連載小説
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その4(ハワード編)
 ― 社会というのは理不尽さで成り立っていると言っても過言ではありません。
 
 社会にとって一個人というのはとても弱い存在なのです。どれだけの豪商であろうと『社会』からは逃れられない以上、少しばかり他よりも大きな歯車の一つでしかありません。どんな豪商も他の歯車に与える影響が大きいというだけで決して他の歯車から受ける影響が0であるとは言えないのです。所謂、『無敵』であるのはこうした歯車から外れて、一人で生きていく事を指すのかもしれません。
 
 ― そんな下らないことを考えるのは今日の辞令の所為です。
 
 今まで私は意図的にラウルの様々な行為を見逃してきました。破壊行為や迷惑行為が決して法に触れない範囲でごまかせるように手を回してきたのです。それはこの街の上層部とて理解していた事でしょう。しかし、それに私は今まで何も言われませんでした。そこにはエルフを投獄すると不可侵条約を締結した他のエルフとの関係が悪くなるという政治的な判断もあったのでしょうが、目溢しされていたのは事実なのです。
 
 ― それがここにきてそれを盾にされてしまい…。
 
 彼と同居してから既に二ヶ月。その間、上層部は私の行った様々な裏工作の証拠を集め続けてきたのでしょう。今日、いきなり上層部へと呼び出された私はそれらの証拠物品と同時に正式に中隊長に就く辞令を手渡されたのです。言外に脅しの意味も込めたそれに逆らえる者などいないでしょう。自分一人ならまだしもラウルにも害が及びかねないそれに私は屈するしかなかったのです。
 
 ― 流石に色々と杜撰でしたからね…。
 
 自分で能動的に起こしたものではないが故に手回しは普段と比べて大分、杜撰でした。何時も通りであればバレなかったと言い切るほどの自信がありませんが、これほどまでの短時間で全ての裏を取られるなんて事にはならなかったでしょう。とは言え、ただでさえ山ほど仕事が舞い込んでいた状態でアレ以上の完璧な隠蔽工作が出来たとは思えません。やるだけやった上に上回れてしまったのですから仕方ないといえば仕方ないのでしょう。
 
 ― それに…デメリットだけではありませんしね。
 
 今まで兼任という形ではあれど、私が得ていた給金は小隊長レベルのものでした。しかし、今回の昇給では給金も少しですが上がり、仕事も中隊長の分だけに専念出来るのです。私の感情面さえ納得させる事が出来れば、今回の昇給は渡りの船と言っても過言ではないでしょう。
 
 ― まぁ、それが難しいんですけれど…。
 
 自分を納得させる、と言葉で言うのは簡単です。しかし、それを易々と受け入れられるのであれば、私は『彼』の事をこんなに引きずってはいません。実際、辞令を受け取った今も心の中にはぐるぐると言葉に出来ないもやもやが渦巻いているのですから。
 
 「…はぁ」
 
 それを吐き出そうとするように溜め息を吐いても一向に心が晴れません。それに肩を落とした瞬間、我が家の壁が見えてきました。夕日の朱が差し込む白亜の壁は周囲の豪邸と比べても遜色ない輝きを誇っています。そう思うのはそこに住んでいるが故の贔屓目なのかもしれません。しかし、私にとって最近、この家が特別な物になってきているのもまた事実でした。
 
 ― それが…彼のお陰だと思うと悔しくもあるんですけれどね。
 
 しかし、口で言うほど悪い気分ではない。そう心の中で呟きながら、私は鍵を取り出し、カチャリとロックを解除します。そのまま取っ手を下へと落とすようにしながら、私は扉を開き、我が家へと入っていくのでした。
 
 「ただいま」
 「おかえり。今日は早かったんだな」
 
 ― そう言って私の方へとパタパタと歩いてくるラウルは真っ白なエプロンを身に着けていました。
 
 最近、私を待っている時間が暇だと掃除や洗濯だけでなく料理にまで手を出し始めたラウルにその白亜のエプロンは良く似あっていました。元々、ユニセックス的な雰囲気を持っているからでしょう。こうしてエプロンを身に纏うだけでとても女性的に見えるのでした。
 
 ― まぁ、その印象を加速させているのはそれ以外の要因も強いのでしょうが。
 
 エプロンの裾から覗くほっそりとした足はハーフパンツに覆われていました。中性的な魅力に溢れる彼にそれはとても似合っていると言わざるを得ません。エプロンから伸びる淡い黄緑のシャツもまた彼の柔らかなラインを強調しているように見えるのです。特に顕著なのがここ三ヶ月伸びっぱなしの髪で、肩ほどまで伸びた髪をアップにする姿は彼の性別を知っている私でさえ女性に見えてしまうのでした。
 
 ― その上…スリッパは桃色の兎ですし…。
 
 ふわふわした桃色の生地に兎を模した模様を付け加えられているそれは男性が履くものでは決して無いでしょう。少なくとも私が履けと言われれば断固として拒否するようなレベルです。しかし、エルフの社会に娯楽が少なかった反動かファンシーなキャラものが大好きなラウルはティーンズの女の子が使うようなスリッパを愛用しているのでした。
 
 「まぁ、色々とありまして…ね」
 「ふぅん…まぁ、お前が早めに帰ってきてくれるのは嬉しいから良いんだが」
 
 ― 最近はこうして素直に言葉をくれるようになって…。
 
 最初に出会った頃からは考えられない進歩に私は内心、喜んでいました。二ヶ月前からぽつりぽつりと呟かれたそれは最近、ごくストレートに彼の口から出るようになったのです。それは私とラウルの心理的距離が近づいた証だと言えるでしょう。その分、彼の依存が強くなっている事に目を瞑ればそれは喜ばしい事でした。
 
 「あ、で、でも、誤解するなよ!べ、別にお前に会えなかった間、寂しいとかじゃないんだからな!!ただ、料理の味見とかアドバイスとかしてもらいたかっただけだぞ!!」
 「いや、一々、そんな事言わないでも分かってますってば」
 
 ― でも、ホント、何とかしないといけませんね…。
 
 ツンデレのテンプレのようなラウルの台詞に私は軽く返しながら、内心、そう呟きました。私だって今のこの生活がとても好ましいものであると思っているのです。こうして自分の家に待ってくれている人がいるというだけでやる気が湧いてくるくらいなのですから。しかし…刻一刻と変化する状況がそれを許さなくなってきているのです。その為にもあまり彼の依存を助長するような真似はしたくはありません。
 
 「わ、分かっているなら良いんだが…と、と言うか、さっさと鞄を寄越せ。私がお前の為にコーヒーを淹れられないだろうが!」
 「はいはい。分かってますよ」
 
 上から目線のようで殊勝なラウルの言葉に私は思わず笑みを浮かべてしまいました。料理と同じく自分でコーヒーを淹れるようになり始めた彼のコーヒーは既に私などよりもはるかに上手になっています。その学習能力の高さは流石エルフと言った所でしょう。最近では冷たい冬の空気の中を帰ってくる楽しみの一つに、ラウルの淹れた熱いコーヒーがのぼるくらいなのですから。
 
 ― けれど…それも今日限りにしなければいけません。
 
 そう思うと胸の内側からはっきりと言うことの出来ないドロドロとした感情が浮かび上がってくるのです。諦観とも執着とも言い難いその感情を私は胸の奥底に押し込めながら、ラウルに鞄を手渡しました。それを彼は大事そうに両手で抱えて、パタパタとリビングの方へと駈け出していきます。
 
 「着替えたら早く下に降りてこいよ!コーヒーは冷めたら美味しくないんだからな!」
 
 リビングに入る直前に振り返ってそう言いながら、ラウルはそっと悪戯っぽい笑みを浮かべました。それに何かしら反応を返す前に彼の小さな背中がリビングへと消えて行くのです。それにまた微かな笑みを浮かべながら、私は自室へと戻りました。そのまま薄緑と白のストライプに装飾された部屋着――兼パジャマとも言います――に着替えます。
 
 ― そしてそのままリビングに戻れば…。
 
 リビングの扉を開けて最初に私の鼻を突いたのは柔らかなミルクの香りでした。さらに暖かなミルクの香りに包まれるように、様々な野菜がトロトロになるまで煮こまれたあの独特の甘さが届くのです。働いた後の空きっ腹には凶悪なその匂いは私の食欲をこれでもかと刺激し、腹の虫を鳴かせるのでした。
 
 「今日はクリームシチューですか」
 「あぁ、お前も好きだろう?」
 
 そう言いながら、ラウルは大鍋をお玉でかき混ぜていました。この匂いから察するにもう出来上がり直前なのでしょう。しかし、かき混ぜるのをサボりすぎれば下のほうが焦げ付いてしまいます。以前、そうやって焦げた煮物を出してしまった彼は同じ轍を踏まないようにとしているのが、その真剣そのものな背中から伝わってきました。
 
 「えぇ。好物ですよ。特に…貴方のは優しい感じがする」
 
 ― それは別にお世辞なんかではありません。
 
 人間を下等と見下すエルフの優秀な能力を遺憾なく発揮するラウルは料理もまた恐ろしい速度で上達しているのです。殆ど外に出ないが故に、一日を家事仕事の上達に充てられるとは言え、その速度は私とは比べ物にはなりません。私も長年一人暮らしを続けてそれなりに調理の腕を持っているつもりでしたが、正直、今のラウルに勝てる気がしないのでした。
 
 「ば、馬鹿…そんな恥ずかしい事いきなり言うなよ…」
 「いきなりだからこそ面白いんでしょうが」
 
 ― 実際、キッチンに立つラウルは面白いほどに動揺していました。
 
 シャツとエプロンの紐から覗く艶かしいうなじまで真っ赤に染めて、視線を右へ左へと彷徨わせているのが一目で分かるのです。わざわざ前置きしてから言ったらそんな面白いラウルの反応が見れません。まぁ、それを逆手に取ってわざわざ前置きするのも面白そうですが、今のところはその予定もないのでした。
 
 「そうやってまた人を玩具にして…まぁ…良いんだがな」
 「おや、随分と殊勝な。流石はマゾのラウル君ですね」
 「…諦めただけだ。そう呼ばれるのも…な」
 
 シャツの口から覗く滑らかな肩のラインを落としながら、ラウルはそっと視線を深鍋の横のケトルへと向けました。カタカタとリズミカルな音を立てるそれはもう沸騰に近い状態になっているのでしょう。それを確認したラウルは手際よくコーヒーを淹れる準備をしていくのでした。
 
 「実際、なんて言っても玩具にされるんだから、諦めて激流に身を任せた方が良いだろう?」
 「またまたそんな事言って…本当は感じてきてるからじゃないんですか?」
 「そ、そんな訳あるか!!!」
 
 羞恥を顔一杯に広げながら叫ぶラウルは、ぶつぶつ言いながらもしっかりとした手つきでコーヒーを淹れていました。そのまま危なげない様子で2つのカップに漆黒の液体を入れた彼はソーサーに載せて、リビングの方へとやってくるのです。
 
 「ほら、馬鹿な事言ってないでコーヒー飲んで大人しく出来上がりを待っていろ」
 「私としてはもうちょっと貴方で遊びたいんですけれど…」
 「…別に遊んでも良いが、シチューを焦がすぞ」
 「その時はその時でお仕置きですよ☆」
 「…ホント、イイ性格してるなニンゲン」
 
 そう言いながらもしっかりとコーヒーを2つ淹れている時点でラウルもまたそれを予想していたに違いありません。それでもこうやって突っ張ってみるのは彼の生来の性格が素直ではないからでしょう。最近はその本音をかなり漏らすようになってきましたが、周囲の期待に応えるために自分を殺し続けた青年はまだ何処かひねくれた所を残しているのでした。
 
 ― まぁ、そもそもその本音を認めはしないでしょうけれどね。
 
 正直、アブノーマルな趣味を持たない者は私のような相手に「遊んでも良い」なんて言わないでしょう。そんな事を言えば私が活気づくのなんて分かりきっているからです。本当に私を拒むつもりであれば、無反応が一番、萎えるのですから。それを文字通り人一倍、優秀なラウルが分からないはずがありません。何だかんだ言って自分の分のコーヒーを用意している辺り、彼もまた遊ばれるのを待っているようにしか思えないのです。
 
 「……ん?」
 
 そんな事を思っているとラウルがすんすんと鼻を鳴らし始めました。そのまま左右を見渡し、首を傾げます。一体、何をしているのか分かりませんが、何かを不思議に思っているのは間違いありません。そんな彼に釣られるように私も匂いを嗅いでみましたが、食欲をそそるクリームシチューの香りしか感じ取れませんでした。
 
 ― しかし、ラウルにとってはまた違うようで…。
 
 すんすんと匂いを吸い込みながらラウルはそっと椅子から立ち上がって、私の方へと身を乗り出しました。そこで何かに気づいたのか、眉をひそめて小さく歯軋りをするのです。犬歯を見せつけるような強い怒りの表情はこれまでの共同生活でどれだけ弄っても決して見せなかったものでした。一体、何が彼の気に触ってしまったのかは分かりませんが、彼が今、見たことのないほど怒っている事だけが理解できます。
 
 「ハワード。今日は何時に仕事を終えた?」
 「え?いや…」
 「正直に答えろ。嘘は許さん」
 
 その強気で怒りに満ちた発言に久しぶりに名前を呼ばれた喜びを感じる暇もありません。確信を持って問いただすラウルの迫力に私はたじたじになっていました。ここまで迫力を持つラウルを見たのは正直、始めてかもしれません。普段の小動物――と言うか苛めてオーラ全開の子犬のような雰囲気を一切感じさせず、獰猛さを剥き出しにしている彼の視線を浴びるだけで微かな汗が背筋を流れていくのです。
 
 「い、いやだなぁ。ついさっき終わったばっかりに決まっているじゃないですか」
 「…ほぅ」
 「ほ、ホントですよ?そもそもこれ以上早くに帰ってこれるはずないじゃないですか。一応、これでも私は管理職なんですよ?」
 「……」
 
