2. 進次郎さんと私
「あの人が支那から帰ってくるんですって」
そう言った絹江さんの声は、心なしか弾んで聞こえた。
赤トンボが飛び始める頃であった。
「そうですか」
私はそう答えるのがやっとであった。先日の一件以来、まともに絹江さんの顔を見て話すことが少々難しくなっていた私にとって、其れはあまり嬉しい報せでは無かった。
「ほんの二週間ばかりだけれど、やっと御休みが取れたから近いうちにって、昨日葉書で」
「お父さん、帰ってくるの?」
駆け寄ってきた澄子が顔を輝かせる。その頭を撫でながら絹江さんも破顔した。
「そうよ。…最後に会った時は、澄子はまだ五つだったかしらね。お父様のお顔、ちゃんと覚えてる?」
「うん!」
澄子の元気な返事の後、絹江さんは私にも笑顔を向けた。
「征司さんの事も書いたら、是非ご挨拶したいって。御一緒に御食事もされたいそうよ」
「いえ、自分は…。折角の家族の団欒ですからお邪魔する訳にも」
「あら、他の人ならそうかも知れないけど、征司さんなら…」
絹江さんは目を細める。
私は何も言えなかった。絹江さんのその言葉は勿論有り難かったが、やはり自分がこの家族の団欒の場、夫婦の再会の場に居合わせる事は憚られた。道義的な理由以上に、私個人の感情がそれを良しとしなかった。
絹江さんと目を合わせ辛くなった私は、口籠ったまま視線を落として、その小振りな唇ばかり見つめていた。
しかしその日は、予想よりもずっと早くに訪れた。
私が下宿で澄子の相手をしていた或る午後、下宿の戸を叩く者があった。大家に呼ばれて私が玄関へ出向くと、其処に立っていたのはカーキ色の軍服に身を包んだ、背の高い気さくそうな男だった。
「君が征司君かい?」
私が頷くと、突然大きな手で右手をがっちりと掴まれた。
「そうか!家内から話は聞いているよ!」
そのまま大きく手を上下に振られるが、あまりの力強さに私の右腕は肩から持っていかれそうになる。男は屈託の無い笑顔で真っ直ぐに私の目を見つめる。
「綿貫進次郎だ。澄子の面倒まで見て貰ったそうじゃないか。感謝しているよ!」
「いえ、自分は何も…」
「お父さん!」
私が口籠っていると、背後から父親の姿を見付けた澄子が駆け寄ってきた。
「澄子か!大きくなったなあ!」
私に向けた何倍もの笑顔で両腕を広げると、駆け寄ってきた澄子を軽々と宙に持ち上げる。キャアキャアと声を上げる澄子。
重くなったなあと言いながらも、片腕に澄子を難なく抱える進次郎。丸っこい大きな目が澄子と良く似ていた。
「予定より帰国が早まってね。驚かせようと連絡せずに帰ってみたら、我が家の姫は不埒な若者に連れ出されたと言うじゃないか」
悪戯っぽく言ってみせる進次郎。
「悪いが可愛い娘は返して貰うよ。そろそろ絹江も夕飯の支度をしている筈だしね」
「…それはそれは。お父上の許可も得ずに、大変失礼致しました」
「いやいや、勿論感謝しているとも。……で、君も来るんだろう?」
余りに自然に発せられた一言に、思わず彼の目を見つめ返す私。
「夕飯だよ。遠慮する事は無いさ」
綿貫家での夕食は、予想していたよりもずっと居心地の良いものだった。勿論私が既に何度もお邪魔していて慣れていたという事もあったが、それ以上に進次郎さんの裏表の無い闊達な会話に依る所が大きかった。
「やはり、これからの時代は君の様な優秀な若者が日本を牽引していかなくてはな!」
作務衣姿の進次郎さんが本日三回目になる発言を繰り返した。
「もう、貴方さっきからそればかり…」
「大事な事だぞ?俺の様な軍人が幾ら前線で頑張った所で、上の連中が頑固な年寄りばかりじゃあ話にならん!戦という物はもっと長い目を持って…」
まだ晩酌もしていないのに堰を切ったように喋り続ける進次郎さんに若干気圧されながらも、彼の話す支那での様々な経験談に私は大いに興味を持った。後々私の専門となるであろう種々の兵器や航空機の話題は元より、満州で見た道教の祭や上海で出会った人々、広東地方の風物など、本だけでは知る事の出来ない広大な世界が、其処にはあった。
絹江さんは、そんな夫に寄り添いながら、話に耳を傾けつつその顔を眺めていた。その唇には、うっすらと紅が引かれている様に見えた。
私の学生生活についても、進次郎さんは知りたがった。
「…帝大生と言っても、そう毎日勉強している訳では無いですよ。時には仲間と連れ立って喫茶店へ行ったり、上野へ散歩に行ってみたり…」
「ほう、仲間というのは、同じ下宿のご友人?」
「いえ、大体は学部の仲間と。文系の友人ともよく出掛けますが」
「なるほど。で、上野へ繰り出すとなると、何処か良い所のお嬢さんと知り合ったりも…するのかい?」
