連載小説
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U System
 U System

  ◆1 Friendship

 夜、私たちは森の中で野営をして、焚火を囲んでいた。
 パチリと松が爆ぜれば、火の粉が宙に散る。木々の隙間から、飛沫のような星々が覗いていた。
 クルスを連れだしてから、数日が立っていた。
 焼かれているのはついさっき仕留めたグリズリーの肉だ。あの街で略奪してきた食料が尽きたので、私たちは狩りをした。
 巨大なグリズリーをブロッケンが力づくで仕留める光景に、クルスは目を丸くして感心していた。もう少し驚くことを期待していたのだが、感心するとは、彼は意外と荒事に慣れているのかもしれない。そういえば、彼もかつては魔物を殺していたと言っていた。今の姿からは信じられないが、本当に本当だったのかもしれない。
 そんなことを思いながらクルスを見ていたのだけれど、食事をとる時でも彼は表情を変えなかった。だから、私は思わずクルスに問いかけた。
「美味しくないの?」
「いや、美味しい」
「…………それならもっと美味しそうな顔をしなさいよ。折角私が作ったんだから」
「ごめん」
「いや、謝ってもらいたかったわけじゃないけれど……」
 木々の間からは木の葉を揺らすざわめきが、さざ波のように聞こえてくる。私たちのおこぼれに預かろうとする低級な魔物だ。クルスを狙っている奴らもいるだろう。でも、バフォメットのブロッケンの姿に手を出せないでいた。
 クルスは指についた油を舐めていた。子供っぽくて可愛らしいかもしれない。それを見ていた私の心に、ふいに意地悪な気持ちがムクムクと湧いてきた。
「ねえ、あなた魔物を殺さないと言っていたけれど、食べるのはいいのね」
 彼はキョトンとした顔で私を見た。
「だってそうでしょ。グリズリーだって魔物よ」
「そうだね。でも、僕はグリズリーが魔物だから食べているわけじゃない。食料だから食べているんだ」
「いえ、魔物でしょ」
「魔物だ。でも食料だ」
 そう言い張る彼に、私はゲンナリとする。虐めてやろうと思ったのに、わけのわからないことを言われて、折角の気持ちが萎えてしまった。明らかに不機嫌になった私を見かねたのか、ブロッケンが口を挟んできた。
「魔物でもお前のことは食わんだろ」
「ええ。むしろ私が食べる側よ。性的にだけど」
 と言って、私は気がついた。
 食べるということにも種類があるように、魔物にも種類がある。彼は食べられる魔物を、魔物としてではなく、食料として食べるということだ。それは何ら不思議なことではない。
 魔物と言っても種類があるし、さらには本来ヤることばっかり考えるはずのサキュバスの中でも、私のように魔王を本気で目指そうと言う変わり者もいる。それに協力する奇特な悪魔だって……。それなら、人間も? 人間にも様々な奴がいる? こいつのような……奇妙な奴だって……。
 見ればクルスは再びグリズリーの肉を食べ、ブロッケンはクツクツと笑っていた。
 私は子ども扱いされているようで、さらに不愉快になった。
 私はガブリとグリズリーの肉を頬張る。調理の方法がよく、獣臭くなく、火加減も完璧だ。さすが私だ。だから、もっと美味しそうな顔をすればいい、と私は彼のことを恨めしく思う。
 そうしてふと、私は別の食欲を感じた。
 この奇妙な奴であれば、精液の味も違うのだろうか。
 彼とすれば、私の渇きを少しでも潤すことになるのだろうか。
 しかし、もしも美味しかったとして、潤わされたとして、そうしたら私は歯止めがきかず、彼をそのまま吸い殺すだろう。それなら――普段と変わりない精液の味ならば吸い殺さない? いや、それもない。サキュバスの矜持として、つまみ食いはしても、食べ残しはしないことにしている。
 だから、私は今彼の味見をするのは止めておこうと思った。
 それはなんだか、とても勿体ないことのように思ったのだ。
「ねえ、あなた」
「ん、なんだい? ……うわっ、っとと。危ないな。食べ物で遊んだら駄目だろ」
 私が投げた食べかけのグリズリーの肉を、彼はなんなく受け止めていた。その反射神経に少し(本当に少しだ、一つまみの塩程度の分量で、それ以上はない)、感心した。
 私はニンマリと彼に向かって笑ってやる。
「あげるわ。あなたがあんまり美味しそうに食べないもんだから私の食欲が失せてしまった。だから責任をもって食べること」
 私の言葉に彼は奇妙な顔をしたが、やれやれと首を振り、私の食べかけの肉にかぶりつき始めた。文字通り彼に唾をつけることに成功した私は、彼に一矢報いた気がして、なんだか満足げな気持ちが湧いてきた。
 視線を感じれば、ブロッケンが私を見ていた。だけど、その瞳の色が何なのかは分からなかった。まるで何か、眩しくも悲しげな、叶わぬ恋を見るような瞳をしていたから。悪魔がそんなことを想うわけがない。それに魔物であるサキュバスが人間に恋をするわけがない。だから、私は、彼が思っているのはもっと別なものだろうと思ったのだ。
 私が焚火に目を移せば、パチリと薪が爆ぜる。
 木々の隙間からは、瞬く星々が私たちを覗きこんでいた。

  /

 私のこの時の気持ちは恋心ではない。
 勘違いされたくないから言っておく。
 この時の行動を言葉にするのなら、良い言葉がある。えっと、あれだ。人間の言葉で言う……。と、私は笑ってしまう。この私が人間の言葉の中から言葉を選ぼうとしているなんて、だけど、その試みのなんと温かいことか。この温かさは彼がくれたものだ。
 彼を思いつつ、私は腹をさする。
 ああ、思い出した。
 と、私はその言葉を忘れないようにと思う。
「同じ釜の飯を食う」