 そこまで言ってもラウルの疑いの視線は和らぎませんでした。それどころかさらに疑いを濃くして、私にキツイ視線をくれるのです。殺気すら感じられるようなその視線の内側でどんどんと彼の怒りが高まっていくのを感じるほどでした。しかし、既に口に出した言葉を曲げる訳にはいきません。そんな私に出来る事と言えば、怒りに満ちた視線を向けるラウルに曖昧な笑みを浮かべる事くらいでしょう。
 
 「なら…どうして…私以外の女の匂いがするんだ?」
 「は?」
 「だからっ!どうして私以外の女の匂いと私が選んだのとは違う石鹸の匂いがするんだと聞いているんだ!!」
 
 瞬間、バンと言う音と共にテーブルに載せられたコーヒーカップが大きく揺れました。力いっぱい叩いたラウルの一撃で中身が零れなかったのは奇跡と言える事なのかもしれません。しかし、それに感動を感じる暇もなく、追い詰められた私は背筋の汗をより多くしていたのです。
 
 ― 実際、私はラウルの言うとおり少しばかり寄り道をしました。
 
 私だって健全な性欲を持つ健全な男子なのです。二ヶ月も同居生活をしている間に自慰の一つも出来ませんでした。仕事の上がりは遅く、休日はまだ一人では外が出歩けないラウルの買い物に付き合っていますし、自分の時間というのは殆ど無いのです。そんな私にふと湧いた自由時間。それをこれまで溜まりに溜まった性欲を発散する事に使っても罰は当たらないはずでしょう。
 
 ― しかし…それが逆鱗に触れてしまったようで…。
 
 勿論、同じ男性とは言え、ある程度の線引きが必要です。その上、エルフは潔癖なのでそういう風俗を認めたりはしないでしょう。それを理解している私は前もってそれを店側に伝えて、匂いの少ないものを選んでもらったつもりでした。しかし、エルフは魔力だけではなく嗅覚にも優れているらしく、こうして看破されてしまったのです。
 
 「そ、そもそも私が『そういう所』に行ったとしても貴方が怒る理由がですね…」
 「そんな不潔な所に同居人が行くんだぞ!?怒る理由に該当して当然だろうが!!」
 
 ― い、いや、それはどうでしょう…。
 
 これが夫婦や異性であれば話は別かもしれませんが私とラウルは疑う余地がないほど同性です。そんな彼に怒られるのは予想していたとは言え、理不尽な気がするのも仕方ないでしょう。しかし、今の完全に激昂した彼にそんな事を言っても無意味です。私は諦めたように息を吐き、肩を落とすしかありませんでした。
 
 「大体!わざわざ金を払って性欲処理をするなんて非効率の極みのようなものだぞ!!」
 「んな事言われましてもねぇ…」
 
 確かにラウルの言う事には一理あるでしょう。しかし、私は潔癖なエルフ様ではなくごく普通に性欲を持つ健全な男子なのです。街中に露出度の高い魔物娘が出歩くのには慣れましたが、日々溜まっていく性欲を出来るだけ気持ち良い形で発散したいと思うのが当然でしょう。年頃の男子――既に30を超えていますが――としてはそこに効率云々が入り込む余地などありません。
 無論、そのための相手には魔物娘が最適であるということは自明の理ですが、彼女らと一度、交わってしまうとそのまま結婚ルートへ一直線になりかねません。しかし、ラウルをこうして匿っている今、結婚なんて出来ませんし、そもそも私自身が面倒に感じてしまうのでした。その矛盾を解決する為に魔物娘の流入によって大分、肩身が狭くなったとは言え、未だこの街に残る高級娼館に足を運んでも何ら不思議ではありません。
 
 「そもそも私のお金なんですから、私がどう使おうと勝手じゃないですか」
 「うぐぐぐ…こ、この…開き直って…!これだからニンゲンは…!!」
 「開き直ってって言うか…じゃあ、他に性欲発散する機会なんて何時あるんですか」
 
 ラウルとの共同生活が始まって既に二ヶ月。その間、ラウルが心配な私は直帰を繰り返し、この家で過ごす時間も彼とほぼ一致していました。私も彼も自分の部屋に戻るのは着替えの時と寝る時くらいなもので基本的にこのリビングで一緒の時間を過ごしていたのです。無論、それは常に馴れ合いを続けていたということを意味しません。お互い同じ空間にいるだけでまったく違う事をしているということも少なくないのです。私自身、そんな時間が嫌いではありませんでしたが、お互いの時間を共有することが多い今、性欲処理の機会なんて寝る前くらいしかないでしょう。
 
 ― しかし、ティーンズのガキならばまだしも30にもなると流石に自慰では…ねぇ。
 
 オナニーが女体に全面的に劣るとは決して思いませんが、この年にもなると流石にイきづらいのです。そもそもおっさんと言っても過言ではない私が自分の部屋でシコシコやってると言う絵面を考えただけでも何かもの哀しくなってしまうでしょう。元々、性欲がそれほど強い方ではないので機会自体は少なかったですが、出来ればそれだけは避けたい事態でした。
 
 「それとも貴方が処理してくれるって言うんですか?」
 「う…」
 
 そこで始めて言葉に詰まったラウルに私は勝利を確信しました。元々、彼の言っている事はあくまで感情論に過ぎません。勢いが切れてしまえた失速していくだけでしょう。そして、ここで言葉に詰まったということはその感情を無理やり正当化する種が切れ、失速し始めたという現れに他なりません。立場の強さと正当化の札が多い私が押しきれる可能性がようやくここで現れ始めたのです。
 
 「そ、それはその…お、お前がやれって言うなら…頑張る…けど」
 「…は?」
 「い、いや…だって、私、居候だし…お前に追い出されると行く所がないのは事実だから…ふ、不本意ながら…ニンゲンがそう言うと従わなければいけない理由も…ある…し」
 
 ― …いったい、これは何の悪夢ですか?
 
 ここから始まるのは私の大反撃だったはずです。しかし、実際はラウルのオンステージのままでした。それに反撃をしなければいけないと思っても私の口は動いてはくれません。目の前の信じられない光景に固まったまま、頭の中には「どうして」や「なぜ」といったとりとめない言葉だけが流れていくのです。
 
 ― それもある意味、当然でしょう。
 
 確かにラウルは美しい容姿をしています。最近は髪も伸ばし、身体の線がまた柔らかくなっているようなきがするほどでした。しかし、彼がどれだけ美しく、女性的になろうとしても同性なのです。そんな相手に冗談――と言う名のジャブ――を真っ向から受け止められては、どうすればいいのかわからなくなってしまうのも当然でしょう。
 
 ― い、いや、前向きに考えるんです。それを仕方ないと思えるくらいには私に今の生活に慣れてくれたのだと…!
 
 そう自分に言い聞かせましたが、中々、上手くはいきません。あまりにも大きすぎる衝撃に私の頭では処理しきれないほどの情報量が溢れそうになっていました。今の彼にどう答えれば良いのかさえ分からず、私は思考も身体も完全に固まってしまったのです。
 
 「お、お前が私を欲しいと言ってくれるのであれば…そりゃ…私だって悪い気分じゃないし…吝かじゃないというか…」
 「い、いや、と、とりあえず落ち着きましょう」
 
 このまま会話を進めば何かとんでもないことになってしまう。その予感を強く感じた私はなだめるようにそう言いました。しかし、顔を真っ赤にしたラウルはどんどんとエスカレートいきます。まるで今まで内側に溜め込んでいた妄想を吐き出すようにして言葉を募らせていくのでした。
 
 「そ、その代わり、避妊だけはしっかりしてくれよ…い、いや…別にお前が嫌いって訳じゃないが…やっぱりその心の準備って奴がだな…」
 「いや、避妊も何も同性同士じゃ子供なんて出来ないでしょうに」
 「あう…いや…それは…」
 
 ヒートアップするラウルとは裏腹に少しずつ冷静さを取り戻した私のツッコミに彼は小さく呻いて止まりました。さっきもそうやって止まったかとおもいきやまた暴走し始めたので注意は必要ですが、とりあえずは落ち着き始めたと思っても良いでしょう。…いえ、正確に言えばそう思いたいのです。私とてできるだけ早くこのある種、地獄のような時間から逃げ出したいのですから。
 
 ― しかし…ラウルの視線が下へと降りたのは一体、なんなんでしょう?
 
 自分の身体を確かめるようにそっと下を見下ろした彼の仕草は私の中に強い違和感として残りました。ついさっきまで私の顔を見ていた彼がいきなり現した弱々しい仕草。それは一瞬ではありましたが、魔物娘に引けを取らない艶めかしさを持ち、私の心に焼け付くように残ったのでした。
 
 ― …まぁ、それはともかく。ここが押し処です…っ!
 
 「…まぁ、貴方が気に障ったのなら私が悪かったということですしね。申し訳ありませんでした」
 「え…?」
 
 ― 正直、これ以上、こんな雰囲気が続くのであれば謝ったほうがいくらかマシです。
 
 このまま妙な桃色空間の中にいると私だって妙な気分になってしまいそうなのですから。流石に同性相手にどうこうなるとは思いたくありませんが、最近のラウルは本当に女性的なのです。元々、ユニセックスな美人であった彼が相手であれば本当にどうこうなってしまうかもしれない。そんな不安が私の中に根付いていました。
 
 「そ、そうだ!さ、最初から謝れば私だって別にそこまで強く…言わなかったんだから…」
 「えぇ。本当、全面的に私が悪いです。悪いですからもうこの話題は勘弁して下さい…」
 
 そう言って肩を落としながら私は少し冷めたブラックコーヒーに口をつけました。流石に淹れたての芳醇な香りの殆どは逃げてしまっていますが、その苦味までは殆ど色褪せていません。ブラックコーヒーは他に味を誤魔化すものがないだけに淹れる相手の技量がありありと分かるのです。淹れ方によって大きく味を返るブラックコーヒーでこれだけの味が出せるのですから、やはりラウルはかなりの努力をしてくれたのでしょう。
 
 「いやぁ、やっぱりラウルのコーヒーが一番ですね」
 「そ、そうか?…えへへ。そっかぁ。私が一番かぁ…」
 
 ― …あれ?大事な部分が抜けてしまっているような気が…。
 
 ふと疑問に思いましたが、それを口に出すとまた薮蛇になってしまうような気がするのです。ようやく話題が変わり始めたのに、ここで逆戻りになってしまうのはとても許容できるものではありません。何か違うような気がしながらも、私は笑みを浮かべて再びコーヒーを口へと運ぶのです。
 
 「えへ…えへへへ」
 
 そんな私を見ながら、ラウルもまたコーヒーを口へと運びます。しかし、それは私の飲むブラックコーヒーではありません。ミルクとシロップで甘くされたクリーム色の液体なのです。まだブラックコーヒーを飲めるほどコーヒーに慣れていない彼は味が気に入ったのか私の前で顔を蕩けさせました。頬を緩ませる表情は子どものように純真で可愛らしいものです。しかし、それを見る私は妙な違和感とズレを感じているのでした。
 
 「あ!!」
 「ど、どうしました?」
 
 言葉に出来ない違和感とズレに内心、首を傾げた瞬間、私の前でガタリと椅子を揺らしてラウルが立ち上がりました。そのまま私の声に答えないままキッチンの方へと走って行きます。答える時間も惜しいと言わんばかりのその背中が深鍋の前に立った瞬間、私はようやく彼が何を思い出したのかに気づきました。
 
 「…ちょっと焦げちゃった…」
 「あー…」
 
 弱火でトロトロに煮込んでいる最中とは言え、何もしなければシチューも焦げてしまいます。それをお玉に伝わる感触で感じ取ったのでしょう。がっくりと肩を落とすラウルに私は何も言えませんでした。私の所為だけではないとは言え、口論になるような面倒事を持ち込んだのは私です。そんな相手が慰めた所で彼の心の支えにはならないでしょう。
 
 「うぅ…今日こそ焦げてないシチューをニンゲンに食べさせてやろうと思ったのに…」
 「ま、まぁ、多少、焦げた所で貴方のシチューが美味しいことには変わりはありませんよ」
 
 実際、以前、ご馳走になったときにはとても美味しかったのです。それは焦げの部分をラウルが自分で引き受けていたというのもあったでしょうが、私の皿の中にも焦げは幾つか入っていました。それを含めてもラウルのシチューは美味しかっただけに多少、焦げた所で彼を責める気にはなれません。
 
 「…お仕置き…する?」
 「…いや、しませんって」
 
 ― そう言ってそっと振り返ったラウルの瞳は何処か濡れていて…。
 
 きっと途中まで完璧だったのにも関わらず、仕上げで凡ミスをしてしまい、台無しになったのが悲しいのでしょう。しかし、それにしては全体の表情そのものに強い違和感を感じるのです。寧ろ単純なイメージだけで言えば、悲しみに暮れていると言うよりは期待しているような…。
 
 「…そっか。しないのか…」
 
 ― …いや、幾ら何でもそれは…ねぇ。
 
 ぽつりと呟かれたその声にも失望の色が含まれているように聞こえるのはきっと気のせいです。誰が何と言おうと気のせいに決まっているのです。そう思い込まなければ、今すぐにでも『お仕置き』したくなるので気のせい以外の何者でもないでしょう。
 
 「とりあえず…もう出来たんでしょう?もう私、お腹ペコペコなんですよねー」
 「あ、あぁ…分かった」
 
 敢えて明るく口にした言葉にラウルは小さく頷き、戸棚からお揃いの食器を取り出しました。彼がこの家に来てから新しく買い直したそれは青と緑の色違いです。そこにお玉ですくったクリーム色のシチューを入れていくのを見ながら、私もそっと立ち上がりました。
 
