連載小説
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その4(ラウル編)
 
 ― 時の流れには変化というものがつきものだ。
 
 勿論、エルフだってそれは例外じゃない。ニンゲンよりも遥かに長寿に生きるエルフであったとしても、細かい部分は必ず変化している。世の中に存在する石や巨木だって、目に見えない変化であるだけでまったく変化しない訳ではない。存在する事とは変化することであるとさえ言い切っても良いだろう。
 
 ― それでも…今の私に起こった変化は納得が出来ない訳で…。
 
 「…はぁ」
 
 そう小さく溜息を吐きながら、私はテーブルの上のコーヒーをそっとソーサーへと戻した。時刻はちょうど朝――ニンゲンが出ていってすぐである。空には日がサンサンと輝いて、カーテンを貫いているとは言え、季節はもう冬だ。家の中に居ても感じる微かな肌寒さに私は革製のベストを着込んでいる。防寒具としてはそれほど優秀ではないが、燕尾服を意識したように後ろが垂れた黒色のシャツと線の浮き出るスキニージーンズだけでいるよりはよっぽどマシだ。
 
 「…本当、どうしてこうなったんだろう…?」
 
 ― そう呟いた私の視線はそっと自分の胸へと降りていった。
 
 そこには相変わらずのっぺらとした胸がある。凹凸のまるで感じられないそれは少し弱々しいが、男としてはそれほど違和感があるものではないだろう。しかし、問題はそれがあくまで抑えられている状態だって事で……――。
 
 「はぁ…」
 
 もう一度、溜息を吐きながら、私は自分を落ち着けるために再びコーヒーを傾ける。勿論、今の時刻は昼下がりだけあって、それは自分で淹れたものだ。あの日――アイツと出かけた日から少しずつでも優しくしてやろうと決めた私が踏み出した第一歩は着実に結果を出している。最初の頃は味も匂いも酷い文字通り泥水のようなコーヒーしか淹れられなかったが、最近ではアイツの淹れるものと遜色ないものが作れるようになった。
 
 ― まぁ、あくまでインスタントなんでちょっとしたコツを抑えれば良いんだが。
 
 それでも覚えるまでにアイツが浮かべた苦々しい表情を思い返せば少しだけ笑みが浮かんでしまう。良いって言ってるのに味見と称して処理をし続けてくれた不器用な優しさに、私が抱いた感謝の気持ちは未だに色褪せてはいない。今でもこうしてコーヒーを飲む度にそれを思い返してしまう。
 
 ― 私は…それが好きなのであって…コーヒーそのものは…。
 
 最初にブラックコーヒーで出された衝撃は未だに払拭できてはいない。相変わらず私はニンゲンの淹れたコーヒーに関しては警戒心を顕にし、一口ずつ啜るように飲むようにしているほどだ。それほどのトラウマを持つ私が自分一人でもこうしてコーヒーを飲む理由は、ただ…コーヒーの匂いがアイツに染み付いていて……――。
 
 ― 言えないよなぁ…コーヒーを飲んでるとお前が近くにいるような気がして安心するからだって。
 
 けれど、鈍感なアイツは私がコーヒーそのものを好きになったと思っているらしい。自分のやった行いを胸に手を当てて考えてみろと言いたくなるが、正直に言うのはもっと恥ずかしいのだ。最近では二人で出かける時にコーヒーの名店に連れていってくれるのは…まぁ、嫌いじゃないし、このまま一生、黙っていようと思う。
 
 「さて…と」
 
 コーヒーのお陰で気分転換には成功した。ならば、また変なことを考える前にやるべきことを終わらせてしまおう。そう思考を切り替えた私はそのまま椅子から立ち上がり、ソーサーをキッチンの流しへと放り込み、水に浸けておく。どの道、後で昼食時にも洗い物は出るのだし、後で纏めて洗ってしまったほうが良い。
 
 ― そう心の中で呟きながら、私は脱衣所へと向かい…。
 
 象牙色の壁紙で覆われた小さな部屋には木製の大きなラックが置かれている。その一番上のカゴに私が昨日、着ていた衣服とニンゲンの下着が入っていた。日照時間が大幅に減るこの季節、洗濯物が夕方までに乾くかは時間との勝負である。故に何をおいてもまずはこの洗濯物を片付けなければならない。
 
 ― けれど…私にとってそれはある意味、試練にも近い時間であった。
 
 「う…」
 
 洗濯板と専用のバケツをカゴの中へと放り込み、洗濯物ごとカゴを持ち上げた瞬間、私の華に独特の匂いが届いた。独特の生臭さと刺激臭を伴うはずのそれは驚くほど嫌じゃない。寧ろ頭の奥から何か危ない物質を分泌させられるその感覚は、思わず癖になってしまいそうだ。
 
 「く…くぅぅ…!」
 
 もっと嗅いでいたい。もっと近くで味わいたい。そんな欲望を何とか振り払いながら、私はカゴを持ってリビングへと移動する。そのままひらりとカーテンを開けば大きな白亜の塀が現れた。はっきりと外と内を区別するようなその先にはぽっかりと空き地が広がっている。その先には何の建物も見えないし、覗き見られる事はないはずだ。それに微かな安堵を感じる自分に私は溜息を吐いた。
 
 ― ホント…嫌な感じなんだけど…な。
 
 右隣に人が引っ越してきてから――最初から隣に家はあったのでより正確に言えば、入居してきてからそちらから視線を感じる事が多くなった。勿論、右側にも塀はあるものの、家の高さの関係上、幾らでも右隣からは覗き見る事が出来る。ねっとりじっとりと絡みつくようなそれを私は何度も気のせいだと思い込もうとしたが、湧き上がる生理的嫌悪がそれを許してはくれない。結局、私は昨日、彼へとそれを相談したのだ。
 
 ― 引っ越す…とまで言ってくれたのは嬉しかったなぁ…。
 
 思わず頬が緩んでしまうのを感じた私はそれを治す為に自分の頬を引っ張った。しかし、ニンゲンに出会ってから締まりのなくなった顔は中々、元には戻らってはくれない。そんな自分に苦笑と少なくない喜悦を向けながら、私はバケツを持ちキッチンへと足を運んだ。
 
 ― まぁ…視線だけで実害はないしな。
 
 引っ越すとまで言ってくれたのは嬉しいがこれ以上、私が原因でアイツに無駄な金を使わせたくはない。ただでさえ、私はニンゲンに多大な浪費をさせているのだ。カーテンを閉め切るのは許してくれたし、実害が出るまで引っ越す必要はないだろう。
 
 ― にしても…なんでこの家にそんな視線を向けるんだろうな?
 
 ルーンにそっと触れ、バケツに水を注ぎながらそんな事を考える。確かにエルフは物珍しいかもしれないが、それだけだ。少し見ればすぐに見飽きるであろう。まして私はそれほど飛び抜けて美しい容姿をしている訳じゃない。街を歩けば私以上に美しい魔物が幾らでも歩いているのだ。わざわざ犯罪スレスレの手段まで用いて、エルフの生活を覗き見るとは到底、思えない。
 
 ― なら…アイツ関係か?
 
 この前、出かけた時も思ったが、アイツは容赦をする必要のない相手には本当に容赦がない。徹底的に社会的信用と心を折ろうとしているのが分かった。一応、それは治安維持の為であるとは言え、必要以上に恨みを持たれる方法であるのは違いないだろう。ある意味、私以上に恨みを買っていてもおかしくないニンゲンを調べる為なのかもしれない。
 
 ― まぁ…なんにせよ警戒はしておかないとな。
 
 そう思考を打ち切りながら、ルーンに触れると蛇口からはすっと水が止まった。そのまま、両手でバケツを持ち、カゴの元へと運ぶ。大きめのバケツに八分目まで水が入った重みは結構なものだが、集落でも洗濯を担当していた私にはそれほど苦になる重さじゃない。コレ以上の大きな桶に水を汲み、1キロ近く歩いていた頃を思い返せば、遥かに楽だと言えるだろう。
 
 「よしっと…」
 
 そのまま洗剤をドボンとバケツの中へと落とせば、準備完了だ。後は洗濯板をバケツへと突っ込み、衣類と擦れ合わせて汚れを落としていくだけである。それが一番の重労働ではあるが、衣服に着いた染みを落としていくのはそれなりに楽しい。そもそも量も二人分――しかも、ニンゲンの制服は数日に一度しか出ず、今日はない――でそれほど多くないし、すぐさま終わるだろう。
 
 ― そんな事を考えながら膝立ちになり、私は自分の衣類をバケツの中へと突っ込んでいった。
 
 トップス。ボトムズ。そしてインナーと順序良く洗濯物を放り込んでいた私の手がピタリと止まる。二人分の洗濯物の中でもう残っているのはニンゲンの下着――アンダーシャツとボクサーパンツだけだ。ボクサーパンツからはさっきの癖になる生臭い匂いが、そしてアンダーシャツからは独特の汗臭さが染み付いている。頭の奥をじぃんと潤ませるようなその二つの匂いに私は…私は……。
 
 「…はぁ…はぁ…っ♪」
 
 自然と荒くなる呼吸に私の胸の奥が熱くなる。普段はずっと見ないようにしている燻った炎が燃え上がり、胸の中で燃え広がっていく。その炎に煽られるように体温を上げた私の身体は反射的にシャツの内側に腕を伸ばし、胸を締め付けている『それ』を剥ぎ取るようにして解いた。
 
 ― それは白い包帯だ。
 
 身体に…いや、胸に幾重にも巻きつけられたそれを解けば私の胸が小さく膨れ上がる。微かに女性と分かるほどの胸の奥では未だにジンジンと疼くような熱が燻り続けていた。元々、疼いていた胸を意識した上に、私の鼻孔を魔性の匂いが擽ってくるのである。それに私は耐え切れるはずがない。厚手のシャツの上から乱暴に胸の膨らみを鷲掴みにした瞬間、私の奥にビリビリとした感覚が走った。
 
 「んあぁ…っ♪」
 
 形を持ったはっきりとした快感に思わず声が漏れ出てしまう。集落に居た頃からは想像も出来なくなった甘い声は私にとってはもう日常茶飯事だ。こうしてニンゲンの下着の匂いを嗅ぐ度に疼いてしまう身体を抑える為に私は毎朝、こうしているのだから。
 
 ― そ、そうだ…これは…これは仕方のない事なんだ…。
 
 あの日――ニンゲンにようやく感謝の言葉を伝えられたあの日から私の身体は変化をし始めた。いや、より正確に言えばそれ以前からもゆっくりとではあるが確実に変化していたのだろう。だが、それがはっきりと眼に見えるほどに変わったのはあの日からだ。
 
 ― まず…私に胸が出来てしまった。
 
 今、こうして揉んでいる胸も男の頃には決して無かったものだ。当然だろう。こんな微かな胸とは言え、男がそれを身につけるはずがない。だが、今の私にあるのは紛れも無い女の象徴だ。
 
 ― それに伴い…男性器が眼に見えるほどに縮んでしまい…。
 
 元々、まぁ…確かにちょっと人並み以下ではあったと思う。しかし、胸の成長に伴うように私の男性器はどんどんと小さくなり…最後には消えていった。その代わりに出来たのは小さな筋である。一本の細い線のようなそれは私には見覚えのないものだ。しかし、私の拙い性知識で判断するのであれば……それはきっと女性器という奴なのだろう。
 
 ― そして…何より身体が敏感になって…。
 
 今、こうして胸を揉んでいるだけでも頭の奥がジンジンと痺れてしまう。その快感は男性器を弄られるよりも少しもどかしいが、頭の奥をじんわりと暖め、溶かしていくような感覚を伴っている。そのどちらが強いかは一概には言えないが、魔物に無理矢理、射精させられた時と方向性は違えども、理性が削られるほど『気持ち良い』のは同じだ。
 
 ― あぁ…もう…なんで…こんな風になってしまったんだ…っ!
 
