ロスヴァイセ、来襲
二人とも身を清めて、互いを抱きながら睦言を交わす頃には、もう体力が回復している。
フリストは元より、ヘルゲとて歴戦の勇士である。交合程度で精根の尽き果てるわけがない。欲情さえまた猛りを見せたなら、もう一度交わる程度は造作もない。
「ヘルゲ、わたくしは貴方を主と仰ぎます。そのことだけは、ゆめゆめお忘れなきよう」
「判りました。フリストがそこまで仰るなら受け入れます。
しかしこれからなんとしましょう。元より私の教導が目的だった旅です。然したる目的もありませんし、やはり世の難事を求めますか?」
「ヘルゲ、貴方は勇者になりたいですか?」
いや、とヘルゲは思った。
それはフリストに出会って間もない頃思ったことである。勇者という生き物は、余人の口の端に誇らしい気持ちと共に登るものだが、本人の人生は悲愴に満ちている。
滅私を胸に誓って人民に奉仕し、ついに使い潰されて死ぬ。
たとえそれが人類という歴史の上で、外すことの出来ない尊い犠牲であったとしても、フリストを手に入れたヘルゲは、自らその犠牲になろうという気持ちはなかった。
失望するかもしれない、と思いつつ、ヘルゲはフリストにそのことを正直に話した。
フリストは黙って、頭をヘルゲの肩に置きながら、
「貴方が嫌なら、わたくしも嫌です。
どこか、二人で暮らしますか。何事か思いつけば、世に出れば良い。案ずることはありません。わたくしはヴァルキリーで貴方はヘルゲ。世の誰に後れを取ることがありましょうか」
その時である。
フリストが、弾かれるようにヘルゲから身を離したのは。
「立って、ヘルゲ―――――!」
ヘルゲも判っている。
立ち上がるのと地面を蹴るのは同時であったろう。
二人は斥力に弾かれたように正反対の方向に駆け、同時に武器を取り出した。
フリストは槍を。ヘルゲは腰の剣を抜いた。
その間、さっきまでフリストとヘルゲが肩を寄せ合っていた場所に、夥しい土煙が舞っている。
(なにかが降ってきた)
ヘルゲの顔に、飛び散った草や苔などがバチバチと爆ぜるように当たる。
しかし目は閉じず、じっと土埃を見つめながら、剣を構えた。この行動が既に、並みの戦士ではない。落ち着きぶりは、さすがにファーヴニルと死闘を演じた男だけのことはある。
この状況の内訳は、上空からフリストとヘルゲに向けてなにかが飛来し、落下した。その際の地に響いた衝撃と音は、まだ余韻を二人の耳と体に残している。
「上です、ヘルゲ。そこには槍しかない」
さすがにフリストである。
ヘルゲとは見ている先が違う。慌てて上空に視線をやると、紺碧の鎧に身を包んだ女が、空中に佇んでいた。
「ヴァルキリー・・・・・・?」
「そのようです。しかもわたくしの知っている顔ですね」
ふわりと、風が吹いた。
立ち込めた土埃が風にさらわれ、佇む女の金髪を揺らした。
悲しげに目を伏せ、二人を睥睨するのは紛れもなく、ヴァルキリーのロスヴァイセであった。
「無礼ですね、ロスヴァイセ。わたくしはともかく、ヘルゲにも向けて槍を投げるのは許せません」
フリストの言葉を受けて、ロスヴァイセは顔全体に悲しみの色を浮かべた。
「悲しい。フリスト、私はとても悲しいです。
あれほど気高かった貴女が、誰よりも主の尖兵であることに誇りを持っていた貴女が、ここまで堕落してしまっているなんて、私のこの悲しみは、とうてい貴女方には伝わらないでしょう。
尊敬する先輩、フリスト。貴女の身に起こったのは不幸か不明か。いいえ、それはきっと不実に違いありません。だって貴女が堕ちるなんてこと、あるわけがないのですから」
支離滅裂である。
混乱しているのだろう。ヘルゲはそう取った。
尊敬するフリストが魔に堕ちるなど、同じヴァルキリーとして信じられないという気持ちは判る。それを前にして混乱するのも、無理はないと思った。
が、フリストは口の端に笑みを浮かべて、
「変わりませんね、ロスヴァイセ。陶酔し過ぎるのが貴女の悪い癖だと、遠い昔に叱った筈ですが、悪癖を引き摺ったままわたくしの前に立つのですか?」
「ああ、やはりその言いようはフリスト。夢寐にも似たあの懐かしい日々に、私を教え導いてくれたあのフリストに違いない。
