連載小説
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W The end and The biggining
 W The end and The biggining

  ◆1 She communes with him heart, and he dicides his mind.

 私とクルスとブロッケンは、様々な場所を旅した。
 極寒の雪山も、灼熱の火山も、茫漠たる荒野も、渇ききった砂漠も、毒の吹きだす沼地、果てしなく広がる大海原、死霊の渦巻く古城、触手が混じるジャングル、奇妙な洞穴、……嘘だ。その全てにはいけていない。
 でも、その道々で私たちは敵と戦い、人間を殺さない魔物、魔物を殺さない人間と出会い、大切な日々を重ねつつ私たちが旅をしたのは本当だ。
 クルス以外の男と肌を重ねることに嫌悪感を抱くようになってしまっていた私は、もはや誰ともセックスをしなかった。あれだけ快楽を求めていたと言うのに、私はピタリと止めることができた。サキュバスの本能が疼いて、時には身を引き裂かれるような欲望に耐えることは、本当に辛かったけれども……。だけど、主神の摂理に逆らうと決めた私は、それをし続けた。まあ、精を補給しないと力は弱まってしまうので、毎日クルスから精液は提供してもらっていた。あれは本当においしかったし、器に溜めたそれを気恥ずかしそうに私に渡してくる彼の顔は本当にかわいかった。だから彼に見せつけながらそれを食すのは、とても気分がよかった。
 私はあの三人で誓った時から、人を殺していなかった。
 ブロッケンに言わせるとそれが悪かったらしい。
 旅の中で、ブロッケンからは、世界のルールとやらを詳しく教えられ、彼が天使だったころの話を聞いた。彼には人を殺さなくてならない呪いがかけられていた。それまで長い時間共に過ごしていたけれど、私は彼のことを全然知らなかったのだと知って、恥ずかしくなった。話さない彼も彼だけれど、確かに、以前の私に話したところで、無駄な話だっただろう。
 クルスからは、彼が勇者候補として魔物を虐殺していた頃の話を聞いた。その時の湧き上がる高揚感は、抗えるものでなかったという。彼の王家は代々勇者候補が生まれるらしい。彼の父の嗜好も、もしかすると魔物に対する衝動が置き換わっただけで、本来の王の心ではなかったのかもしれない。でも、それに流されたのは王だ。そう言うのは酷だろうか。しかし、その衝動をを捨て去り魔物を殺さずに生きているクルスを見ていると、私はそう思わずにはいられない。
 本当に主神も主神の摂理もロクでもないものだ。
 私が男性に襲い掛かりたくなる疼きを力づくで抑えられていたのも、時折湧き上がらる人間への殺戮衝動を抑え込めていたのも、きっと彼らの話を聞いていたからだろう。
 でも、そのせいで私は今死にかけていた。
 ブロッケンの話によれば、私は魔王の影響を強く受けているらしい。
 人を殺さずに生きていける魔物もいる。でも、私はどうやら違ったらしい。人を殺さない欠陥製品になったのなら、破棄される運命(さだめ)になっていた。
 人を殺さなくなった私は、その運命に磨り潰されようとしていた。
「   。僕は君に死んで欲しくはない」
 クルスは私の名を呼んだ。
 正体を隠して泊まった宿屋のベッドの上で、私は横になっていた。彼は隣の椅子に腰かけている。上等の宿だ。誰かから奪ったお金ではない。まっとうに、用心棒をしたりして稼いだお金だった。サキュバスの私がそんな律儀なことをするなんて、彼に出会う前は、全く想像もしていなかった。
 ブロッケンは外に出ている。
 彼は人を殺さなくてはならない。先日もどこかの村を襲って来たらしい。帰ってきた彼の体からは、懐かしい死と血の凝った匂いがしていた。その死の臭いは、もうすぐ私からも漂おうとしていた。
