V Brocken......
V Brocken……
◆1 Races
村の男たちを襲い、体の疼きが治まっても、私の渇きは収まらなかった。これまで満たされるセックスなんてものはしたことはなかったけれど、していて悲しくなるセックスなんてものは初めてだった。私は二人と別れ、自分にあてがわれた部屋に戻ってから、どうにかこの渇きを紛らわそうと、ひたすら自分を慰めていた。
多分、これだけの短時間で、自慰で迎えた絶頂の数としては最高記録だ。
でも、どれだけしたところで私のこの渇きは潤うどころかさらに乾いていくだけだった。私は自分の蜜壺をかき混ぜる度、心の水分をどんどん排出していたらしい。私の心は流出して、もはや渇きではなく空洞と言ってもいいくらいに削れていた。
それもこれもあいつのせいだ。
あいつが、私をあんな眼で見ていたから。
私が村の男たちを吸い殺していく光景を、あの無機質な瞳で見ていたからだ。男たちの精液を受ける度、満たされなくとも快楽自体は感じていたというのに、いつもは温かいはずの精液が、どうしようもなく冷たく感じた。
男が事切れる度に、あいつの視線を私は肌で感じた。
それがどうしようもなく痛かった。
今だって、私は自分を慰めて絶頂を迎える度に、あいつの顔がチラついた。それを繰り返し過ぎて、脳髄には針であいつの顔を刻み込んだような感覚すら覚える。
あいつのせいだ。
あいつのせいで強くなったこの渇きは、あいつでなければ潤わない。
いや、あいつに贖わせてやる。
私は、サキュバスである私があいつの精液を吸えば、あいつを吸い殺すことになるのを知っていながら、勿体ないと思っていたくせに、私はそれを忘れ、意固地にそう思った。
私は胸の空洞に耐え切れず、それを埋め合わせる何かを求めて、あいつを選んでいた。
それはサキュバスが性交相手を探すという求めではない。
それは女が男を求めていたわけではない。
それは、まるで寂しさのあまりに人肌を求める、ぐずった子供のような行為だったに違いない。
私は彼の眠る部屋のドアを開け、彼のベッドの横に立った。
青い月明かりがさしていた。窓からの直線的な光は闇を、蒼く、ただ蒼く静かにさしていて、彼の顔に降り注いでいた。漂う埃は、細やかな光の粒子となって、彼を讃えているようにも見えた。
私は彼を襲いに来たことも忘れ、その寝顔に、呆けたように見入ってしまった。恐怖を感じていない人間とは、こんなにも安らかに眠れるものなのだろうか。彼とともに行動するようになってからしばらく経っているが、こうもマジマジと彼の顔を、寝顔を見ることは初めてだった。
その顔を見ていた私の前に、今日吸い殺した村の男たちの顔が浮かんできた。私に魅了の魔法をかけられていた彼らは、私に向かって劣情を催した表情をしていた。だらしなく涎を垂らし、果てる時には一層顔を淫らに歪めて死んでいった。そんな彼らも、こうして家の中で眠る時には、今のクルスのような顔をすることがあったのだろうか……。そして、彼らの妻と床を共にする時には、私を犯した時の顔とは別の表情を見せたのだろうか。
しかし、こうしてあどけない表情で眠るこいつの寝顔の安らかさには敵わないと私は思った。こいつの顔は私が今日吸い殺した男たちの顔立ちよりも、明らかに線が細くて可愛らしい。あの青年よりも、あの中年が若い頃よりも、あの少年が成長した後よりも、誰よりも可愛らしいだろう。
と、私は自分があまりにもおかしなことを考えていることに気づいて愕然とした。私は、なぜ彼らの顔を覚えていたのだろう。私は、なぜ彼らの顔を一つ一つの顔として思い出せたのだろう。私は、人間たちの顔など区別がつかなかったはずなのに。
…………それもこいつのせいだ。
私はこいつをおかしな人間だと思って、彼の動きをいつしか目で追っていた。
グリズリーだけでなく、肉を食べる時、彼は毎度指についた脂をしゃぶった。食べるのが下手らしい。歩くとき、こいつは私の左側にいることが多かった。こいつは本ばかり読んでいたからか、多くの薬草を知っていた。そのおかげで、随分短い間に私の料理のレパートリーが増えた。こいつは、私とブロッケンが交わっている時には気まずそうに席を外す、私が水浴びをしていれば謝りつつ逃げていく。
その様子は、初めて会った時の無機質な瞳、祈るような姿に反しいて、私は気持ちよく感じていた。認めよう、私はそうした彼を見て、楽しいと思っていた。
だというのに、彼は今日、初めて会った時の瞳で、私が村人の男たちを次から次へと吸い殺していく光景を、ただ見ていた。まるで観察するように、まるで私はそういう女なのだと自分に思い込ませるように。
私はそんな風に私を私を見てもらいたくなかった。私は彼らを殺したくて殺しているわけではないのだから。むしろ私は……。
「……え?」
と、私は自分の思考に眼を見開いた。
「わた……し、」
私は、私は……。男たちを殺したくなかった?
初めて上がってきた言語化された思考に、腹の底にわだかまる冷たさを感じながら、私はただただ打ちのめされるように驚愕していた。
私は彼らを殺したくて殺していたわけではない。私が心の渇きを満たそうと、性欲を満足できるまで満たそうと、体のよく分からない疼きを満たそうとすると、彼らは死んでしまうのだ。私は決して彼らを殺したかったわけではない。私は彼らに死なれずに、ずっと交わっていたかった。
ああ、と私は嘆息した。
私はただ、サキュバスとして、誰か一人、私を満足させてくれる男に出会いたいのだ。私は、魔王になりたかったわけではないのかもしれない。
と、彼が「う……、ん」と声をあげた。
いつの間にか彼の頬に手を当てていた私は、慌ててその手を引っ込めた。彼の頬は夜気に当てられてひんやりとしていたけれど、彼に触れていた私の指は、どうしてか熱いくらいに暖かかった。
彼の眼が開く。
私はそれを、祈るような気持ちで見ていた。あの無機質な目ではありませんように、と。
「サリー……?」
開いた目は、今まで視た彼の中で一番柔らかな色を湛えていて、私はいくつかの複雑な感情を抱いた。彼はそんな私に構わず、寝ぼけているようで、言葉を続けた。
「どうしたんだ? 僕の寝顔なんて見ていても面白くないだろうに……」
そう言って彼は私の頬に手を伸ばしてきた。私の髪をかきわけて、頬に直接手の平でふれてきた。その触り方はとても優しくて、私が一度もされたことのない触り方だった。
私は彼に頬を撫でられるままになっていて、彼は寝ぼけた様子で私の頬を撫でていた。大人しくされるがままというのは私の性には合わなかったのだけれど、私はこの時がずっと続けばいいと、まるで夢見る少女のような感情を抱いていた。
淡く儚い素敵な時間は、やはり淡雪が溶けるように終わってしまった。
「君か……僕を殺しに来たの?」
彼は焦点のあった瞳で、私の頬から手を引っ込めた。
急に冷え込んだ頬の温度と彼の瞳に、私は再び心の渇きを覚えた。
「…………サリーって誰?」
私は彼の問いには答えず、問いを返してやった。それは多分女の名前だ。
彼は一瞬だけキョトンとした顔をして、少し逡巡したようだったけれど、答えてくれた。
「僕の婚約者だった」
「……別れたの?」
「殺された」
彼の感情を押し殺したその声の響きに、私は責められているような気がした。
「もしかして、私たちが殺したの?」
私の問いかけに、彼の瞳が少しだけ柔らかくなった。
「魔物でもそんな顔をするんだ」
私はどんな顔をしていたのだろう。
――君はそうやって人を殺すんだね。――そんな顔で。
今日彼に言われた言葉が蘇ってきた。でも、あの時の響きとは別であるように感じた。
「大丈夫。彼女は君たちには殺されていない。彼女が殺されたのはもっと前で……、僕に助けを求める彼女に、拷問と凌辱を加えて殺したのは、僕の父だった」
「……どう、してよ……」
私から自分でも聞いたことのないような声が漏れていた。
彼は不思議そうな顔で私を見ていた。
「どうしてそんな顔で、自分の婚約者が殺されたなんて言えるのよ。あなたは……」
人間でしょう。
と言いそうになって、私はその言葉を飲み込んだ。それは彼を傷つけるだけのような気がしたから。
「そうだね。だから父も僕のことを諦めた。彼女を殺してから、彼は僕に構わなくなった」
「私はそう言うことを聞いているわけじゃない!」
私は思わず彼に怒鳴りつけ、その胸ぐらを掴んでいた。寝ぼけていた時には優しげな色を浮かべていたというのに、今の彼の瞳は、まるで生きているということすら疑いたくなるような瞳だった。冷えきって……道端の石ですらもっと温かみがあると思う。
