第2部 (第5章)
――1人で生きるのは、寂しい
――2人で生きるのは、苦しい
ざくり、ざくりと足が木の枝や木の葉を踏む。足元の茶色い土の間から覗いた緑の葉を踏まないように山道を登り続ける。
普段から人通りが少ないであろう山は、ほぼ道というものは無い。
「アリサちゃん。大丈夫?なんなら今からでも飛ぶ?」
アリサの前を行くイリアが、歩みを止めずに振り返って聞いた。今は種族の特徴である角や翼は隠され、傍目には人間の女にしか見えない。
そう聞いてきたイリアに、アリサは白い面を左右に振ることで答えた。今のアリサの顔はいつもより一層白く、いっそ蒼白と言っても良いくらいだった。翼や角もイリアのように仕舞われておらず、尻尾も力なく地面を向いている。
「飛ぶのはもういいです………」
飛行中の体験の数々を思い出し、アリサは小さく身震いした。その様子を背中ごしに見てとったイリアは、苦笑しつつ続ける。
「アリサちゃんがへこんでるから、鳥の気分を味わわせてあげたかったのに」
飛ぶのって慣れれば気持ちいいのよ?とアリサに笑いかけるのだが、もともと人間であったアリサにその感性は伝わらない。帰ってくるのは恐怖の色を宿した返事だ。
「鳥ではなく星になるところでした………」
実際、アリサは墜落しかけているのでその言葉はあながち嘘でもない。その時はイリアが助けたのだが、1人で飛ぶのはやはり無謀だと言える。
そのような問答を続けながらも、2人は着実に山道を登って行く。すでに景色は森のようなそれではなく、木々もまばらな険しい山のそれだ。
足元も不確かなごつごつした岩場を、イリアは大した苦もなく上って行く。アリサも長い白髪と、同じ色のワンピースを揺らして後に続く。肩の上下に合わせて背の翼は小さくはためき、尻尾は揺れた。
「まあ、飛ぶのはおいおい慣れればいいわ」
そう言ったのを最後に、アリサに笑いかけたイリアは前を向き、黙々と先へ進む。その背中に、アリサはイリアの優しさを感じた。
しばらく無言で進んだ2人は、誰ともすれ違うことなく山を登り続けた。木々の姿が全く見えなく見えなくなったころ、アリサはふと、疑問に感じたことを聞いてみた。
「そう言えば、山のふもとの村の人が気になることを言っていたのですが……」
唐突に口を開いたアリサに、イリアは不敵に笑いながら答える。
「それって、この山に巣くう凶暴なドラゴンのことでしょう?」
まさに自分の考えていたことを言ってのけたイリアに、アリサは訝しげな視線を投げかける。
それを受けてなお、イリアの不敵な態度は変わらない。
「なぜ、それを知っていて………?ドラゴンに見つかれば危険ではないのですか?」
アリサの懸念はもっともだ。ドラゴンは縄張り意識が強く、自らの縄張りに入るものを決して許しはしない。
しかし、それはあくまでも一般的な認識だ。本物のドラゴンを知るイリアからしてみれば、それは教会が勝手に決め付けた偽物の影にすぎない。
それを、綺麗な髪や夜色の翼を揺らしながら一生懸命に語るアリサの姿はかなり愛らしい。
「いいの。私達はそのドラゴンに会いに来てるから」
「へぇ………って、ええ!?」
アリサは目を丸くして聞き返す。まだ人間だったころの記憶を多く持つアリサにしてみれば、ドラゴンの巣というのは危険地帯に他ならない。
自らの常識に則って、アリサは村で聞いたことをイリアに伝える。
「駄目ですよ!この山のドラゴンはとても凶暴で危険だって、ふもとの村の人が言ってました!」
アリサの必死な説得に、イリアは額に手を当てて力なく笑った。アリサの必死さの原因が、イリアにもようやく分かった。