 ― まぁ…ラウルにだけ用意させてられないですしね。
 
 椅子に座ったままキッチンで動くラウルの背中を見て、出来上がりを待つのもそれなりに乙なものですが、私はそんな亭主関白のようなキャラではないのです。それに話題を変える為に言った言葉とは言え、お腹が減っているのは決して嘘ではありません。色々あって昼を抜いた私の身体はカロリーと糖分に飢えきっているのですから。
 
 ― とりあえず…スプーンとバスケット…っと。
 
 戸棚から二人のスプーンを掴んだ手とは逆の手で私はバスケットを持ち上げました。ちょっとした小包大の大きさを持つその中には昨日買ったばかりの白パンが入っているはずです。それをテーブルに運んで二人の真ん中に置き、スプーンをセットした頃には両手に皿を持ったラウルがキッチンから出てくるのでした。
 
 「あぁ、ありがとうな」
 「こちらこそ、何時も料理を作ってくださって感謝していますよ」
 「そうやってまたいきなり恥ずかしい事を言う…」
 
 お互いに礼を言いながら、私とラウルは着席しました。しかし、その顔はきっと対照的なものになっているでしょう。片や満足気な人間と片や羞恥で顔を真っ赤にするエルフの対比です。それに何時もの力関係に戻りつつあるのを感じながら、私は内心、そっと安堵の溜息を吐くのでした。
 
 「さて…それでは…」
 「あぁ」
 「「頂きます」」
 
 二人でジパング式の言葉を放ちながら、同時にスプーンを掴みました。そのまま湯気を湧き上がらせるシチューをスプーンで掬い上げ、口の中へと運んでいくのです。瞬間、私の中でトロトロになるまで煮こまれた野菜の甘さと牛乳の優しさが広がっていくのです。食欲をそそる香りに負けないその味が冷えた私の身体を内側から暖かくしてくれるのでした。
 
 「…ふぅ」
 
 思わず溜め息を吐きながら、私は二口目三口目とどんどんと進んでいきます。その合間に私はバスケットから握り拳よりも少し小さな白パンを取り出しました。昨日買ったそれを私は一口大にちぎって、シチューの泉に潜らせるのです。
 
 「…行儀が悪いぞ」
 「安心して下さい。自覚はあります」
 
 シチューをたっぷりとつけたそれを口へと運びながら、私はそう答えました。確かにパンをシチューへと浸けて食べるのは行儀が悪いでしょう。しかし、クリームシチューとパンを出されて、これをやらない人間が果たしているでしょうか。きっと誰だってそうしますし、私だってそうしているだけに過ぎません。
 
 「まったく…これだからニンゲンは…」
 
 そんな私を見ながら、ラウルは唇を小言を口にしました。しかし、その言葉とは裏腹にラウルの表情は何処か嬉しそうなものに見えるのです。ここ最近では見慣れたその表情は常に食事の時に出てくるものでした。きっとラウルもまた誰かに食事を振る舞うという事に対して喜びを感じているのでしょう。
 
 ― まぁ…分からないでもないです。
 
 私も誰かのために料理を作った経験というのは少ないとは言え、ないわけではないのです。その相手は『彼』やウィルソンと言った極一部ではありますが、彼らの喜ぶ表情を見てそれなりに嬉しかったのを覚えていました。きっと今のラウルはその時の私と同じモノを感じてくれている。そう思うだけで何となく心の中が暖かくなっていくのでした。
 
 「ふぅ…ご馳走様でした…っと」
 
 そう告げて私はスプーンを食器に載せるようにして手放しました。陶器と金属がこすれ合い、カチャンと小気味良い音を立てます。それを聞きながら、ラウルに視線を向ければ彼は未だもそもそと口を動かして白パンを食べている所でした。彼の皿にはまだシチューが半分近く残っており、まだまだ時間がかかりそうです。
 
 ― それはきっと私が食べるのが人並み以上に早いっていうのもあると思いますが…。
 
 それほど効率を重視して日々を生きている訳ではありませんが、食事に時間をかけるのはあまり好きではないのです。それよりもやりたい事やしなければいけない事が山ほどあるのですから。勿論、TPOは弁えているので毎日がそんな食べ方という訳ではありませんが、家での食事に自分を抑える必要などはないでしょう。
 
 ― それと同時にラウルが食べるのも遅いというのもあって…。
 
 きっと食事の作法の一つ一つも両親から教えられたのでしょう。自分の作ったシチューを口に運ぶラウルの仕草は美しく、育ちの良さを感じさせるものでした。スプーンと食器が擦れる音一つすらさせず、無音で食べる姿は何処かの貴族よりも洗練されているでしょう。しかし、だからこそ、彼は相対的に食事をする速度が遅く、私との間にこれだけの差が生まれるのでした。
 
 ― まぁ…それが悪いなんて事はないんですけれどね。
 
 こうして優雅に食事をするラウルの仕草を間近で見られるのです。それは私にとっては小さいながらもメリットでした。そこらに溢れる有象無象の『芸術品』よりもよっぽど美しい彼がそれに相応しい動きを見せているのですから。何処か舞を彷彿とさせるその動きは見ているだけでも悪くない気分にさせてくれるものでした。
 
 「…あんまりジロジロ見るな。恥ずかしいだろうが」
 「ふふん。食べるのが遅いのが悪いんですよ」
 
 その美しい肌に朱を差し込んで主張するラウルの言葉を私は一刀のもとに切り捨てました。勿論、それは彼が早く食べることなんて出来ないと分かりきっているが故の発言です。これまでもジロジロと食事のシーンを見る私にラウルは同じ事を言ってきました。その度に同じ台詞を返していますが、彼の食事の速度が改善された様子なんて一度だって感じられなかったのですから。
 
 「まったく…食事中にジロジロ見るのはマナー違反だと言うのに…そんなに楽しいか?」
 「まぁ、貴方以外なら楽しくはないでしょうね」
 「んぐっ…!」
 
 私の言葉にラウルはいきなり咽喉が詰まったように身体を震えさせました。そのまま一気に手元のコーヒーを嚥下し、奥へ奥へと無理矢理、流し込もうとしているのが分かります。パンを食べている最中ではなかったのがせめてもの幸いでしょう。パンは水気を吸うと膨れる傾向にあるのです。パンで咽喉が詰まった時に水で流し込もうとするのはかなり危険な行為なのですから。
 
 「はぁ…はぁ…」
 「大丈夫ですか?」
 「大丈夫…だけど、大丈夫じゃない…」
 
 明らかに矛盾した言葉を返しながら、ラウルはそっとその薄い胸板に手を置きました。まるで無理矢理、動機を抑えこもうとしているような仕草に私は首を傾げます。正直、そこまで恥ずかしがるような言葉を言ったつもりはないのです。私にとって先のそれはかなり正直に口から出たものですが、思い返してもそれほど恥ずかしい台詞だとは思えません。
 
 「お前って本当、卑怯だな」
 「一応、自覚はありますけど、なんですいきなり」
 「…いや、自覚がないからこそ卑怯なんだ」
 「またそんな言葉遊びを…」
 「うるさい!これくらい言わせろ!!」
 
 顔を真っ赤にしながらそう叫びつつ、ラウルは拗ねたように視線を伏せてまた黙々と食べ始めました。それでもたまに私へとチラリと視線をくれるのはやっぱり気になっているからなのでしょう。私なんてもう気にしていないというポーズを取りながらも、意識しまくっている彼のそんな姿に私は思わず笑みを浮かべてしまうのでした。
 
 「…むぅ…」
 
 そんな私と視線が合う度にラウルは悔しそうに小さな呻き声をあげるのです。それにまた笑みを深くしながらも、あんまりジロジロ見ていると彼だって折角作った料理の味が分からないでしょう。からかうのはこの辺りまでにして大人しく彼が食べ終わるのを待つのが吉です。
 
 ― それに…今日は大事な話もありますしね。
 
 そう心の中で呟いた瞬間、私の胸にまた重苦しいものが復活しました。それを振り払うように私はだいぶ冷めたブラックコーヒーを流し込み、身体にカフェインを供給します。独特の苦味と香りが私の口の中で踊り、言いたくないという私の迷いを少しずつ薄れさせてくれました。完全にその迷いが消えた訳ではありませんが…それでも延々と選択を先延ばしにして最悪の結果にはならないでしょう。
 
 「ご馳走様…と」
 
 そう考える私の前でラウルがジパング式の言葉を口にしました。これでもう食事の時間は終わりです。後は穏やかな食休みが続くでしょう。普段であればここで下らない雑談をしながら、私は明日の準備や残った書類の処理をし、ラウルも食事の片付けをするのです。しかし、今日はそう簡単にはいきません。彼に言わなければいけないことが一つあるのですから。
 
 「ラウル。話があります」
 「…何だ改まって…」
 
 口ではそう言いつつも、大事な話であると理解したのでしょう。ラウルはそっとその背筋を伸ばして私の話を聞く姿勢にはいりました。基本的に口は反抗的であるものの、このエルフの青年は純朴で素直です。口では色々言いつつも私の申し出を断った事は共同生活が始まってからは一度もありません。だから…きっと今回も彼は受け入れてくれる。そう自分に言い聞かせながら、私は口を開きました。
 
 「…近々…いえ、多分、もう一ヶ月も経たない内にこの街は戦争に巻き込まれます」
 
 ― それは最早、確定情報も同然でした。
 
 この地方の流通殆どに関係している豪商たちが武器がある特定の国々に集まりだしているのを察知しました。この街の上層部もその国々が国境付近で不穏な動きを見せているのを感じているのです。国境侵犯を繰り返し、挑発すると同時に偵察を繰り返すそれは集まる傭兵と武器という要素を加えるまでもなく戦争への準備に他なりません。近々――二週間もしない内に宣戦布告が出されるのは確定と思って良いでしょう。少なくとも上層部はそう考えているようです。
 
 ― 勿論…これは戦争という形を借りた教団の武力介入です。
 
 不穏な動きを見せているのは全て教団側に与する国々でした。ここ最近、この街を始めとして魔物側に着く国々が増えたのが気に入らないのでしょう。教団子飼いの武装組織が次々と現地入りしている辺り、かなり本気でこの辺りの親魔物領を潰すつもりのようです。特にこの街はこの周辺の物流においてはかなり重要な拠点です。最近、魔界で負け続けの教団としては失った資金や物資を回収するためにもこの街は是が非でも欲しいものなのでしょう。
 
 「勿論…私たちだってそう簡単に負けるつもりはありませんよ」
 
 警備隊の数だけで約5000。その中の殆どが身体を鍛えており、戦力として数えられるでしょう。教団側の国々との関係が悪化し始めてからかなりの財を投入して強化された城壁は堅牢そのもので、突破するのは至難の業です。以前から募集が進められていた傭兵は結構な数が集まり、こちらには魔物娘までいるのでした。装備や魔術の質でもきっと私たちは上回っている事でしょう。
 
 ― …しかし、それでもきっと正攻法では勝てません。
 
 これだけあからさまに侵略国への助力をしてるのです。失敗すれば得られたはずだったメリットだけでなく、面子もボロボロになってしまうでしょう。『神の威光』の名の下に商売をする彼らはマフィア以上に面子が大事なのです。魔界相手ならばまだしも助力した国々が負けるなんてことは絶対に許せません。きっと確実に勝利を得るためにその一部とは言え、膨大な数を投入してくるでしょう。
 
 ― そして…戦争なんてものは数がモノを言う世界です。
 
 基本的に戦争は防衛側が有利な世界です。それが堅牢な城壁に護られているのであれば尚更。籠城戦を選択すれば10倍近い相手とも負けないでしょう。…しかし、それはあくまで負けないだけ。籠城戦を選択した時点で勝ち筋はもう援軍頼みになってしまうのです。それは教団側だって分かっているだけにそう易々と選択させてくれる訳がありません。この街と同盟を結んでいる所はかなりの数に上りますが、その国々にも教団側の戦力が送り込まれるに違いないのですから。
 
 「…ですが、状況は厳しいと言わざるを得ません。少なくとも…楽観視出来るような状況ではないのです」
 
 実際に始まってみないとどうなるかは分かりません。しかし…私は負ける公算が高いと踏んでいました。少なくとも教団を相手にするにはこの街はあまりにも経験不足です。警備隊はあくまで治安維持の為に作られたもので戦争をするのは専門外なのですから。戦力になれないとまでは思いませんが、魔物娘を相手にするために日々訓練を積んでいる騎士団などと比べられるはずもありません。そんな連中が出てきたら、雇った傭兵団頼みにするしかないのです。
 
 ― 数や練度的にも野戦は殆ど無理。しかし、籠城戦を選択するにしても…この街の備蓄はそれほど多くはありません。
 
 そもそも流通で成り立っている街が籠城を選択してもつはずがないのです。それでも上層部は何とか無理を押し通して保存食を備蓄していましたが、人口の多いこの街ではどれだけ配給を制限したとしても一ヶ月が限界でしょう。魔精霊を擁すこの街はインフラは整っているので水や油の心配はありませんが、その一ヶ月で援軍が来なければ私たちは干上がって死ぬだけです。
 
 「今はまだ公表されていませんが…一週間もしない内に疎開が始まります」
 
 それは上層部も殆ど同じ考えなのでしょう。今日の呼び出しはその連絡でもあったのです。つまり負ける可能性が高いので、大事な人を疎開させる準備をさせておけ、という事なのでしょう。はっきりと口に出して言われた訳ではありませんが、そう勧められたのは言外から察する事が出来ました。それから話し合う時間をやろうと上層部の権限で無理矢理、仕事を取り上げられてしまったのです。
 
 「だから、ラウル。貴方はそれに従ってこの街から――」
 「断る」
 
 ― 逃げ出すべきです。
 
 そう言おうとした私の言葉を先にラウルが遮りました。その表情はとても不機嫌そうで、あからさまと言えるほどに眉を歪めています。先のような激昂とはまた違いますが、今のラウルが静かに怒っているのが一目で分かりました。そんな表情に私は内心、タジタジになりながらも口を開くのです。
 