突然の直接的過ぎる質問に、私は思わず茶を吹き出しかける。
「貴方ったら…あまり征司さんを困らせないで下さいな」
「いやいや、男としては気になるんだよ。それで?誰か好い人は居るのかい?」
夫を窘める絹江さんだったが、進次郎さんは少年の様な無邪気な瞳でそれに構わずに私を見つめていた。
「そう言われましても…」
私は返答に窮した。ウロウロと視線を彷徨わせ、しかし決して絹江さんの顔だけは見ないよう気を付けていた。
「お兄ちゃん、いつも澄子と一緒にいるよ?」
その時、横から思いもよらぬ助け舟があった。私の隣に座っていた澄子が、きょとんとした顔でそう呟いたのである。
ハッとした顔で絹江さんが言った。
「そうですよ。征司さん、ここの所しょっちゅう澄子のお守りをして頂いていて…そのせいで他の女の子と出掛ける暇も…申し訳無いわ」
「本当かい?それは…悪い事をしたな。同年代の娘さんとの時間も必要だろうに…」
「いえ、自分からやっている事ですから…」
謂れの無い哀れみの視線を二人から浴びて若干情け無い気分にはなったものの、都合の悪い質問は回避することができた私であった。
気まずい空気を払拭しようとしたのか、並んで座る私と澄子を見比べて、絹江さんが笑みを浮かべた。
「こうして見ると、本当に兄妹みたいね。征司さんは、ご実家に弟さんか妹さんはいらっしゃるの?」
「…自分には兄達だけです。だから歳下相手というのは何だか新鮮で」
「あらそうなの?てっきり慣れてるものだと…」
「そりゃあきっと子守の才能があったんだ。何にしたって、澄子は兄さんが出来て嬉しいだろう?」
満面に笑みで澄子の頭を撫でながら、進次郎さんが言った。
「うん!お兄ちゃん、優しいし」
「そうかそうか。…お前も、こんな息子が居れば頼りになっただろう?」
澄子に次いで掛けられた進次郎さんの言葉に、絹江さんは困った様に笑いながら一寸首を傾げた。
「そうねぇ……でも、私にとっては子供というより…」
絹江さんの目が私を見つめた。
「歳の離れた弟かしら。…一緒に居ると、何だか私まで若返る様な気がして」
しつこく晩酌を勧めてくる進次郎さんをその日は断って早くに帰ったが、次なる機会は思わぬ所からやって来た。数日後に、近所に住む成人男性らによる集まりが綿貫家で行われる事になったのである。軍人である進次郎さんはこの近所ではかなり人望があるらしく、大方参加する男性達の殆どはこの期に彼と繋がりを持とうと画策しているのであろうが、そんな事は気にも掛けずに進次郎さんは誰にでも分け隔てなく接していた。その様な席は苦手だからと言った私だったが、これも経験だからと半ば強引に参加させられる事となった。
しかし参加してみれば、会は存外馴染めるものであった。帝大生という事で此処でもやはり注目を浴び、正直に言えばそれもまた気分が良かった。茶の間での酒盛りが始まる前に、料理を準備し終わった絹江さんと澄子は奥へ引っ込んでいた。
「まだお若いのに中佐殿とはご立派ですな。どれ、一つ武勇伝でもお聞かせ願いたい」
「恐れ入ります。何も立派な話などは御座いませんが、強いて言うなれば1年程前に…」
酒を注がれた進次郎さんが控え目に、それでいて大胆に戦場での体験談を語って聞かせると、場は大いに盛り上がり、益々男達の酒が進むのであった。
皆の顔がすっかり赤くなり、もう何度目かになる乾杯の音頭が取られた時であった。
「失礼いたします」
控え目な声と共に、絹江さんが台所に通じる襖を開けて現れた。
瞬間、大人達の視線が一斉に絹江さんに向けられた。
絹江さんは何も言わず、軽く会釈をすると、傍らの徳利が何本も載った盆を持って音も無く蛇体をうねらせて茶の間に入って来た。
大人達は、すぐにまた何事も無かったかの様に談笑を始めたが、幾人かは視線を絹江さんに凝と注いだままであった。進次郎さんと絹江さんを驚いた様に見比べる者もいた。
絹江さんは、卓袱台の上に徳利を並べ、空になったものを集めていく。
「済まないね」と進次郎さんが言葉を掛けると、大人達もそれに従ってぎこちなく会釈をする。
絹江さんはにこりと笑って返すと、空の徳利を持って台所へと戻って行った。
「どうぞごゆっくり」
襖が閉まる。やはり幾人かは襖の向こうに信じられない物を見た様な目を向けていた。
「何か?」
「…あぁ、いや!美しい細君だったものでつい…」
進次郎さんの目に射竦められて慌てて態度を取り繕う男性。
大人たちはまた何事も無かったかのように騒がしい酒盛りへと戻っていった。
私はといえば、彼らのそんなやり取りを卓袱台の向こうに見ている事しか出来ないのだった。
