その3
ワタシの近くで、何かうるさい音が聞こえる。ジリリリリ、ジリリリリ、と何度も何度も音を出して、ぐっすりと眠っていたワタシを妨害するかのように鳴り続ける。
こんなにうるさい音が近くにあったら、ゆっくり眠れやしない。こんなうるさい音が鳴るもの、ワタシ拾ったっけ……?
起き上がらないままワタシは昨日の事を思い出そうとして、だんだん意識が覚醒し始める。
「あ、そうだ……」
今ワタシが居る場所、そしてこれから向かうべき場所を思い出して、ワタシを起こす為に鳴り続ける目覚まし時計を止める。初めて使ったけど、これ凄く効果があるなぁ。こんなにうるさかったら誰でも起きちゃう。
寝床にしていたバスロブから上がり、伸びを一度。これで寝ぼけていた意識もすっきりだ。
「いい寝心地だったなぁ。それに、綺麗な水に浸りながら寝たから潤いも増したし♪」
昨日までは湖へ向かって、水浴びをする事で潤いを取り戻していたけれど、こうしてウンディーネの天然水に浸りながら眠った方がより潤いは増すし持続する。二、三日浸らなくても大丈夫だけれど、潤いはどんどんと失われてしまう。
ワタシだって一人のダークスライム。いつだって、潤いのあるスライムで居たいもん。
ヴェルさんが用意してくださった職員用の寮は、魔界育ちのワタシにとって驚きの連続だった。とにかく便利で、魔界に住んでいた頃よりも遥かに生活が楽だ。
魔界に住んでいる者たちは種族ごとに住処が違う。今いる寮のような人間と同じ家に住んでいる者も居れば、洞窟に住んでいる者も居る。ワタシの家族は後者で、人工的に掘られた洞窟に家具を持ち込んで、ワタシは湧き水を大きめの器に入れてその中で眠る。お母さんはというと、お父さんを包むようにして一緒に眠る。
そんな生活しかした事がなかったので、蛇口を捻るだけで水よりも上質なウンディーネの天然水が出るなんて信じられなかった。バスロブに天然水を貯めて浸った瞬間、あまりの心地よさにすぐ眠っちゃった。おかげで鏡に映るワタシの肌はつやつやだ。
「うふっ♪」
それはもう、自然に笑顔が溢れるくらいに。こんなに身体の調子がいい朝なんて久しぶりかもしれない。
これなら、今日からのお仕事も頑張れそう。
まだ、人と魔物が沢山いる街を歩くのは慣れないけど、そんな事で怖気づいちゃだめだもの。頑張れ、ワタシ!
「……とは言っても」
気持ちは十分、身体の潤いも十分。だけど、お腹はすく。こればかりはどうしようもない。
ワタシの寝室になっているバスルーム(本当の寝室もあるのだけれど、ワタシのようなダークスライムが入ったらベッド全体が濡れちゃう……)から出て、昨日朝食用に買っておいたパンにイチゴのジャムを塗って食べる。
ちなみに、お金は館長のシャルロッテさんがお給料を前もって出していただいたおかげで困らずに済んだ。しかも、十分すぎるくらいに頂いてしまって大いに慌てた。シャルロッテさんが期待するほどの働きが出来るかどうかわからないのに、と言ったのだけれど、彼女は微笑んで「なに、気にする事はない。キミはキミが出来るだけの事をしてくれればそれでいいんだ。無理に頑張る必要もない。何せ、保護魔法をかける本はいくらでもあるし、増えていくのだからな」そう言ってくれた。思ったよりもハードのようだけれど、それだけ期待してくれているんだよね。
朝食を食べ終わって、もう準備は万端。後は職場へ向かうだけ。
「……いってきますっ!」
今日からワタシの新しい生活が、始まるんだ!
職員用の入り口から入り、まずは館長室へ。それまですれ違う様々な魔物娘の方々がワタシを見ては会釈をする。ワタシはというと、これが初めての仕事だからどうすればいいのかなんてわからなくて。とりあえず頭を下げればいいのかな、と一人ひとりに慌てながら頭を下げる。
所長室に辿り着くまでに、一体何人の魔物娘とすれ違っただろう。とても大きな図書館だから、管理する職員が多いのもわかる。わかるんだけど、全員の顔と名前を覚えるには時間がかかりそう……。それに、仲良くなれるかどうかもわからない……。
やっぱり、初めての仕事は不安だ。ちゃんと仕事をこなせられるか、職員の人達との関係は大丈夫なのか、とか。どれもわからない事ばかりで、それがどんどん不安から恐怖に変わっていく。ここには誰も知り合いが居ない。友達と呼べる人も、ここには居ない。この国に来てからすぐに出会ったセージさんや、エクリュちゃん、エリーさん、ジュリさんは居るけれど、図書館で働いている訳じゃない。館長のシャルロッテさんや夫のヴェルさん、受付のエルダさんは既に顔見知りだけれど……、昨日知り合ったばかりでまだお互いの事なんて知らない。
知らない、わからない。
…………どうしよう。
視界に映る広い廊下が突然大きくなっていき、ワタシ自身がどんどん、小さくなっていくような錯覚。本当にワタシはここに居るべきなの? こんな所で生活出来るの? 折角もらったお金を返して、故郷の魔界へ帰ってしまった方がいいんじゃないの?
「…………っ」
不意にお父さんと、お母さんの顔が浮かぶ。
二人はいつも仲良しで、幸せそうに生きている。二人が愛し合って、ワタシが生まれた。
名前は、ラセナ。元となった花の花言葉は、幸福。
なのに、ワタシは幸福を知らずにそのまま死ぬの? ダークスライムとして、魔物娘として。……女としての幸福を知らずに。
そんなのは、嫌だ。
今のワタシは、魔界に住むダークスライムのラセナじゃない。フェリーチェに住む、ダークスライムのラセナなんだから…………!