ざわざわと風が吹き、からからと軽い石が転がる。
「あー、そうね。ナータは排他的だから……。なぜか村の連中に酷く嫌われてるし………」
そう言った瞬間、イリアは素早く左に跳んだ。一拍後、イリアが元いた地面が爆音と共に砕け散る。それと同時に、もうもうと土煙が上がった。砕け散った石があたりを襲う。
「―――!」
突然の出来事に、全く反応出来なかったアリサが、やや遅れて身をかがめる。隣ではイリアが角や翼をあらわにし、その豊満な体に燐光を纏っている。体の前には巨大な魔法陣が展開し、アリサとイリアを襲うはずだった石片を空中で受け止めていた。しかし、その盾では受け止められない衝撃波があたりを叩く。
「排他的で悪かったな!」
土煙の中から女の声がし、羽ばたきの音と共に立ちこめていた土煙がなぎ払われる。一瞬で晴れた土煙の中には、自らが巻き起こした風に髪を舞わせながら腰に手を当てたドラゴンが立っていた。その表情には、余裕と共に笑みが浮かんでいる。
その顔を確認したイリアはシールドとして張った魔法陣を解し、石片の戒めを解く。不自然に空中に拘束されていた石がばらばらと地面に転がる。
「普通、いきなり蹴るかしら?」
イリアが言う。その手は未だに魔力の光を宿しており、いつでも陣を張れる状態だ。
その言葉に、アリサは愕然とする。目の前のドラゴンが立つ地面は、大規模な魔法の直撃を受けたような有り様になっている。それを巻き起こしたのはただの蹴撃だというのだ。その反応は当然と言える。だが、それよりもアリサの目に異常に映ったのはそれを回避し、アリサさえ攻撃の余波から守りきったイリアの方だったのかもしれない。
「ああ、蹴るね。どうせお前に当たりっこないんだ」
ドラゴンは不敵な態度を崩さずに言う。それに対し、イリアは肩をすくめて答える。一連の展開に、アリサはずっとおいてけぼりだった。
「当たったらただじゃ済まないって言うの………まったく」
そう言いつつも、警戒の構えを解いた両者の間には、まるで久しぶりに再会した友人のような雰囲気があった。
「で、お前が私に会いに来たということは、なにかあったのか?あの“町”で」
山頂での出来事の後、ドラゴン――ナターシアの棲む洞窟に案内された2人は、やたらに家具の多い一室でナターシアと向き合っていた。2人の前にはお茶を注いだカップがあり、もうもうと湯気を上げている。
アリサはこのような洞窟が珍しいのか、あちこちを興味深げに見回している。
そして、イリアはその問いに対し、
「いや、“町”では何も起きてないわ。ここにはついでに寄っただけ」
テーブルに肘をついて、うだーっとしたまま答える。しかし、なにか思い出したように細い人差し指をぴっと立て、ふるふると振った。
「そう言えば、ナンブ砦の攻城が近いみたいよ?」
そう言ったイリアに対し、ナターシアは唇の端をついっと持ち上げて笑うという、なにやら自身に満ち溢れた表情をつくった。
その表情を見て取ったイリアは、首をかしげて問いかける。
「ん?なにが可笑しいの?」
くくくと笑い声を洩らしながら、ナターシアはイリアの問いに答えた。
「もう戦場通いは終わりだ」
ナターシアは自分の理想の相手を見つけるため、度々戦場に出向いては戦士に勝負をしかけたりしていたのだが、その悪癖がようやく治ったのか、とイリアは安堵する。
しかし、治ったとなるとその原因が気なる。
「そりゃまたどうして?もしかして結婚しちゃった?」
このドラゴンのお眼鏡にかなう相手がそうそういるはずもないが、と思って聞いてみると、ナターシアはかすかに頬を染めてうつむいた。
