瞳にうつる君に、恋をした。
「……ごめんなさい」
緊張のあまり、声が裏返ったりしていなかっただろうか。
「そんなぁー！ なら、せめてお友達からでも！」
周りの反応を見る限り、そんなことはなさそうで安心する。
――初めて見た時からずっと気になっていました。君のことが好きです。
そう言ってくれた人の事を、わたしはよく知っていた。そしてだからこそ、軽率に返事はできなかった。
これ以上は何も言うまいと、逃げるようにその場を去る。昼前時の大学生でごった返す人ごみに混ざってしまえば、それは案外簡単だった。
『彼の評判を悪くしてしまったかもしれない』
『返答はこれで正しかったのか？』
移動しながら、そんな心配ばかりがわたしの頭の中でぐるぐると回っていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
……頭がぐるぐるする。
ともすれば、自分という人間の境界すらあやふやになるかのような気分。昨日は体調を崩して寝込んでいたが、まだ本調子じゃないらしい。
いや、それも原因ではあるかもしれないが、目の前では耳タコレベルで繰り返された幾度目かの『愛とはなんたら、恋とはうんたら〜』といったとりとめのない話が延々と友人の口から次々に滑り出しているのだ。付き合わされるこっちの身にも――――……
「――ンヤ、おい、真夜！」
自分を呼ぶ声でハッと我に返る。どうやら話半分に友人の言葉を聞き流していたのがバレたらしい。
「おう。終わったか？ 誠人」
時間にして昼時、大学の学食で買った安いカレーを頬張りながら目の前を見る。黙々と食べていた俺の方に対し、ぺちゃくちゃと俺の方に向かってずっと話しかけていたらしい友人の皿のカレーは全然減っていなかった。
「何が『終わったか？』だこの野郎！ ちっとは俺の話を真面目に聞いてくれたって良いだろうがよお！？」
「あーうっせーうっせー。病み上がりの頭に響くから落ち着いてくれ」
「お前が頻繁に『ワリ。体調崩したから講義休むわ』とかケロッとした雰囲気で言ってくる奴じゃなかったらもう少し心配もしたんだがな。誰のせいで興奮してると思ってんだ全く」
どうやらイソップ物語レベルにまで俺の信頼は落ちていたようだ。まあ、頻度が頻度なだけに無理もないか。なんせ月に一回くらいはそう言ってるし。
でも昨日は熱にうなされすぎてなんだか逆にムラムラして眠れなかったのもあってかなり辛かった。人間、生命の危機を感じるとやはり繁殖のための本能が高まってしまうのかもしれない。
「いや今回のはマジの重症だったんだよ。ったく……わかったわかった、ちゃんと聞くから勘弁してくれ。ま、どうせまた『満月の君』の話だろ？」
コイツは屋部誠人（ヤベマサト）。なんとなく同じサークルに入ってから、同じ学部だと知りなんとなくつるみ始め、結局サークルはすぐに辞めてしまったがお互いそのままの関係で1年と少しが経っていた。気のいいやつで、こっちが聞いてもいないのにやれどこの学部の女の子が美人だっただのお胸が豊満だのといった話をしてくる。
そんな誠人が現在ご執心なのが通称『満月の君』。呼び始めたのは誠人ではなく、おそらくは漫画研究会辺りの人間だろうけれどもその呼び名が一部では定着してしまっているようだ。その一部というのが、昨日俺が体調を崩して休んだあの講義を受けている他の友人たちの間である。
曰く、かなりの高身長。
曰く、とても無口。声を聴いた人は今のところいないらしい。
曰く、胸はあまりないようだが、シュッと引き締まった良いスタイル。
曰く、長めの金髪を丸くまとめた、所謂シニヨンヘア。
そして曰く、ほかの講義での目撃情報はない。またかなりの気分屋で、月に一度くらいのペースでしか出席してこない。在学生ではないのでは？ とのうわさもある。
「しかしお前もよく女の子の話のネタが尽きないな。頼んでもないのに次々とさ。もしかして俺の恋愛でも応援してくれてんの？」
誠人に聞けばもしかしたら俺に対する女の子からの好感度なんかも教えてくれるかもしれない。それくらい、いかにも恋愛ゲームで重宝しそうなやつなのだ。が、実際のところこういう手合いは何を思ってライバルを増やす真似をするのかさっぱりわからん。
「バッカお前、ちげーよ！ お前のためじゃねーの！ 俺が狙ってんの！ 間違っても『ボクが先に好きだったのに〜！』とか言わせないために周りにツバつけてんの！ カーーーぺっぺっっ！！」
「オイやめろてめっ、ツバつけんのは攻略対象だけにしとけ！ 日本語間違ってんぞ！」
大声で誠人がまくしたてれば、なるほどと思わないでもない。だが本当に勘弁してほしいのは俺にまでそのツバがかかってきていることだ。文字通りでありながら……二重の意味で、だ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
魔が差した、といえば本当にそれでおしまいだとは思う。大学に入ったらなんか自然と彼女ができて、ウキウキのキャンパスライフを過ごすんだとか思っていた自分の理想は、入学後に知り合った女性とのある出来事がきっかけで早々に崩れ去った。
異性と恋愛する気分にもなれないまま、さりとて同性が好きなのか？ と言われればNOである。そして傾倒するような二次元の女の子もいなければ、追っかけているアイドルもいない。
――なら、自分が理想の女性になってみるのはどうか？ いけるかもしれない。
そんなことが頭をよぎってしまった。