「ふぅ……ふぅ……」
呼吸を整えて前を向けば、先ほどの錯覚はなくなっていた。
頑張れ、ワタシ。これから、なんだからね。
「では、新しい職員を紹介する。ダークスライムのラセナ君だ」
名前を呼ばれてワタシは頭を深く下げる。
シャルロッテさんに挨拶をしに向かうと、彼女は職員全員にワタシの事を紹介するので、朝会をすると言った。確かに全員にワタシの事を知ってもらうには必要だけれど、緊張するのはそれだけじゃない。何か一言、挨拶をしなくてはいけないのだ。
そうなるとは知らずに、ワタシの頭の中は真っ白になった。自己紹介なんて、全然慣れてないよ。何て言えば正しいの……? いきなり変な事を言わないように気をつけなきゃ。
焦るワタシの隣で、シャルロッテさんは堂々とした態度で話す。
「彼女は魔法を得意とする種族だ。よって書物に保護魔法を施す仕事についてもらう事になる」
と、とと、得意なんて……。シャルロッテさん、大げさに言いすぎです……。これで期待はずれだったらどうするんですかぁ。
ひぅ、みんな、みんなワタシを見てる。当たり前なんだけど、こんな大勢に見られるなんて恥ずかしい……。
「ラセナ君、簡単でいいから自己紹介をしてくれるかな?」
「ぁ……、は、はぃ」
と、とりあえず、頭を下げて……えっと、えっとなんて、言えば。
「きき、き、昨日、魔界、から移住してきました……。ダークスライムの、ラセナ、です……。あの、えっと、魔法、ぐらいしか、取り柄がないです、けど……、頑張り、ます……」
あぅぅぅぅっ。
上手く言えないよぉ……っ。こんな自己紹介でよかったの? もっと何か言った方が……。
急激な自己嫌悪に苛まれていたワタシに、職員の皆さんが拍手をしてくれた。あぅ、嬉しいけどやっぱり恥ずかしい……。
「少人数だった保護魔法担当だが、これで効率も上がるだろう。指導はカレンに任せる。頼んだぞ」
「はぁーいっ♪」
元気な声で返事をしたカレンさんの方を見ると、つばが大きい帽子を被って、フリルがたくさん装飾された可愛い服を着た小さな女の子がニコニコしながら手を上げていた。
こ、子供……? 背丈はエクリュちゃんと殆ど変わらない。
そのカレンさんがワタシに近づいて、何の躊躇いもなくワタシの手を握って、まさに花が開いたような笑顔で言った。
「カレンですっ! これから一緒に頑張りましょうねっ!」
「ぁ……あ……え、と」
元気がよくって、どう見ても子供にしか見えない彼女にワタシは押されて、言葉が上手く出ない。初対面なのもあるし、子供が仕事をしているという事に戸惑う。
そんなワタシを察したのか、シャルロッテさんは笑みを零した。
「くす。カレンは魔女だ。見た目は幼い少女だが、年齢は――」
「ちょ、ちょっと館長! 女の子の歳は最高機密ですよっ」
「ふふ、そうだったな。彼女は種族の名の通り魔法を得意とする。わからない事があればカレンを頼るといい」
「は……はい。よろしく、お願いします……」
「えへへっ、カレンにお任せあれっ♪」
とても可愛くて笑顔が眩しいカレンさんを見て、ワタシはとても羨ましいと思った。初対面なのにここまで友好的に接する事が出来る、開放的で朗らかなその姿を。
今すぐになんて難しいけれど、いつかは彼女のように笑えて、そして相手も笑顔になるような女性になりたい。だって、カレンさんのおかげで緊張していたのが嘘みたいに消えてしまったから。
見えないもの、わからないものは不安になる。だけれど、実際にこの目で見て、感じれば変わる。
大丈夫。ワタシなら、きっと出来るはず。
「これから一緒に頑張りましょうねっ!」
「はいっ」
カレンさんの笑顔に、ワタシも笑顔で返した。
知識の図書館の正面入り口から入って右へ曲がると、そこは貸し出し用の本がずらりと並ぶ東館、その奥にある部屋が本に保護魔法を施す部屋となっている。もちろん、扉には関係者以外立ち入り禁止の掛札。カレンさんの案内でそこへ入れば、
「こ……ここが……保護魔法担当の部屋……なんですか?」
「凄いでしょー☆」
貸し出し用の本があるフロアにも相当な数の書物があったけれど、この部屋にはそれを纏めて詰め込んでぎゅうぎゅうにするほどの書物が広い部屋に所狭しと……。
「倉庫とかじゃ、ないですよね」
「ある意味正解かもねっ❤ ちなみにこれぜーんぶ、まだ魔法がかかっていない本なんだぁ。さらに付け加えると、西館にはまだまだたぁーっくさんあるよ☆」
可愛くウィンクをしてみせたカレンさんに、ワタシは苦笑いしか返せない。しかし、膨大な量の書物がある事はわかっていたけれど……、こうして見ると圧巻だ。右を見ても本、左を見ても本、上を見ても本。
たった一人の読書好きドラゴンが始めた蒐集が、数十年経過してここまで増えるなんて……。魔物娘の一生をかけても読み切れるかどうか……。しかもこれだけではなく、日々生まれている書物も精力的に仕入れているというのだから、恐ろしい。保護魔法をかけてもかけても、終わりがないのだから。終わるとすれば、それは文明が滅ぶか現魔王が失脚し旧魔王時代へ逆戻りした時。後者はほぼありえないとして、文明が滅ぶ……というのも想像出来ない。つまり、これはずっと続いていくのだろう。
ワタシ、凄い所に来ちゃったみたい……。
ありとあらゆる書物が集められた知識の図書館。しかし現状はまだ保存されている分の半分以上が貸し出し不可の状態であり、保護魔法を必要としている。
一冊でも多く保護魔法をかけて、人々に知識を与える。
それがワタシやカレンさんに与えられた仕事。
「大丈夫大丈夫っ。焦ったり無理して頑張る事ないんだよー。魔法をかけてもかけても館長がどんどん本を仕入れちゃってキリがないんだから。自分のペースで、しっかり、確実にやってくれればオッケー♪」
館長にそう言われたから、カレンはそうさせてもらってるもん☆