 私はクルスに情けない姿を見せたくなくて、精一杯元気に見えるように振る舞うだけは努めていた。私が生き長らえられているのは、そうした強がりのおかげもあったと思う。それに何より、私はまだ彼の声を聞いて、その温もりを感じていたかった。
 私にかけられる彼の声の響きはとても暖かくて、私はそれだけで生まれてきてよかったと思えた。
「僕が、死んでもいい誰かを連れて来るから、その人を殺して……」
「死んでもいい人なんているわけないでしょ。あなたの口からそんな言葉は聞きたくない」
 彼にそんな言葉を吐かせる自分を誇らしく思うと同時に、私はとても悲しく思った。
「それでも、僕は君に死んで欲しくない」彼は泣いていた。
「ありがとう。人間のあなたにそう言ってもらえるなんて、魔物に生まれてきたことをこほど良かったと思ったことはないわ」
「僕はこれほど君が魔物であることを恨めしく思ったことはない」
「ふふ。ねえ。私を抱きしめてくれないかしら」
 私は甘える子供のように彼に手を伸ばす。
 彼は柔らかく微笑んで、私を柔らかく抱きしめてくれた。彼の胸板に私の豊満なままの胸が押し当てられる。私の体はただ衰弱しているだけで、痩せてもやつれてもいなかった。だからこれは、本当に、摂理に反した“機械”が、その機能を停止させられようとしているだけだった。
「温かい」
「君も。これから君が死ぬなんてまったく思えない……」
「そんな顔をしないで。私、死ぬとはあなたの笑顔を見て死にたい」
「君はいつも難しいことを言う。でも、君はそれをいつもやり遂げていた」
「それはあなたもじゃない。お互いさまよ」
「そうだね」
 彼が私を抱く腕に力が入った。
「あーあ、残念ね。私、あなたの子供が欲しいと思っていたのよ」
「でも、僕は人間で君は魔物だ。それは無理だ」
「何を言ってるのよ。やってみなくちゃ分からないじゃない。私が魔王になって、主神の摂理なんて書き換えて、魔物と人間が殺し合わなくてすむ世界を作る。そうして二人で子作りに励めば、何とかなるんじゃないかしら。というか、そんな風に書き換えてやるわ。他の魔物たちも。人間と愛し合えるような存在にしてやる」
 私はもう叶わない夢を彼に語る。この光景は、本当に儚いものだった。人(クルス)の横に、夢を語る魔物(私)がいる。
「それは素敵な話だ。でも」
「でも?」
「もしそうなら、魔物たちは今のままの姿じゃ大変じゃないのかな」
「どういうこと?」
「だって、魔物たちと愛し合って子供を作るんだろう? だったら今の魔物たちの姿じゃ無理がある」
 そう言って彼が笑ったのが、私の体に伝わってきた。
「それもそうね。私は元々人型の魔物だけと思っていたけれど、確かに魔物はいっぱいいるものね……クルス、あなたそんな趣味もあったの?」
「ないよ。怖ろしいことを言わないで欲しい」
 彼が口をとがらせるのが分かり、私はそれをくすぐったく感じた。彼は気を取り直すように続ける。
「それより、魔王になるというのに、魔物を人型だけに限定して考えていた君の方が責められるべきじゃないのかな」
「それもそうね。じゃあ、私が魔王になった暁には、魔物たち全員を人間の女の子のような姿に書き換えてやる」
「全員か……なんだかとんでもないことになりそうだね」
「何よ。あなたが言い出したんじゃない」
「そうだけどさ。……そうだね。そんなことを考え付くなんて君はすごい。そうだ。君は生きていなくちゃいけない」
 彼は決して掴む事の出来ない何かを掴もうとするかのように、私の背に回した手に力を込めた。
「でも……それは無理よ」
「……それはまだ分からない」
「気休めは止めて、私は人を殺さない」
「ああ、そうだ。君は人を殺さない」
 耳元から聞こえた彼の声は、何か決意に満ちていたけれども、そろそろ意識が朦朧として来ていた私は、その先を考えることはできなかった。