あんな目を出来るはずの彼の今の有様に、私は分けも分からず、どうしようもない憤りと悲しみを感じた。
「君は、もしかして、泣いているの……」
「は……? 何を言って……。え……?」
私は頬を触った時の濡れた感触が、信じられなかった。
彼は私の頬を触った。優しかったけれど、先ほどとは違って、少しだけぎこちない感じで、私はそれをとても嬉しく感じた。
「ごめん。不快だったら止める」
「……不快じゃないから謝らないでよ」
「……ごめん。わかった」
「だから、謝るな……って、言ってんでしょお」
彼の謝罪の言葉で、私の頬はさらに濡れた。魔物に向かって「ごめん」なんて言える彼が、今初めて泣けたような私と違って、ちゃんと豊かな感情のある人間であるはずの彼が、あんなに優しい顔と声、そして手つきで愛おしんだ相手を、目の前で惨たらしく殺された。それでも「魔物を殺さない」という信念を曲げなかったことが、とても、耐えきれない痛みとして、私には思えたからだった。
「…………あなたは何で魔物を殺さないの?」
私は零れ落ちる涙をそのままに、彼に尋ねずにはいられなかった。
「僕は僕だから。人間である前に、僕だから」
「意味が分からないわ。あなたのその姿は、確かに人間とはかけ離れているように思えるけど……」
「そうか。それは嬉しい。魔物の君から言われるならば尚更だ」
そう言って彼は、柔らかく微笑んだ。
私はその顔に、間違いなくドキリとした、と思うんだ。
だからこれは照れ隠しだったのだろう。私は無理矢理自分の涙を拭って止めると、彼に呆れ顔を向けてやる。わざとらしくとも構いはしない。
「変な人間。それから――」と、私は言う。こんなのは本当に私らしくはない。私はこいつに、クルスに出会ってから調子を崩されっぱなしだ。
「私は私よ。魔物でサキュバスだけど、その前に私よ。だから、あなたには私の名前を教えてあげる」
私は彼の耳元に口を寄せる。サキュバスの矜持として、彼のおちんちんが反応せずにはいられないような甘い吐息で、声を濡らしながら。
「私の名は と言うの」
顔を放した私は鼻を動かし、満足げに頬を吊り上げてやる。彼は平静を装っているようだったが、勃起したことはごまかせない。彼がちゃんと反応してくれたことに安堵しつつ、私は今までに感じたことのない誇らしさまで感じて、彼に一矢報いてやったような気になれた。
しかし彼は、
「可愛らしい名前だね」
私の眼を見てそう言った。
「どうして顔を逸らすんだ」
「黙りなさい。私が何処を見ようと私の勝手でしょ」
悔しい。一矢報いたと思えばやり返される。でも、悔しさ以外のものを感じているのはどうしてだろう。私はこの気持ちの名前を“知らない”。
私は気を取り直して彼に向き直る。
「でも一つ言っておくけど、私のことは名前で呼ばないで」
「何故? 可愛らしいじゃないか」
「……だから黙りなさい、って。だからよ。人間たちから怖れられるべきサキュバスの私が、そんな可愛らしい名前だってことを知られると、箔がつかないじゃない。それに、私は魔王になる女よ。誰にも彼にも名前を知られて、気安く呼ばれていい存在じゃない」
「だったら、僕は君にとって特別、と思ってもいいのかな」
「…………ええ。だから、もうこれ以上この話はやめにしましょう」
「君の名前が可愛らしいって話を? それに、君は自分でも自分の名前を可愛らしいと思っているらしい。確かに可愛らしいけれども」
「黙りなさいって言ってるでしょ! いい加減に黙らないとその口を唇で塞ぐわよ。それでそのまま吸い殺してやる」
私は勢い、冗談でそれを言った。本当に、言わなきゃ良かった。それを言ったせいで、私はこの夜、彼を殺しそうになったのだ。
私のその言葉に、彼は静かに首を振った。
「ごめん。僕は、君に殺されるわけにはいかなくなった。さっきまで僕はサキュバスの君に殺されることは仕方のないことだと思っていた。だけど僕は、たった今、君に殺されるわけにはいかなくなった」
彼は柔らかい色をした瞳に、私の顔を映していた。
「僕は君が好きになってしまった」
その瞳の中に映った、月明かりの仄かな青白さを帯びている私の顔が、恥じらいの形をとるところが見えた。私のそんな顔に一番驚いたのは私で、私はどれだけの男たちと肌を重ねても収まることのなかったこの渇きが、少しだけ収まってくれたような気がして――
私の胸がズキンと痛んだ。
◆2 Heart
「あッ、ぐ、あ、……あ」
私はその痛みに耐えかねて胸を抑えた。床に倒れて体を抱く。
痛い。アツい。苦しい。辛い。泣きたい。
あまりにも激しい、心臓を鷲掴みにされたような痛みに、私は声を出すこともできなかった。何だこれは。人間の戦士に腕を斬りおとされた時のほうがまだマシだった。痛い痛い痛い。まるで焼けた鉄杭で体の中から焼かれているよう。苦悶の声は嗚咽にすらならない。毒? そんなものを口にした覚えはない。でも、毒を飲んだというのが、とてもシックリくる表現に思えた。
私は私の中から苛まれる。私は内臓の全てをぐずぐずに溶かされるような激烈な痛みの中、私の体を抱く彼の感触を感じた。私を案ずる彼の声を聞いた。それが私の体の表面から内部に向かって沁み渡った瞬間、私は思った。
ああ、人間だ。
ああ、餌だ。
人間は食べなくては、人間は殺さなくては、人間は犯さなくては。
何せ私は魔物(サキュバス)なのだから。
私は蕩けた笑みを浮かべて、私を案じて抱いていた彼を押し倒す。押し倒してその上にのしかかる。やめろやめろやめろ。私は何をするつもりだ。私は彼の服を、自らの爪で引き裂いた。彼の美しく白い胸板が露わになった。薄皮一枚が切れた彼の皮膚から、宝石のような血の雫が滲んだ。
私はそれに舌を付けた。
ピチャピチャと。彼の胸板に舌を這わせ、その血をなめとっていた。私はその行為に嫌悪感を覚えたけれども、私の体は彼の血の香りと味に、昂ぶっているようだった。私の股は濡れた。彼は自らの肌を這う粘膜の感触に、歯を食いしばって耐えているようだった。私が顔を起こして彼を見れば、彼は私を見ていた。
頬が赤く上気していたけれども、私は全く心地良く感じられなかった。彼の瞳はあの無機質な瞳ではなかった。悲しげな瞳だった。そこに淫らで嗜虐的な私の顔が写っていた。
やめてやめてやめて。
そんな顔で私を見ないで。私は、そんな顔で彼を見ないで。
私は自由にならない私の体に、咽喉も張り裂けんばかりに懇願した。けれども、私の口からそんな言葉は出てくれなかった。
「おいしそう。人間、私が吸い殺してあげる」
違う。私はそんなことを思ってはいない。確かに彼とは交わってみたい。彼の精液を胎のいちばん深くで感じてみたい。だけど、それをしたら彼を殺してしまう。だから私はそれが一番したいことだったけれど、一番したくないことだった。
「僕は今の君になら殺されてもいいよ」彼はそう言った。
ダメ。やめて。これは私じゃない。私だけれど私じゃない。逃げて。クルス。私に殺されないで。私の悲痛な叫びはやはり声にはなってくれない。
「んふ。可愛い子」
私は自分でもゾッとするくらいの淫靡な濡れた声を出して、膨らんだ彼の股間を撫でる。ビクビクと震える肉の感触は、私が今まで味わった男たちのものよりも、ずっと熱く感じた。いや、熱いのは私の手だ。私は彼が欲しくて欲しくて堪らない。でも、決して彼を殺したくはない。
二律背反の感情が私を苦しめる。だと言うのに私の体の支配圏を握っているのは、私が選びたくない感情を持つ私だった。私は彼の顔に私のお尻を向けて、彼のズボンをずり降ろした。まろびでてきた強直に、私はむしゃぶりついていた。
美味しかった。
歯を食いしばって耐える彼の顔には、私の愛液が滴っている。私の汁を受けた彼の、亀頭からは次から次へと先走り液が溢れてくる。私(サキュバス)の愛液には、発情を促す効果がある。本当は彼の顔の唇で私の下の唇にキスをしてもらいたかったけれど、残念ながらそれはしてもらえなかった。
甘くて優しい、そうして少しだけホロ苦い、彼の味がした。
私は駄目だと分かっているのに、必死で自分の手綱を取り戻そうとしていたのに、そのあまりに新鮮に感じられた男の味に、彼の肉棒を吸い上げていたのは、紛れもなく私だった。
私の口の中いっぱいに彼の精(生)液が噴出した。私はそれを、喉を鳴らして飲んだ。精液とは、命の味とはこんなものだっただろうか、と私の心は驚きで満たされた。私は今までの心の渇きを忘れ、彼の精液で子宮を満たしたいという欲望に支配された。私はぐしょぐしょになったパンツを脱ぎ去り、彼の腰の上に仁王立ちになった。
