連載小説
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その3
 ― 世の中にはなし崩しという言葉がある。
 
 自分の意志を見せないままに状況に流されたものが送られる不名誉な言葉である。誰だって、そんな自分の意志がないと宣告されるような言葉を向けられたくはないだろう。
 
 ― しかし、今の私の状況はまごうこと無く『それ』だった。
 
 この街に来てからの私はずっと流されっぱなしだった。自分の意志でやった事と言えば、癇癪を起こして私の保護者になってくれた男に迷惑をかけただけ。流されているのは自分の弱さであり、それを護って貰っていただけだというのに、それを理解するだけの余裕が私にはなかったのだ。今はその余裕が出てきたからこそ、多少は分かるものの自分の不甲斐なさに嫌気がさすのも事実だ。
 
 「ふぅ…」
 「ん?どうしたんです?」
 「何でもない」
 
 夕日が差し込む大通りの中、いきなり吐いた溜め息にすぐさま反応してみせる保護者――ハワードに私はそっと視線を送った。視認性も考慮しているのだろう迷彩色の制服を着ている姿はすらりとして到底、街の警備をするようには見えない。何処かで漫談や詐欺でもやっている方がよっぽど『らしい』と言えるだろう。
 
 ― まぁ、実際は結構、鍛えているんだろうけどな。
 
 私は典型的なエルフであり、それなりに弓も嗜んでいる。その私でも微かに見て取れる程度だが、その身体には均整に筋肉がついているのが分かるのだ。歩き方や立ち振る舞い一つにしても、辺りを油断なく警戒しているのがなんとなく感じられる。決して一目で実力者とは見破れないが、ずっと接していればかなりの実力を持っているのが伝わってくる。
 
 ― それもまた戦術の一つ…なのかもしれないが。
 
 のっぺりとした狐顔と閉じている瞳。常に笑っているんだか笑ってないんだか分からない唇。見るからに軟弱そうなその顔を見て、彼が実力者だと見抜けるものは少数だろう。その立ち振る舞いまでもが油断を誘うものであれば、尚更だ。そこをこの見るからに性格の悪そうな男が見逃すはずがない。きっと強襲用の技の一つや二つは持っているのだろう。
 
 「…いきなり人の顔をじっと見るなんてどういうつもりですか?」
 「いや、相変わらず性格の悪そうな顔をしているなと思っただけだ」
 「ほぅ」
 
 ― …あぁ、またやってしまった…。
 
 言い訳がましいが、エルフの里に居た頃はこんなに刺々しい言葉遣いはしなかったのだ。父の顔に泥を塗らないように良い子であれ、と自分を戒め続けていたのだから。しかし、この街に来てからはその自制がまるで嘘のように効いてはくれない。言わなくても良い一言だって、意図せず口から漏れてしまうのだ。
 
 ― 確かに…私は未だに人間と完全に馴染んでいるとは言い難い。
 
 汚らわしいという意識を払拭する事は出来ていない。やはり私にとって人間はまだ淫猥で、欲望に忠実なケダモノという意識が強いのだ。しかし、それでも彼らが下等という意識はもう殆ど残っていない。寧ろエルフよりも優れている点があると認めざるを得ない部分も見ているのだ。少なくとも今の私には、里で言われていたような先入観はないと言っても良いだろう。
 
 「そんな奴の顔を毎日、見るのは拷問でしょう?何時でも出て行っても構わないんですよ?」
 「…うぅ」
 
 ― こうやって反撃されるのだって分かっているはずなのに…っ!
 
 保護者であり、私を居候させているという立場の強さをアピールするハワードの言葉に私は呻き声をあげるしかない。彼の手配してくれた家からも追い出された私にはもうこのニンゲンの膝下にしか生きる場所がないのだ。そう分かっているはずなのに、憎まれ口が出てしまう。
 
 ― これじゃあ…コイツのレッテルを否定出来ないじゃないか…!
 
 反撃されるのが分かりきっているにも関わらず、こうして憎まれ口を叩いてしまう。まるで虐められたいが故に意地を張っていると思われても仕方ないだろう。勿論、私にそのような趣味はないが、そのように認めざるを得ない言葉遣いをしているのは確かだ。
 
 「まったく…そんなに構って欲しいならちゃんと構って欲しいと言いなさい」
 「うるさい…!私だってこんな…」
 
 ― こんな風に意地の悪いやり取りじゃなくて、もっとこう優しく――。
 
 「それより前を見ないと危ないですよ」
 「うわっ」
 
 思考の渦に落ちそうになった私の袖口をハワードがそっと引っ張った。それにつんのめるように引き寄せられた瞬間、私の左脇を魔物が通りすぎていく。彼女もまたよそ見をしていたのだろう。脇の恋人ばかりに視線を向けずにちゃんと前を見ろと切に主張したい。まぁ、私も言えない訳だが。
 
 ― それにしても…。
 
 「お前はもうちょっと優しく抱き寄せるとか、事前に注意するとかそういう気遣いは出来んのか?」
 「生憎と私はエルフ様と違って、自分のことで手一杯ですから」
 
 勿論、ぶつかりそうになった所を助けてくれたのは私なりに感謝している。だが、それを言葉にする事が私には何故か出来ない。ただ、「ありがとう」と言うだけで良いのに、プライドが邪魔して、それよりも先に憎まれ口が出てしまうのだ。エルフやニンゲンという区別以前にどうかと思う自分の言葉遣いに嫌気を感じるが、理性でどうにか出来ないのが悔しい。
 
 ― これでも一応…「感謝しろ」と言われれば、感謝の言葉を言えるんだが…。
 
 お礼は言いたい。けれど、言えない。ハワードが私の背中を叩いてくれて、ようやく言えるのだ。自分ではどうにも出来無い袋小路を打開するために、彼に礼を言えと強要されるのを期待してしまう自分も――。
 
 ― い、いやいや!それこそおかしいだろう!!
 
 ふと浮かんだおかしな考えを振り払う為に私の頭がふるふると揺れる。いきなり首を振り始めた私にハワードだけでなく、道行く人々が訝しげな視線を向けるのが分かった。休日の昼下がり、しかも大通りを歩いているのだから当然と言えば当然だろう。しかし、私はこうして数多くの人に注目されるのに慣れていない。視線を集める私の顔が真っ赤になるのも仕方のない事だろう。
 
 「…て言うか、抱き寄せて欲しかったんですか?」
 「んなっ!こ、言葉のあやに決まってるだろうが!細かいことを突っ込むんじゃない!!」
 
 そんな私に追撃するようにハワードがそんな意地悪な言葉を向けてくるのだ。そのあまりに気恥ずかしい言葉に気の強い言葉を反射的に口走ってしまう。しかし、生意気なその言葉をハワードは一々、弄るつもりはないらしい。私の横でクスリと笑いながら、肩を竦めるだけだ。
 
 ― まったく…だ、抱き寄せて欲しいなんてそんな事…。
 
 確かに、まぁ、日頃からもっと優しくして欲しいと思わないでもない。このニンゲンは悪い奴ではないが、その優しさの形が少々、分かりにくく、歪だ。一つ優しくする前に一つ意地悪しないと気が済まないのかと言いたくなったのは一度や二度ではないのだから。しかし、だからこそ、そんなニンゲンに抱き寄せられるのはきっと――
 
 ― きっと、とても暖かくて…嬉しいんだろうな…。
 
 私が記憶にある中でコイツに触れたのは一度だけしかない。たった一度――あの何ともいけ好かない匂いを漂わせた医者のいる診療所から一人暮らしを始める住居へと案内された時だけ。人混みに流される私を救い出してくれたあの暖かくも優しい手に少しばかりドキッとしたのを覚えている。それはほんの数分で手放されて――しかも、少しばかり強引に。だからこそ、その後、不機嫌になったのもしっかりと覚えている――しまったが、その安心感と温もりは確かに私の心に刻み込まれていた。
 
 ― けど…今はこうして人混みを歩くのにも慣れてしまった。
 
 あの時と勝るとも劣らない人のうねりにも関わらず、私は横のニンゲンの表情を盗み見る余裕さえあった。ニンゲンには多少、劣るとは言え、エルフにも適応能力がまだまだ残っていたのだろう。そんな自分を誇らしく感じると同時に、彼に手を繋いで貰えない事に少しばかりの残念さも――。
 
 「か、感じてない!感じてないからな!!」
 「…いきなり何を言い出すんですか」
 
 思わず口にして大声で否定した私の言葉に呆れたような視線をハワードが寄越す。それも当然だろう。独り言にしても、あまりにもその声は大きすぎたのだ。一区画丸々に広がった私の大声に再び視線が集中する。その中には好奇の色ばかりではなく、驚愕と尊敬、そして羨望の色も含まれていた。
 
 ― …ん?
 
 人付き合いの経験がどうしてもニンゲンより劣る私が正確にその視線の意図を読み取れているか自信はない。しかし、集まる視線に顔が赤くなるのを感じつつ、意識を張り巡らせても結果は変わらなかった。勿論、驚愕と好奇はまだ分からないでもない。だが、どうして自爆した私に尊敬や羨望の色を向けるのか私には分からなかった。
 
 「まるで私が羞恥プレイしてるように見えるんで止めて貰えます?まぁ、貴方にはそういうのが気持ち良いのかもしれませんけど。生憎と私には注目を集めて悦ぶ趣味は無いわけでして」
 「んなぁっ!?」
 
 相変わらず呆れたようなハワードの言葉に私の脳に一気に血が登った。淫猥で下等なと言う意識がどうしても捨て切れないニンゲンにそんな事を言われたのである。普通の感性を持つエルフからすれば、そのような侮辱に耐え切れるはずがない。ニンゲンに例えるならば、家畜に馬鹿にされたも同然なのだ。自分が自爆した事を棚に上げている自覚はあれど、爆発する感情を抑える事は出来ない。
 
 「そんな趣味あるはずないだろう!大体、お前が悪いんだぞ!」
 「…私が?」
 「あぁ、そうだ!全部、お前が悪い!!だって、お前が手を…」
 
 ― そこまで言ってから私の理性が思いっきり静止を掛けた。
 
 しかし、頭に血が登った頭ではどうして理性が静止を命令したのかが分からない。しかし、それでも脳は事の重大さを理解できているのだろう。怒りが引き潮のようにさっと引いていくのを感じながら、私は口を開いたままの姿勢で固まった。そんな私の横を興味深そうな視線を送りながら人々が通り抜けていく。それを数秒ほど知覚した後、私は「手を繋いでくれなかったから」とあまりにも恥ずかしい台詞を口にしようとしていたのだと気づいた。
 
 「…やっぱ今のナシ。無効だ。ノーカンだ」
 「ほぅ」
 
 口走りそうになった自分の台詞に注目を集めた時以上の恥ずかしさが胸の内から沸き上がってくる。自然と俯いた首筋まで熱を持っているように感じるほどだ。これが風邪か何かであればすぐさま医者に駆け込まなければ命に関わる。そんな馬鹿なことを考えるほどに私の顔は赤くなっていた。
 
 「一体、何を言おうとしてたんですかね?」
 「うぅぅ…」
 
 しかし、そんな反応を見て、この性格の悪いニンゲンは私を見逃してくれるはずがない。面白い遊びを見つけた子どものような輝いた表情で私を問い詰めてくる。ある意味、純粋で、だからこそ性質が悪いその表情に私の口はもごもごと動くだけだった。
 
 「私が悪いんでしょう?だったら、これから改善する為にもしっかりとその理由を教えてくれませんかね?」
 「そ、そんなもの自分で考えれば良いだろうが」
 「すみません。私、察しの悪いニンゲンでして。聡明でお忙しいエルフ様の手を煩わせるのは心苦しいですが、さっき言いかけた事ですし、ご慈悲を頂けないでしょうか?」
 「むぐぐ…」
 
 まるで敬意が篭っていない白々しい言葉に私は呻くしか出来ない。そこまで言われて突っぱねるのはエルフ自身のプライドにも関わる問題だ。それがハワードには分かっているのだろう。何時も通りのニヤついた顔をさらにニヤつかせて、ネチネチと責めてくるのだ。プライドと言いたくない気持ちせめぎ合う一方で、私はその言葉にモヤモヤとした形容しがたい気持ちを胸の中に渦巻かせている。
 
 「まったく…もうちょっと先の事を考えてから話しなさい。そんなのだからマゾだって言われるんですよ」
 「むむむ」
 「何がむむむですか」
 
 そのまま私の様子を数秒ほど見つめたニンゲンは肩を落としながら、そう言った。それに私は否定出来る要素が何一つとしてない。腹立たしいことながら、今回も彼の前で――人の弱みを決して見逃さないであろう性格の男の前で自爆してしまったことは事実なのだ。弄られるのを期待して自爆していると思われても、仕方がないだろう。
 
 「まぁ、貴方が大体、何を言おうとしてたのかは分かりますけどね」
 「えっ!?」
 
 ― その言葉に私の心臓がドキンっと痛いほど高鳴った。
 
 同性の手を繋ぎたい。そんなニンゲンでもエルフでもおかしいと思われるであろう言葉をハワードに見抜かれた。その気恥ずかしさだけでも顔に熱が灯る。しかし、それ以上に私の望みを叶えてくれるのではないかという期待が一気に胸中を支配した。期待に早くなっていく胸の鼓動を聞きながら、私はそっと熱に浮かされたような瞳でハワードの顔を仰ぎ見る。
 
 「大方、今日の荷物も多くなるんで手を貸して欲しいって所でしょう?」
 「……アァ、ウン。ソウダナ」
 
 そんな私の期待を思いっきり棒に振ってくれたハワードの言葉に思わず棒読みな声が出てしまう。その胸中では期待が一気に萎え、やっぱりかという諦観と安堵で溢れていた。中隊長という聞くからにそれなりの地位にあるこの男はきっと普段はそれなりに敏い方なのだろう。しかし、ハワードは時折、その肩書が信じられないほど鈍くなる。こうして肩透かしを喰らったのは別に一度や二度ではないのだ。
 
 ― まぁ…同性の手を繋ぎたいなんて願望を言い当てられなかっただけマシと思うか…。
 
 流石にそれは私の生意気さをなんだかんだ言って許容してくれているこのニンゲンであっても引くだろう。…と言うか、私が逆の立場であれば、きっと身の危険を感じて放逐する。どれだけ親しい相手であったとしても二度と付き合いもしないし、顔を見たいとも思わないだろう。
 
 ― …あぁ、でも、この男なら…。
 
 この男から言い出すのであれば、百万歩ほど譲って嫌味をたっぷり言った後に勝ち誇った表情で手を繋いでやっても良いかもしれない。そしてその事をネタに一生からかい続けてやるのだ。私だってその頃には弱味の一つや二つは握られているだろうから、きっとお相子になる。そうやってずっと友人関係が続いていくのもきっと悪くはない。そんな風に少しだけ――本当に少しだけ思える。
 
 「この前みたいなのは御免ですよ」
 「あ、アレは…お前にだって止めなかった責任があるだろうが」
 
 そんな妄想から私を現実に引き戻すニンゲンの言葉に私は不機嫌そうに答えた。彼が言っているのは勿論、同居生活が始まった初日の事であろう。ある店の店主に気に入られた私は着せ替え人形にされる代わりに文字通り山のような衣類を押し付けられたのだ。押しの強く、独特の店主に私たちは逆らうことが出来ず、結局、それを持ち帰る事になったのだが…。
 
 ― 次の日は見事に筋肉痛だったな…。
 
 私だってエルフの一員としてそれなりに身体を鍛えている。樹上の移動や弓の腕は集落でも五指に入る腕前であると自負しているのだ。しかし、そんな私でも小さな丘ほどの衣類は文字通り荷が重すぎたのだろう。その半分以上をニンゲンに持ってもらっても尚、次の日は殆ど動けなかった。
 