体の線はゆったりした服で誤魔化せば良いし、高い身長もある意味ステータスだろう。俺はそっちの方が好きだ。髪はウィッグを購入しよう。長い方が色々と遊べるか？
などと考えているうちに、気が付けばかなり自分の理想に近い存在が目の前の鏡に映っていた。これなら童貞もきっと殺せそうだ。いや、俺も童貞ではあるのだが。
手ごろな在庫の関係でウィッグは金髪にせざるを得なかったのだけが心残りだがまあ、いずれ綺麗な黒髪のものも手に入るだろう。そのときは気分で変えればいい。
そうなると必ず湧き上がるのは『この格好で外に出てみたい』という感情。そしてただ他人と道ですれ違うのではなく、ある程度は人目についてみたい。しかしバレたり大事になりたくはない。複雑である。これが乙女心なのかもしれない。
色々悩んだ末、声さえ出さなければそうそうバレないんじゃないかと思った俺は大学の講義に女装して出かけてみることにした。出席確認には点呼がなく、退室時に授業の感想をまとめて提出するだけでOKなものを選び、身支度に時間をかけるため、また帰りやすさなどから2コマ目のみで授業終わりの日を作った。念仏のような教授の言を聞きつつ、出席だけきちんとして最後にレポートをちょちょいとこさえだけすれば単位がもらえるような授業。流石に誠人含め同じ学科の友人も何人か混じっていたが、体調を崩したとでも言い休むフリをしてこっそり出席すればよかろう。大学はフリーダムな場所なのだ。
そう思っていたのだが。
月に一度顔を見せる、シニヨンヘアの金髪長身美人――髪をまとめた部分が丸く見えるのも相まってこう呼ばれることになるのだ。
『満月の君』。
そう、女装した俺の事だ。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
というか、いい加減バレたのかもしれない。ただでさえ入れ替わった日に俺が体調を崩すなんて生活をもう半年以上は続けているし、奴ら独自の調査（？）による『満月の君』出現予測日は昨日だったのにもかかわらず肝心の俺はガチで寝込んでいたのだから。
こんなことなら嬉々として伝えてくる予測なんかに付き合わなければよかった。
「それで？ 昨日はどうだったんだ？ データ屋が聞けば鼻で笑いそうな出現予測とやらは一歩完成に近づいたか？」
聞かなくても答えはわかっているが、しょぼくれた顔をしている誠人に皮肉を言ってからかっておく。
「それがな……。彼女に告白して、フラれたんだよ」
「へ―そうかそうかそれは残念だった――、って何だって？ すまん、もっかい言ってくれ」
「お前さっきはホントに俺の話聞いてなかったんだなぶっ殺すぞ3回目は無えからな」
どうやら俺がボーっとしている間、すでに一度ほざいていたらしい。
「えーっと……誰が、誰に？」
「ふ―……。俺が、『満月の君』に、だ。これでカウント3だてめえ死にたいようだな真夜ァ！」
マジで殴られた。顔は死守した。
「いやすまん、ほんとすまん！ ってか何？ 昨日『満月の君』が来てたのか？」
「いやだからそうだって昼飯食い始めたときから言ってんじゃん。むしろイメチェンしててビビった。髪真っ黒になってんの」
「……人違いじゃないのか？」
「さすがにあの美人を俺が見間違えるわけがないでしょ……って、お前はまだ一回も見かけたことないんだったな。人生の99割損してるぞ」
「お前がバカ丸出しで何よりだと思う気持ちしかないな……じゃなくて、人違いじゃないにしてもどうしてフッたフラれたの話になるんだ」
思わずぼやいてしまってから、訊きなおす。
いやまあ人違いなんだけど。
遠くから眺めてるだけのファンクラブ的なもんだとばかり思っていたから今まで特に咎めてもなかったんだが、これタイミング悪かったら俺が告られてんの？ こいつに？ ないわー……。
「えーっとだな、かいつまんで説明すると……ゴホン！ いつもはその金色の輝きで俺たちの心を照らしてくれていた麗しき『満月の君』！ しかし昨日目にしたのは夜より深い黒の髪……きっと何かがあったに違いない……そうか！ きっと失恋でイメチェンしたんだ！ 思えば彼氏の一人や二人や百人いてもおかしくない美しさだからな。だが！ 愚かにも相手の男は彼女をひどく扱って捨てたんだ！ 満月……いや、『新月の君』は傷ついている！ これを我が手で慰めずして如何せん！」
え、何言ってんのこいつ。新月とか地味にうまいこと言ってんじゃねえよ。
「ってところまで想像してたら体が勝手にアタックしてたんだわ。んでごめんなさいって。マジショック！」
「想像の百倍くらいお前の頭の中がキモくて吐きそうなんだが」
これならいっそカレー食い続けながら聞き流してたままの方が良かったかもしれない。ちゃんと聞くとか言った数分前の俺を殴りたい。
「せめてお友達からでも―、って言ってみたけどやっぱダメだな。というかアレ効果あんの？ うまく事が運ばなさそうな台詞トップ3くらいには入ってそうだわ」
実はその相手とすでにお友達くらいにはなってると知ったらコイツがどんな顔をするのか気になるが、俺もそんなことで素性がバレたくはないからやめておく。
「頼むから拗らせてストーカーみたいになるとかはよしてくれよな……」
俺の精神生活の充足に響くから。
「それはないない。そういう輩が本人からどう思われるかってのはまあ、お前を見ててもわかるしな。なあ、そういえばお前の方はどうなんだ？ まだ誰かに見られてる感じはするのか？」
「んー……いや、今日は特に何も、だな。まあ、実害はないと言えばないけど不安ではあるよ」
女装を始めたことでわかったことがある。