◆2 Cast

 私たちはとある村を襲っていた。
 もちろん食料に困ったわけではない。食べていくだけなら、野の獣を狩る方だけで十分だ。森には木の実だってある。野の獣よりもそこらの村人の方が狩るには簡単だとは言え、私は人間の肉は好まないし(口にしたことはあるが、美味しいとは感じられなかった)、時にはそれなりに強い人間だっている。
 だったら何故襲うのか?
 それは疼いたからというしかない。
 私はサキュバスだが、それは性欲ではない。
 性欲を満たしたいのなら、ブロッケンとセックスすればいい。人間の男の短小や早漏で私は満足できない。まあ、ブロッケンでも、本当の渇きは満たせないのだけれど……。私はクルスがいても、見せつけるようにブロッケンとセックスをした。彼に見られていると、普段よりも昂ぶった。それは新鮮な感覚だった。いずれ私は彼を吸い殺すのだから、その時楽しめるように、私の悦ぶところを覚えておいて欲しかったのかもしれない。いや、私は単に、私たちがおっぱじめると、気まずそうにする彼の反応がおかしかったのだ。
 魔物に自分が殺されるのはいいというおかしな奴だったが、普通の、女に慣れていない男の反応をする彼の姿を見て、私の自尊心は満たされた。
 だから、私たちが村を襲う理由なんてない。
 だから、疼いたとしか言いようがない。
 私は男の精液が欲しくなった。より正確に言うのなら、
 ――吸い殺したくなった。
 村を襲う私たちを、彼は初めて会った時のような瞳で見ていた。彼は魔物(私たち)が人間を襲うことを止めることも、咎めることもしなかった。ただ、その瞳で見ていた。
 無機質で届かない、湖に映った月のような瞳。
 その瞳からは、私は彼の心を何も読み取ることができなかった。
 普段は私とブロッケンの情事に気まずそうな顔をする彼だが、その時はジッと、その瞳で私たちを見ていた。
 私は魔法で魅了した男たちに次々と跨っては吸い殺した。時にはバックから突かせて、時には抱き上げさせて。私は少しでも快楽を得られるように、様々に体位を変え、男たちに私を抱かせ、私の中に精液を吐き出させ、吸い殺した。
 彼はそれを、ただ見ていた。
 彼の瞳には私が写っていた。
 ブロッケンは別に人々を襲い、彼らを殺していた。彼の場合は老若男女を問わない。彼は殺し、犯し、そして喰らっていた。
 木造の家屋は燃え上がり、逃げていく人々は引き千切れんほどの悲鳴をあげて惑っていた。その声は破壊音とともに一つずつ潰れていく。
 これはいつものことだ。
 私たちにとってとてもとても普通のこと。
 だっていうのに、どうしてコイツが、クルスがいるだけでこうも違うのだろうか。
「ちょっと、向こう行っていてくれないかしら、人間」
 私は、思わず冷たい声音を出していた。その響きに、私は自分でも驚いた。だって、その響きは……。
 私の心ではなく、体から出た音だったから。
「わかった」
 彼はその瞳に私を映すことを止めてくれた。
 しかし、背中を向けた彼は私にこう言う。
「君はそうやって人を殺すんだね。――そんな顔で」
 私はどんな顔をしていたのだろうか。
 私は問いかけたかったが、それを問うてしまえば、その答えによっては、私は彼を殺さずにはいられなくなるだろうと思って、――彼に伸ばそうとした手を引っ込めた。
 クルスが建物の影に入り、私は魅了した男たちを手早く吸いつくそうと思った。こんな気持ちになったのは初めてだった。渇きが満たされないとはいえ、私は性交による快楽は好きなのだ。人間の男が私を満足させられることがないということは知っているが、交わること自体は愉しいのだ。
 でも、この時ばかりは楽しくはなかった。
 彼らの精液で、その命の液体で、私の上と下のお腹は満たされたけれど、私の渇きはむしろ増えていた。だけど、体の疼きは止まっていた。