 あの日、夢想したように女になってしまった自分。それを私は何度も認めまいと拒絶しようとした。こんなのは夢であると現実じゃないと思い込もうとしたのである。しかし、まるで魔物になったような強い疼きと胸から走る鮮烈な快感がそれを許してはくれない。胸を弄らなければどうにかなってしまいそうで…けれど、胸をいじると自分が女になったことを思い知らされ…そんな矛盾の中で感じる快感はとても…とても…――。
 
 「ふぁぁ…っ♪」
 
 思わず漏れる鼻の抜けた声に私の思考が一瞬、途切れた。ビリビリと走る快感は勿論、胸の先から湧き上がったものである。思考が途切れさせるほどの快感は男の場合、射精時くらいしか味わえないだろう。しかし、今の私はそれをほんの少し胸に力を入れるだけで手に入れる事が出来て…そして何よりそれを我慢することが出来なくなっていたのである。どんどんと湧き上がるビリビリした快感が欲しくて、貪欲に手を動かしてしまう。
 
 ― そんな私の鼻孔を何度も何度もニンゲンの下着の香りが擽って…ぇっ♪
 
 胸の奥から暖かいものをこれでもかと引き出してくる魔法の匂い。それに私が我慢出来る訳がない。根元から先っぽへ絞るように動く私の手がその先端の弾力ある『何か』に伸びた。
 
 「ふぅぅぅんっ♪♪」
 
 そのままきゅっと指の間で摘むだけで私の腰がカクカクと揺れる。まるでサルか何かのようなみっともない動きに私の中の惨めさがさらに大きくなった。だが、それでも私の身体に根付いた欲望は私を解放してはくれない。寧ろもっと私を辱めるようにそのまま何度も指を前後させるのだ。
 
 「くぅ…ん♪ひ…ぃん…っ♪」
 
 『それ』――乳首は男の時とは比べものにならないほど大きくなっていた。爪の先ほどもなかった男時代とは異なり、今の私は小指の先を一回り大きくしたような大きな乳首を持っている。昔では摘むのが精一杯であっただろう乳首だが、今は摘むどころかこうして指で扱くのだって不可能ではない。
 
 ― そして…乳首を扱く度にゾクゾクって…っ♪
 
 私の背筋がさっきから小さく震えているのは決して冬の寒さの所為ではない。寧ろ、今の私には寒さに負けない熱が灯っているのだ。そして、その熱が私の身体を敏感にさせ、まるで快楽神経を直接扱いているような快感を生み出す。乳首をコスコスするだけで腰から首筋まで伝う震えを起こしてしまうのだ。
 
 「はぁ…はぁぁ…んっ♪」
 
 そんな自分にしっかりと根づいたプライドが惨めさを抱いてしまう。それを少しでも軽減しようときゅっと口を結ぶが、私の口からは甘い吐息と鼻の抜けた声が出てしまう。まるで男を…いや、オスを誘うようなそれは自分の声とは到底、思えない。しかし、この家の中には私しかいないのだ。どれだけそれを否定しようとも…お腹の奥をじゅんっと熱くさせる甘い声を出しているのは私に他ならない。
 
 ― こんな…こんなのってぇ…っ♪
 
 自分で乳首を弄り、まるで魔物のような声を出している自分。けれど、私はエルフで…ついこの間まで男であったのだ。毎朝恒例ともなったこの痴態を認める事は出来ない。けれど、快楽を求める本能は私の指を動かし続け、私の腰を震わせる。そんな自己矛盾が自分で自分を追い詰めているという形容しがたい被虐感へと変わっていくのだ。そしてその被虐感が下手をすれば乳首を弄る快感以上に気持ち良く、私の奥から熱い蜜を滴らせる。
 
 「に…ニンゲン…た、助け…てぇ…っ♪」
 
 そう呟いたのは一体、『どちら』の自分なのか私にも分からない。指を止めて欲しかったのか、それとも今の私を肯定して欲しかったのか。しかし、どちらであってもアイツならきっと何とかしてくれるという根拠のない信頼感から生まれでたものであるのは間違いない。それほどに私はニンゲンに…ハワードに依存しきっていたのだ。
 
 ― でも、アイツはもうここにはいなくて…っ♪
 
 ついさっき仕事に出かけたばかりなのである。性格こそアレだがアイツは基本的に真面目な男だ。忘れ物をした事だって一度もない。そんなニンゲンが途中で颯爽と帰ってきて私を都合良く助けてくれる。そんなコミックブックの――勿論、子どもが見るには教育上良くない方の――ヒーローのような展開などありはしない。
 
 ― しかし、そうは分かっても、私は千切れそうになる二つの心を収拾してくれる事を期待していて…だから…っ♪
 
 この場にいない私にとってのヒーローの残滓をより感じるために、私の左手はそっとカゴの中へと伸びる。そのまま迷いなくボクサーパンツを握り締め、顔へとそっと近づけていくのだ。自然、より強く飛び込んでくる汗と精の匂い。叩きつけられるようなそれに半開きになった私の口はドロリと唾液を零し、ニンゲンに買ってもらったシャツを穢した。
 
 ― あぁ…っ♪良い匂いっ♪良い匂い…っ♪良い匂いっ♪良い匂いぃぃっ♪♪
 
 匂いの誘惑に完全に屈した私の頭の中はその匂いの事で一杯になってしまった。たった一枚の布切れに私は心奪われてしまったのである。そこにはもうエルフとしてのプライドや男であった事に関する困惑はなく、必死に鼻と口を動かしてその匂いを少しでも味わおうとするケダモノの姿があるだけだ。
 
 ― でも…止まらないぃっ♪しゅごいの…っ♪ニンゲンの匂いしゅごいからぁっ♪
 
 「こ、こんなに良い匂いするなんて…は、反則ぅっ♪こんなの…我慢出来るはずないだろうが…っ♪」
 
 本能的に自分の痴態をニンゲンへと押し付けることで何とか心の平静を保ちながら、私の右手は激しく動いていく。乳首を扱くだけではなく、その柔肉までを揉み上げるように変化していた。左手が彼の下着を顔へと近づけている分の快楽を補おうとするようなその動きに私の秘裂の奥からドロリと愛液がこぼれ落ち、内股を濡らし始めたのを感じる。
 
 ― い、嫌…なのにぃ…っ♪こ、こんな…ベタベタして…き、気持ち悪い…のに…ぃっ♪
 
 普通の女性であれば下着が防いでくれるあろう愛液の流れ。しかし、未だニンゲンに自分の変化を告白出来ない私の下着は男性用のトランクスだ。トロトロと内股を伝って落ちていく愛液に対応しているはずがなく、その独特の暖かさとヌルヌルした粘度が一気に広がっていく。
 
 「あぁ…っ♪と、取れない…ぬ、ヌルヌルが取れないよぉ…っ♪」
 
 そう言いながら、両太腿をもじもじと擦れ合わせるのだから、それは言い訳に過ぎない。実際、私は性感帯にも近い部分を擦れ合わせる事に性的な興奮を間違いなく得ていたのだ。胸を弄るほど鮮烈ではないにせよ、身体を熱くしていくそれは私の身体をさらに追い込んでいく。
 
 ― だけど…足りない…っ♪こんなんじゃ…こんなんじゃ私…ぃ…っ♪
 
 今まではそれでも十分、『足りて』いたのだ。しかし、日々の自慰によって私の身体はより貪欲になっていっているのだろう。胸の愛撫や内股の刺激だけでは到底、満足することが出来ない。もっともっとと快楽を求める思考が強くなり、私のタガがゆっくりと外れていく。
 
 「はぁ…っ♪熱い…っ♪熱い…から…熱い…だけだから…っ♪」
 
 そう言い訳しながら、私は震える手でばっと自分の衣類を脱ぎ捨てる。その間も、私の口元にはほとんどと言っていいほどニンゲンの下着があった。一瞬の別離も耐え難いと思うほど、私はその匂いに中毒を引き起こしているのだろう。けれど、今のタガが外れた私にはそれは喜ばしいものでしかない。口ではどう言い訳しようとも、私の思考はどんどんと淫らな――それこそ魔物のようなものへとに近づいているのだから。
 
 ― 私…お、おかしく…おかしくなってるぅ…っ♪
 
 また一つタガが外れて、淫らになっていく自分。それを感じた私の胸に微かな恐怖が宿った。しかし、それすらも彼の匂いは解きほぐし、消し去ってくれる。後に残るのは変化する自分に歪んだ満足感と被虐感を感じるメスだけだ。
 
 「はぁっ♪きゅぅぅぅんっ♪」
 
 そんな私の右手が再び動き出し、親指と人差指で乳首と扱き上げる。勿論、それ以外の三指も胸の柔肉を根元から絞るように動いていた。服越しとは比べものにならないほどハッキリとした快感に私の口から悲鳴のような声が上がる。前後に揺らぐ腰の奥からも愛液の塊がまたドロリと溢れ、ジーンズに黒い染みを広がらせた。
 
 ― あぁ…っ♪じ、ジーンズまで…愛液で…ぇ♪
 
 私が身に着けていたのはぴっちりと肌に密着するスキニータイプだ。下着がまるで役に立たない今、遅かれ早かれジーンズにまで愛液が染みこむのは当然だっただろう。しかし、じんわりと広がっていくその黒い染みがまるで魔物へと変わるような私を象徴しているようで倒錯感を掻き立てるのだ。
 
 「ご、ごめんね…ぇっ♪ごめん…んっ♪私…折角…買ってもらった服なの…にぃ…っ♪」
 
 私の淫らな液体でニンゲンが折角、買ってくれた服を穢している。それに謝りつつも、私の動きは止まらない。手も足も快楽を求めてひたすら動き、私を追い立てていく。いや、寧ろ今の私には普段は中々、素直に言えないその謝罪の言葉さえ、快楽を求めての行為であるのかもしれない。
 
 「あはぁっ♪でもね…でも…気持ち良いの止まんないのぉ…♪イジイジするのしゅてきなんだぉ…♪」
 
 ― その証拠に…私の口から飛び出る淫らな言葉は止まらないっ♪
 
 言葉すら自分を追い立てる道具へと利用し始めた私の口から甘い告白が飛び出る。まるでその場にいるニンゲンに訴えるような言葉に私の背筋に強い快感が走った。アイツがこの場にいるのであれば、と言う淫らな過程を前提にしているそれは被虐感と結びつき、『見てもらいたい』という欲求へと変わる。
 
 「見て…ぇっ♪見て…ハワードぉ…っ♪私のおっぱい…エロ乳首もう勃起しちゃって…ビンビンなんらよぉっ♪」
 
 以前、隠れて購入した淫らな書籍から淫語を流用しながら、私は見せつけるようにそっと胸を反らせる。無論、それを見るものは誰もいない。しかし、今の私の脳裏には私の淫らな姿を冷たい――それでいて何処か艶の浮かんだ――瞳で見下ろすニンゲンの姿があるのだ。
 
 「ニンゲンのおぱんつで興奮しちゃってる淫乱エルフの顔を見てぇっ♪えっちな愛液で擦れ合わせてクチュクチュって音掻き鳴らしてる腰も見て♪♪」
 
 ― その言葉と同時に私の背筋に冷たいものが走り抜けて…っ♪
 
 『見てもらいたい』という欲求を擬似的に満足させたからだろうか。それは何処か充実感すら伴ったものだった。しかし…それは所詮、偽物である。本当にニンゲンに見られている訳では決して無い。それが私の中の不満を掻き立て、快楽を後一歩の所で燻らせる。
 
 「あぁぁっ♪イきたいぃっ♪イきたいのにっ♪イきたいのにぃぃっ♪♪」
 
 いや、本当はもうイっていてもおかしくないほどなのだ。私の身体の中を渦巻く快感の流れは昨日、絶頂に達した時と同じ程に高まっている。しかし、あの身体中で快感が爆発し、ふわりと意識が浮き上がるようなアクメには至れない。快感だけがずっと貯めこまれ、解放されない苦痛に私の心と身体が悶えた。
 