なんということでしょう。やはり貴女は魔に堕ちた・・・・・・。
いいえ、いいえ、そんな筈はありません。私の記憶の中のフリストなら、たとえ五体を魔王に刻まれようとも屈しない筈。
なんでしょう、なんなのでしょう、この矛盾。貴女がフリストである筈はないのに、言い様も姿形も紛れもなくフリスト。
嗚呼、混乱の極みで悲しいです。こうなれば、私に出来るのは貴女という幻を、この槍で貫くのみ―――――」
言うが早いか、ロスヴァイセは頭を下にして地に迫り、一瞬で槍を引き抜いて地を蹴る。
矢すら置き去りにするほどの速さで、フリストに迫る。
が、それほどの予備動作の間に対処の取れぬフリストではない。
片手でロスヴァイセの槍を弾き、身を翻して突進するロスヴァイセの後頭部を殴りつける。
この間、ヘルゲは目で追うのがやっとであった。
「ぐっ・・・・・・」
突進の勢いをそのままに、ロスヴァイセが僅かに浮いたままよろけた。
すかさずフリストがロスヴァイセの横腹を膝で蹴りつけ、身を離す。
「・・・・・・?」
不審なのは、フリストである。
(効いていない・・・・・・)
長命のヴァルキリーは、その半生も長い。フリストが教導したヴァルキリーの一人であるロスヴァイセの力量も癖も、よく知っている。
手応えと相手の表情で、どの程度有効打になったかを推量するのは、戦いに於いて重要なことだ。それらがフリストに告げていた。
(今の二撃、昏倒してもおかしくない筈なのに)
証明するように、ロスヴァイセは蹴られた衝撃を着地で殺し、間髪入れずにすぐさま槍を構えて突進する。
その動きには、なんの淀みも躊躇いも見られない。フリストの攻撃は、ロスヴァイセに対してなんの効果も表してはいなかった。
「ちっ」
舌打ちをして、フリストも構える。
ヴァルキリーの槍は、ランスだ。
その全長は四メートルに及び、重さも四キロはある。普通は馬上で敵を貫くための、騎兵用の装備だが、ヴァルキリーの筋力はこれを軽々と使いこなす。
穂先は三角錐になっていて、鋭い。特徴的なのは、バンプレートという護拳部分で、この部分は練習用のブールドナスと共通している。ランスと聞いてすぐさま思い浮かべられる形状である。
それを構えて突進するヴァルキリーは、城壁にすら傷をつける。先にフリストがファーヴニルの鱗を貫通させた時点で、その攻撃力はもう証明されている。
フリストは、疾走するロスヴァイセの槍を僅かに躱した。躱したが、右腕の皮膚が衝撃で裂けた。血が一筋、肘に向かって流れた。
フリストは体勢を極力崩さずに避け、攻撃態勢を崩さず、ロスヴァイセの胸に向けて槍を突き出した。
ロスヴァイセが、弾かれて飛んだ。
(なんという、これがヴァルキリーの本気か・・・・・・)
ヘルゲは、茫然とする思いである。
驚くべきはやはりフリストであろう。突進するロスヴァイセに怯むことなく、冷静に避け、攻撃に転じる隙を僅かなものした。尚且つ、その攻撃によってロスヴァイセを弾いたのだ。
運動エネルギーというものがある。
難しい話ではない。前に進んだ物体を後方に押すには、進んだ物体の重量と運動エネルギーを相殺してまだ余る力を入れなければならないという、当然の話だ。
城壁にすら穴を穿つヴァルキリーの突進力を、その身一つで跳ね返すフリストの力量と技量、正にヘルゲなど赤子同然である。
が、フリストは不快そうだった。
(後ろに弾き飛んだということは、槍が刺さらなかったということですね。
鎧がそんなに硬いわけはない。やはり、ロスヴァイセの防御力が上がっている)
この瞬間、フリストは撤退を決めた。
その時である。ヘルゲが、フリストとロスヴァイセの間に割って入ったのは。
「危ない―――――」
という、明確な言葉にはならなかっただろう。それほど一瞬のことであった。
ヘルゲが剣を振るい、金属音がして、なにかが地に転がった。
手矢である。
「囲まれていますね」
事も無げに、フリストは言った。が、表情はやや不快そうに歪んでいる。
「判りますか、フリスト。相手の配置や数まで」
「いいえ。しかし退路を残す馬鹿はいないでしょう。まあ、数はあの生意気なお転婆を入れても九というところです。逃げましょう、ヘルゲ」