カレンさんはにっこりと笑って、そう言った。
そう……だよね。まだワタシ、身体に力が入りすぎているのかもしれない。ゆっくりと、深呼吸をしよう。
「それじゃ、一緒にここで頑張ってる人達を紹介するねー」
「は、はい」
初対面の人とお話をするのは苦手だけど、それでもちゃんと挨拶しなきゃ。ワタシの名前だけでも、知ってもらえれ…………ば……。
「人達って言っても、カレンと彼と、今日入ったラセナちゃんしか居ないんだけどね」
「……あー」
彼と呼ばれた人を見た瞬間、ワタシはこれが本当に偶然なのか、それとも運命なのかわからなくなった。
彼もワタシを見て、口を開けたまま驚いていた。
「今日来る新人さんって、ラセナさんだったんだねぇ」
「あ……ぁう……」
「ふにゃ? もうお知り合い?」
昨日この街に来た(というか、飛ばされてきた)ばかりのワタシにとても親切にしてくださった、セージさんがそこに居たのだ。まさか、こんな場所で再会出来るなんて思わなかった……。
「うん、昨日一緒に食事したんだよ」
「んもう、ラセナちゃんったら意外と抜け目ないんだからっ❤」
「そ、そんな……あの……」
カレンさんにそう言われたけれど、これは全くの偶然。だって昨日セージさんと食事した時には何処で働いているかなんて聞いていなかったし、話さなかった。知っているとすればちょっと不思議な雰囲気で、物腰の柔らかい男性とだけ。
「びっくりな偶然だね」
「は、はぃ……そう、ですね」
「……というか、今日もセージくん遅刻ギリギリに来たでしょ。朝会でラセナちゃんの紹介があったのに」
「そうだったんですか。真っ直ぐここに来る間、誰ともすれ違わなかったから変だなって思ってたんです」
「うん……まぁ、いいけどね♪」
「あはは……」
セージさんはワタシにとって恩人。そんな人にこんなに早く再会出来るなんて嬉しかった。嬉しかったけれど。
きっと、セージさんとカレンさんって……。うん、多分、そうだよね。昨日までこの部屋で二人きりになって仕事をしていたんだもの。仲が良くなって……、そういう、関係になっても変じゃない、よね。現に、仲良くお話、してるもんね。
「一緒に頑張ろうねー」
柔らかな笑みで握手を求めたセージさんの手を見て、握手していいのかわからなくなる。だって、カレンさんが見て……。
「?」
ワタシの視線にカレンさんは首をかしげる。いい、よね。大丈夫よね。ごめんなさい、カレンさん……。これだけ、これだけにしますから……っ。
「よろし、く……お願い、します」
「うん。わー、ぷにぷに」
「ひゃうっ!?」
あっ、今、変な声、出ちゃ……っ。
「だよねー! ラセナちゃんの身体ってすっごくぷにぷにしてて気持ちいいよね!」
「えっ、そんな、カレンさんまでっ」
「スライム種の魔物さんってみんなどろどろだと思ってたー」
「きゃんっ、セージ、さぁんっ」
「ダークスライムってスライムの中でも凄く頭が良いからねー。粘液の制御もきっと簡単にしてるんだよ☆」
「なるほどー」
セージさんがワタシの手を珍しがって触ってきたかと思ったら、カレンさんまで面白がってワタシの色々な場所に触れてきて、粘液や表面についての考察を始めた。そ、それは確かにスライム種の粘液はワタシにも当然あるけれど、いつも出しっぱなしだったらこんな本がたくさんある場所に来たら本がどろどろになっちゃう。だから普段は眠る時以外粘液を出さないようにしていて、表面がゼリーのように柔らかい。って、そうじゃなくって!
「や、やめ、あのっ、お二方ぁ……っ」
「こんなに触ってて気持ちいいの、初めてだなぁ」
「スライム種だからこその柔らかさよね♪」
「はぅぅ……っ」
セージさんがワタシの手や腕を何度も触っては確かめて、おー、と声を上げる。
ワタシの身体、触っていて気持ちいいって言ってくれた。それは嬉しい、のだけれど。内心、カレンさんは怒ってないのかな……。こんなに積極的に触られたら、ワタシ……ワタシ……っ。
「わわっ、ラセナちゃん!?」
「力が抜けるとこうなっちゃうんだねー」
「あぅ、ぅぅぅ……」
身体の力が抜けて、下半身部分を維持出来なくなった。体温が上がって、呼吸も少し乱れる。こんなに身体、触られたら……、あぅぅ、恥ずかしい……。
「ごめんね、カレンたち、ちょっとふざけすぎちゃったね」
「大丈夫?」
「は、はふ……だいじょ、ぶ、です。ちょっと、力が抜けた……だけですから」
人間と違ってワタシ達スライム種は、身体全体が口のようなもので。制御次第では手からでもご飯が食べられる。まぁ、そんな事は滅多にしないから、人間の女性と同じように口に運んで食べる。えっちの時も……その……、入れる所も、女性と一緒。
とにかく、そんな感じでワタシ達スライム種は全身が結構敏感なのだ。
「本当にごめんね? お仕事、出来そう?」
「ぁ……はい……。出来、ます」
だんだん落ち着いてきたし、魔法を唱えるのも問題なく出来そう。ワタシを心配そうに見る二人に、なんとか笑顔を作って頷く。
本当は、初めて男の人にワタシの身体を触られて、ドキドキがまだ続いているけれど……。カレンさんが、居るもんね。恋人を奪うなんて事、ワタシには出来ないよ……。
実際に本に保護魔法をかけるという作業は、まず予め書かれた魔法陣の中心に置いてから詠唱を開始する。すると、本が独りでに一枚一枚ページがめくられていき、詠唱を終えた時には完了している。
言葉で言えばとても簡単だけれど、実際にやると、とても繊細で神経を使う作業になる。
本と一言で言ってもページ数は違うし、小説の短編集や詩集だったら注ぐ魔力は少なくて済むのだけれど、図鑑、さらには辞書になると注ぐ魔力が全く違う。調理に例えれば、詩集が野菜と豆のスープを作るくらいで、辞書は先ほどのスープに加えて魔界豚の肉を六時間ぐらい煮込んだシチュー、生地から作った手作りパン、魔界の野菜をふんだんに使ったサラダにバニラアイスが美味しいパフェを作るようなもの。とにかくそれだけの労力がかかる。