彼は浅くか細い呼吸で私を見ていた。私がこのまま腰を下ろして搾れば、彼は果てると同時に死んでしまうだろう。それは嫌だったが、私はもう私を止められなくなっていた。
彼の命をこの胎にもうけたい。もうけて、この心の渇きを消し去ってしまいたい。そうすれば、そうすれば私は魔王になれなくてもいい。彼が欲しい。彼さえ手に入れば、私が魔王を目指す理由なんてなくなる。
でも、このまま彼を手に入れれば彼は死んでしまう。
……私はそれ以上のことを考えることはできなかった。
昂ぶり過ぎた私の感情と、まだ見ぬ快楽への期待に、私はゆっくりとその腰を、彼の命(肉)の柱に向かって降ろしていった。
「そこまでだ。お前はそれでいいのか?」
低く哀れみを湛えた声に、私は思わず振り向いていた。ドアが大きく開け放たれていた。
そこには、天使がいた。
ふっくらとした金髪。流麗な顔立ち。立派な体躯をした偉丈夫で、普段ならその逞しさに期待し、劣情を抱くところだったが、私は彼に向かってそんな気持ちを抱けなかった。私が欲しいのはクルスだ。愛しい彼の精をこの胎に迎え入れたい。
「天使などに邪魔されてたまるものか」
私は爪を振りかざし、陰部をむき出しにしたまま天使に襲い掛かった。私は相手の力量を量ることもせず、ただの魔の物として彼に襲い掛かった。
「無様な姿だな」
「あぐッ」
天使は他愛なく私の手首を掴むと、ベッドに向けて叩きつけた。そうして両手をひとまとめにして掴みあげると、私の腕は彼の腕から伸びてきた呪詛によって縛り上げられた。グイと上に向かって手を伸ばされ、私はのしかかってきた彼を蹴り飛ばそうとした。でも、彼の腹筋は堅く、ビクともしなかった。
「キャ!」
彼は容赦なく私の胸当てをはぎ取った。
ぶるんと私の自慢の乳房が剥き出しにされた。
「何をするつもり……まさか天使がサキュバスを犯そうってわけじゃないでしょうね」
「そのまさかだと言ったら?」
「吸い殺してやる。あなたが貧相なちんぽを私のまんこに入れた瞬間、全力で吸い尽くしてやる」
「できるものならな」
「あンッ!」
彼は私の乳房を揉みしだき、乳首をきつめに噛んだ。乱暴で容赦のない刺激に、快楽を貪るサキュバスであるはずの私は、少しだけ怖くなった。彼は自分のズボンを下ろした。思っていたよりも随分と大きい彼のペニスに、私は目を見開く。
まるでブロッケンのもののように大きい。でも、そんなペニスは今までに私は何度もこの膣に迎え入れてきた。私が怖気づく理由など一つもない。だと言うのに、この時ばかりはそれが、酷く怖ろしいことのように思えた。
「や、やめなさいよ」
「おや、怖気づいたのか?」
「天使がサキュバスを犯して無事で済むと思ってるの? その罪でちんぽが腐れて落ちるわよ」
私のはったりに、彼はクツクツと笑った。
「そうかもしれないな。だが、安心しろ。俺はもうとっくの昔に堕天している。それに、天使がサキュバスを苛んで、どうして罪になるのだと言うのだ」
そうして彼は私の入り口に自分の肉を触れさせた。
「や、嫌……やめて……」
「何故? お前が今まさにその人間にしようとしていたことではないか」
そう言われて私は彼を、クルスを見た。
彼の瞳は私を見ていた。天使に組み敷かれて今まさに強姦されようとしている私を見ていた。そして、彼の瞳は天使に向かって憤怒の色を帯びていた。しかし、彼は私に生命力を吸われて指一本動かすことができない。
「ごめん……なさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。謝るから許してください。別の場所でなら犯されてもいいから、彼の前で犯すことだけはやめてください。私は……私は……」
「そう言われた時、今までの男たちにお前は何と答えた」
私は口をつぐむしかなかった。
私は私に犯されようとしている男に向かって、
「止めるわけないじゃない。ばぁか」
そう言っていた。
私は私の肉の入り口に触れる天使の猛々しい亀頭の感触を感じつつ、それが私の中に押し入ってくることを覚悟した。セックスに嫌悪感を覚えたのは初めてだった。
だが、それは来なかった。
代わりに天使の問いかける声が聞こえた。
「お前はその男の前で犯されるのだけは嫌だと言ったな。それはどうしてだ。何か言いかけてもいたな。お前はその男をどう思っているのだ。その男をどうしたいのだ。サキュバスであるはずのお前が、人間であるはずのそいつに対して、犯して殺す以外のことを想っているのか」
「わた、私は……」
私は彼に対して何を思っているのだろう。
ふと、私は彼を見た。
私を案じる彼の瞳と目があった。
天使に組み敷かれ、今まさに犯されようとしていると言うのに、世界には私とクルスしかおらず、私と彼の時間は止まったように感じられた。こんな状況だと言うのに、私は頬が熱くなるのを感じた。
と。
クツクツと笑う声が聞こえた。
見れば、天使が笑っていた。
「その先は言わなくていい。その顔を見ればわかる。その先をここで言わせるほど俺も野暮じゃあない。……まさか、お前がな。それは予想外の出来事だ。俺はそこまで希望を持っていたわけではない。そうか。だからお前は暴走させられたのか。ああ、そうか……」
彼の言葉の響きは聞き覚えのあるものだった。
「あなた、まさか……ブロッケン……」
「ご名答」
そう言って彼は私の上から退き、元のバフォメットの姿に戻った。
「ふざけないでよぉ馬鹿ぁ」
「悪いな。だが、俺もふざけていたわけじゃない。お前、まだクルスに跨りたいか?」
「え……?」
そう言われて私は冷静になれた。私は私が彼にしたことを思い出した。私は彼を殺したくないと思いつつ、意に反して彼の精を口にして、彼を殺しかけた。
「あ、うああああああ!」
私は叫んだ。お腹の底から。私の中に居座っていた気味の悪い毒を声といっしょに吐き出そうとするかのように。でも、出てきたのはただの私の声だけだった。そうして私は気付く。
「ブロッケン! 彼は、彼を助けて。彼を死なせないで!」
ブロッケンはまるで駄々をこねるような私の姿に、一度だけ頷いた。
「ああ、まかせろ」
◆3 Mind
クルスは一命を取り留めた。
私は彼を殺さずにすんだ。
私は彼に近づくことを躊躇うようになった。
もしも彼に触れれば、抑えきれなくなった私の心と体が暴走して、彼に襲い掛かるかもしれない。そんなこと、私は二度とごめんだった。
私は認めざるを得なかった。
私は彼を好きになっていた。
ある時彼は無防備に私に近寄ってきた。
「どうして僕を避けているんだ?」
「何で、って!」
思わず声を荒げ、私は彼に掴みかかりそうなった。でも、掴みかかることはできなかった。あの時の彼の体温を思い出して、触れるだけで私は、彼を壊したくてたまらなくなりそうだったから。訝しげな表情の彼を残して、私は踵を返した。
荒野の道とも思えない道を三人で歩む。日は高く、空は白々しいまでに青々としている。降り注ぐ日光の中、サキュバスとバフォメットと、人間が同じ道を歩いている。この奇妙な同行を、私はブロッケンと二人だけの時、それなりに心地良く感じていた。クルスとあってからしばらくは、もっと心地良く、気持ちよくすら感じていた。
だと言うのに、今は、魔物と悪魔と人間が違うままで、同じ道にいることが、それだけでとても痛ましいことのように感じられてしまった。こうなって初めて、今までが心地良かったのだと私は分かった。
荒野には大小様々の石が転がっていて、私のヒールに伝わってくる感触は、一歩ずつ違う。そんなことにも私は気がつかず、ずっと踏みつけにしていたのだと思えば、どうにも悲しくなった。疎らな草本は立ち枯れていて、大地から天に伸ばした悪あがきの手のようだった。
やがて小高い丘を越えれば、灰色だった大地に色がついた。
その端は短い草地で、徐々に丈が高くなり、木々が生い茂っているのが見えた。どうやら水があるらしい。
「水浴びが出来るかしら」
私は誰ともなしに言い、足を速めた。
木立の奥には水浴びにおあつらえ向きの泉があった。私はそこに剥き出しの肢体を沈める。水はひんやりと心地良くて、私の心を慰めてくれるようだった。私は文字通り水を弾く滑らかな自分の肌を撫でる。肩、腕、乳房、腰、尻、足。どこを触っても吸いつくようなみずみずしさで、人間には無理だと思えるような美貌だった。男たちを快楽の果てに吸い殺すこの体が、私の自慢だった。でも、今の私にはそんな風には思えなかった。
これはただの凶器だ。
好きになった相手と愛し合うことも出来ない。剥き出しの刃だった。