「ええ。しかし、ヴァルキリーですか?」
「いえ、エインヘリアルでしょう。どうやらあの子が集めた勇士たちのようです」
森の木々の向こう。数人の息遣いが伝わってくる。
条件は極めて不利である。
フリストとヘルゲの居る場所は、森であったところをロスヴァイセが槍で抉ったところだ。衝撃で周辺の木々は折れ、地面は土を剥き出しにしている。陽光は遮るものをなくして容赦なく二人を照らしている。
遮蔽物になりそうなものはない。ゲリラ戦は不可能である。
対して、ロスヴァイセの連れてきたエインヘリアルは木々の中に身を隠し、手矢や手斧で二人を狙っているらしい。ヘルゲには判らないが、フリストの直感と知覚が、そう告げているという。
「ロスヴァイセ、肋骨くらいは折れましたか?」
フリストが視線を戻す。
土埃を立てながら、ゆっくりと立ち上がるロスヴァイセがあった。
「いいえ、フリスト。悲しみの極みです。
あれほど苛烈であった貴女の槍が、最早この鎧を貫くことさえ出来なくなっている」
「そうでしょうね。どうやらこの場は貴方達の勝ちのようだ。譲りましょう」
「この場は? いいえ、もう絶対的に勝ちなのです。逃がしません。そのためにわざわざ呼び寄せたのですから」
「ヘルゲ、無礼をしますがお許しを。怒りが収まらなければ、後で幾らでもわたくしを蹴ってください」
言うが早いか、ヘルゲが疑問を抱くより先に、フリストがヘルゲの背中を蹴った。
ダメージを与える蹴り方ではない。足の甲で押し出すように。仰角は、四十度よりやや下あたりになるであろう。
腕の三倍の力があるという脚の力で、ヘルゲはあっさりと吹き飛んだ。
「な―――――!?」
驚いたのはロスヴァイセと身を隠した八人のエインヘリアルである。
が、フリストは構わない。
「ではロスヴァイセ。次は勝ちます。
他人の情事を盗み見るような破廉恥な娘になど、負けるのはこの場限りです」
両の手に魔法で火の玉を作り、片方をロスヴァイセの顔面に、もう片方を飛び上がりなら森に放つ。
ロスヴァイセは、図星を突かれて動揺している。そこに火の玉である。直撃した。
森に放たれた火球は一瞬で燃え広がり、エインヘリアルに一瞬の動揺を生んだ。その間、フリストは飛んできた手矢や斧を避けながら空に向かって流星のように翔けた。
空中でヘルゲを受け取らなければ落下死する。フリストも必死である。
それにしても、なんと大胆な逃亡劇であろう。
追跡者を動揺させる一言と戦術。それらを一瞬で頭で構築して実行に移す計算高さと大胆さ。この場に他のヴァルキリーが居ても、舌を巻いたに違いない。
「ロスヴァイセ、平気ですか?」
エインヘリアルが火のついた森から出た。
ヴァルキリーは魔法に対して抵抗力がある。主神の守護を受けた彼女らに、魔法でダメージを与えられるのはバフォメットくらいなのだ。掠り傷程度という条件なら、リッチでも全力でやれば或いは届くか。
フリストの魔女クラスの魔法で手傷を負うわけはない。
ロスヴァイセは五体満足で、しかし、フリストの受けた言葉で顔を真っ赤にして俯いていた。
(破廉恥・・・・・・私が? あれほどの痴態を演じたフリストに、破廉恥呼ばわり・・・・・・)
悔しかった。屈辱で腸が煮えそうになった。
しかし、その通りだろう。
男女の交合にどのような痴態を演じようと、それは二人だけの世界で演じられるものだから、誰になにを言われる筋合いもない。が、他人の情事を盗み見る行為は、純然たる恥知らずであろう。
そのことは、理知あるヴァルキリーである。ロスヴァイセも気づいている。だから言い返すことも出来ず、ただ拳を怒りで強く握りしめるのみである。
ただ、恨みが残った。
(フリスト・・・・・・)
悲運と悲劇の中で、断罪人という過酷な役割を演じることで陶酔し、自身の境遇を僅かでも救おうとしたロスヴァイセであったが、このとき明確にフリストに殺意を覚えた。
頭の声も、
(フリストを追え)
と言っている。むざむざ逃がすつもりはない。
ロスヴァイセは顔を上げ、エインヘリアルをまとめてすぐさま出発した。
行き先の見当はつかない。長い旅になりそうだった。