どうやら、俺の女装姿はとても周囲の目を引くらしい。それ自体はまあ、俺の望むところではあったからいいのだが。
それからというもの、他人の目が自分に向く感覚を知ったせいか普段の格好の時にも、自分に対する目線がなんとなく敏感に感じられるようになった気がするのだ。
そして、誰かに見られているような気がするという相談をこいつにしたのが最近の話。
「マジでなんかあったら言えよな。まったく、自称テニサーのビッチどもか……？ あいつら、俺らの大学デビューにかける期待を裏切っただけに飽き足らず、今更になってまた真夜に迷惑かける気かよ」
「…………」
誠人の言葉に俺もすこし黙る。
あれは大学に入学して間もないころだ。大学のテニスサークルはなぜ3つも4つもあるのか、深く考えずになんとなくでガチっぽいところだけ避けて入部してみた。別にテニス経験者でもないからだ。誠人ともそこで友人になり、最初のころは楽しくやっていたと思う。けれど、一か月位経ってから行われた新入生歓迎会で早々に俺は『お持ち帰り』されてしまった。
酔っぱらった女の先輩を見た男の先輩が『家の方向同じならちょっと送ってやってくれ』なんて言ってきたから、言われるがままに家まで送ったら玄関で押し倒された。全く期待していなかったと言えば嘘になるけど、その時になって『これは違う』とそう思った。
俺を見る目がまるで獲物を見つけた肉食動物のようなもので、ひたすらに怖かった。
ようやく事態を悟った俺はなんとか体格差に物を言わせて逃げ出すことができた。
翌日に顔を合わせた先輩たちが口々に『昨日はどうだった？ 気持ちよかっただろ？』みたいなことを言ってきて、自分が入るサークルを間違えたのだと本格的に感じた。誠人もそんな俺の周囲の様子を見ていて、二人してその日からサークルに顔を出すのをやめた。
ちなみに、ただしイケメンに限るとばかりに誠人の方にそういうイベントは一切なかったらしい。俺も自分の顔に自信が付いたのだけはまあよかったんじゃないか、なんて笑い話にくらいはできるようになった。
「って言ってもなあ、もう1年前の話だろ？ それこそ今更って気もするんだよな。それに隠れてコソコソとストーカーするような奴らじゃないだろ、どう考えても」
「いやいやわかんないね。コソコソする奴らじゃないは同意だとしても正直お前、かなり顔は良いんだぞ。奴らの面食いレーダーが再びビンビンのジュンジュンになってお前をロックオンしてもおかしくない」
「なんだその両胸と股間に付いてそうなレーダー。おぞまし過ぎて言葉も出ないわ」
先輩に襲われた時を思い出して寒気だった。褒められること自体に悪い気はしないが、俺の顔は誘蛾灯か何かの類ではないと思いたい。
「俺が女なら惚れてるね！ ――いや、むしろ真夜が女ならってのもアリか？ 俺イケるかもしれねえ。きっと美人だぞお前」
「うっせーわ。顔ほめても何もやらんからな。あと純粋にゾッとした。キモい無理ごめんなさい」
おっとこれ以上はよくない。
思わずちょっとニヤけそうになったが我慢して突き放しておく。俺の女装姿が見たければちょっと気になってる冬の新作でも用意してから頼むんだな。女装には金がかかるんだ。
色んな意味で、こいつが知る由もないことだが。
「まあ冗談はさておき、ボディーガードにゃならんかもだけど、帰りはお前んちまでついて行ってやろうか？ っていうかいい加減お前の部屋にも遊びに行ってみてえんだけど。一回も中まで入れてくれたことないよな？」
たぶん誠人の顔はさっきの俺の例えに基づけば獣避けの焚火くらいにはなるかもしれない、なんてことを思いながらさすがに失礼だったと反省する。
「……人様にお見せできる部屋じゃないからな。ついてきてくれるなら安心だが部屋の中までは勘弁してくれ」
「あー気になる！ 一体その言葉の裏にどんなヤバいエロ本を隠してるのかすげー気になる！」
エロ本どころじゃなくあなたの想い人の服なりなんなりがあるわけなんですが。もし仮に女装がバレずとも『満月の君』と同棲してるだとか変な誤解を生みそうだから怖い。
「頼む……俺はまだお前と友達でいたいんだ」
「友情が崩壊するレベルの性癖ってどんだけなんだよ……」
そのツッコミをあながち否定もできないのがつらいところだ。
「ま、俺の性癖はともかく家までのボディーガードは頼むわ。護衛代はペットボトルジュース1本とかでいいか？」
「マジで？ ボランティアのつもりだったしなんか貰えるだけラッキーだわ。契約成立だな」
「まあ昨日寝込んでた時、お見舞いでスポドリとか色々くれただろ？ ドアノブに掛けといてくれてたやつ。あれのお礼も込みだと思ってくれ。実際かなり助かった。まあチャイム鳴らすくらいしてくれてもよかったとは思うけどな。おかげで気が付くのがちょっと遅れたぞ」
流石に常備してる食べ物なんかは一人暮らしでたかが知れてるし、看病してくれる人なんてのもいないから物資の調達は無理やりにでも自分でする必要があるわけで。いざと思ってドアを開けたところでようやく気が付いたというわけだ。
「――え、なにそれ？ 俺そんなの知らないんだけど。さっきも言ったじゃん、どうせいつものサボりだと思ってたよ俺」
が、当の誠人はすっとぼけた顔をした。これは本当に知らない人間の顔だ。
「ちょっと待て、マジか？ 急に怖くなってきたんだけど。じゃあ他にも入ってたバランス栄養食品とかは」
「心当たりはございません」
「インスタントの豚キムチラーメンとか」
「病人に対してなんだそのチョイス。正気を疑うわ」