 「し、しかし…貴方はこの街とは無関係です。何も滅ぶ可能性の高い側に身を置く必要はないでしょう?」
 「…いや、あるぞ」
 「…一体、なんです?」
 
 未だにラウルは一人で外に出歩くのが恐ろしいと私と一緒でなければ外出もしません。私以外の誰にも決して懐かない猫のような性格をここ最近は強めていっていました。プライド高い彼が逃げるような真似をしたくないと思うのかも知れません。他にも色々、思いつきますが…そのどれをとっても命を落とす危険と引換に出来るほどの価値はないでしょう。
 
 「私が…お前以外のニンゲンに頼れるとでも思っているのか?そもそも…この街の疎開先って事は魔物娘がうじゃうじゃいる可能性が高いのだろう?そんな所に一人で放り込まれるなんて御免だ」
 「しかし…それでも死ぬかも知れないよりはマシでしょう?だって貴方は…」
 
 既にインキュバス化が進行しているであろうラウルを教団が見逃すはずがありません。この街に教団兵が雪崩込むと同時に間違いなく虐殺されてしまうでしょう。いえ、それどころかこれだけ見目麗しい彼の事です。その前に口に出すのもおぞましいような事をされる可能性だって否定できません。教団がどれだけ神を信奉していようとも所詮は人間の集まりでしかないのです。そして…人間のモラルなんて言うのはあまりにも脆く移ろいやすいものなのですから。
 
 「その時は…その時だ。運が悪かったと思って諦める」
 「いや…諦めるって…貴方、プライドを引換にして死ぬつもりですか?」
 「…プライドの問題だけじゃない。他にも色々…まだ言えないけれど理由はある。それに…命の価値なんて自分でしか決められないものだろう?」
 「それは…そうかもしれませんが…」
 
 他人がなんと言おうとたった一つの命を張る場面は本人しか選べません。どれだけ説得する言葉を並べようとも本人が納得しなければ意味が無いのですから。そして、はっきりと背筋を伸ばして私を見据えてくるラウルを心変わりさせる言葉を私は思いつきません。何時もであればラウルを翻弄し、遊べるはずであるのに、何を言っても彼の決意を揺るがせる事が出来ないような気がするのです。
 
 「そもそもだな…お前は…私と離れたいのか…?私は…それなりにこの生活が気に入っていたんだが…」
 「っ…それは…」
 
 ― 勿論、私だって今のこの生活が気に入っています。
 
 毎朝、ラウルに起こしてもらって彼の用意した食べて仕事へ。帰ってくる時には暖かいコーヒーと食事が待っていて、「おかえり」と迎えてくれる。食事の最中も雑談のネタが尽きず、ラウルを弄って楽しむことが出来る。終わった後も下らない話をしながら、お互いに好きなことをして時間を潰し、「おやすみ」と分かれる生活。それを嫌いになれる人間が何処に居るでしょうか?私だって…本当はこんな事を言いたくなんてありません。
 
 ― だからこそ…私は勢いづける為に高級娼館に足を運んだのですから。
 
 普段はそんな金の使い方などはしません。そもそも勢いづけるだけならば酒でも十分なのですから。しかし、ラウルと別れるのはそれだけでは決して足りないものだったのです。だからこそ、私は自己発奮を兼ねて大分、足が遠のいた高級娼館へと足を運んだのでした。
 
 「本当は…嫌なんだろう?お前だって今の生活が気に入っているはずだ」
 「…知ったような口をききますね」
 「今のお前の辛そうな表情を見れば分かるさ」
 
 ― 辛そう…?私が…?
 
 今まで『能面のような笑い顔』と言い続けられた私が辛そうな表情をしている。それは甚だ信じられないものでした。しかし、それはスルリと私の中へと入り込んできて、根付いていくのです。確かに…今のこの重苦しいもやのような感情は辛いと言い表せるものなのでしょう。そう思えば、そんな表情をしているというのも嘘ではないと思えるのです。
 
 「お前も私と離れたくないのなら…わざわざ離れなくても良いだろう?」
 「しかし…かと言って貴方の命を危険に晒す訳には…」
 「そう思うなら私を護れ。全力で」
 「…え?」
 
 ― 強気な言葉に驚いてラウルの顔を見ればその頬には朱が差し込んでいました。
 
 高飛車で気障な台詞はプライド高いエルフにとっても恥ずかしいものなのでしょう。その頬を薄く染める顔には羞恥の色が見て取れました。そんなになるのであれば言わなければ良いのに、とも思いますが、彼なりに励まそうとしてくれているからなのでしょう。
 
 「お前が…いや、お前たちが勝てば何の問題もない。これまで通りの生活を送れる。そうだろう?」
 「それは…確かにそうですが…」
 
 しかし、相手の戦力差をはっきりと理解出来るが故に私の心は半ば諦めていたほどなのですから。無論、諸手を上げて降参なんて腹がたつので絶対にやってはやりませんが、徹底抗戦したとしても勝ち目は薄いのです。
 
 ― それは勝てば良いと言えるほど単純なものではないでしょう。
 
 そう思っているのに私の心の中からふつふつとやる気が出てくるのです。まるで彼の言葉が私の心にあった蓋を取り外したように幾らでも湧き出してくるのでした。それが血管を通るようにして身体中へと染み渡り、広がっていくのです。脱力感と重苦しい物を背負わされていた身体がその枷を取り払ったかのように軽くなり、頭の中がクリアになっていきます。
 
 ― …こうして…誰かを護りたいと思うのは…もしかしたら始めてかもしれませんね。
 
 そう思ってもおかしくないほど執着したのは『彼』だけですが、『彼』は私に護られるほど弱くはありませんでした。精神的にも肉体的にも私と同等かそれ以上の男性であったのです。そんな『彼』を支えたいとは思えども、護りたいと思ったのは一度だってありません。
 しかし、ラウルもまた肉体的――勿論、ここは身体能力だけでなく魔力も含まれます――にも精神的にも私よりも優れているのです。出会った当初であればまだしも今も精神的に成長を続けるラウルは既に私よりも芯が強いと言えるでしょう。そんな相手を『護りたい』なんておこがましいにもほどがあります。しかし、それでも、私は彼の言葉通り、護りたいと思ってしまうのでした。
 
 「まぁ…ニンゲンだけでは不甲斐ないからな。仕方がないからこの私も手伝ってやろうという私の優しさも僅かに含まれていたりいなかったりだぞ」
 「はいはい。感謝していますよ」
 
 顔を真っ赤にして何時もとはまったく違う話し方をするのはきっとかなりテンパっているからなのでしょう。元々、彼は傲慢ではありましたが、決して高飛車キャラではなかったのです。それを曲げて無理矢理、高飛車な台詞を連発しているので訳が分からなくなってきたのでしょう。顔を真っ赤にしながらどんどんと訳の分からない台詞を漏らすラウルに私は微笑みながら、口を開きました。
 
 「…ありがとうございます」
 「…え?」
 「…貴方のお陰で少しやる気が出てきましたよ」
 
 ― 流石に正直に全てを伝えるのは気恥ずかしすぎます。
 
 しかし、それでも御礼の言葉一つ言えないほど私は意地っ張りではありません。彼の言葉一つでやる気に溢れているなんて口が避けても言えませんが、やる気が出た事くらいは伝えても良いでしょう。そう心の中で言い訳をしながらも気恥ずかしさは止まらず、私はついつい視線を明後日の方向へと向けてしまうのでした。
 
 「…ふふっ」
 「…何ですか一体」
 「いや、お前のそういう所が私は結構、好きだと言うだけだ」
 「…そりゃどーも」
 
 私が照れを見せるのと反比例するように素直さを見せるラウルに私は溜め息を吐きたくなりました。普段はこんな調子では決して無いのです。弄るのは私で弄られるのは常にラウルなのですから。しかし、それがまた逆転し始めている。それに妙なこそばゆさを感じながら、私は椅子に座り直したのです。
 
 「話を戻しますが…貴方がそれで良いのであれば私だって構いませんよ。どうにも放っておけないエルフ様の為にも頑張りますとも」
 「…それは私の台詞だと思うんだがな。意外と抜けてるのはお前の方だと思うぞ」
 「そんなの貴方くらいなものですよ」
 
 普段はもっと色々、抜け目のない人物としてそれなりに目をかけられているのです。そんな私がこんな凡ミスを繰り返すのは『彼』やラウルの前くらいしかありません。そしてその頻度は自宅という気が緩む場所での邂逅が殆どだということを差し引いてもラウルの方が圧倒的に多いのです。その証拠に私のキャラはさっきから崩れっぱなしなのですから。
 
 「それは…私が特別…って意味…か?」
 「まぁ、特別かそうでないかと言えば、ギリギリ…多分、恐らくは前者だと思いますけれど」
 「…ホント、お前は言い回しが一々、素直じゃなくて可愛くないな」
 
 ― …いや、ここで特別なんて返したらそれこそ告白みたいじゃないですか。
 
 それこそ私のキャラじゃありません。と言うか同性に告白する趣味なんて殆どの男性が持っていないでしょう。少しばかりズレているとは言え、趣味嗜好が大きく一般的とは乖離している訳ではない私としてはそれは許容できません。そもそもこうして肯定の言葉を呟いただけでも結構な譲歩をしている証なのですから。
 
 「最高の褒め言葉をありがとうございます」
 
 しかし、わざわざそれを口に出せばそれこそラウルを調子付かせる結果にしかなりません。それが分かっているだけに私は彼の言う『可愛くない』言葉を呟きながら、視線を彷徨わせてしまいます。こういう雰囲気は今まで殆どなかったからでしょうか。妙に慣れず、自分の身体が制御できないのです。そんな私にラウルは優しい笑みを浮かべながら、私の顔をじぃぃと見つめてくるのでした。
 
 「…何です?」
 「いや、食事中のお返しだ。気にするな」
 「…それじゃあ同じセリフを聞き返しますけれど、楽しいですか?」
 「うん。お前がそこまであからさまに笑顔以外の表情を見せるのを見るのは珍しいからな。じっくり観察させて貰おう」
 
 ― …さっきの仕返しだと言いながら私を見る目は何処か嬉しそうで…。
 
 きっと一矢報いる事が出来て嬉しいのでしょう。しかし、当然ですが彼が満足している分、私に不満が募っているのです。誰かの幸せが誰かの不幸のように、弄られる側と弄る側という関係は表裏一体の形となっているのですから。
 
 「可愛くない私を見ているより、とっとと後片付けでもしたらどうですか?」
 「んーいや、まだコーヒーカップが残ってるし、今から洗うと二度手間だから後片付けはお前と私がコーヒーを飲み終わってからにする。それに可愛くないのはあくまで態度であってお前の顔の造形はキライじゃないぞ」
 「…そりゃ嬉しいですね。出来れば女性に言われたかったくらいには」
 
 どうやら譲るつもりはないらしいラウルに私は一つ溜め息を吐きました。そんな私にまた笑みを濃くしながらラウルは上品にカップを口へと運びます。何処か勝ち誇ったその表情を屈辱と恥辱で塗り替えてやりたいと思いますが、今の私にはその手段が思いつきません。仕方なく私も同じようにコーヒーを口へと運ぶのでした。
 
 「あぁ、そうそう。見ると言えば…な」
 「ん?」
 
 そう前置きしたラウルの表情には勝ち誇ったものではありませんでした。眼に見えるほどの不安を浮かべる表情はここ最近ではとても珍しいものです。この家で暮らすようになってからほ殆ど見なくなったその表情に私は嫌な予感を感じるのでした。
 
 「最近、右隣に引っ越してきた相手なんだが…」
 「あぁ。あの男性ですか…」
 
 つい二週間ほど前まで右隣は無人でした。しかし、それはそこに家が建っていなかったという訳ではなく、建てるだけ建てて空き家のままであったのです。たまに人が入っていて維持していたのは知っていましたが、長期間人がそこに滞在していた所を私も見たことがありませんでした。
 
 ― そんな右隣に最近、新しい男性が暮らし始めて…。
 
 二十代前半頃の小太りの青年が右隣に住み始めたのが2週間前です。それから私は何度か彼と顔を合わせて挨拶もしましたが、一度も返事を返された事はありません。それどころか完全にいなかったものとして私を無視するのでした。決して人好きのする性格をしていないと自覚しているとは言え、初対面の相手にそこまでされるほど悪名が届いている訳ではありません。
 
 ― だから…流石にちょっと不気味ではあるんですよね…。
 
 何処かで恨みでも買っていたのかとざっと彼の経歴を調べてみましたが、彼もその親も私との接点が何一つとしてない相手でした。念の為に彼の交友関係まで手を伸ばしてみましたが、私との接点は洗い出せなかったのです。きっと生来の性格的に偏屈なのでしょう。最近はそう諦めて、私も挨拶をしないようにしていました。
 
 「最近…右側のカーテンを開けると視線を感じるような気がするんだが…」
 「視線…?」
 「あ、あぁ…その…なんていうか、じっと見られているっていうか…」
 
 ― ぽつぽつと言葉を漏らすラウルの表情は優れません。
 
 彼は基本的に一人で外に出ることは出来ず、昼はこの家に一人で過ごしているのです。まだ私以外に友人らしい友人を持たないラウルにとって、それはよっぽど怖かったのでしょう。私の胸の中にちょうどすっぽりと収まってしまいそうな肩も小刻みに震えていました。
 
 「最初は気のせいだと思ってたんだが…ここ最近は本当ずっとで…」
 「…そんなに怖いならカーテンを開けなくても構いませんよ」
 
 太陽光が入り込まない家屋は痛みが早いと聞きますが、怖がっている彼の方が家よりもよっぽど大事です。それにカーテンを開けなければすぐに駄目になるという訳ではありませんし、彼が怖がっている原因を取り除けるのであれば安いものでしょう。勿論、視線云々がラウルの思い込みという可能性も否定できませんが、それは殆どないと私には思えるのです。
 