フリストは元より、ヘルゲとて歴戦の勇士である。交合程度で精根の尽き果てるわけがない。欲情さえまた猛りを見せたなら、もう一度交わる程度は造作もない。
「ヘルゲ、わたくしは貴方を主と仰ぎます。そのことだけは、ゆめゆめお忘れなきよう」
「判りました。フリストがそこまで仰るなら受け入れます。
しかしこれからなんとしましょう。元より私の教導が目的だった旅です。然したる目的もありませんし、やはり世の難事を求めますか?」
「ヘルゲ、貴方は勇者になりたいですか?」
いや、とヘルゲは思った。
それはフリストに出会って間もない頃思ったことである。勇者という生き物は、余人の口の端に誇らしい気持ちと共に登るものだが、本人の人生は悲愴に満ちている。
滅私を胸に誓って人民に奉仕し、ついに使い潰されて死ぬ。
たとえそれが人類という歴史の上で、外すことの出来ない尊い犠牲であったとしても、フリストを手に入れたヘルゲは、自らその犠牲になろうという気持ちはなかった。
失望するかもしれない、と思いつつ、ヘルゲはフリストにそのことを正直に話した。
フリストは黙って、頭をヘルゲの肩に置きながら、
「貴方が嫌なら、わたくしも嫌です。
どこか、二人で暮らしますか。何事か思いつけば、世に出れば良い。案ずることはありません。わたくしはヴァルキリーで貴方はヘルゲ。世の誰に後れを取ることがありましょうか」
その時である。
フリストが、弾かれるようにヘルゲから身を離したのは。
「立って、ヘルゲ―――――!」
ヘルゲも判っている。
立ち上がるのと地面を蹴るのは同時であったろう。
二人は斥力に弾かれたように正反対の方向に駆け、同時に武器を取り出した。
フリストは槍を。ヘルゲは腰の剣を抜いた。
その間、さっきまでフリストとヘルゲが肩を寄せ合っていた場所に、夥しい土煙が舞っている。
(なにかが降ってきた)
ヘルゲの顔に、飛び散った草や苔などがバチバチと爆ぜるように当たる。
しかし目は閉じず、じっと土埃を見つめながら、剣を構えた。この行動が既に、並みの戦士ではない。落ち着きぶりは、さすがにファーヴニルと死闘を演じた男だけのことはある。
この状況の内訳は、上空からフリストとヘルゲに向けてなにかが飛来し、落下した。その際の地に響いた衝撃と音は、まだ余韻を二人の耳と体に残している。
「上です、ヘルゲ。そこには槍しかない」
さすがにフリストである。
ヘルゲとは見ている先が違う。慌てて上空に視線をやると、紺碧の鎧に身を包んだ女が、空中に佇んでいた。
「ヴァルキリー・・・・・・?」
「そのようです。しかもわたくしの知っている顔ですね」
ふわりと、風が吹いた。
立ち込めた土埃が風にさらわれ、佇む女の金髪を揺らした。
悲しげに目を伏せ、二人を睥睨するのは紛れもなく、ヴァルキリーのロスヴァイセであった。
「無礼ですね、ロスヴァイセ。わたくしはともかく、ヘルゲにも向けて槍を投げるのは許せません」
フリストの言葉を受けて、ロスヴァイセは顔全体に悲しみの色を浮かべた。
「悲しい。フリスト、私はとても悲しいです。
あれほど気高かった貴女が、誰よりも主の尖兵であることに誇りを持っていた貴女が、ここまで堕落してしまっているなんて、私のこの悲しみは、とうてい貴女方には伝わらないでしょう。
尊敬する先輩、フリスト。貴女の身に起こったのは不幸か不明か。いいえ、それはきっと不実に違いありません。だって貴女が堕ちるなんてこと、あるわけがないのですから」
支離滅裂である。
混乱しているのだろう。ヘルゲはそう取った。
尊敬するフリストが魔に堕ちるなど、同じヴァルキリーとして信じられないという気持ちは判る。それを前にして混乱するのも、無理はないと思った。
が、フリストは口の端に笑みを浮かべて、
「変わりませんね、ロスヴァイセ。陶酔し過ぎるのが貴女の悪い癖だと、遠い昔に叱った筈ですが、悪癖を引き摺ったままわたくしの前に立つのですか?」
「ああ、やはりその言いようはフリスト。夢寐にも似たあの懐かしい日々に、私を教え導いてくれたあのフリストに違いない。
なんということでしょう。やはり貴女は魔に堕ちた・・・・・・。