 ― ダメだ…これじゃ…ダメなんだ…っ♪もっと…もっともっともっともっとぉっ♪
 
 筆舌にしがたい欲求不満に突き動かされ、左手が彼の下着を手放した。重力に引かれてパサリと床へと落ちるそれに私はそっと身体を前へと倒していく。まるで犬がエサを貪るような姿勢に私の被虐感がまた疼き出した。けれど、解放を求める私の身体は止まらない。寧ろそれを後押しとするように鼻をニンゲンの下着へと押し付け、両手を胸へと移動させるのだ。
 
 「はぁ…っ♪はぁぁっ♪え、エルフに…エルフにこんな恥ずかしい格好させるにゃんて…お、お前くらいなものなんだぞぉっ♪だ、だから…だから…責任取れぇ…♪」
 
 妄想の中のニンゲンにそう言い放ちながら、私はそっとトランクスのクロッチ部分に舌を這わせた。普段、精嚢を支えているだろうそこは少しだけしょっぱい。けれど、それは決して嫌なものではなかった。寧ろ、濃厚な匂いと共に私の脳を焼き、ドロドロに蕩けさせるそれは魔性に近い。
 
 ― あぁ…美味しい…っ♪ニンゲンの下着美味しいっ♪ペロペロするの最高なのぉっ♪
 
 ツンと鼻の奥に突き抜けるような匂いと共に微かな甘さが私の舌に伝わった。塩っ気を含んだその甘さは上品な砂糖菓子を思わせる。しかし、それは砂糖菓子とは比べものにならないほど中毒性が高く、何度も何度も舌を這わせてしまうのだ。精の匂いと負けず劣らず癖になるその独特の味に私の唾液は止まらず、彼の下着を穢してしまう。
 
 ― それに伴って…腰もぉ…っ♪
 
 まるでメス犬がオスを誘うように私の腰は左右に揺れていた。いや、今の私はメス犬よりもよっぽど淫らなのだろう。オスが…ニンゲンが欲しくて欲しくて溜まらなくて…メス犬ではしない自慰まで行なっているのだから。
 
 「あははぁっ♪私…メス犬以下になっちゃったぁ…♪ニンゲンの所為で…こんなに淫乱になっちゃったんらぁ…♪」
 
 そう自分を貶めながら私の太腿は何度もクチュクチュと愛液同士を擦れ合わせる。交わり…いや、セックスを知らない私ですら、本能的に淫らであると感じるその音に私の興奮はエスカレートしていく。両方の乳房を持ち上げる手に力を込め、乳首を指の間で磨り潰した。
 
 「ふわあああぁぁぁぁっ♪♪」
 
 瞬間、ゾクゾクとした快感が私の身体中を駆け抜け、壊れたように全身が震える。目の裏で視界がチカチカと瞬き、ぐわんと頭が揺れた。思わずきゅっと噛み締めた歯の間から唾液がこぼれ落ちる。しかし、それでも私は絶頂には至らない。至れない。まるで身体が抵抗しているようにオーガズムの手前で寸止めされてしまうのだ。
 
 ― もうすぐ…もうすぐ…なのにぃっ♪
 
 その身体の抵抗を屈服させようと私の手が思わず股間へと伸びそうになってしまう。しかし、トイレや風呂の時でさえ出来るだけ触れずに、また見ずにしようとしている部分を弄る勇気はまだ私にはなかった。そこを弄った方が気持ち良いとは理解しつつも、そこを触ってしまった瞬間に私の中の何かが壊れてしまいそうな予感がする。
 
 「た…すけて…ぇ♪助けてニンゲン…っ♪ハワードぉ…っ♪♪」
 
 気持ち良いのが辛くて仕方がない。唯一あるかもしれない打開策も臆病さが足を引っ張って選べない。そんな矛盾した状況を何とかして欲しいと私は彼の名前を再び呼んだ。しかし、それに応えてくれるニンゲンはこの場にはいない。その事が辛くて、悲しくて、私は乳首を弄りながら必死にニンゲンの事を呼び続ける。
 
 「はわーどぉ…はわーどっはわぁど…っハワードっはわぁどっ♪」
 
 ― そこまで呼んだ瞬間、私の視界に目の前のガラス窓が目に入って…っ♪
 
 俯せの状態で、腰を高く上げた淫らな犬のような格好。上半身には一矢も纏わず、必死に自分の胸を弄っている浅ましい姿。欲情で真っ赤に染まった顔は蕩けて、半開きになった唇は汗と唾液でテラテラと妖しく光っていた。
 
 ― まるで…小説の中の…♪
 
 ニンゲンの汚い罠に嵌められ、調教されたエルフ。その彼女の姿と今の私の姿が頭の中で一致する。自然、その傍に立つはずのニンゲンの姿が私が良く知るハワードの姿に書き換えられていくのだ。勿論、それは舞台も例外ではない。私もまた慣れ親しんだ我が家から無機質な地下室へと閉じこめられるのだ。冷たい床に忠誠を誓うように伏せる私はそのまま震える唇をゆっくりと動かしていく。
 
 「ご…ご…ご主人様ぁっ♪♪」
 
 ― あぁ…っ♪あぁぁっ♪あぁぁぁぁぁぁぁっっ♪♪
 
 その瞬間、私の中の何かが壊れたのを感じる。ずっと認めまいと認めなかった自分の中の浅ましい欲望。それがはっきりと萌芽し、私の胸に急速に根を張っていく。一瞬で私の心に食い込んだその欲望は――ハワード…いや、ご主人様に奴隷のように扱われたいという願望はその一言で目を背ける事が出来ないほど大きくなってしまった。
 
 ― あぁ…っ♪で、でも…良いのぉっ♪来るからぁっ♪アクメ来ちゃうからぁっ♪
 
 今までの自分が書き換えられていく感覚を肉体はずっと欲していたのだろうか。被虐的でもあり、嗜虐的でもあるその感覚の中で私は大きな波がこちらへと近寄ってくるのを感じる。私の身長と比べて何倍もの大きさを誇るそれがまるで大きな口を開けて飲み込もうとしているように私へと迫ってくるのだ。その恐ろしいはずのイメージは私にとっては歓喜を呼び起こすもの以外の何者でもなかった。
 
 「来ちゃいますぅっ♪私、イッちゃうのっ♪ご主人様専用の淫乱メス奴隷がアクメしゅるところ見てくださいぃっ♪♪」
 
 ― そう宣言した瞬間、快楽の大波が私を飲み込んだ。
 
 「あああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ♪♪♪」
 
 待ちに待った絶頂。それに私の全身がガクガクと震える。汗と愛液でぐちゃぐちゃになった身体の奥からドロリと愛液の塊がまた吹き出した。半開きのまま嬌声を吐き出す口からも同じように唾液が零れ落ちるのが分かる。身体の内側ではまるで快楽神経に無数の蛇が絡みついているように感じる。無理矢理、神経を刺激されるような被虐的なオーガズムは留まる所を知らず、私の身体中を揺さぶった。
 
 ― 特にしゅごいのがぁっお腹の奥ぅっ♪
 
 愛液を吐き出す源泉でもあるそこは嵐に耐えるようにきゅぅぅっと収縮した。しかし、その程度では快楽の波に耐え切る事は出来ない。右へ左へと無秩序に煽り、暴れる快感にお腹の奥が小舟のようにぐらぐらと揺れるのを感じる。そうして刺激されたお腹から疼きと共に快感が湧き上がり、全身へと波及していく。
 
 「はぁ…♪はぁぁ…♪」
 
 感じたことがないほどの快感が過ぎ去ったのはそれから数分経ってからの事だった。しかし、それでもまだ私の身体に痺れが走り、力が入らない。その上、時折、思い出したかのように電流が走って、私の性感を刺激する。腕を動かすことも出来ない倦怠感に包まれた私に無遠慮に走るそれは私の被虐感をジリジリと刺激した。
 
 ― …気持ち良かった…ぁ…♪
 
 待ちに待った絶頂。それは焦らされに焦らされていた所為か、今までとは比べものにならないほどだった。今まではお腹の奥を揺さぶられるほどの快感など感じたことがなかったのである。少なくとも人格に影響を及ぼすほどの気持ち良さには遠く及ばなかった。
 
 ― でも……足りない…これじゃ…ない…っ♪
 
 そう。確かに自慰の気持ち良さを私は知ってしまった。でも、同時にそれよりももっと気持ち良くて、素晴らしいものを知っているのである。小説の中にも描かれていた甘美で背徳的なセックスをタガの外れた私は求め始めていたのだ。
 
 ― 欲しい…♪ご主人様のオチンポが…オマンコに欲しい…っ♪
 
 でも、同時に臆病な私の心がその欲望にストップを掛ける。最初から女であれば私だってストップなど言わない。だが、私は男から女になるという普通ではありえない変化をしているのだ。その事を知って、ご主人様が私を化物であると嫌わないでいてくれるか…正直、自信がない。
 よしんば、嫌わないでいてくれた所であの妙に堅物なご主人様が異性と同居する事を許容するだろうか。私にはあまりそうは思えない。色々と理由をつけて、また私を一人暮らしさせようとする姿が今からでも目に浮かぶ。
 
 ― だけど…自分から襲う度胸もなくて…。
 
 魔物のように自分からご主人様にアピールして…虜に出来ればそんな問題もすぐ解決出来るのかもしれない。しかし…私は魔物でもなければ、元々女でもないのである。ご主人様を監禁するのは出来ても、虜に出来るかは正直、自信がない。
 
 「辛いよ…ご主人様…」
 
 ようやく芽吹き、受け入れる余地が出来た欲望。しかし、それを解消する術が見えず、私は絶頂の余韻を走らせる膝をそっと抱える。そのまま無性に悲しくなった私の目尻からそっと冷たいものが流れていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…ふぅ」
 
 ― そう溜息を吐く私の頬は未だ熱を灯していた。
 
 あの恥ずかしすぎるにもほどがある痴態から既に数時間が経過しているというのに、私の熱はまだ引かない。流石に冷静になった頃よりはマシとは言え――最初の頃は恥ずかしすぎて頭を抱えて、床の上でゴロゴロしていた――、未だに羞恥心は尾を引いている。着替えて自分の衣服を洗濯している時などは痴態が何度も脳裏に蘇って仕事にならなかったほどだ。
 
 ― うぅ…あんな一面が私にあったなんて…。
 
 火を沸かし、野菜をまな板の上で切りながら、そんな言葉が胸中に浮かぶ。勿論、その対象は被虐性を顕にし、ニンゲンをご主人様と呼んだ――勿論、妄想な訳だけれど――事だ。今まで自分の中でも微かに自覚していたとは言え、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。まして…あんな形で顕になるなんて黒歴史も良い所である。
 
 ― それに…口調そのものも変わってなかったか…。
 
 思い返せば、途中から女口調になってたような気がする。女になってからも特に意図せずに男口調を使っていたのだが、やっぱり私の根幹も女に変わりつつあるのだろうか。その薄ら寒い予想が今はとても現実味を伴って聞こえる。
 
 「…ホント、どうなるんだろうな…」
 
 女体化しただけで、私の変化は終わった訳ではない。今も尚、私の身体は『何か』に変質していっているのが分かるのだ。一体、自分が何に近づいているのか大体、予想はつくが…やはり認めたくはない。だって、それは私がニンゲン以上に毛嫌いしていたものであり…――。
 
 ― そこまで考えた瞬間、私は魔力を察知した。
 
 まるで天幕を覆いかぶせるようにぐわりと広がる魔術。それはこの家の周辺を囲むものであった。気の所為かともう一度、探ってはみたが、間違いではない。一体、どのような効果のある魔術かは分からないが構成から読み取る限り、特に害のあるものではあるまい。それより寧ろ問題なのはこの家が標的であると隠すつもりもない事で…――。
 
 「やれやれ…面倒そうだな」
 
 そう呟きつつも気晴らしの機会を得た私は内心、喜んでいた。今は思考が行き詰まり、どうにかなってしまいそうだったのである。この魔術の使い手が一体、どのようなつもりでこんな真似をしたのかは知らないが、運が悪かったと思って私の気晴らしに付き合って貰おう。
 