私はこんなものを好き勝手に振りかざして悦に入っていたのかと思うと、どうしようもなく空虚な気持ちに陥った。私の気持ちはまるで、蟻に千切りとられていく羽虫の死骸のようだった。端から少しずつ少しずつ、削り取られていく。
私には胸の渇きよりも、その痛みの方が強かった。
私は自分の体を強めに擦った。
私のこの体は男たちの劣情と命で作られている。それを洗い流すことなど出来るはずもないというのに……。
「随分参っているようだな」
「ブロッケン……」
異形の悪魔が姿を見せた。
「……レディの水浴びを覗くなんて不作法ね」
私の言葉に彼は呆気にとられたようだった。
私も自分の言葉に驚いた。水浴びを覗かれて悦ぶサキュバスはいるとすれ、咎めるサキュバスなんて聞いたことがなかった。笑われるだろうと私は思っていたのだけれど、私の意に反して彼は頭を下げた。
「悪かった。この前はやりすぎた」
悪魔よりも悪魔らしい、山羊の頭を下げられると、私は少し吹きだしてしまった。
「何だ。別にお前を笑わせようと思ったわけじゃないぞ」
「ごめんなさい。あなたのそんな顔は初めて見たものだから」
「そうか」と言って彼は山羊の顎をゴリゴリとかいた。
「荒療治が必要かと思ったのだが、その必要はなかったらしい」
山羊の瞳に、私の顔が写っていた。美貌のサキュバスの顔だった。
「ねえブロッケン」私は気を取り直して水浴びを続ける。
「何だ」彼は私が水浴びをする光景を、何かの絵でも見るかのような顔で見ていた。それとも、描きかけのキャンパスだろうか。その視線に、悪い気はしなかった。
「どうして魔物は人間を殺すの?」
彼は黙っていた。
「ブロッケン?」
「…………」
「私何か変なこと聞いた?」
「…………ああ」
彼を見れば、山羊の顔が笑みの形に歪んでいた。それは泣き笑いの表情にも見えて、あの夜の天使の姿が重なった。
「あの時の天使の姿って、あなたの何なの? 悪魔が天使の姿に化けるのはおかしな事じゃないかもしれないけれど……、なぜあなたはあの姿になったの?」
「あれが昔の俺の姿だと言えば、お前は驚くか?」
「あなたは昔天使だったの?」
「ああ。ずっと――昔にな」
「ふぅん……。あなたは何を知ってるの?」
「…………世界の仕組みを」
「それは何?」
「主神の定めたロクでもない摂理だ」
「それが、魔物が人間を殺す理由なの?」
「そうだ」
「それは……」
私は水から上がり、魔法で自らの体を乾かす。湿気が抜けた髪をかき上げれば、それはふわりと花のように広がった。服を着る。いつもの服であるはずなのに、初めて袖を通すような新鮮さがあった。
私はブロッケンの前に立つ。彼の瞳を真っ直ぐに見れば、彼はまるで神殿を守る彫像のような面持ちで私を見返した。
「そのロクでもない摂理と言うのは、もしも私が魔王になれば変えられるの? それとも、どうしても変えられないの?」
私の問いかけに彼は口を開かなかった。本物の彫像のようにただジッと私を見ていた。彼の中でどんな逡巡があったのか分からない。彼の沈黙はまるで、種が芽吹いて成長し、それが花開き、そして、種を作って枯れていくまでの、長い時間だったように思えた。でも、それはきっと、まるで瞬きのうちに過ぎ去るような、わずかな時間だったに違いない。
彼は口を開いた。
「俺には分からない。だが、そうあって欲しいと希望を持っている」
悪魔の口から希望と言う言葉を聞いて、私は滑稽さよりもむしろ沈痛な願いとして受け取った。あの天使の姿で言われるよりもよっぽど、それは“本物”だと思えた。
「だったら私の隣で見てなさい。私が魔王になって、そのくだらない摂理なんてものを覆してやるんだから」
見つめ合った彼の瞳は、その時ようやく何かを見つけたという安堵に覆われて、
「ああ。俺の希望はお前に託そう」
彼はそう言った。
私は木立の中に足を踏み入れる。
藪が茂っている。木漏れ日が雨のように体に降り注いでくる。どこからか花の香りがする。それは伴侶を求める香りなのか、それとも獲物を探す香りなのか。私はクルスが待っているはずの方角に進むことにした。
そんな私の後ろから声が投げかけられた。
「あいつと結ばれたらいいな」
その言葉にも私は立ち止まらない。ただ、振りかえることはできずに、
「うるさい。でも、そんなの……、当たり前じゃない」
私の頬は熱かった。
◇4 World
最近彼女は僕を避けている。
僕はその理由を尋ねたが、それが白々しい問いだったということは知っている。
あの夜の出来事が原因で……いや、あれは原因ではなく過程だったに過ぎない。原因はもっと前からだ。あれは、気付かされただけだった。
僕も彼女も。
僕らはお互いを好きになっていた。
僕は、彼女に初めてあった時から彼女が気になっていた。
僕はあの牢屋に現れたサキュバスである彼女を、死神であると同時に女神のように思った。美しかった。ロクでもない摂理に抗おうとして、将来を誓った婚約者を見殺しにした僕だったけれども、もはや人を好きになることはないと思っていた僕だけれど、彼女を見た時、人は誰かを好きにならなくてはいられないのだと思った。
僕は、運命に出会ったと思った。
彼女は人間ではなくサキュバスだったけれど、愛すべき誰かには違いない。
それでも僕は人間で彼女は魔物だ。
結ばれるはずがない。
僕らはただ僕らが僕らであるだけで、殺し合う運命だった。
でも好きになったことは否定できない。
それを否定するのは、それこそ摂理に屈することになるのだから。
この世界はいつか変わるのだろうか。
この世界を作り上げた主神が定めたルール。
それが変わってくれるのならば、僕が彼女と結ばれるのならば、僕の『世界』は壊れてしまってもいい。僕はそう思ってしまっていた。
「ねえ、クルス」
思考の微睡に揺蕩っていた僕は、彼女の声によって引き戻された。
水浴びをしてくると言っていたけれども、彼女の髪も体もすっかり乾いていた。それを残念に思っている僕を、僕は少しだけ可笑しく思う。
「もういいの?」
「ええ」
そう答える彼女に、僕は立ち上がる。交代で僕も水浴びをして来ようと思ったのだ。
彼女の戻ってきた方に水場があるのだから、僕は必然的に彼女の方に歩いていく。しかし、最近の常として、逃げるように僕を避ける彼女だったけれど、この時だけは道をあけずにそこに立っていた。
「どうしたの……え?」
僕は彼女に抱きすくめられた。僕の体は驚きのあまりに強張った。彼女の体は柔らかく、その香りは水浴びをしたことで、混じりっ気のない彼女だった。豊満な体がきつく僕の体に押し当てられ、それだというのに生花を握りつぶさないような慎重さがあった。僕はここまで体が細くなってしまったけれど、元勇者候補だ。彼女と同様に、体の頑丈さは見た目通りじゃない。でも、そんなことを彼女に伝えることも、そう言って笑うことも、僕にはできなかった。
なぜなら、彼女は震えていた。
僕は震える彼女の心を抱きとめようと思って、自分の手を彼女の背中に回そうとした。しかしその前に彼女は僕から離れてしまった。彼女は頬を染め、舌を出した。
「触ってやったわよ。吸精もせず、あなたを傷つけることもせず、私は触ってやった」
得意がる彼女の顔は無邪気な少女のようだったけれど、微かな笑みを残して僕をまっすぐに見た彼女の瞳は力強いものだった。
「私は魔王になる。魔王になってこの世界を変える。だからあなたも手伝いなさい。魔物と人間で世界を変えてやるの。主神の摂理なんて目じゃないわ」
そんな彼女の瞳に吸い込まれそうになりながら僕が彼女を見ていると、声が聞こえた。
「おいおい、そこに俺はいないのかよ」
ブロッケンだった。
彼女は僕から眼を放し、そして彼も映した。
「もちろんいるわ。魔物(私)と人間(彼)と悪魔(あなた)で仕組みを変えるの。これはもう決定事項よ。文句はないわよね」
僕は彼女に向かって笑いかける。「文句はない。僕は君についていく」
ブロッケンは山羊の歯を見せる。「お前こそ泣き言を言うんじゃないぞ」
「あったり前じゃない!」
僕はその時何かが崩れる音を聞いた気がした。それはまるで祝福を告げる鐘の音のようで、木立に囲まれた木漏れ日を浴びて、魔物と人間と悪魔の、それらが決して結ばれることがないように、と主神が定めたはずの、摂理に反したパーティがここに結成された。
僕らは手を重ね、彼女を魔王にすることを誓ったのだった。
でも、それは叶わぬ願いだった。
終わりはあっけなくやってきた。
数か月後、彼女が倒れることになる。
◆1 Races