 「まぁ、そうなんですけど…。やっぱり人間、欲を掻くと良い事ありませんね」
 「…まぁ、それには同意する」
 
 口調こそ生意気ではあるが、一応、私にだってハワードに護られているという自覚はある。私が起こした癇癪で彼の貯金がゴリゴリと削れたという話も名も知らぬ――より正確には忘れた――警備隊員からも教えてもらったし、出来るだけ安く衣類が手に入るなら…と飛びついた結果がアレであったのだ。教訓にするには少なくない代償を支払った私とニンゲンにとって、『タダ』という言葉に警戒するのは共通認識にも近い。
 
 「そんな訳で今日はあんまり買い込まないで下さいよ」
 「あんまり馬鹿にするなよ。私だって自分の立場くらい理解している」
 「…いや、理解していないからこそ、そんな言葉が出てくるんだと思うんですけどね」
 
 尤もな台詞を紡ぎながら歩き出したニンゲンの後ろを、私はそっと歩いて行く。私よりも肩が広く、大きな背中にまるで護られて感じるのだ。幼い頃に見た父親を彷彿とさせるその背中に胸の奥がきゅんと疼くのを感じる。ズキズキと鈍い痛みを走らせるそれは望郷の念を誤魔化しているからか、それともハワードに私を放逐せざるを得なかった父親を重ねているからか。…恐らく両方なのだろう。
 
 ― …やめよう。
 
 深く考えればどこまでも自己嫌悪出来そうな思考を反射的に打ち切り、私はゆらゆらと揺れるハワードの手に視線を向けた。日頃の飄々とした表情からは余り察することが出来無いが、その手は男らしく、何処かゴツゴツとしている。それを横目で見ながら自分の手に視線を向ければ、そこにはマメ一つない綺麗な肌が目に入った。ニンゲンのものとは全く違うその肌は男よりも女に近いだろう。
 
 ― …なんでこんなに違うんだろうな。
 
 勿論、それは鍛える方向性の違いでもあるのだろう。だが、それだけではない気がする。私がどれだけ必死に剣を振っても、ニンゲンのような見ているだけで安心感を感じるような手にはならないだろう。やってみないと分からないが、エルフの手ではどうあってもそんな安心感を作り出せないような気がしてならないのだ。
 
 ― 別に…コイツの手と同じようになりたい訳じゃないんだが…。
 
 あの時、手を繋いでくれた時のように心の底から安堵出来る状況を自分で作れるのであれば、少しはニンゲンにも穏やかな対応が出来るのではないか。そんな下らない事を考えてしまうのだ。勿論、そんな方向性に努力するよりも先に、自分の言おうとしている言葉を自分自身で咀嚼する努力をする方がよっぽど建設的なのは分かっているんだが…。
 
 ― ドンッ
 
 「痛っ」
 
 そこまで考えた瞬間、私の前に大きな壁が立ちふさがった。しかし、前にハワードがいるからと安心しきっていた私にはそれを回避する術がない。考え事に思考能力の大半を注ぎ込んでいた私は身体を襲う反作用の力に後ろへとゆっくりと倒れていく。ゆっくりと重力に頭が引かれるのを感じる私の視界で壁――私の前に立っていたニンゲンがそっと振り向き、私へと手を伸ばした。
 
 「あっ」
 「…何をボケーとしてるんですか、貴方は」
 
 まるで木々の間をすり抜ける燕のような素早い動きでニンゲンの腕が私の手を捕まえた。七分袖のシャツから伸びる腕がそのままぐいっと引っ張られ、彼の近くに立たされる。少しばかり強引で、でも、力強いそれに私の顔が何故だか赤くなった。ようやく収まりつつあった胸の鼓動もまた早くなり、顔にドンドンと血液を送ってくる。
 
 「ちゃんと前を見なさいって教えたでしょう」
 「きゅ、急に立ち止まるお前のほうが悪いんだ!」
 「そんな事言われましてもね…既に目的地の前ですし」
 「え…?」
 
 呆れたように言うハワードに周囲を見渡せば、そこは目的地――大通りにある大きな本屋の前であった。図書館を彷彿とさせる古風な建物には勿論、見覚えがある。何せ家事以外にはやることがない私がニンゲンに頼み込んで何度か仕事帰りに連れてきてもらったのだから。
 
 ― 勿論、今日もその流れで…。
 
 仕事帰りの疲れているであろう時間に申し訳ないとは思うものの、最近のニンゲンは忙しいらしく、あまり休みが取れない。自然、彼がいなければ買い出し一つ出来無い私は彼の仕事後の時間を分けてもらうしかないのだ。
 
 ― それも早く解決しなければいけないんだろうけれど…。
 
 しかし、一度、心の中にこべりついたトラウマは中々、消えてはくれない。魔物娘の匂いがプンプンするこの街を一人で歩くのはあまりにも心細く、そして恐ろしいのだ。何時、襲われるか分からない恐怖が肌からじわりじわりと染みこんでくる感覚は経験したものにしか分からないだろう。特に私はその恐怖と重圧に負けて、癇癪を起こし、何度か人に怪我を負わせているのだ。自意識過剰とは思えど、一人で外へと出るとどうしても人々の視線全てが私を責め立てているようにも感じてしまう。
 
 「それで…とっととバランスを取ってくれると私としても手を離せて楽なんですけどね」
 「え…?」
 
 落ち込みそうになる私の思考をハワードの面倒そうな言葉が掬い上げた。それに感謝する一方、ぎゅっと掴まれたままの腕にどうしても意識が集中してしまう。内心、ずっと欲していた力強くも暖かい拘束に私の顔に熱が爆ぜた。ボンッと言う音と共に羞恥心が私の数少ない冷静さを奪う。
 
 「い、何時まで掴んでるんだ馬鹿!へ、変態!!」
 
 生意気な言葉を紡ぎながら、私は自分の足で立ち直し、彼の手を振り払った。瞬間、解放された腕から強い不満が沸き起こってくる。まるでもっと掴んでおいて…いや、縛り付けて欲しかったと主張するようなそれから私は全力で目を背け、ニンゲンから離れた。
 
 「はいはい。変態で良いですからとっとと中に入りましょう?ここじゃ邪魔になるだけですしね」
 「むぅ…」
 
 そんな私を叱るまで弄るでもないニンゲンに私は思わず不満な声を漏らした。一人だけ大人な対応をしてみせる彼に置いていかれたようにも感じる。とは言え、ニンゲンの言葉は否定のしようもないほどに正論だ。大通りには夕方と言えどもまだまだ人が多く、大きなこの書店にも客が多いだろう。その二つを繋ぐ入り口を何時までも塞いでいるのは迷惑でしかない。
 
 ― …まぁ、叱られたり、弄られたりしたい訳じゃないんだが、別に私は構わないんだがっ!だがっ!!
 
 そう心の中で言い訳しつつも、何処か残念な気持ちは決してなくなってはくれない。微かに胸の内に灯った期待も燻り、不満の声をあげている。そんな自分からそっと目を背けながら、私は書店の大扉を開き、中へと足を踏み入れた。
 
 ― 瞬間、私の目に入り込んでくるのは棚の群れだ。
 
 右を見ても左を見ても大きな棚が立ち並び、古書独特の古びた匂いのするここは元々、この街の図書館であったらしい。新しい図書館が出来るのと同時に取り潰される予定だったここを現在のオーナーが街から買い取ったそうだ。顔も知らないオーナーがどうしてそんな行動に至ったのかは私は知らないが、元図書館だけあって売られている本の種類や分野は多岐に渡る。
 
 ― まぁ、尤も…私はココ以外に書店を知らない訳だが。
 
 共有社会であったエルフの集落は言わずもながであるが、この街でも書店と言うのはそう多くない。元々、紙と言うのはとても高級品であり、そこに書き記すのはついこの間まで手書きだったのだ。一冊辺りに掛かる手間暇と材料費の高さのお陰でついこの間まで一般庶民には到底、手が出せない代物であったらしい。それは閉じられているとは言え、本が数えるほどしかなかったエルフの社会から考えても間違いではないのだろう。
 
 ― しかし、それが今ではまるで見る影がない。
 
 エルフにとっては忌々しい事この上ないが、魔物との交流により、紙の大量生産技術が確立。また魔術による自動書記の精度が高まり、本の生産技術が向上した。お陰で一般庶民にも安く本が手に入るようになり、こうした大型書店などが誕生した訳である。今では自動書記の応用で簡単な絵も付け加えられた本がちょっとしたレストランの飲食代よりも安く取引されているほどだ。エルフの社会では本を持っていることが一種のステータスでもあっただけに到底、信じられなかったが…。
 
 ― こうして見ると信じるしかない…よなぁ。
 
 実際、私もここで何度か本を買ってもらっているのだ。しかも、それは料理のレパートリーを増やすための料理本や暇つぶしの小説などが主である。一昔前の時代では到底、書かれなかった本がこうして書店の中で売られているのを見るだけでも自分の暮らしていた社会がどれだけ閉鎖的であったかを感じるのだ。
 
 「…で、欲しいのは確か新しい料理本でしたっけ?」
 「あぁ。今のは粗方、試し終わったしな」
 
 図書館独特の静けさに私たちは声を潜めながらそう言葉を交わした。そのまま二人でエントランスに備え付けられた階段の脇を通り抜け、料理本の並んだコーナーへと足を向ける。数十秒の後、私たちの眼の前に現れたそのコーナーには何人かの魔物が立ち、真剣そうな表情で本に視線を落としていた。きっと彼女らも家事に負われる身の上なのだろう。或いは男を捕まえるために振る舞う料理を考えているか。どちらにせよ、そこに立つ魔物は私にとっては同志であり、何より敵であるのには変わりない。
 
 「……」
 
 勿論、そこに立つ魔物たちの目的は料理のノウハウや手順が書かれた本であり、私ではない。しかし、そう理解していても、不安な気持ちは誤魔化せないのだ。思わず、縋るようにハワードの袖をぎゅっと引っ張ってしまう。
 そんな私にクスリと笑みを向けながら、ニンゲンは何も言わない。私が本気で怖がっていることがこの男には分かっているのだろう。こうした時にしか見せないその優しさに感謝しながら、私はゆっくりとその棚へと近づいていった。
 
 「う〜…ん…」
 「むむむ…」
 
 真剣そうな表情で思い悩むラミア種とアラクネ種の間にそっと身体を割り込みながら――勿論、その間も片手でハワードの袖は掴んでいる――私はそっと棚へと目を向けた。そこにあるのは前回とそれほど種類が変わってはいない。書かれる本の種類がより世俗化したとは言え、そうそう新しい本が書かれるようになった訳ではないのだ。
 
 ― まぁ、だからこそ、次の本をさっさと決めることが出来るんだが。
 
 ここの本は最初に足を運んだ時に大体、目を通している。次に買いたい本はほぼ決まっているのだ。ただ、複数あるその候補の中からどれを選ぶかが問題なのであって――。
 
 「…やっぱり奇抜な『男性を魅了する10のジパング料理』の方がインパクトが強いかしら…?」
 「ここは家庭らしさをアピールする為に『オスをぞっこんにさせる12のおふくろの味』の方が…」
 
 ― …まったく同じ事を考えているな。
 
 両側のラミア種とアラクネ種がぽつりと呟いた言葉に私は内心、驚きの声をあげた。私も次に買うのはその二つの本のどちらかだろうと思っていたのである。それ以外の本はレベルが高すぎて、まだ料理初心者の私には手が出せない。…決して『男性を魅了する』や『オスをぞっこんにさせる』なんていう下らないキャッチフレーズに惹かれた訳ではないのだ。うん。絶対。
 
 ― とは言え、お互いにカバー範囲が違うから…なぁ。
 
 ジパング料理の方はジパング産の貴重な調味料が必要な料理が多い。その為、気軽にホイホイ作れるものではないだろう。逆に家庭料理の方はレパートリーを増やすという意味ではそれほど貢献しない。お袋の味と言われるほどにメジャーな料理だからこそ、他の本でもカバーされているのだ。勿論、そのレシピが寸分違わず同じであるとは言わないが、真新しさというのはあまり望めないだろう。
 
 ― うーん…どっちがいいかな…。
 
 ジパング料理の方はレパートリーが確実に増え、調味料があるかぎりは退屈させることのない味を楽しませてやれる。逆に家庭料理の方は馴染みのある堅実なレパートリーを増やすことが出来る。その二つの間で挟まれながら、私は小さな唸り声をあげた。それに応えるように両側の二人も唸り声をあげて、ちょっとした響音を作る。
 
 ― そのまま十分ほど時間が経ち…。
 
 「…まったく。何を悩んでるんですか?」
 
 それでも私は自分の中で結論が出せず、悩み続けていた。そんな私にいい加減、焦れたのだろう。後ろから小声でそうハワードが話しかけてくる。
 
 ― …あぁ。そうだ。自分でこんなに悩むのであれば、コイツに決めてもらえばいいじゃないか。
 
 そもそも出資者は私ではなく、ニンゲンなのである。彼の好意に完全に甘えて生活している以上、私の意見よりも先にハワードの意見を聞くべきだろう。今更、その事に気づいた自分に恥じながら、私は片手で二つの本を手に取り、彼の前でそれを広げた。
 
 「お前はこの二つのどっちが食べたい?」
 「どっちって…」
 
 表紙には白黒の絵でレシピの完成図が幾つか描かれているとは言え、白黒ではあまり分からないだろう。そう判断した私は魔物の間から抜け出し、彼の手にそっと二冊の本を載せた。そのタイトルをまじまじと見ながら、ニンゲンはクスリと笑みを浮かべたのである。
 
 「…貴方、私を虜にしたいんですか?」
 「はぁ…?何を馬鹿な…」
 
 ― そこまで言って、私はその二つの本に書かれているタイトルを思い出した。
 
 『男性を魅了する10のジパング料理』と『オスをぞっこんにさせる12のおふくろの味』。どちらも内容の方向性は違えど、キャッチフレーズは似たり寄ったりなものである。その二つで迷っていると言われて、この男がそれを弄らないはずがない。それを完全に失念していた私の頭に一気に血が上り、勢い良く口を開いてしまう。
 
 「そ、そんな訳あるかば…」
 「ほらほら、声が大きいですよ」
 「んぐ…」
 
 馬鹿と言おうとした私の言葉をニンゲンの大きな手がそっと塞いだ。唇に触れるか触れないかの距離で口元を覆われる感覚は妙に窮屈である。きっと息をする二つの穴をハワードの手で塞がれているからだろう。
 
 ― お、落ち着け…!!れ、冷静になるんだ…っ!
 
 その息苦しさの所為か妙にドキドキする胸を必死で抑えつつ、私はそっとニンゲンの手を口元から放した。心の何処かでもっと触れていて欲しかったと何かが呟いたものの、このままでは冷静になれそうもない。話を進める為にもここは深呼吸して頭を落ち着かせるべきだ。そう言い訳じみた思考を回しながら、私は深呼吸を繰り返した。
 
 「と、ともかくだな…。別にそう言う意図で本を選んだ訳じゃない。キャッチフレーズが似通っているのはたまたまにすぎんのだからな」
 「たまたま…ねぇ」
 
 数十回の深呼吸の後、ようやく呼吸が落ち着くのを感じた私はそう言い放った。しかし、本心からのその言葉をハワードはまったく信じてくれない。疑わしげな視線をまったく変えないまま、私をニヤニヤと見つめている。
 
 「その割には家にある他の本も似たような言葉が踊っていたような気がしますけど」
 「んぐっ…!」
 
 ― 確かにニンゲンの言うとおりだ。
 
 私が今まで購入した他の本も『男をドキっとさせる』や『気になる相手をゲットしちゃう!』とか『運命の相手とラブラブになれる』なんていう文字が踊っていたのだ。けれど、それは別に私の所為ではない。たまたま選んだ本がそっちのキャッチフレーズに偏っていただけで、他意なんてまったくないのだ。うん。まったく、欠片も、これっぽっちもありえないのだ。
 
 「そんなに私を虜にしたいなんて…これは困っちゃいますねぇ」
 「ぬぐぐぐ…!」
 
 ― 困っちゃうなんて顔じゃない癖に…!
 