「俺が風邪ひいたとき無性に食べたくなるやつなんだけど……え、お前に話したことなかったっけ？」
「初耳でございます」
「「………………」」
「真夜、ケーサツ呼ぶか？」
「ま、まだ実害出たわけじゃないし……割とめちゃくちゃ助かったから様子見で」
「変なものとか入ってなかったか？ お前バレンタインには経血入りチョコとか貰う側の人間っぽそう」
「笑えない冗談はもうよしてくれ。全部市販品未開封……だったはず」
確かに累計で結構な数のチョコを貰ったことはあるけど成分までは気にしたことなかった。
知らない方が幸せなこともあるんだな。できればその文化ごと知りたくなかったけど。
「でもまあ、付き合い長いわけじゃないけど、大学では一緒によくいる俺でも知らないようなことを知ってんだ。最近感じるようになったっていう視線も含めて、案外親御さんとかがこっそり大学生活の様子見に来てたとかじゃないのか？ 合鍵で部屋に入ってみたら寝込んでましたって感じでさ」
「そんな堂々と一人暮らしの息子のプライバシー侵害する親だったかな……でもまあ親ってそういうもんか？」
「ああ……。俺も昔、家に帰ってきたらベッドの下に隠してたエロ本が机の上に整頓されてた時はどうしようかと思ったもんだ」
「ストーカーとかとはなんか別の意味で不安になってきたな……。ちょっと急いで帰ることにするわ！」
もちろん俺の崇高な趣味に関しては家族にも伝えていない。帰宅したらリビングにこれまで集めた女物の服奇麗に畳まれてたりしたらどうしよう。誠人にバレるのと同じくらい死ねる。
「え、ちょっ俺は！？ 護衛はどうすんだよ！？ ってか3コマ目は！？ あと俺にジュース奢るって話は！？」
「体調崩したから休む！ そんでお見舞いの品がお前じゃなかったからやっぱジュースはナシだ！」
「そりゃねーだろーーー！」
それを言うならそもそもお前がはじめに言ってたボランティア云々はどこに行ったんだって話だ。結果は変わらないはずなのにたまたま貰えそうになったものが貰えなくなったらこの言いざまである。やはり人間は愚かな生き物だと思う。
なんて考えながら俺はカレーの残りをかきこみ、学食を後にした。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
もともと本調子ではなかったが、なんだかんだで本当に気分が悪くなってきたかもしれない。ボンヤリとだが、このままだとヤバい、じっと休んでおかなきゃ体が保たないぞ、といった感覚に襲われている。
これはアレだ。きっと『あー学校行きたくねえなー！ 頭いてーわー！ 熱あるかもしれなーい！』って言い続けてたら本当に体調悪くなる類のやつだ。使いすぎると段々本当に学校にも行きたくなくなるという諸刃の刃。
仮病のしすぎで誠人からの信頼こそなくなったようだが、俺の体は自分の言葉を素直に信じるような単純な構造らしい。
こういう日はだらだら寝転がりながら自分磨きでもするに限るのだが、問題があるとすれば帰り着いたマンションの、俺の部屋の前に人がいるということだ。それも見た目は女性だが、どう見ても母親ではない。
この時点でとりあえず母親に女装バレするかもという心配は払拭されたわけだが、これはどう考えても状況的に最近俺を悩ませているストーカーさんではなかろうか。犯人は現場に戻ってくるのが定石だし。俺たちが危惧していたヤリ――、いやテニサーの女子かとも一瞬思ったが、俺が記憶する限りあんなに可愛いメンバーはいなかった。
そう。大事なことだがめちゃくちゃ可愛い。遠目からでもわかる。
今までの人生の中でも女装した自分が写った鏡を初めて見た時ぐらいにはときめいてしまっている。
見ると、かなりの高身長。
よく見ると、胸はあまりないようだが、シュッと引き締まった良いスタイル。
そしてさらに近づいて傍で見ると、長めの黒髪を丸くまとめた、所謂シニヨンヘア。
「…………んん？」
いつも話半分で聞き流しているとはいえ、誠人から聞き馴染んだ文字列と、それに混じる少しの違和感につい、声を出していた。
『ゴミ出し後は扉に施錠を！』なんて紙の貼られたマンション横のごみ置き場なんかとっくに過ぎ、部屋の前まではもう俺もたどり着いていた。その声でインターホンを押そうかどうか真剣に悩んでいる様子だったらしい相手も俺を認識し、目が合い。
ボン！ と擬音でも聞こえそうなくらいに彼女は顔を真っ赤にした。ちょうど彼女が手に提げた袋に入っているリンゴくらいの色だ。
「ど、どどどどどどうしてシンヤが家の外に！？ 大学行ってたの！？ 体調まだ良くないよね！？」
「……すいません、ちょっと何言ってるのかさっぱりわからないんですけど」
「ひあぁっ、ごめんね！？ そうだよね！？ 初めましてだよね！？」
「えっと、そのはず――いや、訊きたいことはめちゃくちゃあるんですけど」
どうして俺のこと知っているのとか、どうして家の前にいるのとかはもちろんだけど。
だがそれ以外の、見た目の事を訊くのはある意味俺の秘密を暴露するも同然で。
「じ、じじ自己紹介とかしたほうがいいよね？ あっでも、その、わ、ボク、シンヤに名乗れる名前がなくって……。どうすればいいんだろ……？」
「え？ それってどういう……」
「うーん……あえて名乗らせてもらえるなら、えと、秋野真夜と申します……あなたの、ドッペルゲンガー、です」
驚きもそのままに、目の前の彼女――おそらくは『新月の君』と呼ばれたであろう女の子は『アキノシンヤ』と――――。
俺と全く同じ名前を、告げたのだった。
緊張のあまり、声が裏返ったりしていなかっただろうか。