そしてその作業は連続して行えば行うほど魔力はなくなっていき、小休止をちょくちょく入れないと定時までどころか、お昼までにダウンしてしまいそう。
カレンさんは流石の魔女といった所なのか、辞書や図鑑を軽々とこなしてはまた次の書物に取り掛かる。ワタシが辞書に魔法をかけ終わって小休止して、次の本に取り掛かる頃にはカレンさんの傍には本が四〜五冊積まれている。明らかに作業量が違って焦るけれど、すぐに気付いて「焦らなくて大丈夫だよっ」と声を掛けてくれる。
ちなみに、人間のセージさんは生まれつき魔法使いとしての素質があるらしくて、ワタシの作業を少し上回っている。小休止の間に見学させてもらった時に気付いたのは、詠唱の速度を落としていたという事。聞いてみると、自然回復よりも遅く詠唱すれば、次に詠唱する時にスムーズに出来る、との事。それを参考にしてワタシもやってみたのだけれど、それがとても難しい。詠唱の速度は問題ないけれど、注ぐ魔力の調整が上手くいかずに失敗してやり直しになってしまうのだ。結局二度手間になってしまうのでセージさんの方法はやめるしかなかった。
……ワタシ、魔物娘なのに一番遅い。そう思って焦って詠唱しても終わればくたくたになって効率が悪くなる。適度な小休止を心がけているけれど、その間詠唱している二人の姿を見て、ずる休みをしているような気持ちになってしまって落ち着かない。
そんな時、カレンさんは一杯だけのティータイムにしようと言ってくれた。
「……すみません」
「いいのいいのっ。そろそろお茶にしたいなぁって思っていた所だから! ね、セージくん」
「うん。毎日してる」
「そう……なんですか……」
カレンさんの淹れた紅茶を飲みながら、彼女の心遣いが沁みる。
幸いなのは、二人とも本当に優しいこと。魔力を消費するのは疲れるけれど、頑張ろうって思える。風味と程よい苦味が美味しい。
「その紅茶ね、特性のブレンドで魔力の自然回復を促進するんだよっ☆」
「一定時間自然回復1.5倍」
「……?」
時々セージさんの言う事がちょっとわからなくなる。魔法に関しての説明が数字を交えていて要領を得ないのだ。どれだけ魔力を持っているのかを聞いたら「僕のMPは450ぐらい」と言ってきたり、それは多いのか少ないのかよくわからないのでそれも聞いてみたら、「バフォ様は大体150000ぐらい」と返されてやっぱりわからなくて首を傾げていると、「バフォ様は限界突破してる」と一言。とりあえず、規格外なのはわかった……気がする。
「ねぇねぇ、ラセナちゃん」
「は、はい……」
「その紅茶を飲み続けたらラセナちゃんのスライムゼリーって紅茶の味になるかな?」
「っ!? ごほっ、ごほっ」
突然冗談なのか本気なのかわからない事を聞かれた。魔力は使えばその後緩やかに自然回復していくけれど、スライムゼリーにしてしまうと、身体の容量が減って所持魔力の上限も減る。そればかりは回復するには時間がかかる。人間のこぶしぐらいの量だと元に戻るまで二週間はかかるだろう。
そう説明したら、残念そうな顔をした後含みのある笑みになった。
「そうだよねぇ。スライムゼリーを食べちゃったらお仕事にならなくなっちゃうもんね……♪」
「?」
「…………あぅ」
カレンさんは優しいけど、意地悪だ。セージさんがもし、ワタシのスライムゼリーを食べたら、きっと求められる。そうすれば仕事じゃなくなるし、そもそも、セージさんにはカレンさんが…………。
うぅ、落ち込んできちゃう。
「あ、あれ? どうして俯いちゃうの?」
「…………うぅ」
「えっ? えっ?」
「?」
いけない……。せっかくのティータイムが暗くなっちゃう。ここは無理でも、大丈夫って言わないと……。
「……だ、大丈夫、です。なんでも、ありません……から」
「本当に?」
「は、はい」
そのままティータイムは終わり、また作業に取り掛かる。
……けれど、効率は明らかに下がった。魔力が足りなくなってきた訳ではなく、むしろ先ほどの紅茶のおかげでかなり回復している。
回復しているにも関わらず効率が下がったのは、ワタシの今の精神状態が原因。魔力の放出は精神状態にも左右される。ティータイムの前は小説程度ならすぐ終わったのに、その小説が辞書を終わらせるほどに時間がかかるのだ。
なんて、わかりやすいの。セージさんやカレンさんはさっきよりも効率が上がっているというのに。弱いワタシはこの、有様……。
上手く出来ずに時間は過ぎて、魔力はまだ残っているというのに気疲れでもうくたくただった。そこにランチタイムのベルが鳴る。
「ランチタイムだーっ☆」
嬉しそうに勢い良く立ち上がったカレンさんは、伸びを一つしてからそわそわと時計を眺める。
セージさんはバスケットから持参してきたサンドイッチを黙々と食べている。
ワタシは……どうしよう。何処かでご飯を食べて、気持ちを落ち着けようかな……。図書館周辺で美味しいお店、あるかな……。
そう思っていたら、突然扉が勢い良く開けられて全速力で走ってきたのか、汗を浮かべながら男性が入ってきた。そしてカレンさんを見て、
「カレンーッ! 一緒にランチを食べるぞぉぉっ!!」
と、満開の笑顔で叫んだ。
するとカレンさんも、男性に駆け寄りながら、
「おにいちゃぁぁんっ♪ やっと来たぁっ♪」
同じく満面の笑みで男性の胸に飛び込んだ。
男性は優しく受け止めてから、二人は手を繋いで何処かへ…………。
「…………ハッ!?」
突然の事に呆気に取られていたワタシは、身体が硬直していた事に今更気がついた。
えっ、えっ、今の、え? お兄ちゃんって、カレンさんが……。
「あの、セージさ、ん……。今のって……」
「もごもご……カレンしゃんの……もぐもぐ、旦那さん」
……………………え?