  ◇3 Devil

 サキュバスの彼女から別れたクルスは、村をさ迷い、ブロッケンの一人っきりの宴に出くわした。
 彼は殺した人間たちを集め、一人っきりの宴でその嬌態を演じていた。
 それは人々の血によって作られた、赤黒い絨毯だった。その中心に異形の大悪魔は一人座し、彼以外の参加者は全てが死者だった。散りばめられた肉片は、クルスにそれ以上来るなという警告である。ブロッケンは誰かの腕を食み、糸の切れた人形のような女性の下腹部に、己の雄を打ち込み、くぐもった水音を立てていた。
 クルスはそれを、彼の嗚咽のようだと思った。
「ビビらないんだな」
 相変わらずの無機質な瞳に向かって、ブロッケンが口を開いた。その拍子にベチャリと腕が落ちた。
「ああ。戦場じゃ見慣れた光景だった」
「ハハハ。お前、昔魔物を殺したって言っていたが、殺したって言葉は正しくないんじゃないのか? そんな数じゃ、済まないだろう」
 ブロッケンは嘲るような口調で言い、その獣の瞳を細めた。だが、その響きには少なくない自嘲が含まれているようだった。
 クルスは頷きを返す。
「僕は魔物を殺さないと決めたあの時まで、魔物たちを討伐に出かけては殺していた。いや――」
 と、彼は空を見上げる。その瞳はやはり無機質だったが、押し殺しきれない、溶岩のような感情が、その奥にはわだかまっていた。ブロッケンはただ彼を見ていた。
「僕は魔物を虐殺していた」
 クルスは告白した。それは懺悔ではない。彼は、主神に対する懺悔など、死んでもしてやるものかと思っていた。なぜなら、彼が魔物を殺さないというのは、主神への反逆なのだから。
 彼は続ける。
「楽しかったよ。牢屋で言われた父の言葉は本当だった。父は年老いてその対象を人間に移したけれども、まだ若く、そして力のあった僕の対象は魔物たちだった。僕は、殺す必要のないような魔物ですら、魔物だということで殺していた。逃げていくだけのグリズリーを、食べるためでもその毛皮を手に入れるためでもなく、ただ殺すために追いかけた」
「だったら何で魔物を殺さないように決めた?」そう言って、ブロッケンは女の胎に精液を注ぎ込み、その肉体を地面に叩きつけた。肉の爆ぜる音に、血と糞尿、精液の匂いが飛び散った。クルスは、すでに物でしかなくなった女の死体が、さらに原型も留めずに散らばる光景を、ただ見ていた。
「君は、死体しか穢さないのだね。食べるのも……。まるで余計な苦痛を味あわせないようにしているようだ」
「やりたくてやってるわけじゃねぇからな」
 問いに問いで返されたと言うのに、ブロッケンはぶっきらぼうにそう答えた。
 そうしてクルスを山羊の瞳に映す。
「お前はなぜそれを知っている?」
「…………天使に教えられた」
「…………そうか」
 ブロッケンはそうとだけ言って、天を見上げた。
 彼は問う。
「その天使はどうなった?」
「死んだよ。僕と出会った時にはすでに彼は虫の息だった」
「ならどうしてお前はあれを知った?」
「彼に託された本を読んだ。そこに全ての真実が書かれていた。その本はもうない。異端の書として司教に取り上げられてしまった」
「よくそれを信じたな」
「信じるさ。だって、おそらく僕は勇者候補だったのだろうから」
「そりゃあ……、信じるしかないだろうな……」
 ブロッケンは嘆息した。
 二人は顔を見合わせ、自分達が感じていたこの同類感は、間違ってはいなかったことが明らかになったという、共犯とも、戦友とも言える気持ちを抱いた。
 もはやこの村に生きている人々はいない。生きているのは、人間であるクルス、大悪魔バフォメットであるブロッケン、魔物サキュバスである“彼女”だけである。
「あいつは知らねぇよ……」ブロッケンがポツリと言う。
「何故教えないの?」
「……あいつは魔王を目指しているんだ」ブロッケンは何か決意を秘めた瞳をしていた。「笑っちまうだろ? サキュバスが、だぞ。俺のような大悪魔バフォメットでも、怪物の王であるドラゴンでも、死者の王であるワイトでもない。そりゃあ強ければサキュバスでも構わないだろうが、年がら年中発情してエロいことしか考えていないようなサキュバスだ。況してやアイツは、俺が出会った時は突いただけで死んじまいそうなくらいに弱っちかった」
 クルスは静かに聞いている。
 ブロッケンの言葉は、魔法によってクルスの耳にだけ届けられていた。まるで、誰かの耳に届くのを避けるように。
「その理由も笑っちまう。満足のいくセックスがしたいから、だってさ。いくら俺とヤって快楽を貪っても、いくら男を吸い殺しても、乾いたままらしい」
 ブロッケンはそう言って自らの胸を指し示していた。
 クルスはそこで痛ましそうな顔をした。
「それは笑えるね」
「ああ、大爆笑もんだ。だから俺はアイツを魔王にさせてやろうと思った。殺戮と暴力を求め、欲望のままにうごめく魔物たちの中において、アイツは別のものを求めて強くなり、魔王になろうとしている。そんなアイツが魔王になれば、主神の定めたいけ好かない仕組みも変わるんじゃないか、と思ったわけだ。
 ……って、そんな上手い話しはないだろうが、な」そうしてブロッケンは自虐的に笑う。
「結局単なる暇つぶしさ。疑問というものをもったが故、その仕組みにガッツリはめ込まれちまった、果てのない時間を持つ大悪魔の、な。いくらあいつが奇妙なサキュバスだと言っても、魔王になっちまえば仕組みに取り込まれるだろう。サキュバスが魔王になって仕組みが変わるんなら、もうとっくに変わってる。今までに試した奴もいなかったわけじゃない」
「まさか……」
 ハッとしたクルスに向かってブロッケンは獣の手の平を広げて彼を制した。
「早とちりするんじゃねぇ。俺じゃあねぇよ。俺が魔王で、俺を倒したらあいつが次期魔王になれるってオチもいいかもしれねぇがな。そんなオチじゃあねぇ。俺が魔王だったらこれだけしか人間を殺さないで済んでいるわけがねぇ。今の魔王はちゃんと魔王城でふんぞり返ってるはずだ」そうして彼は何処か遠いところを見る眼をする。
「魔物と言っても、全部が殺戮と暴力を求めるわけじゃねぇ。永く年経た魔物の中にはちゃんと叡智と理性を持った奴もいる。そういう奴がこの仕組みを変えようとして、魔王の座に就いたこともあった。するとどうなったと思う?」
 ブロッケンはクルスを見て笑った。そこには憤りとともに、ある種の諦めがあった。
「その叡智の全てを用いて人間を滅ぼそうとしたんだよ。人間と和平を結ぼうとしていたのに、魔王になった途端に変貌した。それだけ魔王という座の縛りは強いんだ。そりゃあそうだよな。何せ、世界も、人間も魔物も作り上げた主神さまが築いた仕組みだ。それからは主神さまだって逃れられない」
 クルスは知らず、拳を握りしめていた。
 勇者という座もそういうものだ。それは候補の段階でも作用するらしい。彼が魔物を必要以上に殺すようになったのも、その影響を受けていた。彼だって、幼い頃は……。
 クルスは絞り出すような声で言う。
「それなのに彼女を魔王に据えようと言うのか。だから彼女には内緒にして魔王の座を目指させようとしている。魔王の座なんてものに着いても、彼女のその渇きは満たされない。それは、単に感じなくなるだけだ。感じていたとしても、決して満たされることなく殺戮の世を継続させる」
「そうだなぁ……」ブロッケンは、憤っているらしいクルスに向かってほんの少しだけ目を緩ませた。
「もしもアイツが魔王になれたら、俺も魔王を目指してみようと思っている」
 彼の言葉に、クルスは目を見開いた。しかし、次の言葉に息を飲む。
「アイツが魔王になっちまったら、そうでもしなけりゃ暇になっちまうだろ」
「……そうだね。そうに違いない」
 クルスはそう言って、寂しげに笑った。


