連載小説
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新月の君
正直めちゃくちゃ怖い。家に上げてよかったのかとか、勝手知ったるといわんばかりに台所から包丁を取り出してリンゴの皮を剥いてくれてるけどそのまま刺したりしてこないかとか。
それに、ドッペルゲンガーって……その姿を見た人は三日で命を落とすとかよく言われる類のやつでは? そんな存在なり都市伝説なりを信じてはいないけど、じゃあ彼女はいったいなんなんだって話にもなるわけで。

そんなふうにリビングで悶々としながら、台所でいろいろしている彼女の様子を扉越しに窺うくらいしかできることがない。
時折機嫌よさそうに口ずさんでる歌なんかは俺がよく聞くアーティストのやつだし、声もよくよく聞いてみれば電話口でちょっと丁寧な声出してる時の俺のものを百倍くらい可愛くした感じに聞こえなくもない。

「あー! ダメでしょ横になっててって言ったのに! リンゴ食べさせてあげないよ?」

戻ってきての言葉がこれである。むしろ食べさせる気だったってとこにびっくりしてるわ。敬語で話すのはやめてって言われたけどなんというか、それ以上にとても距離感がおかしい気がする。

「いや、自分で食べるからいいよ……剥いてくれてありがとう」

「そっかあ……」

たしかに体調は良くないが、まったく動けないかと言われたら違う。
が、なんとも悲しそうな顔をするんじゃないよ。どうやら本当は食べさせたかったらしい。

「というよりもそんなに世話をしてもらったりする心当たりが全くないんだが……はじめからちゃんと話が聞きたい。そのうえで対応を決めさせてくれ」

「そ、そうだよね。えっと、えっとね……まず、ドッペルゲンガーっていうのは、男の人のモヤモヤした気持ちから生まれる自然現象みたいなものなの」

「モヤモヤした気持ちって?」

気軽に手を挙げて質問してみる。

「その、ぇ……っちな、とか」

「……ごめん、聞かなかったことにする」

もじもじしながら言ってくるのがめちゃくちゃ可愛くてちょっとヤバかった。

「と、とりあえず! そういうシンヤの気持ちから生まれたのがボクなの! 本当はその男性にとって理想の女性の記憶や姿を再現して、アタックをしかけちゃおう! っていう存在なんだけれど……」

「……それは、つまり」

「うん……ボク、シンヤになっちゃった。いや、わかるよ? すーっごくわかる! だって可愛いもんね、シンヤ……ちゃん?」

「それには同意する。けど、一つ聞いていいか?」

「なあに?」

どう見ても『彼女』にしか見えない目の前の人物だが、俺を模したというのなら……

「ついてるの?」

例のアレ。男の象徴的なもの。

「ついて……って! ばか!!! ついてないよ!!!!!」

真っ赤になって否定されてしまった。というか物凄いセクハラみたいなことを言ってしまったと自分でも口に出してから気づいた。そりゃ赤くもなる。

「あくまでボクはシンヤにとっての『理想の女性』だからね?」

なるほど、どうりで髪が黒いわけだ。『満月の君』と呼ばれるオリジナルをすら超えて俺の理想そのものと言ってもいいくらいだ。

「いや、本当に失礼した! ボクとか言ってるし、可愛さ増しではあるけど俺みたいな男の声に聞こえなくもないような感じだったからつい」

「んー、シンヤも頑張ればこれくらい出せるよ? ここに関しては理想補正ナシ、ノータッチだもん」

「マジか。俺っていう人間の可能性を見た気がする」

「えへへ。頑張ってね」

え、期待されてもそれはそれでちょっと困るけどな。いつ誰に披露するんだって話。
しかしボク……ボクっ娘かあ。正直あんまり趣味じゃないんだよな。彼女曰くの理想補正はどこいったんだ。