「いや………まだだが」
それっきりもじもじとしているナターシアに、
「ははあ、惚れたね?」
イリアが声をかける。その言葉に過敏なほどの反応を示したナターシアは、イスを蹴倒すようにして立ち上がり、頬を真っ赤に染めながらなにかを叫ぼうとし、寸前で思い留まって再びイスに座りなおした。そのまま、もじもじと指をいじりだす。
「………うん」
その後しばらくしてナターシアがそう言った時には、すでにイリアとアリサの前に出されたお茶はすっかり冷めきっていた。
「そうかー、このままずっと独身だと思ってたナータさんにもついに春が来たかー」
そう言ってイリアはイスの上で大きく伸びをし、背もたれに体重を預ける。
その隣ではアリサが冷めきったお茶を飲み干し、足をぶらぶらさせていた。
「お、お前に頼みごとがあるんだが……」
さっきからずっともじもじしっぱなしのナターシアが、上目づかいでイリアを見る。上気した頬といい、イリアには若干目に毒な光景だったものの、なんとかそれを顔には出さずに続きを促す。
「…………よ、夜、どうすれば彼を喜ばせられるかな……?」
そのセリフに、イリアよりも先にアリサが反応した。どうやらこっちの会話もしっかり聞いていたらしく、白い頬を真っ赤に上気させ、そっぽを向く。もちろんイリアも無事では済まず、頬が熱くなるのを感じた。
イリア達の反応を見て余計に恥ずかしくなったのか、ナターシアは強靭な鱗におおわれた腕で自らの顔を隠し、あわあわと言葉にならない何かを口から洩らす。
そんなナターシアの反応と先のセリフを聞いて、イリアは動転しつつも言葉を紡ぐ。
「もう、その……やってみた?」
うわぁ恥ずかしい。
イリアは自らが吐いたセリフの内容に身悶えしたくなる衝動を殺しながら、平静を装って返事を待つ。まあ、ナターシアがこの調子では結果は聞くまでもないが……
「……うん。やった」
しかし、返ってきた答えはイリアの予想外の答えだった。思わず目の前の友人の顔を凝視してしまう。
「……どうだった?」
キャパシティを超えそうになる羞恥心を必死でなだめつつ、友人に対し問いかける。この際、顔に出てしまうのは仕方がない。
男相手ならばこのような羞恥を感じることもないのに、この場でこれほど赤くなってしまうのは、相手が友人だからだろうか?それとも同じ女だからだろうか?
「……それを私に答えさせるのか?」
「……………」
そのまま、全員揃って赤面し下を向く。洞窟の中に異常な空気が満ちた。天井からぶら下がる鍾乳石から滴るしずくだけが、不安定に時と波紋を刻んでゆく。
数分の間を挟んだ後、その空気を打破しようと口を開いたのは、なんとアリサだった。内気な彼女からすればそれはとても珍しいことで、イリアはそれを複雑な気持ちで聞いた。
「………ナターシアさんが認めるなんて、そのお相手の方はとても強いのですね」
その発言にはイリアだけでなくナターシアも虚を突かれたらしく、一瞬きょとんとした表情を作った後、ややつっかえながらも答える。
「あ、ああ。彼はとても強かったぞ。私も力には相当の自信があったが………」
「………その方の名前は、何というのですか?」
なおも問いを重ねるアリサ。その静かだが良く通る声は、深い洞窟に吸い込まれることなく相手の耳に届く。
「フルネームは知らないが、アル、と名乗っていた」
唐突な真実。それは達人の操る槍の穂先のごとくアリサの隙を穿ち、思考を停止させた。その余波はイリアにも襲い来る。
思わずイスから立ち上がり、目を見開いて驚愕するアリサと、立ち上がりこそしていないものの、同じく動揺の色を瞳に浮かべたイリア。両者に見つめられ、ナターシアは訝しげな表情を浮かべる。