村の男たちを襲い、体の疼きが治まっても、私の渇きは収まらなかった。これまで満たされるセックスなんてものはしたことはなかったけれど、していて悲しくなるセックスなんてものは初めてだった。私は二人と別れ、自分にあてがわれた部屋に戻ってから、どうにかこの渇きを紛らわそうと、ひたすら自分を慰めていた。
多分、これだけの短時間で、自慰で迎えた絶頂の数としては最高記録だ。
でも、どれだけしたところで私のこの渇きは潤うどころかさらに乾いていくだけだった。私は自分の蜜壺をかき混ぜる度、心の水分をどんどん排出していたらしい。私の心は流出して、もはや渇きではなく空洞と言ってもいいくらいに削れていた。
それもこれもあいつのせいだ。
あいつが、私をあんな眼で見ていたから。
私が村の男たちを吸い殺していく光景を、あの無機質な瞳で見ていたからだ。男たちの精液を受ける度、満たされなくとも快楽自体は感じていたというのに、いつもは温かいはずの精液が、どうしようもなく冷たく感じた。
男が事切れる度に、あいつの視線を私は肌で感じた。
それがどうしようもなく痛かった。
今だって、私は自分を慰めて絶頂を迎える度に、あいつの顔がチラついた。それを繰り返し過ぎて、脳髄には針であいつの顔を刻み込んだような感覚すら覚える。
あいつのせいだ。
あいつのせいで強くなったこの渇きは、あいつでなければ潤わない。
いや、あいつに贖わせてやる。
私は、サキュバスである私があいつの精液を吸えば、あいつを吸い殺すことになるのを知っていながら、勿体ないと思っていたくせに、私はそれを忘れ、意固地にそう思った。
私は胸の空洞に耐え切れず、それを埋め合わせる何かを求めて、あいつを選んでいた。
それはサキュバスが性交相手を探すという求めではない。
それは女が男を求めていたわけではない。
それは、まるで寂しさのあまりに人肌を求める、ぐずった子供のような行為だったに違いない。
私は彼の眠る部屋のドアを開け、彼のベッドの横に立った。
青い月明かりがさしていた。窓からの直線的な光は闇を、蒼く、ただ蒼く静かにさしていて、彼の顔に降り注いでいた。漂う埃は、細やかな光の粒子となって、彼を讃えているようにも見えた。
私は彼を襲いに来たことも忘れ、その寝顔に、呆けたように見入ってしまった。恐怖を感じていない人間とは、こんなにも安らかに眠れるものなのだろうか。彼とともに行動するようになってからしばらく経っているが、こうもマジマジと彼の顔を、寝顔を見ることは初めてだった。
その顔を見ていた私の前に、今日吸い殺した村の男たちの顔が浮かんできた。私に魅了の魔法をかけられていた彼らは、私に向かって劣情を催した表情をしていた。だらしなく涎を垂らし、果てる時には一層顔を淫らに歪めて死んでいった。そんな彼らも、こうして家の中で眠る時には、今のクルスのような顔をすることがあったのだろうか……。そして、彼らの妻と床を共にする時には、私を犯した時の顔とは別の表情を見せたのだろうか。
しかし、こうしてあどけない表情で眠るこいつの寝顔の安らかさには敵わないと私は思った。こいつの顔は私が今日吸い殺した男たちの顔立ちよりも、明らかに線が細くて可愛らしい。あの青年よりも、あの中年が若い頃よりも、あの少年が成長した後よりも、誰よりも可愛らしいだろう。
と、私は自分があまりにもおかしなことを考えていることに気づいて愕然とした。私は、なぜ彼らの顔を覚えていたのだろう。私は、なぜ彼らの顔を一つ一つの顔として思い出せたのだろう。私は、人間たちの顔など区別がつかなかったはずなのに。
…………それもこいつのせいだ。
私はこいつをおかしな人間だと思って、彼の動きをいつしか目で追っていた。
グリズリーだけでなく、肉を食べる時、彼は毎度指についた脂をしゃぶった。食べるのが下手らしい。歩くとき、こいつは私の左側にいることが多かった。こいつは本ばかり読んでいたからか、多くの薬草を知っていた。そのおかげで、随分短い間に私の料理のレパートリーが増えた。こいつは、私とブロッケンが交わっている時には気まずそうに席を外す、私が水浴びをしていれば謝りつつ逃げていく。
その様子は、初めて会った時の無機質な瞳、祈るような姿に反しいて、私は気持ちよく感じていた。認めよう、私はそうした彼を見て、楽しいと思っていた。
だというのに、彼は今日、初めて会った時の瞳で、私が村人の男たちを次から次へと吸い殺していく光景を、ただ見ていた。まるで観察するように、まるで私はそういう女なのだと自分に思い込ませるように。
私はそんな風に私を私を見てもらいたくなかった。私は彼らを殺したくて殺しているわけではないのだから。むしろ私は……。
「……え?」
と、私は自分の思考に眼を見開いた。
「わた……し、」
私は、私は……。男たちを殺したくなかった?
初めて上がってきた言語化された思考に、腹の底にわだかまる冷たさを感じながら、私はただただ打ちのめされるように驚愕していた。
私は彼らを殺したくて殺していたわけではない。私が心の渇きを満たそうと、性欲を満足できるまで満たそうと、体のよく分からない疼きを満たそうとすると、彼らは死んでしまうのだ。私は決して彼らを殺したかったわけではない。私は彼らに死なれずに、ずっと交わっていたかった。
ああ、と私は嘆息した。
私はただ、サキュバスとして、誰か一人、私を満足させてくれる男に出会いたいのだ。私は、魔王になりたかったわけではないのかもしれない。
と、彼が「う……、ん」と声をあげた。
いつの間にか彼の頬に手を当てていた私は、慌ててその手を引っ込めた。彼の頬は夜気に当てられてひんやりとしていたけれど、彼に触れていた私の指は、どうしてか熱いくらいに暖かかった。
彼の眼が開く。
私はそれを、祈るような気持ちで見ていた。あの無機質な目ではありませんように、と。
「サリー……?」
開いた目は、今まで視た彼の中で一番柔らかな色を湛えていて、私はいくつかの複雑な感情を抱いた。彼はそんな私に構わず、寝ぼけているようで、言葉を続けた。
「どうしたんだ? 僕の寝顔なんて見ていても面白くないだろうに……」
そう言って彼は私の頬に手を伸ばしてきた。私の髪をかきわけて、頬に直接手の平でふれてきた。その触り方はとても優しくて、私が一度もされたことのない触り方だった。
私は彼に頬を撫でられるままになっていて、彼は寝ぼけた様子で私の頬を撫でていた。大人しくされるがままというのは私の性には合わなかったのだけれど、私はこの時がずっと続けばいいと、まるで夢見る少女のような感情を抱いていた。
淡く儚い素敵な時間は、やはり淡雪が溶けるように終わってしまった。
「君か……僕を殺しに来たの?」
彼は焦点のあった瞳で、私の頬から手を引っ込めた。
急に冷え込んだ頬の温度と彼の瞳に、私は再び心の渇きを覚えた。
「…………サリーって誰?」
私は彼の問いには答えず、問いを返してやった。それは多分女の名前だ。
彼は一瞬だけキョトンとした顔をして、少し逡巡したようだったけれど、答えてくれた。
「僕の婚約者だった」
「……別れたの?」
「殺された」
彼の感情を押し殺したその声の響きに、私は責められているような気がした。
「もしかして、私たちが殺したの?」
私の問いかけに、彼の瞳が少しだけ柔らかくなった。
「魔物でもそんな顔をするんだ」
私はどんな顔をしていたのだろう。
――君はそうやって人を殺すんだね。――そんな顔で。
今日彼に言われた言葉が蘇ってきた。でも、あの時の響きとは別であるように感じた。
「大丈夫。彼女は君たちには殺されていない。彼女が殺されたのはもっと前で……、僕に助けを求める彼女に、拷問と凌辱を加えて殺したのは、僕の父だった」
「……どう、してよ……」
私から自分でも聞いたことのないような声が漏れていた。
彼は不思議そうな顔で私を見ていた。
「どうしてそんな顔で、自分の婚約者が殺されたなんて言えるのよ。あなたは……」
人間でしょう。
と言いそうになって、私はその言葉を飲み込んだ。それは彼を傷つけるだけのような気がしたから。
「そうだね。だから父も僕のことを諦めた。彼女を殺してから、彼は僕に構わなくなった」
「私はそう言うことを聞いているわけじゃない!」
私は思わず彼に怒鳴りつけ、その胸ぐらを掴んでいた。寝ぼけていた時には優しげな色を浮かべていたというのに、今の彼の瞳は、まるで生きているということすら疑いたくなるような瞳だった。冷えきって……道端の石ですらもっと温かみがあると思う。
あんな目を出来るはずの彼の今の有様に、私は分けも分からず、どうしようもない憤りと悲しみを感じた。