「そんなぁー！ なら、せめてお友達からでも！」
周りの反応を見る限り、そんなことはなさそうで安心する。
――初めて見た時からずっと気になっていました。君のことが好きです。
そう言ってくれた人の事を、わたしはよく知っていた。そしてだからこそ、軽率に返事はできなかった。
これ以上は何も言うまいと、逃げるようにその場を去る。昼前時の大学生でごった返す人ごみに混ざってしまえば、それは案外簡単だった。
『彼の評判を悪くしてしまったかもしれない』
『返答はこれで正しかったのか？』
移動しながら、そんな心配ばかりがわたしの頭の中でぐるぐると回っていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
……頭がぐるぐるする。
ともすれば、自分という人間の境界すらあやふやになるかのような気分。昨日は体調を崩して寝込んでいたが、まだ本調子じゃないらしい。
いや、それも原因ではあるかもしれないが、目の前では耳タコレベルで繰り返された幾度目かの『愛とはなんたら、恋とはうんたら〜』といったとりとめのない話が延々と友人の口から次々に滑り出しているのだ。付き合わされるこっちの身にも――――……
「――ンヤ、おい、真夜！」
自分を呼ぶ声でハッと我に返る。どうやら話半分に友人の言葉を聞き流していたのがバレたらしい。
「おう。終わったか？ 誠人」
時間にして昼時、大学の学食で買った安いカレーを頬張りながら目の前を見る。黙々と食べていた俺の方に対し、ぺちゃくちゃと俺の方に向かってずっと話しかけていたらしい友人の皿のカレーは全然減っていなかった。
「何が『終わったか？』だこの野郎！ ちっとは俺の話を真面目に聞いてくれたって良いだろうがよお！？」
「あーうっせーうっせー。病み上がりの頭に響くから落ち着いてくれ」
「お前が頻繁に『ワリ。体調崩したから講義休むわ』とかケロッとした雰囲気で言ってくる奴じゃなかったらもう少し心配もしたんだがな。誰のせいで興奮してると思ってんだ全く」
どうやらイソップ物語レベルにまで俺の信頼は落ちていたようだ。まあ、頻度が頻度なだけに無理もないか。なんせ月に一回くらいはそう言ってるし。
でも昨日は熱にうなされすぎてなんだか逆にムラムラして眠れなかったのもあってかなり辛かった。人間、生命の危機を感じるとやはり繁殖のための本能が高まってしまうのかもしれない。
「いや今回のはマジの重症だったんだよ。ったく……わかったわかった、ちゃんと聞くから勘弁してくれ。ま、どうせまた『満月の君』の話だろ？」
コイツは屋部誠人（ヤベマサト）。なんとなく同じサークルに入ってから、同じ学部だと知りなんとなくつるみ始め、結局サークルはすぐに辞めてしまったがお互いそのままの関係で1年と少しが経っていた。気のいいやつで、こっちが聞いてもいないのにやれどこの学部の女の子が美人だっただのお胸が豊満だのといった話をしてくる。
そんな誠人が現在ご執心なのが通称『満月の君』。呼び始めたのは誠人ではなく、おそらくは漫画研究会辺りの人間だろうけれどもその呼び名が一部では定着してしまっているようだ。その一部というのが、昨日俺が体調を崩して休んだあの講義を受けている他の友人たちの間である。
曰く、かなりの高身長。
曰く、とても無口。声を聴いた人は今のところいないらしい。
曰く、胸はあまりないようだが、シュッと引き締まった良いスタイル。
曰く、長めの金髪を丸くまとめた、所謂シニヨンヘア。
そして曰く、ほかの講義での目撃情報はない。またかなりの気分屋で、月に一度くらいのペースでしか出席してこない。在学生ではないのでは？ とのうわさもある。
「しかしお前もよく女の子の話のネタが尽きないな。頼んでもないのに次々とさ。もしかして俺の恋愛でも応援してくれてんの？」
誠人に聞けばもしかしたら俺に対する女の子からの好感度なんかも教えてくれるかもしれない。それくらい、いかにも恋愛ゲームで重宝しそうなやつなのだ。が、実際のところこういう手合いは何を思ってライバルを増やす真似をするのかさっぱりわからん。
「バッカお前、ちげーよ！ お前のためじゃねーの！ 俺が狙ってんの！ 間違っても『ボクが先に好きだったのに〜！』とか言わせないために周りにツバつけてんの！ カーーーぺっぺっっ！！」
「オイやめろてめっ、ツバつけんのは攻略対象だけにしとけ！ 日本語間違ってんぞ！」
大声で誠人がまくしたてれば、なるほどと思わないでもない。だが本当に勘弁してほしいのは俺にまでそのツバがかかってきていることだ。文字通りでありながら……二重の意味で、だ。
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魔が差した、といえば本当にそれでおしまいだとは思う。大学に入ったらなんか自然と彼女ができて、ウキウキのキャンパスライフを過ごすんだとか思っていた自分の理想は、入学後に知り合った女性とのある出来事がきっかけで早々に崩れ去った。
異性と恋愛する気分にもなれないまま、さりとて同性が好きなのか？ と言われればNOである。そして傾倒するような二次元の女の子もいなければ、追っかけているアイドルもいない。
――なら、自分が理想の女性になってみるのはどうか？ いけるかもしれない。
そんなことが頭をよぎってしまった。
体の線はゆったりした服で誤魔化せば良いし、高い身長もある意味ステータスだろう。俺はそっちの方が好きだ。髪はウィッグを購入しよう。長い方が色々と遊べるか？