「なんだ?知り合いか?」
「………ええ」
アリサはなんとかそれだけ答えると、目の端に涙を浮かべながらイスに座りなおす。その瞳に浮かんだ涙が、喜びから来るものなのか、別の感情から来るものなのかも今の彼女には分からなかった。
しかし、ナターシアも唐突に涙を流したアリサを見て困惑する。
「……どうして泣く?」
怜悧な美貌をかすかにゆがめ、困惑した表情でナターシアは問いかける。しかし、その問いに返ってきたものもまた、問いだった。
「……彼はいつごろここを訪れましたか?」
涙を流しつつも、こちらの目から視線を一切そらさずに問いかけてくるアリサの赤い瞳に圧されたナターシアは、記憶をたどってその答えを導き出す。
「一月ほど前だ……それから彼は南の方角へ去って行った」
ここから南の方角。アルとアリサの故郷の村とは逆の方角。
それを聞いたアリサは、アルの目的を確信した。安堵と共に、今まで封じられていた疲れがどっとこみあげてきてアリサを襲う。
「彼は……彼は幼馴染を探して旅をしていると言っていた。それは――」
ばたり。喋っていたナターシアの目の前で、いきなり目の前の少女が机に突っ伏す。本来ならばその衝撃でカップが倒れたりするところだが、その衝撃は異常なまでに少なかった。それほどまでに目の前の少女は軽いのだ。
いきなりアリサが倒れたことで、今まで会話から置いてきぼりだったイリアもあたふたと動きだす。
「ちょ、アリサちゃん!?大丈夫!?」
静かだった洞窟が、にわかに慌ただしくなった。
「今までの疲れが出ただけみたい。一晩寝れば良くなるわ」
「……そうか」
洞窟の奥、今は即席ベッドが設置されている空き部屋からイリアが歩いてくる。それを、ナターシアは酒瓶ごしに見つける。すでにかなりの量を開けているが、ナターシアが酔うことは無い。
イリアはナターシアの向かいに腰掛けると、中身が残っている瓶に直接口をつけ、あおった。決して弱くない酒を喉を鳴らして飲み、飲み終え、空になった瓶をテーブルに置く。
「………泣いていいのよ?ナターシア」
そのセリフに、やっと苦労して押し込めたはずの涙が再び溢れそうになって、ナターシアはごしごしと目元をこすった。しかし、それでも止まらない熱いしずくがぱたりとテーブルに落ちる。すぐにテーブルの木に吸い込まれて消えたそれを眺めているうちに、次々と熱い感情のかけらが目からこぼれおちる。
気が付けば、涙で震える声で、喋りだしていた。
「頭じゃ解ってたんだ……っ。アルには大事な人がちゃんといるって……」
一度決壊した堤防は、もはや水の流れを妨げることもなくただ外に流してゆく。酒瓶が乱立するテーブルで、イリアは肘をついて頭を抱えながら泣く友人の頭を撫でた。
友人の手の感触を感じ、時折、涙で言葉を滲ませながらナターシアは続ける。
「さっきのあの白い娘………アルとおんなじ眼をしてた。だから………本当は最初から全部解ってた…」
決して叶わぬと知った恋。それは凶器となってナターシアをずたずたに切り裂く。
たとえアリサがいても、アルを愛し続ける自信が、ナターシアにはあった。さっきまでは。
しかし、あんな眼をした2人を知ってしまえば、そんな自信などいとも簡単に砕け散る。
彼らの瞳の中に映っていたものは、ある種の狂気だった。それほどまで激しく狂おしい慕情が、その瞳には宿っていた。
「あんなの……あんなのないよぉ……ッ!!私だってアルが、アルが好き、なのに………!!」
あの絆に、とうやって刃向かえというのだろう?