「今のが、カレンさんの……?」
「毎日ランチタイムに迎えに来るよ」
「…………」
さっきまでのワタシ、馬鹿みたい……。とりあえず、カレンさんに謝らなきゃ……。
こんなにうるさい音が近くにあったら、ゆっくり眠れやしない。こんなうるさい音が鳴るもの、ワタシ拾ったっけ……?
起き上がらないままワタシは昨日の事を思い出そうとして、だんだん意識が覚醒し始める。
「あ、そうだ……」
今ワタシが居る場所、そしてこれから向かうべき場所を思い出して、ワタシを起こす為に鳴り続ける目覚まし時計を止める。初めて使ったけど、これ凄く効果があるなぁ。こんなにうるさかったら誰でも起きちゃう。
寝床にしていたバスロブから上がり、伸びを一度。これで寝ぼけていた意識もすっきりだ。
「いい寝心地だったなぁ。それに、綺麗な水に浸りながら寝たから潤いも増したし♪」
昨日までは湖へ向かって、水浴びをする事で潤いを取り戻していたけれど、こうしてウンディーネの天然水に浸りながら眠った方がより潤いは増すし持続する。二、三日浸らなくても大丈夫だけれど、潤いはどんどんと失われてしまう。
ワタシだって一人のダークスライム。いつだって、潤いのあるスライムで居たいもん。
ヴェルさんが用意してくださった職員用の寮は、魔界育ちのワタシにとって驚きの連続だった。とにかく便利で、魔界に住んでいた頃よりも遥かに生活が楽だ。
魔界に住んでいる者たちは種族ごとに住処が違う。今いる寮のような人間と同じ家に住んでいる者も居れば、洞窟に住んでいる者も居る。ワタシの家族は後者で、人工的に掘られた洞窟に家具を持ち込んで、ワタシは湧き水を大きめの器に入れてその中で眠る。お母さんはというと、お父さんを包むようにして一緒に眠る。
そんな生活しかした事がなかったので、蛇口を捻るだけで水よりも上質なウンディーネの天然水が出るなんて信じられなかった。バスロブに天然水を貯めて浸った瞬間、あまりの心地よさにすぐ眠っちゃった。おかげで鏡に映るワタシの肌はつやつやだ。
「うふっ♪」
それはもう、自然に笑顔が溢れるくらいに。こんなに身体の調子がいい朝なんて久しぶりかもしれない。
これなら、今日からのお仕事も頑張れそう。
まだ、人と魔物が沢山いる街を歩くのは慣れないけど、そんな事で怖気づいちゃだめだもの。頑張れ、ワタシ!
「……とは言っても」
気持ちは十分、身体の潤いも十分。だけど、お腹はすく。こればかりはどうしようもない。
ワタシの寝室になっているバスルーム(本当の寝室もあるのだけれど、ワタシのようなダークスライムが入ったらベッド全体が濡れちゃう……)から出て、昨日朝食用に買っておいたパンにイチゴのジャムを塗って食べる。
ちなみに、お金は館長のシャルロッテさんがお給料を前もって出していただいたおかげで困らずに済んだ。しかも、十分すぎるくらいに頂いてしまって大いに慌てた。シャルロッテさんが期待するほどの働きが出来るかどうかわからないのに、と言ったのだけれど、彼女は微笑んで「なに、気にする事はない。キミはキミが出来るだけの事をしてくれればそれでいいんだ。無理に頑張る必要もない。何せ、保護魔法をかける本はいくらでもあるし、増えていくのだからな」そう言ってくれた。思ったよりもハードのようだけれど、それだけ期待してくれているんだよね。
朝食を食べ終わって、もう準備は万端。後は職場へ向かうだけ。
「……いってきますっ!」
今日からワタシの新しい生活が、始まるんだ!
職員用の入り口から入り、まずは館長室へ。それまですれ違う様々な魔物娘の方々がワタシを見ては会釈をする。ワタシはというと、これが初めての仕事だからどうすればいいのかなんてわからなくて。とりあえず頭を下げればいいのかな、と一人ひとりに慌てながら頭を下げる。
所長室に辿り着くまでに、一体何人の魔物娘とすれ違っただろう。とても大きな図書館だから、管理する職員が多いのもわかる。わかるんだけど、全員の顔と名前を覚えるには時間がかかりそう……。それに、仲良くなれるかどうかもわからない……。
やっぱり、初めての仕事は不安だ。ちゃんと仕事をこなせられるか、職員の人達との関係は大丈夫なのか、とか。どれもわからない事ばかりで、それがどんどん不安から恐怖に変わっていく。ここには誰も知り合いが居ない。友達と呼べる人も、ここには居ない。この国に来てからすぐに出会ったセージさんや、エクリュちゃん、エリーさん、ジュリさんは居るけれど、図書館で働いている訳じゃない。館長のシャルロッテさんや夫のヴェルさん、受付のエルダさんは既に顔見知りだけれど……、昨日知り合ったばかりでまだお互いの事なんて知らない。
知らない、わからない。
…………どうしよう。
視界に映る広い廊下が突然大きくなっていき、ワタシ自身がどんどん、小さくなっていくような錯覚。本当にワタシはここに居るべきなの? こんな所で生活出来るの? 折角もらったお金を返して、故郷の魔界へ帰ってしまった方がいいんじゃないの?
「…………っ」
不意にお父さんと、お母さんの顔が浮かぶ。
二人はいつも仲良しで、幸せそうに生きている。二人が愛し合って、ワタシが生まれた。
名前は、ラセナ。元となった花の花言葉は、幸福。
なのに、ワタシは幸福を知らずにそのまま死ぬの? ダークスライムとして、魔物娘として。……女としての幸福を知らずに。
そんなのは、嫌だ。
今のワタシは、魔界に住むダークスライムのラセナじゃない。フェリーチェに住む、ダークスライムのラセナなんだから…………!