「しかし、そうやって男にアタックするのは良いとしても一体なんのメリットがあるんだ?」

男目線に立ってみたら本気で都合のいい女みたいな感じがするからちょっと複雑な気持ちになるんだが。

「メリット……というか、そうできてる、っていうのかな? そうしないと、生きられないんだよ。好きなひとの、体液……とかを摂取しなきゃ生きていけないの」

「それはなんというかまあ……難儀な性分だな。それで、俺のところに来たってことでいいのか?」

もういい加減わかってきた。体液が何であるかとかは問うまい。多分、きっと、いやかなりの高確率でアレだ。

「そういう気持ちが一ミリもないと言えば全くの嘘になるけれど……シンヤが体調崩しちゃったの、ボクのせいかな―? って思っちゃって。看病しなきゃ! とか代わりに授業出てみようかな? なんて。ちょっと授業にも興味あったしね」

「お前のせい、ってどういうことだ――ハッ! まさか本当に三日後に死んじゃいますとか言わんだろうな!?」

「こんな事めったにないからボクもよくわからなくって……あ、死にはしないから安心して! ちょっと人間やめちゃうかもしれないってだけだから!」

「それがちょっとで済むなら病院なんて要らねえんだわ!」

気軽なノリで俺に人間をやめさせないでほしい。それに人間としての生が終了すれば死ぬのとは同義かもしれないだろうが。

「本当はね、女性にしか起きないはずなんだよ? ボクの姿の基になった女性が、もしボクと同じ男性を好きだった場合、ボクの姿を見た瞬間双方に魔力的?なパスがつながっちゃって、その人もボクと同じような存在になっちゃうんだ。それが大体三日くらいで起きちゃうから、三日で死ぬとかそういうふうに言われてるのかも」

どうやら根も葉もない与太話というわけではなかったらしい。
それにしても魔力とな。なんだかファンタジックな話になってきたが、目の前にこうして存在されている以上否定もし辛い。

「姿は俺を基にしてしまってるわけで、俺はまあ、俺のことが好きで……? ん? でも今日が初対面じゃないのか?」

「えーっと、普段はよく木の陰とかからシンヤの事を観察してるんだけど……もしかしたら、一瞬視界に入っちゃったかもしれないな―ってときがあったんだよね……それが一昨日のこと。で、次の日にシンヤが寝込んだのが直接見てもないのになんとなーくわかっちゃって、アレ? って」

ごん、お前だったのか。俺をずっと見ていたのは。いやもう九割方そうだとは思ってたけど。
そしてドッペルゲンガーを見た判定は俺の認識のあるなしに関わらないと。

「ってことはつまり、俺はもしかしてお前と同じ存在になってしまうわけか?」

「熱が出たのはたぶん、ボクを見かけて体が作りかわり始めたことに対するものかなって思うけど……シンヤ、えーっと……とっても訊きにくいんだけど、その……今は、ついてる?」

「!」

その口ぶりと、さっきの自分のセクハラ台詞を思い出した瞬間、全身から嫌な汗が出た。サッと股間に手を当て、ひとまず『ついてる』ことは確認できたので胸を撫で下ろす。

「それじゃあ質問その二、いい? 大きくなってる? それとも小さくなってる?」

「さっきの俺のセクハラに対する意趣返しか何かか? うーん……一昨日とか昨日よりは大きい、気がする?」

なんとなく普段よりおさまりが悪いというか、良く言えば安心感がある感じだ。

「……ボクだって恥ずかしいんだからね? えーっと、診断結果です。シンヤは『インキュバス』になろうとしてるみたい、たぶんだけど」

「インキュバス? 名前からしてサキュバスみたいなもんか?」

色んな物語やゲームなんかに登場するあのエッチな格好の悪魔みたいな姿を思い浮かべながら訊いてみる。

「うーんと、そう、かな。サキュバスは男性を対象にしてるけど、インキュバスはその逆で女性を対象にする淫魔だよ。多分ちょっと長生きできるようになったり、パートナーを満足させられるようにえっちがたくさんできる、ように、な……ななななったりならなかったり……」