  ◇4 Engel・1

 夢を見た。
 夢と言うよりは、古い、古い記憶だ。

 主神がこの世界に敷いた仕組みを知っている奴なんて久しぶりに出会った。だからだろう。しかもそれが人間だとは驚きだ。
 奴にその本を渡した天使は死んだと言うが、天使の中にもまだ主神に抗うやつがいるようで、俺は少しだけ嬉しくなる。
 夢の中で俺は、かつての姿だった。
 輝く純白の羽を持ち、柔らかな金髪を風にたなびかせ、天を駆けていた。そうだ。俺は、このバフォメットの姿になる前は天使だった。しかも、主神に近い位置にいた。俺は主神に、天から落とされたのだった。
「兄(にい)さま」
 俺は声の主に向かって振りかえる。相手の顔に内心で驚いた。夢の中の俺の表情に変化はないが、それを認識している今の俺にとっては懐かしく、そして、とても耐えがたいものだった。
「どうしたのだルチア」
 夢の中の俺は平静で答える。この時の俺にとっては、彼女はただの愛しい妹でしかない。
「それはこちらの言葉です」
 彼女はふふと笑う。この世界は優しく、楽しいものであることを疑ってもいない、無邪気な子供の笑顔だった。とは言っても、天使たちに子供はいない。下界の成長過程に合わせるならそうだ、というところだった。
 主神の恩寵に満ちた天界。
 空は蒼く、雲一つない。足元は一面の草花に覆われ、遠くには虹がかかっている。空気には触れるのではないかと思えるほどに光が満ちている。やろうと思えば光の一粒一粒すら集められ、それで首飾りを作れそうだった。その光の粒々は優しく、まったく眩しさを感じない。辺りには可憐な花の呼吸が、かぐわしく漂っている。
 人間たちは天界を天国だと思っているらしいが、その美しさこそ想像できても、その暖かさまでは感じ取れないだろう。
 そんな、この世の正しさと美しさと善の全てを集めたような光景。天界の奥深いここには、地上の喧騒は全く届かない。届いたとしても天使たちには理解ができない。天から見れば、地上の光景など、チェスの延長でしかない。
 だから、そのチェスの駒の『生』に関心を持つ俺は、欠陥品以外の何者でもなくなっていたのだろう。
「こんなところで一人で佇んでおられずに、皆のところに行きましょう」
 彼女は相変わらず無邪気な顔で、俺の手を引いた。
 腰まで届く長い金髪は、金を極限まで細く薄く伸ばしたかのように軽く滑らかだ。俺の手を取ってはしゃぐたび、それは風そのもののように踊る。れっきとした大人の女性だと言うのに、その美貌は可愛らしい笑顔のせいで、とても幼く見える。小さな作りの輪郭の中で、金の瞳が大きい。それは、日の光を集めて磨いた宝石のよう。もしくは、金星の光か……。
「私はいい。別に勇者が魔王を滅ぼそうと、それはいつものことだろう」
「それはそうですけど……」と、彼女はほっそりとした指を口元に当てる。
 そのような仕草をすると、いっそう幼く見える。
「でも、喜ばしいではないですか。善が勝ち、悪が負けたのですよ。いくら最後は必ずそうなるとは言え、悪が打たれるということが悪いことであるはずがありません」
「そうだな」
 とだけ答えて、俺は彼女に連れられて行く。
 俺たちが訪れたのは、とある神の神殿だった。
 俺が二人いて腕を伸ばしてもまだ余るくらいに太い柱が、太古の森林のように乱立している。天井はあるのだろうが、それは見えない。柱の上部は白い光の中に吸い込まれていっている。その柱を縫うように進めば、広場に出た。
 彼は……今は彼の姿をしているその神は、俺たちを快く出迎えてくれた。宴会の席には、すでに他の天使たちが盃を掲げ、果実を口にしていた。それらは天界に存在する、光が映しだしたものだ。俺たちは光を食べて生きている。わざわざ果実の形で口にいれなくともいい。しかしいつからか、この変わり者の神は、光を地上の食物に似せて提供するようになった。味は、銘々が口に入れた時に、それぞれの思い描く美味しいと思う味になる。
「よく来てくれた。――――」
 彼は俺の名を呼んだが、それは削り取られたように、抜け落ちていた。かき消されているわけではない。ただ、“無い”のだ。夢の中でも律儀なことだ、と俺は内心で苦笑する。
「兄さまってば、またあの丘で下界を見ていたのよ」
 宴席に駆け寄りつつルチアが膨れる。
「おいおい。勇者は魔王を倒したんだぜ。これ以上何を見ることがある。もう今期は終わりだ。勇者ももうすぐこちらに来る。そこでヒーローインタビューをすればいいじゃないか」
「そうです。悪は滅びました。今はそれを祝えばいい。今回の魔王は強力でした。次の魔王が生まれるのはまだまだ後。あなたも席に着き、ともに祝いましょう」
 先に席に着いていた二柱の天使が口々に声をかけてくる。
 俺は促されるままにその席の一つについた。
「さあ、――――も来たのだから、もう一度乾杯しよう」
「そうだ」「ええ」「そうですね」
「善の勝利に。主神の恩寵に」
『乾杯』
 俺たちは杯を交わし、今回の人間たちの頑張り、天使たちがどのように彼らを手助けしたのか。そうしたことが、彼らの口に昇った。そうは言え、ここにいる面々は直接的に人間たちを手助けしたわけではない。こいつらはここにいて、まさしくボードゲームで遊ぶように、配下の下級の天使たちに手助けをさせていたのだ。
 だからこいつらは、戦場の臭いも、人々の嘆きも、そして魔物を殺す勇者の表情も知らない。
 俺が下界のものたちに興味を持ったきっかけは、勇者の表情だった。
 俺たちにはそれぞれ役割があった。
 ルチアが愛を担当するように、俺の右隣に座っている奴は勇気を担当しているし(今の俺がその役割を正しく説明するのなら煽動というだろう)、左の奴は知恵。そして俺は、希望を担当していた。
 俺は、勇者の誕生を司っていた。
 魔王を倒す存在として、俺は主神の命を受けて勇者を誕生させる。それが俺の役割だった。それで俺は、下界を眺め、勇者を見守ることが多くあった。だから気がついたのだ。
 勇者の表情にも様々なものがあるということを。
 ある勇者は人々のために、勇気をもって魔物に立ち向かっていった。
 ある勇者は自身を犠牲にして子供を守った。
 ある勇者は魔物を殺すたびに自愛の涙を流した。
 だが。
 ある勇者は嬉々として逃げる魔物を追いかけた。
 ある勇者は守るべき人々を影で殺していた。
 ある勇者は魔物を殺すたびに主神への呪詛を吐いた。
 だから俺は疑問を持ったのだ。その姿は、“悪”を倒してさえいれば“善”であるのだと、俺にはどうしても思えなかったから。
 卓を囲んで祝杯を挙げているこいつらは知らない。いや、知っている奴もいる。俺の左隣に座っている知恵を司る男だ。だが、以前彼に伝えた時、彼は静かに首を振ってこう言った。
「それは疑問に思うことではありません。“悪”の頂点である魔王にも様々な種類がいます。いつも同じ勇者では、倒せないこともあるでしょう」
 それに当時の俺は納得したのだが、彼はこうもつけ加えていた。うっすら開いた目蓋の隙間から、彼の瞳が細く覗いていた。
「その先は考えてはいけないことです。あなたが天使でいたいのなら」
 その意味は、俺が天使ではなくなった時に知ることとなる。
 彼は欺瞞に満ちた主神の仕組みを知っていた。そうでなくては知恵を司ってなどいないだろう。しかし、彼はそれを疑問に思っていたのだろうか。
 俺はおそらく疑問には思っていなかったのだと思う。
 疑問に思っていれば、きっと、彼もとっくの昔に天使をやめていただろう。
 それなら俺はどうして疑問に思ったのだ?
 それは、俺がどうしても思い出せないものだった。
 ふと視線を感じた俺は、その主に眼を向けた。
 変わり者の神。
 自らを指してトリックスターなどと嘯く、この神殿の主だ。
 俺を見る彼の瞳には嗜虐的な色が含まれていて、それを俺は、いたく不快に感じたった。