いいえ、いいえ、そんな筈はありません。私の記憶の中のフリストなら、たとえ五体を魔王に刻まれようとも屈しない筈。
なんでしょう、なんなのでしょう、この矛盾。貴女がフリストである筈はないのに、言い様も姿形も紛れもなくフリスト。
嗚呼、混乱の極みで悲しいです。こうなれば、私に出来るのは貴女という幻を、この槍で貫くのみ―――――」
言うが早いか、ロスヴァイセは頭を下にして地に迫り、一瞬で槍を引き抜いて地を蹴る。
矢すら置き去りにするほどの速さで、フリストに迫る。
が、それほどの予備動作の間に対処の取れぬフリストではない。
片手でロスヴァイセの槍を弾き、身を翻して突進するロスヴァイセの後頭部を殴りつける。
この間、ヘルゲは目で追うのがやっとであった。
「ぐっ・・・・・・」
突進の勢いをそのままに、ロスヴァイセが僅かに浮いたままよろけた。
すかさずフリストがロスヴァイセの横腹を膝で蹴りつけ、身を離す。
「・・・・・・?」
不審なのは、フリストである。
(効いていない・・・・・・)
長命のヴァルキリーは、その半生も長い。フリストが教導したヴァルキリーの一人であるロスヴァイセの力量も癖も、よく知っている。
手応えと相手の表情で、どの程度有効打になったかを推量するのは、戦いに於いて重要なことだ。それらがフリストに告げていた。
(今の二撃、昏倒してもおかしくない筈なのに)
証明するように、ロスヴァイセは蹴られた衝撃を着地で殺し、間髪入れずにすぐさま槍を構えて突進する。
その動きには、なんの淀みも躊躇いも見られない。フリストの攻撃は、ロスヴァイセに対してなんの効果も表してはいなかった。
「ちっ」
舌打ちをして、フリストも構える。
ヴァルキリーの槍は、ランスだ。
その全長は四メートルに及び、重さも四キロはある。普通は馬上で敵を貫くための、騎兵用の装備だが、ヴァルキリーの筋力はこれを軽々と使いこなす。
穂先は三角錐になっていて、鋭い。特徴的なのは、バンプレートという護拳部分で、この部分は練習用のブールドナスと共通している。ランスと聞いてすぐさま思い浮かべられる形状である。
それを構えて突進するヴァルキリーは、城壁にすら傷をつける。先にフリストがファーヴニルの鱗を貫通させた時点で、その攻撃力はもう証明されている。
フリストは、疾走するロスヴァイセの槍を僅かに躱した。躱したが、右腕の皮膚が衝撃で裂けた。血が一筋、肘に向かって流れた。
フリストは体勢を極力崩さずに避け、攻撃態勢を崩さず、ロスヴァイセの胸に向けて槍を突き出した。
ロスヴァイセが、弾かれて飛んだ。
(なんという、これがヴァルキリーの本気か・・・・・・)
ヘルゲは、茫然とする思いである。
驚くべきはやはりフリストであろう。突進するロスヴァイセに怯むことなく、冷静に避け、攻撃に転じる隙を僅かなものした。尚且つ、その攻撃によってロスヴァイセを弾いたのだ。
運動エネルギーというものがある。
難しい話ではない。前に進んだ物体を後方に押すには、進んだ物体の重量と運動エネルギーを相殺してまだ余る力を入れなければならないという、当然の話だ。
城壁にすら穴を穿つヴァルキリーの突進力を、その身一つで跳ね返すフリストの力量と技量、正にヘルゲなど赤子同然である。
が、フリストは不快そうだった。
(後ろに弾き飛んだということは、槍が刺さらなかったということですね。
鎧がそんなに硬いわけはない。やはり、ロスヴァイセの防御力が上がっている)
この瞬間、フリストは撤退を決めた。
その時である。ヘルゲが、フリストとロスヴァイセの間に割って入ったのは。
「危ない―――――」
という、明確な言葉にはならなかっただろう。それほど一瞬のことであった。
ヘルゲが剣を振るい、金属音がして、なにかが地に転がった。
手矢である。
「囲まれていますね」
事も無げに、フリストは言った。が、表情はやや不快そうに歪んでいる。
「判りますか、フリスト。相手の配置や数まで」
「いいえ。しかし退路を残す馬鹿はいないでしょう。まあ、数はあの生意気なお転婆を入れても九というところです。逃げましょう、ヘルゲ」
「ええ。しかし、ヴァルキリーですか?」
「いえ、エインヘリアルでしょう。どうやらあの子が集めた勇士たちのようです」