  ◆2 Wedding of hope

 虚ろな頭で、私は自分が運ばれていくのを感じた。大好きなあいつに抱かれる感触は、私をどこか夢見心地に感じさせた。そこがどこだかは分からなかった。私は広場のようなところに連れていかれ、何やら魔力が脈動する、祭壇だか魔法陣だか分からない場所の中心に横たえられた。
「本当にいいんだな」
 ブロッケンの声が聞こえる気がする。
「ああ。僕は僕よりも彼女に生きていてもらいたい」
 クルスの声も。
 私にその映像は見えない。声だけが、霞がかった夢の向こうの景色として、私に届いていた。今の私には彼らが何をしているのか、それについて私がどう思っているのかも分からない。分かるのは、ただ、取り返しのつかないことが行われようとしていて、私にはどうする事もできないということだった。
 私はただ彼らのやることを感じていた。
 ブロッケンは言う。まるで司祭のような厳かな声で。「それは想像を絶する苦しみだ。お前は死ぬだけではなく、その魂は摩耗して天国にも地獄にも行けず、生まれ変わることすらないだろう」
「それでいい。彼女がこれから生き続け、魔王になってこの世界の仕組みを変えるのならば、僕が生きた証だけは残るから」
「分かった。じゃあ後はお前に任せる。あー、何だ。妙な気持ちだな。これは何て言うんだ……」
「もしかして娘を嫁にやるような気持ち、かな」
「ガハハ。そうかも知れねぇ。しかし娘を抱く父親もいないだろ。あー……、まぁ、いなくもないのか……。フン。まあいいさ。しかし、よくもこんなことを思いついたもんだな。悪魔である俺でも思いつかなかった。いや、悪魔だからこそ思いつかなかったのかもしれねぇ。自分を犠牲にして誰かを生かすだなど……。もしかすると主神は……、お前等人間の可能性というものが怖かったのかもな、愛とか、希望とか……な」
「希望の天使だった君が言うのだから間違いないね」
「そうだな……だが、悪魔になってからの方が希望の天使らしいことをしているとはとんだお笑い草だ」
「ふふ。ありがとう。君がいてくれたからこそ、僕は希望を残すことができる」
「俺からも礼を言う。お前は俺に希望を見せてくれた」そう言ってブロッケンはいつものように、山羊の顎をゴリゴリとかいたようだった。
 そうして彼は言葉を続ける。
「今となっては柄じゃあねぇんだが……」
 それは、本当に柄でもない言葉だった。
「汝クルスは、この女   を妻とし、
 良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、
 病める時も健やかなる時も、
 共に歩み、他の者に依らず、
 彼女の死が二人を分かつまで、愛を誓い、
 妻を想い、妻のみに添うことを、
 神聖なる婚姻の契約のもとに、誓うか?」
「誓います」
 ブロッケンはどうやら横たわる私の方を向いたようだった。
「汝   は、この男クルスを夫とし、
 良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、
 病める時も健やかなる時も、共に歩み、
 他の者に依らず、死が二人を分かつまで、
 愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、
 神聖なる婚姻の契約のもとに、誓うか?」
「…………」――――誓います。
 と、私の体は反応したようだった。
「ククク。流石に現金な女だ」ブロッケンの笑い声と、クルスの笑い声が、くすぐったく感じられた。ブロッケンは天を仰ぎ吐き捨てるように、声高に涜神を捧げた。
「宇宙万物の造り主であるクソッタレな主神よ、
 お前は自分にかたどって人を造り、
 人を殺すように魔物を造った。
 だがここに二人は夫婦となる。
 お前はその夫婦の愛を祝福することはできない。
 ここはお前の眼の届かない祭壇だ。
 今日結婚の誓いをかわした二人の上に、
 お前が満ちあふれる祝福も呪詛も注ぐことはできない。
 二人は愛に死に、健全な家庭を造ることはできない。
 だが、その後につづく誰かの愛と希望の礎となる。
 お前の怖れは俺たちの希望として今形をなす。
 せいぜい見えない恐怖に怯えるといい。
 お前の造った仕組みはいずれ崩壊する」
『ざまあみろ。そうあれかし(アーメン)』
 私たち三人の声が重なった気がした。
「じゃあ、俺は行く。夫婦の初夜を邪魔ような野暮はしねぇ」
「ありがとう。希望の天使に祝福されるなんて思ってもいなかった」
「天使じゃねぇ。悪魔だ。その方が未来の魔王には相応しいだろ」
「違いない」
 そうして彼らは握手を交わしたようだった。
 ブロッケンの気配が消えた。
 残されたのは彼の気配と私だけ。
 ギシリ、とベッドが軋んだ。
 彼が、私の上にのしかかっていた。
 彼の手が私の頬に触れた。彼の唇が私の唇に触れた。彼の手が私の衣服を脱がせた。彼のペニスが私のヴァギナに触れた。
 彼が、私の中に入ってきた。
 それは待ち望んでいた感触だった。私の体は彼の生命力を求めて、勝手に動いた。彼は私を抱きしめ、脈動する快楽に耐えていた。彼は私の一番奥深くをノックして、夢の向こうの私を呼び戻そうとしているようだった。
 やがて私は胎内に注ぎ込まれる温かさを感じた。
 それは初めて感じる、体の、心の一番奥深いところから湧き上がる暖かさで、私は、自分の心の渇きが、ようやく収まったことを感じた。私の体と心はそれをもっと感じていたくて、貪欲に彼を求めた。私は彼の存在そのものを吸っていた。
 私たちを取り囲む魔力が、魔法陣が脈動していた。
 私はクルスの生命そのものである精液を胎に納めていた。
 力を取り戻していく私には、彼の最後の言葉が聞こえた気がした。
「   。愛している」