あの、狂気と激情に彩られた、極上の愛情に。
そんなナターシアの内心を見透かしたように、イリアが言う。
「明日、私達はナンブ砦に行くわ。あなたも来なさい。そこに、答えが待ってる」
それだけ言うと、イリアは手近な酒瓶を手に取り、中身を飲み干す。そして、洞窟の奥へと消えて行った。
テーブルに1人取り残されたナターシアは、その後しばらく泣き続けた。この日ほど、酔えない自分の体を恨めしく思ったことは無かった。
翌朝、山から3つの人影が飛び立った。ひとつは、最愛の人物を求めて。もうひとつは、同行人の成長を見守るべく。そして、最後のひとつは、自分の気持ちに決着をつけるため。
2人が別れた時に、同時に袂を別ったそれぞれの時間は、再び交錯点へ向かって動き出す――
――2人で生きるのは、苦しい
ざくり、ざくりと足が木の枝や木の葉を踏む。足元の茶色い土の間から覗いた緑の葉を踏まないように山道を登り続ける。
普段から人通りが少ないであろう山は、ほぼ道というものは無い。
「アリサちゃん。大丈夫?なんなら今からでも飛ぶ?」
アリサの前を行くイリアが、歩みを止めずに振り返って聞いた。今は種族の特徴である角や翼は隠され、傍目には人間の女にしか見えない。
そう聞いてきたイリアに、アリサは白い面を左右に振ることで答えた。今のアリサの顔はいつもより一層白く、いっそ蒼白と言っても良いくらいだった。翼や角もイリアのように仕舞われておらず、尻尾も力なく地面を向いている。
「飛ぶのはもういいです………」
飛行中の体験の数々を思い出し、アリサは小さく身震いした。その様子を背中ごしに見てとったイリアは、苦笑しつつ続ける。
「アリサちゃんがへこんでるから、鳥の気分を味わわせてあげたかったのに」
飛ぶのって慣れれば気持ちいいのよ?とアリサに笑いかけるのだが、もともと人間であったアリサにその感性は伝わらない。帰ってくるのは恐怖の色を宿した返事だ。
「鳥ではなく星になるところでした………」
実際、アリサは墜落しかけているのでその言葉はあながち嘘でもない。その時はイリアが助けたのだが、1人で飛ぶのはやはり無謀だと言える。
そのような問答を続けながらも、2人は着実に山道を登って行く。すでに景色は森のようなそれではなく、木々もまばらな険しい山のそれだ。
足元も不確かなごつごつした岩場を、イリアは大した苦もなく上って行く。アリサも長い白髪と、同じ色のワンピースを揺らして後に続く。肩の上下に合わせて背の翼は小さくはためき、尻尾は揺れた。
「まあ、飛ぶのはおいおい慣れればいいわ」
そう言ったのを最後に、アリサに笑いかけたイリアは前を向き、黙々と先へ進む。その背中に、アリサはイリアの優しさを感じた。
しばらく無言で進んだ2人は、誰ともすれ違うことなく山を登り続けた。木々の姿が全く見えなく見えなくなったころ、アリサはふと、疑問に感じたことを聞いてみた。
「そう言えば、山のふもとの村の人が気になることを言っていたのですが……」
唐突に口を開いたアリサに、イリアは不敵に笑いながら答える。
「それって、この山に巣くう凶暴なドラゴンのことでしょう?」
まさに自分の考えていたことを言ってのけたイリアに、アリサは訝しげな視線を投げかける。
それを受けてなお、イリアの不敵な態度は変わらない。
「なぜ、それを知っていて………?ドラゴンに見つかれば危険ではないのですか?」
アリサの懸念はもっともだ。ドラゴンは縄張り意識が強く、自らの縄張りに入るものを決して許しはしない。
しかし、それはあくまでも一般的な認識だ。本物のドラゴンを知るイリアからしてみれば、それは教会が勝手に決め付けた偽物の影にすぎない。
それを、綺麗な髪や夜色の翼を揺らしながら一生懸命に語るアリサの姿はかなり愛らしい。
「いいの。私達はそのドラゴンに会いに来てるから」
「へぇ………って、ええ!?」
アリサは目を丸くして聞き返す。まだ人間だったころの記憶を多く持つアリサにしてみれば、ドラゴンの巣というのは危険地帯に他ならない。