饒舌に喋ってたと思ったら途中で恥ずかしくなったのか『あわわわ……』みたいな顔をしている。
というか、高熱出しながらもムラムラしてたのってもしかしてそのインキュバス化とやらのせいか。

俺が複雑な顔をしているのを見て何かを思ったのか、ハッとした表情になって彼女は立ち上がった。

「ご、ごごごめんね? やっぱり迷惑……だよね? ボクがシンヤに会っちゃうとぜったい良くないことになるって思ってたんだけど、一度こうなったからには多分もうこれ以上は直接会ってもひどくはならないと思って……それでなんだかその、我慢できなくって。こうやってお話とか、できればしてみたいなあって。それも叶ったから……きょ、今日はもう出ていくね! それじゃあばいばい、シンヤ」

「あ、おい!」

止める間もなく、そのまま彼女は家を出て行ってしまった。何か癇に障ることでも言ってしまっただろうか?

いや、むしろ逆な気がする。向こうが何を勘違いしたのかはわからないが、『嫌われたくない』みたいな顔をしていたのはわかる。

シンと室内が一気に静かになってから、引っ越し当日の両親を除けば初めて自分以外の人間が家に上がりこんだな、なんてことを思いながら俺は彼女の急な態度の変化について考える。

勝手にとはいえ看病してくれたのは普通にうれしい。俺の記憶を持っている分、俺の好みなんかもちゃんと把握してくれているようだし。
ならストーカー紛いの行動をしていた件について? これはもうしょうがないとも言える。そりゃあ事情を知らないうちは不快にこそ思っていたが、彼女の存在意義の拠り所は俺しかないだろう。
そもそもそのストーカー云々の話の流れについて迷惑をかけたと言って急に帰るようなら、もっと早い段階にそうしているはずだ。原因はついさっきの会話にあったと思われる。

「インキュバス……長生き? いや違うよな……」

彼女の様子がおかしかったのは、明らかにその言葉の後。

えっちがたくさんできる、パートナー?

この場合誰と誰がそうなるのかといえば、俺と彼女になるだろう。おそらくはそのためのシステムというか、ドッペルゲンガーとしての生態なのだ。
そうしないと生きられないとなれば、道理とも言え――……、

「――そもそも彼女が生まれたのは、いつだ?」

まず、女装した俺の姿を取ったことから女装を始めたここ半年以降だという仮定が成り立つはず。そして彼女曰くモヤモヤした(えっちな)気持ちがトリガーになるのなら、心当たりといえば初めて『満月の君』を鏡で見たあの瞬間に違いないだろう。そりゃあもう大興奮だった。
それが今日まで俺と接触してこなかったわけだから、当然体液の摂取なんて機会があったとは思えない。
ドッペルゲンガーという存在がどれだけそれに耐えられるのかは知らないが、人間だって水を飲まずに一週間生き延びるのが精いっぱいだろう。半年近くともなれば、その辛さは想像に難くない。
そして何より今も体の底に感じるボンヤリとした不調。彼女の説明を聞いたときはなるほど自分の体がインキュバスに変質するのに伴うものなのかと思ったが、たぶんそれだけじゃない。魔力的なパスとやらで彼女が俺の体調不良を察したように、きっと今日は俺が彼女の不調を感じているんだ。

「こうしちゃいられない……寝覚めが悪いなんてもんじゃないぞ、そんなの!」

そもそも普段どう暮らしていたのかとか、他にもいろいろ訊いておくべきだったと後悔する。何かしら不思議な力で繋がっているらしいとはいえ、彼女も俺の居場所を把握できていないようだったから、それはできないのだろう。
最悪がむしゃらに探すしかないか、と覚悟を決めて家を出る。

「さてどう探すか……って、お?」

思わず拍子抜けしてしまったが、家から出てたった数歩くらいのマンションの壁に片手をついて寄りかかるようにして、彼女はそこにいてくれた。しかしながら逆を言えば、それだけしか動けなかったということでもある。