  ◇/

 ああ、そうだ。
 俺は、こいつに教えられたのだ。
 別段何か妙なことをされたわけではない。
 ただ、問われただけだ。
 俺はそれをようやく思い出した。

  /◇

 何気なく下界を見ていた俺に、奴は声を投げかけてきた。その時の奴は、妙齢の美女の姿をしていた。今思えばむしゃぶりつきたくなるような色気を発していて、今ならば、絶対に触れたいとは思えない危険な女だった。
 その時俺が見ていた勇者は、魔物を殺すたびに涙を流し、主神への呪詛を吐いていた。
「ああ、今度の勇者は魔物を殺したくないのですね」奴はそう言った。
「そうか」
 俺はただそれだけを言った。殺したくなくとも勇者なのだから魔物を殺して魔王を殺さなくてはならない。殺したくないからといって、それが何だと言うのだ。あの時の俺の心情を言葉にするのならそうなるだろう。
 だが妖女は俺に問いかけてきた。
「何故だと思いますか?」
「何が何故だ?」
「ふふ」と彼女は瞳に妖しい光を讃えて笑った。「そうですね。まずはそこから問いたださなくてはいけないでしょうか。しかし、何故を何と問いかけてくれるだけでも、他の天使とは違うようです」
 その時の彼女はそれだけを言って去っていった。
 それが、奴が俺に眼を付けた初めだったのだろう。
 奴はその時々で様々な姿を取りながら俺に問いかけた。
「何故勇者は魔物を殺す?」
「何故魔物は人間を殺す?」
「何故勇者には様々な種類がいる?」
「何故勇者が生まれる?」
「何故魔物が生まれる?」
「何故魔王は生まれる?」
「何故人間が生まれる?」
「何故天使たちは人間の味方をする?」
「何故天使たちは自分で魔王を倒さない?」
「何故主神は自分で魔王を倒さない?」
「何故主神は魔王の誕生を止められない?」
 奴の問いに、俺はその都度答えたり答えなかったりした。
 そうした問いかけがどれだけ続いた時だっただろうか。
 奴は決定的な問いを俺に投げかけた。

 ――“あなた”は“本当”に主神を“正しく”“美しい”“善”だと思いますか?