「ふぅ……ふぅ……」
呼吸を整えて前を向けば、先ほどの錯覚はなくなっていた。
頑張れ、ワタシ。これから、なんだからね。
「では、新しい職員を紹介する。ダークスライムのラセナ君だ」
名前を呼ばれてワタシは頭を深く下げる。
シャルロッテさんに挨拶をしに向かうと、彼女は職員全員にワタシの事を紹介するので、朝会をすると言った。確かに全員にワタシの事を知ってもらうには必要だけれど、緊張するのはそれだけじゃない。何か一言、挨拶をしなくてはいけないのだ。
そうなるとは知らずに、ワタシの頭の中は真っ白になった。自己紹介なんて、全然慣れてないよ。何て言えば正しいの……? いきなり変な事を言わないように気をつけなきゃ。
焦るワタシの隣で、シャルロッテさんは堂々とした態度で話す。
「彼女は魔法を得意とする種族だ。よって書物に保護魔法を施す仕事についてもらう事になる」
と、とと、得意なんて……。シャルロッテさん、大げさに言いすぎです……。これで期待はずれだったらどうするんですかぁ。
ひぅ、みんな、みんなワタシを見てる。当たり前なんだけど、こんな大勢に見られるなんて恥ずかしい……。
「ラセナ君、簡単でいいから自己紹介をしてくれるかな?」
「ぁ……、は、はぃ」
と、とりあえず、頭を下げて……えっと、えっとなんて、言えば。
「きき、き、昨日、魔界、から移住してきました……。ダークスライムの、ラセナ、です……。あの、えっと、魔法、ぐらいしか、取り柄がないです、けど……、頑張り、ます……」
あぅぅぅぅっ。
上手く言えないよぉ……っ。こんな自己紹介でよかったの? もっと何か言った方が……。
急激な自己嫌悪に苛まれていたワタシに、職員の皆さんが拍手をしてくれた。あぅ、嬉しいけどやっぱり恥ずかしい……。
「少人数だった保護魔法担当だが、これで効率も上がるだろう。指導はカレンに任せる。頼んだぞ」
「はぁーいっ♪」
元気な声で返事をしたカレンさんの方を見ると、つばが大きい帽子を被って、フリルがたくさん装飾された可愛い服を着た小さな女の子がニコニコしながら手を上げていた。
こ、子供……? 背丈はエクリュちゃんと殆ど変わらない。
そのカレンさんがワタシに近づいて、何の躊躇いもなくワタシの手を握って、まさに花が開いたような笑顔で言った。
「カレンですっ! これから一緒に頑張りましょうねっ!」
「ぁ……あ……え、と」
元気がよくって、どう見ても子供にしか見えない彼女にワタシは押されて、言葉が上手く出ない。初対面なのもあるし、子供が仕事をしているという事に戸惑う。
そんなワタシを察したのか、シャルロッテさんは笑みを零した。
「くす。カレンは魔女だ。見た目は幼い少女だが、年齢は――」
「ちょ、ちょっと館長! 女の子の歳は最高機密ですよっ」
「ふふ、そうだったな。彼女は種族の名の通り魔法を得意とする。わからない事があればカレンを頼るといい」
「は……はい。よろしく、お願いします……」
「えへへっ、カレンにお任せあれっ♪」
とても可愛くて笑顔が眩しいカレンさんを見て、ワタシはとても羨ましいと思った。初対面なのにここまで友好的に接する事が出来る、開放的で朗らかなその姿を。
今すぐになんて難しいけれど、いつかは彼女のように笑えて、そして相手も笑顔になるような女性になりたい。だって、カレンさんのおかげで緊張していたのが嘘みたいに消えてしまったから。
見えないもの、わからないものは不安になる。だけれど、実際にこの目で見て、感じれば変わる。
大丈夫。ワタシなら、きっと出来るはず。
「これから一緒に頑張りましょうねっ!」
「はいっ」
カレンさんの笑顔に、ワタシも笑顔で返した。
知識の図書館の正面入り口から入って右へ曲がると、そこは貸し出し用の本がずらりと並ぶ東館、その奥にある部屋が本に保護魔法を施す部屋となっている。もちろん、扉には関係者以外立ち入り禁止の掛札。カレンさんの案内でそこへ入れば、
「こ……ここが……保護魔法担当の部屋……なんですか?」
「凄いでしょー☆」
貸し出し用の本があるフロアにも相当な数の書物があったけれど、この部屋にはそれを纏めて詰め込んでぎゅうぎゅうにするほどの書物が広い部屋に所狭しと……。
「倉庫とかじゃ、ないですよね」
「ある意味正解かもねっ❤ ちなみにこれぜーんぶ、まだ魔法がかかっていない本なんだぁ。さらに付け加えると、西館にはまだまだたぁーっくさんあるよ☆」
可愛くウィンクをしてみせたカレンさんに、ワタシは苦笑いしか返せない。しかし、膨大な量の書物がある事はわかっていたけれど……、こうして見ると圧巻だ。右を見ても本、左を見ても本、上を見ても本。
たった一人の読書好きドラゴンが始めた蒐集が、数十年経過してここまで増えるなんて……。魔物娘の一生をかけても読み切れるかどうか……。しかもこれだけではなく、日々生まれている書物も精力的に仕入れているというのだから、恐ろしい。保護魔法をかけてもかけても、終わりがないのだから。終わるとすれば、それは文明が滅ぶか現魔王が失脚し旧魔王時代へ逆戻りした時。後者はほぼありえないとして、文明が滅ぶ……というのも想像出来ない。つまり、これはずっと続いていくのだろう。
ワタシ、凄い所に来ちゃったみたい……。
ありとあらゆる書物が集められた知識の図書館。しかし現状はまだ保存されている分の半分以上が貸し出し不可の状態であり、保護魔法を必要としている。
一冊でも多く保護魔法をかけて、人々に知識を与える。
それがワタシやカレンさんに与えられた仕事。
「大丈夫大丈夫っ。焦ったり無理して頑張る事ないんだよー。魔法をかけてもかけても館長がどんどん本を仕入れちゃってキリがないんだから。自分のペースで、しっかり、確実にやってくれればオッケー♪」
館長にそう言われたから、カレンはそうさせてもらってるもん☆
カレンさんはにっこりと笑って、そう言った。
そう……だよね。まだワタシ、身体に力が入りすぎているのかもしれない。ゆっくりと、深呼吸をしよう。