「シンヤ……? や、だめ……きゃっ!」

振り返ることすらままならないのか、こちらに体を向けようとして足をもつれさせる。

「来ちゃ、だめ……こないで……! でないと、わた、し……」

助け起こしに行こうとしたらそんなことを言われ、一瞬たじろいだ。けれどそんな場合ではなかった。

「おい、なあ、おいってば!」

彼女は気を失って、そのまま倒れてしまった。


**********


女装のためのスタイル維持にもと思って体はそこそこ鍛えていたのが幸いした。178pくらいの体格を誇る自分とほぼ同じ存在でも、こうして抱えてベッドまで運ぶことができた。
しかし問題はここからだ。どうやって助けるか。そう、体液の補給方法である。

意識がない相手に、自分が出したモノを飲ませる? 論外だろう。たとえそれが一番の方法だと言われても、さすがに俺にはできそうにもない。というか、そもそも飲ませるモノがモノな時点で意識があろうとなかろうと俺なら躊躇う。
なら、汗とか唾液でも効果があると信じてやるしかない。といっても試合後の運動部でもあるまいし、服をぎゅっと絞れば汗がなんてことは当然無いし、そもそも衛生的にどうなんだって話。とどのつまり、一択しかない。

「あくまで人工呼吸みたいなもの、これはそういうのじゃない……」

合意もなしに唇を重ねるという文字列で、チクリといやな記憶が頭をかすめる。俺も同じようなことをしているのではないか? という気持ちが湧いて出てくる。
それに理由はわからないが、彼女は本当ならこのまま俺の前から姿を消すつもりだったのではないだろうか。去り際の雰囲気から、なんとなくそう思った。
今から俺がやろうとしていることは、たとえ彼女を助けられたとしても感謝されない可能性すらある。

「――ええい、ままよっ」

やらないで後悔するよりやって後悔しよう。そう自分に言い聞かせながら気持ちの勢いだけはつけて、慎重に唇を重ねた。
緊張と記憶のフラッシュバックで口が乾きそうになるが、そうなっては本末転倒だと思いなおして唾液が出るようにとおいしそうなお菓子の事でも考えておく。甘いアイス、ふわふわのパンケーキ、焼き立てのクレープ、柔らかい唇、花のような香り――いかんいかん。邪念が混じっている。3段重ねアイスの事を考えるんだ。
しばらくして結構な量の唾液を彼女の口内に送り込めたとは思うが、ベッドに横にしたままでは飲み込むときに喉に詰まらせたりするかもしれないので、枕を嵩増しして頭を上げておいた。

「これで何とかなればいいけど、ダメだったら最悪、『アレ』を飲ませるしかないのか……でも意識がないとそれもとんでもない苦労だぞ。頼むから起きてくれ……!」

いちおう喉がこくりと動いたのは確認した。なんだか艶めかしくてちょっとよかったなと思わなくもないが不謹慎なのでそれ以上は考えないことにする。

「ん……」

脳内の煩悩としばらく戦っていると小さく声が聞こえた。どうやら無事に目を覚ましてくれたようだ。

「あれ……あ、そっか。えへへ……シンヤのキスと膝枕で目が覚めるなんて。なんて幸せ者なんだろわたし――って、アレ? なんでシンヤが目の前に……」

「……あー、すまん? その、俺の膝じゃなくて嵩増ししただけの普通の枕で……」

そもそも膝枕とキスはなかなか両立が難しいだろう。おひとり様でお口のチャレンジをなさっている方ならともかく、俺はそこまで体が柔らかくはないし。

「……ぴ」

「ぴ?」

「ぴにゃーーーーーーー! わたっ、ボクの馬鹿ーーーーーーーー!」

出会った時と同じくらい真っ赤になって、なんだか可愛い悲鳴を上げながら彼女は暴れた。落ち着くのには結構かかった。


**********


「す、ステキな起こし方をしてくれてぇ!? ボクのお、おま……んこもビッショビショだなぁ〜!」

「はぁ……?」

「ムネガドキドキシテ! コーフンしちゃってるなぁ〜〜〜!」

「はぁ」

もう日も落ちようかという頃合い。
ようやく落ち着いたかと思ったら再度挙動がおかしくなって、しかも反応に困ることを言い始めた。
というかさっきの醜態の後だからなおさらに台詞がシュールだ。恥ずかしいならやめればいいのに、このスタンスを通すらしい。
いったいどうして……と考えた時、ひとつピンとくることがあった。