 ― 何故ならこの右隣に住む男性はちょっと調べただけで男色家と分かるほど有名で…。
 
 より正確にはかなりの女性嫌いで有名な人物なのです。傍に侍らすのも美少年のみらしく、それなりの商人である親が稼いだ金を美少年の維持に食いつぶすという救いようのない男性なのでした。そんな相手がラウルの姿を見ればどうなるのかなんて一目瞭然です。無理矢理、手篭めにしようとする可能性だって否定出来ません。
 
 「…いや、いっそのこと引越しますか」
 
 私が警備隊勤めであり、ラウルもまた一人では外に出ないとは言え、拉致の危険性がないとは言い切れません。私のいない昼間にラウルが襲いかかられる可能性だってあるでしょう。もし、そうなった時には悔やんでも悔やみきれません。それを防ぐためにもこの家を捨てることを考えておいたほうが良いでしょう。
 
 「いや…気がするってだけでそこまでやらなくても…」
 「ですけれど…」
 
 ラウルを不必要に怖がらせる訳にはいかないので、隣の男性が男色家である事は言えません。しかし、重要な札を伏せたまま彼を説得出来るとも思えないのです。説得したいけれど、札は伏せたままにしておきたい。その矛盾した感情の中で私は大きく揺れ動いていました。
 
 「別に…私はカーテンを開けなくても良いだけで十分だし…」
 「…本当にそれで怖くありません?」
 「こ、怖いものか!!まぁ…ちょっと不気味だけど…それだけだ。引越しするようなものじゃない」
 
 ― それは間違いなく遠慮であると思って良いでしょう。
 
 私と一緒に買い物をするようになって人並みの金銭感覚を身につけはじめたラウルはどんなあまり自分の為だけに物を買おうとはしません。唯一の例外は暇潰し用の本くらいなものですが、それも一冊を何度も読み返してからおずおずと私に強請る程度の頻度です。きっと荒んでいた頃に壊した物品の修理費や慰謝料なんかを今も気に病んでいるのでしょう。私が無理矢理、買い物カゴにいれなければ安物のスリッパ一つ買おうとしないのラウルが引越しという多大なお金のかかる行為を賛成するはずがありません。
 
 「…分かりましたよ。でも、身の危険を感じたらすぐに教えて下さいね」
 「あぁ、分かってる」
 
 ― …まぁ、その前に幾つか候補をピックアップしておきますか。
 
 ラウルから報告があってからでは遅いのです。基本的に遠慮しがちな彼が危険を口に出すのはかなりギリギリになってからなのですから。今回の話だって気づいてから結構な時間が経っているのは彼の口ぶりから分かります。個人的にこんな話を聞いて、一人で彼を留守番させておくのも心配ですし、早めに引越し先の候補を見繕っておいたほうが良いでしょう。
 
 「まぁ、それだけなんだが…変なことを言い出してすまない」
 「いえ、寧ろ助かりましたよ」
 
 ラウルの言葉がなければ、もし、あの男性がラウルに何かをしても私は怪しいと思っていただけでしょう。私だって挨拶されない程度で相手を犯人扱いするほどぶっ飛んだ性格をしていないのですから。その間に取り返しのつかない事になっていた可能性も考えられるだけに、今回の話はとても助かるものでした。
 
 ― まだ何もしていないのに犯人扱いするのもどうかと思いますけれど…ね。
 
 しかし、現状の情報だけを整理するとこれ以上無いほど怪しいのは確かです。それを決して忘れないように心の中に刻み込みながら、私はそっとコーヒーカップを傾けるのでした。大分、温くなったそれを胃の奥へと流し込みながら、私は明日にはもう少し詳しく調べておこうと予定を建てていくのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ― ショーン・ネイティス 23歳 勿論、独身。
 
 実家はそれなりに裕福な商人ですが、本人にそれを継ぐ意図はないようで、20代に入っても放蕩を続けているようです。子どもの頃に英才教育を受けてきたお陰でそれなりに知識はあるようですが、海千山千な商業の世界で身を立てられるほどではありません。もう少し努力すれば話は別かもしれませんが、わざわざ別邸に引っ越して日々を怠惰に過ごしている彼に才能があったとしてもそれが芽吹く事はないでしょう。趣味は身近に侍らせる少年たちと性的な意味で遊ぶことであり、その中にはかなり強引な手段で手に入れた者もいるそうです。
 
 ― …これが家の隣に引っ越してきた男のデータでした。
 
 以前にも調べてもらっていたとは言え、たった一日でここまで詳細なデータが揃う辺り、何かがおかしいとしか思えません。自分で依頼しておいてなんですが、明らかに異常な速度です。きっと法に触れるレベルの手段を幾つも使っているのでしょう。その恩恵に与っている身としてはあまり強くは言えませんが、仮にも法を遵守させる側である以上、彼――情報屋であるマークとの付き合い方も考えなければいけないかも知れません。
 
 ― まぁ、それはさておき…っと。
 
 手堅く纏められた情報を頭の中へと叩き込みながら私はそっと肩を落としました。凍えるような冬の寒さは陽が落ちると一層、酷くなっています。ただでさえ体温の低い私は冬の寒空の下にいるだけでゴリゴリと体力が削られていくのでした。
 
 ― まったく…ここぞとばかりに人をこき使うんですから…。
 
 昇進が決まって今日で二日目。しかし、その二日間の間に私に舞い込んできた仕事の量は兼任していた時と変わりがないほどでした。きっとラウルの件で弱味を握ったと思われているのでしょう。実際、その通りであるだけに私は逆らえず、酒場で大騒ぎが始まった時間に我が家へと足を向けている真っ最中なのでした。
 
 ― …早く帰って暖かいコーヒーでも飲みたいです…。
 
 家に帰れば、またラウルが「ただいま」と言って迎えてくれるでしょうし、暖かいコーヒーだって入れてくれるはずです。基本的に私と一緒に食事を摂ろうとする彼は温かい食事と共に待ってくれているでしょう。そう思うだけで私の足に力が漲り、前へと進む原動力になるのでした。
 
 ― そんな私の前にようやく白亜の壁が現れて…。
 
 見慣れた我が家の風景が見えて私は安心したように深い息を吐きました。そのまま魔力の光を漏らす家の間を通りながら、玄関の前に立つのです。そのまま鍵を取り出そうとした瞬間に私は強い違和感を感じました。
 
 ― …あれ?
 
 懐に入れた鍵はしっかり持っています。長年、一人暮らしであった私が鍵を忘れたり、何処かに置き忘れたりすることはありません。問題はその鍵を差し込む家があまりにも静か過ぎる――と言うか、光一つ漏れていない事で…。
 
 ― …まさか…っ!?
 
 逸る心を抑えながら、私はそっと腰の剣へと手を伸ばしました。勿論、基本的に街中で抜刀などはしません。帯剣が認められているとは言え、警備隊員がその剣を使えるのはあくまで緊急時のみと定められているのですから。しかし…今のこの状況は一刻を争いかねないものなのです。そう心の中で呟きながら、私は愛用する細身の剣――エストックを抜き放ち、そっと右隣の家へと視線を向けるのでした。
 
 ― そこにもやっぱり光が見えなくて…。
 
 そのままそっと気配を探ってみますが、やっぱり右隣の家にも我が家にも人の気配を感じません。それに一気に高まった危機感を抑えつけながら、私は左手で鍵を取り出し、ゆっくりと扉の鍵を開けようとしました。しかし、本来であればすぐに入るはずの鍵が中々、入らないのです。諦めて取っ手を下へと下ろせば、ゆっくりと扉が開いてしまいました。
 
 ― …まったく…嫌な予感ほど当たるものですね…!!
 
 ラウルが普段から掃除しているはずの廊下には暴れたような跡がありました。まるで地震でも起こったかのように物が散乱する廊下には武器らしきものによってつけられた切り傷が幾つも並んでいるのです。勿論、私が今朝にラウルに見送られた時にはこんな惨状ではありませんでした。となると…私がここに帰ってくるまでの間に何かしらの戦闘がここで行われたとしか考えられません。
 
 「…ラウル?」
 
 念のため問いかけてみますが、暗く静まり返った家の中からは返事の一つも帰ってきません。そのまま片手にエストックを持って、用心深くリビングへと進んでいきます。そこは廊下よりもさらに酷い状態でした。きっと料理の途中だったのでしょう。転がった鍋からは冷めた水が零れ、切り揃えられた野菜がそこら中に転がっています。盾にでもしたのか机は倒されており、そこには幾つもの傷が残っているのでした。
 
 「…っ!!」
 
 決して穏やかとは言えないリビングの様子を見て、私はもう居ても立ってもいられなくなってしまいました。手に持つエストックを握りしめ、私は彼の名前を呼びながら家中を駆けまわります。しかし、どれだけラウルと叫んでも返事はなく、私を迎えるのは何者かの襲撃を知らせる傷だけでした。
 
 「…くそ…っ!くそくそくそくそくそっ!!!」
 
 もう既に事件は終わって――いえ、正確には始まってしまっている。それをどうしようもなく理解させられた私は怒りのままにそう叫びました。こんな気持ち…今まで一度だって味わった事がありません。『彼』の所属する小隊がオークの盗賊団によって壊滅したと告げられた時とは比べものにならないほどの憔悴感と、マグマのような怒りが私の中をぐるぐると渦巻いていました。激しすぎるその激情は私の中で行き場を求め、握りしめた手からぽたりと赤い液体を垂れ流させるのです。
 
 ― 駄目だ…!冷静に…冷静になれ…!!
 
 確かに事件はもう起こってしまいました。しかし、まだリカバリー出来ない訳ではないのです。まだ最悪の結果に至っていない可能性がある以上、ここで自分を責めている時間はありません。可能な限り速やかにラウルを助けださなければいけないのです。
 
 ― だけど…どうやって…?
 
 これまでの情報から右隣に住むあの青年―ショーンが怪しいことは分かっています。しかし、今の隣には人の気配が一切、感じられません。魔力灯の光がまったく漏れていない以上、まず間違いなくそこにいないと考えても良いでしょう。ならば、と考えられるのはショーンの実家かそれ以外の別邸です。
 
 ― しかし…ざっと調べただけでもその数は片手が埋まるほどあって…。
 
 この街にある分だけでも三個はあるのです。これはあくまでネイティス家名義の家の数であるので、それ以上の隠れ家を与えられている可能性も否定できません。それらを一々、調べて回っていては最悪の結果になりかねないのです。
 
 ― そもそも…踏み込んでどうなりますか…!?
 
 この街は魔物娘を積極的に受け入れているとは言え、法治国家です。他人の家に踏み込むには警備隊員とは言え、捜査令状が必要でしょう。そしてその捜査令状を取るにはそれなりの証拠がなければ不可能なのです。しかし、今の私にあるのは確信だけであり、ラウルが誘拐された証拠も、ショーンが犯人である証言もありません。それらを集めて礼状を取っている間に、最悪の結果が刻一刻と近づくのです。
 
 ― …くそ…!情報と手が全く足りない…!
 
 一体、ラウルが何時、襲われたのかさえ私には分からないのです。これだけ大規模な戦闘の跡が生々しいほどに残っていると言うのに通報一つなかったのですから。高級住宅街であるここで鼻薬の効果があるとは思えませんし、きっと何らかの魔術で音を遮断したのでしょう。ショーンが魔術が使えるという情報はありませんでしたし、強力な魔術士を雇い入れた可能性も考えられるのでした。
 
 ― …知恵を借りるしかありませんか…。
 
 これはもう私一人ではどうにもならない状況です。悔しいですが、伝手を最大限に使って人の手を借りなければラウルの奪還すら難しいような状況なのですから。それを心の中に刻みこみ、私は握りしめたエストックを腰へと戻します。そのまま頭の中で魔術を描き、小さく呟くのです。
 
 「<<エアリアル>>…っ!」
 
 そのキーワードに応えるように軽くなった私の身体は玄関へと駆け抜けて、夜空へと飛び出していきます。無論、向かう先は私の職場でもある詰め所です。まず何をするにしても手を借りなければ話になりません。しかし、友人など殆どいない私にとって頼れるのは自分の持つ権限くらいなものなのでした。
 
 ― そう考えている内に眼下に見覚えのある建物が広がり…。
 
 中隊一つがまるまる所属するその建物はちょっとした豪邸レベルの大きさがありました。二階建ての建物の中に百人単位の警備隊員を収容するそれは丸い屋根を月光のもとで輝かせています。何処か荘厳なその雰囲気に私は心を奪われる暇もなく、着地した私は入り口へと飛び込みました。
 
 「ウィルソン君!」
 「…何ですかいきなり…」
 
 叫びながら建物の中に入ってきた私にウィルソンの呆れたような言葉が届きました。定時ではなかったとは言え、ついさっき帰った上司が血相変えて飛び込んできたのですから当然でしょう。そう思う反面、何処か暢気に見える彼の表情に微かな苛立ちを感じてしまうのでした。
 
 「ラウルが…私の所のエルフが誘拐されました。至急人手を」
 「…了解です」
 
 私の言葉にウィルソンは顔つきを真剣そのものに変えて、奥へと駈け出して行きました。その口から怒号のような勢いで各所に指示が飛び、何人もの人が慌ただしく動きまわります。夜勤シフトに入ったばかりでこんな厄介事を持ち込んだことに申し訳なくも思いますが、遠慮などしている暇はありません。時間は本当に刻一刻を争うレベルなのですから。
 