森の木々の向こう。数人の息遣いが伝わってくる。
条件は極めて不利である。
フリストとヘルゲの居る場所は、森であったところをロスヴァイセが槍で抉ったところだ。衝撃で周辺の木々は折れ、地面は土を剥き出しにしている。陽光は遮るものをなくして容赦なく二人を照らしている。
遮蔽物になりそうなものはない。ゲリラ戦は不可能である。
対して、ロスヴァイセの連れてきたエインヘリアルは木々の中に身を隠し、手矢や手斧で二人を狙っているらしい。ヘルゲには判らないが、フリストの直感と知覚が、そう告げているという。
「ロスヴァイセ、肋骨くらいは折れましたか?」
フリストが視線を戻す。
土埃を立てながら、ゆっくりと立ち上がるロスヴァイセがあった。
「いいえ、フリスト。悲しみの極みです。
あれほど苛烈であった貴女の槍が、最早この鎧を貫くことさえ出来なくなっている」
「そうでしょうね。どうやらこの場は貴方達の勝ちのようだ。譲りましょう」
「この場は? いいえ、もう絶対的に勝ちなのです。逃がしません。そのためにわざわざ呼び寄せたのですから」
「ヘルゲ、無礼をしますがお許しを。怒りが収まらなければ、後で幾らでもわたくしを蹴ってください」
言うが早いか、ヘルゲが疑問を抱くより先に、フリストがヘルゲの背中を蹴った。
ダメージを与える蹴り方ではない。足の甲で押し出すように。仰角は、四十度よりやや下あたりになるであろう。
腕の三倍の力があるという脚の力で、ヘルゲはあっさりと吹き飛んだ。
「な―――――!?」
驚いたのはロスヴァイセと身を隠した八人のエインヘリアルである。
が、フリストは構わない。
「ではロスヴァイセ。次は勝ちます。
他人の情事を盗み見るような破廉恥な娘になど、負けるのはこの場限りです」
両の手に魔法で火の玉を作り、片方をロスヴァイセの顔面に、もう片方を飛び上がりなら森に放つ。
ロスヴァイセは、図星を突かれて動揺している。そこに火の玉である。直撃した。
森に放たれた火球は一瞬で燃え広がり、エインヘリアルに一瞬の動揺を生んだ。その間、フリストは飛んできた手矢や斧を避けながら空に向かって流星のように翔けた。
空中でヘルゲを受け取らなければ落下死する。フリストも必死である。
それにしても、なんと大胆な逃亡劇であろう。
追跡者を動揺させる一言と戦術。それらを一瞬で頭で構築して実行に移す計算高さと大胆さ。この場に他のヴァルキリーが居ても、舌を巻いたに違いない。
「ロスヴァイセ、平気ですか?」
エインヘリアルが火のついた森から出た。
ヴァルキリーは魔法に対して抵抗力がある。主神の守護を受けた彼女らに、魔法でダメージを与えられるのはバフォメットくらいなのだ。掠り傷程度という条件なら、リッチでも全力でやれば或いは届くか。
フリストの魔女クラスの魔法で手傷を負うわけはない。
ロスヴァイセは五体満足で、しかし、フリストの受けた言葉で顔を真っ赤にして俯いていた。
(破廉恥・・・・・・私が? あれほどの痴態を演じたフリストに、破廉恥呼ばわり・・・・・・)
悔しかった。屈辱で腸が煮えそうになった。
しかし、その通りだろう。
男女の交合にどのような痴態を演じようと、それは二人だけの世界で演じられるものだから、誰になにを言われる筋合いもない。が、他人の情事を盗み見る行為は、純然たる恥知らずであろう。
そのことは、理知あるヴァルキリーである。ロスヴァイセも気づいている。だから言い返すことも出来ず、ただ拳を怒りで強く握りしめるのみである。
ただ、恨みが残った。
(フリスト・・・・・・)
悲運と悲劇の中で、断罪人という過酷な役割を演じることで陶酔し、自身の境遇を僅かでも救おうとしたロスヴァイセであったが、このとき明確にフリストに殺意を覚えた。
頭の声も、
(フリストを追え)
と言っている。むざむざ逃がすつもりはない。
ロスヴァイセは顔を上げ、エインヘリアルをまとめてすぐさま出発した。
行き先の見当はつかない。長い旅になりそうだった。
16/09/02 11:30更新 / 一
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