 面白い玩具を見つけた子どものようなキラキラとした表情には困った色なんて欠片も見えない。からかうネタを見つけたからだろうか。普段よりも数割増でむかつくその表情に何か言ってやろうと思っても、状況証拠が出揃っているだけに何も言えない。
 
 ― その上…癇癪を起こそうにも…。
 
 本来は書店とは言え、この店の中には図書館独特の静かな雰囲気が満ちているのだ。そんな中で大声をあげて誤魔化そうとするほど私は羞恥心を捨ててはいない。さらに言えば、自分でも最近、自信が無くなってきているが、私だって人の迷惑を考えられる程度の余裕はある。ここで大声を出せば、真剣に本を選びに来ている人々の邪魔になってしまうだろう。
 
 「ふふ…。まぁ、面白いものを見せてくれたお礼に両方買ってあげますよ」
 「…良いのか?」
 
 ニンゲンの優しい言葉に私は思わず聞き返してしまう。元々、私がコイツに強請ったのは一冊だけであったのだ。それ以上の本を買うことなんて想定してはいなかっただろう。本一冊買うのを躊躇するほど日々の生活が苦しい訳ではないとは言え、私が彼の貯金をごっそりと削ったのは事実だ。出来るだけ無駄遣いせずに、倹約するに越した事はないだろう。
 
 「私の食生活にも直結する事ですしね。美味しいご飯に対する先行投資だと思って下さい」
 「…素直じゃない奴め」
 
 素直にお礼を求めてくれれば、私だってお礼が言えるかもしれないのだ。それを『先行投資』なんて言葉で誤魔化されたら、ニンゲンよりももっと素直じゃない私はお礼が言えなくなってしまう。その不満が思わず口に出た私の頭をくしゃりとハワードが撫でた。
 
 「貴方にだけは言われたくありませんね」
 「むぅ…」
 
 百年近くを生きる私の方がよっぽど年上なのに、ニンゲンはまるで子ども扱いするかのように私の髪を優しく撫で梳いていく。下等なニンゲンにそんな事されるなんて悔しくて屈辱的であるはずなのに、私の心は穏やかだ。トクントクンと規則的に脈打つ鼓動と共に安堵が広がっていくようである。それはきっとゴツゴツしたハワードの手が私に安心感を齎してくれるものだからなのだろう。
 
 「…何時まで人の髪を触ってるつもりだ馬鹿者め」
 「これは失敬」
 
 しかし、天邪鬼な私はその安心感に浸ってやる事が出来ない。本音を言えば、ずっと触っていて欲しいはずなのに、まるで拗ねるような口調でそう言ってしまうのだ。そんな可愛げのない自分の姿に私は胸中で一つ溜め息を吐きながら、二冊の本を大事に胸元に抱える。
 
 ― こ、このままじゃダメだ…!
 
 私だって男としてのプライドがある。別に可愛げのある反応をしたい訳ではない。しかし、素直にお礼一つ言えない状態を続ける訳にはいかないのだ。今はまだニンゲンも笑って弄るネタにしてくれているが、何時までもそうとは限らない。これから先もずっとコイツの側で暮らしたいと思うのであれば、少しは自分を変える努力をするべきだろう。
 
 ― ま、まぁ、行き場が無いからコイツの側にいるだけなんだけれどな!
 
 そう内心で言い訳しつつも、私がそれほどニンゲンの事を嫌っていないのに私は薄々、勘づいていた。いや、それどころかかなり頼りにしていると言っても良いくらいだろう。人の事をからかうのが好きでときどきドキッとした事を言うこの男が、時折、無性に優しいこのニンゲンが、側に居ると無条件に安堵させられるハワードが…私はそこそこ気に入っているのだ。
 
 ― そ、それを何時かコイツに伝える為にも今は…今は少しでも素直にならなければ…っ!
 
 「…ま、まぁ…今日は予定を超過して二冊買って貰う訳だからな。お前が撫でたいと言うのであれば、寛大な心で許してやらん訳でも…」
 「…え?何か言いました?」
 
 ― …そんな私の一大決心と共に踏み出された第一歩は奈落の底へと落ちていった。
 
 私が考え込んでいる内にニンゲンは既に私から興味を失ったらしい。料理隣に作られた専門書のコーナーに移動していた。きょとんとした顔で振り返るそこには特に意地悪そうな色はない。きっと本当に私の言葉を聞き流したのだろう。
 
 「な…なんでもない…っ!」
 
 迷惑にならない程度の音量で、しかし、はっきりと怒りを込めて私はニンゲンから視線を背けた。ついっと子どもが拗ねるようなそれに彼が困ったような表情を見せるのが横目で見て取れる。恐らくどうして私が拗ねているのか本気で分からないのだろう。しかし、それを見ても私は怒りを沈めてやる気にはどうしてもなれない。もうちょっとこの肝心な所で鈍感な男を困らせてやろうと唇を尖らせて拗ねているのをアピールした。
 
 「…やれやれ」
 「むっすー」
 
 そんな私に向かって肩を竦めながら、ニンゲンはゆっくりこちらへと近づいてくる。そんな彼を威嚇するように言葉を紡ぐが、ニンゲンの足が止まることはなかった。そのままストレートに私の元へと近寄り、私の頬をそっと包み込み…。
 
 「…おぉ。意外と伸びますね」
 「…にゃにをしてりゅんら?」
 「いや、あんまりにも頬をふくらませるので引っ張って欲しいのかと」
 「そんにゃ訳ありゅか!ばきゃもの!」
 
 ― まったく…てっきり慰めに来てくれたのかとドキドキしたのに…!
 
 しかし、ニンゲンにはそんなつもりはまったくなかったらしい。両手で私の頬を掴み、思う存分に弄んでいる。エルフの集落に居た頃よりもバランス良く栄養がとれているからだろうか。最近、ふっくらして丸みを帯びてきた私の頬はその柔軟さを遺憾なく発揮し、上下左右に動くニンゲンの動きについていっている。
 
 「それは残念。…ま、早めに機嫌直してくれないと本を取り上げますよ」
 「う…」
 
 無慈悲な出資者の言葉に私は言葉を詰まらせるしかなかった。しかし、彼の言葉も当然だろう。折角、二冊買うと言ったのに、その相手が理由を教えないままに拗ねているのだ。出資者からすれば、まかり間違ってもそんな相手にお金を出したいとは思うまい。そう頭の中で理解していても、中々、心は納得してくれなかった。
 
 「横暴だ…」
 「横暴で結構。私に逆らえないのを教え込むのが家のちょうきょ…いや、教育方針ですから」
 「…お前、今、調教って言わなかったか?」
 「ヤダナー。キノセイデスヨ」
 
 まったく、欠片も、これっぽっちも信じられないニンゲンの言葉に私は肩を落とした。別にコイツに何を言っても無駄だと思った訳ではない。彼の軽口に付き合っている間に何時の間にか拗ねるのが馬鹿らしくなってきた自分がいるのに気づいたからだ。
 
 ― これも…コイツの計算通り…なのかなぁ。
 
 そう思えば、掌の上で踊らされているようであんまり面白くない。けれど、それと同時にドキドキしてしまうのもまた事実だった。何処か倒錯的な色を秘めたその興奮から全力で目を背けた私の前でニンゲンが再び口を開く。
 
 「…それじゃあ納得して頂けた所で次は私の本に付き合って貰いますよ」
 「…別に納得した訳じゃ…いや、もう良いか」
 
 一々、ニンゲンの言葉を訂正するのを諦めた私は歩き出した彼の後ろにそっと着いていった。さっき来た道を遡るようにして移動したニンゲンはそのまま階段から二階へと登っていく。その姿を背中から見つめながら、私は胸中で小さく彼に謝った。
 
 ― …ごめんな。私が一人で動ければ…こんなに面倒なことしなくても済むのに。
 
 お互いに用があるコーナーはまったく別方向である。本来であれば別々に行動して、後で合流するという方が効率が良いのだろう。しかし、未だ魔物が苦手な私にはそれは出来ない。手の届く範囲にニンゲンがいない状態で魔物が近寄ってくるだけで私の額から嫌な汗が流れてしまうのだ。さっきの料理本のコーナーだって、彼が居なければ何時まで経っても踏み込めなかっただろう。
 
 ― …本当、足を引っ張ってるな私は…。
 
 エルフの里に居た頃にはそんな事はなかった。誰相手にもしっかりと自分の意見を言えたし、次期酋長として一目置かれる存在であったのだから。子どもの頃から割り振られた掃除や洗濯も人並み以上と評判だったし、狩りの腕で私に敵う相手は殆ど居なかった。時折、エルフのテリトリーに入り込む魔物を追い払う戦闘だって、私は一度だってミスをした事が無い。
 
 ― でも…今の私はニンゲンがいなきゃ生きることすら出来ない役立たずだ。
 
 しかも、それだけ依存している相手にお礼一つ言えないような有様である。当時からは考えられないほどダメになった自分の姿に溜め息と、そして薄暗い歓喜の感情を感じてしまうのだ。その薄暗い歓喜が一体、何を示しているのかは私には分からない。…いや、より正確に言えば、分かりたくない…だろう。それを理解してしまった瞬間、私の中でずっと堅持されていたい何かが粉々に砕けかねない。そんな予感が私にはあるのだから。
 
 「さーってと…」
 
 そんな事を考えている間にニンゲンのお目当てのコーナーにたどり着いたらしい。辺りを見渡してみれば小さく装丁された本が何百冊も並んでいる。私の掌よりも少し大きめのそのサイズは私にも見覚えのあるものだった。ニンゲンが暇な時に読んでいる小説と同じサイズだったからである。
 
 「貴方も気に入ったのがあれば買ってあげますよ。ただし、真剣に選ぶんで静かにしておいて下さいね」
 
 ― 私は子どもか。
 
 そう言いたい気持ちを私はぐっと堪えた。それは別に怒られるのが怖かったとか、ご褒美が欲しかったなんて子どものような理由ではない。本当に真剣に棚に並ぶ本を吟味するニンゲンの表情にドキッとしたからだ。
 
 ― …まったく。こういう時だけそういう表情を見せるのは反則だぞ。
 
 今の表情だって、ニンゲンの事をまったく知らない奴からすれば普通にタイトルや作者名を見ているだけに見えるだろう。しかし、良く良く見れば、何時も笑ったように歪んでいる唇がきゅっと引き締まり、目元にも強い意志が浮かんでいるのが分かるのだ。普段の飄々とした態度を崩して、全力を傾けようとする姿は私が知る限り、本を選ぶ時くらいしか晒さない。
 
 ― …まぁ、そんなに真剣になれるのは良い事なんだろうが…。
 
 しかし、私にもたまにはそんな表情で接して欲しい。そんな嫉妬めいた感情が浮かぶのもまた事実だった。そんな認めがたい自分を心の奥底へと押し込みながら、私はそっと周囲を見渡す。
 
 ― そこには殆ど人がいない。
 
 もう夕食前の良い時間だからだろうか。小説が立ち並ぶコーナーには私達以外の誰もいなかった。勿論、それは魔物も例外ではない。一人で活動するには絶好のシチュエーションを手に入れた私は、そっとニンゲンから離れ、棚の合間を縫うように歩いて行く。
 
 ― んー…あんまり惹かれるようなタイトルはないな。
 
 弓で馴らした視力と反射を存分に発揮しながら、私は棚の間を練り歩いた。しかし、これが欲しいとニンゲンに言えるほど惹かれるものは一つとしてない。中を見ればまた話は別なのかもしれないが、そうまでして小説が欲しいとは今はまだ思えなかった。既に料理本を二冊買ってもらう事は決定しているし、あまり無駄なお金を彼に使わせたくはない。序に言えば、この前、買ってもらった小説本はまだ二度しか読み返していないのだ。
 
 「まぁ…面白そうなラブロマンスものがあれば…」
 
 思わず口に出たその言葉に私の頬が赤くなったのを自覚する。自分でも男の癖に…と思わないでもないが、私の嗜好にぴったりと合ったのはラブロマンス――それも異種間の男女が結ばれるものだった。幸いにしてその類の本はこの書店にも数多く取り寄せられているらしい。さっきから私の視界に入るのもそう言った本が殆どだ。
 
 ― まぁ…この街の背景を考えれば当然だろう。
 
 この街は魔物を早くから受け入れ、その恩恵を享受してきた場所だ。そこで異種――つまり魔物とニンゲンが結ばれる小説が数多く書かれるのは当然の成り行きだろう。そのお零れに預っている状態の私としては余り強くは言えないが、ニンゲン同士のロマンスよりも魔物とニンゲンのロマンスの方が多いのは大丈夫なのかと言いたくなる。
 
 「ん?」
 
 そこまで考えた瞬間、私の視界に黒い本棚が目に入った。それまで木本来のゆったりとした色を晒す本棚ばかりだった中に突然、現れた異色。それに興味をそそられた私はそっとその棚へと近づいていった。そのまま棚に並ぶ文字に視線を滑らせながら、何気なくそれを読んでみる。
 
 「んーと『ツンデレお嬢様のビーストモード〜りゃめぇぇっ♪交尾しちゃうとすぐアヘっちゃうのぉっ♪』……」
 
 ― ………え?
 
 「『教官デュラハンのセックス講義♪〜妊娠するまで膣内射精しの実習だぞっ♪〜』…『サキュバスお姉さんの甘々筆おろし〜最初から最後まで面倒みてあげる…♪〜』……」
 
 ― な、なななななななななっ!!!
 
 「な、な…なんだこれは…っ!!!」
 
 思わずあげてしまった大声に私は反射的に手を唇へと当てた。そのまま周囲を伺うように周りを見るが、特にヒトの気配はない、それに胸をなで下ろしたのも束の間、私は周囲の本全てがそういう『いかがわしい本』である事に気づいた。
 
 ― ま、まさかこの奥全部…?
 
 私が足を踏み入れたのは広大な書店の一画にすぎない。しかし、私の目でも軽く霞むほど先の壁までズラリと黒い本棚が立ち並んでいるのだ。まるでそこに並んでいる本がこの店の目玉商品だと言わんばかりの気合の入りっぷりに私の身体がたじろぐ。周り全てを『いかがわしい本』で囲まれた私の身体が今すぐそこから逃げ出すべきだと警告を発しているのだ。
 
 ― で、でも…。
 
 そう心の中で呟きながらチラリと視線を向けた先には一冊の本があった。タイトルを読み上げている中、私の視界に入ってきたそれには『強情エルフの屈服調教〜アナタナシじゃ生きていけないエッチな身体にされちゃう…っ♪〜』と桃色の文字で書かれている。フォントも曲がりくねったいやらしい文字でところどころにハートマークも浮かんでいた。見るからに『いかがわしい』と分かるその装丁に私の腕はそっと伸びてしまう。
 
 ― え、エルフを屈服させて調教だって…?そ、そんないかがわしい本なんて許せるものか…っ!
 