  /

 これで私が人間を殺さずとも生きていけるようになる。
 彼はそう信じていたに違いない。
 だが残念ながら、私の魔物の体はそれを許さなかった。
 主神の仕組みとは、そんなに簡単なものではなかった。
 でも、彼を無駄死ににさせることは、“私の”体が許さなかった。


  ◆3 Love is continued

 目が覚めた私は全てを理解していた。
 私は叫んだ。泣いた。体中の細胞の全てを震わせて嘆きを放った。
 私は彼の命を食べた。私の隣に彼はいなかった。私の中に彼はいた。私の中で、彼は私に命を捧げ続けていた。彼がそうしてくれていることで、私の体は、私が人間を殺し続けていると認識したらしい。でも、それは今だけのことだ。
 私は私に入っていた彼の感触を忘れないように股に手をかざした。でも、そこには何もなかった。涙がさらに溢れてきた。彼はいない。彼だったものは私の中で消えない温かさとして残っている。
 私は……。
 私は……。
「起きたか。凄い声だったな……」
「ブロッケン……。あなた、よくも!」
 私は起き上がり彼に向かって飛びかかった。彼は避けることもせず、私に殴られた。私は何度も何度も彼を殴った。手の甲の皮が剥けて、血がしたたり落ちても、私は心の方が痛かった。彼は黙って私に殴られていた。
「この感じなら、ちゃんとあいつを吸えたようだな」
「何でそんなことをしたの……」
「それは答えなくてはいけないことか?」
 彼の瞳に私は黙った。
「それに、俺がしたのはお膳立てまでだ。それを提案し、実行したのはあいつだ」
 私は歯が折れるのではないかと思うほどに歯噛みした。
「私はそんなことをしてもらいたくなかった。私は、私よりも彼に生きていてもらいたかった。彼のいない世界に、私は生きていたいとは思えない。彼がいないのなら、私が魔王になる意味だってない」
「奴もそう言っていた。お前のいない世界にいる意味などない、と」
「馬鹿……」
 嗚咽を噛み殺す私に、ブロッケンは口を開く。
「これでもうお前は人間を殺さずに済む。これでお前は人間を殺さずに生きていける。そうして魔王になれる」
 その言葉に、私はもう一度ブロッケンを殴っていた。
「本気でそう思っているの? 主神の縛りはそんな甘いものじゃない。私にはわかる。これは焼け石に水なんだって、私はすぐに人間を殺さなくては生きていられないようになる。私が保っていられるのは、多分一年」
 私の言葉にブロッケンは目を見開いた。
「そんな馬鹿な……。この祭壇は主神の眼が届かない場所に作った。あの術式は完全だった。お前の中にあいつの魂を固定し、お前が死ぬまでの間、お前の中であいつは生まれ続け、殺され続ける。お前はあいつの『愛』で野望を遂げられる」
「違う。私に命を捧げたのは彼一人、同じ人の命を殺し続けるだけでは主神の仕組みは欺けない。確かにあなたたちのかけてくれた魔法で、私はしばらくは人を殺さずに生きていけると思う。でも、私がもらった人間の命は一人だけ」
「そんな……そんな馬鹿な……」ブロッケンは両手で顔を覆い、打ちひしがれているようだった。
「あなた、そんなことにも気付けなかったの?」
「……今まで、そんなことを試すような人間はいなかった。俺が知っているわけがない」
「そう」
「は、ははは。主神の決めたルール。それは俺たちをどこまでも弄ぶのか。俺たちは世界のルールから逃れることはできないのか」
 ブロッケンはその巨体の膝を折っていた。
「あいつは、無駄死にだったのか」
 そう言った彼の、丁度よいところにあった頭に、私は思いっきり回し蹴りを浴びせてやった。
「何をする……」
 彼は指の隙間から山羊の瞳で私を睨み付けてきた。
「……じゃない、」
「ん?」
「――じゃなない、ってんのよ。彼は……無駄死になんかじゃない。ちゃんと、私に、私たちの愛と希望を残してくれた」
 私は、彼の温かさが残っている自らの腹をさすった。
 私の愛おしそうな様子に、ブロッケンの山羊の口があんぐりと開いた。睨み付けていた時とは違い、随分と間抜けな顔だった。
「まさか、そんな。そんな馬鹿なことが……。それこそ摂理に反する。あり得るわけがない! 人間と、魔物の子など!」
「あり得ないって言っても、あり得ているんだから信じなさいよ。あなたが分からないわけがないでしょ」