などと考えているうちに、気が付けばかなり自分の理想に近い存在が目の前の鏡に映っていた。これなら童貞もきっと殺せそうだ。いや、俺も童貞ではあるのだが。
手ごろな在庫の関係でウィッグは金髪にせざるを得なかったのだけが心残りだがまあ、いずれ綺麗な黒髪のものも手に入るだろう。そのときは気分で変えればいい。
そうなると必ず湧き上がるのは『この格好で外に出てみたい』という感情。そしてただ他人と道ですれ違うのではなく、ある程度は人目についてみたい。しかしバレたり大事になりたくはない。複雑である。これが乙女心なのかもしれない。
色々悩んだ末、声さえ出さなければそうそうバレないんじゃないかと思った俺は大学の講義に女装して出かけてみることにした。出席確認には点呼がなく、退室時に授業の感想をまとめて提出するだけでOKなものを選び、身支度に時間をかけるため、また帰りやすさなどから2コマ目のみで授業終わりの日を作った。念仏のような教授の言を聞きつつ、出席だけきちんとして最後にレポートをちょちょいとこさえだけすれば単位がもらえるような授業。流石に誠人含め同じ学科の友人も何人か混じっていたが、体調を崩したとでも言い休むフリをしてこっそり出席すればよかろう。大学はフリーダムな場所なのだ。
そう思っていたのだが。
月に一度顔を見せる、シニヨンヘアの金髪長身美人――髪をまとめた部分が丸く見えるのも相まってこう呼ばれることになるのだ。
『満月の君』。
そう、女装した俺の事だ。
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というか、いい加減バレたのかもしれない。ただでさえ入れ替わった日に俺が体調を崩すなんて生活をもう半年以上は続けているし、奴ら独自の調査（？）による『満月の君』出現予測日は昨日だったのにもかかわらず肝心の俺はガチで寝込んでいたのだから。
こんなことなら嬉々として伝えてくる予測なんかに付き合わなければよかった。
「それで？ 昨日はどうだったんだ？ データ屋が聞けば鼻で笑いそうな出現予測とやらは一歩完成に近づいたか？」
聞かなくても答えはわかっているが、しょぼくれた顔をしている誠人に皮肉を言ってからかっておく。
「それがな……。彼女に告白して、フラれたんだよ」
「へ―そうかそうかそれは残念だった――、って何だって？ すまん、もっかい言ってくれ」
「お前さっきはホントに俺の話聞いてなかったんだなぶっ殺すぞ3回目は無えからな」
どうやら俺がボーっとしている間、すでに一度ほざいていたらしい。
「えーっと……誰が、誰に？」
「ふ―……。俺が、『満月の君』に、だ。これでカウント3だてめえ死にたいようだな真夜ァ！」
マジで殴られた。顔は死守した。
「いやすまん、ほんとすまん！ ってか何？ 昨日『満月の君』が来てたのか？」
「いやだからそうだって昼飯食い始めたときから言ってんじゃん。むしろイメチェンしててビビった。髪真っ黒になってんの」
「……人違いじゃないのか？」
「さすがにあの美人を俺が見間違えるわけがないでしょ……って、お前はまだ一回も見かけたことないんだったな。人生の99割損してるぞ」
「お前がバカ丸出しで何よりだと思う気持ちしかないな……じゃなくて、人違いじゃないにしてもどうしてフッたフラれたの話になるんだ」
思わずぼやいてしまってから、訊きなおす。
いやまあ人違いなんだけど。
遠くから眺めてるだけのファンクラブ的なもんだとばかり思っていたから今まで特に咎めてもなかったんだが、これタイミング悪かったら俺が告られてんの？ こいつに？ ないわー……。
「えーっとだな、かいつまんで説明すると……ゴホン！ いつもはその金色の輝きで俺たちの心を照らしてくれていた麗しき『満月の君』！ しかし昨日目にしたのは夜より深い黒の髪……きっと何かがあったに違いない……そうか！ きっと失恋でイメチェンしたんだ！ 思えば彼氏の一人や二人や百人いてもおかしくない美しさだからな。だが！ 愚かにも相手の男は彼女をひどく扱って捨てたんだ！ 満月……いや、『新月の君』は傷ついている！ これを我が手で慰めずして如何せん！」
え、何言ってんのこいつ。新月とか地味にうまいこと言ってんじゃねえよ。
「ってところまで想像してたら体が勝手にアタックしてたんだわ。んでごめんなさいって。マジショック！」
「想像の百倍くらいお前の頭の中がキモくて吐きそうなんだが」
これならいっそカレー食い続けながら聞き流してたままの方が良かったかもしれない。ちゃんと聞くとか言った数分前の俺を殴りたい。
「せめてお友達からでも―、って言ってみたけどやっぱダメだな。というかアレ効果あんの？ うまく事が運ばなさそうな台詞トップ3くらいには入ってそうだわ」
実はその相手とすでにお友達くらいにはなってると知ったらコイツがどんな顔をするのか気になるが、俺もそんなことで素性がバレたくはないからやめておく。
「頼むから拗らせてストーカーみたいになるとかはよしてくれよな……」
俺の精神生活の充足に響くから。
「それはないない。そういう輩が本人からどう思われるかってのはまあ、お前を見ててもわかるしな。なあ、そういえばお前の方はどうなんだ？ まだ誰かに見られてる感じはするのか？」
「んー……いや、今日は特に何も、だな。まあ、実害はないと言えばないけど不安ではあるよ」
女装を始めたことでわかったことがある。
どうやら、俺の女装姿はとても周囲の目を引くらしい。それ自体はまあ、俺の望むところではあったからいいのだが。