 ― そう考え、ルーンの火を消した瞬間、ドアの方からドアノッカーの音が聞こえた・
 
 アレだけ派手に魔術を展開していたにも関わらず、相手はバレてはいないつもりのようだ。暢気なその音に呆れさえ感じてしまう。一体、相手が誰なのかは知らないが、ニンゲンよりも遥かに魔術に長けるエルフの力を大分、下に見てくれているらしい。その代償をどうやって支払って貰おうかと心の中で呟きながら、私はスリッパのまま玄関へと進んだ。
 
 ― このまま放っておいてドアを蹴破られでもしたらアレだしな。
 
 一応、この家はかなりの金持ちが別邸として所持していたのをニンゲンが譲り受けただけあって、細かい部分がかなり頑丈に出来ている。勿論、それは玄関の扉とて例外ではない。しかし、それは決して無敵である事を意味しないのだ。特に相手は街中で魔術を平然と扱うような連中である。扉に向けて魔術を使わないと思い込むのはあまりにも楽観的過ぎるだろう。
 
 ― ドアだってタダじゃない訳だし…私が魔術士相手にそう遅れをとる事はあるまい。
 
 それに私の誤解であるという可能性も少なからず残されているのだ。下手に先手を取ろうとして魔術をぶっ放し、またアイツの迷惑になるのだけは避けたい。故にここは相手の目的の確認の為にも出迎えるべきだろう。そう結論づけながら、私はドアの鍵を外して、チェーンを解除し――
 
 ― そして扉を開いた。
 
 「どちら様ですか?」
 
 ― そう言った瞬間、私に白いモヤが襲いかかった。
 
 恐らく神経毒系の魔術なのだろう。こちらに近寄ってくるそれを見ながら、構成を解析した私はそう判断した。そんな私の目の前で黒いローブに身を包んだ男が勝ち誇ったように笑っている。どうやら相手は既に勝ちを確信しているらしい。
 
 ― だが…それは少しばかり早い。
 
 「<<解けろ>>」
 「なっ!!」
 
 短く呟いた私の言葉でモヤがすぅっと晴れていく。一瞬で元の空気に戻った中で私は焦りを顔に浮かべた男の姿を内心、哂った。自信過剰とも言うべき魔術の使い方にどれだけのものかと思ったが、どうやらただの自信家なだけだったらしい。このレベルの魔術ならエルフにとって見てから、レジスト余裕である。
 
 「どうした?それで終わりか?」
 「ぬぐ…っ!」
 
 挑発する私の言葉に男は悔しそうな表情を見せた。そのまま手の中の杖を握り直し、構成を紡ごうとしているのが分かる。私はニンゲンの魔術士と出会った事はないが、その速度はハワードよりも遥かに遅い。恐らく大した魔術士ではないのだろう。どうしてそのレベルの魔術士がいきなりエルフに喧嘩を売る事にしたのかは気になるが……――。
 
 「<<春雷y>>」
 「<<解けろ>>」
 
 0.5秒ほど時間を掛けて、ようやく紡がれる魔術を私はまた一言で無効化した。発現する魔術さえ分かっていれば格下でも<<レジスト>>――無効化はそれほど難しくはない。ましてや相手は私から比べるべくもないレベルの魔術士だ。油断さえしなければ、見てから無効化するのもそう難しくはない。
 
 「さて、次の手は?」
 「んぐ…ぐぐぐぐ…っ!!!」
 
 ― 無論、この時点でコイツを無効化するのは容易い。
 
 それをしないのは私の虫の居所が悪い事に他ならない。出来ればニンゲンよろしく相手の手札を全て使い切らせ、実力の差を思い知らせた状態で叩き潰してやりたいのだ。自分でも意地が悪いとは思いつつも、それくらいしかければ今の形にならないモヤモヤは晴らせない。
 
 「な…めるなあああああああ!!!」
 「っ!!」
 
 ― その瞬間、家の中に暴風が吹き荒れた。
 
 男のローブの内側から一気に膨れ上がった風に私は押し流されてしまう。空中で体勢を整え、足から着地した私の前で悠々と魔術士が家の中へと入り込んでいるのが見えた。その周囲にはゴウゴウという風の唸り声が聞こえ、不可視の暴力が彼の周囲にうねっているのが分かる。恐らく最初から何かしらの魔術を展開しており、それに魔力を注ぎ込んだのだろう。流石の私でも既に発動している魔術に無効化を一瞬で挟んでやれる速度はない。
 
 ― …なるほど。速さや構成ではなく…魔術の制御に長けた魔術士だったのか。
 
 基本的にこの辺りで使われている魔術は細かい事をするのには向いていない。その分、単純な魔術でも使いこなせば強いのではあるが、この魔術士のように常に、それもエルフの目でも違和感ないほど薄く展開し続けるのは難しいのだ。その点に置いては間違いなく賞賛に値する技術の持ち主と言えるだろう。
 
 「やれやれ…少し油断しすぎたな」
 
 一本道の廊下で立ち上がりながら、私はそう呟いた。この程度の相手とニンゲンを侮るのは危険であると、ハワードと生活してきて分かっていたつもりだが…まだエルフとしての驕りが私の中に残っていたのだろう。勝手に相手を下に見て、反撃を受ける悪癖は早急に何とかしたほうが良いのかも知れない。
 
 ― まぁ…その前にコイツを片付けてから…だな。
 
 「ふふふ…!どうしたんです?手も足も出ないのはそっちの方じゃないですか?」
 「…一気に活気づいたな。そんなに嬉しいか?」
 
 招かれてもいないというのに勝手に人の家へと踏み込んでくる客に私は呆れた顔を作りながら、そう返した。しかし、魔術士はそれを嫌味ではなく、負け惜しみと受け取ったらしい。勝ち誇った顔をさらに強くしながら、悠々とこちらへと歩いてくる。
 
 「えぇ!えぇ!嬉しいですとも!何せあのエルフが私の前に為す術もないんですから!」
 
 ― …ない訳じゃないんだがな。
 
 この距離からでも分かるほどの風の衣を突破するのはそう難しくない。私はろくに構成もしていない魔術を暴発させ、一区画を吹っ飛ばす程度の魔力を持っているのだ。それを全て攻撃に転じれば、一瞬でこの魔術士から意識を奪うことが出来るだろう。単純に火力で押すのでなければ、魔術士の全身を炎で包み、酸欠で意識を奪うという方法もある。けれど…それはあくまで周りの被害さえ考えなければ…の話だ。
 
 ― …もうコイツに家の中へと踏み込まれている…しな。
 
 そんな状態で魔術士のバリアを突破するほどの魔術を使えば、家の中にも大きな被害が出てしまう。出来れば…それは避けたい。既に廊下の中は滅茶苦茶にされてしまっているが、まだ必死に掃除すれば元通りにならなくはないのだ。けれど…魔術を使えば、私の手では修復出来ないレベルになってしまう。そうなれば…アイツにまた迷惑を掛ける事になってしまうのだ。
 
 ― くそっ…!最初から遊ばずにとっとと叩きのめしておけば良かった…!
 
 しかし、そう悔やんでももう遅い。既に状況は刻一刻と変化していっているのだ。まずはそれに対処しなければならないだろう。しかし、そう理解していても、またニンゲンに迷惑をかけるかもしれないという焦りが私の中に膨れ上がっていく。
 
 「<<風の刃よ>>」
 「っ!!」
 
 油断したつもりはなかった。だが、大きくなっていく焦りに足元を掬われたのだろう。魔術士の詠唱に私はついていけず、風の刃が廊下を駆け抜けた。どうやら風の衣を維持しながらでは、威力も精度も殆どないらしく、私の衣類を掠め、サラシを切り裂いただけに終わる。しかし、家に与えた被害は甚大で廊下に幾つもの傷がつけられた。
 
 ― ダメだ…!ここじゃ廊下が傷つくだけだ…!
 
 コイツをどうするかもまだ決められてはいない。だが、ここで戦うのは被害を増やすだけだ。そう判断した私は半開きになったままの扉を後ろ足で蹴り、リビングへと逃げこむ。そのままテーブルを倒し、それを盾にした瞬間、再び風の刃が私に向かって放たれた。それをテーブルが防いでくれるが、また壁に刀傷のような裂傷が刻まれる。
 
 ― あぁっ!もう…っ!壁紙を張り替えるだけでもかなりの金額になるんだぞ!!
 
 人並みの金銭感覚を手に入れた私が胸中で叫ぶが、私を襲いに来た相手が容赦をしてくれるはずがない。勝ち誇ったように高笑いをしながら、風の刃を放ち、こっちへと近づいてくる。それをテーブルの後ろから伺っていた私は自分を落ち着ける為にそっと深呼吸を繰り返した。
 
 ― どうする…どうすれば良い…?
 
 相手の目的は分からないが、狙いは恐らく私自身だ。最初の魔術は決して私の命を奪おうとしたものではなかったし、それは間違いではあるまい。一体、私を捕らえてどうしたいのかは分からないが、そんな事になってしまえば、アイツに心配と迷惑を山ほど掛けてしまうことになるだろう。それを避ける為にもここは家の事など考えず、あの魔術士を叩き潰すべきだ。
 
 ― だけど…この家は…。
 
 私とアイツの居場所なのだ。ニンゲンと暮らす暖かい場所なのである。それを自分の手で壊したくはない。その躊躇が足を引っ張り、私の思考を妥協案へと導いていく。
 
 ― この家で戦えない。でも、魔術士はどんどんと近づいてきている。ならば…っ!
 
 「<<吹けよ、春風>>!」
 「っ!!!」
 
 私の声に応えて吹き荒れた風が轟と廊下を吹き抜けた。まるでハリケーンのような風圧が魔術士の身体を浮き上がらせ、外へと叩き出していく。ゴロゴロと無様に転がる魔術士の姿を見て、私はざまぁみろと内心で哂った。だが、私の紡いだ魔術は決して魔術士にトドメを指すためのものなどではない。戦いを仕切り直すために場所を移動させただけに過ぎないのだ。
 
 ― だから…今の内に前に…っ!
 
 そう胸中で呟いて、テーブルの影から飛び出そうとした私の手首を何か大きなものが掴んだ。振り返れば、浅黒い肌の男が私の手首を掴んでいるのが見える。しかし、それはニンゲンの手とは違い、私に何の安心感も安堵ももたらさない。寧ろ不安を掻き立てるとても不快なものであった。
 
 「この…っ!」
 
 この忙しい時に人の手を掴む男に向かって、反射的に魔術を紡ごうとする。しかし、そんな私の口を布で覆うもう一つの手があった。別に口を塞がれた所で魔術が使えなくなる訳ではない。両方一気に吹き飛ばしてやろう。
 
 ― そう思って紡いだ構成が全て霧散していく。
 
 まるで意識がかき乱されたように胡乱になり、しっかりと集中することが出来ない。簡易詠唱で魔術を発現する為には通常以上の集中力が必要であるのに、一体、どうしたのか。そう混乱する私とは裏腹に、身体の奥底から眠気が湧き上がり、瞼が重くなっていく。
 
 ― しまった…!これ…神経毒か…っ!
 