「いや、しかし……」そう言って彼は私の腹をマジマジと見た。そして信じられないといった顔をし続ける。「本当だ。は、ははは。本当だ。魔物と人間の子だ。あり得ないことだ。あり得ないことがあり得ている。あいつがやったのか? お前がやったのか? 誰が、誰がこの奇跡を……!」
「私たちが。彼の魂は私に殺され続けてはいない。彼は私にこの子を残して私の中に溶けた。この子は、私たちの子よ」
「――そうか」
 ブロッケンはその獣の瞳から涙を流していた。「そうか」
「ねえ、ブロッケン。私、この子を産むわ」
「ああ、お願いする」
「だから、この子を育てるのはあなたにお願いしたい。私はもう人間を殺せないし、クルス以外の精液をもらう気もない。だから、この子をあなたにお願いしたい」
「わかった」
「ありがとう」
 礼を言った私に、彼は一つ提案をした。
「こんなことを言っていいのか分からんが、お前、その子が生まれるまでこの場所から出るな。ここも確かに世界のルールからは逃れられないようだが、主神の眼が届かないことは確かだ。その奇跡の子は、生まれるまで主神の眼から隠しておいた方がいい」
「わかったわ。でも、その間の私のお世話はあなたに頼むわよ」
「分かっている。それはいつもと変わりない」
「ぐっ……否定できないのが悔しいわ」
「ははは。いや、違うな三人分の世話だ。今までよりも随分と重たい」
「そうね」
 そうして私は、この子を主神の目から隠して生むために、この場所に留まることにした。
 ここでの生活はブロッケンのおかげもあって、快適そのものだった。彼がいないときは、私は一人で取り残されていたけれども、もちろん私は一人ではなかった。愛しいクルスと、愛しいわが子が、私の中にいた。
 ある時私はブロッケンに、かつてクルスと語り合った夢の話を聞かせた。
「魔物を全員人間の女の姿にしてしまう、か。とんでもないことを考えるもんだな」
「駄目?」
「駄目も何も、そんなこと出来んだろう」
「そうね。私には出来ない。でも、この子なら」
 私はもうすっかり大きくなった自分のお腹を撫でた。
 この子が大きくなるのにつれて、私は再び衰弱し始めた。この子が生まれるまでは保って欲しい。この子が生まれるのならば、私はこの命を引き換えにしていい。
 ブロッケンはそんな私を眩しいものを見るような目で見ていた。
「そうだな。その子ならできるに違いない。だが――」と彼は山羊の顎を掻いた。
「何よ」
「…………。全ての魔物と言うのなら俺もか?」
「は……?」
 私は彼の言葉を一瞬理解できなかった。そうしてその意味を理解すると、私はおかしさのあまりに吹きだした。
「あはははははは。確かに。あなたも女の子になってしまうわね」
「おいおい。お前が言い出したんだろう」
 彼は呆れたように笑うが、私のおかしさは止められない。ゴリゴリの筋肉をもったこの異形のバフォメットが、女の子の姿になる。それは、想像するだけで笑えてきた。お腹の子も一緒になって笑っているように思えた。
「そうね。きっとそう。あなたも女の子になる。嫌?」
「どうだろうな。嫌かもしれないが、面白そうだ」
「でしょう。あ、その時はむしろ小っちゃい子の姿になったらどうかしら。私からの提案。それなら誰にも怖がられることはない。それでぺったんこの胸にすればいい」
 私は彼の歪な乳房を指さしてやる。
 それを作ったのは失敗だったと、いつかの彼から聞いたことがあった。
「そうだな。そいつはいいな。胸のケアというものは、俺には難しい」
 しみじみと言う彼が、私には堪らなくおかしくて、苦しくなっても、しばらく私の笑いは止まらなった。ようやく私が落ち着いた頃を見計らって、彼は口を開いた。
「笑いすぎだろ」
「しょうがないじゃない」
「だが、この胸をなくすことは、今はまだできないな……」
「どうして?」
「その子を育てなくちゃいけない」
「そうね」私はお腹を一つ撫でて、ブロッケンに笑いかける。「お願いね」
「何度目だ? 任せておけ」
「魔物娘の造形もね」
「ハァ⁉ 何を言っている。それはお前の子がやることだろ」
「駄目よ。この子私たちのどっちに似たとしてもデザインの才能はないと思うの。……アイタッ!」
 お腹の子が、私に抗議するように蹴った。
「ハハハ。分かったよ。それも任せておけ」
「ええ。希望の天使だったあなたが描くのなら、みんな納得すると思う。だから、目一杯可愛く描いてあげて」
「言われるまでもない」
 ブロッケンはそう言って頷いてくれた。