それからというもの、他人の目が自分に向く感覚を知ったせいか普段の格好の時にも、自分に対する目線がなんとなく敏感に感じられるようになった気がするのだ。
そして、誰かに見られているような気がするという相談をこいつにしたのが最近の話。
「マジでなんかあったら言えよな。まったく、自称テニサーのビッチどもか……？ あいつら、俺らの大学デビューにかける期待を裏切っただけに飽き足らず、今更になってまた真夜に迷惑かける気かよ」
「…………」
誠人の言葉に俺もすこし黙る。
あれは大学に入学して間もないころだ。大学のテニスサークルはなぜ3つも4つもあるのか、深く考えずになんとなくでガチっぽいところだけ避けて入部してみた。別にテニス経験者でもないからだ。誠人ともそこで友人になり、最初のころは楽しくやっていたと思う。けれど、一か月位経ってから行われた新入生歓迎会で早々に俺は『お持ち帰り』されてしまった。
酔っぱらった女の先輩を見た男の先輩が『家の方向同じならちょっと送ってやってくれ』なんて言ってきたから、言われるがままに家まで送ったら玄関で押し倒された。全く期待していなかったと言えば嘘になるけど、その時になって『これは違う』とそう思った。
俺を見る目がまるで獲物を見つけた肉食動物のようなもので、ひたすらに怖かった。
ようやく事態を悟った俺はなんとか体格差に物を言わせて逃げ出すことができた。
翌日に顔を合わせた先輩たちが口々に『昨日はどうだった？ 気持ちよかっただろ？』みたいなことを言ってきて、自分が入るサークルを間違えたのだと本格的に感じた。誠人もそんな俺の周囲の様子を見ていて、二人してその日からサークルに顔を出すのをやめた。
ちなみに、ただしイケメンに限るとばかりに誠人の方にそういうイベントは一切なかったらしい。俺も自分の顔に自信が付いたのだけはまあよかったんじゃないか、なんて笑い話にくらいはできるようになった。
「って言ってもなあ、もう1年前の話だろ？ それこそ今更って気もするんだよな。それに隠れてコソコソとストーカーするような奴らじゃないだろ、どう考えても」
「いやいやわかんないね。コソコソする奴らじゃないは同意だとしても正直お前、かなり顔は良いんだぞ。奴らの面食いレーダーが再びビンビンのジュンジュンになってお前をロックオンしてもおかしくない」
「なんだその両胸と股間に付いてそうなレーダー。おぞまし過ぎて言葉も出ないわ」
先輩に襲われた時を思い出して寒気だった。褒められること自体に悪い気はしないが、俺の顔は誘蛾灯か何かの類ではないと思いたい。
「俺が女なら惚れてるね！ ――いや、むしろ真夜が女ならってのもアリか？ 俺イケるかもしれねえ。きっと美人だぞお前」
「うっせーわ。顔ほめても何もやらんからな。あと純粋にゾッとした。キモい無理ごめんなさい」
おっとこれ以上はよくない。
思わずちょっとニヤけそうになったが我慢して突き放しておく。俺の女装姿が見たければちょっと気になってる冬の新作でも用意してから頼むんだな。女装には金がかかるんだ。
色んな意味で、こいつが知る由もないことだが。
「まあ冗談はさておき、ボディーガードにゃならんかもだけど、帰りはお前んちまでついて行ってやろうか？ っていうかいい加減お前の部屋にも遊びに行ってみてえんだけど。一回も中まで入れてくれたことないよな？」
たぶん誠人の顔はさっきの俺の例えに基づけば獣避けの焚火くらいにはなるかもしれない、なんてことを思いながらさすがに失礼だったと反省する。
「……人様にお見せできる部屋じゃないからな。ついてきてくれるなら安心だが部屋の中までは勘弁してくれ」
「あー気になる！ 一体その言葉の裏にどんなヤバいエロ本を隠してるのかすげー気になる！」
エロ本どころじゃなくあなたの想い人の服なりなんなりがあるわけなんですが。もし仮に女装がバレずとも『満月の君』と同棲してるだとか変な誤解を生みそうだから怖い。
「頼む……俺はまだお前と友達でいたいんだ」
「友情が崩壊するレベルの性癖ってどんだけなんだよ……」
そのツッコミをあながち否定もできないのがつらいところだ。
「ま、俺の性癖はともかく家までのボディーガードは頼むわ。護衛代はペットボトルジュース1本とかでいいか？」
「マジで？ ボランティアのつもりだったしなんか貰えるだけラッキーだわ。契約成立だな」
「まあ昨日寝込んでた時、お見舞いでスポドリとか色々くれただろ？ ドアノブに掛けといてくれてたやつ。あれのお礼も込みだと思ってくれ。実際かなり助かった。まあチャイム鳴らすくらいしてくれてもよかったとは思うけどな。おかげで気が付くのがちょっと遅れたぞ」
流石に常備してる食べ物なんかは一人暮らしでたかが知れてるし、看病してくれる人なんてのもいないから物資の調達は無理やりにでも自分でする必要があるわけで。いざと思ってドアを開けたところでようやく気が付いたというわけだ。
「――え、なにそれ？ 俺そんなの知らないんだけど。さっきも言ったじゃん、どうせいつものサボりだと思ってたよ俺」
が、当の誠人はすっとぼけた顔をした。これは本当に知らない人間の顔だ。
「ちょっと待て、マジか？ 急に怖くなってきたんだけど。じゃあ他にも入ってたバランス栄養食品とかは」
「心当たりはございません」
「インスタントの豚キムチラーメンとか」
「病人に対してなんだそのチョイス。正気を疑うわ」
「俺が風邪ひいたとき無性に食べたくなるやつなんだけど……え、お前に話したことなかったっけ？」
「初耳でございます」
「「………………」」