自らの常識に則って、アリサは村で聞いたことをイリアに伝える。
「駄目ですよ!この山のドラゴンはとても凶暴で危険だって、ふもとの村の人が言ってました!」
アリサの必死な説得に、イリアは額に手を当てて力なく笑った。アリサの必死さの原因が、イリアにもようやく分かった。
ざわざわと風が吹き、からからと軽い石が転がる。
「あー、そうね。ナータは排他的だから……。なぜか村の連中に酷く嫌われてるし………」
そう言った瞬間、イリアは素早く左に跳んだ。一拍後、イリアが元いた地面が爆音と共に砕け散る。それと同時に、もうもうと土煙が上がった。砕け散った石があたりを襲う。
「―――!」
突然の出来事に、全く反応出来なかったアリサが、やや遅れて身をかがめる。隣ではイリアが角や翼をあらわにし、その豊満な体に燐光を纏っている。体の前には巨大な魔法陣が展開し、アリサとイリアを襲うはずだった石片を空中で受け止めていた。しかし、その盾では受け止められない衝撃波があたりを叩く。
「排他的で悪かったな!」
土煙の中から女の声がし、羽ばたきの音と共に立ちこめていた土煙がなぎ払われる。一瞬で晴れた土煙の中には、自らが巻き起こした風に髪を舞わせながら腰に手を当てたドラゴンが立っていた。その表情には、余裕と共に笑みが浮かんでいる。
その顔を確認したイリアはシールドとして張った魔法陣を解し、石片の戒めを解く。不自然に空中に拘束されていた石がばらばらと地面に転がる。
「普通、いきなり蹴るかしら?」
イリアが言う。その手は未だに魔力の光を宿しており、いつでも陣を張れる状態だ。
その言葉に、アリサは愕然とする。目の前のドラゴンが立つ地面は、大規模な魔法の直撃を受けたような有り様になっている。それを巻き起こしたのはただの蹴撃だというのだ。その反応は当然と言える。だが、それよりもアリサの目に異常に映ったのはそれを回避し、アリサさえ攻撃の余波から守りきったイリアの方だったのかもしれない。
「ああ、蹴るね。どうせお前に当たりっこないんだ」
ドラゴンは不敵な態度を崩さずに言う。それに対し、イリアは肩をすくめて答える。一連の展開に、アリサはずっとおいてけぼりだった。
「当たったらただじゃ済まないって言うの………まったく」
そう言いつつも、警戒の構えを解いた両者の間には、まるで久しぶりに再会した友人のような雰囲気があった。
「で、お前が私に会いに来たということは、なにかあったのか?あの“町”で」
山頂での出来事の後、ドラゴン――ナターシアの棲む洞窟に案内された2人は、やたらに家具の多い一室でナターシアと向き合っていた。2人の前にはお茶を注いだカップがあり、もうもうと湯気を上げている。
アリサはこのような洞窟が珍しいのか、あちこちを興味深げに見回している。
そして、イリアはその問いに対し、
「いや、“町”では何も起きてないわ。ここにはついでに寄っただけ」
テーブルに肘をついて、うだーっとしたまま答える。しかし、なにか思い出したように細い人差し指をぴっと立て、ふるふると振った。
「そう言えば、ナンブ砦の攻城が近いみたいよ?」
そう言ったイリアに対し、ナターシアは唇の端をついっと持ち上げて笑うという、なにやら自身に満ち溢れた表情をつくった。
その表情を見て取ったイリアは、首をかしげて問いかける。
「ん?なにが可笑しいの?」
くくくと笑い声を洩らしながら、ナターシアはイリアの問いに答えた。
「もう戦場通いは終わりだ」
ナターシアは自分の理想の相手を見つけるため、度々戦場に出向いては戦士に勝負をしかけたりしていたのだが、その悪癖がようやく治ったのか、とイリアは安堵する。
しかし、治ったとなるとその原因が気なる。
「そりゃまたどうして?もしかして結婚しちゃった?」
このドラゴンのお眼鏡にかなう相手がそうそういるはずもないが、と思って聞いてみると、ナターシアはかすかに頬を染めてうつむいた。
「いや………まだだが」
それっきりもじもじとしているナターシアに、
「ははあ、惚れたね?」
