連載小説
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1.絹江さんと澄子
その人を初めて見掛けたのは、三月の半ば頃だったように思う。



慣れ親しんだ一高の寮を去り、晴れて本郷へ通うこととなったその年の春先、私は下宿先となる山手の御宅へ挨拶に出向き、そのついでに春から暮らすこととなる町を下見がてら散策していた所だった。途中小ぢんまりとした神社を見つけ、立ち寄って境内をぶらつく私。自室の本棚の置き場所とか、実家から来ていた葉書のことだとか、確かそんなことを考えていた。
春先とはいえ空気はまだ冷たく、私は外套の襟を立てる。昼時で腹も減り、そろそろ戻ろうかと踵を返したその時であった。

一人の婦人の姿が目に飛び込んできた。
ちょうど鳥居をくぐる所で、律儀に軽く一礼をして境内へ入る。
思わず目を奪われたのは、その身体。邪な意味ではなく、その腰から下へ伸びる、しなやかな蛇体にである。鱗が黒々と光り、大きくうねりながらしずしずと此方へと進んでくる。
蛇型の魔物を見るのが初めてであった私は、失礼とは知りながら一瞬まじまじとその婦人を眺めてしまう。
薄紫の上等な着物にきちんと結い上げられた黒髪から、上流の出だろうかと推測された。すれ違い様、学帽を取って会釈すると、少しだけ微笑んで挨拶を返した。
美しい人だった。垂れ目がちの憂いを含んだ目元に、小さな唇。夢二式の美人画から抜け出してきたような風情で、歳の頃は一寸見ただけでは分からなかった。蛇体でもお辞儀が出来るのだなと、失礼なことを考えながら私はその婦人に背を向けて立ち去る。

鳥居まで来た所で、ふと足を止めて境内を振り返った。婦人は社殿の前で熱心に手を合わせている風であった。長い蛇体が、婦人の後ろから川の様に石段を流れ落ちていた。
最初の邂逅はそれで終わった。


下宿先で暮らし始めてからも、度々その婦人を見かけることがあった。決まって他所行きの着物を着て、顔を合わせれば上品に会釈を返す。勿論悪い印象など持つ訳はないが、それでもこの近辺に於いてその存在は奇異に思えた。

一度、食事時に大家に尋ねてみたことがある。この近所に魔物の御婦人が居られるようですが、と言うと、
「ええ、いらっしゃいますよ。ええと、御名前は何といったかしら。…気立てはいい方ですよ」
この辺りでは珍しいですね、と言うと、
「そうですねえ確かに。旦那さんは軍人さんじゃあなかったかしら?お忙しいみたいで、お一人で良く家を支えてらっしゃるわねえ」
大家はそれ以上何も言わなかった。やはり何か訳有りなのだろうということは、世間知らずの私でも想像できた。郊外や下町ならばともかく、この近辺で魔物というのはまず見かけなかったからだ。
私は味噌汁を啜りながら、ぼんやりとあの蛇体の川を思い出していた。漆で塗ったようなあの艶やかな黒は、見ようによっては流れるような黒髪を湛えた小野小町の後姿にも似ていたかも知れない。単衣を身に纏い、微笑みながら振り返る夢二式美人の小町。一瞬そんな想像が頭に浮かび、慌ててそれを打ち消した。




「征司さん(私の名である)、ちょっといいですか」
朝下宿を出る時、大家に呼び止められた。
「これ、回覧板。申し訳ないけど、次のお宅に渡してきて貰っていいかしら。三軒隣りのお宅ですから」
手渡された回覧板を、お安い御用ですよ、と受け取った私は一礼して玄関を出る。

越してきたばかりで近隣の事情には疎い私である。そういえば隣人の顔もまだ知らなかったなと考えながら、表札を確認して歩いた。言われた通り三軒隣りにあった、「綿貫」と表札の掛かる玄関を叩く。
「御免下さい」
声を掛けて、しばらく待つ。するとややあって、玄関のガラス戸が躊躇いがちにカラリと開いた。
中から顔を覗かせた七つか六つくらいの幼女に、私は一時目を奪われた。
おかっぱ頭の下から見上げてくる眼はビー玉のように丸っこく、すぼまった口が幼さを残して愛らしい。そしてその腰から下には、黒光りする鱗を持ったあの蛇体が伸びていたのである。
「近所の者ですが、お母様はいますか?」
一瞬言葉を失うも、平静を装って短く告げる。幼女は凝と私を見つめた後、フイと奥へ引っ込んで母親を呼びに行った。
「お母さぁん、回覧板」
遠ざかる舌足らずな声を聞きながら、私は覚えず身体が緊張しているのが分かった。驚愕、期待、落胆。その他一言では言い表わせぬ感情の波が胸の内に次々去来して渦巻いては鼓動を速めていく。