「君は、もしかして、泣いているの……」
「は……? 何を言って……。え……?」
私は頬を触った時の濡れた感触が、信じられなかった。
彼は私の頬を触った。優しかったけれど、先ほどとは違って、少しだけぎこちない感じで、私はそれをとても嬉しく感じた。
「ごめん。不快だったら止める」
「……不快じゃないから謝らないでよ」
「……ごめん。わかった」
「だから、謝るな……って、言ってんでしょお」
彼の謝罪の言葉で、私の頬はさらに濡れた。魔物に向かって「ごめん」なんて言える彼が、今初めて泣けたような私と違って、ちゃんと豊かな感情のある人間であるはずの彼が、あんなに優しい顔と声、そして手つきで愛おしんだ相手を、目の前で惨たらしく殺された。それでも「魔物を殺さない」という信念を曲げなかったことが、とても、耐えきれない痛みとして、私には思えたからだった。
「…………あなたは何で魔物を殺さないの?」
私は零れ落ちる涙をそのままに、彼に尋ねずにはいられなかった。
「僕は僕だから。人間である前に、僕だから」
「意味が分からないわ。あなたのその姿は、確かに人間とはかけ離れているように思えるけど……」
「そうか。それは嬉しい。魔物の君から言われるならば尚更だ」
そう言って彼は、柔らかく微笑んだ。
私はその顔に、間違いなくドキリとした、と思うんだ。
だからこれは照れ隠しだったのだろう。私は無理矢理自分の涙を拭って止めると、彼に呆れ顔を向けてやる。わざとらしくとも構いはしない。
「変な人間。それから――」と、私は言う。こんなのは本当に私らしくはない。私はこいつに、クルスに出会ってから調子を崩されっぱなしだ。
「私は私よ。魔物でサキュバスだけど、その前に私よ。だから、あなたには私の名前を教えてあげる」
私は彼の耳元に口を寄せる。サキュバスの矜持として、彼のおちんちんが反応せずにはいられないような甘い吐息で、声を濡らしながら。
「私の名は と言うの」
顔を放した私は鼻を動かし、満足げに頬を吊り上げてやる。彼は平静を装っているようだったが、勃起したことはごまかせない。彼がちゃんと反応してくれたことに安堵しつつ、私は今までに感じたことのない誇らしさまで感じて、彼に一矢報いてやったような気になれた。
しかし彼は、
「可愛らしい名前だね」
私の眼を見てそう言った。
「どうして顔を逸らすんだ」
「黙りなさい。私が何処を見ようと私の勝手でしょ」
悔しい。一矢報いたと思えばやり返される。でも、悔しさ以外のものを感じているのはどうしてだろう。私はこの気持ちの名前を“知らない”。
私は気を取り直して彼に向き直る。
「でも一つ言っておくけど、私のことは名前で呼ばないで」
「何故? 可愛らしいじゃないか」
「……だから黙りなさい、って。だからよ。人間たちから怖れられるべきサキュバスの私が、そんな可愛らしい名前だってことを知られると、箔がつかないじゃない。それに、私は魔王になる女よ。誰にも彼にも名前を知られて、気安く呼ばれていい存在じゃない」
「だったら、僕は君にとって特別、と思ってもいいのかな」
「…………ええ。だから、もうこれ以上この話はやめにしましょう」
「君の名前が可愛らしいって話を? それに、君は自分でも自分の名前を可愛らしいと思っているらしい。確かに可愛らしいけれども」
「黙りなさいって言ってるでしょ! いい加減に黙らないとその口を唇で塞ぐわよ。それでそのまま吸い殺してやる」
私は勢い、冗談でそれを言った。本当に、言わなきゃ良かった。それを言ったせいで、私はこの夜、彼を殺しそうになったのだ。
私のその言葉に、彼は静かに首を振った。
「ごめん。僕は、君に殺されるわけにはいかなくなった。さっきまで僕はサキュバスの君に殺されることは仕方のないことだと思っていた。だけど僕は、たった今、君に殺されるわけにはいかなくなった」
彼は柔らかい色をした瞳に、私の顔を映していた。
「僕は君が好きになってしまった」
その瞳の中に映った、月明かりの仄かな青白さを帯びている私の顔が、恥じらいの形をとるところが見えた。私のそんな顔に一番驚いたのは私で、私はどれだけの男たちと肌を重ねても収まることのなかったこの渇きが、少しだけ収まってくれたような気がして――
私の胸がズキンと痛んだ。
◆2 Heart
「あッ、ぐ、あ、……あ」
私はその痛みに耐えかねて胸を抑えた。床に倒れて体を抱く。
痛い。アツい。苦しい。辛い。泣きたい。
あまりにも激しい、心臓を鷲掴みにされたような痛みに、私は声を出すこともできなかった。何だこれは。人間の戦士に腕を斬りおとされた時のほうがまだマシだった。痛い痛い痛い。まるで焼けた鉄杭で体の中から焼かれているよう。苦悶の声は嗚咽にすらならない。毒? そんなものを口にした覚えはない。でも、毒を飲んだというのが、とてもシックリくる表現に思えた。
私は私の中から苛まれる。私は内臓の全てをぐずぐずに溶かされるような激烈な痛みの中、私の体を抱く彼の感触を感じた。私を案ずる彼の声を聞いた。それが私の体の表面から内部に向かって沁み渡った瞬間、私は思った。
ああ、人間だ。
ああ、餌だ。
人間は食べなくては、人間は殺さなくては、人間は犯さなくては。
何せ私は魔物(サキュバス)なのだから。
私は蕩けた笑みを浮かべて、私を案じて抱いていた彼を押し倒す。押し倒してその上にのしかかる。やめろやめろやめろ。私は何をするつもりだ。私は彼の服を、自らの爪で引き裂いた。彼の美しく白い胸板が露わになった。薄皮一枚が切れた彼の皮膚から、宝石のような血の雫が滲んだ。
私はそれに舌を付けた。
ピチャピチャと。彼の胸板に舌を這わせ、その血をなめとっていた。私はその行為に嫌悪感を覚えたけれども、私の体は彼の血の香りと味に、昂ぶっているようだった。私の股は濡れた。彼は自らの肌を這う粘膜の感触に、歯を食いしばって耐えているようだった。私が顔を起こして彼を見れば、彼は私を見ていた。
頬が赤く上気していたけれども、私は全く心地良く感じられなかった。彼の瞳はあの無機質な瞳ではなかった。悲しげな瞳だった。そこに淫らで嗜虐的な私の顔が写っていた。
やめてやめてやめて。
そんな顔で私を見ないで。私は、そんな顔で彼を見ないで。
私は自由にならない私の体に、咽喉も張り裂けんばかりに懇願した。けれども、私の口からそんな言葉は出てくれなかった。
「おいしそう。人間、私が吸い殺してあげる」
違う。私はそんなことを思ってはいない。確かに彼とは交わってみたい。彼の精液を胎のいちばん深くで感じてみたい。だけど、それをしたら彼を殺してしまう。だから私はそれが一番したいことだったけれど、一番したくないことだった。
「僕は今の君になら殺されてもいいよ」彼はそう言った。
ダメ。やめて。これは私じゃない。私だけれど私じゃない。逃げて。クルス。私に殺されないで。私の悲痛な叫びはやはり声にはなってくれない。
「んふ。可愛い子」
私は自分でもゾッとするくらいの淫靡な濡れた声を出して、膨らんだ彼の股間を撫でる。ビクビクと震える肉の感触は、私が今まで味わった男たちのものよりも、ずっと熱く感じた。いや、熱いのは私の手だ。私は彼が欲しくて欲しくて堪らない。でも、決して彼を殺したくはない。
二律背反の感情が私を苦しめる。だと言うのに私の体の支配圏を握っているのは、私が選びたくない感情を持つ私だった。私は彼の顔に私のお尻を向けて、彼のズボンをずり降ろした。まろびでてきた強直に、私はむしゃぶりついていた。
美味しかった。
歯を食いしばって耐える彼の顔には、私の愛液が滴っている。私の汁を受けた彼の、亀頭からは次から次へと先走り液が溢れてくる。私(サキュバス)の愛液には、発情を促す効果がある。本当は彼の顔の唇で私の下の唇にキスをしてもらいたかったけれど、残念ながらそれはしてもらえなかった。
甘くて優しい、そうして少しだけホロ苦い、彼の味がした。
私は駄目だと分かっているのに、必死で自分の手綱を取り戻そうとしていたのに、そのあまりに新鮮に感じられた男の味に、彼の肉棒を吸い上げていたのは、紛れもなく私だった。
私の口の中いっぱいに彼の精(生)液が噴出した。私はそれを、喉を鳴らして飲んだ。精液とは、命の味とはこんなものだっただろうか、と私の心は驚きで満たされた。私は今までの心の渇きを忘れ、彼の精液で子宮を満たしたいという欲望に支配された。私はぐしょぐしょになったパンツを脱ぎ去り、彼の腰の上に仁王立ちになった。