イリアが声をかける。その言葉に過敏なほどの反応を示したナターシアは、イスを蹴倒すようにして立ち上がり、頬を真っ赤に染めながらなにかを叫ぼうとし、寸前で思い留まって再びイスに座りなおした。そのまま、もじもじと指をいじりだす。
「………うん」
その後しばらくしてナターシアがそう言った時には、すでにイリアとアリサの前に出されたお茶はすっかり冷めきっていた。
「そうかー、このままずっと独身だと思ってたナータさんにもついに春が来たかー」
そう言ってイリアはイスの上で大きく伸びをし、背もたれに体重を預ける。
その隣ではアリサが冷めきったお茶を飲み干し、足をぶらぶらさせていた。
「お、お前に頼みごとがあるんだが……」
さっきからずっともじもじしっぱなしのナターシアが、上目づかいでイリアを見る。上気した頬といい、イリアには若干目に毒な光景だったものの、なんとかそれを顔には出さずに続きを促す。
「…………よ、夜、どうすれば彼を喜ばせられるかな……?」
そのセリフに、イリアよりも先にアリサが反応した。どうやらこっちの会話もしっかり聞いていたらしく、白い頬を真っ赤に上気させ、そっぽを向く。もちろんイリアも無事では済まず、頬が熱くなるのを感じた。
イリア達の反応を見て余計に恥ずかしくなったのか、ナターシアは強靭な鱗におおわれた腕で自らの顔を隠し、あわあわと言葉にならない何かを口から洩らす。
そんなナターシアの反応と先のセリフを聞いて、イリアは動転しつつも言葉を紡ぐ。
「もう、その……やってみた?」
うわぁ恥ずかしい。
イリアは自らが吐いたセリフの内容に身悶えしたくなる衝動を殺しながら、平静を装って返事を待つ。まあ、ナターシアがこの調子では結果は聞くまでもないが……
「……うん。やった」
しかし、返ってきた答えはイリアの予想外の答えだった。思わず目の前の友人の顔を凝視してしまう。
「……どうだった?」
キャパシティを超えそうになる羞恥心を必死でなだめつつ、友人に対し問いかける。この際、顔に出てしまうのは仕方がない。
男相手ならばこのような羞恥を感じることもないのに、この場でこれほど赤くなってしまうのは、相手が友人だからだろうか?それとも同じ女だからだろうか?
「……それを私に答えさせるのか?」
「……………」
そのまま、全員揃って赤面し下を向く。洞窟の中に異常な空気が満ちた。天井からぶら下がる鍾乳石から滴るしずくだけが、不安定に時と波紋を刻んでゆく。
数分の間を挟んだ後、その空気を打破しようと口を開いたのは、なんとアリサだった。内気な彼女からすればそれはとても珍しいことで、イリアはそれを複雑な気持ちで聞いた。
「………ナターシアさんが認めるなんて、そのお相手の方はとても強いのですね」
その発言にはイリアだけでなくナターシアも虚を突かれたらしく、一瞬きょとんとした表情を作った後、ややつっかえながらも答える。
「あ、ああ。彼はとても強かったぞ。私も力には相当の自信があったが………」
「………その方の名前は、何というのですか?」
なおも問いを重ねるアリサ。その静かだが良く通る声は、深い洞窟に吸い込まれることなく相手の耳に届く。
「フルネームは知らないが、アル、と名乗っていた」
唐突な真実。それは達人の操る槍の穂先のごとくアリサの隙を穿ち、思考を停止させた。その余波はイリアにも襲い来る。
思わずイスから立ち上がり、目を見開いて驚愕するアリサと、立ち上がりこそしていないものの、同じく動揺の色を瞳に浮かべたイリア。両者に見つめられ、ナターシアは訝しげな表情を浮かべる。
「なんだ?知り合いか?」
「………ええ」
アリサはなんとかそれだけ答えると、目の端に涙を浮かべながらイスに座りなおす。その瞳に浮かんだ涙が、喜びから来るものなのか、別の感情から来るものなのかも今の彼女には分からなかった。
しかし、ナターシアも唐突に涙を流したアリサを見て困惑する。
「……どうして泣く?」
怜悧な美貌をかすかにゆがめ、困惑した表情でナターシアは問いかける。しかし、その問いに返ってきたものもまた、問いだった。