 私の口を覆う布に神経毒が含ませられているのをようやく私は悟った。しかし、その時にはもう遅い。既に復活した魔術士が私に向かって、再び白いモヤを繰り出したのである。布と魔術。その双方に眠気を掻き立てられた私の瞼がゆっくりと落ち、視界が闇へと閉ざされていく。
 
 ― …ごめん…ハワード……。
 
 混濁した意識が闇へ落ちる寸前にそう呟きながら、私は意図しない眠りへと落されたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ― 父はとても凄い人であった。
 
 集落を纏める指導者であり、プライド高いエルフから尊敬される父。それに子どもながら憧れたのを覚えている。何時か私もそんな風になりたいと研磨し、父もまたそんな私に期待してくれていた。それが私にとってはとても嬉しくて、誇りでさえあったのである。
 
 ― そんな父が暗い闇の中で私の前に立っていた。
 
 必死に私に向かって何かを告げようとする父ではあるが、その声は殆ど私には届かない。ただ、その唇の動きから察するにニンゲンの事を馬鹿にしているのが分かった。
 
 ― そして…私の事を心配してくれている事も。
 
 勿論、それはとても嬉しい。私は父に追い出されたとは言え、その選択が間違いであったとは思っていない。閉鎖された社会を護るためには仕方のない処置であったと理解している。だからこそ、未だに私の中の父への尊敬は色褪せず残っているのだ。
 
 ― だけど…いや、だからこそ、ニンゲンを馬鹿にするのは許せない。
 
 尊敬する父がニンゲンなどに私を預けてられるかと迎えに来てくれたのは嬉しいが、だからと言ってニンゲンをこき下ろされて素直でいられる訳がない。この街に来た当初であればともかく、私はもうそのようにニンゲンを見ることは出来ないし、そうするべきではないと思っている。エルフの社会が立ち止まっている間にも、ニンゲンたちはどんどんと技術を先へと進めていっているのだ。それを認めない限り、エルフは衰退し続けることになってしまう。
 
 「父上…ニンゲンにも…見るべき所はあるのです。そのように悪く言わずとも…」
 「……っ!!!!………っ!!…………!!!」
 
 相変わらず父の声は私には届かない。しかし、その私の言葉が父の逆鱗に触れた事だけは良く分かった。見たことがないほどに顔を真っ赤に染め上げ、怒りを顕にする父がそのまま強引に私の手首を掴む。集落にいた頃には父の大きな手は私を安心させてくれるものであった。しかし、微かに痛みを感じるほどしっかりと握りしめられたそれは今の私には怯えを湧き上がらせるものでしかない。
 
 「た、助けて…!助けて…ハワード…っ!」
 「…っ!!」
 
 反射的に呼んだニンゲンの名前に父の怒りがさらに強くなる。そのまま私へと向かって手を振り上げられ、一気に頬へと振り下ろされた。それを怯えた目で捉えた私は…私は……――。
 
 「…あ…?」
 
 たくましい父の手が私の頬を打つ瞬間、私の意識は覚醒した。とは言え、まるで何日も眠っていたように意識は胡乱でしっかりしない。視界もぼやけて、殆ど何も見えなかった。唯一、分かるのは仰向けに寝かされている事と、私の背中に柔らかい何かがある事くらいである。
 
 ― ここは……?
 
 冷たい汗が浮かんだ額を動かすように首を回している内に豪奢な細工が加えられている天井がはっきりと認識され始める。しかし、我が家はこんな天井にまで自己主張をするような悪趣味な作り方はされていない。天井一つだってシンプルで使いやすさと頑丈さを突き詰められているのだ。
 
 「…何処だ…ここ…」
 「ぶ、ぶひひひひ。ようやく起きてくれたんだね。待ちくたびれたよ」
 「…ん?」
 
 唐突に聞こえてきた耳触りな声に私の視界が自然とそちらへと向かう。そこには私よりもさらに背が低く、小太りの男が堂々と椅子に座っていた。金箔と朱色が入り混じったその椅子一つとっても成金趣味が垣間見えるが、気品一つ見えないその男が座っているだけでさらにその印象が加速する。その相乗効果っぷりはふと脳裏にジパングの『豚に真珠』などというコトワザ――勿論、ニンゲンに教えて貰った――が思い浮かぶほどだ。
 
 ― けれど、その悪趣味な男には見覚えがあって…。
 
 「お前は…」
 「ぐふふふ…覚えておいてくれたんだね…」
 「そりゃあお隣さんの顔くらいは…な」
 
 喜色を浮かべる男――つい最近、右隣へ引っ越してきた奴だ――に少しだけ引きながら、私はそう答えた。しかし、隣に引っ越してきたからと言って、顔と関係が一致するほど私はニンゲン以外に気を配ってはいない。私がこの男の顔をはっきりと覚えていたのは、この男が引っ越してきてから嫌な視線を感じるようになったからだ。
 
 「良かった…キミが僕の顔を覚えてくれたって言うことは…僕に気があるって事だよね?」
 「…は?」
 
 ― けれど…男はその言葉を妙な方向に勘違いしたようで…。
 
 ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、男は椅子から立ち上がってこっちへと近づいてくる。余裕を見せているつもりなのだろうか。ゆっくりとしたその動きは妙に生理的嫌悪を掻き立てた。そんな男から反射的に身体が逃げようとするが、身体の反応は鈍く、ベッドの上から後退る事も出来ない。
 
 「ぼ、僕は強姦も好きだけど、和姦も嫌いじゃないんだよね」
 「お、お前は何を言って…」
 「ぶひひひ…そんな風にカマトトぶるなんて…キミは激しいのが好きなのかな?だったら、お望み通りにしてあげるね…!」
 
 ― そう言って、男は私の身体に馬乗りになった。
 
 ドスンとベッドの上に押し付けられるような男の体勢に私は反射的に恐怖を感じてしまう。そして恐怖に固まった思考がようやくこの男が私を犯すつもりであると言う考えを浮かび上がらせた。その余りにも認めがたい現実に私の口が魔術を紡ぐよりも先に男の手が私の衣服を強引に引き裂く。
 
 「きゃあ…っ!」
 「ぐふふ…女みたいなその叫び声をあげるんだね。そういうのも嫌いじゃないよ」
 「女みたいなって…!!」
 
 確かに私は元々、男である。しかし、今の身体は殆ど――少なくとも私が確認できる範囲は全て女であると言っても良い。てっきりそれを知って私を犯そうとしているのだと思ったが…どうやらコイツは私が男であると思ったまま犯すつもりらしく…――。
 
 ― そ、そんなの…ふ、不道徳にも程がある…!
 
 強姦というだけでも認めがたいのに、同性を狙うだなんて私の価値観からすれば信じがたい。初期の私であれば、それだけでニンゲン全てを嫌いになってしまいそうな衝撃である。しかし、ハワードとの交流によって様々な事を学んだ私は決してそんなニンゲンばかりではない事を知っているのだ。だからこそ、私はそれに怯むこと無く、思考を動かすことが出来たのである。
 
 ― そ、そうだ…。この男が同性を目当てにしているのであれば…!
 
 「ま、待て!その前にちゃんと確認したほうが良くないか!?」
 「確認って?」
 「私がちゃんと男なのかっていう確認をだ…!」
 「でゅふふふ…そんなに脱がして欲しいんだね」
 
 ― んな訳あるか…!!!!
 
 そう反論したいが、ここで抵抗して話を拗らせる訳にはいかない。今の身体では馬乗りになったこの男を跳ね除けることすら出来ないのだ。今の私にはコイツが自発的に飛び退いてくれるのを祈る事しか出来ない。
 
 「それじゃあ…ご開帳…っと」
 「う…」
 
 ねっとりと耳に絡みつく目障りな声と現実から目を背けるように私はそっと明後日の方向を向いた。その瞬間、再び私の衣服は破かれ、ビリビリと悲鳴をあげる。ニンゲンに折角買ってもらった服なのにこんな事になるなんて悔しいが、ついさっきは自分以外を優先した結果、あんな無様な姿を晒したのだ。ここは多少、不恰好でも自分の身の安全を優先すべきだろう。
 
 ― そう胸中で呟いた私の前で男の腕がふるふると震えて…。
 
 そっと視界の端で男の顔を捉えれば、豚のような顔に驚きと恐怖が浮かんでいる。その視界は私の胸元――つまり、うっすらと膨らんだ胸に向かっていた。どうやら、私が女であるということがこの愚鈍そうな男にも分かってくれたらしい。それに安堵した瞬間、ゆっくりと男の唇が両端を釣り上げていき…――。
 
 「ぎゃあああああああああああ!!!!」
 「うぉ…っ!」
 
 みっともない悲鳴と共に男は私の身体の上から飛び退いた。そのまま何かに怯えるように身体を丸め、床へと蹲る。正直、期待していたとは言え、ここまで効果覿面であるとは想像していなかった。
 
 ― …この男の過去にも色々あったのかもしれないな。
 
 尋常ではない怯えように少しだけ同情の念が沸き上がってくる。しかし、この男が私を犯そうとしていたのは紛れも無い事実だ。それを考えると単純に可哀想などとは思えず、微妙な気持ちにさせられる。
 
 ― まぁ…とりあえず貞操の危機は防げた…かな。
 
 そう胸中で呟きながら、私はゆっくりと上体を起こした。まだ身体から倦怠感は抜け切らないものの、目覚めた当初よりはかなりマシである。どうやら下らないやり取りをしている間にかなり毒が抜けてくれたらしい。それに安堵した瞬間、バタンと何かがこじ開けられる音が私の耳に届いた。
 
 「ラウル!!!」
 「…え?ハワード…?」
 
 木製の扉を蹴破って入ってきたのは、見知った顔だった。けれど、そこに浮かんでいる表情は今まで見せたことのないような焦りが込められている。それどころか普段、飄々としている男の顔には汗が浮かび、制服にも返り血らしきものがべったりとついていた。
 
 ― どうしてここに…?
 
 私があの魔術士たちに誘拐された時からどれくらいの時間が経ったのかは分からない。しかし、カーテンの合間から見える街の気配から察するに数時間程度しか経過していないだろう。それなのにもう私の居場所を突き止め、こうして助けに来てくれるなんて普通では考えられない。
 
 ― もしかして…それだけ必死になってくれた…?
 
 いや、なってくれたのだろう。そうでなければニンゲンがここまで焦りを顔に浮かべるはずがない。今の彼は本を選ぶ時よりも更に真剣で追いつめられた表情をしているのだから。そして、そんな表情を見せられる私の胸は痛いほどに疼いてしまう。その仕草一つ一つにニンゲンが私を大事に思ってくれている事が伝わってきて、胸の中が一杯になるほど嬉しいのだ。
 
 ― やばい…泣きそう…。
 
 ついさっきまで犯される寸前までいっていた状況から一転してニンゲンが助けに来てくれたからだろうか。妙に涙腺が緩み、目尻が潤んでしまう。今にも泣きそうな自分を叱咤しようと目尻をそっと拭ったが、潤みはまったく消えてくれない。それどころか私の姿を見て、安堵を浮かばせる彼の表情を見るだけでさらに水分を増していくように思えるのだ。
 
 「ひ…ひぃぃぃ…!!」
 
 そこでようやく乱入者であるニンゲンに気づいたのだろう。縮こまったままの男が悲鳴のような声をあげた。それにゆっくりと視界を向けた彼の顔がまるで鬼のような形相へと変わる。今まで何度か浮かべた冷たい表情ではなく、怒りと殺意で顔を染めたそれは普段からは想像も出来ないものだ。声を掛ける事さえ躊躇してしまいそうな凄絶な表情に私の身体に緊張が走ってしまう。しかし、ハワードはそれを気にせず、自分の上着を脱いで私へと放り投げてくれた。
 
 「あっ…」
 
 それにお礼を言うよりも先にニンゲンの足が大股で男へと近づいていく。そのままの勢いで彼は思いっきり男の身体を蹴り上げた。100キロ近くありそうな身体が一瞬、浮かび上がり、男の口から黄色い吐瀉物が吐き出される。そのまま痛みに悶える男に向かって、ハワードは何度も何度もその頑丈そうなブーツで蹴り込んでいった。
 
 「げふっ…ぎゃ…あああ…っ!!」
 
 容赦の欠片もないニンゲンの攻撃に男の身体が歪に折れまがっていく。腕は関節が二つに増え、足も力なく横たわったままだ。繰り返される攻撃で内蔵が傷ついたのだろう。男の吐瀉物の中には赤い血が混じり始めていた。
 
 ― まずい…!
 
 そこまで見て、私はようやく事態の危なさに気づいた。このままニンゲンが怒りを忘れて、男を殺してしまえば彼は犯罪者になってしまうのである。今の時点でさえ明らかに過剰過ぎる攻撃を繰り返しているのだ。このまま被疑者であるこの男を殺してしまえば、コイツそのものが殺人者として追われる身になってしまう。
 
 ― それは…嫌だ…!
 