「それじゃ、一緒にここで頑張ってる人達を紹介するねー」
「は、はい」
初対面の人とお話をするのは苦手だけど、それでもちゃんと挨拶しなきゃ。ワタシの名前だけでも、知ってもらえれ…………ば……。
「人達って言っても、カレンと彼と、今日入ったラセナちゃんしか居ないんだけどね」
「……あー」
彼と呼ばれた人を見た瞬間、ワタシはこれが本当に偶然なのか、それとも運命なのかわからなくなった。
彼もワタシを見て、口を開けたまま驚いていた。
「今日来る新人さんって、ラセナさんだったんだねぇ」
「あ……ぁう……」
「ふにゃ? もうお知り合い?」
昨日この街に来た(というか、飛ばされてきた)ばかりのワタシにとても親切にしてくださった、セージさんがそこに居たのだ。まさか、こんな場所で再会出来るなんて思わなかった……。
「うん、昨日一緒に食事したんだよ」
「んもう、ラセナちゃんったら意外と抜け目ないんだからっ❤」
「そ、そんな……あの……」
カレンさんにそう言われたけれど、これは全くの偶然。だって昨日セージさんと食事した時には何処で働いているかなんて聞いていなかったし、話さなかった。知っているとすればちょっと不思議な雰囲気で、物腰の柔らかい男性とだけ。
「びっくりな偶然だね」
「は、はぃ……そう、ですね」
「……というか、今日もセージくん遅刻ギリギリに来たでしょ。朝会でラセナちゃんの紹介があったのに」
「そうだったんですか。真っ直ぐここに来る間、誰ともすれ違わなかったから変だなって思ってたんです」
「うん……まぁ、いいけどね♪」
「あはは……」
セージさんはワタシにとって恩人。そんな人にこんなに早く再会出来るなんて嬉しかった。嬉しかったけれど。
きっと、セージさんとカレンさんって……。うん、多分、そうだよね。昨日までこの部屋で二人きりになって仕事をしていたんだもの。仲が良くなって……、そういう、関係になっても変じゃない、よね。現に、仲良くお話、してるもんね。
「一緒に頑張ろうねー」
柔らかな笑みで握手を求めたセージさんの手を見て、握手していいのかわからなくなる。だって、カレンさんが見て……。
「?」
ワタシの視線にカレンさんは首をかしげる。いい、よね。大丈夫よね。ごめんなさい、カレンさん……。これだけ、これだけにしますから……っ。
「よろし、く……お願い、します」
「うん。わー、ぷにぷに」
「ひゃうっ!?」
あっ、今、変な声、出ちゃ……っ。
「だよねー! ラセナちゃんの身体ってすっごくぷにぷにしてて気持ちいいよね!」
「えっ、そんな、カレンさんまでっ」
「スライム種の魔物さんってみんなどろどろだと思ってたー」
「きゃんっ、セージ、さぁんっ」
「ダークスライムってスライムの中でも凄く頭が良いからねー。粘液の制御もきっと簡単にしてるんだよ☆」
「なるほどー」
セージさんがワタシの手を珍しがって触ってきたかと思ったら、カレンさんまで面白がってワタシの色々な場所に触れてきて、粘液や表面についての考察を始めた。そ、それは確かにスライム種の粘液はワタシにも当然あるけれど、いつも出しっぱなしだったらこんな本がたくさんある場所に来たら本がどろどろになっちゃう。だから普段は眠る時以外粘液を出さないようにしていて、表面がゼリーのように柔らかい。って、そうじゃなくって!
「や、やめ、あのっ、お二方ぁ……っ」
「こんなに触ってて気持ちいいの、初めてだなぁ」
「スライム種だからこその柔らかさよね♪」
「はぅぅ……っ」
セージさんがワタシの手や腕を何度も触っては確かめて、おー、と声を上げる。
ワタシの身体、触っていて気持ちいいって言ってくれた。それは嬉しい、のだけれど。内心、カレンさんは怒ってないのかな……。こんなに積極的に触られたら、ワタシ……ワタシ……っ。
「わわっ、ラセナちゃん!?」
「力が抜けるとこうなっちゃうんだねー」
「あぅ、ぅぅぅ……」
身体の力が抜けて、下半身部分を維持出来なくなった。体温が上がって、呼吸も少し乱れる。こんなに身体、触られたら……、あぅぅ、恥ずかしい……。
「ごめんね、カレンたち、ちょっとふざけすぎちゃったね」
「大丈夫?」
「は、はふ……だいじょ、ぶ、です。ちょっと、力が抜けた……だけですから」
人間と違ってワタシ達スライム種は、身体全体が口のようなもので。制御次第では手からでもご飯が食べられる。まぁ、そんな事は滅多にしないから、人間の女性と同じように口に運んで食べる。えっちの時も……その……、入れる所も、女性と一緒。
とにかく、そんな感じでワタシ達スライム種は全身が結構敏感なのだ。
「本当にごめんね? お仕事、出来そう?」
「ぁ……はい……。出来、ます」
だんだん落ち着いてきたし、魔法を唱えるのも問題なく出来そう。ワタシを心配そうに見る二人に、なんとか笑顔を作って頷く。
本当は、初めて男の人にワタシの身体を触られて、ドキドキがまだ続いているけれど……。カレンさんが、居るもんね。恋人を奪うなんて事、ワタシには出来ないよ……。
実際に本に保護魔法をかけるという作業は、まず予め書かれた魔法陣の中心に置いてから詠唱を開始する。すると、本が独りでに一枚一枚ページがめくられていき、詠唱を終えた時には完了している。
言葉で言えばとても簡単だけれど、実際にやると、とても繊細で神経を使う作業になる。
本と一言で言ってもページ数は違うし、小説の短編集や詩集だったら注ぐ魔力は少なくて済むのだけれど、図鑑、さらには辞書になると注ぐ魔力が全く違う。調理に例えれば、詩集が野菜と豆のスープを作るくらいで、辞書は先ほどのスープに加えて魔界豚の肉を六時間ぐらい煮込んだシチュー、生地から作った手作りパン、魔界の野菜をふんだんに使ったサラダにバニラアイスが美味しいパフェを作るようなもの。とにかくそれだけの労力がかかる。
そしてその作業は連続して行えば行うほど魔力はなくなっていき、小休止をちょくちょく入れないと定時までどころか、お昼までにダウンしてしまいそう。