彼は浅くか細い呼吸で私を見ていた。私がこのまま腰を下ろして搾れば、彼は果てると同時に死んでしまうだろう。それは嫌だったが、私はもう私を止められなくなっていた。
彼の命をこの胎にもうけたい。もうけて、この心の渇きを消し去ってしまいたい。そうすれば、そうすれば私は魔王になれなくてもいい。彼が欲しい。彼さえ手に入れば、私が魔王を目指す理由なんてなくなる。
でも、このまま彼を手に入れれば彼は死んでしまう。
……私はそれ以上のことを考えることはできなかった。
昂ぶり過ぎた私の感情と、まだ見ぬ快楽への期待に、私はゆっくりとその腰を、彼の命(肉)の柱に向かって降ろしていった。
「そこまでだ。お前はそれでいいのか?」
低く哀れみを湛えた声に、私は思わず振り向いていた。ドアが大きく開け放たれていた。
そこには、天使がいた。
ふっくらとした金髪。流麗な顔立ち。立派な体躯をした偉丈夫で、普段ならその逞しさに期待し、劣情を抱くところだったが、私は彼に向かってそんな気持ちを抱けなかった。私が欲しいのはクルスだ。愛しい彼の精をこの胎に迎え入れたい。
「天使などに邪魔されてたまるものか」
私は爪を振りかざし、陰部をむき出しにしたまま天使に襲い掛かった。私は相手の力量を量ることもせず、ただの魔の物として彼に襲い掛かった。
「無様な姿だな」
「あぐッ」
天使は他愛なく私の手首を掴むと、ベッドに向けて叩きつけた。そうして両手をひとまとめにして掴みあげると、私の腕は彼の腕から伸びてきた呪詛によって縛り上げられた。グイと上に向かって手を伸ばされ、私はのしかかってきた彼を蹴り飛ばそうとした。でも、彼の腹筋は堅く、ビクともしなかった。
「キャ!」
彼は容赦なく私の胸当てをはぎ取った。
ぶるんと私の自慢の乳房が剥き出しにされた。
「何をするつもり……まさか天使がサキュバスを犯そうってわけじゃないでしょうね」
「そのまさかだと言ったら?」
「吸い殺してやる。あなたが貧相なちんぽを私のまんこに入れた瞬間、全力で吸い尽くしてやる」
「できるものならな」
「あンッ!」
彼は私の乳房を揉みしだき、乳首をきつめに噛んだ。乱暴で容赦のない刺激に、快楽を貪るサキュバスであるはずの私は、少しだけ怖くなった。彼は自分のズボンを下ろした。思っていたよりも随分と大きい彼のペニスに、私は目を見開く。
まるでブロッケンのもののように大きい。でも、そんなペニスは今までに私は何度もこの膣に迎え入れてきた。私が怖気づく理由など一つもない。だと言うのに、この時ばかりはそれが、酷く怖ろしいことのように思えた。
「や、やめなさいよ」
「おや、怖気づいたのか?」
「天使がサキュバスを犯して無事で済むと思ってるの? その罪でちんぽが腐れて落ちるわよ」
私のはったりに、彼はクツクツと笑った。
「そうかもしれないな。だが、安心しろ。俺はもうとっくの昔に堕天している。それに、天使がサキュバスを苛んで、どうして罪になるのだと言うのだ」
そうして彼は私の入り口に自分の肉を触れさせた。
「や、嫌……やめて……」
「何故? お前が今まさにその人間にしようとしていたことではないか」
そう言われて私は彼を、クルスを見た。
彼の瞳は私を見ていた。天使に組み敷かれて今まさに強姦されようとしている私を見ていた。そして、彼の瞳は天使に向かって憤怒の色を帯びていた。しかし、彼は私に生命力を吸われて指一本動かすことができない。
「ごめん……なさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。謝るから許してください。別の場所でなら犯されてもいいから、彼の前で犯すことだけはやめてください。私は……私は……」
「そう言われた時、今までの男たちにお前は何と答えた」
私は口をつぐむしかなかった。
私は私に犯されようとしている男に向かって、
「止めるわけないじゃない。ばぁか」
そう言っていた。
私は私の肉の入り口に触れる天使の猛々しい亀頭の感触を感じつつ、それが私の中に押し入ってくることを覚悟した。セックスに嫌悪感を覚えたのは初めてだった。
だが、それは来なかった。
代わりに天使の問いかける声が聞こえた。
「お前はその男の前で犯されるのだけは嫌だと言ったな。それはどうしてだ。何か言いかけてもいたな。お前はその男をどう思っているのだ。その男をどうしたいのだ。サキュバスであるはずのお前が、人間であるはずのそいつに対して、犯して殺す以外のことを想っているのか」
「わた、私は……」
私は彼に対して何を思っているのだろう。
ふと、私は彼を見た。
私を案じる彼の瞳と目があった。
天使に組み敷かれ、今まさに犯されようとしていると言うのに、世界には私とクルスしかおらず、私と彼の時間は止まったように感じられた。こんな状況だと言うのに、私は頬が熱くなるのを感じた。
と。
クツクツと笑う声が聞こえた。
見れば、天使が笑っていた。
「その先は言わなくていい。その顔を見ればわかる。その先をここで言わせるほど俺も野暮じゃあない。……まさか、お前がな。それは予想外の出来事だ。俺はそこまで希望を持っていたわけではない。そうか。だからお前は暴走させられたのか。ああ、そうか……」
彼の言葉の響きは聞き覚えのあるものだった。
「あなた、まさか……ブロッケン……」
「ご名答」
そう言って彼は私の上から退き、元のバフォメットの姿に戻った。
「ふざけないでよぉ馬鹿ぁ」
「悪いな。だが、俺もふざけていたわけじゃない。お前、まだクルスに跨りたいか?」
「え……?」
そう言われて私は冷静になれた。私は私が彼にしたことを思い出した。私は彼を殺したくないと思いつつ、意に反して彼の精を口にして、彼を殺しかけた。
「あ、うああああああ!」
私は叫んだ。お腹の底から。私の中に居座っていた気味の悪い毒を声といっしょに吐き出そうとするかのように。でも、出てきたのはただの私の声だけだった。そうして私は気付く。
「ブロッケン! 彼は、彼を助けて。彼を死なせないで!」
ブロッケンはまるで駄々をこねるような私の姿に、一度だけ頷いた。
「ああ、まかせろ」
◆3 Mind
クルスは一命を取り留めた。
私は彼を殺さずにすんだ。
私は彼に近づくことを躊躇うようになった。
もしも彼に触れれば、抑えきれなくなった私の心と体が暴走して、彼に襲い掛かるかもしれない。そんなこと、私は二度とごめんだった。
私は認めざるを得なかった。
私は彼を好きになっていた。
ある時彼は無防備に私に近寄ってきた。
「どうして僕を避けているんだ?」
「何で、って!」
思わず声を荒げ、私は彼に掴みかかりそうなった。でも、掴みかかることはできなかった。あの時の彼の体温を思い出して、触れるだけで私は、彼を壊したくてたまらなくなりそうだったから。訝しげな表情の彼を残して、私は踵を返した。
荒野の道とも思えない道を三人で歩む。日は高く、空は白々しいまでに青々としている。降り注ぐ日光の中、サキュバスとバフォメットと、人間が同じ道を歩いている。この奇妙な同行を、私はブロッケンと二人だけの時、それなりに心地良く感じていた。クルスとあってからしばらくは、もっと心地良く、気持ちよくすら感じていた。
だと言うのに、今は、魔物と悪魔と人間が違うままで、同じ道にいることが、それだけでとても痛ましいことのように感じられてしまった。こうなって初めて、今までが心地良かったのだと私は分かった。
荒野には大小様々の石が転がっていて、私のヒールに伝わってくる感触は、一歩ずつ違う。そんなことにも私は気がつかず、ずっと踏みつけにしていたのだと思えば、どうにも悲しくなった。疎らな草本は立ち枯れていて、大地から天に伸ばした悪あがきの手のようだった。
やがて小高い丘を越えれば、灰色だった大地に色がついた。
その端は短い草地で、徐々に丈が高くなり、木々が生い茂っているのが見えた。どうやら水があるらしい。
「水浴びが出来るかしら」
私は誰ともなしに言い、足を速めた。
木立の奥には水浴びにおあつらえ向きの泉があった。私はそこに剥き出しの肢体を沈める。水はひんやりと心地良くて、私の心を慰めてくれるようだった。私は文字通り水を弾く滑らかな自分の肌を撫でる。肩、腕、乳房、腰、尻、足。どこを触っても吸いつくようなみずみずしさで、人間には無理だと思えるような美貌だった。男たちを快楽の果てに吸い殺すこの体が、私の自慢だった。でも、今の私にはそんな風には思えなかった。
これはただの凶器だ。
好きになった相手と愛し合うことも出来ない。剥き出しの刃だった。