 ― そう焦りを募らせる私の前にウィルソンが再びやってきて…
 
 「とりあえず…20人ほどの手が借りられそうです」
 「上出来ですよ。それでは五人ずつ四班に分けて下さい。その内、ウィルソン君に二つの班を預けます」
 「…私は平ですよ?」
 「夜勤シフトじゃ命令系統もごっちゃになってるでしょう?それなら信頼出来る貴方に任せた方が幾らかマシです」
 「そりゃどーも。出来ればそういうのはこういう修羅場以外で聞きたかったですけどね」
 「こんな修羅場以外では絶対に言うつもりはありませんから諦めなさい」
 
 肩を落とすウィルソンにそう返しながら、私は目の前に揃い始める人員を見つめます。そのどれもが顔と名前が完全に一致する相手でした。それに私は微かな安堵を感じます。私はこの詰め所を預かる身ですし、部下の顔と名前は全て把握していました。なので、一致するのは当たり前といえば当たり前なのです。ですが、私はついさっきまでその当たり前の事が出来ないほどの酷い精神状態だったのでした。それが正常に戻り始めるのを感じて、私は安堵していたのです。
 
 ― とは言え、気は緩められませんが。
 
 寧ろここからが本番なのです。私は未だスタートラインに立っただけに過ぎません。ここから遅れを取り戻せるかどうかはこれから次第なのですから。
 
 「これから4つの班に分けます!A班はセリア君、フェイト君――」
 
 それぞれの能力や普段、所属している小隊などを加味しての班分けに異論の声はあがりません。結局、そのままAからDまでの4つの班が出来上がり、私の前に整列しました。そのどれもが緊張した面持ちをしています。比較的平和なこの街では喧嘩程度は起こっても誘拐なんて大事件はそう起こりはしなかったのでした。夜勤シフトを任せられるような若い連中には少し荷が重いかもしれません。
 
 「安心しなさい。誘拐事件なんて普段通り地道に捜査を続ければ楽に解決出来るものですから」
 
 ― それは私に言い聞かせるものでもありました。
 
 現場の状況から察するにラウルは恐らく抵抗できない状態にされてから運び出されたに違いありません。恐らく馬車か何かが外に待機してあったのでしょう。つまり、ネイティス家の馬車の行方を追えば、決して早期解決は不可能ではないのです。勿論、空振りという可能性もあるのでそれだけに注力してはいけませんが、運が良ければ数時間の間に解決出来てもおかしくはありません。
 
 「A班とB班はウィルソンの支持に従いなさい。ウィルソン、貴方はこの2つの班を使って現場…つまり私の家周辺の聴きこみをお願いします」
 「了解しました」
 「残りの班は私と一緒に被疑者を追います。ネイティス家の馬車が今日、どのように使われたかを徹底的に洗い出しなさい」
 
 私の支持に小さく了解の意を返した隊員たちが夜の街へと駈け出していきます。その背中を見ながら、私は自分の執務室の方へ走っていくのでした。誘拐事件という大きな出来事を前に浮き足立つ隊員たちとすれ違いながら、私は執務室の鍵を開け、雪崩込むように自分の――いえ、かつて『彼』の机であった場所に足を運ぶのです。
 
 ― そのまま一番上の引き出しの鍵を開ければ…。
 
 小さな鍵をそっと回して、引き出せばそこには一枚の羊皮紙が入っていましす。それは対象者の名前が書かれていない捜査令状でした。勿論、対象者の名前が書かれていない捜査令状などあり得るはずがないので偽物です。使わないとは思いつつも私が偽造したそれを私はそっと手に取りました。
 
 ― 公文書偽造は…確か結構な大罪でしたっけね。
 
 しかも、法の番人たる警備隊の中隊長が行うのです。もし、罪に問われればどれだけ重い物になるか分かりません。まず確実に実刑は免れないでしょう。しかし、これが使えれば…ラウルをもっと早くに救えるかもしれません。
 
 ― 無論…命までは取られないでしょうが…。
 
 しかし、その間にラウルの心に取り戻せないほどの深い傷をつけられる可能性が高いのです。もしかしたら…私とももうあんな風に話してくれなくなるかもしれない。自分の保身とラウルの未来。その二つを天秤に掛ける私の手がふっと緩みました。
 
 ― …いや、考えるまでもないですね。
 
 今はこうして部下たちが夜の街を駆けずり回って情報を集めてくれているのです。まずはそれを繋ぎ合わせてからでも遅くはありません。これは私の未来を賭けて尚、一度しか切る事の出来ない札なのです。不確かな嫌疑だけで切る事のはあまりにも不用意過ぎるでしょう。ここは常識的に考えれば来るべき最高のタイミングで切らなければいけません。
 
 ― そう『考える』のでしょうね。普段の私であれば。
 
 しかし、今の私は冷静に戻ったようで冷静ではないようです。ふっと緩みかけた表情を引き締め、羊皮紙にネイティスの名前を書き込んでいきました。容疑は勿論、誘拐です。それが紙の中に染みこむのを待ってから私はそれをくるりと巻いて、懐へと突っ込みました。不必要に大きくなった胸元が私にその書類の重さを感じさせるようです。しかし、もう既に札を切る準備をしてしまったのですから、後戻りは出来ません。
 
 ― まず狙うは本邸ですか…。
 
 本来は住所の指定まで込みで作られる捜査令状ですが、偽物にはそんな一文は加えられていません。より広い範囲をカバーする為に住所の指定は意図的に削られているのです。それを使い回せばラウルが拉致された場所に当たる可能性だって引き上げられるはずでしょう。
 
 ― とりあえず…飛び込んで何とかしましょう。うだうだ考えても状況は打開出来ませんし。
 
 それは普段、考えに考え抜いて行動する慎重派の私とは似ても似つかない言葉でしょう。基本的に私は人を弄る以外の方向では理知的なタイプなのですから。衝動的に動き回るようであれば、詰め所丸々一つを管理する中隊長に就いてはいません。しかし、それでも衝動的に動きまわらなければどうにかなってしまいそうな感情が私の中で渦巻いているのでした。
 
 「…よし…っ」
 
 一つ呟いて私は自分の頬を両手で思いっきり張りました。バチンと肉が弾ける音が響き、私の両頬にいい感じの熱が灯ります。じんじんと響くその熱と共に痛みが頭へと走り、少しだけ思考をクリアにいてくれました。心の中も完全に固まった私は部下たちのように詰め所を飛び出し、夜の街へと飛び上がっていくのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ― …さて、情報通りならばここがショーンの実家らしいですが…。
 
 かがり火を焚かれてテラテラと炎に照らされるレンガ色の壁は結構な高さがありました。そこそこ長身と言える私が普通に手を伸ばしてもその壁の頂点にはきっと手が届きません。飛び上がってようやく届くほどの壁はごく一般的なサイズの豪邸とは不釣合なほど大きいのです。まるで内側に隠されている秘部を隠そうとしているようにも感じるそれを見回しながら、私は一つ溜め息を吐きました。
 
 ― まぁ、別に今回は忍び込もうとしている訳ではありませんし…ね。
 
 正攻法の振りをした搦手で私は侵入しようとしているのです。この高い壁にわざわざ挑戦する必要はありません。そう心の中で呟いて、私は目の前の鉄格子のような門へと近づいていくのです。そこには二人の門番が立っており、近づこうとする私に訝しげな視線をくれるのでした。
 
 「やぁ、どうもどうも。お仕事お疲れ様です」
 「…どういったご用件でしょうか?」
 
 私の冗談にも答えず、あからさまに警戒を顕にする門番に私はまた一つ確信を強めました。この時間に出歩いている警備隊にここまで警戒を顕にする必要があるとは思えないのです。仕事が終わって一杯引っ掛けた隊員がいい気分になって声をかけただけの可能性だってあるのですから。勿論、相手が職務熱心で近づいてきただけで警戒しているのかもしれませんが、門番二人が同じ熱心さを持つとは思えません。それよりも何か見られては困る事が中で行われていると考えたほうがよっぽど自然でしょう。
 
 「いえね。私、ちょっとこの書類を見てもらいたくって」
 
 胸元から取り出したその書類を見て二人の門番の顔色が変わりました。何せそこに書きこまれているのは間違いなく、ここの領主と保安部門の最高責任者のサインなのです。しかも、その礼状が家宅捜索を可能にするものとなれば、驚かざるを得ないでしょう。勿論、それは偽物ですが、そこらの門番――言ってみればネイティス家の私兵如きに見破れるものではありません。普段から見慣れている者――とは言え、そこまでの大事件はこの街ではそう起こらないので見慣れているのは大臣と領主くらいなものでしょうが――でも一目では見破る事は不可能です。
 
 「ご理解頂けたら捜査に入りたいので門を開けていただきたいのですが…」
 「…おい」
 「…あぁ」
 
 あくまで穏便にお願いする私の目の前で二人の男が目配せをしあいました。そのまま私よりも10cmは高い男たちが壁のようにして私の前に立つのです。その表情こそ変わっていませんが、片手を剣の柄に置く姿はとても朗らかな雰囲気ではありません。威圧して追い返そうとする気持ちがありありと見える姿でした。
 
 「今から少し主人にお伺いを立ててくるので少しお待ちいただいても宜しいでしょうか?」
 「ははは。それは冗談か何かですか?これは正式な捜査令状ですよ。貴方達に拒否権などあろうはずがないじゃありませんか」
 「…とは言われましても、私共としても門番である以上、アポもないお客様をはいそうですかとお通しする訳にはいかず」
 「客じゃありませんよ。お茶も歓待もいりません。ただ、入らせろと言っているんです。それを阻むのであれば――公務執行妨害で貴方達もブタ箱行きになりますが」
 「…御理解いただけないのであれば仕方ないですね。少しばかり痛い目を見てもらうしか無いようです」
 
 ― そう言って二人が抜いた刃が月影の下でキラキラと輝いていました。
 
 きっと脳筋二人組にとっては私の言っている意味が理解出来ないのでしょう。そもそも警備隊員の前で恫喝するように剣を抜けばどうなるのかなんて自明の理です。彼らも仕事である以上、仕方が無いとは思っていましたが、ここまで阿呆な真似をされると呆れを通り越して怒りすら沸き上がってくるのでした。
 
 ― 私には時間がないというのに…!!
 
 ここが終わった後にも行かなければいけない場所、やらなければいけない事が山ほどあるのです。少なくともこの偽造公文書の件がバレるであろう明日の朝までにはラウルを見つけなければいけません。こんな下らない問答をしている暇なんて私にはないのです。どんどんと積み重なっていく憔悴を吐き出すようにして大きく息を吐きながら、私もまた腰のエストックをそっと抜き放つのでした。
 
 「2対1でや…」
 
 既に抜いた時点で殺し合いは始まっているというのに何故か暢気に待ってくれていた一人に私は一瞬で肉薄しました。ラウルの誘拐に気づいてから一時間。その間、一瞬たりとも切らしていないエアリアルを制御しながら、私は大地を蹴ったのです。夜空に浮かび上がるほどの推進力を全て突進力へと変えた私は切っ先が当たる一瞬だけエアリアルを切り、自らの重さを威力に加えるのでした。
 
 「ぎゃああああああっ!」
 
 決して切った張ったには向かないエストックの刃が門番の太ももへと入り込んだ感触を感じた瞬間、私はそのまま手首をスナップさせて内側を抉りました。一気に傷ついた血管から血が吹き出し、辺りを血の海に変えるのです。それを冷静に見ながら私はエストックを素早く抜き、そのまま太ももを抑えてうずくまる男の身体を蹴ってもう一人の方へと加速するのでした。
 
 「ひっ!」
 
 放たれた矢のような速度で飛んでいく私に今更ながら剣を構えようとしますが、恐怖や困惑が浮かぶそれは隙だらけでした。同じようにエアリアルを制御しながら、今度は脇腹へとエストックの切っ先を突っ込むのです。幾つか内蔵が傷ついた感触がしましたが、まぁ、別に問題はありません。こんな連中が死んだり一生モノの後遺症を背負った所で私には何のデメリットもないのですから。
 
 ― そう考えて切っ先を抜き、脂を振り払うようにエストックを振って鞘に戻せば…。
 
 「ひ…っ!うぐ…い、痛ぇ…っ!」
 「ぐ…あぁぁ…っ!!」
 
 そこには無様に地べたに這い蹲る二つの肉の塊が残っていました。その身体から溢れ出す血は止まりません。きっと動脈の一つでも傷つけてしまったのでしょう。別にわざわざ急所を狙った訳ではないので死にはしないでしょうが、止血しなければ命の危険性があるでしょう。回復魔術でも使わない限り、これから私を追ってくるのはまず不可能です。それを確認してから私は再びエアリアルを発動させ、そっと門を飛び越えました。さっきの門番の叫び声を聞いて誰かが通報した可能性もあるのです。様々な意味で捕まる訳にはいかない以上、ここから先は時間との勝負でしょう。
 
 ― 故に私は扉を一気に蹴破って…。
 
 鍵を掛けてあったのであろうその扉は鋼鉄の仕込んであるブーツの一撃であっさりと屈服しました。バタンと音を立てて開かれるそれに中を歩いていたメイドの何人かが私に怯えた表情を向けるのです。それは無礼な襲撃者に対するものかと思いましたが、それにしては反応が露骨過ぎます。そう思った私が自分の衣服を見れば、袖や足元に返り血がべったりと着いているのに気づきました。
 
 ― あぁ、あの連中は最後まで私の足を引っ張るのですね。
 
 せめて中では穏便な形で話を進めたいと思っていましたが、これでは無理そうです。そう肩を落とした私の目の前でメイドが絹を裂いたような甲高い叫び声を上げました。それに不快にも近い感情を抱きながらも、時間を無駄に出来無い私は再び捜査令状を取り出すのです。
 
 「焦らないで下さい。私は警備隊員です。この通り礼状も持っていますから。って事でお邪魔させていただきますね。家主の方にはそう伝えておいて下さい」
 「ひ…ぃっ!」
 
 言いたい事だけ言い放ち、私はエントランスの階段を飛び越えました。既に中の構造は頭の中に入れています。二階の右側――その一番奥が容疑者であるショーンの私室でした。まず何よりそこへ足を運ぼうと駈け出した瞬間、私の耳に不愉快な叫び声が届いたのです。
 
 「ぎゃあああああああああああ!!!!」
 
 豚の叫び声のようなと言えば豚に失礼なほどの、不愉快な声は屋敷中に響き渡るほどでした。何処か粘っこく嫌らしいそれはまるで地獄の底から届いたようにも感じるのです。しかし、そんな非現実的な事は決してありません。あるのはただ聞こえてきたのはショーンの私室のある方向だという無慈悲にも近い現実だけです。
 
 ― まさか…!?
 