私が感情の整理をつける間も無く、奥から割烹着姿の婦人がしずしずと現れる。
多少髪が乱れてはいたが、その儚げな眼差し、奥ゆかしい仕草は、紛う事無きあの蛇身の婦人であった。
「あら」
婦人は目を細める。
「貴方、よく見かける…やっぱり御近所さんでしたのね」
「ええ、下宿中でして。大した挨拶もせず、申し訳ありません」
「そんなお構いなく。…回覧板ね。わざわざどうも」
私が玄関に足を踏み入れると同時に、婦人が框に腰を下ろす、と言うより蛇体を屈める。
「書生さんよね。学校はお近く?」
手渡した回覧板を覗き込む婦人。屈んだ拍子に、微かに石鹸の香りが漂った。
「本郷です。この春から」
「あら、まあ。帝大生だって。凄いね、澄子」
何時の間にか婦人の背後に隠れて此方を伺っていた幼女に振り返って声を掛ける。
「すごいの?」
「そりゃあ凄いわよ。澄子ももう小学校なんだし、今度お勉強教えて貰いましょうか」
「えー」
あからさまに興味が無いといった顔をする澄子に、婦人と私は思わず笑いを溢す。
「それくらいでしたら、何時でもお引き受けしますよ」
「お願いしたいわ。女の子も今時勉強が出来なくては駄目だもの」
そう言いながら婦人は回覧板の諸連絡に目を通し始めた。書類の束をめくる指の細さに私は驚く。水仕事の多い主婦らしく若干手の甲は赤切れているものの、絹を思わせる肌の白さは年齢を感じさせない。そもそもこの年頃の娘がいること自体私には意外であった。
一時その姿に見惚れてしまっていた私は、私を凝と見つめる澄子の眼に気付く。ハタと我に返り、暇を告げるため学帽を傾けた。
「では私はこれにて。申し遅れましたが私、石坂征司と申します。今後ともどうか、宜しくお願い致します」
私が頭を下げると、婦人はにっこりと微笑んで床に三つ指を突いた。
「御丁寧にどうも。…綿貫、絹江と申します。どうぞよろしくお願いしますね」



それは、何の変哲も無い春の日だった。
入学式も終えていよいよ大学での授業が開始され、一週間の授業を一通り終えた土曜日、私は午前の授業を終えて本郷からの家路を一人歩いていた。
のどかな陽気であった。風は無く、まばらに雲が浮かぶ空を軍用機が一機飛んでいた。
私は機嫌が良かった。授業で引いた図面を教授に筋が良いと褒められたからだ。
帰ったら新しい本の包みを解こうかなどと、考えながら歩いていたその時だった。

東の方角に爆音が轟いた。少し間を空けて、また二回の爆音。
最初は、大して気にも留めなかった。爆音はかなり遠く、聞き間違いかとも思った。その私の頭上を、次の瞬間、迷彩柄の軍用機が物凄い速さで飛び去って行った。今度は極めて低空を、先程の機と同じ方角だった。
音を聞きつけた人々が近くの民家からわらわらと出てきた。皆顔を見合わせ、一様に不思議そうな表情を浮かべていた。
また爆音。今度は西で、大分音が近かった。続けて断続的な銃声。軍の高射砲か、機銃掃射かは分からなかった。西の空に黒煙が上がる。
「空襲だ」
「空襲じゃないのか」
「まさかそんな」
人々が言い合う声が聞こえた。段々と顔に不安と恐怖の色が浮かび始める。
私は、小走りで下宿へ向かった。
意外な事に、私の心は平静に近かった。遂に来たか、としか思わなかった。
走り始めた所で、ようやくけたたましいサイレンが鳴り響き始めた。サイレンの音を聞きつけた人々が慌てて家から飛び出して来る。バケツを持って叫ぶ人、家財を運ぼうとする人、てんでバラバラの方向に走り出す人。通りは俄かに慌ただしい空気に包まれる。