  ◆4 Birth

「ブロッケン。聞こえる?」
「ああ。聞こえる」
「そこにいるのね」
「ああ」
「私はもう眼が見えない。だからもしこの子が無事に生まれたとしても、もう見ることもできない」
「もしじゃねぇよ。無事に確実に生まれるんだよ。勇者の誕生を司っていた俺が言うんだから間違いねぇ」
「ふふ。そう言えばあなた、そんなこともしていたと言っていたわね。勇者を誕生させたあなたが、今度は魔王を誕生させようとしている。不思議な話ね」
「不思議じゃねぇだろ。あり得てんだから。それはお前が言ったことだ」
「確かにそうね」

「……ねえブロッケン」
「何だ?」
「この子をよろしくね」
「何度目だ? いつも言ってるだろ。任せとけ」
「それから魔物娘も」
「ああ、そっちも任せとけ」
「ねえブロッケン」
「何だ?」
「ありがとう」
「おう」
「…………」
「…………」
「…………」
「おい……、…………死んだのか」

……………………………………………………………。
……………………………………………………………。
…………………………………………………おぎゃあ


  ◇5 Hellow, World.

 とある洞窟から、異形の悪魔が出てきた。
 二メートルを超す筋骨隆々の体躯。下半身は真っ黒な山羊の足。その腕は毛皮に覆われ、その頭は山羊の頭だった。そしてその胸には歪な形の乳房がついている。
 彼は燦々と照りつける太陽に向かって不敵な笑みを向ける。
「よお、お前、知ってるか?」
 彼はその胸に、大事そうにサキュバスの赤子を抱いていた。その赤子はすやすやと眠り、この世界に敷かれている主神のルールなど知らず、この世界には愛と希望しかないことを疑ってもいない顔をしていた。
「天上で踏ん反り返ったまんまだと知らないかもしれねぇがよ。この世には愛も希望もあるんだぜ」
 彼は一歩を進めた。
「こんな歪な俺だがな。今はこの子の父親であり母親だ。お前になんか絶対に触れさせねぇ。この子はいずれ魔王になって世界を変える。そこまで俺が育てきってやる。お前はこの子が何なのかを知らない。俺もお前に教えてはやらない。お前が気付くのは、この子の爪がお前の首にかかる時だ」
 そう言ってから彼は思い直すように首を振った。
「…………いや、違うな。この子はそんなことはしない。お前が気付くのはこの子に抱きしめられた時だ」
 そうして彼はクククと獣の顔で笑う。
 彼はその赤子を胸に抱いて歩き始めた。
 この道が何処に続いているのかはまだわからない。
 だが、この希望そのものである、最初の魔物娘である彼女を育てていけば、自分の進む道が見える気がする。
 彼はそう思っていた。
「ん、と。そうだな。俺もいずれ魔物娘ってのになるんだから、その時のために新しい名前を考えた置いた方が良いかもな。……そうだな。お前の父親の名前からもらうとするか。魔物娘の体に人間の名前。それに父親だ。そうするのが相応しい」
 彼の見据える荒地はどこまでも続き、その灰色には果てがないように思えた。
 だから、いずれこの場所に、彼の抱く赤子が魔王城を建造することなど想像もできないし、果てのないくらいに賑やかで淫らな、元は人間のインキュバスと、魔物娘が暮らす城下町が作り上げられることなど、全くもって想像できない。
 そうして彼が見上げた空は、やはり果てのないくらいに青く、どこまでも広がっていた。
17/10/27 23:42更新 / ルピナス
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