「……彼はいつごろここを訪れましたか?」
涙を流しつつも、こちらの目から視線を一切そらさずに問いかけてくるアリサの赤い瞳に圧されたナターシアは、記憶をたどってその答えを導き出す。
「一月ほど前だ……それから彼は南の方角へ去って行った」
ここから南の方角。アルとアリサの故郷の村とは逆の方角。
それを聞いたアリサは、アルの目的を確信した。安堵と共に、今まで封じられていた疲れがどっとこみあげてきてアリサを襲う。
「彼は……彼は幼馴染を探して旅をしていると言っていた。それは――」
ばたり。喋っていたナターシアの目の前で、いきなり目の前の少女が机に突っ伏す。本来ならばその衝撃でカップが倒れたりするところだが、その衝撃は異常なまでに少なかった。それほどまでに目の前の少女は軽いのだ。
いきなりアリサが倒れたことで、今まで会話から置いてきぼりだったイリアもあたふたと動きだす。
「ちょ、アリサちゃん!?大丈夫!?」
静かだった洞窟が、にわかに慌ただしくなった。
「今までの疲れが出ただけみたい。一晩寝れば良くなるわ」
「……そうか」
洞窟の奥、今は即席ベッドが設置されている空き部屋からイリアが歩いてくる。それを、ナターシアは酒瓶ごしに見つける。すでにかなりの量を開けているが、ナターシアが酔うことは無い。
イリアはナターシアの向かいに腰掛けると、中身が残っている瓶に直接口をつけ、あおった。決して弱くない酒を喉を鳴らして飲み、飲み終え、空になった瓶をテーブルに置く。
「………泣いていいのよ?ナターシア」
そのセリフに、やっと苦労して押し込めたはずの涙が再び溢れそうになって、ナターシアはごしごしと目元をこすった。しかし、それでも止まらない熱いしずくがぱたりとテーブルに落ちる。すぐにテーブルの木に吸い込まれて消えたそれを眺めているうちに、次々と熱い感情のかけらが目からこぼれおちる。
気が付けば、涙で震える声で、喋りだしていた。
「頭じゃ解ってたんだ……っ。アルには大事な人がちゃんといるって……」
一度決壊した堤防は、もはや水の流れを妨げることもなくただ外に流してゆく。酒瓶が乱立するテーブルで、イリアは肘をついて頭を抱えながら泣く友人の頭を撫でた。
友人の手の感触を感じ、時折、涙で言葉を滲ませながらナターシアは続ける。
「さっきのあの白い娘………アルとおんなじ眼をしてた。だから………本当は最初から全部解ってた…」
決して叶わぬと知った恋。それは凶器となってナターシアをずたずたに切り裂く。
たとえアリサがいても、アルを愛し続ける自信が、ナターシアにはあった。さっきまでは。
しかし、あんな眼をした2人を知ってしまえば、そんな自信などいとも簡単に砕け散る。
彼らの瞳の中に映っていたものは、ある種の狂気だった。それほどまで激しく狂おしい慕情が、その瞳には宿っていた。
「あんなの……あんなのないよぉ……ッ!!私だってアルが、アルが好き、なのに………!!」
あの絆に、とうやって刃向かえというのだろう?
あの、狂気と激情に彩られた、極上の愛情に。
そんなナターシアの内心を見透かしたように、イリアが言う。
「明日、私達はナンブ砦に行くわ。あなたも来なさい。そこに、答えが待ってる」
それだけ言うと、イリアは手近な酒瓶を手に取り、中身を飲み干す。そして、洞窟の奥へと消えて行った。
テーブルに1人取り残されたナターシアは、その後しばらく泣き続けた。この日ほど、酔えない自分の体を恨めしく思ったことは無かった。
翌朝、山から3つの人影が飛び立った。ひとつは、最愛の人物を求めて。もうひとつは、同行人の成長を見守るべく。そして、最後のひとつは、自分の気持ちに決着をつけるため。
2人が別れた時に、同時に袂を別ったそれぞれの時間は、再び交錯点へ向かって動き出す――
11/01/10 05:23更新 / 湖
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