ものの十分程で、下宿の前まで辿り着いた。
家に入ろうとした時、三軒隣りの玄関が開くのが見えた。中から絹江さんが姿を現わす。酷く狼狽した様子だった。
私は彼女の下へ駆け寄った。
「どうされましたか」
「あ、あぁ、征司さん。どうしましょう。澄子が、澄子がまだ帰っていないんです。今日はもう小学校は終わりの筈なのに」
落ち着いた普段の姿からは想像もつかない程の狼狽えようで、今にも泣き出さんばかりであった。
開け放たれた玄関から、ラジオの放送が微かに聞こえて来る。
「…午後零時一五分、敵ノ編隊九機ハ茨城県ヲ経テ荒川区上空ニ至ルモノト思ハレマス…高射砲…注意シテ……繰リ返ス…東部軍情報…」
オロオロと辺りを見回す絹江さんを落ち着かせようと、私は少し強い口調で言った。
「落ち着いて下さい。学校に連絡は?」
「したんだけれど、繋がらなくて…」
「学校は何処ですか?」
「小石川の…お堀の近くの小学校です」
絹江さんは口元を両手で覆う。
「どうしましょう…あの子に何かあったら…私…」
その目から涙が一粒零れ落ちるのを見た私は、咄嗟に絹江さんの両肩を掴んでいた。
「分かりました。僕が探して来ます」
「そんな、何も貴方が…」
「大丈夫です。道は分かりますから」
返答を聞く間も無く、私は駆け出した。
「それなら私も…」
「綿貫さんは残ってもう一度連絡を取ってみて下さい。外は危ない」
「でも」
私は一旦足を止めて、後ろを振り返った。

絹江さんの酷く心配そうな目が私を見つめていた。
「大丈夫ですから、待っていて下さい」
一言だけそう告げた。



結果から言えば、澄子はすぐに見付かった。國民学校から帰る途中の神社の軒下に、学校の言い付けを律儀に守って蹲っていたのだ。
他の児童は居らず、たった一人で隠れていたというのに少しも怯えた様子は見せず、肝の据わった子だと思った。
連れて帰った澄子を見た絹江さんは、着物が乱れるのも構わず駆け寄って来て澄子を抱き締めた。目から涙を零しながら、有難うございます、有難うございますとひたすら御礼を言われた。
その後は、絹江さんも私も隣組総出での消火活動に駆り出されたため、大して話をする暇も無くその日は終わった。

後日、絹江さんが澄子を連れて下宿へ挨拶に来た。あまりに何度も頭を下げられるので、此方が恐縮してしまう程だった。今まで食べた事も無いような高級な菓子折を貰った。
「本当に何と御礼を申し上げたらいいか…」
「いえ、もう十分です。こんな物まで頂いてしまって」
「十分ということはありません。……私にとっては…」
絹江さんが傍らの澄子を見つめながら目を伏せた。
「私にとっては、夫との間にやっと授かった形見なんです。あの人、これで安心して支那に行ける、ってそりゃあ喜んで…。この子に何かあったら、今も闘っているあの人に顔向けができません」
そう言って絹江さんはもう一度深々と頭を下げた。
「今後とも御迷惑をお掛けするかもしれませんが、何卒、なにとぞ御近所として宜しくお願い致します」
この言葉は、私の後ろで話を聞いていた下宿の大家に向けたものでもあった。
「まあ、そんな滅相も無い。困ったら何でも言って下さいな」
いたく感じ入った様子の大家が顔をほころばせながら言った。
「こんなご時世だもの、助け合わないと…ああ、そんなら征司さん、此方の娘さんにお勉強でも教えてあげればいいじゃありませんか」
「ええ、まあ、それは構いませんが…僕などで良ければ…」
「まあ、ご謙遜」
笑う絹江さんの傍らで、澄子が黙って私の顔をじっと見つめていた。


この時は単なる社交辞令と思っていたのだが。
それ以来、私は本当に澄子に勉強を教えるという名目でしばしば綿貫家に出入りするようになっていた。
あの日の一件でどうやら澄子に懐かれたらしく、顔を合わせる度に遊びに来てとせがまれ、私も時間のある時はそれに応えることにしたのだ。
勉強を教えると言ってもまだ國民学校一年生であるから、教えられるのは読み書きと簡単な算術くらいなもので、後は専ら遊び相手になるという感じであった。お手玉やメンコなど、久々に触れる遊びに私もついつい熱中してしまった。