「真夜、ケーサツ呼ぶか？」
「ま、まだ実害出たわけじゃないし……割とめちゃくちゃ助かったから様子見で」
「変なものとか入ってなかったか？ お前バレンタインには経血入りチョコとか貰う側の人間っぽそう」
「笑えない冗談はもうよしてくれ。全部市販品未開封……だったはず」
確かに累計で結構な数のチョコを貰ったことはあるけど成分までは気にしたことなかった。
知らない方が幸せなこともあるんだな。できればその文化ごと知りたくなかったけど。
「でもまあ、付き合い長いわけじゃないけど、大学では一緒によくいる俺でも知らないようなことを知ってんだ。最近感じるようになったっていう視線も含めて、案外親御さんとかがこっそり大学生活の様子見に来てたとかじゃないのか？ 合鍵で部屋に入ってみたら寝込んでましたって感じでさ」
「そんな堂々と一人暮らしの息子のプライバシー侵害する親だったかな……でもまあ親ってそういうもんか？」
「ああ……。俺も昔、家に帰ってきたらベッドの下に隠してたエロ本が机の上に整頓されてた時はどうしようかと思ったもんだ」
「ストーカーとかとはなんか別の意味で不安になってきたな……。ちょっと急いで帰ることにするわ！」
もちろん俺の崇高な趣味に関しては家族にも伝えていない。帰宅したらリビングにこれまで集めた女物の服奇麗に畳まれてたりしたらどうしよう。誠人にバレるのと同じくらい死ねる。
「え、ちょっ俺は！？ 護衛はどうすんだよ！？ ってか3コマ目は！？ あと俺にジュース奢るって話は！？」
「体調崩したから休む！ そんでお見舞いの品がお前じゃなかったからやっぱジュースはナシだ！」
「そりゃねーだろーーー！」
それを言うならそもそもお前がはじめに言ってたボランティア云々はどこに行ったんだって話だ。結果は変わらないはずなのにたまたま貰えそうになったものが貰えなくなったらこの言いざまである。やはり人間は愚かな生き物だと思う。
なんて考えながら俺はカレーの残りをかきこみ、学食を後にした。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
もともと本調子ではなかったが、なんだかんだで本当に気分が悪くなってきたかもしれない。ボンヤリとだが、このままだとヤバい、じっと休んでおかなきゃ体が保たないぞ、といった感覚に襲われている。
これはアレだ。きっと『あー学校行きたくねえなー！ 頭いてーわー！ 熱あるかもしれなーい！』って言い続けてたら本当に体調悪くなる類のやつだ。使いすぎると段々本当に学校にも行きたくなくなるという諸刃の刃。
仮病のしすぎで誠人からの信頼こそなくなったようだが、俺の体は自分の言葉を素直に信じるような単純な構造らしい。
こういう日はだらだら寝転がりながら自分磨きでもするに限るのだが、問題があるとすれば帰り着いたマンションの、俺の部屋の前に人がいるということだ。それも見た目は女性だが、どう見ても母親ではない。
この時点でとりあえず母親に女装バレするかもという心配は払拭されたわけだが、これはどう考えても状況的に最近俺を悩ませているストーカーさんではなかろうか。犯人は現場に戻ってくるのが定石だし。俺たちが危惧していたヤリ――、いやテニサーの女子かとも一瞬思ったが、俺が記憶する限りあんなに可愛いメンバーはいなかった。
そう。大事なことだがめちゃくちゃ可愛い。遠目からでもわかる。
今までの人生の中でも女装した自分が写った鏡を初めて見た時ぐらいにはときめいてしまっている。
見ると、かなりの高身長。
よく見ると、胸はあまりないようだが、シュッと引き締まった良いスタイル。
そしてさらに近づいて傍で見ると、長めの黒髪を丸くまとめた、所謂シニヨンヘア。
「…………んん？」
いつも話半分で聞き流しているとはいえ、誠人から聞き馴染んだ文字列と、それに混じる少しの違和感につい、声を出していた。
『ゴミ出し後は扉に施錠を！』なんて紙の貼られたマンション横のごみ置き場なんかとっくに過ぎ、部屋の前まではもう俺もたどり着いていた。その声でインターホンを押そうかどうか真剣に悩んでいる様子だったらしい相手も俺を認識し、目が合い。
ボン！ と擬音でも聞こえそうなくらいに彼女は顔を真っ赤にした。ちょうど彼女が手に提げた袋に入っているリンゴくらいの色だ。
「ど、どどどどどどうしてシンヤが家の外に！？ 大学行ってたの！？ 体調まだ良くないよね！？」
「……すいません、ちょっと何言ってるのかさっぱりわからないんですけど」
「ひあぁっ、ごめんね！？ そうだよね！？ 初めましてだよね！？」
「えっと、そのはず――いや、訊きたいことはめちゃくちゃあるんですけど」
どうして俺のこと知っているのとか、どうして家の前にいるのとかはもちろんだけど。
だがそれ以外の、見た目の事を訊くのはある意味俺の秘密を暴露するも同然で。
「じ、じじ自己紹介とかしたほうがいいよね？ あっでも、その、わ、ボク、シンヤに名乗れる名前がなくって……。どうすればいいんだろ……？」
「え？ それってどういう……」
「うーん……あえて名乗らせてもらえるなら、えと、秋野真夜と申します……あなたの、ドッペルゲンガー、です」
驚きもそのままに、目の前の彼女――おそらくは『新月の君』と呼ばれたであろう女の子は『アキノシンヤ』と――――。
俺と全く同じ名前を、告げたのだった。
21/09/10 23:59更新 / ノータ
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