すっかり酔っ払った顔の男達が帰り、片付けを手伝ってから私もお暇しようとしたその時、台所から二人の押し殺した様な会話が耳に飛び込んできた。
「…だから出て来なくても良いと言ったじゃないか。あれぐらいなら俺達でやったって良いのだし…」
「……お客様のもてなしも出来ない様な妻を持っていると、貴方が思われる方が私には辛いんです。大丈夫…私は大丈夫ですから…」
「だからってお前、毎度毎度あんな扱いを…」
「いいの。私、辛くなんかありません…」
衣擦れの音がした。数瞬の沈黙があった後、
「…貴方と一緒になるって決めたのだから」
くぐもった絹江さんの声が聞こえた。
進次郎さんの休暇の終わりが近づいていた。
その日は、進次郎さんが澄子の勉強している所を見たいと言うので、茶の間で進次郎さんを交えて私が算術を教えていた。絹江さんは庭で洗濯物を干している最中だった。
「…君が家に来るようになったのは、いつ頃からだったかな?」
ふと、進次郎さんがそう尋ねてきた。四月頃からですと言うと、進次郎さんは顎に手を当てて考え事を始めた。
「考えたんだが…」
しばしの沈黙の後、進次郎さんが口を開いた。
「征司君、うちに下宿したらどうだ?」
心臓が一瞬高鳴った。「え?」と聞き返すのがやっとだった。
進次郎さんはこともなげに微笑んだ。
「下宿だよ。我が家は部屋も余ってるし、この間、今いる下宿は人が増えて狭苦しいと言っていたじゃないか」
それは確かに言った。部屋が窮屈になっているのも本当だった。しかし、だからといって知り合って間もないこんな赤の他人を自宅に住まわせるなど、私からすれば考えられなかった。
「お兄ちゃん、うちに住むの?」
「征司君が良ければな。嬉しいかい?」
目を輝かせて算盤から顔を上げた澄子の頭を、笑って撫でる進次郎さん。私は慌てて口を挟む。
「待って下さい。何故突然そのような…」
「君になら任せても良いと思ったからだ」
真っ直ぐに、進次郎さんは私の目を見た。
「妻との間に可愛い娘も授かって、俺の此の身はお国に捧げるものともう決めている。男と生まれたからには、それが在るべき道という物だろうさ」
「……はい…」
「だがね、やはり此の厳しい世の中に、母娘二人きりで残して行くのは忍びない。…君に二人の面倒を見て貰いたいんだ」
私は緊張で乾いた口で尋ねた。
「…面倒を、見るとは?」
「勿論、何か困ったことがあれば助けてくれるだとか、その程度の事で構わんよ。絹江は強い女だ。大抵の事は一人でやってしまうだろうさ。…ただ、この間のように、また空襲の様な危ない事が無いとも限らん。そんな時に、君の様な若い者が近くに居た方がやはり心強いと思ってな」
進次郎さんは、真っ直ぐに私から目を逸らさない。私はその目に向き合おうとするも、覚えず視線を外してしまう。
此の人はどこまでも裏表が無いのだと、改めて私は気付かされた。ただ純粋に人の善意を信じ、その正直さが人を惹きつける、少年の様な心を持った人。此の人は私が邪な想いを抱えているなど夢にも思っていない。そんな人の真っ直ぐな想いに正面から応える事など、私にはとても出来ない様に思われた。
「何度も言うが、君の気が向いたらで構わない。絹江には、俺から話をしておくよ」
一旦言葉を切る進次郎さん。
「…澄子を、絹江の事を、ここで守っては貰えないか?」
きっと絹江さんは此の人のこういった面に惹かれたのだろう。絹江さんに必要なのは、こういった人の支えなのだろう。
「……分かりました。考えさせて、頂きます」
そうと分かっていながら、此の様な考えを抱いてしまう私は、やはり卑怯者なのだと思う。
進次郎さんの出征に、私は立ち会わなかった。近所の人々が集まって、それは盛大に送り出したと後から聞いた。
進次郎さんが発ってからも、私は変わらず綿貫家に出入りしていた。ああは言ったものの、何処となく後ろめたさを拭えなかった私は、進次郎さんの提案の事は棚上げにしたままであった。絹江さんも、特にその事に触れる様子も無かった。綿貫家はまた、以前の様な静かな暮らしにに戻りつつあった。
否、目立たないが変化はあった。一つは澄子にどうも友達ができたらしいこと。これまでは学校から帰るとずっと家に篭っていた澄子が、この頃帰りが少し遅くなったり、何処かへ出かける事が増えていた。本人に聞いても何故かはぐらかすため詳しくは私にも分からないが、ともかく良い事なのは間違い無かった。以前より澄子の顔も明るくなった様に見えた。
