
銃口の、深い闇と目が合う。
「いやいや、刑事さん。侮っていました。まさかこんなに短時間で露呈してしまうとは思ってもいませんでしたよ。感服です。」
にやり、と笑うエドモンド。
「やめて！エド！もういいの！みんな間違いだったの！」
クリスがエドモンドを制止するように、手を伸ばす。
「私のことはもういいの！だから…。」
「五月蠅いな。」
再び、鋭い破裂音。
「え…？」
クリスの頬に一筋の線が入り、赤い雫が白い肌を伝った。
そっと顔を撫で、手についた血を呆然と眺めるクリス。
「え、え…！？どう、いう、こと？ねえ、エド…。」
「黙らないと、次は本当に撃つよ。」
クリスはびくりと身を竦ませ、口元を手で押さえながら何度も頷く。
「どういうことだ？」
俺の声に反応し、再び銃口が俺のほうへと向けられる。
「どういうことも何も、彼女がアナタに話したでしょう？犯人はこの女です。」
クリスはやれやれとでもいうように肩をすくめる。
「そういうことじゃねえ！それでどうしてお前がコイツを撃たなきゃならない話になる！？」
「別に撃たんとして撃ったんじゃないです。事故ですよ。本当ならここに倒れているのは、刑事さん貴方だ。」
エドモンドの口が、にいっと不気味に歪む。
「犯人を追い詰めるまでのお手際は実に見事でした。ただ、そこから先が若干難ありです。殺人鬼と対峙し、その上刃物を向けられているんですよ？とっとと射殺してしまえばいいものを、無意味に長引かせ、挙句の果て、負傷。あまり褒められた結果じゃない。」
「俺のやり方に口出しされる義理はねえな…。」
エドモンドが含み笑いをする。
「やり方、ですか。まあ、貴方の流儀など知ったことじゃないですが。ただ、今回はそれだと少し困ったことが起こるんですよ…。」
「エド…！どうしちゃったの！？ねえ！私のこと愛してるんなら、今すぐこんなことやめてよ！」
エドモンドはクリスのほうを一瞥すると、何の感情も無く、言った。
「いや、別に。」
「…！」
瞬間、クリスの目から、光が消える。
「う、そ、だよね。だって、あんなに、やさしくしてくれたじゃない。笑いかけてくれたじゃない。一緒にいてもいいって、言ってくれたじゃない！」
「いやあ、それは。」
エドモンドはさわやかな笑顔で言う。
「御しやすそうだったから。」
吊上がった唇の端から、笑い声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、刑事さん。不思議なもんですよね。苦労して、辛酸を舐めて、シビアな人生を送ってきた人間ほど、薄っぺらい甘言に簡単に引っかかる。」
あまりの予期せぬ言葉に、俺は怒りを覚えることさえ忘れていた。
エドモンドは俺に視線を戻すと、また喋りだした。
「しかし、ただの美人は三日で飽きると言いますが、その通りですね。まあ、いつものことですが。でもって、なんと理由をつけて廃棄するかと考えている矢先に、あの事件が起きた。」
エドモンドは愉快そうに目を細める。
「本人は秘密にしているようでしたが、バレバレでしたよ。態度や口ぶりにどうしても出ます。刑事さんもお分かりの通り、彼女は嘘が下手で。」
「俺としては、アンタがこんなに上手いことに驚きだよ。下手糞なフリをするってのは、何事においても高度テクニックだ。」
「お褒めに預かりどうも。」
俺の背を、冷たい汗が伝っていくのが分かる。
畜生、どうしてこう俺は詰めが甘いんだ。
「そして、気づいたんです。面倒事が、こんなに簡単に、一つ片付いている事にね。これを利用しない手などありません。」
エドモンドの手が、クリスを指し示す。
「いやあ、彼女は実に熱心でしたよ。恋は盲目、ですか？まさにそれだった。女性達からの思わせぶりな手紙が、まさか僕自身の筆跡だなんて思いもしなかったんでしょうね。」
「…！じゃあ、私は…！」
それだけ言うと、クリスは糸が切れたように失神した。
俺もやっと理解した。
只の勘違いなどではなかった。全ては仕組まれていたのだ。
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
が、
その波は、押しとどめられるかのように、堆積している。
俺は、つぶやくように言った。
「おまえ、か。」
叫ぼうとしても、声が出てこなかった。
張り付くほどに、のどがからからに渇く。