カレンさんは流石の魔女といった所なのか、辞書や図鑑を軽々とこなしてはまた次の書物に取り掛かる。ワタシが辞書に魔法をかけ終わって小休止して、次の本に取り掛かる頃にはカレンさんの傍には本が四〜五冊積まれている。明らかに作業量が違って焦るけれど、すぐに気付いて「焦らなくて大丈夫だよっ」と声を掛けてくれる。
ちなみに、人間のセージさんは生まれつき魔法使いとしての素質があるらしくて、ワタシの作業を少し上回っている。小休止の間に見学させてもらった時に気付いたのは、詠唱の速度を落としていたという事。聞いてみると、自然回復よりも遅く詠唱すれば、次に詠唱する時にスムーズに出来る、との事。それを参考にしてワタシもやってみたのだけれど、それがとても難しい。詠唱の速度は問題ないけれど、注ぐ魔力の調整が上手くいかずに失敗してやり直しになってしまうのだ。結局二度手間になってしまうのでセージさんの方法はやめるしかなかった。
……ワタシ、魔物娘なのに一番遅い。そう思って焦って詠唱しても終わればくたくたになって効率が悪くなる。適度な小休止を心がけているけれど、その間詠唱している二人の姿を見て、ずる休みをしているような気持ちになってしまって落ち着かない。
そんな時、カレンさんは一杯だけのティータイムにしようと言ってくれた。
「……すみません」
「いいのいいのっ。そろそろお茶にしたいなぁって思っていた所だから! ね、セージくん」
「うん。毎日してる」
「そう……なんですか……」
カレンさんの淹れた紅茶を飲みながら、彼女の心遣いが沁みる。
幸いなのは、二人とも本当に優しいこと。魔力を消費するのは疲れるけれど、頑張ろうって思える。風味と程よい苦味が美味しい。
「その紅茶ね、特性のブレンドで魔力の自然回復を促進するんだよっ☆」
「一定時間自然回復1.5倍」
「……?」
時々セージさんの言う事がちょっとわからなくなる。魔法に関しての説明が数字を交えていて要領を得ないのだ。どれだけ魔力を持っているのかを聞いたら「僕のMPは450ぐらい」と言ってきたり、それは多いのか少ないのかよくわからないのでそれも聞いてみたら、「バフォ様は大体150000ぐらい」と返されてやっぱりわからなくて首を傾げていると、「バフォ様は限界突破してる」と一言。とりあえず、規格外なのはわかった……気がする。
「ねぇねぇ、ラセナちゃん」
「は、はい……」
「その紅茶を飲み続けたらラセナちゃんのスライムゼリーって紅茶の味になるかな?」
「っ!? ごほっ、ごほっ」
突然冗談なのか本気なのかわからない事を聞かれた。魔力は使えばその後緩やかに自然回復していくけれど、スライムゼリーにしてしまうと、身体の容量が減って所持魔力の上限も減る。そればかりは回復するには時間がかかる。人間のこぶしぐらいの量だと元に戻るまで二週間はかかるだろう。
そう説明したら、残念そうな顔をした後含みのある笑みになった。
「そうだよねぇ。スライムゼリーを食べちゃったらお仕事にならなくなっちゃうもんね……♪」
「?」
「…………あぅ」
カレンさんは優しいけど、意地悪だ。セージさんがもし、ワタシのスライムゼリーを食べたら、きっと求められる。そうすれば仕事じゃなくなるし、そもそも、セージさんにはカレンさんが…………。
うぅ、落ち込んできちゃう。
「あ、あれ? どうして俯いちゃうの?」
「…………うぅ」
「えっ? えっ?」
「?」
いけない……。せっかくのティータイムが暗くなっちゃう。ここは無理でも、大丈夫って言わないと……。
「……だ、大丈夫、です。なんでも、ありません……から」
「本当に?」
「は、はい」
そのままティータイムは終わり、また作業に取り掛かる。
……けれど、効率は明らかに下がった。魔力が足りなくなってきた訳ではなく、むしろ先ほどの紅茶のおかげでかなり回復している。
回復しているにも関わらず効率が下がったのは、ワタシの今の精神状態が原因。魔力の放出は精神状態にも左右される。ティータイムの前は小説程度ならすぐ終わったのに、その小説が辞書を終わらせるほどに時間がかかるのだ。
なんて、わかりやすいの。セージさんやカレンさんはさっきよりも効率が上がっているというのに。弱いワタシはこの、有様……。
上手く出来ずに時間は過ぎて、魔力はまだ残っているというのに気疲れでもうくたくただった。そこにランチタイムのベルが鳴る。
「ランチタイムだーっ☆」
嬉しそうに勢い良く立ち上がったカレンさんは、伸びを一つしてからそわそわと時計を眺める。
セージさんはバスケットから持参してきたサンドイッチを黙々と食べている。
ワタシは……どうしよう。何処かでご飯を食べて、気持ちを落ち着けようかな……。図書館周辺で美味しいお店、あるかな……。
そう思っていたら、突然扉が勢い良く開けられて全速力で走ってきたのか、汗を浮かべながら男性が入ってきた。そしてカレンさんを見て、
「カレンーッ! 一緒にランチを食べるぞぉぉっ!!」
と、満開の笑顔で叫んだ。
するとカレンさんも、男性に駆け寄りながら、
「おにいちゃぁぁんっ♪ やっと来たぁっ♪」
同じく満面の笑みで男性の胸に飛び込んだ。
男性は優しく受け止めてから、二人は手を繋いで何処かへ…………。
「…………ハッ!?」
突然の事に呆気に取られていたワタシは、身体が硬直していた事に今更気がついた。
えっ、えっ、今の、え? お兄ちゃんって、カレンさんが……。
「あの、セージさ、ん……。今のって……」
「もごもご……カレンしゃんの……もぐもぐ、旦那さん」
……………………え?
「今のが、カレンさんの……?」
「毎日ランチタイムに迎えに来るよ」
「…………」
さっきまでのワタシ、馬鹿みたい……。とりあえず、カレンさんに謝らなきゃ……。
12/12/15 00:16更新 / みやび
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