反面、様子がおかしくなったのが絹江さんである。進次郎さんが去ってからというもの、家事をしていてもうっかり物を落としたり、時々仕事の手を止めてぼんやりと考え事に耽ることが多くなった。蛇の魔物である彼女は、寒い季節になると身体の動きが鈍くなるのだと、本人は言っていた。田舎では家族全員で丸三カ月は冬眠してしまう事もあるのだという。若い頃は平気だったけれど、もう年ね、と絹江さんは笑った。
しかし、進次郎さんの不在が心に影を落としている事は明らかだった。以前には一人でも気丈に振舞えていたものが、一度顔を合わせてしまったことで尚更別れが辛くなったものと思われた。そんな絹江さんの姿を目の前で見ている事が、私には辛かった。
朝には霜が降りる程に寒さが増してきた冬の或る日、私は綿貫家の台所に立っていた。昼飯をご馳走になった後で、体調が優れなさそうな絹江さんが心配になり、私が後片付けを買って出ていたのだ。澄子は寒さなど意に介さないようで、食事が済むと何処かへ遊びに出かけていた。
一通りの片付けが済んだ後、私は報告をしに台所を出た。居間を見ると絹江さんが壁際に座り込んで(とぐろを巻いて)いたので、私は側へ行く。
「絹江さん、片付けは終わりましたよ」
声をかけた時に気付く。絹江さんは壁にもたれかかって眠り込んでいた。
「…絹江さん…」
小声で呼びかけてみるが、起きる様子は無い。気候の影響か、この様に昼間からうたた寝をしてしまう事も、最近の絹江さんにはままあった。
どうしたものかと私は迷う。疲れている様だから、無理に起こすのは気が引けた。とはいえこのままでは風邪を引いてしまいそうだと思い、何か身体に掛ける物を探そうと踵を返しかけたその時、絹江さんが膝に乗せている物がちらりと目に入った。
それは、小さな字がびっしりと書かれた葉書だった。先程まで手に取って眺めていたのであろう、膝の上の葉書に白い手が重ねられていた。
絹江さんの傍らには、竹細工の箱が一つ。開いた蓋の隙間から、積み重なった何枚もの葉書が見えた。「綿貫進次郎」と差出人名が書かれたその上から、「検閲済」の赤い判が押されている。
見てはいけない物だったかも知れない。頭の片隅でそう考えながら、私の足は吸い寄せられる様に無防備な絹江さんへと近付いていった。
音も無く絹江さんの傍らに膝をつく私。
絹江さんの顔をこれ程間近で見た事は無かった。真顔でも少し困った様に見える下がり眉、黒く長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋、小振りな唇。澄子の口の形は母親譲りなのだと私は気付く。割烹着を着た胸が呼吸で緩やかに上下する。
恐る恐る、私は絹江さんの膝に手を伸ばす。絹江さんの手で隠れた葉書をずらし、少しだけ文面を覗き見ようとしたのだ。その時、
「ん……」
絹江さんの手の下に差し込もうとした私の手が、不意にギュウと握りしめられた。
ギョッとして絹江さんの顔を見たが、目を閉じて眠っている様だった。無意識の行動らしかった。
絹江さんの手は冷たく、滑らかで弾力があった。思いの外強い力で、縋り付くように私の手を握って離さない。どうするべきか一瞬迷った私は、空いている方の手を絹江さんの手に重ねた。
血が通っていないかと思う程白いその手は、触るとひんやりとして私の体温を奪ってゆく。冷たい肌を温める様に、私は重ねた手を握りしめた。
「大丈夫です…絹江さん、大丈夫…」
言い聞かせる様に、私は思わずそのような言葉を口にしていた。
目を閉じた絹江さんの顔が、少しだけ表情を緩めた様な気がした。
どの位そうしていただろうか。
絹江さんの手が温まるまで握りしめていた私は、ゆっくりとその手を離した。離した手を自分の首筋に当ててみる。当然の如く熱を失った自分の手の感触に、何処となく安心を覚える。
それから居ずまいを正した私は、絹江さんの肩に手を置き、優しく揺り起こした。
「絹江さん…、絹江さん…!」
「……はい…」
薄らと目を開いた絹江さんは、私が目の前にいる事に気がつくと、ぱっと顔を赤らめた。
「あら、…あら嫌だ…!私ったら、こんな所で…」
恥ずかしそうに顔に手を当て、慌てて葉書をかき集めて箱に入れる絹江さん。
私は、その前に正座して手を突いた。
「絹江さん」
「……はい…?」
手を止めて、不思議そうな顔で突然改まった私を見つめる絹江さん。
私は、緊張で震える声を抑えながら、しかし何かに突き動かされる様にはっきりと、その言葉を口にした。
「御相談があります」
絹江さんの心の支えになれないのは分かっていた。
進次郎さんとの約束など、唯の言い訳に過ぎないことも。
それでも、今、彼女をこの世の理不尽から守れるのは自分だけだという事実に縋りたかった。
ただ、私は彼女の側にいたかったのである。
そう言った絹江さんの声は、心なしか弾んで聞こえた。