 そう憤慨する心がそれを手に取って、破り去ってしまえと告げている。しかし、それとは比べものにならないほど大きな興奮が私の中に渦巻いていた。高鳴る鼓動がドキドキと鼓膜を震わせてうるさいくらいである。しかも、それは私の手がゆっくりと本に近づく度にさらに早く、激しくなっていくのだ。
 
 ― そ、そうだ…。タイトルだけじゃ…中身は分からないよな。もしかしたら…凄い真面目な本なのかもしれないし。
 
 「だ、だから…中身を確認しないと…」
 
 ― それが自分に対する言い訳なのだと私自身も気づいていた。
 
 今まで味わったことのないほどの興奮は最早、私に制御出来るものではなくなっていたのだ。反らす事も抑える事も不可能なほどに興奮が膨れ上がった私に必要だったのは言い訳の言葉以外にない。仕方なかったのだと自分に言い聞かせられる魔法の言葉を何度も胸中で繰り返しながら、私はそっとそれを手に取り、適当なページを広げた。
 
 「う、うわぁ…」
 
 瞬間、私の視界に飛び込んできた文字の波に私は思わず呻き声をあげた。どうやら私が開いたのは調教シーンの真っ只中であったらしい。両手を手錠で繋がれたエルフ――しかも、その手錠は魔力を吸収するとか言う訳の分からない代物で魔術が使えないらしい――が調教者――勿論、ニンゲンの男だ――に食って掛かっている所だった。
 
 『「こ、こんなものでエルフを支配出来ると思ったら大間違い…だぞ…」』
 
 ― うん。このエルフは中々、分かっているじゃないか。そんなご都合主義のトンでもアイテムになどエルフが負けるはずがない。
 
 『しかし、そう言うエルフの淫裂からは既にドロドロの粘液の愛液が溢れていた。それに伴い、身体中に疼きが走り、今にも男に触って欲しいと叫んでしまいそうだ。それら全てが男によって事前に投与された媚薬の所為であると理解していても、身体に走る疼きは抑えられない』
 
 ― え?媚薬とかなにそれこわい。そ、そんなの使うとか卑怯だぞ!!
 
 『「ふふふ…そう言っている割りには股の間から何かこぼれてるじゃないですか」』
 
 ― …あ、コイツの口調、ちょっとハワードに似てるかも…やばい。ドキドキする…。
 
 『そう言って、男の杖が無惨にも破られたエルフの下着を上下に撫でた。それだけで普段の何十倍にも敏感になったエルフの身体はビクンと跳ねる』
 
 ― ふ、普段の何十倍…ど、どれだけ凄いんだろう…。
 
 『「ほら、早く素直になったらどうですか?そしたら…こんな杖よりも太くて、熱くて、硬いオチンポを貴女のオマンコにぶち込んであげますよ」「あぁぁっ!」』
 
 ― オマンコ…?オチンポ…?良く分からないけど…この文脈でぶち込むって事は性器なのか…?
 
 『その言葉だけでエルフの身体には軽い絶頂が走った。既に何十回もイかされた身体は既にメスの欲望を顕にしていたのである。滑らかな女体に走る疼きに身を任せ、自分を捕らえたこの力強いオスに身も心も委ねたいと叫んでいた』
 
 ― な、何十回も…そんなにされたら絶対、おかしくなるじゃないか…。
 
 『「一応、私も親切心で言ってるんですよ。今ならまだ媚薬の所為で仕方なく…って言い訳出来ます。でも…それが切れちゃったら…言い訳出来ないまま私に犯されることになるんですからね」』
 
 ― そ、そんなの事になったらプライドがズタズタになっちゃうじゃないか…。そ、そうやって選択の余地をなくすなんて…なんて卑怯な奴なんだ…!
 
 『男の言っている事がエルフの心に突き刺さる。身体の疼きは一向に収まらず、子宮は貪欲にうねり続けていた。せめて冷静になろうと繰り返す呼吸も浅いケダモノじみたものになっている。頭の中ではプライドはまた残っていたものの、エルフの我慢は何時、決壊してもおかしくない状況だった』
 
 「はぁ…はぁ…っ」
 
 そこまで読んだ瞬間、私は自分の呼吸が荒くなっているのにようやく気づいた。まるで本の中の囚われたエルフとシンクロするように、それはどんどんと浅いものへと変わっていく。身体にも判別不能な熱が灯り、興奮を助長する。しかし、私が持つ性器は一向に反応せず、お腹の奥で行き場のない熱がぐるぐると渦巻くだけだった。
 
 ― つ、続きは…。
 
 本の中のヒロインと同じく冷静さを失った私は早く次のページを見たいと指を這わせる。しかし、あまりに興奮に震える指では中々、次のページを捲れない。焦れったくなった私が売り物であるということすら忘れて指を舐め、無理矢理めくった瞬間、私の視界に一枚の絵が飛び込んできた。
 
 ― それは首輪と手錠で拘束されるエルフの絵で…。
 
 白黒で描かれたそれはズキリと私の胸に突き刺さった。頬を紅潮させ、目尻に涙を浮かべるその表情にエルフとしての矜持はない。囚われ、良いように弄ばれる女の姿があるだけだ。しかし、悲惨なはずのその姿が私には羨ましく思える。それはきっと彼女の表情がとても淫猥で…そして美しかったからだろう。
 
 ― エルフに…こんな表情が出来るものなのか…?
 
 私が見るそれはあくまでも本の中の出来事でしかない。しかし、私にはその姿がとても非現実的なものであるとは思えなかった。いや、それは思いたくなかっただけなのかもしれない。何せ私はその姿に惹かれ、こんな顔をしてみたいと思っていたのだから。
 
 「もし…この男が…ハワードだったら…」
 
 ― ゾクゾクゾクゾクゥッ♪♪
 
 何気なく呟いてみたその言葉に私の背筋に壊れんばかりの震えが走った。一瞬、氷でも突っ込まれたのではないかという寒気が背中に走ったのである。しかし、それは決して不快なものではなかった。寧ろ甘い痺れさえ伴ったそれは快感と言っても過言ではないものだったのである。
 
 ― ハワードに…こうして首輪で繋がれて…身動き出来ない私を…たっぷりと調教してもらえば…。
 
 最初は勿論、抵抗するだろう。作中のエルフがそうであったようにプライドとはそう簡単には折れないものなのだ。特に種族的アイデンティティに関わる自尊心は硬い。だが、あの男はきっとそれを粉々にするほど私を犯し、調教するだろう。ニンゲンやエルフという区分ではなく、オスとメス…いや、ご主人様と奴隷の関係にまで堕とされれば…私も…私もこんな顔が…そして少しは素直になれるかも……――
 
 「…ラウルー」
 「わひゃああああっ!!!」
 
 ― そこまで考えた瞬間、私の名前を呼ぶ声が私の耳に届いた。
 
 ビクンと大きく跳ねて硬直した私の身体が手の中の本を取り落とした。それを拾おうと咄嗟に身を屈めるが冷静さを失った指は中々、それを拾ってはくれない。ようやくそれを拾った頃には足音がもう近くにまで近寄ってきて、本棚に戻す余裕はなかった。
 
 ― し、仕方ない…!こ、これは仕方のないことなんだ…!
 
 そう言い訳しながら私は『強情エルフの屈服調教〜アナタナシじゃ生きていけないエッチな身体にされちゃう…っ♪〜』を料理本の間に挟む。決してタイトルが見られないように上下を押さえたそれを私は大事に抱えて、足音の方へと駈け出した。
 
 「ど、どうしたんだいきなり」
 「それはこっちの台詞ですよ。いきなり奇声をあげて」
 
 そのまま合流した私に向かって、ニンゲンは呆れたような声をあげた。それも当然だろう。さっきの私の声は書店中に響き渡るほどの大声だったのだから。階下から聞こえるクスクスという声も今の私には自分の痴態を笑われているように思えるほどだ。
 
 「…と言うか、貴方、大丈夫ですか?顔真っ赤ですよ?」
 「う…」
 
 ついさっきまでいかがわしい本を読んでいた上に、この痴態だ。今の私の顔は熟した林檎のように真っ赤になっているのだろう。滅多に人の心配などしないニンゲンが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。しかし、それは私と彼の顔の距離が一気に接近するということでもあるのだ。さっきまで読んでいた本の内容が一気に脳裏に蘇った私はそれに耐えられるはずもない。
 
 「こ、こここ、この変態!」
 「うわっ」
 
 心配してくれているニンゲンに言うべきではない台詞と共に私の腕が彼の胸をドンッと押した。私の顔を覗き込んでいた姿勢だったニンゲンは少しだけ後ろに下がっただけで転倒したりはしない。それでも私の突然の行動に驚きを隠せないのだろう。眉をひそめながら私の顔をじっと見ている。
 
 「だ、大丈夫だ!問題ない!」
 「…本当に?」
 「う、うるさいな!お前は私が信じられないっていうのか!!」
 「少なくとも今の貴方は信じられませんよ」
 
 肩を竦めるニンゲンの言葉はそれだけ私の事を心配してくれているが故なのだろう。それは…正直に言えばとても嬉しい。本当であれば、感謝の言葉の一つでも送りたいくらいだ。しかし、今はタイミングが悪いにもほどがある。本の間に挟み込んだ『アレ』の存在もあることだし、出来るだけニンゲンには近寄って欲しくない。
 
 「わ、私が大丈夫と言えば大丈夫なんだ!!文句あるか!」
 「…まぁ、良いですけどね。でも、体調が悪いと判断したらすぐに病院に連れていきますよ」
 
 理不尽にもほどがある私の言葉に何時も通りニンゲンが引いてくれる形で決着がついた。それに内心、安堵しつつも胸の奥がズキリと痛む。少なくとも私の態度は彼に匿ってもらっている立場のものではないのだ。またニンゲンに当たり散らしてしまったと自己嫌悪が胸の奥から沸き上がってくる。
 
 「それよりそっちの本は決まりましたか?」
 「ま、まぁ、その…い、一応は…な。そっちは?」
 
 この話題が私に答えづらいと察知してたのだろう。ニンゲンは比較的答えやすい話を私へと振ってくれる。だが、それは現状の私にとって触れて欲しくない話題暫定No1だ。何とか誤魔化そうと同じ言葉をそっくりそのまま彼へと返す。
 
 「私は以前、買った本の続きが出てたんでそれを選びましたよ」
 「そ、そうか。それは良かったな」
 
 ― た、頼むからそっちはどんな本だったのか聞かないでくれよ…。
 
 「で、貴方は何を選んだんですか?」
 「ひゃうっ!!」
 
 しかし、私の祈りは神には届かなかったらしい。階段へと足を向けて歩き始めたニンゲンがそう私に尋ねた。触れて欲しくないその言葉に私の身体がビクンと跳ねる。またもや奇声をあげた私に怪訝そうな顔で彼が振り向くのを見ながら、私はぎこちなく唇を動かした。
 
 「ひ、秘密だ。秘密」
 「秘密って…お金を出すのは私なんですから少しくらいは教えてくれても良くありません?」
 
 ― う、うぐぐ…こんな時にも正論を吐くなんて…!
 
 出資者は私ではなく、あくまでニンゲンだ。自分が何にお金を出すのか彼だって知りたくなるのが当然だろう。しかし、今、私が抱きかかえるように持っているのは私の品格が疑われかねない代物だ。何とか誤魔化す方法はないかと必死に頭を回しながら、私はゆっくりと言葉を紡いでいく。
 
 「ちょ、ちょっと形が違うがラブロマンスだ」
 
 ― ま、まぁ、きっと間違いではないだろう。
 
 途中しか読んでいないが、あの二人はこれからきっと結ばれるに違いない。何せ私がこれまで読んできたどんな小説も必ず最後はハッピーエンドだったのだ。時には普通では考えられないほどのご都合主義を使った作品もあったが、基本的に魔物はハッピーエンドが好きなのだろう。ならば、その魔物が主な購買層であるこの本もまた最後はハッピーエンドの可能性が高いはずだ。少々、論法が強引ではあるが、自分自身を誤魔化すにはこれくらい強引じゃないと不可能だろう。
 
 「なるほど。それでそんなに挙動不審だったんですね」
 「うぐ…」
 
 自覚してはいるものの、はっきりと他人に挙動不審と言われるのは少し傷つく。ましてやそれが信頼している相手であれば尚の事だ。だが、自業自得であるということも同時に理解している私は反論する事が出来ないまま、大人しくニンゲンの後ろに着いていくしかない。
 
 「別に男性でラブロマンス好きでも恥ずかしがる必要がないと思うんですけどね」
 「…恥ずかしがる云々以前に私をからかって遊ぶだろうが」
 「当たり前じゃないですか。出資者の権利ですよ」
 「…分かってはいるが、ホント良い根性してるなお前」
 
 ― とは言え、本気で嫌がってる事をされたのは一度もないんだが。
 
 悪い意味でもいい意味でもコイツは空気が読めるのだろう。今までからかわれた事は数あれど、本当に嫌がっている事をされた事は一度もない。口では本の趣味をからかうような事は言いつつも、それをあげつらったりされたことはなかったのである。出来ればその気の使い方をもっと分かりやすい形で表現して欲しいと心の中で呟きつつ、私は階段を降り切った。
 
 「さて、それじゃあ会計お願いしますね」
 
 ― そう言ってニンゲンはそっと自分の持っていた本を私に差し出した。
 
 「…え?」
 「だって、貴方、タイトル見られたくないんでしょう?それなら貴方が支払いをするしかないじゃないですか」
 「それは…」
 
 確かにその通りだ。今の今までまったく考えていなかったが、会計時にコイツがいたらタイトルが知られてしまう可能性がある。それだけは何としても避けたい私としては、ニンゲンの提案は渡りに船も同然だ。
 
 ― しかし…っ!
 
 「ひ、一人で…か?」
 「私が行ったら意味無いでしょうに」
 
 懐から財布を取り出しながら呆れたように言うニンゲンの言葉を私は否定する事は出来なかった。わざわざ着いて来て貰ったら、私一人で会計をする意味がない。それは確かに言う通りだ。だが、今、レジに入っているのは眼鏡を着けたワーラビット――つまり魔物である。そんな場所で一人で行けるほど、私はまだ勇気を持つことが出来ない。
 
 「まぁ、これも社会復帰の訓練の一種だと思って下さい。私はここで待ってますから」
 「うぅ…」
 
 押し付けられるように手渡された財布を持ちながら、私は小さく呻き声をあげた。勿論、ニンゲンの言っているのは非の打ち所のない完璧な正論である。何時までもコイツの元で世話になり続ける訳にはいかない以上、何時かはこんな日が来るのでは、と覚悟はしていた。けれど、それはあまりにも脆い覚悟であったらしい。現に今の私の足は縫いつけられたように動かず、助けを求めるような視線をニンゲンに送ってしまうのだ。
 
 ― …まさか一生、社会復帰するつもりはない…なんて言う訳にはいかないよなぁ…。
 
 それはつまりずっとニンゲンの所で世話になり続けるということだ。しかし、それは望むべくもない理想である。こうして私を保護してくれている彼にだって自分の人生という奴があるのだ。ずっと可愛げのないエルフの面倒を見続ける訳にもいかない。何よりコイツはそれなりに良い年齢だ。今のところ、女の影は感じないが、何れは結婚だってするだろう。
 
 ― 結婚…コイツが…?
 