「もしかしてだけどさ、俺に嫌われようとしてる……のか?」

「!? ……っ!?」

ビクリと跳ねるように変な動きと言動を止めた彼女が俺を見る。その反応で、どうやらこれが正解だと半ば確信を得た。

「な、んで……そう思ったの?」

「今更俺の家から出ていっても連れ戻されるだけっていうのはわかってるんだろ。だから、自主的に俺の方から追い出されようとしてるわけだ。ただ、その理由まではちょっとわからない」

普通に考えて、わざわざ嫌われようとする意味が分からない。それに家を出る前にしていた表情と真逆の事をいま彼女は行っている。いや、状況も状況だし明らかに大根役者なので効果はあまりないのだが。

「だって……このままじゃシンヤの事、きっと性的な意味で襲っちゃう。あのね、ボクが嫌われるのはいいんだ。でもシンヤの事を、傷つけてしまうのは怖い。さっきだってそう。ボクを助けるときに、きっと昔の事を思い出したでしょ?」

それは事実であるがゆえに、俺は少し顔をそむけてしまう。

「なるほど。俺の記憶を……持ってるからか」

「それにさっきの言葉だって、全部が全部ウソじゃないんだよ。初めから……シンヤに会えた時からもう、ドキドキしっぱなしのグショグショしっぱなしになっちゃってたんだ。それくらい限界で、大興奮真っただ中だったんだけどさ。インキュバスになったらパートナーとえっちがたくさんできるよとか言った辺りで……『何言ってるんだろ?』って我に返っちゃって。それから急に、……怖くなっちゃった」

「だからって……自分の体がどうなってもいいのかよ」

「いい。それくらいシンヤの事が、大事だもん」

あくまで頑なに彼女は言う。けど、俺だって見過ごすわけにはいかない。

「そんなことして、何になるっていうんだ。それで満足するのはお前の記憶の中の、ドッペルゲンガーってものを知らない俺だけだろ。そいつは例えばこれから死にます、なんて覚悟をしてる女の子が目の前にいても、はいそうですかって見過ごすような奴なのか?」

「そんなのシンヤじゃないぃ……」

「それに……だ。女性に対するトラウマの方だってなんとか乗り越えなきゃなあっていうのは、さっき痛感したところなんだ。このままじゃまともなキスの一つもできやしない」

せっかくこうして助けられたんだ。俺は今後、彼女を生かすためにそういうことぐらいはする覚悟でいる。が、キスするたびにフラッシュバックが起きたりしてたら最悪すぎる。

「俺を助けると思って……な? お前のことを助けさせてくれないか?」

「それってもしかして……無理して嫌われたりしなくても、いいの?」

泣きそうな顔になって彼女が言う。というかやっぱり無理してたんだな。結構空回りしてたけど。

「一人称も『わたし』でいいぞ。これまでもちょこちょこ素が出てただろ」

なんとなくの違和感ではあったが、ボク呼びは少しでも俺のストライクゾーンを外すための努力だったらしい。いや、まず見た目がそのままの時点でスリーアウトもいいところだったんだが。

「あ、バレてたんだ……。そそそそしたら、その、ちゅー……とかもゆくゆくはできたり?」

「結構飛躍したな……。まあ、本人の努力、というか俺の気持ち次第? では、なくもない? ……と思ってはいる」

「!!! はいはいはい! それじゃあ今から――――!」

「だああっ荒療治はやめろ! あくまでゆくゆくだ、ゆくゆく! というかさっきまでの気遣いはどうした!?」

しおらしかったのが噓みたいに元気になってきたので押しとどめる。

「色々バレちゃった上に本人からももう気を遣わなくて良いって言われたから……ごめん、溢れる本能に抗えなかった……」

彼女はベッドの上でバツが悪そうに腰掛けなおす。

「……でも、やっぱりちょっと足りないから欲しい、かも。あっ唾液ね、唾液。トラウマ克服の第一歩にもなるし、何よりわたしはもう完全にオーケーしてるんだよ? 合意だよ? 据え膳だよ?」