 別にこの男が死ぬこと自体はどうでも良い。少しばかり同情の念がない訳ではないが、私が犯される寸前であったのは事実なのだから。しかし、私の傍からハワードがいなくなってしまうというのは何にも勝る苦痛である。それだけは避けなければいけないと私は彼の上着で肌を隠しながら、ニンゲンの方へと近づいていった。
 
 「も、もう止めろ!!」
 
 ― 私の制止にニンゲンの攻撃がピタリと止んだ。
 
 そのままくるりと私へと振り返る彼の目には相変わらず怒りの色が浮かんでいる。それはべったりと肌についた返り血と合わせて、まるでニンゲンを悪鬼か何かのように思わせるのだ。そのあまりにも恐ろしい姿に一瞬、身体が怯みそうになってしまう。
 
 ― その間にニンゲンは再び足を振り上げた。
 
 私の表情をなんと受け取ったのかは分からない。けれど、今のハワードに私の制止が届いていないのは確かだろう。殺意と怒りに満ちた彼の視線はまったく変わっていないのだから。ならば…私はこの状況を引き起こしてしまった原因としてどんな手を使ってでもニンゲンを止めなければいけない。
 
 ― パンッ!
 
 「…え?」
 
 私の放った平手打ちは小気味いい音を鳴らして、ニンゲンの頬を赤く染めた。それにハワードが呆然とした視線を私に向ける。当然だろう。私は今までコイツに向かって、ここまで直接的な反抗をした事はない。いや、する必要がなかったというのが正しいだろう。時折、私をからかう事はあっても、彼は私の事を思って行動してくれていたのだから。
 
 ― でも…今は…。
 
 怒りと殺意で暴走したニンゲンを善悪の区別に無理矢理、押し込めるのは間違いだろう。しかし、それでも私は今の彼が間違っていると強く感じるのだ。怒りのまま力を振るい、された事以上の血を求める今の彼が正しいとは、決して思えないのである。無論、そこまで私の事を心配してくれた彼の姿に嬉しくないと言えば、嘘になるだろう。しかし、だからこそ…例え嫌われても、後で怒られたとしても、私はそれを諌めなければいけないのだ。
 
 「…落ち着け。私は大丈夫だ。何もされていないから…」
 「…ですが…」
 「…ここでそいつを殺して何になる?お前も犯罪者になるだけだぞ。お前は…私を一人にするつもりか…?」
 
 ― そこまで言った瞬間、私の目尻に涙が浮かんできた。
 
 元々、限界まで緩んでいた涙腺が「一人にする」という言葉で一気に決壊してしまったのだろう。決して小さくない水の粒が幾つも私の目からこぼれ落ちていった。それを見たニンゲンが困惑を強く顔に浮かべる。それも当然だろう。いきなり説教し始めた相手が泣き始めたら誰だって困る。
 
 「…分かりました」
 
 そんな私を慰めるようにニンゲンが大人しくそう言った。その表情にはさっきまでのような殺意はない。まだその瞳には怒りが残ってはいるものの、それ以上に理知的な光が戻ってきている。多分ではあるが…もうこれ以上、コイツも暴走しないだろう。それに安堵した瞬間、彼の目の前で泣いているという状況が急激に恥ずかしくなってきた。
 
 ― うぅ…こ、この…泣き止めってば…!
 
 そう目に力を入れてみるものの、決壊した瞳が涙を涸らす事はない。まるで今までの恐怖を全部、洗い流そうとするように幾粒もの涙を湧き上がらせる。自分自身の手で泣き止むのを諦めた私は泣き顔を見られない為にそっと足を前に踏み出した。
 
 ― し、仕方ない…よな。うん。これは緊急避難だ。
 
 「……ん。宜しい。それと…」
 
 ― そう自分の中で言い訳しながら、私は彼の胸の中へと飛び込んだ。
 
 泣き顔を見られたくないのであれば、見られない位置に移動すれば良いだけの話である。勿論、そこに後ろに振り返るとか顔を隠すという選択肢があったのは言うまでもない。しかし…私はなんとなく…あくまでなんとなくだが…コイツの胸の中に飛び込みたかったのだ。父ではない。そこに転がる男でもない。他の誰でもない…ハワードの大きな胸の中で本当に心の底から安堵したかったのだ。
 
 ― そんな私の背中をニンゲンがそっと撫でてくれる。
 
 普段の意地悪なキャラを崩して、そんな風に受け入れてくれるとは思っていなかった。正直、からかわれる事さえ考えていたのである。しかし…やっぱりなんだかんだいってコイツは私に優しいのだろう。普段からは考えられないくらいに優しく、ゆっくりと私の緊張を解きほぐしてくれるのだ。
 
 ― 暖かい…な。
 
 その胸の中で私はそっと目を閉じた。ココに居れば、きっとどんなものも怖くない。そんな事を考えてしまうほどそこは暖かく…優しい場所だったのだ。けれど…意地悪なニンゲンはきっと当分、こうして私を抱きしめてくれる事はないだろう。それだけが私にとっては唯一の不満であった。
 
 ― 抱きしめるくらい…もっとシてくれれば良いのに…。
 
 そう不満を言葉にする一方で私がニンゲンにとって同性である事を指摘する声も確かにあった。ハワードは決して同性に――いや、寧ろ異性相手でも、嬉々として抱きしめるような男ではない。ましてや相手が生意気なエルフであれば尚更であろう。そう言った彼の優しさや寵愛を受けられないのは、彼自身が原因ではなく、寧ろ私自身の臆病さが大きい。
 
 ― まぁ…それよりも…だ。
 
 ズキズキと胸の内を疼かせる思考を打ち切りながら、私はそっと彼の胸の内から顔をあげる。瞬間、見たこともないほど優しい色を浮かべたニンゲンと目が合った。父性すら感じさせる暖かなその表情に私が意識するよりも先に唇が動いていく。
 
 「助けに来てくれて…ありがとう…」
 「…当然のことをしたまでですよ」
 
 そう切り返すニンゲンの顔には一瞬、苦々しいものが浮かんだ。もしかしたらコイツは間に合わなかったと自分を責めているのかも知れない。だが、私が誘拐されたのは彼がいなかったからではなく、私に慢心が残っていたからだ。さらに言えば今だってニンゲンが踏み込んでくれなければどうなっていたか分からない。あの男の悲鳴を聞いた誰かがこの部屋に踏み込み、証拠隠滅の為に私が殺されていた可能性だって否定出来ないのだから。
 
 ― そして…今、コイツが傍にいてくれていることに…どれだけ救われている事か。
 
 ニンゲンがいなければ、今だってこんな穏やかな気持ちになることはなかった。きっと困惑と焦りのまま行動し、また何かしらの失敗していた事だろう。けれど…その前に彼は…ハワードが来てくれて…そして抱きしめてくれている。それは私にとって心を救われたも同然だ。
 
 「それでも…お前が助けに来てくれたことが…今はとても…嬉しい」
 
 けれど、それを上手くニンゲンに伝える事が私には出来なかった。今の私は胸の中が喜びで一杯で、自分の意志で上手く言葉を紡げそうにない。今、伝えた「嬉しい」という言葉だって、何度も言葉をつかえさせながらようやく紡いだのだから。
 
 ― ホント…私はダメな女だな…。
 
 助けに来られたヒロインよろしく甘い言葉を紡ごうとしても気の利いた言葉なんて出てこない。コイツが私を慰めてくれる裏で心を痛めていると知っているはずなのに、それを解してやる言葉一つ浮かばないのだ。そんな自分を責める言葉が浮かび上がるが、それすらも暖かなニンゲンの手によってそっと溶かされていってしまう。
 
 ― あぁ…♪もっと…もっとこれが欲しい…!
 
 自己嫌悪すら消してくれる暖かいそれに私の心が欲望を剥き出しにした声をあげる。その裏には自分を責めたくはないという自己擁護も含まれているのだろう。しかし、浅ましいと批判されるべきその考えは私の中で全肯定されてしまっていた。自己嫌悪すら溶かす甘い安堵感を味わってしまった私にとって、それはもうなくてはならないものにまで昇華されていたのである。
 
 ― もっと…もっと強く抱いて…っ♪滅茶苦茶に…してぇ…っ♪
 
 甘い媚びすら浮かばせながら、私の腕がそっと彼の背中へと伸びる。まるで彼と一つになろうとするような腕の動きに本能が警鐘を鳴らした。けれど、この甘い抱擁を――いや、それ以上を望む声は私の中からなくなってはくれない。もっとニンゲンと触れ合いたいと、一つになりたいと、叫ぶ心のまま、私の腕は彼の背中で結ばれ…――
 
 「き、聞いてにゃい…ぼ、僕は聞いてないぞ…!」
 
 ― なかった。
 
 聞こえてきた濁った声に視線を向ければ、蹲っていた小太りの男がぶつぶつと言葉を呟いていた。それに私の腕がピタリと止まり、頭の中がモヤが晴れたように冷静に戻っていく。勿論、寸前まで自分が何を考えていたのかもしっかりと私は覚えていた。幾ら不安だったとは言え、色々と過激過ぎる欲望を剥き出しにした自分に頭を抱えて転げまわりたくなってしまう。しかし、そんな浅ましい私の背中を抱きしめてくれる彼の手がそれを許さず、まだ暖かな胸の内に私を閉じ込めてくれていた。
 
 ― 再び感じる甘い安堵感に身を委ねそうになった瞬間、男は再び言葉を紡ぎ……。
 
 「僕は…エルフの男がいるって聞いたから…さ、攫って来いって言ったんだ…お、女だなんて……僕は…聞いてない」
 「…は?」
 
 ― な、ななななな何てことを!?
 
 紡がれたその言葉にニンゲンは唖然としたような顔を見せた。しかし、それとは対照的に私の心は焦りで一杯になっていたのである。何せ、男が紡いだ言葉は私の中ではトップシークレットに位置し、出来れば永遠に伏せ続けたいものだったのだ。どうせバレるにしてもそれを伝えるには私の口からが良い。そう思っていた秘密を突然、暴露されて冷静でいられる方がおかしいだろう。
 
 ― だけど…これはチャンスかもしれない…。
 
 幸いにしてコイツも本気で信じてはいないようだ。唖然とする表情の中にはその言葉を信じている色よりも突拍子の無い言葉を聞いたからこその色が濃い。今であれば男の妄言であると処理する事だって不可能ではないだろう。
 だけど、同時に今のこの状況を打開するキッカケになるかもしれないと私は思ってしまうのだ。このどっちつかずの状態から一歩進んだ…もっと親密な関係に至れるかもしれない。勿論、それは負けが濃厚な博打だ。しかし、それが成功した時には…この甘い抱擁を何時でも要求することが出来る。その欲望が私の中でムクリと鎌首をもたげ、私の反応を数秒遅らせた。
 
 ― その間にニンゲンの視線が私の胸を滑り落ちていき…。
 
 あのスキンヘッドの魔術士によってサラシを破かれ、解放された私の胸は上着を持ち上げる程度の膨らみはあるのだ。それをニンゲンもまた気づいたのだろう。コイツにしては珍しく明らかな狼狽を浮かべながら、じぃっと胸元を見ている。厚手の上着越しに肌に突き刺さるようなその視線に私の胸の奥がズキズキと疼いた。まるで彼に触って欲しいと主張するようなその疼きを抑えつけながら、私はそっと唇を動かす。
 
 「あ、あんまりジロジロ見るなよ…恥ずかしいだろうが…」
 「え?あ、あぁ…すみません」
 
 ― そう返したニンゲンの視線はそっと背けられ…。
 
 突き刺さるような視線がなくなったとは言え、胸の疼きは完全に収まってはくれない。寧ろもっと彼に隅々まで見て欲しかったと主張するように乳首がムクムクと大きくなってしまう。ニンゲンに悟られないようにそれも抑えつけようとするが、生理現象故に難しい。逆に意識を向ければ向けるほど疼きが強くなり、乳首が持ち上がるような気もするのだ。
 
 ― やだ…こんなの恥ずかしい…。
 
 今、もう一度、こっちを見られればきっと勃起した乳首に気づかれてしまう。その羞恥に私の顔に灯った熱が燃え上がるのを感じる。しかし、同時にその羞恥が私の身体を熱くし、呼吸を荒くしているのもまた否定出来ない。彼に見られたいという気持ちと見られたくないという気持ち。その間に挟まれた私はどっちつかずのまま、ニンゲンの胸の中に隠れるようにして身体を預ける。
 