 色々な意味で良い性格をしているニンゲンが誰かと結婚する所なんて想像も出来ない。だが、この街には魔物がうじゃうじゃとひしめき合っているのだ。淫猥で好色で…男なら誰でも良いと言わんばかりの連中にコイツが見初められないとは言い切れないだろう。いや、寧ろ今までそうならなかった事自体が異常であると言う事も出来るのだ。
 
 ― だけど…それは…。
 
 コイツの横に私以外の誰かが並んでいる。しかも、私はその私以外の誰かの所為でニンゲンの隣から追い出され、それを影から見ているしかない。一瞬浮かんだそのイメージが泣き出したくなるほどの痛みを私の胸に走らせた。途端に不安になった心が彼の体温を求めてしまいそうになる。ひび割れたプライドがそれを何とかねじ伏せて涙を堪えさせたが、グルグルと渦巻く思考は止まってはくれなかった。
 
 ― もし…私が女なら…女になれば……。
 
 もし、同性ではなく異性であれば、私がニンゲンの結婚相手になることが出来る。そうなれれば…私は一生、コイツの傍にいるのを許されるのだ。私の父上のように私を捨てる事もなく…一生傍においてこうして下らないやり取りをしてくれる。いや、それどころかもっと幸せな…私の欲する優しい言葉だってくれるかも…――。
 
 「…まったくしょうがない人ですね」
 「痛っ!」
 
 思考の渦に飲み込まれた私の前でニンゲンがそう言った瞬間、ビシリという音と共に結構な痛みが走った。鮮烈な痛みで現実へと引き戻された私の視界に指で構える彼の姿が入る。きっと私のさっきの痛みはコイツが指で私の額を弾いたからなのだろう。ズキズキと熱と共に広がるような痛みもそれを肯定している。
 
 「な、何をするんだ」
 「お仕置きですよ」
 「お、お仕置き?」
 「そう。言いつけ一つ守れないダメなエルフに対しての…ね」
 
 それだけ言いながら、ニンゲンはそっと私の前を再び歩き出す。言いたいことだけ言って、勝手に行動を開始するコイツに文句の一つでも言ってやりたくもあった。しかし、それよりも先にレジへと一直線へと向かうその背中を私は反射的に追いかけてしまう。一体、これからどうするのかまったく分からないものの、コイツに任せておけば大丈夫だという根拠のない信頼感が不安を残す私の胸を勇気づけた。
 
 「ほら、ここまで近づけば出来るでしょう?」
 
 そう言ってニンゲンが振り返ったのはレジのすぐ傍だった。確かにそこまで近づいてくれれば、二人でいるも同然である。レジの前でいきなり立ち止まった私達に首を傾げるワーラビットにこれから話しかけなければいけないのに多少、足が竦みそうになるがさっきのように完全に無理な訳ではない。
 
 「これが終わったらご飯食べに連れてってあげますから頑張りなさい」
 「…何だその子どもを励ますみたいな台詞」
 
 ― そう言いつつも、私の顔には笑顔が浮かんでいた。
 
 なんだかんだで私に甘いニンゲンの不器用な台詞に思わず笑みが零れてしまう。からかっているようにも聞こえるその台詞はきっと励ましていると理解されたくないが故の照れ隠しだ。それを察することが出来る程度には私はコイツの性格の悪さにも慣れてきたのだろう。そう思うと何処か誇らしい気がした。
 
 「いらっしゃいませ」
 
 その誇らしさを胸にレジへと近づけば、ワーラビットが営業用の笑顔を浮かべてそっと頭を下げた。その前に無言で商品を並べながら、私はチラチラと確認するようにニンゲンへと視線を送ってしまう。タイトルを万が一にも見ない為なのだろう。何時の間にかこちらに背中を向けたその姿を見るだけで無性に安心してしまう自分が少し悔しい。
 
 「カバーはお着けしますか?」
 「あ、あぁ。頼む。それと…こ、これとこれの袋は分けてくれ」
 「はい。かしこまりました」
 
 ハキハキと私の要望に応えるワーラビットの表情に変化はない。袋を指定する時に私の本のタイトルが目に入っていただろうに、ずっと人好きのする笑顔を浮かべたままだ。これがきっとプロ意識という奴なのだろう。それに羨望を感じると同時に、嫉妬の感情もまた否定出来なかった。
 
 ― 私もこんな風になれれば…。
 
 こんな風になれれば、もっとニンゲンともスムーズに関係が築けただろう。それは勿論、考えても仕方のないifでしかないが、だからと言って意識から根絶は出来ない。今のような性格だからこそ、今のそう悪くない生活があるのだと理解していても、自分とはまったく違う生き方に嫉妬を感じてしまうのはニンゲンもエルフも同じだろう。
 
 ― そんな私の前で作業はあっという間に進んでいき…。
 
 求められた金額と同量をニンゲンの財布から取り出した私はそのまま商品を掴み、逃げるように彼の元へと走っていく。その背中に微笑ましそうな視線が突き刺さるが、今はそれよりも先にニンゲンの所へ急ぎたい。そう思う私の目の前でハワードはそっと振り向き、分かりづらい笑みを浮かべた。
 
 「どうだ?見たか?」
 「五歳の子どもでも出来るおつかいを成功させたくらいでドヤ顔しないでください」
 
 ― そうは言いつつも、ニンゲンの顔には嬉しそうな色が浮かんでいる。
 
 それは私以外の者には見て取れないほどの変化であったのかもしれない。しかし、何時もより緩んだ目元や口元が演技ではなく、本当にニンゲンが喜んでくれているのを教えてくれる。コイツは様々な意味で良い性格をしているとは言っても、人の不幸を喜び、人の成功を蔑むほど下衆ではない。少なくとも彼に多大な迷惑を掛けている私の成功に喜んでくれる程度の良識はあるのだ。
 
 「とりあえずこれ財布を返しておくぞ」
 「ん。確かに」
 
 そんな彼に財布を返しつつ、私は二つの紙袋を大事に抱えた。融資を受ける側として荷物持ちは最低限の礼儀である。私よりもニンゲンの方が身体的に優れているとは言え、彼に持たせる理由は何一つとして存在しない。
 
 「さて、それじゃあ何が食べたいですか?」
 
 そのまま二人で書店の外へと出た瞬間、ニンゲンがそう尋ねた。しかし、私には特に食べたいものはない。昼食は黒パンで簡単に済ませたし、特にメニューが被るということもないだろう。この街に来てから特に不味いと思うものに出会った事はないし、食べたくないものも特に思いつかない始末だ。
 
 「いや、特に無い」
 「それが一番、困るんですけどねぇ」
 「そこが男の甲斐性の見せ所だろう?」
 「まぁ、そりゃそうなんですけど、同性相手に甲斐性見せる必要も…ねぇ?」
 
 困ったように頬を掻きながらもニンゲンの足に迷いはない。恐らく既に食べに行く所は決まっているのだろう。日が落ちて大分、人が減った大通りを躊躇いなく歩いて行く。秋の夜空には星が瞬き、月が微かな光を運んでいた。しかし、それ以上にそれぞれの家から漏れる光がこの街を明るく彩っている。さらに仕事上がりの陽気な声が開かれた店から響き、夕方の喧騒とはまた違った表情を作り出していた。
 
 ― まぁ…悪くはない…かな。
 
 エルフの集落にとって夜は静かな時間であった。種族の気質的にもこうして騒ぐのは苦手なのだろう。陽が落ちると同時にそれぞれの家へと入り、魔術の光や火を囲んでゆっくりと静かな夕食をとっていた。そんな静かな夜の過ごし方とは対極的な街の姿に最初は戸惑ってはいたものの、最近は慣れたものである。
 
 ― まぁ…これもコイツのお陰か。
 
 昔であれば夜に出歩くなんて考えられなかった。どれだけ明るくても、私にとって夜とは静かに過ごす時間であったのだから。しかし、ニンゲンとの生活がこうして始まってからは、そうも言ってはいられない。コイツが帰ってくるまで外に出られない私の活動時間は自然と夜へと傾いていったのだ。
 
 ― まぁ、それでもニンゲンよりも早く起きるが。
 
 しかし、昔のように朝霧が漂う時間に起床する事が出来なくなったのも事実だ。ほんの少し前の私であれば、それを堕落として恥じていただろう。しかし、今の私にはそれがそんなに悪くないようにも思えるのだ。
 
 「ここなんかどうです?」
 「ん?」
 
 そんな事を考えている間にニンゲンの足は何時の間にか止まっていた。それに従い、動きを止めた私の目に木造のこじんまりとした食堂が飛び込んでくる。それなりに年代モノなのだろう。しっかりとした作りの中に時代の流れを感じさせる。大きく開いた扉の向こうからこの街に来てから見慣れた魔力灯が差し込み、中の明るい雰囲気を伝えてきた。穏やかな雰囲気のまま、されど賑わう喧騒もまたこの店の居心地の良さを感じさせる。
 
 「異論はないが…どうしてここに?」
 「部下に教えてもらったんですよ。雰囲気も良いし、安い店があるんだって」
 「…む」
 
 ― その言葉に私は微かな危機感を覚えた。
 
 コイツ自身に自覚はないが、意外とこの男は部下に慕われる性格をしているらしい。過去の事件により何度か警備隊に世話になったが、コイツの保護下にあるという理由だけでよくしてくれた者が沢山いる。勿論、その中にはこの若さで警備隊の上級職に上り詰めているニンゲンに媚びを売ろうとした者もいたのだろう。だが、それ以上にコイツが純粋に慕われているように私は感じた。
 
 ― 勿論、その中には女もいるだろう。
 
 コイツと一緒に街を歩く時に警備隊の制服を纏った女が歩いているのをたまにではあるが見かける。それは魔物であったり、ニンゲンであったりと様々ではあるが、同じ職場にまったく女がいないという訳ではあるまい。そして、私はニンゲンの教えてもらったという言葉に女の影を感じたような気がしたのだ。
 
 「女か?」
 「えぇ。私が昔、昇格する前に率いていた小隊の子ですよ」
 
 ― ますます怪しい…。
 
 昔から繋がりがあった部下――しかも、女の誘い。それだけでも疑うには十分過ぎる理由だろう。下衆な行為であろうとは理解しつつも、その女とコイツの間に何かあったのではないかと勘ぐってしまう。
 
 「…それは何時だ?」
 「つい一週間程前ですね」
 
 ― ふむ…一週間前か…。
 
 確かその辺りはそれなりに早い時間に帰ってきたはずだ。それに私の作った料理を完食してくれている。恐らく誘って貰っただけで、断ったのだろう。その理由が何かは分からないが、私の為であれば…――。
 
 「それより店の前で立ちっぱになってる訳にはいかないでしょう?異論ないなら入りますよ」
 「そ、そうだな!!」
 
 危ない方向に向かいそうになった自分に気づいた私はそう声を張り上げて、ニンゲンの後ろに着いていった。そんな私達の前に桃色のエプロンを身につけたオークが立つ。うっすらとしたベイビーピンクのフリルをたっぷりつけたエプロンからは肉付きの良い肌がこぼれ落ちていた。恐らくエプロンの下には何かしら着ているのだろうが、裸のままエプロンを着ているようにしか見えない。
 
 「二名様でしょうか?」
 「えぇ。席は空いてますか?」
 「はい。あちらの方へどうぞ」
 
 鈍重そうな見た目とは裏腹にてきぱきと動くオークが案内したのは店の奥の方のテーブルであった。二人掛けの小さなそこに腰を下ろすと同時に先ほどのオークがコップに冷たい水を持ってくる。上下水が完備されているこの街で常飲される水には妙な甘みがあるのだ。それが何かは分からないが、何処かすっきりとしたその甘味はここまで歩いてきた身体から疲労を少し取り去ってくれる。
 
 「さて、じゃあ、私はちょっとお花を摘みに…」
 「あぁ。分かったからとっとと行って来い」
 「えぇ。注文は先にしてて貰って構いませんよ」
 
 それはニンゲンも同じなのだろう。気持ちの悪いことを言いながらいそいそと席を発った。そんな彼にパタパタと手を振りながら、私は脇のメニュー表をそっと開く。中に書いてあるのは老舗らしい外見とは裏腹に安い値段ばかりだ。適当に頼んでも恐らく数日分の食費にも届くまい。
 
 ― さて…どうするかなぁ…。
 
 ニンゲンは家では酒を嗜まないが、こういった場ではそれなりに酒を飲むタイプだ。自分を見失うほど飲むわけではないが、ほろ酔い程度にはなる。ならば、先に注文しておくべきなのは酒類とツマミになるもの辺りだろう。
 
 ― そこまで考えた瞬間、入り口の方に慌ただしい音が聞こえた。
 
 ふと気になって視線をメニューからそちらに向ければ、三人組の男が店へと入ってくる所だった。しかし、その顔は一様に赤く染まっている。きっと既に別の店で一杯引っ掛けてきたのだろう。どうしてそんな状態で酒場よりも食堂に近いこの店に立ち寄ったのかは分からないが、あまりジロジロ見るべきではない。
 
 ― ただでさえ私は目立つ容姿をしているしな。
 
 この街で生活してきてそれなりに経っているが、一度も同族を見かけた事がない。勿論、この街は一人では隅々まで見れないほど広く、私自身があまり積極的に外へ出ないということも無関係ではないだろう。とは言え、魔物と会いたくなくとも会ってしまうこの街ではエルフの姿はとても目立つのは事実だ。下手をすれば顔を覚えられ、また妙な因縁をつけられかねない。
 
 ― …ん?
 
 そこまで考えた瞬間、私の横から突き刺さる視線を感じる。思わずそちらに目を向ければさっき入ってきた三人組が私をニヤニヤといやらしい目線で見ている所だった。何処か嫌な感じのするその視線は気にしまいとしても、どうしても気になってしまう。
 
 ― …別に私の格好は変じゃない…よな?
 
 膝上でカットしたジーンズに黒タイツ。上は黒地にふわふわとした毛皮のついたムートンジャケットだ。インナーには藍色の生地に白地で文字が描かれたシャツを着ている。大きめのバックルに繋がった黒革のベルトもニンゲンに選んで貰っただけあってそれなりに似合っているはずだ。私はまだ彼ほどお洒落に詳しくはないが、街を歩く魔物と比べてもそれほどおかしな格好はしてはいまい。
 
 ― …なのに、なんでそんな風に笑うんだ…?
 
 折角、ニンゲンに選んで貰った衣服を名も知らぬ男たちに笑われる。そのシチュエーションに胸の底から怒りがふつふつと沸き上がってきた。どうして何の関係もないお前たちにそんな風に見られなければいけないのか。そう怒鳴りつけてやりたくなるのを私は必死で堪えた。
 
 ― 落ち着け…ここで騒ぎを起こしても何の得もない…。
 
 ここで癇癪を起こしてあいつらを病院送りにしてやるのは簡単だ。ただ、短く呪文を唱えれば良いだけなのだから。しかし、私はもう二度とそんな風に魔術を使わないと、一時の激情だけでアイツに迷惑を掛けないと誓ったのだ。それは何の拘束力もない誓いではあるものの、そう易々と破ってやれるものではない。
 
 「なぁ、そこのエルフの姉ちゃん」
 「…は?」
 
 そう自分に言い聞かせる私の耳に信じられない言葉が届いた。あまりに信じられなくて、近くにエルフがいるのかと周囲を見渡してしまったほどである。だが、私の予想通り周囲には――いや、この店には私以外のエルフはいない。それの事実を再確認した後、私は思わず溜め息を漏らしてしまった。
 
 ― …この節穴どもめ。
 
 確かに私は女寄りの顔をしている自覚はある。しかし、身体のラインなどを見れば、男だと一目で分かるはずだ。現にニンゲンは私を女であると間違った事は一度もない。それに比べてこの男どもはどれだけ見る目がないのかと溜め息が出てしまったのだ。
 
 「おい、姉ちゃんよ。こっち来てお酌してくれないか?」
 「エルフ様に御酌されるなんて一生に一度あるかないかの機会だからよぉ」
 
 ― …低俗な連中だな。
 
 私は何だかんだで恵まれていたのだろう。今まで私の周りにはこのような――エルフが見下すニンゲンの典型のような連中は存在しなかった。彼は言わずもがなだし、あの医者も立派な好人物だったのだから。ここに来て今更、ニンゲン全ての評価を下落させるほど単純な性格はしていないが、こんな連中もいるのかと呆れ返ってしまう。
 
 「なぁ、頼むよ。後でお礼にベッドの上で可愛がってやるからよ」
 「なっ!!」
 
 そんな私の耳に下卑た台詞と笑いが届いた。それに私の顔に思わず熱が灯った。勿論、それは羞恥の色ではない。このような低俗で見るべき所が何一つとしてない連中にからかわれたが故の怒りの色だ。胸に宿った怒りが一層、激しく燃え上がり、目の前の痴れ者共を焼き尽くせと告げるが、私は再びそれを抑えこむ。
 
 「なぁ、良いだろ。三人がかりでたっぷり楽しませてやるからよ」
 「一つ忠告しておいてやる。……失せろ下郎。お前らのような奴とは会話もしたくない」
 
 それはエルフのプライドから出た言葉ではない。単純に私の心境をそのまま口にした言葉だ。このまま会話していれば何時、怒りが理性を超えるか分からない。そうなった時、ニンゲンが折角、誘ってくれたこの店にも多大な迷惑が掛かってしまう。出来ればそれをしたくないと思うが故の忠告だった。
 