「う……た、確かに?」

若干流されているような気がしないでもないが、一理はある。あくまで好き合ってもないのに、合意もなしに襲われた事がきっかけではあるんだ。

「舌の先っちょだけでもいいから。ね? ほら、わたしからは動かないから。来て来て? んーっ」

完全にチャラい奴の口説き文句が混じっているが、目の前にいるのはまさに俺の理想の女性。しかも目を閉じ手を後ろに回し、口は窄めてキス待ちの姿勢。状況的には雛鳥が餌を待っているようにも見えるけれど。
……なんだこれ。めちゃくちゃ可愛い。

「それじゃあ……い、いくぞ?」

自然と鼻息が荒くなる。もしかして一回目もこんな感じだったのかな、俺。
意識がないときと違って今はモロに自分の様子が彼女に伝わってしまうのが恥ずかしい。

そのまま、吸い寄せられるように唇との距離が近づいていき――――。

「んっ……」

触れた。

「ちゅっ……ん、ちゅ。は、れろ……んっ、ん……?」

俺の指と、彼女の唇が。

「ぷは。…………シンヤさん。話があります」

いや、何やってんだ俺。

「えーーーーっと……。ゴメンナサイ」

笑顔のままでそんなことを言ってこられると、妙に迫力がある。
俺としてはひたすら謝り倒すしかない案件だった。

「……嫌、だった?」

今度はコロッと一転して泣きそうな顔になる。
これが女の子って生き物の能力か……すごいなあ。

「なんだろうな……頭ではわかってるのに、体だけ言うこと聞かなかった、みたいな感じだった。本気で全然、嫌じゃなかったはずなのに」

俺の言葉を聞いてちょっと嬉しそうな、でも器用にやっぱり悲しそうな顔もする。

「嫌じゃなかったならいいけど……。うーん、でも思ってたより根は深そうだね」

「みたいだな。なまじこんなことする機会があの時以来なかっただけに、俺も気が付いてなかった」

「それはそれとして、シンヤ! わたしとっても怒ってるんだよ!? 美味しいプリンだよ〜って言われながら高級茶碗蒸し出された気分なんだよ!? せっかくのシンヤの指を美味しく味わえなかったじゃん!」

「あ、怒ってるのそっちなんだ……」

「やりなおしを要求します!」

「え、で、でもキスは……」

ビシ! と指を立てながらそんなことを言ってくる。というかお前結構元気だろ。
それにたった今ちょっとキスは難しいなってなったところなのに……。

「指のほうです!」

「あー…………」

茶碗蒸しも味わいたいわけだ。というか俺の指、高級なんだ。


************


「で、どうしてこんなことになったんだ……」

「はぐ、はぐ……こら、ぼーっとしないの。よだれ少なくなってきたよー?」

「あ、失礼しました……えーっと……はむっ、んぁ……はい」

現在の状況だが、百歩譲って唾液の付いた指を舐めさせているのはまあいい。いや結構それも大概なんだが。

「あむー。んぇへへ、こっち向かれると髪が擦れてくすぐったい。あっ、でも逸らさないでいいからね。シンヤの顔は見ていたいもん」

髪。そう、俺の髪が擦れている。
姿勢としては、膝枕の状態。俺が彼女の頭を膝に乗せている。そこから下を向いた程度では、俺の髪が彼女をくすぐるなんてことは本来不可能なはずなのだ。