 ― だからこそ、私は入り口に立つその影に気づくことが出来なかった。
 
 「いやはや、素敵なハッピーエンドですね」
 「っ!!」
 
 揶揄するような声に誰よりも早く反応したのはハワードだった。私を一瞬で抱き上げたニンゲンは、そのまま前へ――私から見れば後ろへと飛ぶ。それに小さな悲鳴をあげる程度の反応しか出来ない私と共に彼は一気に部屋の隅まで退避した。そして私を胸の内からそっと解放したニンゲンは私を護るように立ち上がる。
 
 ― あ……。
 
 その瞬間、急速に失われる暖かさに私の手が反射的にニンゲンの背中へと伸びた。しかし、護ろうとしてくれている意思が伝わるその大きな背中に私の腕が力なく床へと落ちる。今の彼の邪魔をしてはいけないと心の何処かで納得した私は自分でも出来る事を探そうと辺りを見渡し、小太りの男がまた血反吐を吐いたのを見て取った。
 
 ― …あ、このままじゃ死ぬな。
 
 ニンゲンのブーツは鋼鉄を仕込んであり、いざという時は人を殺す凶器にもなるのだ。そんなもので何十回も蹴られたのだから、傷ついちゃいけない臓器が傷ついてもおかしくはない。今も深紅の血液を吐き出す男をこのまま放っておけば、遠からず死神が迎えに来るだろう。
 
 ― 流石に…それは夢見が悪いし…ニンゲンが殺人犯になるのも困る。
 
 一応、彼の殺人を止めようとした私にとっては、このまま放置して死なれるのも夢見が悪い。ましてその所為で大事な人と一生、会えなくなってしまうかも知れないと考えれば放置する訳にもいかないのだ。この男のした事、そしてしようとした事を許した訳ではないが…ニンゲンの一生を天秤に掛けて見殺しにするほど憎んでいる訳でもない。
 
 「……」
 「………?」
 
 ― 幸いにして…二人は自分の事で手一杯のようだし…。
 
 彼の背中に遮られて乱入者の顔は分からない。けれど、聞き覚えのあるその声は恐らくあのスキンヘッドなのだろう。一体、魔術士とニンゲンとの間にどんな因縁があるのか分からないが、幸いにしてスキンヘッドの注意はニンゲンが惹きつけているようだ。ならば、今の内に小太りの男を治療しておいてやろう。
 
 ― 流石にあれほどの重傷だと時間もかかるし…な。
 
 今の状況で長々と詠唱をすれば魔術士の注意を引きかねない。故に魔力をそのまま魔術へと転換するという非効率な簡易詠唱で男の治療をしなければいけないのだ。基本的にニンゲンよりも遥かに魔力が潤沢なエルフとは言え、瀕死の重傷から簡易詠唱で回復させるのはそれなりの時間を要する。
 
 「<<癒やせ>>」
 「うぁ…」
 
 短いキーワードを媒介にして回復魔術が発動する。淡い緑色の光に包まれた小太りの男の顔から苦痛の色がすっと薄れるのが見えた。流石に失った血までは取り戻せないので、血色は変わらないが、それでも大分、マシになっているのが人目で分かる。
 
 ― 久しぶりに回復魔術など使ったから不安だったが…どうやら成功しているようだな。
 
 ぐいぐいと魔力を引っ張られる感覚を味わいながら、私はそう胸中で呟いた。この街で過ごすようになってから意図的に魔術を使ったのは二度目である。集落に居た頃は魔術の勉強も欠かさなかったとは言え、私が特に集中して教え込まれたのは人を統べるノウハウだ。ちゃんと発動するか不安だったが、身体に染み込まれた教育と努力は私を裏切らなかったらしい。
 
 「って事でとりあえず死んでもらえますか?」
 
 そこまで考えた瞬間、ニンゲンが私の元を駆け出した。まるで弾かれたようなその速度は十八番の魔術を使ってのことだろう。恐らく最初から供給量を変化させながらも維持していたその魔術に再び魔力を注ぎ込んだのだ。まるで疾風のように一足飛びで肉薄する姿を傍目で見た瞬間、私は『それ』を思い出す。
 
 ― ダメだ…!ソイツは…っ!!
 
 「ぐっ…!」
 
 そう警告するよりも先にニンゲンの身体が私の下へと帰ってきた。それは勿論、彼が意図しての事ではない。魔術士が展開した風のバリアによって、押し流されたが故だ。転がるようにして着地した彼は早くもそれに気づいたのだろう。折れたエストックを見て、悔しそうに歯噛みしながら口を開いた。
 
 「…なるほど…風の魔術で壁を作ってるって事ですか…」
 
 ― ゆっくりと立ち上がりながら、ニンゲンはそう呟いた。
 
 重量を軽減する風の魔術を展開しヒットアンドアウェイを繰り返すニンゲンの戦法は同じ風の魔術に滅法弱い。風で覆ったその身体は一度で大きく飛べる反面、風に押し流されやすいという弱点を持つのだから。常時、風の衣を纏う魔術士など天敵も良い所だろう。
 
 ― 私が…もっと早くに警告しておけば…!
 
 あの魔術士が風のバリアを得意としている事は私は事前に知っていたのである。しかし、久しぶりの魔術に気を取られていた私はそれを彼に警告するのを忘れていた。あの魔術士がニンゲンにとっては天敵であることをもっと早くに伝えることが出来ていればまた結果は変わっていただろう。彼が今、武器の一つであるエストックを失ったのは私の責任だ。
 
 ― くそ…っ!私はどうしてこんなに…!
 
 「<<風の刃よ>>」
 「っ!!」
 
 そう自分を責めた瞬間、魔術士が魔力を膨れ上がらせるのが分かった。それに回復魔術を停止し、彼の援護に回るかどうかを逡巡してしまう。その迷いの間に発現した魔術が私の元へと走り…そして…――。
 
 「うぐっ…!」
 「あ……」
 
 ― その瞬間、私の頬に赤い何かが触れた。
 
 ぴっと飛び散ったそれをそっと指先で拭えば、真っ赤な液体が私の指に着いていた。それは私にとって別段、初めて見る色などではない。彼から手渡された上着にだって、そこで転がる男の口からだって同じ色が見れるのだから。
 
 ― だけど…私にとってそれは今まで見たこともないくらい毒々しい色で…。
 
 もう二度と見たくはない。そう思うほどの赤は私の前で両手を広げる彼の身体から飛び散っていた。しかし、どうしてそうなるのか私には分からない。いや、分かりたくない。だって…だって…ハワードが私の所為で傷つくとか…そんな…そんな事――。
 
 ― 認められない…認めたくない…だけど…だけど…っ!!
 
 目の前の現実は私に逃避を許してくれない。彼が…ハワードが私の盾になって血を流しているという現実を無理矢理、受け入れさせようとするのだ。それに心が悲鳴をあげ、感情がオーバーフローする。
 
 ― 私…私…っ私私私私私私私っ!!!
 
 渦巻く自己嫌悪が私の心の中を塗り潰した。無論、そんな中では特に制御の難しい回復魔術を制御出来るはずもない。横たわる男の身体から癒しの光がふっと消えて行く。しかし、心の中をニンゲンに捨てられる恐怖と自己嫌悪で一杯になった私には再び魔術を紡ぐ冷静さはなく、現実から逃げるように自分の頭をそっと抱えた。
 
 「…大丈夫だから…」
 「…え…?」
 
 そんな私の耳に途切れ途切れの声が届く。それに驚いて視線を向ければ、脂汗を浮かべた小太りの男が震える唇をゆっくりと動かしているのが見えた。さっきよりかなり苦痛の色が薄れたとは言え、そこには痛みに耐える表情が確かに残っている。
 
 ― そんな状態で私に何かを伝えようとする男はゆっくりと唇を動かし…。
 
 「僕は大丈夫だから…君の大事な人を…助けて…あげて」
 「……っ!」
 
 ― その言葉に私の頭は冷静さを取り戻した。
 
 確かに私はまたハワードに迷惑をかけるどころか傷まで負わせてしまった。それは否定することの出来ない現実である。だけど…それは必ずしも彼に捨てられる事と同意義ではない。寧ろ…ここで現実から逃避しようとすればするだけその可能性が高まるだろう。ならば…ここはそこの男が言う通り、ニンゲンの援護を優先すべきだ。
 
 「…礼は言わんぞ」
 「女に礼を言われるなんて虫唾が走るよ…」
 
 私の返答に男は満足気にそう答えてそっと目を閉じた。気絶でもしたのかと思いきや、ギュッと歯を食いしばり、これ以上、会話するつもりがない事を示している。どうやらこの男にとっては女と会話する事自体がかなり苦痛な行為らしい。それでも私の後押しをしてくれた事に心の中で小さく感謝しながら、私はきっと前を見据えた。
 
 ― その瞬間、魔術士の身体から魔力が膨れ上がり…。
 
 「<<風の刃よ>>!」
 「<<解けろ>>」
 「へ?」
 
 それをあっさりと打ち消しされた魔術士がまた間抜けな顔を見せる。それに微かな満足を感じた私をニンゲンはそっと振り返った。その身体には幾筋かの切れ目が入り、血が流れてはいるが、致命傷には程遠い。それを確認し安堵した私はそれぞれ別の意味で驚いている二人に向けて、そっと口を開いた。
 
 「…お前ら、私を忘れ過ぎだろう?」
 「え?いや…」
 
 ― その言葉にニンゲンがそっと視線を明後日の方向へと向けた。
 
 最近、自分でも忘れがちではあるが、一応、私は実力的には彼よりも数段、上なのだ。特に魔術戦に置いては、ニンゲンと比べるべくもない。エルフは魔力だけでなく、抗魔力もかなりのものを誇っているのだから。普通であれば私が彼の盾になるべきだったのだろう。
 
 ― 勿論…それはとてつもなく嬉しかった訳だけれど。
 
 しかし、それを口にしてはニンゲンの行動を肯定する事になってしまう。それは…私にとって選択しがたい行動であった。抗魔力云々をさておいたとしても盾になるべきは彼ではなく、私の方だったのだから。
 
 「た、確かに忘れてましたけど、しかし、所詮は一度、私に敗れたエルフ…!今更、それが加わった所で…!!」
 
 そんな私に向かって、威嚇するようにスキンヘッドが口を開いた。確かにそれは事実だろう。だけど、その全てが本当の事とは言い切れないのだ。何せ私が負けたのは決してこの男一人ではない。それが分かっているからこそ、魔術士の額には脂汗がうっすらと浮かんでいるのだろう。
 
 「…負けたんですか?」
 「…玄関から入り込んできたアイツに気を取られすぎて後ろから…」
 「…なるほど」
 
 ― …勿論、事実とは言え、負けたという事を肯定するのは恥ずかしい。
 
 しかし、それは油断してスキンヘッドの土俵に乗った私の罰である。元より全力で魔術士を叩き潰すつもりであればこんな騒動など起こらなかった。その戒めとして私は正直に告白するべきだろう。
 
 「ま、まぁ、確かに人の手は借りましたが、貴女の魔術が私に通じないのも既に検証済み…!所詮、エルフ程度じゃ私を止められはしないのですよ!!」
 「ほぅ…言ってくれるじゃないか…っ!」
 
 ― そう心の中で呟いた私に見過ごせない言葉が届いた。
 
 確かに油断した私は程度と言われても仕方のない事だろう。しかし、かと言ってエルフ全てをひっくるめて言い切る強引な手法には納得がいかない。私の浅慮で私自身が責められるのはまだしも、父を含めたエルフ全てをどうしてこんな低俗な男に見下されなければいけないのか。
 