 「…エルフだからってお高く止まってんじゃねぇぞコラ」
 
 しかし、そんな私の忠告は男たちには届かなかったらしい。ガタリと剣呑な様子で三人が椅子から立ち上がり、一人が私の席へと歩いてくる。それを遮ろうと給仕のオークがこちらへと駆け寄るが、残りの男二人に遮られるのが傍目で見えた。何をされるのかは分からないが、どうやら自分の身は自分で護らないといけないらしい。
 
 ― まったく…面倒な…。
 
 ただ、大人しく食事をしたいだけなのにどうしてこんな風に絡まれなければいけないのか。そんな風に思いながら、私はこちらへと手を伸ばす男の姿を見ていた。恐らく私の腕を掴み、無理矢理にでも引っ張っていくつもりなのだろう。ならば、寸前で適当に魔術でも使ってやれば…――。
 
 「やん♪」
 「…あ?」
 「え?」
 
 そんな私の目の前で男が掴んだのは私よりも二回りは太い手首であった。驚いて視線をそちらに向ければ、警備隊の制服と見慣れた笑顔が目に入る。何処か楽しそうな色を浮かべるその笑顔に私の背筋に冷たいものが走った。
 
 ― だって…それは強者が弱者をいたぶる時に浮かべる『強者が故の楽しさ』で…。
 
 私を弄る時の笑顔を何倍も禍々しくしたような笑顔に私は純粋な恐ろしさを感じる。だが、それと同時に私の胸は痛いほど高鳴り、その笑顔に視線が惹きつけられてしまうのだ。
 しかし、その笑顔の恐ろしさが目の前の酔った男には分からないのだろう。自分で握った彼の手を乱暴に手放しながら、ニンゲンに敵意の篭った視線を向けた。
 
 「んだよテメェは」
 「そこのエルフの連れですよ」
 「あぁ?んじゃ、テメェが保護者かよ。ちゃんと教育しとけよ、コラ」
 「ははは。すみません」
 
 ― そう言ってニンゲンは困ったように自分の頬を掻いた。
 
 しかし、相変わらず空恐ろしい笑顔は浮かび続けたままだ。そこにはまるで今の男の反応も弱者の抵抗であると愉悦しているような余裕すら見える気がする。その強者が故の寛容に男は未だ気づいていないのだろう。謝った彼を与し易い相手と見たのか、見下した視線を送った。
 
 「まぁ、良い。テメェなら話が早そうだ。おい、そこのエルフを借りるぞ」
 「いやぁ、そういう訳にもいきませんよ、デイビットさん」
 「あぁ?何口答えしてんだ、コラ?」
 
 低俗な脅し文句を口にする彼とは違い、周囲に驚きの空気が広がる。縫い付けられたようにニンゲンから視線が外せないが、きっと周りのほとんどがその言葉の異常さに気づいたのだろう。気づいていないのは恐らく彼の目の前に立ち、顔を覗き込むように威嚇するこの男くらいなものだ。
 
 「いや、口答えなんて誤解ですよ、デイビット・クラウスさん」
 「あ?」
 「私はただ、貴方の為を思って言ってるに過ぎないんですからね。二筋先にあるレストランの一人息子であるデイビットさん」
 「な、なんでお前、俺の事を…」
 「やだなぁ。貴方みたいな有名人を忘れる訳ないじゃないですか。何度か酒場で騒ぎを起こして警備隊に世話になっているデイビットさん。あ、それとも小学生の頃、好きな女の子に告白して振られたのが原因で泣いたデイビットさんって言った方が良いですか?」
 「な、なんでそこまで知ってやがる!!!」
 
 ― ようやく男…デイビットがその言葉の異常さに気づいたが、もう遅い。
 
 そう。この男たちは一度だって自分で名前を名乗ったことがないのだ。それなのにまず初対面であろう相手に名前を知られている事がそもそもおかしい。しかし、酒で判断能力の鈍ったこの男たちにはそれが分からなかったのだろう。まるで詩を読み上げるように流麗にニンゲンの口が動き始めた頃には既にデイビットと呼ばれる男の恥ずかしい過去が一頻り食堂の中で語られた後だった。
 
 「こ、このぉ…っ!」
 「<<やれやれ>>…」
 
 そんなデイビットがニンゲンに掴みかかろうとした瞬間、一瞬でニンゲンが魔術を行使する。元々、用意していたとは言え、その速度は余りにも早い。本職の魔術士にも劣らない速度で風の魔術を展開したハワードの身体はふわりと浮き上がった。そのまま前へと進むデイビットの額に手を当て、カーテンがめくれるようにニンゲンの身体が反転していく。あっという間にデイビットの背中を取った彼は魔術――あまりにも軽い動きから察するに恐らく重量軽減の魔術だろう――を解除し、そのまま無防備な膝に後ろから蹴りを入れた。その一撃を受け、飛びかかろうとした勢いのまま前へと崩れ落ちたデイビットがずさーと床へと滑り込む。そのまま困惑を顔に浮かべて立ち上がろうとするデイビットにニンゲンが後ろから近づき、その右膝をブーツで思いっきり蹴り上げた。
 
 「ぐあぁ…っ!」
 「テメェ…!」
 「おっと、そこまでですよ」
 
 そのままデイビットの背中を床へ押し付けるようにして足を載せたニンゲンに向けて、残り二人が飛びかかろうとした。しかし、それをハワードは手で静止し、自分の制服を指差す。その意図が残り二人にもはっきりと伝わったのだろう。逆上した表情の彼らからはさぁっと面白いように血の気と酒気が引いていく。
 
 「私はこの街を護る警備隊の一員です。その私に飛び掛ってくるということはどういうことか、分かりますね?」
 「う…」
 「今、ウィリアムズさんとカイードさんが動かなければ、しょっぴくのはデイビットさんだけで済むんですがねぇ」
 「お、俺たちの名前まで…」
 
 さっきの恥ずかしい過去を暴露されたデイビットの姿が脳裏に蘇っているのだろう。前のめりになっていた彼らの身体がそっと後ろへと引いた。これだけの人の前でオネショしていた年齢まで暴露されれば普通は恥ずかしくて生きてはいけない。友情とプライド、その二つを天秤に掛けた二人はそのまま後ずさるように店を後にした。
 
 「お、おい!お前ら…!!」
 「やれやれ…友人にも見捨てられちゃいましたね。いやはや、これは可哀想だ。これだけ可哀想な体験はマフィアの方をかつあげしようとして泣いて土下座した時以来じゃないですか?」
 「て、テメェ…!!」
 
 跪いたままの姿勢でギロリとデイビットはニンゲンを見上げた。しかし、それでも彼が立ち上がる気配がない。立ち上がろうとはしているものの、まるで見えない鎖に縛られたように這いつくばったままだ。
 
 「あぁ、動かないほうがいいですよ。右膝の皿、割れてますから。下手に動くと内出血で腫れ上がりますし」
 
 自分で割ったのをあっさりと棚にあげながら、ニンゲンはそう言い放った。そこには一片の慈悲も良心の呵責もない。ただ、淡々と事実を羅列していく平坦な口調があるだけだ。その恐ろしさに今更、気づいたのだろう。蹲ったデイビットの顔から血の気が引いていき、青白い肌を晒した。
 
 「ど、どうする気だ…?」
 「ん?何がです?」
 「だ、だから、俺をどうする気だと聞いてるんだ…?」
 「…あぁ。そうですね。今なら何をしても貴方はろくに抵抗出来ない訳ですし…さっきの無礼の分を今の間に返す事も出来る訳ですよねぇ。しかも、あくまで公務執行範囲内での『仕方のない犠牲』として」
 「う…」
 
 わざと犠牲の部分にアクセントを置いたニンゲンの言葉にデイビットの血の気がさらに引いた。いっそ可哀想になるほどの青ざめっぷりだが、助け舟を出すつもりは私には毛頭ない。途中でニンゲンが乱入してくれたから良かったものの、そうでなかったら私がコイツを吹き飛ばしていた所だ。恥ずかしい過去を暴露された上でこうして脅される事に多少、同情を感じない訳でもないが、それ以上に憎たらしさが勝る。
 
 ― それに…コイツならばきっと…。
 
 「まぁ、何もしませんよ。何かしても私にメリットがあるわけじゃありませんしね」
 「…え?」
 「それにそろそろ優秀なスタッフがこっちに来ますから」
 
 ― その言葉と同時にニンゲンと同じ制服を着た男たちが二人、店の中へと入ってきた。
 
 何時の間にか店側が警備隊へと連絡したのだろう。だが、裏口からそっと抜けだしたにしては尋常ではないほど早い。確かにこの近くに警備隊の詰め所があったが、それでもここから走って五分ほどの距離だ。騒ぎが始まってからどう多く見積もっても十分は経っていないのに、どうやってこの隊員たちを呼んでこれたのか私には分からない。
 
 「…また貴方ですか」
 「どーもどーも。お仕事増やしてすみませんね」
 「…はぁ。良いですけどね。事前に騒ぎを収拾しておいてくれたんですから」
 
 まるで反省していないニンゲンの言葉に男は溜め息を吐きながら、そっとデイビットの方へと近寄った。そのまま一緒にやってきた男と手馴れた様子で抱きかかえる。
 
 「…おや、今日は随分と手加減したんですね。何時もみたいに指を折ったり咽喉を潰したりしてないんですか」
 「やだなー。まるで私が何時も見境なく人体を破壊してるみたいじゃないですか」
 「…毎度毎度、小便垂らして気絶させるほど痛めつけておいて良く言いますよ」
 「犯罪者の人権より被害者や市民の人権を優先すべきでしょう?」
 「相変わらずの詭弁ですね。貴方ほどの実力ならそこまでやらずとも無力化出来るでしょうに」
 
 そう言いながら、脇の男と協力しデイビットを運び始める。何処か疲れたその背中は何度かこうやってニンゲンの後始末をさせられたからなのかもしれない。そのまま給仕のオークと二言三言言葉を交わして、ゆっくりと街へと消えて行く警備隊員の背中を私は申し訳なさと共に見送った。
 
 「さて…と」
 
 店内の視線――勿論、様々な意味での――を集めながらニンゲンはそっと私の前に座った。その顔にはさっきまでのような胸を掴まれるような威圧感はない。それに微かな安堵と言葉に出来ない残念さを感じながら、私はそっと頬杖をついた。
 
 「…で、色々、聞きたい事があるんだが…」
 「なんです?」
 「…どうしてアイツらの事をそこまで詳しく知っていたのかって言う事と、警備隊員の到着時刻を予言できたのかって事だ」
 
 ― そう。それがどうしても分からない。
 
 コイツが顔に似合わず有能であることは私も知っている。だが、それでもあの場でニンゲンが語った内容は信じられない。あの場で彼が語ったのは普通であれば誰にも伏せるであろう苦々しい過去なのだから。さらに言えば、幾らコイツが警備隊員であったとしても早すぎる到着を予見出来るはずがない。
 
 「前者に関しては簡単ですよ。あの連中は以前から細かい騒ぎを起こしていたんで、要注意人物として私にも報告書が回ってきたってだけですよ」
 「…その報告書には個人情報まで書いてあるものなのか?」
 「そこはほら、個人的にちょっと調べて貰った訳でして。何事も備えあれば憂いなしと言いますか」
 
 ― …コイツ、絶対、煽る為に調査を依頼したな。
 
 何度か騒ぎを起こしていたのであれば、この男の手で捕まえられる時もあるかもしれない。その時の為にわざわざニンゲンは彼らの知られたくない過去までを掌握していたのだ。酒で気分が大きくなったにしては随分と手痛い返礼ではあるが、彼らには運が悪かったとして諦めてもらうしか無いだろう。そんな意味を込めた溜息を吐いた瞬間からニンゲンに注がれていた視線は散り、それぞれの喧騒と会話へと戻っていくのを感じる。元の暖かい騒がしさを感じる店内に安堵を抱きながら、私は残った水をそっと煽った。
 
 「後者に関しても、そう難しい説明が要る訳じゃありませんよ。ただ、この店の主人が昔、警備隊に務めていて警備隊での信号魔術も知っている事を調べただけです」
 「…そう聞くとホント、抜かりがないなお前」
 「ふふ、褒め言葉ですよ」
 
 感心半分呆れ半分の気持ちで呟いた私の言葉にニンゲンはその顔を輝かせた。こういった皮肉めいた褒め言葉は素直に受け取れるらしい。普通に褒められるのは苦手な癖にホント、可愛くない性格だと胸中で微笑んだ瞬間、私はふと『それ』に気づいた。
 
 「ん?調べた?お前、さっき警備隊の女の子に教えて貰ったって言ってなかったか?」
 「あ…」
 
 ― 私の言葉にニンゲンの顔が一瞬、素に戻った。
 
 何時もの作り笑いで固まったような表情ではなく、目を少し見開いた演技なしの表情。滅多に見れないその表情に私は疑惑を強め、ニンゲンの顔をじっと見つめた。
 
 「…じぃぃぃぃ」
 「う、嘘じゃありませんよ。教えて貰った後で調べたんですってば」
 「…わざわざ紹介して貰った店の経歴まで調べるほどお前は高給取りだったか?」
 「うぐ…い、いや…給料の話は別に関係ないでしょう」
 
 ― …日頃、給料の低さを嘆いている癖に何を言うか。
 
 勿論、コイツは言うほど冷遇されている訳ではない。中隊長という職は家族数人を養えるのには十分過ぎる金額を街から受け取る事が出来るのだ。しかし、商業都市であるこの街にはそれ以上の高給取りがゴロゴロと存在している。その事を嘆き、愚痴っている姿は――勿論、冗談交じりではあるが――何度も見ているのだ。
 
 ― だからこそ…コイツの発言が私には怪しく思えるのだ。
 
 さっきの三人組の件はコイツの仕事や性格からして嘘ではないのだろう。だが、どれだけニンゲンが用心深い奴でもわざわざ食べに行くだけの店を調べはすまい。この店を知った経緯に嘘か、或いは隠している事があるのはほぼ確実だろう。
 
 「…怪しい」
 「べ、別に良いじゃないですか。貴方に害は無い訳ですし」
 「まぁ…そりゃそうなんだけど…」
 
 しかし、こうして隠し事をされているのは良い気分ではないのだ。勿論、私は別に隠されている事全てを明け透けにして欲しいと要求できるような立場ではない。寧ろ、彼の庇護下に置かれ、ニンゲンの指示に従わなければいけない側である。しかし、そうであると理解していても、信頼している相手に嘘を吐かれたり、隠し事をされるのを良い気分とは思えないのだ。
 
 ― 流石にそれを口に出す事は出来ないが…。
 
 何時かは言わなければいけない言葉であると分かっている。しかし、私はどうにも感謝の言葉をコイツに上手く伝えられない。勿論、信頼しているだなんて恥ずかしすぎて言える訳もなかった。本心を打ち明ける事は出来ないし、ニンゲンの心の中にも踏み込めない。そんな私に出来る事と言えば、適当にこの場を濁して冗談にする事くらいだった
 
 「お前がまた人様に迷惑を掛けていないかと私は心配で」
 「貴方は私を何だと思ってるんですか…」
 「汚いおっさん」
 「んぐっ…!」
 
 ― ストレートな私の言葉にニンゲンは珍しくその頬をひくつかせた。
 
 汚いと言っても、コイツはそれなりに身なりを清潔にしている。毎朝、剃っているヒゲはまるで目立たないし、額にもニキビ一つない。鼻筋にも油は浮かんでおらず、肌にくすみもないニンゲンを30過ぎの男であると見抜けるのは極少数だろう。
 だが、この男はそれをあまり自覚してはいない。ずっと文字通り人外の美しさを誇る魔物に囲まれて生活している所為だろうか。生え際や加齢臭を気にしている無防備で可愛らしい姿をたまに見かける事がある。
 
 「それ…意味が違って聞こえるんで止めて貰えません?」
 「嫌だ。汚いは褒め言葉なんだろう?」
 「…ホント、本来とは別の意味で逞しくなりましたよね貴方」
 
 けれど、それをはっきりと口にしてやるのは恥ずかしく、何より面白くない。そんな私の言葉にニンゲンはこれみよがしに溜息を吐いた。だが、普通であれば何倍にもなって跳ね返ってくる嫌味が今日はない。何時もよりも数段下がったような肩には本当に気落ちしているような色が浮かんでいた。
 
 ― ちょ、ちょっと言いすぎたかな…?
 