赤トンボが飛び始める頃であった。
「そうですか」
私はそう答えるのがやっとであった。先日の一件以来、まともに絹江さんの顔を見て話すことが少々難しくなっていた私にとって、其れはあまり嬉しい報せでは無かった。
「ほんの二週間ばかりだけれど、やっと御休みが取れたから近いうちにって、昨日葉書で」
「お父さん、帰ってくるの?」
駆け寄ってきた澄子が顔を輝かせる。その頭を撫でながら絹江さんも破顔した。
「そうよ。…最後に会った時は、澄子はまだ五つだったかしらね。お父様のお顔、ちゃんと覚えてる?」
「うん!」
澄子の元気な返事の後、絹江さんは私にも笑顔を向けた。
「征司さんの事も書いたら、是非ご挨拶したいって。御一緒に御食事もされたいそうよ」
「いえ、自分は…。折角の家族の団欒ですからお邪魔する訳にも」
「あら、他の人ならそうかも知れないけど、征司さんなら…」
絹江さんは目を細める。
私は何も言えなかった。絹江さんのその言葉は勿論有り難かったが、やはり自分がこの家族の団欒の場、夫婦の再会の場に居合わせる事は憚られた。道義的な理由以上に、私個人の感情がそれを良しとしなかった。
絹江さんと目を合わせ辛くなった私は、口籠ったまま視線を落として、その小振りな唇ばかり見つめていた。
しかしその日は、予想よりもずっと早くに訪れた。
私が下宿で澄子の相手をしていた或る午後、下宿の戸を叩く者があった。大家に呼ばれて私が玄関へ出向くと、其処に立っていたのはカーキ色の軍服に身を包んだ、背の高い気さくそうな男だった。
「君が征司君かい?」
私が頷くと、突然大きな手で右手をがっちりと掴まれた。
「そうか!家内から話は聞いているよ!」
そのまま大きく手を上下に振られるが、あまりの力強さに私の右腕は肩から持っていかれそうになる。男は屈託の無い笑顔で真っ直ぐに私の目を見つめる。
「綿貫進次郎だ。澄子の面倒まで見て貰ったそうじゃないか。感謝しているよ!」
「いえ、自分は何も…」
「お父さん!」
私が口籠っていると、背後から父親の姿を見付けた澄子が駆け寄ってきた。
「澄子か!大きくなったなあ!」
私に向けた何倍もの笑顔で両腕を広げると、駆け寄ってきた澄子を軽々と宙に持ち上げる。キャアキャアと声を上げる澄子。
重くなったなあと言いながらも、片腕に澄子を難なく抱える進次郎。丸っこい大きな目が澄子と良く似ていた。
「予定より帰国が早まってね。驚かせようと連絡せずに帰ってみたら、我が家の姫は不埒な若者に連れ出されたと言うじゃないか」
悪戯っぽく言ってみせる進次郎。
「悪いが可愛い娘は返して貰うよ。そろそろ絹江も夕飯の支度をしている筈だしね」
「…それはそれは。お父上の許可も得ずに、大変失礼致しました」
「いやいや、勿論感謝しているとも。……で、君も来るんだろう?」
余りに自然に発せられた一言に、思わず彼の目を見つめ返す私。
「夕飯だよ。遠慮する事は無いさ」
綿貫家での夕食は、予想していたよりもずっと居心地の良いものだった。勿論私が既に何度もお邪魔していて慣れていたという事もあったが、それ以上に進次郎さんの裏表の無い闊達な会話に依る所が大きかった。
「やはり、これからの時代は君の様な優秀な若者が日本を牽引していかなくてはな!」
作務衣姿の進次郎さんが本日三回目になる発言を繰り返した。
「もう、貴方さっきからそればかり…」
「大事な事だぞ?俺の様な軍人が幾ら前線で頑張った所で、上の連中が頑固な年寄りばかりじゃあ話にならん!戦という物はもっと長い目を持って…」
まだ晩酌もしていないのに堰を切ったように喋り続ける進次郎さんに若干気圧されながらも、彼の話す支那での様々な経験談に私は大いに興味を持った。後々私の専門となるであろう種々の兵器や航空機の話題は元より、満州で見た道教の祭や上海で出会った人々、広東地方の風物など、本だけでは知る事の出来ない広大な世界が、其処にはあった。
絹江さんは、そんな夫に寄り添いながら、話に耳を傾けつつその顔を眺めていた。その唇には、うっすらと紅が引かれている様に見えた。
私の学生生活についても、進次郎さんは知りたがった。
「…帝大生と言っても、そう毎日勉強している訳では無いですよ。時には仲間と連れ立って喫茶店へ行ったり、上野へ散歩に行ってみたり…」
「ほう、仲間というのは、同じ下宿のご友人?」
「いえ、大体は学部の仲間と。文系の友人ともよく出掛けますが」
「なるほど。で、上野へ繰り出すとなると、何処か良い所のお嬢さんと知り合ったりも…するのかい?」
突然の直接的過ぎる質問に、私は思わず茶を吹き出しかける。
「貴方ったら…あまり征司さんを困らせないで下さいな」