 俺はその問いに答えられなかった。
 奴に問いかけられ続ける前の俺であれば、何の疑問も持たずに、その問いに首肯しただろう。そしてこうも言っただろう。何故主神に疑問を持つのだ、と。
 答えられなかった俺に奴は満足そうに頷くと、それ以降俺に問いかけてくることはなくなった。そうして俺は、俺が何故疑問を持つようになったか、というきっかけを忘れていた。忘れさせられていた。
 トリックスター。
 変わり者の神?
 そんな言葉は可愛らしいものでしかなく、とんだ偽装だった。今ならば奴が何者なのかをはっきり言うことができる。
 奴こそが“悪”だ。
 自ら手を下さずに奸言を以て破滅の糸を手繰り寄せ絡みつかせる。人間たちならば、蛇とも蜘蛛とも称するだろう。曲りなりとも神なのだから、そのまま邪神、悪神というかもしれない。
 だが、奴は俺の平穏を打ち破った、紛れもない“悪”だったが、無慈悲な世界の仕組みを作り上げた主神のことを、俺はどうしても“善”だとは言えなくなる。そこに疑問を持たず、主神の手足となって動いていた俺たち自身も、後の俺はもう“善”だとは思えない。
 名づけるならば、そう、“偽善”。
 それに相対するトリックスターこそが“本物”で“悪”だとは、とんだ皮肉だった。
 決まりきった世界の仕組の上、その役割だけを演じる彼らも俺たちも、その全てが自らの自由意思で動く“本物”ではなく、単なる“偽物”でしかなかった。