 私はあくまで冗談の延直線上――もっと言えば照れ隠しのつもりでしかなかったのである。少なくとも、こうしてコイツを凹ませてやるつもりなどはない。なのに、普段の尊大な様子がまるで感じられないまま、肩を落とすニンゲンの姿に小さくない焦りを覚えた。
 
 ― ま、まぁ…ち、ちょっとくらいは…。
 
 私は普段からコイツにもっと酷いレッテルを張られているのだ。このくらいは十分、仕返しとして許容出来る範囲内だろう。…ま、まぁ、どの道、何時かは素直にならなければいけないのだ。ならば、練習つ・い・で・にコイツを励ましてやるのも良いかもしれない。そう。あくまでついでであって、落ち込んでいるコイツが見たくない訳などではないのだ。
 
 「ま、まぁ、お前がおっさんであるのにあんな大立ち回りをしたのは事実だからな。き、今日は帰って…と、特別に…マッサージをして…やっても……い、良いん…だぞ…?」
 「…え?なんです?」
 
 ― 何度も自分に言い訳してようやく紡いだ私の言葉をニンゲンはそう聞き返した。
 
 私が思考に落ちている間に立ち直ったのだろう。メニューからそっと顔をあげて不思議そうな視線をこちらにくれている。どうやらメニューに夢中で私の提案を聞き逃したらしい。純粋に疑問を浮かべるその表情に私の胸の奥底からふつふつと熱いものが沸き上がってくる。
 
 ― それは煮えたぎる鉄のように熱くて…。
 
 さっきの無礼な三人に対するよりも遥かに熱く、強いそれに私の手はすっと上がった。それに気づいたオークの給仕がとてとてと私たちのテーブルへと近づいてくる。そんな彼女にきっと据わった目を向けながら、私は勢い良く口を開いた。
 
 「エールだ!茹でじゃがだ!軟骨の唐揚だ!!塩漬けの干し肉だ!とにかく山ほど一杯、持って来い!!」
 「は、はいぃ!」
 
 威嚇するような私の注文をしっかりとメモしながら、オークの給仕は怯えを顕にして逃げ帰った。どうやら今の私はよっぽど酷い表情をしているらしい。出来ればニンゲンにそんな顔は見せたくないと思いつつも、一大決心をふいにされた怒りは中々、収まってはくれなかった。
 
 「貴方はあんまりお酒に強くないんですから無理しない方が…」
 「うるさい!誰の所為だと思ってる!!」
 
 正論過ぎるニンゲンの言葉に歯を剥くようにして答えながら、私はドカッと椅子に座りなおした。乱暴なその仕草に彼が何か物言いたげな視線を向けるが、結局、何も言わない。そんな私たちの前にオークの給仕が料理やエールを運び始め、私は怒りの燃料にするようにそれにかじりついていく。
 
 ― それからほんの一時間後に酷い後悔をすることも知らないまま、私は自棄酒と自棄食いを繰り返したのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…うぅ…気持ち悪い」
 「だから、無理するなって言ったんですよ」
 
 人が疎らに歩く石畳の通りで思わず呟いた言葉に私の前にいるニンゲンがそっと答えた。悪酔いしたお陰で頭が冷えたものの、私はそれを素直に受け止める事は出来ない。自業自得なのは私も認める所ではあるが、その原因はどちらかと言えば、聞き逃したコイツの方にあるのだから。
 
 「…恨んでやる…」
 「逆恨みも良い所ですね」
 「それが嫌ならもうちょっとゆっくり歩いてくれ…頭がガンガンする…」
 
 ― そう。今の私はコイツに背負われている形だ。
 
 飲み過ぎて足元が覚束なくなった私を背負って帰れるのはコイツしかいない。それは当然の結論というやつだろう。だが、自分が意図した訳ではない揺れと動きにどうにも対応する事が出来ない。流石に吐くほどではなくとも、気持ち悪くて仕方が無いのだ。
 
 ― それと同時に妙にドキドキして…。
 
 腕だけじゃなく、胸や足などで密着しているからだろうか。鼓動はさっきから収まらず、ドクドクと鼓膜を揺らしていた。酒気とは違う熱が身体の内側で蠢き、風呂にのぼせた時のようなふわふわとした感覚がまとわりついている。さらに私の視界にそっと見えるニンゲンの首筋が妙に色っぽく、そして良い匂いで……――。
 
 ― あぁ…ぺろぺろしたい…♪
 
 犬が主人に甘えるようにその首筋にたっぷりと自分の匂いをつけて、親愛の情を示したい。そして…折角、運んでくれているというのにそんな悪戯をする悪い私を叱って…可愛がって欲しい。首輪を着けて、一杯、意地悪な言葉を囁いて…身体中支配して欲しい。
 
 ― …何を考えているんだ私は…。
 
 酒を飲み過ぎた所為で頭がおかしくなったのだろうか。とりとめなく浮かぶその欲望を私は振り払おうとした。しかし、お腹の奥から湧き上がるドロドロとしたその欲望は中々、消えてはくれない。まるでこうしてニンゲンに密着している事が燃料になっているように、メラメラと勢いを増していっているのだ。
 
 ― 駄目だ…こんなの…駄目だ…。
 
 自分の奥底に眠るドロドロとしたその感情を私は否定した。今までうっすらと気づきつつも、目を背け続けた欲望。それは本来はあってはいけないものだ。それはエルフにとって…だけではない。私が『男』である為に、それは否定しなければいけない欲望なのだ。
 
 ― でも…男である事に固執して…なんの意味があるんだろう…?
 
 ふと浮かんだその問いに私は答える事が出来なかった。だって…私はずっとこうしてコイツの…ハワードの傍に居たいのだから。ずっと一緒に…こうして憎まれ口を叩きながら、一緒に生活したい。そして…たまに危なっかしい面を見せる彼の支えになってやりたいのだ。
 
 ― その欲望に男であるということは障害でしかない。
 
 もし、私が異性であれば…女であれば、コイツと結婚する事が出来る。ずっとハワードの傍にいる事が出来る。だけど、同性であれば…それは出来ない。
 さらに言えば、私が男である必要性など何処にもないのだ。次期支配者として期待されていた頃であればまだしも、今の私は彼に頼る事しか出来ない非力な存在である。過去の縁もしがらみからも見捨てられた今の私に男に固執する理由はない。ならば…彼の性欲を処理するという役立ち方も視野に入る女の方が…私にもコイツにもメリットがあるのではないだろうか?
 
 ― …何を馬鹿なことを考えているんだろうな…。
 
 そもそも変えたいと言った所で性別など変えられるはずがない。ましてや性別が変わった所でコイツと特別な関係になれるとは限らないのだ。無論、今までのような関係でいられなくなるのは確かだが、妙な所で真面目なニンゲンは私を別のところに預けようとする可能性も高いだろう。
 
 ― それは…嫌だ…。
 
 何もかもから見捨てられた私を拾ってくれたのはハワードだ。父親も、友人も、仲間も、何もかも失い、自棄になった私を護ってくれているのは彼なのだ。そんな彼の傍から引き離されるのは…エルフの集落を追い出される時よりも遥かに辛い。想像するだけで咽喉を掻き切って死んだ方がマシだと思う痛みが胸中に走るのだ。
 
 ― それなのに…私の胸はズキズキと疼いて仕方ない。
 
 何処か思春期に味わう成長痛にも似た疼きに私はニンゲンの背中で微かに身動ぎをした。痒みで勃った乳首が彼の背中をこすれ合い、快感とも充実感とも言えない感覚を私にもたらす。何度も何度も求めたくなるそれに本能的に制止をかけた私は変な方向へ進みそうになる思考を変えるために口を開いた。
 
 「…なぁ」
 「なんです?」
 「…なんでお前はこんなに私に良くしてくれるんだ?」
 
 ― それは内心、ずっと疑問だったことだ。
 
 私は初対面の彼に酷い事を言った。それ以降も数えきれないほどの迷惑を掛けてきたのだ。それを反省した今だって…こうして自棄酒を煽り、運んでもらっている。そんな私にどうしてこんなにも優しくしてくれるのか。それはずっと聞きたくて…そして同時に、怖くて聞けなかった事であった。
 
 ― …だって…またどうでも良いなんて言われたら…。
 
 私は一度、ニンゲンに見限られている。その時の絶望感と言えば…筆舌にし難いほどであった。地面が崩れ落ち、何処までも暗い闇の中を落ちて行くような錯覚がずっと続いていたのだから。紆余曲折を経て、今はそこまで悪い印象を持たれていないとは思っているが、もし…また「どうでも良い」なんて言われたら私は本当におかしくなってしまうかもしれない。
 
 ― そう期待と不安で胸を一杯にする私の前でゆっくりとニンゲンが唇を動かし…。
 
 「以前にも少しだけ言いましたけど…最初は貴方にイメージを重ねてただけなんですよ」
 「…お前を助けたっていうエルフの…?」
 「そうです。まぁ、もう顔や声も殆ど覚えてないんですけどね」
 「……」
 
 そう言って自嘲的に笑うニンゲンに私は何と言ってやって良いか分からなかった。彼ではない私にはコイツが一体、どういう心境からそんな自嘲的な境地に至ったのか分からない。さらに言えば、私はその『過去』について完全な部外者だ。何か言える言葉も資格もないだろう。
 
 「後は…昔、エルフにしてもらった事をそのまま貴方に返してやろうと思ったってのは言いましたよね」
 「…うん」
 「それで…まぁ、色々、私達にはあって…一度は喧嘩別れのような形になった訳です」
 「…そう…だな」
 「その後、エイハムに…貴方も世話になってたあの医者に色々と言われましてね。貴方が私に似てる事に気づいたんですよ」
 「似ている…?」
 
 ― …それは信じられない言葉であった。
 
 私とコイツは確かに意地っ張りであるという性格的共通点は持っていると言えるだろう。だが、それ以外は似通っているとは私には到底、思えない。私は弄られる側であるし、コイツは弄る側だ。さらに言えば、私は何時でもニンゲンにおんぶ抱っこで引っ張られて来たのである。今だって…こうして迷惑を掛けているのだ。そんな私が彼と似ているだなんて到底、信じられない。
 
 「細かいことは恥ずかしいんで説明は飛ばしますよ。で…それを自分なりに咀嚼するとですね。まぁ、それほど貴方の生意気さが気にならなくなりまして」
 「…じゃあ、なんで何時も反撃するんだ?」
 「それはそれ。これはこれですから」
 
 キッパリと応えてみせるニンゲンに私は思わず笑みを浮かべた。コイツらしいと言えばらしい言葉に奇妙な喜悦を感じてしまう。一体、それが何なのか自分でも理解出来ない私の前でニンゲンはそっとその声のトーンを落とした。
 
 「まぁ…私は何だかんだ言って貴方に自分を重ねて、優しくして欲しいという欲求を満足させてるのかもしれませんね」
 
 ― それはあまりにも自虐的過ぎる言葉だろう。
 
 確かにそれは一理あるのかもしれない。いや、きっと一理あるだけではなく、正しいのだろう。完全に見返り抜きで誰かに優しく出来るニンゲンなんていない。誰だって自分が優しくして欲しいからこそ、困っている誰かに自分を投影しているからこそ、優しく出来るのだ。
 だが、だからと言って、その優しさが嘘偽りであるだろうか?私はそうは思えない。自分を投影しているからこその優しさ?結構じゃないか。他人の痛みに無関心な奴よりはよっぽど暖かみがあるだろう。
 
 ― だからこそ…私は…。
 
 ぎゅっと腕に力を込めて胸をニンゲンへと押し付ける。勿論、男の私に押し付けるべき乳房などない。しかし、だからこそ、この胸の高鳴りや暖かさがより伝わるのではないか。そんな下らない事を考えながら、私はそっと口を開いた。
 
 「…お前は優しくされたいのか?」
 「されたくないと言えば、嘘になりますね」
 「だったら…私が優しくしてやる」
 「…貴方が?」
 
 ― その声は意外そうな響きに満ちていた。
 
 それも当然だろう。今までどれだけ助けられても、素直にお礼一つ言えなかったのが私なのだ。そんな私が急に優しくするなんて言った所で信じられるはずもない。私だって…本当にやり遂げられるとは思えないのだ。だけど…それでも…――。
 
 「私がお前に優しくして、お前が私に優しくする。そうすれば…どっちが見返りを求めてるかわからなくなるだろう?」
 「…はぁ?」
 「だ、だから…アレだ。卵が先か鶏が先か理論と言うか…どっちもどっちであれば気にならないだろう?」
 
 ― …うわ、なんか急に恥ずかしくなってきた…!
 
 自分で言ってて何を言っているのか分からない。思いついた時には名案だと思ったはずなのにどうしてこんな風になってしまうのか。そう自分を責めたい気持ちすら沸き上がってきてしまう。しかし、もう口にしてしまった以上、逃げる事は出来ない。どれだけ格好悪くても、不恰好でもやりきるしかないのだ。
 
 「だ、だから…私がお前に優しくする代わりにお前はそのままでいろって事だ。い、言わせんな恥ずかしい…」
 「…ふふっ」
 「わ、笑うなぁっ!」
 
 一大決心した私の言葉にニンゲンが小さな笑い声をあげる。それに制止の声をあげつつも、コイツが笑う気持ちが分からないでもなかった。ニンゲンにとっては鴨がネギを背負って歩いてきたようなものなのだから。きっとその胸中ではこれからどう私をからかうか考えているはずだ。
 
 「…ありがとうございますね」
 「…え?」
 
 しかし、彼の口から出たのは私の予想を裏切る素直な言葉だった。それに思わず驚きの声を返す私の目の前でニンゲンの首筋にそっと朱が差し込む。元々、酒気で多少は赤くなっていたが、それでもはっきりと分かるほどその変化は顕著だ。だが、私にとってその変化は信じがたいものであり、何度も見返してしまう。
 
 「…私だってお礼くらい言いますよ」
 「い、いや…そうじゃなくて…」
 
 今までだって少ない数だがお礼を言われた事は少なからずある。勿論、それ以上に素直じゃない言葉を向けられたことが多い訳だが、それでもまったく皆無ではないのだ。だから、驚いているのはその事ではなくて寧ろコイツがこうまではっきりと照れを見せている事で――。
 
 ― …まぁ、あんまり突っ込んでやらない方が良いか。
 
 自分でも出来るとは思わない。だけど、コイツの前ではっきりと優しくすると宣言したのだ。ならば、からかわれていると受け取られるような言動は慎むべきだろう。今一、素直になれない私でもそういう優しさを発揮する事くらいは出来るはずだ。
 
 ― 何はともあれ…まずは…。
 
 「…私、頑張るからな」
 「あんまり期待しないで待ってますよ」
 「それはそれでむかつくぞ…」
 「でも、期待されるとプレッシャーでしょう?」
 「それは…そうなんだけど…妙に納得がいかないぞ」
 
 ― とは言え、本気で期待してない訳じゃないんだろう。
 
 そこにはさっきの落ち込んだ声はない。何時もの様に純粋に私をからかって遊んでいる色があるだけだ。それに拗ねるような気持ちと安堵の感情を同時に抱いてしまう。とは言え、そう悪い気分ではない。何だかんだ言って私もこうしてニンゲンと馬鹿やっているやり取りが好きなのだから。
 
 ― …ん?
 