「いやいや、男としては気になるんだよ。それで?誰か好い人は居るのかい?」
夫を窘める絹江さんだったが、進次郎さんは少年の様な無邪気な瞳でそれに構わずに私を見つめていた。
「そう言われましても…」
私は返答に窮した。ウロウロと視線を彷徨わせ、しかし決して絹江さんの顔だけは見ないよう気を付けていた。
「お兄ちゃん、いつも澄子と一緒にいるよ?」
その時、横から思いもよらぬ助け舟があった。私の隣に座っていた澄子が、きょとんとした顔でそう呟いたのである。
ハッとした顔で絹江さんが言った。
「そうですよ。征司さん、ここの所しょっちゅう澄子のお守りをして頂いていて…そのせいで他の女の子と出掛ける暇も…申し訳無いわ」
「本当かい?それは…悪い事をしたな。同年代の娘さんとの時間も必要だろうに…」
「いえ、自分からやっている事ですから…」
謂れの無い哀れみの視線を二人から浴びて若干情け無い気分にはなったものの、都合の悪い質問は回避することができた私であった。
気まずい空気を払拭しようとしたのか、並んで座る私と澄子を見比べて、絹江さんが笑みを浮かべた。
「こうして見ると、本当に兄妹みたいね。征司さんは、ご実家に弟さんか妹さんはいらっしゃるの?」
「…自分には兄達だけです。だから歳下相手というのは何だか新鮮で」
「あらそうなの?てっきり慣れてるものだと…」
「そりゃあきっと子守の才能があったんだ。何にしたって、澄子は兄さんが出来て嬉しいだろう?」
満面に笑みで澄子の頭を撫でながら、進次郎さんが言った。
「うん!お兄ちゃん、優しいし」
「そうかそうか。…お前も、こんな息子が居れば頼りになっただろう?」
澄子に次いで掛けられた進次郎さんの言葉に、絹江さんは困った様に笑いながら一寸首を傾げた。
「そうねぇ……でも、私にとっては子供というより…」
絹江さんの目が私を見つめた。
「歳の離れた弟かしら。…一緒に居ると、何だか私まで若返る様な気がして」
しつこく晩酌を勧めてくる進次郎さんをその日は断って早くに帰ったが、次なる機会は思わぬ所からやって来た。数日後に、近所に住む成人男性らによる集まりが綿貫家で行われる事になったのである。軍人である進次郎さんはこの近所ではかなり人望があるらしく、大方参加する男性達の殆どはこの期に彼と繋がりを持とうと画策しているのであろうが、そんな事は気にも掛けずに進次郎さんは誰にでも分け隔てなく接していた。その様な席は苦手だからと言った私だったが、これも経験だからと半ば強引に参加させられる事となった。
しかし参加してみれば、会は存外馴染めるものであった。帝大生という事で此処でもやはり注目を浴び、正直に言えばそれもまた気分が良かった。茶の間での酒盛りが始まる前に、料理を準備し終わった絹江さんと澄子は奥へ引っ込んでいた。
「まだお若いのに中佐殿とはご立派ですな。どれ、一つ武勇伝でもお聞かせ願いたい」
「恐れ入ります。何も立派な話などは御座いませんが、強いて言うなれば1年程前に…」
酒を注がれた進次郎さんが控え目に、それでいて大胆に戦場での体験談を語って聞かせると、場は大いに盛り上がり、益々男達の酒が進むのであった。
皆の顔がすっかり赤くなり、もう何度目かになる乾杯の音頭が取られた時であった。
「失礼いたします」
控え目な声と共に、絹江さんが台所に通じる襖を開けて現れた。
瞬間、大人達の視線が一斉に絹江さんに向けられた。
絹江さんは何も言わず、軽く会釈をすると、傍らの徳利が何本も載った盆を持って音も無く蛇体をうねらせて茶の間に入って来た。
大人達は、すぐにまた何事も無かったかの様に談笑を始めたが、幾人かは視線を絹江さんに凝と注いだままであった。進次郎さんと絹江さんを驚いた様に見比べる者もいた。
絹江さんは、卓袱台の上に徳利を並べ、空になったものを集めていく。
「済まないね」と進次郎さんが言葉を掛けると、大人達もそれに従ってぎこちなく会釈をする。
絹江さんはにこりと笑って返すと、空の徳利を持って台所へと戻って行った。
「どうぞごゆっくり」
襖が閉まる。やはり幾人かは襖の向こうに信じられない物を見た様な目を向けていた。
「何か?」
「…あぁ、いや!美しい細君だったものでつい…」
進次郎さんの目に射竦められて慌てて態度を取り繕う男性。
大人たちはまた何事も無かったかのように騒がしい酒盛りへと戻っていった。
私はといえば、彼らのそんなやり取りを卓袱台の向こうに見ている事しか出来ないのだった。
すっかり酔っ払った顔の男達が帰り、片付けを手伝ってから私もお暇しようとしたその時、台所から二人の押し殺した様な会話が耳に飛び込んできた。