 今の叫び声はラウルの鳥の囀りのような美しい声と同列に語る事すらおこがましいほどのモノでした。しかし、それは決してラウルが無関係であるということを意味しないのです。もしかしたら私以外に襲撃者が居て、ラウルの命が危険に晒されているのかもしれません。そもそもラウルがここにいないかもしれないという可能性を最初から度外視した私の胸の中でふつふつと嫌な予感が吹き上がってくるのです。
 
 ― …また…また私は失うんですか…大事なモノを…!!
 
 脳裏に浮かぶのは『彼』の事。自分の元から去っていった『彼』を見送る事も出来なかった経験が私の中にあった最後の理性を消し飛ばしました。一気に加速した私はその勢いを殺さないまま扉を蹴破り、ショーンの私室へと飛び込んでいくのです。
 
 「ラウル!!!」
 「…え?ハワード…?」
 
 ― そこにいたのは私の懸念通りラウルで…。
 
 ダブルサイズのベッドに横たわる彼の衣服は無惨なことになっていました。恐らく拉致される途中か、ついさっきに剥ぎ取られたのでしょう。ところどころに大きな裂傷の入ったそれは最早、衣服としての役割を果たしてはいませんでした。破られた衣服の合間から見える彼の柔肌が妙に扇情的に見えますが、今はそれを気にしている暇はありません。それよりもこんな狼藉を働いたであろうあの男性をぶち殺すのが先決なのですから。
 
 「ひ…ひぃぃぃ…!!」
 
 ― …居た…っ!!
 
 見覚えのある小太り男性は部屋の隅で縮こまって震えていました。一体、何を見たのかは分かりませんがラウルを人質にされないのであれば好都合です。そう心の中で吐き捨てながら、私は上着を脱いでラウルへと投げるのでした。少しばかり返り血が着いていますが、今のボロボロの状態よりはマシでしょう。そんな上着をラウルが受け取るのを傍目で見てから、私は一気に這い蹲るウジ虫に近寄り、爪先を鳩尾に向けて勢い良く蹴り上げるのでした。
 
 「ぐふぅぅぅっ!!」
 
 豚の鳴き声に似た声を上げながら数cm浮き上がったウジ虫はそのまま床へと吐瀉物を撒き散らします。恐らく夕飯直後だったのでしょう。黄色い吐瀉物の中には原型が残っているものが幾つもありました。鮮やかなオレンジ色のカーペットが汚れるのを見ても、私の怒りは決して収まりません。今度は上から床へと叩きつけるように何度も何度もブーツを振り落とすのです。
 
 「げふっ…ぎゃ…あああ…っ!!」
 
 何度も何度も蹴られ、骨も幾つか折れたのでしょう。叫び声を上げるウジ虫の身体は少しずつ歪に変形して行きました。しかし、それを見ても私の心は一向に晴れません。楽しいと思う隙間もないほどの私の心を埋め尽くした怒りがこの蛆虫を出来るだけ惨たらしく殺せと叫んでいるのでした。
 
 「も、もう止めろ!!」
 
 ― そんな私の動きを止めたのは聞き覚えのある声でした。
 
 それにゆっくりと後ろを振り向けば、私の預けた上着で胸元を隠したラウルが私の肩を掴んでいました。その瞳には何故か恐怖の色が強く浮かんでいるのです。やはりまだこの男が生きているのが怖いのでしょう。そう判断した私が再び足を振り上げた瞬間、ラウルの手が私の視界を通り過ぎました。
 
 ― パンッ!
 
 「…え?」
 
 小気味良いその音と共に私の身体に微かな痛みが走りました。そう。それは本当に微かで痛みと言い切る事すら難しいほどだったのです。しかし、その痛みとも言えないほどのそれが私の心で煮えたぎっていた怒りをどんどんと冷ましていくのでした。
 
 「…落ち着け。私は大丈夫だ。何もされていないから…」
 「…ですが…」
 「…ここでそいつを殺して何になる?お前も犯罪者になるだけだぞ。お前は…私を一人にするつもりか…?」
 
 ― その言葉と同時にラウルの瞳には涙が浮かび上がってきて…。
 
 私などより恐ろしい目にあったのはラウルの方でしょう。普段、気丈な彼が泣くほど恐ろしい目にあったと言うのに、許せと言っているのです。個人的には…まだ納得が出来ませんし、冷えたとは言え怒りが消えた訳ではありません。しかし、ラウルがそう望んでいる以上、彼の前でこれ以上の追い打ちは止めるべきでしょう。
 
 「…分かりました」
 「……ん。宜しい。それと…」
 
 ― その言葉と同時にラウルの身体が私の胸の中へと飛び込んできました。
 
 微かに震えるその肩はやはり強がっているからなのでしょう。いきなり襲われて同性にレイプされそうになったのですから当然と言えば当然です。見目麗しいとは決して言えない私だって同じ状況に立たされれば、震えないと言い切れるほどの自信はありません。
 
 ― だから…今は…。
 
 私に身を預けるラウルの背中を安心させるようにそっと撫でました。勿論、同性相手にこんな真似は普通、しません。何時もであれば気持ち悪いと引き剥がしていた事でしょう。しかし、今日だけは仕方がなくて特別なのです。こんな優しさを見せるキャラじゃないですし、もう二度とやりませんが…それでも今日だけはラウルの為にキャラを崩すべきでしょう。
 
 「助けに来てくれて…ありがとう…」
 「…当然のことをしたまでですよ」
 「それでも…お前が助けに来てくれたことが…今はとても…嬉しい」
 
 心の底から吐き出されるような実感の篭ったそれは大袈裟な台詞でしょう。実際、私がどうこうしなくてもラウルはきっと無事であったのです。どうしてかは分かりませんが、私が踏み込んだ時にはもうショーンは怯えて震えていたくらいなのですから。ラウルが一体、何をやったのかは分かりませんが、そもそも彼は私などよりも強いのです。冷静になって考えれば捕まったことそのものがおかしいと言わざるを得ません。
 
 「き、聞いてにゃい…ぼ、僕は聞いてないぞ…!」
 
 ― ん?
 
 未だに人語を話そうとするウジ虫に私はラウルを抱きしめながら眉を潜めました。アレだけ蹴ってやったのにまだ話せるのはそれだけ丈夫なのか、或いはうずくまっていたのが功を奏したのか。まぁ、どちらでも私にとっては関係ありません。後はこの一件を他の人間に預けて、私が罪に問われればそれで終わりです。
 
 「僕は…エルフの男がいるって聞いたから…さ、攫って来いって言ったんだ…お、女だなんて……僕は…聞いてない」
 「…は?」
 
 ― しかし、ウジ虫が話した言葉は私の予想の右斜め上をかっ飛んで行きました。
 
 そもそもエルフの女性なんてこの場にはいません。居るのは人間である私とエルフの男性であるラウル。そしてウジ虫だけなのですから。私はそもそも種族的に不適格ですし、ラウルは性別が違います。一体、このウジ虫は何が言いたいのかと内心、首を傾げた瞬間、私の胸に微かですが柔らかいものが押し当てられているのに気づいたのでした。
 
 ― …え?は…?…え?
 
 それは男には決して無い…と言うかあってはいけない感触でしょう。それに驚いてラウルの胸元に目線を向ければ、そこには決して大きいとは言えないまでも膨らみが存在しているのでした。厚手の上着をはっきりと持ち上げるほどのそれに私が固まった瞬間、ラウルの顔が羞恥で真っ赤に染まったのです。
 
 「あ、あんまりジロジロ見るなよ…恥ずかしいだろうが…」
 「え?あ、あぁ…すみません」
 
 ― …いや、一体、何なんですかこれは…。
 
 誘拐されたはずのラウルを取り戻しに言ったら、彼が彼女になっていた。手品とか魔術だとか超スピードだとかそんなチャチなモノじゃ断じてないのです。正直、夢にしか思えません。しかし、私の頬に微かに残る痛みやラウルの柔らかい身体がそれを夢だとは決して思わせてくれないのです。
 
 「いやはや、素敵なハッピーエンドですね」
 「っ!!」
 「きゃっ!」
 
 唐突に後ろから聞こえた声に私はラウルを抱きすくめた姿勢で、前へと飛びました。声の主から距離を取った私は着地すると同時に可愛らしい悲鳴をあげたラウルを自分の後ろへと隠すように立つのです。そのまま前を見据えれば、漆黒のローブを眼深に株って顔を隠す男性の姿が目に入るのでした。見るからに魔術士だと主張するような格好に私はまだここが敵の本拠地であることをようやく思いだしたのです。
 
 ― そう言えば…魔術士の存在をすっかり忘れていましたね…。
 
 アレだけの戦闘が行われていたにも関わらず、誰も気づかないほど遮音性の高い魔術が使える相手。その存在は私も気づいていた筈でした。しかし、ラウルが無事だったことで気が抜けたのでしょう。完全に失念していた所に出現した相手に私は腰のエストックに手を掛けました。
 
 「バッドエンドになるお膳立てはそれなりにしていたはずなんですがね…。まさかこんなことになるだなんて思ってもみませんでしたよ。まったく人生って奴はままならないものですね」
 「…つまり貴方が黒幕って事ですか?」
 「えぇ!えぇ!そうですとも!!私がそこの男に取り入り、そこにいるエルフを手に入れるように仕向けたのですよ!!」
 
 宣言するように高らかに叫ぶ男性に私は肩を落としました。此処に来ての悪役出現なんてまるで出来の悪いオペラでも見せられている気分です。しかも、今時、三文小説でもしないような宣言をしてくれるのですから目も当てられません。ラウルの異変を知ってから急激に膨れ上がった現実感の無さがここにきて一気に加速するのです。
 
 「…で、理由は何ですか?わざわざ私の前でそれを告白するってことは十中八九、私への復讐なんでしょうけれど」
 「おや、よくお気づきですね。と言うことは…私の正体にもそろそろ感づいている事ですかな?」
 「いや、まったく」
 「え?」
 「まったく分かりません」
 
 ― と言うより分かりたくないと言った方が適切でしょうか。
 
 正直、こんな自分に酔っているとしか思えない相手と知り合いなんて考えたくもないのです。そもそも恨みを買っているであろう相手なんて星の数とは言いませんが、両手両足の指では決して数えきれません。さらに言えば、ローブを眼深に被って時点で顔だって分からないのです。そんな状況で記憶の引き出しを探っても答えなんて出るはずがありません。
 
 「な、ならば…こ、この顔に見覚えはありませんかな!?」
 
 芝居がかった声でばっとフードを取った顔は彫りの深いものでした。色黒の肌は健康的で男のみなぎる生気を伝えてくるようです。顔つきもまだ若く二十代前半と言った所でしょう。困惑を浮かばせた漆黒の瞳にも若さが漲っていました。それと対照的なのは頭部で、髪の毛一つ生えていないのです。きっと自分で剃り上げたのでしょう。産毛一つない姿は色黒の肌と相まって、割と相手に似合っているようにも見えるのです。
 
 ― けれど、やっぱり見覚えはありません。
 
 「…いえ、まったく分かりません」
 「え?」
 「って事でとりあえず死んでもらえますか?」
 
 呆気に取られた隙に男性にエアリアルを使って突撃します。空中でエストックを抜き放った私はそのまま単純故に必殺の一撃を放とうと腰の捻りを肩から腕へ伝わせるのでした。
 
 ― ベキッ!!
 