 そんな私の前に見覚えのある辻が映った。近くの民家から漏れる光でうっすらと照らされたそこはかつて私が住んでいた家の前である。ニンゲンによって提供され…そして私の過ちによって追い出されたそこに今まで近寄る事はなかった。別にそれは避けていた訳などではなく、単純に機会がなかったからなのだが…。
 
 「……」
 「……」
 
 しかし、そのしっかりとした家の前で私たちの会話は途切れてしまう。そこにはさっきまでの明るく、楽しかった雰囲気はない。何処かぎこちないぎくしゃくとした空気が私たちの間に流れていた。その原因はきっと…私が過ちの象徴でもあるその家に身体を強張らせてしまったからなのだろう。
 
 ― 私は……。
 
 私が起こした事件を『過去』の事であると言い切るつもりはない。多くの人に迷惑をかけた私も、今の私も同一人物なのだから。しかし、ニンゲンのお陰である程度は振り払うことが出来たと思っていたのだ。しかし、それはあくまで「思っていた」だけであり、現実に即してはいなかったのだろう。そんな情けない自分に胸中で溜息を吐きながら、私はそっと口を開いた。
 
 「…なぁ、ニンゲン」
 「なんです?」
 「…今度は私の話を聞いてくれるか?情けない…馬鹿げた話なんだが」
 「構いませんよ。って言うか、私だけ恥ずかしい話をさせるなんて不公平じゃないですか」
 「ふふっ…それもそうだな」
 
 ついさっき私は優しくしてくれる理由を聞いたのだ。勿論、それはとても恥ずかしい告白だっただろう。誰だって好き好んで、優しくする理由なんて説明したくはないのだから。しかし、ニンゲンは真摯に私の問いに応えてくれた。ならば…私も自分の恥部を少しくらいは晒しても罰は当たらないだろう。
 
 ― そう自分に言い聞かせながら、私はゆっくりと深呼吸を繰り返し…そして口を開いた。
 
 「…私はな。最初、お前にこの家を紹介された時…見捨てられたと思ったんだ」
 
 ― 思い返すのは初めてこの家を見た時の事。
 
 勿論、もう二度と会わないと事前にニンゲンが言った事から彼が私を暮らすつもりがなかったのは知っていた。だけど…それでも当時の私は微かに期待を抱いていたのである。私を助けてくれたコイツなら…私を叱ってくれたコイツなら、私の傍に居てくれるのかもしれない。見捨てないでいてくれるのかもしれない、と。
 
 ― だけど…ニンゲンと一緒に居たいなんてプライドが認めなかった私はそれを口にしなかった。
 
 きっと一緒に居たいと口にすれば、ニンゲンはそれを叶えてくれたのだろう。冗談で人の事を弄ぶものの、何だかんだでコイツが私の意思を尊重しなかった事はない。唯一、その例外があるとすれば彼が私を見捨てた後――この家から追い出された時だけだ。それ以外ではニンゲンは私の言葉を完全に無碍に扱った事はない。
 
 ― そして…あの時そうしていれば…きっとあんなすれ違いは起こさずに済んだ。
 
 「勿論…今は決してそうじゃないのは知ってる。この家の設備は今の家と殆ど同じで、一人で暮らすには十分過ぎるお金だって振り込まれていた。だけど…当時の私にとって、お前は私を放逐した父親が被って…だから、私は…拗ねて…お前を拒絶した」
 
 ― そう。私は…余りに人間社会について知らなさ過ぎたのだ。
 
 彼の行なってくれたことがどれだけ得難い事であったのか理解せず、私はニンゲンに父親を重ねた。そして、そんな彼の前に立っているのが辛くて、居心地が悪くて…『私』の家に逃げ込んだのである。お陰で私はこの家に備え付けられていた設備が殆ど使いこなせず、辛い生活を始めることになったのだが…それは自業自得という奴だろう。
 
 「それから…食べ物がないことに気づいて…私は怖がりながらも外へ出た。けれど、貨幣経済を知らない私は窃盗と見間違われ…あの事件を引き起こした。それから…お前は何度も私の所へ来てくれたな」
 
 ― 思い返すのは外から何度も呼びかけてくれたコイツの事。
 
 自分の時間を作って、ニンゲンは何度も私の様子を見に来てくれた。見に来て…外から声を掛けてくれた。心配してくれていた。それを…必要な時以外はずっと家の中に篭っていた私は知っている。だけど……――
 
 「…本当は寂しかった。一人は嫌だった。お前に縋りたかった。助けを求めたかった。見捨てないで欲しいと泣き叫びたかった。…だけど、同時に…私はお前にそうやって縋る価値の無い者になってしまったのだと…それだけの事をしてしまったのだと…何処かで気づいていて……だから、私は…またお前を拒絶した」
 
 ― だから…私はコイツを一度も家の中に招き入れなかった。
 
 何度も来てくれていたのを知っているのに、何度も呼びかけてきてくれているのに、私は自分勝手な感傷でそれを拒絶した。自分の内側に篭って…ただひたすら殻に篭っていたのである。それは…それだけで終始すればそう悪い事ではなかっただろう。しかし…そうして殻に篭ったからこそ私は…――
 
 「それから…私は自暴自棄になった。お前すら拒絶した私は…誰にも愛されないんだと…誰にも必要とされないんだと思い込んで…ほんの微かな事でさえ、癇癪を起こすようになった。それは…ドンドンとエスカレートしていって…最後には街の区画まるごと一つを吹き飛ばすような事件を起こした」
 
 ― それは死傷者が出ないのが不思議なくらいの爆発だった。
 
 日々、一人である事に追い詰められ、苦悩していた私はほんの些細な事でも魔術を行使するようになった。勿論、それは私が意識して使っていた訳ではない。周りに魔物が溢れているという状況に防衛本能が過剰に働いた結果なのだろう。しかし、最初はただの反射であったその魔術はまるでストレスを発散するように過激になっていき…最後には一区画丸々一つを瓦礫に変えるほどの威力を得たのだ。
 
 「…でも、その時もお前は助けてくれた。痛かったけれど…苦しかったけれど…お前なりのやり方でリンチされるのを護ってくれた。それが…私は嬉しくて…でも…それはもう手遅れで…」
 
 ― …そう。その時…私はコイツに完全に見放されたのだ。
 
 当然だろう。ずっとコイツが歩み寄りを続けてくれていたのにも関わらず、私はそれを拒絶し続けていたのだ。その上…それを咎めた瞬間に、いきなり被害者面をしたのだから。当時の私には知る由もなかったが、私が起こした事件の処理に追われ続けていたニンゲンが私を見放すのも無理は無い醜態であったと自分でも思う。
 
 「それから…あそこの家を追い出されて…生活する術も失ってから…私はようやく自分がお前に完全に依存しきっていたことに気づいた。でも…今更、お前の前にどんな顔をして現れたらいいのか分からなくて…自分のやった事の醜さを自覚した私は……」
 
 ― そこで私は一旦、言葉を切った。
 
 これから先を告げるには余りにも勇気がいるのだ。下手をすれば自分の心境を吐露するよりも遥かに。私の人生の中で思い返したくない事は数あれど、三指には入るほど言いたくはない言葉なのだ。けれど…一度、話し始めた以上、誤魔化しや嘘は吐けない。そう自分に言い聞かせながら、私はそっと口を開いた。
 
 「…死にたかったんだ。死んで…お前に詫びたかった。…いや、違うな。…死んで…少しはお前に気にして欲しかったんだ。私を見捨てたことを…少しでも覚えておいて欲しかった」
 
 ― それは余りにも醜すぎる感情だ。
 
 ニンゲンの事を下等だと見下していた自分の中にそんな醜い感情があるだなんて今まで想像もしていなかった。そんなドス黒い感情はニンゲンの専売特許であると思っていたのである。けれど…別にそんな事はなかった。寧ろ…私の中に眠っていたのは…下等であるはずのニンゲンよりももっと醜く、醜悪な感情だったのである。
 
 「だから、悪名が広まった私にニンゲンが絡んできたのは私にとって好都合だった。適当に抵抗する振りをして無惨に殺されれば良いと思っていたんだ。勿論…お前にこれ以上、迷惑を掛けたくなかったというのも無関係ではないが…それ以上に…私は…」
 「……」
 
 私の独白にニンゲンは何も言わない。呆れているのか、それとも怒っているのか。背負われている関係上、表情が見えない私にはそれは分からない。それに心の底から不安がふつふつと沸き上がってくる。嫌われてしまったのではないかという不安が私の唇を震わせるが…ここまで来て止める訳にはいかない。
 
 「それで…あの医者に助けられた。寝床を与えられ…食事も与えられた。でも…それでもどうしても満たされなかった。心にぽっかりと穴が空いたように…虚しくて仕方がなかったんだ。でも…それでも…私は食事を拒否する事が出来なかった。お前の言う通り…餓死すら選べなかった…情けない…八つ当たりしか能がないような男だ」
 
 ― 思い返すのは出会った時の事。
 
 助けてくれたお礼も言わず、お節介なことをしたと私はコイツを責め立てた。そんな私にはっきりとニンゲンは八つ当たりであったと断じたのである。当時の私には…それを認めることが出来なかった。ニンゲン如きにどうしてそんな事を言われなければいけないのかと、反発すらしていたのである。けれど…実際に再び死を望む場に至って尚、首を釣る度胸もなかった私は…彼の言葉がコレ以上無く的確であったと認めるしかなかったのだ。
 
 「そんな私の耳に…ある日、お前の声が届いた。その内容まで分からなかったが…それでもエルフの耳にはお前の声が感じ取れたんだ。それに…私は居ても立ってもいられなくなって…お前を追いかけた。そして…お前に会ってどうしたいのか分からないまま飛び出した私は…お前の姿を見て逃げ出した訳だ」
 
 ― それは…どうしてなのかは分からない。
 
 そもそも衝動のまま飛び出したのだ。コイツに謝りたかったのか、それとも縋りたかったのか。それすらも分からないまま私は与えられた部屋から飛び出したのである。そのまま廊下を飛び出した私が言葉を詰まらせたのも仕方のない事だろう。そんな私の気配に気づいたのか、そっと振り返ったコイツに私はどうすれば良いのか分からないまま逃げ出したのである。
 
 「…でも、お前は私を追いかけてきてくれた。そして…また歩み寄ってくれた。だから…私も勇気を持って…お前と一緒に居たいと言えて…だから…私は……お前に…」
 
 ― が、頑張れ…!も、もう少しだ…!
 
 既に数えきれないほどニンゲンは私に歩み寄ってくれている。日々の生活においてもそうだし、今回の件についてもそうだ。だから…私にはそれを伝える義務がある。
 
 ― それは今まで何度も言おうとしてきた言葉だ。
 
 今までは恥ずかしくて、プライドが邪魔して…普段は中々、言えないままだった。だけど…今の酔いが回った今であれば…恥ずかしい過去を暴露した今であれば…言えるかもしれない。いや、言わなければいけない。そう自分を鼓舞しながら、私はそっと唇を開いた。
 
 「……お前に感謝している。お前が居なければ…私は…今ここにはいないだろう。きっとこの街の何処かで…いや、森の中で朽ちていったはずだ」
 
 ― …それは紛れも無い本心だ。
 
 こうして私が笑えているのも、いや、それ以前に私がこうして生きているのも、全てはニンゲンのお陰だ。コイツが私に何度も手を差し伸べてくれたからこそである。彼がいない私など…今の私にはまるで想像もつかない。
 
 「だ、だから……だから、その……あ、ありがとう」
 「…どういたしまして」
 
 私の一大決心と共に放った小さな呟きはニンゲンの短い言葉によって返された。しかし、その短い八文字に様々な感情が込められているのが私には分かる。照れくさくて…嬉しくて…恥ずかしい。それ以上は私には読み取れなかったものの、コイツが私の告白にそう悪い感情を抱いていない事だけは分かった。
 
 ― …やれやれ。ようやく言えた…か。
 
 ずっとずっと言おうと思っていた言葉をようやく口に出来た私は一つ心の重荷が降りたのを感じる。それと同時に…あの時、ニンゲンを初めて拒絶していた時からずっと止まっていた時計が少しずつ動き出したのも。それが…それがどういう意味なのか今の私には分からない。分からないが…きっとそう悪いものじゃないだろう。今の私にはそんな根拠のない確信があった。
 
 ― そんな私たちの前に見慣れた白亜の壁が入ってきて…。
 
 私の…いや、もっと正確に言えば『私たち』の家が見えてきた事で安心したのだろうか。今まで緊張で強張り、不安を広がらせていた私の身体からふっと力が抜ける。それと同時に私の足や腕にしっかりとした感覚が戻ってくるのが分かった。何だかんだ言って酔いも大分、抜けたのだろう。今の状態であれば自分の足で歩くのも不可能ではないはずだ。
 
 ― 少し…名残惜しいけど…。
 
 こうして『不可抗力』と自分に言い訳しながらコイツに抱きつける機会などそうありはしない。その数少ない機会を出来るだけ甘受したいと思ってしまうのは当然のことだろう。しかし、このまま背負われ続けるのはニンゲンにとっても負担のはずだ。ここはあまり我侭を言わず、早めに降りてやるのが一番だろう。
 
 「…ん。もう酔いも大分覚めたから、下ろして大丈夫だぞ」
 「本当に大丈夫ですか?無理してません?」
 「無理などするものか。それに…まぁ…無理だったらお前が助けてくれるだろう?」
 「いや、捨て置きますよ、面倒ですし」
 「ふふっ…まぁ、そういうことにしておいてやる」
 
 ― 本当に捨て置けるような奴であれば、私を背負ってここまで運ばないだろうしな。
 
 口調こそぶっきらぼうで厭味ったらしいが、本当に私が困っていたらコイツは必ず助けてくれる。その信頼感と共に私はそっと地面へと降り立った。数十分ぶりの自分の足で歩く感覚に微かな戸惑いを覚えながら、私は確かめるように一歩二歩と歩く。自分でも思っていた以上にしっかりとしたその足取りに安堵しながら、私はニンゲンの大きな背中をそっと追い越した。
 
 「あんまりはしゃぐと転びますよ」
 「ふふん。子どもじゃないんだからそんな訳ないだろう?」
 「知ってます?そういう発言ってフラグって言うんですよ」
 
 ― フラグ?
 
 良くは分からないが、ニンゲンの口調から察するにそれは良くないものらしい。出来ればそんなものに関わりたくはないと思うので、私の足はそっと速度を緩めた。自然、私の肩が彼の横へと並び、同じ速度で歩いて行く。
 
 ― ま、まるで恋人同士…みたいだな。
 
 普段はニンゲンの後ろをちょこちょこと着いていくので横に並び立った経験というのは存外に少ない。慣れない立ち位置の所為かドキドキしてしまう自分に微かな戸惑いを覚えながら、私は我が家の塀を通り過ぎる。そのままポケットから鍵を取り出して、扉を開こうとするニンゲンの背中を見ながら、私はふとさっきの台詞を思い出した。
 
 ― そう言えば…優しくするって言ったっけか…。
 
 その方針はまだ決まっていなかった。でも、やっぱり基本は相手がやって欲しいである事をするべきだろう。しかし、残念ながら今までのそれなりに長く一緒に生活してきたがコイツがやって欲しい事と言うのは思いつかない。
 
 ― だけど…ニンゲンは何時も帰ってすぐにコーヒーを淹れようとする。
 
 ならば、それを私がやるのも良いのではないだろうか?勿論、初心者である私は最初は失敗するだろう。しかし、あんな苦い液体を嬉々として飲んでいるニンゲンだ。多少、失敗した所で飲めない訳がない…と思う。
 
 ― まぁ、最悪、私が飲めば良い訳だし。
 
 そう自分の中で結論を出した私の前でゆっくりと我が家の扉が開いていく。その中に滑りこむように入り込みながら、私はどう言ってコイツからコーヒーの淹れ方を学ぼうか、思考を張り巡らせるのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:25更新 / デュラハンの婿
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腐りかけっておいしいよね^q^

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