  /

 だから、今の俺はこの身を“悪”に落とそうとも、“本物”である事だけは誇れるのだと思う。


  ◇5 Engel・2

 俺の手はそいつの血のようなもので濡れていた。
 主神の神殿。荘厳な柱がそびえ、神々しい玉座が階段の上に収まっている。光と風で織りなされたカーテンが、どこからともなく垂れ下がり揺れている。まるで炎の揺らめきのようでもある。空間には透き通った水が敷き詰められているようで、光が、穢れを知らない魚のように揺蕩っている。
 この場で殺しが行われたことは初めてではないだろうか。
 俺は自らの手を見る。血のようなものが分解され、光の粒子となって消えていく。すでにこと切れたそいつの体から溢れ出たものも、光の粒子となって散っていく。肉体の存在しないこの場では、死者はただ光の粒子に還っていくだけだった。
 そうして光の粒子は再び誰かか何かになって巡るだろう。
 人間たちの魂が運ばれてくる天界で、主神が死ねば何処に行くのだろう。
 どこにもいかない。ただ巡るだけだと俺は思った。
 俺のしたことに意味はない。
 俺は主神を殺した。
 俺は、この世界の真実を知ってしまった。
 他ならぬ主神の口から。
 だから殺したのではない。殺したのは俺の意思ではなかった。
 彼を殺す直前、俺は膨れ上がった疑問を、ついに主神に向けてぶつけていた。
「何故魔物に人間を殺させる。何故人間に魔物を殺させる。主神がこの世を創った全知全能であるのなら、誰もが笑える世界を作れるはずではないのか」と。
すると彼は落ち着いた顔で、むしろ誰かが問いかけてくれることを待っていたかのように、口を開いた。
 ――天使からそれ問われる日が来るとは思わなかった。
    しかし、『希望』を司る君の口からであることを僕はせめてもの救いだと思う。救いを与える
    べき主神がこんなことを言うのはおかしいだろうけど、ね。
 そいつは柔和な微笑を俺に向けていた。
 俺は腰に剣を下げていた。
 ――君の疑問はもっともだ。
    僕だってそう思う。
    だから、君が僕のところに使わされたのだろう。
    知っているかい?
    この場所に僕だけしかいないという状況が、まずおかしいことなんだ。
 この場所には、俺たちの他に誰もいなかった。
 本来ならば主神の護衛たちがいる。
 今なら、絶対の主神に護衛が着いていたということ自体がおかしいことだと分かるが……、そいつは言った。
 ――僕は君にこの世界の真実を教えようと思う。
    僕も抗うことができず、ただ流されるだけだったこの世界の仕組みを。
 そうしてそいつは俺に話してくれた。
 それは、それまで俺が信じていた“正しさ”も“美しさ”も“善”も全てが偽物のまやかしで、欺瞞と傲慢によって作られた張りぼてでしかなかったという真実だった。しかし、それが“真実”の堅固な世界だと信じていた俺にとって、それはまさしく価値観と『世界』の崩壊だった。
 そいつによれば、『人間』も『魔物』も、『勇者』も『魔王』も、この世界を創造した『主神』によって作られ、その在り方を定められたものだったと言う。
 主神は人間を作られた。
 主神は人間が増え過ぎぬよう、大きな力を持って神に迫らぬよう、人間を殺す存在として魔物を作り上げた。
 主神は人間が増えれば魔物を殺し合わせ、その勝者を魔王とし、魔物を組織立たせて人間を殺させた。
 主神は魔王を支配し、人間を殺すことに心を向けさせた。
 主神は魔物が増え人間が減りすぎた際、人間の中に勇者を生みだし、魔物と魔王を殺させた。
 主神は人間が増えれば魔物を殺し合わせ、新しい魔王を作り上げた。
 それが世界に敷かれたルール。
 そのルールに飲み込まれたのは主神も例外ではない。
 今の主神は代替わりをした主神だと言う。
 今の主神もそのルールから逃れることはできない。そのルールを順守しなければすげ替えられる。
 そう言えば、確かにそいつは、俺を生みだした時の主神とは違うようだった。俺は、そんなことにも気がついてはいなかった。強固に構築された世界のシステムは、そこに組み入れられてしまえば、そのおかしさすら気がつけないようになっているらしかった。
 だとするならば、俺が殺したこの主神もイレギュラーなのだろう。主神の正しさに疑問を持った俺のように……。
 どうして俺がそいつを殺したのかと言うと、そいつが殺してくれと言ったからだった。主神の命に、天使の俺がどうして逆らえると言うのか。
 疑問を持ったところで、俺は俺ではなく、やはり仕組みの上の存在(天使)でしかないようだった。
「やってしまったのですね……」
 声の主を見れば、知恵を司る天使だった。
 俺が無言でいれば、そいつは目蓋の隙間から細い眼を覗かせて、
「ご苦労様です。これで私がくり上がり、今から私が主神です」
 そう言った。
「あなたは前主神を殺した大罪人、新たな主神である私の権限で、天界から追放させてもらいましょう」
 そいつはさも嬉しそうだった。
「お前はそれでいいのか?」俺は奴に尋ねる。
「はて、何がでしょうか」
「その座に座ると言うのは最初の主神が作り上げたルールに自らを組み込まれるということだ。ただ役割をこなすだけの存在に成り果ててもいいのかと聞いている。俺が殺した奴も言っていたし、知恵のお前が知らないわけがない」
「ふ、ふは、あはははははは」
 そいつは、これ以上楽しいことはないと言う風に、俺を嘲笑う。
「それはルールに抗った場合の話です。私は大丈夫ですよ。私はやりたくてやる。やりたくてこのルールの主(あるじ)となります。何せ私は、あなたが嘆きの声を不快に思ったように、私は嘆きの声を愉快に思うのですから」
 奴の声はとても耳障りだった。
「そうですね……。あなたは誰も彼もが笑い合える世界をご所望だと言う。それならば、あなたにはこの罰を課しましょう。これよりあなたの身を悪魔へと堕とし、人々を殺し続けなくてはならなくさせましょう。人々の怨嗟と嘆き、それがこれからのあなたの食物となるのです」
「そんなもの殺さなければいいだけだ。それに、お前と戦うこともこの場から逃げることも私にはできる」
「チッチッチ」そいつは指を振る。「残念ながらそれはできません。私が主神です。一天使であるあなたが抗えるとでも? ――試すつもりですか……。動くな」
 俺の手足は自分のものではなくなり、そいつの言いなりになった。
「しばらく牢に入っていてください。あなたにその罰を課すにはまだ主神の力を使いこなせてはいないのでね。ふふ、そうですね。人々を殺さなければ、あなたの体は必要な数以上の人々を勝手に殺すようにしてあげましょう。そしてあなたは、自らの意思で死ぬことはできない。毒を飲む事も衰弱していくこともできず、殺されそうになればそれを受けいれることもできずに抗う。そうした呪いもかけておきましょう」
「下衆め」
「おやおや、主神に向かってなんという言葉でしょうか。仮にも、あなたはまだ天使でしょうが」
 俺は奴の言葉通りに、牢に入れられた。いや、自分で入ったのだ。自らの意に反して。
 言うまでもないことだが、牢があることもそもそもおかしい。
 正しく美しく善なるものしかないはずの天界で、寂しく牢に入れられた俺には、もはや外に出たところでこの世界を美しく思えることはないだろうと思えた。
 何の材質で作られているか分からない、継ぎ目のない牢は、触れるだけで凍ってしまいそうには冷たかった。そうして牢に入れられていた間に、あいつがやってきた。
 トリックスター。
 邪神だった。
「あなたはそこに入ってしまったのね。そこから出たい?」
 妙齢の美女の声音で、そいつは語りかけてきた。
 その姿は醜悪な男の姿だった。この天界において相応しくない姿だが、そんな奴が姿を隠して入り込めるのだから、正しく美しく善なる場所という言葉の空しさを、俺は改めて感じた。
「別にでたいとは思わん。この中も外も変わりないだろ。それはお前が教えてくれたことだ」
「私は何も教えてはいないわ。私はあなたに問いかけただけ」
 ニイ、と醜悪な男の頬が吊り上った。口元からは乱杭歯が覗いている。俺はあの牙に弄ばれたわけか。
「怒っているの?」
「怒ってはいない。どうにも、すべてがどうでもよくなっただけだ」
「そう。でも新しい主神はあなたを飼い殺しにもしないつもりよ。あなたに、あなたが嫌なことをさせようとしている」
「そうだな。何故だ? それに、あいつもお前が唆したのか?」
 ふ、うふふふふふ。と、そいつは笑う。
「違うわ。人聞きの悪いことは言わないでちょうだい。私は別に彼には何も言っていない。彼は単に前の主神がお払い箱になったから、呼ばれただけ。彼は自分の意思を自由意思だと思っているけれども、それが本当に自由意思なのか怪しいものだわ」
 そう言うとそいつは、年端のいかない少年の姿になった。短く刈り上げた黒髪に、俺が下界を眺めていた時にも見かけたことのある、村に住む少年と変わりないようだった。だと言うのに、今までに見たそいつの姿の中で、それが一番シックリと来た。だが、奇妙な丸いガラスを両目の前に着け、その奥には覗きこむことが憚られるような、深い深い、底知れない井戸のような瞳があった。
 それは、天使とも、別の神々とも異質の存在だった。
「彼はきっと君が羨ましかったんだ」
「羨ましい?」
「そう。羨ましい。羨ましくて妬ましい。本当は主神を殺した君こそが次の主神になるはずだった。あの神殿に護衛がいなくなるときは、次の主神を迎え入れるときだ。だと言うのにルールは君を選ばず彼を選んだ。それは、君の方こそが自由意思を持っていることの証明になった」
「…………。それもルールに弄ばれた結果なのでは?」
「あ、あはははははは」
 少年はおかしくて堪らないとった風で、腹を抱えて身をよじっていた。
「確かに君に問いを投げかけたのは僕だけどさ。そこまで疑えるようになったとは……。重畳重畳」そうして真面目な目をする。真面目で、深く濁った瞳を向けてくる。
「大丈夫だ。僕なんて異形の者に保証されたって嬉しくないだろうけど、君はすでに自分の存在すら疑っている。自分に自分の正しさを問いかけてきているのは紛れもなく君だ。だから、君は疑うことによって君になっている。いい言葉を教えてあげよう」
 コギト・エルゴ・スム
 そいつは得意そうにそう言った。
「……お前は何故俺に疑問を持たせた。この仕組みを壊したいのか?」
「ふふふ。それもいいかもしれない。だけど、そこに明確な理由はない。僕はトリックスター。停滞の破壊者。僕は単に動いているものが見たいだけだ。『世界』は、それを『悪魔』と呼ぶ」
 何の変哲もない少年だったが、底も知れず、ただの混沌に濁った瞳で無邪気に笑うその姿は、なるほど、“悪魔”とはこういうものなのか、と納得させられた。
「魔物ではなく、お前が『悪魔』なのか」
「そう。この世界線ではもう二度と会うことはないと思うけれども、以後お見知りおきを」
 そいつは丁寧に頭を下げた。
「さて、それじゃあ僕はもう行こうかな。僕がここに来たのは、君にここから“出る意思”があるかどうかを確かめにくるためだった。でも君は別にと言う。それじゃあそこで僕の役目は終わりだ。別の面白さがありそうだ。で、一つ。そのまま腐るのも結構だけど、君は異質な僕の、来訪神とも言える存在の手ほどきを受けたんだ。頑張ればこの仕組みを変える、何か一矢を放てるかもしれないよ。はてさて、それでは」
 さようなら。
 別れを告げると、奴はそのままふっつりと消えてしまった。
 それから俺はその『悪魔』と会ったことはない。
 新しい主神がその力を定着させるまで、俺は牢屋に閉じ込められていた。時折食料を持ってくる天使がいて、俺はふと思いつき、そいつらに「疑問を持つこと」を教えようと思った。そうしてその疑問を天使の中で広めてほしい、とも。
 クルスに本を渡した天使とは、そうした天使の一人だったのだろう。
 天界の情勢が今どうなっているか分からないが、俺のしたことは無駄ではない。それが善なのか悪なのかの判別を俺がつけることはできないが、仕組みを変える一助になってくれればいいと思う。
 やがて俺は主神の間に引き立てられ、奴じきじきに罰とやらを課せられ、バフォメットの姿へと堕とされた。細かいビジュアルは後で俺自身が整えた。
 俺は人間を憎んではいないが、人間を殺し続けなければ、この身がただの殺戮人形へと変えられてしまうそうだ。それはいただけない。だから俺は人を殺し、その後に犯し喰らうことにしている。彼らが俺のために痛みを受けるのは、死ぬ時の一回きりで十分だ。
 人間を殺すことに、別に嫌悪感は抱いていなかった。やりたくはなかったが、俺にはそれができた。誰もが笑える世界がこればいいと思っていたが、そうでない世界にいる時間が長すぎた。そして、そう思いながら、天使だった頃の俺が、人間を助けたことなどもなかった。
 それからどれだけの月日が流れた時かは忘れたが、新しく主神になった知恵のあいつは、ルチアを無理矢理手籠めにしようとして、天界でクーデターを起こされ、逆に殺されたらしい。ルチアは自由意思を持ったに違いない。その天使たちも、きっと自由意思を持っていたはずだ。