「…だから出て来なくても良いと言ったじゃないか。あれぐらいなら俺達でやったって良いのだし…」
「……お客様のもてなしも出来ない様な妻を持っていると、貴方が思われる方が私には辛いんです。大丈夫…私は大丈夫ですから…」
「だからってお前、毎度毎度あんな扱いを…」
「いいの。私、辛くなんかありません…」
衣擦れの音がした。数瞬の沈黙があった後、
「…貴方と一緒になるって決めたのだから」
くぐもった絹江さんの声が聞こえた。
進次郎さんの休暇の終わりが近づいていた。
その日は、進次郎さんが澄子の勉強している所を見たいと言うので、茶の間で進次郎さんを交えて私が算術を教えていた。絹江さんは庭で洗濯物を干している最中だった。
「…君が家に来るようになったのは、いつ頃からだったかな?」
ふと、進次郎さんがそう尋ねてきた。四月頃からですと言うと、進次郎さんは顎に手を当てて考え事を始めた。
「考えたんだが…」
しばしの沈黙の後、進次郎さんが口を開いた。
「征司君、うちに下宿したらどうだ?」
心臓が一瞬高鳴った。「え?」と聞き返すのがやっとだった。
進次郎さんはこともなげに微笑んだ。
「下宿だよ。我が家は部屋も余ってるし、この間、今いる下宿は人が増えて狭苦しいと言っていたじゃないか」
それは確かに言った。部屋が窮屈になっているのも本当だった。しかし、だからといって知り合って間もないこんな赤の他人を自宅に住まわせるなど、私からすれば考えられなかった。
「お兄ちゃん、うちに住むの?」
「征司君が良ければな。嬉しいかい?」
目を輝かせて算盤から顔を上げた澄子の頭を、笑って撫でる進次郎さん。私は慌てて口を挟む。
「待って下さい。何故突然そのような…」
「君になら任せても良いと思ったからだ」
真っ直ぐに、進次郎さんは私の目を見た。
「妻との間に可愛い娘も授かって、俺の此の身はお国に捧げるものともう決めている。男と生まれたからには、それが在るべき道という物だろうさ」
「……はい…」
「だがね、やはり此の厳しい世の中に、母娘二人きりで残して行くのは忍びない。…君に二人の面倒を見て貰いたいんだ」
私は緊張で乾いた口で尋ねた。
「…面倒を、見るとは?」
「勿論、何か困ったことがあれば助けてくれるだとか、その程度の事で構わんよ。絹江は強い女だ。大抵の事は一人でやってしまうだろうさ。…ただ、この間のように、また空襲の様な危ない事が無いとも限らん。そんな時に、君の様な若い者が近くに居た方がやはり心強いと思ってな」
進次郎さんは、真っ直ぐに私から目を逸らさない。私はその目に向き合おうとするも、覚えず視線を外してしまう。
此の人はどこまでも裏表が無いのだと、改めて私は気付かされた。ただ純粋に人の善意を信じ、その正直さが人を惹きつける、少年の様な心を持った人。此の人は私が邪な想いを抱えているなど夢にも思っていない。そんな人の真っ直ぐな想いに正面から応える事など、私にはとても出来ない様に思われた。
「何度も言うが、君の気が向いたらで構わない。絹江には、俺から話をしておくよ」
一旦言葉を切る進次郎さん。
「…澄子を、絹江の事を、ここで守っては貰えないか?」
きっと絹江さんは此の人のこういった面に惹かれたのだろう。絹江さんに必要なのは、こういった人の支えなのだろう。
「……分かりました。考えさせて、頂きます」
そうと分かっていながら、此の様な考えを抱いてしまう私は、やはり卑怯者なのだと思う。
進次郎さんの出征に、私は立ち会わなかった。近所の人々が集まって、それは盛大に送り出したと後から聞いた。
進次郎さんが発ってからも、私は変わらず綿貫家に出入りしていた。ああは言ったものの、何処となく後ろめたさを拭えなかった私は、進次郎さんの提案の事は棚上げにしたままであった。絹江さんも、特にその事に触れる様子も無かった。綿貫家はまた、以前の様な静かな暮らしにに戻りつつあった。
否、目立たないが変化はあった。一つは澄子にどうも友達ができたらしいこと。これまでは学校から帰るとずっと家に篭っていた澄子が、この頃帰りが少し遅くなったり、何処かへ出かける事が増えていた。本人に聞いても何故かはぐらかすため詳しくは私にも分からないが、ともかく良い事なのは間違い無かった。以前より澄子の顔も明るくなった様に見えた。
反面、様子がおかしくなったのが絹江さんである。進次郎さんが去ってからというもの、家事をしていてもうっかり物を落としたり、時々仕事の手を止めてぼんやりと考え事に耽ることが多くなった。蛇の魔物である彼女は、寒い季節になると身体の動きが鈍くなるのだと、本人は言っていた。田舎では家族全員で丸三カ月は冬眠してしまう事もあるのだという。若い頃は平気だったけれど、もう年ね、と絹江さんは笑った。