 ― その怒りがニンゲンを相手に好き勝手やってくれた怒りを結びついた。
 
 ここまで事態がややこしくなった原因は私であるとは言え、元凶はこの男なのだ。ニンゲンを傷つけたのも、こんな事態を引き起こしたのも何もかも。それは今まで様々な衝撃――彼に抱きしめられた時から私は多分、まったく冷静じゃなかった――によって冷静さを失い、霞んでいた。けれど…今も無言で痛みに耐える男の言葉で幾分、心を落ち着かせた私はそれを理解し、静かに怒りを湧き上がらせていたのである。その怒りに呼応するように私の身体から魔力が溢れた。
 
 「…随分と舐めた口を聞いてくれるなニンゲン…いや、魔術士」
 「そ、そんな風に凄んだ所で…貴女の魔術が私のバリアを突破できなかったのは事実です…!何も怖くなどありません…!!」
 
 私の見下すような言葉にスキンヘッドはそう反論した。しかし、それは紛れも無く強がりなのだろう。その証拠にその剃り上げた頭には脂汗が幾つも浮かんでいる。ついさっきまで余裕に溢れていた魔術士がそんな表情を見せるのは愉快ではあったが、エルフを馬鹿にされた怒りと…そして何より彼を傷つけた怒りはその程度では収まらない。
 
 「そうだな。確かに私の魔術はお前に阻まれた。しかし…それが『本気』だと誰が言った?」
 「…え?」
 「あそこは…ニンゲンの家だ。出来るだけ穏便に済ませたかったが故に手加減していたに過ぎない。しかし…今はそれをする必要がないと言うのは…低能な貴様にも分かるだろう?」
 「えっと…え?嘘…」
 
 ― そこでようやくスキンヘッドは怯えの色を見せた。
 
 顔を強張らせ、頬を引きつらせるその表情は今にも泣きそうな姿であった。エルフを馬鹿にしただけであれば、それで許してやっても良かったかも知れない。だが、この魔術士は私の……私の一番、大事なモノを傷つけた。その償いは身体でしてもらわなければいけない。
 
 「<<穿て、暴食の顎よ>>」
 「ひ…いぃっ!!」
 
 ― 先程よりも少しばかり長いキーワードに呼応し、私の攻撃魔術が展開する。
 
 呼び声に応えて虚空に生まれた漆黒の暴力。それは肉食動物の顎を彷彿とさせるそれは魔術師の身体を包み込むような形で停止している。無論、それはニンゲンや魔術士がやっているように非致死性の魔術をアレンジして攻撃に使っているのではない。最初から破壊し、そして罰する為に作られた魔術。知識では知っていても、それを使うのは初めての事だった。
 
 ― だけど、私の心には毛ほどの躊躇もなかった。
 
 漆黒の顎が閉じきら無いのはこの魔術士が抵抗しているからなどではない。私が魔術が発現するギリギリのところでセーブしているからだ。勿論、それはこのスキンヘッドに自分の実力ではどうあがいても防げない一撃が目の前に迫っている恐怖を刻み込んでやりたいからである。まるで猫が獲物をいたぶるように恐怖を刻み込んでから…狩る。自分でも嗜虐的であると思うが、そうでもしなければ私の怒りは収まりそうになかった。
 
 「ゆ、ゆるし…」
 「<<許さん>>」
 
 ― そう言った瞬間、漆黒のアギトが魔術士を襲った。
 
 瞬間、全周囲から魔力が弾け、爆音と共にスキンヘッドの身体が踊る。右へ左へと転がって尚、収まり切らない衝撃。それはあっという間にスキンヘッドの風の防護壁を破壊し、その身体を血まみれへと変える。全身を血で染めた男が衝撃から解放されて倒れこんだ時にはその身体には力がなかった。
 
 ― それでも…殺しはしない。
 
 重傷である事に違いはないが、小太りの男ほど瀕死ではない。私とて別に殺人者になりたい訳ではないのだ。どれほど怒っていても殺人を犯さない程度の理性はまだ残している。
 
 ― まぁ、社会復帰は絶望的だろうが。
 
 身体の傷は魔術で治癒させる事は可能だろう。だが、先の私の魔術は決して衝撃だけを与えるものではない。その身体に突き立てた牙から注ぎ込まれた破壊の力は男の魔力をズタボロにしたはずだ。エルフの里で大罪人を裁く時にだけ使う処刑用の魔術。それはエルフの身体でさえ二度と魔術を紡ぐことを許さないものなのだから。
 
 ― …でも…ニンゲンは引いちゃった…か…?
 
 殺さないように手加減したとは言え、実際に使うのは初めてだったからだろう。私の放った魔術はその余波を内側へと閉じ込め切れず、男の周辺をボロ屋敷へと変えていた。床は抜けて倒壊してもおかしくなど柱が歪んでしまったその惨状は不必要な恐怖をハワードに与えたかもしれない。もしかしたら…何時ものように構って…いや、接してもらえなくなるかも知れない。その不安を胸にそっと彼の顔を覗き込む私の前でニンゲンはそっと肩を落とした。
 
 「…どうした?」
 「いや…私は何をしに来たんでしょうと思いまして…」
 「…なんだ。そんな事を気にしてたのか」
 
 ニンゲンが助けに来てくれなければ、私はこうしてここにいなかったかもしれない。もしかしたら…そこにいる奴とは別の…それこそそこでボロ雑巾のようになっている魔術士の慰み者になっていたかもしれないのだ。それは今だからこそ言えるifであるとは言え、決してなかったとは言えない未来だろう。
 
 「そりゃ…まぁ、ね。私だって男性な訳ですし」
 
 ― 唐突に告げられたニンゲンの言葉に私の胸がトクンと高鳴った。
 
 性別を持ち出すということは…少なからず私を女として意識してくれているという事なのだろうか?そんな希望が私の胸にそっと灯った。落ち着きなく指同士が絡まり、チラチラと彼の顔へと視線を送ってしまう。そんな私に気づいたのだろう。今まで私を護るように前へと立っていたニンゲンがそっと振り返った。それでも尚、熱っぽい視線を送る自分は止まらず、期待する心もまた落ち着いてはくれない。
 
 「そ、それは…その…やっぱり…」
 「すみません…」
 「…え?」
 
 ― 私の言葉を遮るようにハワードはそう謝った。
 
 その瞬間、私の胸に嫌な不安が訪れる。もし…私の期待をこの基本的には敏い――ただし、極限定的な所では鈍い――ニンゲンが察して…それを断る為に謝ったのだとしたら…。そう思うだけで心の奥底から凍え、涙が溢れそうになってしまう。まるで冬の中を身体一つで放り出されたような冷たさを感じる心が嫌だと、捨てないで欲しいと反射的に縋ろうとした。
 
 「いえ…その、嫌味のつもりはなかったのですよ。ただ…普通の…えっと、言葉の綾としてですね…」
 
 ― …え?
 
 その指先がニンゲンに触れる瞬間、紡がれた言葉に私の腕がピタリと止まった。そのまま空中で数秒ほど止まった腕は私の理解が追いついたと同時にダラリと重力に引かれて落ちていく。
 
 ― な…なんだ…そっちか…。
 
 てっきり私の想いを拒絶するために紡がれた謝罪の言葉と思いきや、単純に謝意を示す為の言葉であったらしい。それに胸の内から安堵が湧き上がり、思わず溜息が出そうになってしまう。けれど、ここで溜息など漏らしたらまたコイツに誤解されかねない。これ以上、話をややこしくするのは御免だと私はそっと唇を開いた。
 
 「…なんだ。そっちか。…別に気にしていない。そもそも…私がこうなったのは結構前の話だしな」
 
 ― まぁ…完全に今の自分を受け入れられた訳じゃないけれど。
 
 とは言え、自分の中で色々と変容したのを受け止められる程度の冷静さは――自分でも以外ではあるが――確立されているのだ。今更、性別云々を言われた所で不愉快になどなったりはしない。からかわれるのであればまた話は別だが、悪意ない言葉に一々、反応するほど余裕がない訳ではないのだ。
 
 ― けれど…こうして謝ってくれるって事は…。
 
 今までこんな風に慌てて謝罪を付け加えるような反応はなかった。人を弄ぶ為に二手三手先まで考えて口を開くニンゲンにとって、慌てて付け加えるようなシチュエーションなど一度もなかったのである。しかし、今、私の目の前にいる彼は明らかに狼狽し、冷静さを失っていた。もし…もし…それが私を意識してくれているのだとしたら…私は…――。
 
 「おや…どうやらもう終わりでしたか」
 
 ― ひぅっ!!
 
 そこまで考えた瞬間、聞こえてきた言葉に私の身体が硬直した。ビクンと震えた肩が縋るようにニンゲンの胸へと隠れる。そんな私に彼は何も言わないまま、そっと首だけで後ろを振り返った。
 
 「…ウィルソン君」
 
 ― その声に堀の深い東洋系の顔立ちを持つ男はそっと手をあげた。
 
 その男の顔は私も覚えている。私がニンゲンにどれだけ迷惑を掛け、どれだけの被害を生んだかを懇切丁寧に説明してくれた男だ。取調室で数時間ぶっ通しで私に説教をしたこの男が私は妙に苦手である。
 
 ― …別にそれは怒られただけじゃなくて…。
 
 今、こうして胸に隠れるニンゲンだって、最初は私を叱ってくれたのだ。別に説教をされた程度で苦手になるほど子どもではない。この男を私が苦手としているのはそれ以上にその身体から立ち上る濃厚なメスの匂いで…――。
 
 ― …うぅ…これ…絶対、魔物の匂い…だよなぁ…。
 
 蜂蜜を煮詰めたような甘い香りは私の傷をこれでもかと刺激するものなのだ。本人に罪はないと分かっていても、疼くような心の傷は決して消えてはくれない。どれだけ理解していても、心と頭は別物なのである。今だってニンゲンが私の傍にいてくれなければ、すぐさま逃げ出していただろう。
 
 ― …でも…コイツが居てくれれば…。
 
 きっと大丈夫。そう思いながら見上げたニンゲンの顔が少しだけ強張っているのが私には分かった。普段、飄々としていて滅多に表情を表さない彼の顔に浮かぶそれに私の心が強い違和感を覚える。何処か不安さえ浮かばせるその表情はとてもニンゲンが浮かべているものとは思えない。
 
 「…ハワード…?」
 「いえ、なんでもありませんよ」
 
 思わず問いかけた私にニンゲンはそう返した。しかし、その顔は到底、何でもないようには思えない。少なくともその胸中に何かしらを隠しているのは確かだろう。それが私にだけか、或いはそこのウィルソンという部下に対してもなのかは私には分からない。ただ、それが彼に不安を浮かばせるほど大きなものであると推測出来るだけだ。
 
 ― …それに…私が踏み込んで良いのだろうか…?
 
 ニンゲンは基本的に私の事を思って行動してくれている。そんな彼が黙っている事を選択したのであれば、それが得策であると判断したからだろう。それにわざわざ踏み込んで本当に良いのか。踏み込んだとしてどうなるのか。そんな疑問が私の胸中を過ぎった。
 
 ― ダメだ…今は…。
 
 聞いた所で私がニンゲンの役に立てるとはあまり思えない。私がニンゲンと比べて優れているのはあくまで戦力的にだけである。社会についての見識は広がったが、友人やコネなどの人間的基盤はまったくない。そんな私がニンゲンがこれほど悩むほどの問題に踏み入った所で何かが出来るとは到底、思えないのだ。ならば、彼を不必要に悩ませない為にも踏み込まないでおくべきだろう。
 
 ― …今の私が出来る事と言えば…。
 
 そう心の中で悔しさと共に呟きながら、私はそっと彼の胸から抜け出た。私から解放されたニンゲンは特に私をからかう事なく、半壊した屋敷を歩いて行く。その腕からはもう血が流れておらず、傷も塞がっていた。流れ出た血や体力まで回復させられない私の魔術は最早、彼にとって不必要だろう。
 
 ― …本当…私は役立たずだな…。
 
 そう自嘲的に呟く私の足取りに床がパラパラとその欠片を零す。何も出来ない心からプライドが剥がれ落ちるような音を聞きながら、私はそっとニンゲンの後ろに着いていったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:25更新 / デュラハンの婿
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