まず、本来の目的として唾液を摂取すること。それから指を味わうこと。この二つを同時に満たすため、まず一度俺が咥えた指を彼女にしゃぶらせることになった。
それから彼女の意識が戻った際、盛大に勘違いされた膝枕もついでにやり直しを要求された。が、何故かそれに付け加えて女装まで指示されてしまった。と言っても化粧もへったくれもなく、ただ着替えた後にウィッグを付けただけだが。
せっかくなので髪を結んだり化粧をしたりと凝ろうとしたが彼女は辛抱たまらなかったのか、それくらいでいいからと言い、その勢いのままに膝を占領される形となった。
そのため、いつもは纏めているウィッグがふとした表紙に垂れ下がり、彼女の頬をくすぐってしまっている。
まあ、本人はなんだか知らないが中々にご満悦だから良いのか?

「……なあ、女装までする意味あったのか、これ?」

「なに言ってるの! わかるでしょシンヤなら! 可愛い女の子に膝枕してもらうなんて男のロマンじゃん! ……いや、わたしが女の子だし、シンヤが男の子なんだけども!」

要求が多いだけに、好きなものばっかり詰め込んだよくばり定食やハッピーセットかよと言いたくなる気持ちもあるが、俺の心のそういう部分まで忠実に真似てくれないでくれという気持ちの方が強い。

「ほら、難しい顔してないで笑って笑って! せっかくとーーっても宇宙一可愛いんだから!」

スマイルまで要求され始めた。これはハッピーセットの方だったか。

「ご注文はもうこれ以上ありませんでしょうか、お客様?」

にこりと営業スマイルを張り付けて、皮肉っぽく言う。
サービスを提供する側としては失格もいいところの台詞だが、彼女は気にした風もない。

「それじゃあ茶碗蒸しのおかわりをくださいな。お出汁のたっぷり効いたやつ」

「どれだけ続ければいいんだよ……」

初めはちょっとドギマギしなくもなかった指を通じての間接キスにも、もうすっかり慣れてしまった。というか、自分で自分のトラウマのアウト判定がよくわからん。

「これで最後! 最後にするから!」

「はぁ。にしても俺はてっきりお前のことだから、……いや、やっぱなんでもない」

「?」

なんというか、予想が外れたというか。
彼女は基本的にオッサンみたいな気質であって、これまでの要求内容的に今の返答だって指のおかわりじゃなく、『シンヤをお持ち帰りで』とか言われるもんだと思っていた。
だがそもそもそれは俺の思考回路がオッサン臭いってことか? という考えに至ってしまったら何も言えなくなってしまった。

「……なんか失礼なこと考えてない?」

「い、いや。ぜんぜん何にもナイデスヨ?」

ジトっとした目で見つめてきたかと思ったら、はあ、と一息彼女は息をついた。

「……軽々しく言わないよ、そんなこと。さっきこそ気を遣わなくてもいいって言われて舞い上がっちゃったけど、わたしはやっぱりシンヤのこと、大事だもん」

「へ? 逆に何のことだ?」

「いや、どうせわたしの事だからオッサンみたいなこと言うんだろって思ってたんでしょ? でもシンヤはあんまりそういう言葉にいい思い出が無いんじゃないかなって」

「んん? あー、言われてから気づいた。そして俺の思考を当然のように読むな。お前、エスパーか何かなの?」

たしかにお持ち帰り(意味深)なんて嫌な思い出しかないが。でも何故だろうか、仮に今言われてたとしてもそんなにトラウマを刺激される感じはなかったような気もする。状況にもよるのかもしれない。

「エスパーとは失礼しちゃうな。不思議な力でも何でもなく、半年間シンヤを観察し続けたわたしの愛の賜物なんだからね。はむはむあぐあぐ」

むすっとしたような彼女の声のあと、指先にチクリと刺激が走った。

「おい指を齧るなこら。というかそれはそれで狂気を感じるわ。ここ最近だけじゃなく、そんなに前から視られてたのか俺は」

「記憶と本能だけの存在っていうのもけっこう難儀なものなんだよ? アイデンティティの確立というかなんというか。わたしってなんなんだろ? みたいなことを考えなかったわけじゃないんだからね。だからわたしがわたしであるために、誰よりもシンヤのことだけを考えて生きていこうと思って、日々観察眼を鍛えていたというわけなのでした」