向けられた銃口の威圧感が、思考力を、奪う。
この期に及んでも、まだ、俺は臆病者のままだった。
「そうだ、いい事を思いついた。刑事さん、銃を貸してください。」
エドモンドは、そんな俺の心を見透かすように、へらっと軽薄に笑う。
「な、何でまた？一丁持ってれば十分じゃないのか？」
「これで貴方とこの女を射殺するのは簡単ですよ？ただ、それでは僕が捕まってしまう。そこでね、考えたんですよ。」
エドモンドが指で銃の形を作る。
「まず、貴方は犯人を追い詰めた。しかし犯人は銃を隠し持っており、苦し紛れの発砲に巻き込まれ、無関係の少女が死亡。逆上した貴方は犯人を射殺し、その後、民間人を死なせた罪悪感から、自らの銃で、」
エドモンドが、指先をこめかみに当て、軽く跳ね上げる。
「バーン。と。」
大仰に目をつぶるエドモンド。
「ああ、なんて悲しい結末。これこそまさに悲劇ですよ。そして誰もいなくなった。誰も僕の存在には気づかない。」
エドモンドが芝居がかった様子で手を広げる。
俺は思わず一歩足を下げる。
「おっと、抵抗したって無駄です。そのときは、面倒ですが、貴方を殺して、懐から銃を拝借すればいい。順序が変わるだけですから。」
畜生、マジかよ。
こんな結末って、ありか？
まったく、神様って奴がいるなら、一度顔を拝んでみたいもんだ。
「分かった。」
俺は内ポケットから銃を取り出すと、エドモンドの足元に投げた。
カシャン、と軽い金属音が鳴る。
「あ、もしかして、拾う隙を突こうとか思ってませんでしたよね？」
エドモンドはサッカーボールのように、器用に足で銃を手元まで跳ね上げた。
「残念でした。」
エドモンドはにやりと笑う。
「さてと、まずは、貴方からだ。」
見慣れた銃も、銃口から覗くとまるで異質なものに見える。
俺は迷っていた。
窮地に立たされた俺の脳は、一つの結論を導き出した。
俺は、逃げられる。
ただし、ここで逃げたら、クリスと、少女は…。
選べる答えは、一つしか無い。
悩み、苦しみ、息をするのも忘れる。
その瞬間。
「…るじ、どの…。」
声が、聞こえた。
「あるじ…、どの…、」
幻聴ではない。間違いなく、目の前の少女が発した声だった。
「おや、まだ生きていましたか。けどまあ、そう長くない。」
思えば俺は、こいつに出会ってから、本当に助けられっぱなしだった。
こいつがいなかったら、俺は潰れていたかもしれない。いや、いただろう。
「よかったですね。大事なお嬢さんと一緒に死ねますよ？」
目の前で震えるか細い命に、俺は、救われてきたんだ。
おい、俺よ、一体何をそんなに悩んでたんだ？
知るかよ。
腹はくくった。
逃げる、という選択肢は、頭の中から消え去った。
なあ、お前の声が聞けて本当によかった。
これで、心おきなく…。
「さようなら。刑事さん。」
引き金が、容赦なく引かれた。
これで、
心おきなく、戦える。
スタートの合図は、かちり、という虚しい音。
「え？」
エドモンドは再度引き金を引く。
またしても軽い音を残し、俺の銃は押し黙る。
俺はすばやく体勢を立て直すと、目の前でうろたえる男に足払いを食らわせた。
「なっ！？」
すばやく距離をとる。
「悪いな、さっきうっかり自殺なんか考えちまったもんで、危ないと思って弾丸全部抜いたんだ。お陰でクリス嬢に襲われたときなんか、心臓が飛び出るかと思った。」
「くっ…！！」
エドモンドは跳ねるように身を起こすと、自前の拳銃をこちらに向ける。
「上手くいきますように…。」
俺はクリスのナイフを拾い上げると、手首のスナップを利用して、投げた。
ナイフの刃は回転しながら飛んでいき、エドモンドの腕に突き刺さる。
「ぐあっ！？」
銃を取り落とすエドモンド。
深夜に手裏剣の練習をしていたときは、いい年して俺は何をやっているんだと空しくなったものだが、人間何が幸いするか分からない。
「はあ、はあ、くっ、そ…。」
ほうほうのていでナイフを引き抜き、荒い息をするエドモンド。
俺は一歩ずつ、エドモンドに近づいていく。
「や、やめろ！来るな！」
エドモンドの目は、恐怖に見開かれている。
その手は手探りで取り落とした銃の行方を探っている。
「来るな！来るな！来るな！」
絶望に歪んだその顔に、取り繕った爽やかさは見る影も無い。
「来るなああぁぁぁぁ！！！」