 俺は眼を覚ました。
 自分の体を確認する。
 バフォメットの異形の体だ。二メートルを超える筋骨隆々の浅黒い体躯。その下半身は山羊の足で、両手は毛皮に覆われている。頭も山羊。そうして胸には歪な形の女の乳房がついている。殺すときに少しでも柔らかく殺せればと思い、いつかつけたものだったが、逆効果だったらしい。
 むしろ怖がられる凄味が増したようだった。
 夢を見たこと自体が久しぶりだったからか、いつもよりも随分深く眠っていたらしい。夢を見る時の眠りは浅いと言うが、それならやはりこれは夢ではなく、自身の記憶の再認だったのかもしれない。
 そうして、俺はふと二階から不穏な気配を感じた。
 俺たちは今、襲った村で一番大きな家を拝借していた。
 俺は体の大きさからして一階で眠り、あいつらは二階の別々の部屋で寝ていたはずだ。
「我慢できなくなったのか……。しかし、これであいつらが終わったら面白くないな」
 俺は腰を上げる。
 床板がミシリと音を立て、大きく軋んだ。
 俺が協力している、魔王になりたいというサキュバス。胸の渇きを満たすために魔王になろうとしているあいつ。だが、魔王になってしまえばその渇きは永遠に満たされることはなくなるだろう。
 俺は彼女にそれは言わない。言ってしまえば、そのロクでもない未来が確定してしまような気がするから。
「ハッ、希望の天使だった頃より、悪魔になってからの方が希望を持つようになるとは笑えねぇな」
 俺は自嘲する。そうしてその希望は先日膨らんだ。
 あの人間。
 俺と同様にこの世界の仕組みを知る人間。クルスは、この仕組みを知りつつ、それにあえて逆らい、個であろうとした。勇者候補だったというのだから、それは生半可な覚悟でも、所業でもなかったはずだ。この仕組みの上では、人間である大前提は魔物を殺すことだ。奴はそれに逆らい、人間をやめ、その在り方こそが人間であると言おうとしている。
「少し、期待をしてしまう」
 そのおかしな人間が、渇いたサキュバスを潤す。
 殺し合うことを世界の仕組みとして定められている人間と魔物。心が乾きつつも、人間を吸い殺さずにはいられないということは、彼女は今の魔王の影響を大きく受けているということだ。そんなサキュバスと勇者候補であった人間が、もしも手を取り合うことができるのならば、それは大きな変革の兆しととれないだろうか。
 そんな未来を想うことは、さすがに“希望”を持ち過ぎか。
 俺は随分とあのサキュバスに入れ込んでしまったらしかった。人間や魔物に人間や魔物として対するのではなく、個として対することで、俺に心に変化が起こった。彼女と出会うまで、こんなことにも気がついてはいなかった。そして、彼女がクルスに出会い、彼女が彼を目で追っていることに気がついてから、俺の心にはさらに変化が訪れた。
「だから、勝手に俺の夢を終わらせようとしてんじゃねぇよ」
そう言って俺は、ふと自分の悪魔の体を見る。
「そうだな。サキュバスを止めるのなら、悪魔の姿よりもこっちの方がいいか」
 俺は自分に変身魔法をかける。そこに現れたのは懐かしく、二度となるまいと思っていた、かつての天使の姿だった。
17/10/27 22:19更新 / ルピナス
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