私はこんなものを好き勝手に振りかざして悦に入っていたのかと思うと、どうしようもなく空虚な気持ちに陥った。私の気持ちはまるで、蟻に千切りとられていく羽虫の死骸のようだった。端から少しずつ少しずつ、削り取られていく。
私には胸の渇きよりも、その痛みの方が強かった。
私は自分の体を強めに擦った。
私のこの体は男たちの劣情と命で作られている。それを洗い流すことなど出来るはずもないというのに……。
「随分参っているようだな」
「ブロッケン……」
異形の悪魔が姿を見せた。
「……レディの水浴びを覗くなんて不作法ね」
私の言葉に彼は呆気にとられたようだった。
私も自分の言葉に驚いた。水浴びを覗かれて悦ぶサキュバスはいるとすれ、咎めるサキュバスなんて聞いたことがなかった。笑われるだろうと私は思っていたのだけれど、私の意に反して彼は頭を下げた。
「悪かった。この前はやりすぎた」
悪魔よりも悪魔らしい、山羊の頭を下げられると、私は少し吹きだしてしまった。
「何だ。別にお前を笑わせようと思ったわけじゃないぞ」
「ごめんなさい。あなたのそんな顔は初めて見たものだから」
「そうか」と言って彼は山羊の顎をゴリゴリとかいた。
「荒療治が必要かと思ったのだが、その必要はなかったらしい」
山羊の瞳に、私の顔が写っていた。美貌のサキュバスの顔だった。
「ねえブロッケン」私は気を取り直して水浴びを続ける。
「何だ」彼は私が水浴びをする光景を、何かの絵でも見るかのような顔で見ていた。それとも、描きかけのキャンパスだろうか。その視線に、悪い気はしなかった。
「どうして魔物は人間を殺すの?」
彼は黙っていた。
「ブロッケン?」
「…………」
「私何か変なこと聞いた?」
「…………ああ」
彼を見れば、山羊の顔が笑みの形に歪んでいた。それは泣き笑いの表情にも見えて、あの夜の天使の姿が重なった。
「あの時の天使の姿って、あなたの何なの? 悪魔が天使の姿に化けるのはおかしな事じゃないかもしれないけれど……、なぜあなたはあの姿になったの?」
「あれが昔の俺の姿だと言えば、お前は驚くか?」
「あなたは昔天使だったの?」
「ああ。ずっと――昔にな」
「ふぅん……。あなたは何を知ってるの?」
「…………世界の仕組みを」
「それは何?」
「主神の定めたロクでもない摂理だ」
「それが、魔物が人間を殺す理由なの?」
「そうだ」
「それは……」
私は水から上がり、魔法で自らの体を乾かす。湿気が抜けた髪をかき上げれば、それはふわりと花のように広がった。服を着る。いつもの服であるはずなのに、初めて袖を通すような新鮮さがあった。
私はブロッケンの前に立つ。彼の瞳を真っ直ぐに見れば、彼はまるで神殿を守る彫像のような面持ちで私を見返した。
「そのロクでもない摂理と言うのは、もしも私が魔王になれば変えられるの? それとも、どうしても変えられないの?」
私の問いかけに彼は口を開かなかった。本物の彫像のようにただジッと私を見ていた。彼の中でどんな逡巡があったのか分からない。彼の沈黙はまるで、種が芽吹いて成長し、それが花開き、そして、種を作って枯れていくまでの、長い時間だったように思えた。でも、それはきっと、まるで瞬きのうちに過ぎ去るような、わずかな時間だったに違いない。
彼は口を開いた。
「俺には分からない。だが、そうあって欲しいと希望を持っている」
悪魔の口から希望と言う言葉を聞いて、私は滑稽さよりもむしろ沈痛な願いとして受け取った。あの天使の姿で言われるよりもよっぽど、それは“本物”だと思えた。
「だったら私の隣で見てなさい。私が魔王になって、そのくだらない摂理なんてものを覆してやるんだから」
見つめ合った彼の瞳は、その時ようやく何かを見つけたという安堵に覆われて、
「ああ。俺の希望はお前に託そう」
彼はそう言った。
私は木立の中に足を踏み入れる。
藪が茂っている。木漏れ日が雨のように体に降り注いでくる。どこからか花の香りがする。それは伴侶を求める香りなのか、それとも獲物を探す香りなのか。私はクルスが待っているはずの方角に進むことにした。
そんな私の後ろから声が投げかけられた。
「あいつと結ばれたらいいな」
その言葉にも私は立ち止まらない。ただ、振りかえることはできずに、
「うるさい。でも、そんなの……、当たり前じゃない」
私の頬は熱かった。
◇4 World
最近彼女は僕を避けている。
僕はその理由を尋ねたが、それが白々しい問いだったということは知っている。
あの夜の出来事が原因で……いや、あれは原因ではなく過程だったに過ぎない。原因はもっと前からだ。あれは、気付かされただけだった。
僕も彼女も。
僕らはお互いを好きになっていた。
僕は、彼女に初めてあった時から彼女が気になっていた。
僕はあの牢屋に現れたサキュバスである彼女を、死神であると同時に女神のように思った。美しかった。ロクでもない摂理に抗おうとして、将来を誓った婚約者を見殺しにした僕だったけれども、もはや人を好きになることはないと思っていた僕だけれど、彼女を見た時、人は誰かを好きにならなくてはいられないのだと思った。
僕は、運命に出会ったと思った。
彼女は人間ではなくサキュバスだったけれど、愛すべき誰かには違いない。
それでも僕は人間で彼女は魔物だ。
結ばれるはずがない。
僕らはただ僕らが僕らであるだけで、殺し合う運命だった。
でも好きになったことは否定できない。
それを否定するのは、それこそ摂理に屈することになるのだから。
この世界はいつか変わるのだろうか。
この世界を作り上げた主神が定めたルール。
それが変わってくれるのならば、僕が彼女と結ばれるのならば、僕の『世界』は壊れてしまってもいい。僕はそう思ってしまっていた。
「ねえ、クルス」
思考の微睡に揺蕩っていた僕は、彼女の声によって引き戻された。
水浴びをしてくると言っていたけれども、彼女の髪も体もすっかり乾いていた。それを残念に思っている僕を、僕は少しだけ可笑しく思う。
「もういいの?」
「ええ」
そう答える彼女に、僕は立ち上がる。交代で僕も水浴びをして来ようと思ったのだ。
彼女の戻ってきた方に水場があるのだから、僕は必然的に彼女の方に歩いていく。しかし、最近の常として、逃げるように僕を避ける彼女だったけれど、この時だけは道をあけずにそこに立っていた。
「どうしたの……え?」
僕は彼女に抱きすくめられた。僕の体は驚きのあまりに強張った。彼女の体は柔らかく、その香りは水浴びをしたことで、混じりっ気のない彼女だった。豊満な体がきつく僕の体に押し当てられ、それだというのに生花を握りつぶさないような慎重さがあった。僕はここまで体が細くなってしまったけれど、元勇者候補だ。彼女と同様に、体の頑丈さは見た目通りじゃない。でも、そんなことを彼女に伝えることも、そう言って笑うことも、僕にはできなかった。
なぜなら、彼女は震えていた。
僕は震える彼女の心を抱きとめようと思って、自分の手を彼女の背中に回そうとした。しかしその前に彼女は僕から離れてしまった。彼女は頬を染め、舌を出した。
「触ってやったわよ。吸精もせず、あなたを傷つけることもせず、私は触ってやった」
得意がる彼女の顔は無邪気な少女のようだったけれど、微かな笑みを残して僕をまっすぐに見た彼女の瞳は力強いものだった。
「私は魔王になる。魔王になってこの世界を変える。だからあなたも手伝いなさい。魔物と人間で世界を変えてやるの。主神の摂理なんて目じゃないわ」
そんな彼女の瞳に吸い込まれそうになりながら僕が彼女を見ていると、声が聞こえた。
「おいおい、そこに俺はいないのかよ」
ブロッケンだった。
彼女は僕から眼を放し、そして彼も映した。
「もちろんいるわ。魔物(私)と人間(彼)と悪魔(あなた)で仕組みを変えるの。これはもう決定事項よ。文句はないわよね」
僕は彼女に向かって笑いかける。「文句はない。僕は君についていく」
ブロッケンは山羊の歯を見せる。「お前こそ泣き言を言うんじゃないぞ」
「あったり前じゃない!」
僕はその時何かが崩れる音を聞いた気がした。それはまるで祝福を告げる鐘の音のようで、木立に囲まれた木漏れ日を浴びて、魔物と人間と悪魔の、それらが決して結ばれることがないように、と主神が定めたはずの、摂理に反したパーティがここに結成された。
僕らは手を重ね、彼女を魔王にすることを誓ったのだった。
でも、それは叶わぬ願いだった。
終わりはあっけなくやってきた。
数か月後、彼女が倒れることになる。
17/10/27 23:15更新 / ルピナス
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