しかし、進次郎さんの不在が心に影を落としている事は明らかだった。以前には一人でも気丈に振舞えていたものが、一度顔を合わせてしまったことで尚更別れが辛くなったものと思われた。そんな絹江さんの姿を目の前で見ている事が、私には辛かった。
朝には霜が降りる程に寒さが増してきた冬の或る日、私は綿貫家の台所に立っていた。昼飯をご馳走になった後で、体調が優れなさそうな絹江さんが心配になり、私が後片付けを買って出ていたのだ。澄子は寒さなど意に介さないようで、食事が済むと何処かへ遊びに出かけていた。
一通りの片付けが済んだ後、私は報告をしに台所を出た。居間を見ると絹江さんが壁際に座り込んで(とぐろを巻いて)いたので、私は側へ行く。
「絹江さん、片付けは終わりましたよ」
声をかけた時に気付く。絹江さんは壁にもたれかかって眠り込んでいた。
「…絹江さん…」
小声で呼びかけてみるが、起きる様子は無い。気候の影響か、この様に昼間からうたた寝をしてしまう事も、最近の絹江さんにはままあった。
どうしたものかと私は迷う。疲れている様だから、無理に起こすのは気が引けた。とはいえこのままでは風邪を引いてしまいそうだと思い、何か身体に掛ける物を探そうと踵を返しかけたその時、絹江さんが膝に乗せている物がちらりと目に入った。
それは、小さな字がびっしりと書かれた葉書だった。先程まで手に取って眺めていたのであろう、膝の上の葉書に白い手が重ねられていた。
絹江さんの傍らには、竹細工の箱が一つ。開いた蓋の隙間から、積み重なった何枚もの葉書が見えた。「綿貫進次郎」と差出人名が書かれたその上から、「検閲済」の赤い判が押されている。
見てはいけない物だったかも知れない。頭の片隅でそう考えながら、私の足は吸い寄せられる様に無防備な絹江さんへと近付いていった。
音も無く絹江さんの傍らに膝をつく私。
絹江さんの顔をこれ程間近で見た事は無かった。真顔でも少し困った様に見える下がり眉、黒く長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋、小振りな唇。澄子の口の形は母親譲りなのだと私は気付く。割烹着を着た胸が呼吸で緩やかに上下する。
恐る恐る、私は絹江さんの膝に手を伸ばす。絹江さんの手で隠れた葉書をずらし、少しだけ文面を覗き見ようとしたのだ。その時、
「ん……」
絹江さんの手の下に差し込もうとした私の手が、不意にギュウと握りしめられた。
ギョッとして絹江さんの顔を見たが、目を閉じて眠っている様だった。無意識の行動らしかった。
絹江さんの手は冷たく、滑らかで弾力があった。思いの外強い力で、縋り付くように私の手を握って離さない。どうするべきか一瞬迷った私は、空いている方の手を絹江さんの手に重ねた。
血が通っていないかと思う程白いその手は、触るとひんやりとして私の体温を奪ってゆく。冷たい肌を温める様に、私は重ねた手を握りしめた。
「大丈夫です…絹江さん、大丈夫…」
言い聞かせる様に、私は思わずそのような言葉を口にしていた。
目を閉じた絹江さんの顔が、少しだけ表情を緩めた様な気がした。
どの位そうしていただろうか。
絹江さんの手が温まるまで握りしめていた私は、ゆっくりとその手を離した。離した手を自分の首筋に当ててみる。当然の如く熱を失った自分の手の感触に、何処となく安心を覚える。
それから居ずまいを正した私は、絹江さんの肩に手を置き、優しく揺り起こした。
「絹江さん…、絹江さん…!」
「……はい…」
薄らと目を開いた絹江さんは、私が目の前にいる事に気がつくと、ぱっと顔を赤らめた。
「あら、…あら嫌だ…!私ったら、こんな所で…」
恥ずかしそうに顔に手を当て、慌てて葉書をかき集めて箱に入れる絹江さん。
私は、その前に正座して手を突いた。
「絹江さん」
「……はい…?」
手を止めて、不思議そうな顔で突然改まった私を見つめる絹江さん。
私は、緊張で震える声を抑えながら、しかし何かに突き動かされる様にはっきりと、その言葉を口にした。
「御相談があります」
絹江さんの心の支えになれないのは分かっていた。
進次郎さんとの約束など、唯の言い訳に過ぎないことも。
それでも、今、彼女をこの世の理不尽から守れるのは自分だけだという事実に縋りたかった。
ただ、私は彼女の側にいたかったのである。
16/11/04 17:44更新 / 琴白みこと
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