その感情が普通に生まれ育ってきた俺に想像できるはずもないが、彼女には文字通り、俺しかいないんだと思い知る。

「ちょっと愛が重い気もするが……ま、そればっかりはしょうがないか。にしても、自分の事なんて案外よくわかんないもんなんだな。自分のトラウマに関してすら、どこまでがアウトか把握できてないんだから」

「そのぶんわたしがシンヤのこと、これからもしっかり見ててあげる。一緒にトラウマ克服頑張ろうね!」

「ん、よろしく頼む。っと、いつまでもお前ってばっかり呼ぶのもアレだよな……かと言ってシンヤって呼ぶのは違和感がありすぎるんだが。よくそんなに俺のことをシンヤシンヤって連呼できるな?」

学校でもなんでも、自分と名字や名前の読みが被った相手については被ってない方で呼べば大概解決できるのだ。だがそれが同姓同名どころかドッペルゲンガーなんてものが相手だとしたら、どう呼べばいいかなんて答えが準備できていようはずもない。

「んーたしかに? でも違和感は特にないなあ。同じ名前を名乗りこそしたけど、わたしの中ではもうすでにわたしとシンヤは別人だっていう認識なのかも」

「なんかあるか? こう呼んでほしいみたいなやつ。それに従うよ」

「じゃあ、マイスイート「そういうのじゃなくてだな?」……ケチ。やっぱりシンヤが名前つけてよ。たぶん大丈夫だと思うから」

みなまで聞かずともわかる。流石に人前で呼べない……というか、対面しても呼べないだろう、そんなの。

「大丈夫ってなにがだ? まあいいか。じゃあ……マヤって呼ぶぞ。安直とか言うなよ」

真夜(シンヤ)を読み替えただけだが、別段変ってわけじゃないだろう。

「マヨとマヤで迷って、マヨだとなんかマヨネーズみたいだな〜、マヤでいいか! って感じでしょ? たぶんだけど」

「やっぱり俺の思考読んでない?」

ピンポイントに当たりすぎてて怖い。やっぱりエスパーなんじゃないか、こいつ?

「ないない。シンヤがわかりやすいんだって。……っていうのは冗談で、わたしもおんなじこと考えるなって思っただけ。もちろん、不満もないよ」

「まあ、ベースは同じってことか」

「そういうことかもね。で、ここからが本題なんだけど」

「いや本題どう考えてもこれだったろ。で、一応聞くけど、自分の呼ばれ方よりも優先することってなんだ?」

その言葉に彼女……いや、マヤは待ってましたとばかりにニヤリとする。

「女装したシンヤにも違う呼び方があってもいいと思うんだ! ね、ミツキちゃんがいいな! 安直とか言わないでよね」

『満月の君』から、ミツキ。マヤも大概のネーミングセンスだ。俺にとやかく言うことなどできはしない。

「そういえば自分より俺のことを優先する女だった、お前ってやつは……まあ好きに呼んでくれ」

「ゆくゆくはミツキちゃんとデートとかもしたいな……うぇへへへ……夢が広がるなぁ」

トラウマ克服計画の裏で何か別の計画が始動している気がしないでもないが、ともかくこうして、俺とマヤの奇妙な関係が始まったのだった。

21/09/11 12:57更新 / ノータ
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■作者メッセージ
1話ではほぼ野郎と話しているだけの場面ですみませんでした。
連続投稿のような形になるのはいかがなものか? と思いつつもさすがにヒロインが喋らないままなのは忍びない。
1100円くらいのロープライスなノベルゲーっぽいシナリオになればいいなと思いながら書いてます。
ここからは思う存分この二人にはいちゃいちゃしてもらいたいなと思っています。
お前が書くんじゃい! 神は言いました。はい、頑張ります。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33