 「…は?」
 
 しかし、その切っ先が空中でポキリと折れてしまいました。元々、安価な大量生産品だったとは言え、何も無い所で折れるほど無茶な使い方をしていません。どうしてかと私が困惑を浮かばせた瞬間、私の身体がいきなり何かに叩きつけられたように、後ろへと吹き飛ばされるのです。
 
 「ぐっ…!」
 「ふ、ふふふふふ…貴方の戦術なんてお見通しですよ?」
 「…なるほど…風の魔術で壁を作ってるって事ですか…」
 
 さっき受けた衝撃と魔術士の言葉に私は思わず溜め息を吐きました。自分の体を軽くして細身剣で突撃する私の戦術は風の魔術との相性は最悪に近いのです。軽い身体はちょっとした向かい風にも阻まれてしまいますし、耐久力の低いエストックは風の魔術を受ければ今回のようにあっさりと折れてしまうのでした。
 
 ― 出落ちキャラかと思いきや結構やるじゃないですか…。
 
 完全に私の戦法にメタを張っている相手に私は内心、冷や汗を浮かべました。馬鹿げたやり取りに一瞬、忘れかけてはいましたが、相手はそれなりの実力を持つ魔術士だったのです。この部屋に入ってくる前から準備をしていたと思っていてもおかしくはありません。
 
 ― やれやれ…少し迂闊だったですかね…。
 
 内心、そう呟きながら私は肩を落としました。勿論、私が持つ武器はエストックだけではありません。鋼鉄を仕込んであるブーツは人の骨くらいであれば易々と砕けますし、ズボンの中には投げナイフが仕込んであるのです。しかし、それらを確実に当てる手段が今の私にはありません。少なくとも今の私には魔術士が纏っているであろう風のバリアを突破する術がないのです。
 
 「今度はこっちの番ですよ…!<<風の刃よ>>!!!」
 「っ!!」
 
 男性のキーワードに応えて生み出される真空の刃を避けることは簡単でしょう。渦巻く風の刃は決して早くはなく、不可視でもないのですから。しかし、私の後ろにはラウルがいるのです。私が避けてしまってはラウルに飛んでいく可能性がある以上、私はこの場を動けません。
 
 「うぐっ…!!」
 
 両手を広げて後ろのラウルを守るように立ちふさがった私の身体を真空の刃が切り裂いていきます。それは皮膚と多少の肉を切り裂く程度で決して致命傷にまでは届きません。しかし、細かく走ったその傷からは血液が流れ出し、私の身体を赤く染めていくのです。
 
 「ふふふ…このままじわじわと嬲り殺しにしてあげますよ…!」
 「嬲り殺しにする魔術しか使えないの間違いでしょう?言葉は正確に使いなさい」
 
 今の一撃で大体、この魔術士の実力が把握出来ました。確かにこの魔術士は一般的なレベルよりも遥かに高い使い手でしょう。しかし、風のバリアを維持したまま致命傷を与えられるほどの技量は決してありません。何故ならば、こうして嬲り殺しにするメリットは魔術士にとって殆どないのですから。これほどの騒ぎになっている以上、既に警備隊に連絡がいっている可能性が高いでしょう。つまり、魔術士にあまり時間を掛け過ぎるメリットはないのです。少なくともこうして手加減する必要性が薄い以上、バリアを維持しながら避けられる程度の風の刃しか使えないと思っても良いでしょう。
 
 ― しかし…どうしますかね…。
 
 今すぐ殺されることはないでしょうが、風のバリアを維持され続ければ私はジリ貧です。一体、目の前の魔術士がどれだけの魔力を持っているかは分かりませんが、わざわざこうして私の前に現れた以上、私を殺すまで魔力が持つと思っても構わないでしょう。
 
 ― それに…アドバンテージは相手にあるのです。
 
 別に風のバリアを常に展開し続ける必要などありません。バリアを展開したままトドメを刺すのが難しければ、トドメを刺す瞬間だけバリアを解除すれば良いだけなのですから。これだけの実力を持つ魔術士ならば致死性の魔術の一つや二つは持っているでしょう。それが一発でも私に当たればそれだけで相手は勝利条件が満たされるのです。
 
 ― 私に残る勝ち筋といえば…その瞬間に投げナイフを投げる事のみ…。
 
 右太ももに仕込まれているナイフが当たれば相手の詠唱を中断させる事だって可能でしょう。その間に未だに維持しているエアリアルで突っ込み、相手の意識を刈り取る事が出来れば私の勝ちです。その為にも唯一残された遠距離攻撃手段であるナイフを投げるタイミングはミス出来ません。
 
 ― まぁ…読み合いであれば得意です。
 
 私にとって唯一、有利なのは時間という面です。これだけの騒ぎになった以上、警備隊員が踏み込んでくる可能性が高いのですから。そうなればこの魔術士の言う復讐を遂げる事は出来ません。そうなるまでに私を殺す必要のあるこの男性が何時、切り札を切ってくるか。それを見極めるのはそう難しいことではないでしょう。
 
 「ははは…っ!強がりを…!まぁ良いでしょう。ならばお望み通り…嬲り殺しにしてあげますとも!!<<風の刃よ>>!」
 「っ!!」
 
 再び短縮詠唱にて生まれた刃が私へと近づいてきます。それを真正面から見据えながら、痛みを覚悟した瞬間、私の後ろから一気に魔力が膨れ上がりました。
 
 「<<解けろ>>」
 「へ?」
 
 その膨れ上がった魔力を唇へと載せた声は間違いなくラウルの物でした。それに応えるように私へと飛んで来る風の刃が霧散していくのです。無効化された魔術に魔術士は呆れたような声をあげて私を――多分、正確には私の後ろにいるであろうラウルを見ました。それに釣られるように私も視線を後ろに向ければ、拗ねたように唇を尖らせるラウルと視線が合ったのでした。
 
 「…お前ら、私を忘れ過ぎだろう?」
 「え?いや…」
 
 思いも寄らないピンチにラウルの実力をすっかり忘れていただけに反論する余地などありません。何時の間にか私もこのよく分からない雰囲気に飲まれていたのでしょう。少なくとも私はラウルを助けに来た白馬の王子様なんて実力はこれっぽっちもないのです。特に相手が魔術士であればエルフに敵う相手など殆どいません。
 
 「た、確かに忘れてましたけど、しかし、所詮は一度、私に敗れたエルフ…!今更、それが加わった所で…!!」
 「…負けたんですか?」
 「…玄関から入り込んできたアイツに気を取られすぎて後ろから…」
 「…なるほど」
 
 魔術士によって一番、厄介なのが囲まれる事です。ただでさえ魔術で思考を割かれる魔術士は基本的に前方の敵にしか対処出来ません。前後を挟まれてしまえばそれだけで詰んだも同然です。それはエルフにとっても同じなのでしょう。
 
 「ま、まぁ、確かに人の手は借りましたが、貴女の魔術が私に通じないのも既に検証済み…!所詮、エルフ程度じゃ私を止められはしないのですよ!!」
 「ほぅ…言ってくれるじゃないか…っ!」
 
 ― それはエルフにとっては決して言ってはいけない言葉だったでしょう。
 
 色々あって人間を見直してきているとは言え、ラウルがエルフであることに自負を持っていることに変わりがありません。そんな彼にエルフを見下すような言葉を言えばどうなるか。逆鱗に触れたかのように激昂するのが目に見えています。
 
 ― そして…世の中には決して『本気で』怒らせてはいけない相手がいるのです。
 
 「…随分と舐めた口を聞いてくれるなニンゲン…いや、魔術士」
 「そ、そんな風に凄んだ所で…貴女の魔術が私のバリアを突破できなかったのは事実です…!何も怖くなどありません…!!」
 
 その声が震えているのはラウルの身体から沸き上がるような魔力の量を感じ取っているからでしょう。その戦法に魔術を組み込んでいるだけの私でさえ肌にひりつくように感じる魔力。それはとぐろを巻いた蛇を彷彿とさせる恐ろしいものでした。私などよりも魔術に詳しいであろうこの男性がそれを感じ取れない訳がありません。その証拠に彼の額に脂汗がにじみ出ていました。
 
 「そうだな。確かに私の魔術はお前に阻まれた。しかし…それが『本気』だと誰が言った?」
 「…え?」
 「あそこは…ニンゲンの家だ。出来るだけ穏便に済ませたかったが故に手加減していたに過ぎない。しかし…今はそれをする必要がないと言うのは…低能な貴様にも分かるだろう?」
 「えっと…え?嘘…」
 
 ― そもそもエルフの魔力保有量は人間とは比べものにならないほど飛び抜けているのです。
 
 一説によればサキュバスの魔力を抑えられるほどの魔力をエルフたちは持っているのです。人間では抵抗できないサキュバスの魔力を押し留められるというだけでそれがどれだけ恐ろしいか分かるでしょう。そんな魔力を持つエルフが本気になればどうなるか…なんて考えるまでもありません。
 
 「<<穿て、暴食の顎よ>>」
 「ひ…いぃっ!!」
 
 ― その言葉と共に何もない場所から出現した漆黒の牙が男を取り囲みました。
 
 実際に向けられている訳ではない私でさえ冷や汗を感じるほどの破壊の力。それに取り囲まれている男にとってそれは悪夢以外の何者でもないでしょう。ラウルが一言、口にすれば、漆黒の顎は魔術士を躊躇なく飲み込むのですから。自分の周りをまるで獰猛な狼に囲まれているように腰を抜かして、悲鳴をあげても仕方のない事でしょう。
 
 「ゆ、ゆるし…」
 「<<許さん>>」
 
 許しを乞うた魔術士の言葉を切り捨てたそれをキーワードとして爆音と共に顎が彼を包み込みました。瞬間、ズドンという音と共に屋敷中に衝撃が駆け抜けました。その幾つかを風の障壁が阻んだようですが、その殆どは透過し、魔術士の身体へと叩き込まれるのです。全周囲から叩きつけられた衝撃に色黒の身体が揺れてバタリと床へと倒れこみました。その全身は血まみれになり、糸が切れた人形のように脱力しています。小さく呻いている辺りまだ生きてはいるのでしょうが、回復魔術を使っても全快するのにはかなりの時間がかかるでしょう。
 
 ― しかし、被害はそれだけに留まらず…。
 
 全身を包み込むように覆った魔術は魔術士の身体をボロボロにしました。しかし、その内側だけに収まらず、駆け抜けた衝撃は屋敷に大きな傷跡を残しているのです。特に顕著なのが魔術士の前方――つまり私たちの側で、私と魔術士の間は床が砕けて、大きな穴を開けていました。
 
 ― …理解していたつもりですが…やはり恐ろしい威力ですね。
 
 無論、これでもまだまだエルフが全力だとは思えません。本気になったエルフの魔術に人間が耐えきれるはずがないのですから。しかし、私が攻めあぐねていた相手をあっさりと下した実力に私は肩を落としたのです。
 
 「…どうした?」
 「いや…私は何をしに来たんでしょうと思いまして…」
 
 ― 勿論、私はラウルを助けに来たつもりです。
 
 しかし、結局、私は殆ど何も出来ないままでした。女性恐怖症という情報が本当だったショーンがラウルに手を出せたとは思えません。黒幕顔して出てきたこの魔術士にも私は噛ませ犬状態だったのです。正直、私が出張らなくてもこの事件はあっさりと解決していたんじゃないか。どうしてもそう思えてしまって、私は無力感に苛まれるのです。
 
 「…なんだ。そんな事を気にしてたのか」
 「そりゃ…まぁ、ね。私だって男性な訳ですし」
 「そ、それは…その…やっぱり…」
 
 ― あぁ…しまった…。
 
 あまりにも迂闊な言葉に振り返った瞬間、ラウルはもじもじと指を絡ませながら熱っぽい視線を私へと送りました。チラリチラリと伺うようなその視線は何かをアピールするようです。それに私は自分の失策を悟りました。ラウルが今、どういう状態なのか私には分かりませんが、出会った当初の彼――いえ、彼女が男性であったのは事実です。それがどういう経緯で反転したのか分かりませんが、性別云々を口に出すのはあまりにもデリカシーがなかったと言うべきでしょう。
 
 「すみません…」
 「…え?」
 「いえ…その、嫌味のつもりはなかったのですよ。ただ…普通の…えっと、言葉の綾としてですね…」
 
 ― そうやって言い淀む姿は自分自身でさえも意外でした。
 
 今までこんな風に言葉を濁す事はなかったのです。言い辛い事は誤魔化すかはっきりと言い放ってきた私にとって、ここまではっきりと言い淀んだ経験と言うのはすぐに思い出せません。それどころかどうして自分が普段通りに話す事すら出来ないのかが分からず、口をもごもごと優柔不断に動かすだけでした。
 
 「…なんだ。そっちか。…別に気にしていない。そもそも…私がこうなったのは結構前の話だしな」
 
 あっけらかんと――しかし、何処か残念そうなものを浮かばせて――言い放つラウルの言葉は当たり前ですが初耳でした。同居を始めてから既に二ヶ月。その間、微々たるものであったとは言え、彼女の変化にまったく気づかなかった自分の鈍感さに呆れさえ感じてしまいます。
 
 ― いえ…一応、おかしいとは思っていたのですよ…?
 
 言い訳のようですが、日々、身体のラインを細くし、肩も小さくなっていくようなラウルの変化には気づいていました。しかし、それは食事が合わなかったかダイエットでもしているのかと私は簡単に考えていたのです。今から思い返せば身長も縮んでいたように思いますし、最初に比べれば顔のラインも女性らしいふっくらとしたものになっているような気もしました。
 
 ― いや、寧ろそこで性別の変化に考え至る方こそどうにかしているのかもしれませんが…。
 
 様々な方面に影響を与えるとは言え、サキュバスの魔力が性別を変える例を私は知りません。医療系関係者であるエイハム辺りであれば知っているかも知れませんが、少なくとも人並みよりも広く深く物を知っている程度の私が知らないほどのレアケースと言えるでしょう。そんな特例中の特例のような変化に気づけという方が無理だと言えるのです。
 
 「おや…どうやらもう終わりでしたか」
 「…ウィルソン君」
 
 そう言い訳する私の耳に見覚えのある声が届きました。そっと首だけでそちらを振り返れば、ついさっき現場に到着したであろう部下の顔が目に入ります。大穴の空いた床からも人が騒がしそうに動き回っているのを感じました。きっと何人かの警備隊員が事情聴取やら証拠品集めやらで動き回っているのでしょう。その代わりに人間嫌いのエルフが私の胸に隠れるように抱きついてきますが、それは諦めるべきでしょう。見ず知らずの人間ばかりの場所で引き離してやるのは流石に可哀想ですし、事件が収束へと向かっている代償だと思えば、そう悪い気持ちでもありません。
 
 ― まぁ…とりあえずは…ですが。
 
 警備隊員としてはここからが仕事と言っても過言ではありません。これから関係者に調書を取り、事件の全貌を明らかにしなければいけないのですから。勿論、それに深く関係している私もかなり根掘り葉掘り聞かれる事になるでしょう。公文書偽造の件も今回でバレるかもしれません。それらのリスクを考えれば今すぐにでも逃げたいくらいですが、仮にも法を遵守させる側である以上、それは出来ないのです。
 
 「…ハワード…?」
 「いえ、なんでもありませんよ」
 
 そんな私の顔を訝しげに見るラウルにそう返しました。それに少しだけ訝しげな表情を浮かべながらも、ラウルはそっと私から離れます。自由になった私はウィルソンと合流しようと後ろを完全に振り返り、一歩踏み出しました。それに大穴を空いた床がパラパラと断末魔のような音を立て、軋むのです。まるで死刑台に向かっているようなその音を聞きながら、私はラウルを先導するように歩き始めるのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:25更新 / デュラハンの婿
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