やっとの思いで銃へとたどり着いた手は、それを勢いよくこちらへと突きつける。
「遅いっての。」
「…！」
俺は、伸ばした腕の内側で、エドモンドと額を付き合わせた。
「なあ、お前、今、後悔してるか？」
俺は、恐怖の浮かぶ目に向かって、訊いた。
そして、エドモンドは答えた。
「何を？」
ああ、そうかよ。
俺は修道服を強引に掴むと、そのまま重心を動かす。
エドモンドの体が、中空に浮かぶ。
「う、わああああ…っ！？」
部屋全体が揺れる。
エドモンドは大の字に伸びて、気を失った。
「背負い投げ一本、と。」
俺は着衣の乱れを軽く直す。
そして、ふう、と一息つき、
脱力し、床に崩れ落ちた。
「死ぬかと、思った…。」
数秒間、茫然自失としていたが、やがて、気がつく。
アイツは！？
俺は這うようにして少女の下へと向かう。
「おい！しっかりしろ！おい！」
「あるじ、どの…？どうなったで、ありますか…？」
少女はうつろな目で俺のほうを見る。
「終わったよ。全部終わった。」
「そうで、ありますか…。あるじどのは、ぶじでありますか…？」
小さな手が、俺の手を気遣うように、差し伸べられる。
「ああ、大丈夫。若干怪我してるが、たいしたことは無い。すぐ治る。」
少女は、にっこり微笑んだ。
「よかった…！ちゃんと、守れたであります…！」
この、馬鹿。
お前は良くても、俺は…。
「帰るぞ。とっととその傷を見てもらわないとな。」
俺は少女の手を取る、が、
すっ、と少女は俺の手を振りほどく。
「何してんだ！速く…。」
「無理で…、ありますよ…。」
少女は力なく笑う。
「ちょっと、魔力が抜けすぎちゃったで、あります…。もう、小生はダメでありますよ…。」
「馬鹿。何言ってんだ？そんなわけねえだろ！帰るぞ！飯作ってやるから！」
小さくかぶりを振る少女。
「米だって良いぞ！好きな物食わしてやるから！なんなら…、俺を好きにしたっていい！」
少女はくすりとかすかに笑い声を立てた。
「もうちょっと…、速く…、言ってほしかったでありますな…。」
少女の目が、遠くを見つめるように細まる。
「…！本当に…、本当にダメなのかよ！？何でだ！？」
「大丈夫でありますよ…、小生は、元の提灯に、戻るだけであります…。小生は、いつでも主殿のそばに、いるでありますよ…。」
そういうこっちゃねえだろうがよ。
「なあ、おい、いいから起きろよ！起きて、帰るぞ！」
「…、主殿…、一つ…、お願いがあるであります…。」
少女は、ふっと目をつぶり、言った。
「小生、名前が欲しいであります…。」
「名前？」
「主殿に…、名前で呼んでもらいたいのであります…。」
「…。分かった。」
俺は、混乱した頭を振り絞って考える。
そういえば、少女の服の紋章について、なんか聞いたような記憶がある。
一見すると揺らめく炎のような、花の形の紋章。
orchidの花を模しているという。向こうの言葉では、確か…。
「蘭…？」
少女の顔が、一瞬ぱっと明るくなる。
「ラン…、ラン…！小生の、名前…！」
目を瞬かせる少女、いや、ラン。
「主殿…。」
「ラン。どうだ？嫌か？」
「いやな訳…、無いでありますよぉ…。」
少女の目から、ぽろりと涙がこぼれる。
「主殿、小生、ひっく、主殿と会えて、ぐす、ほんとに、良かったであります…。」
ランは涙を流しながら、最高の笑顔で、微笑んだ。
「いつまでも、幸せに、なって、ほしいで、ありま…、」
ふいに、空気が、冷たくなった。
「おい、おい！おい！？ラン！ラン！しっかりしろ！ラン！」
返事は、もう、返ってこない。
目の前の少女の体が、徐々に淡い光に包まれていき、やがて、穴の開いた一つの提灯だけが、そこに残された。
「ラン…。お前…。」
俺は震える手を持ち上げると、転がった提灯を、叩いた。
「お前ばっかり、助けっぱなしで行きやがって、あまつさえ…。」
提灯の油紙に、丸い染みができる。
「お前のせいで、お前のために、俺は、泣いてんだぞ…。これじゃ、俺が…。」
俺はゆらりと立ち上がり、何処へともなく、叫んだ。
「格好悪ぃだろうが！！」
嗚咽の混じった、情けない叫び声が、朝ぼらけの街へとこだましていった。
12/01/21 14:11更新 / 好事家
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