澄子はあまり友達がいない様だった。
「鬼ごっこは嫌いなの」
澄子が言う。
「だってみんなみたいに速く走れないもの」
じゃあ隠れん坊は、と言うと、
「隠れんぼもだめ。尻尾の先がいつも見つかっちゃうの」
裏庭で遊びながらそんな話をしていると、いつも其処に絹江さんが二人のおやつを持って来てくれるのだった。

絹江さんもまた、時々私の話を聞きたがった。私の話す歴史の話(と言っても私も本で齧った程度の知識だったが)を特に好んだ。自分はちゃんとした教育を受けていないから話をして欲しい、と言う彼女だが、時折見せる聡明さにしばしば私は驚かされた。
「まあ、それじゃあ正成さんは最期まで帝のために…」
「ええ、正に忠義の人、大楠公ですよ」
話をしている内に日が暮れてしまい、そのまま夕飯をご馳走になってしまったことも幾度かあった。絹江さんの作る夕飯は味が薄いものの上品で、男は皆飯を三杯喰うものと思っている大家の料理よりも、正直言って美味いと思った。


「澄子の出来はどうですか」
日増しに暑さが増してきた頃の或る夜、絹江さんが不意に尋ねてきた。私は夕飯の後にお茶を頂いている所だった。澄子は遊び疲れたのか早々に寝てしまっていた。
「ええ、呑み込みはとても早いですよ。イロハはもう覚えていますし、漢字も幾つかは覚えてしまいました」
「嬉しいわ。この間なんて、電柱の貼り紙を大声で読み上げてて」
「覚えたことは披露したくなるものですからね」
「ええ、本当に可愛いもので。…学校のこととか、何か言っていました?」
「楽しんでいる様ですよ。……ああ、ですが、強いて言うなら、気になる事と言えば…」
少し躊躇いつつも、私はこの間の澄子との会話について話した。
「…その、何と言うか…友達が多くないようで」
「……ええ、そんな気はしていたのよ。あの子、私にはそういう事は言わないから」
絹江さんは溜息と共に呟いた。
「気難しい子では無いので、時間が経てば自然に、とは思うのですが」
「ありがとう。そうね、大人になればきっと…」
「それに、絹江さん自身きちんと家庭を持てているじゃありませんか。それもこんな東京の一等地に、立派な旦那さんと一緒になって…」
途中まで口に出してから、しまったと思った。そこに軽々しく触れてはいけない事情があることは分かっていたからだ。
絹江さんは、手許の湯呑みを見つめたまま自嘲するような笑みを浮かべていた。
「…これでも大変だったのよ。あちらの御両親にそりゃあ反対されて」
不躾な発言を詫びようと思ったが、それより先に絹江さんがまた口を開いた。
「代々軍人のお家だったから、特にお義父様が許して下さらなくて。あの人と一緒に、何度も頭を下げに行ったわ。……妾なら良いとも言われたけれど」
「そんな」
思わず大きな声を出した私を、絹江さんが唇に指を当てる仕草で制止した。寝ている澄子の方を目で指し示す。
「仕方の無い事よ。…でもあの人も怒ったわ。それでほとんど家出のような形で、二人で此処に移ったの。あの人はもう軍人だったから、その名前でこんなに良い家を借りられて」
言葉を切り、卓袱台に目を落とす絹江さんの横顔を見つめながら、私は掛ける言葉を見付けられないでいた。
『姿形は違えども、八千代の昔からこの皇國を共に支えて来た日本人の同胞である』として、時の首相が初めて魔物の権利を公式に認める宣言を行ったのが数年前。それから政府による同化の取り組みは度々行われて来たらしいが、未だ世間の目はそう変わらないのだと思い知らされた。かくいう私も、差別の存在をけしからぬなどと憤れる立場ではない。魔物を取り巻く現状を、新聞の片隅の出来事としか考えていなかった。差別をしていなかったのではなく、無関心であったに過ぎないのだから。
絹江さんは、卓袱台を見つめたままずっと指先を弄んでいた。
「男が産めない体だものね…」
この小さな家に閉じ込められて身動きの出来ない絹江さんの姿が、その長い蛇体にも関わらず、酷く小ぢんまりとして見えた。
そしてそれを見つめる私は、私の中に、或るじくじくとした感情が膨れ上がってゆくのを確かに感じているのであった。



やがて夏も盛りとなり、私も澄子も学校が休暇に入った。私は元より学友達とつるむより一人で本でも読んでいるのを好む性質だったので、休暇だからと言って普段とやる事は変わらなかった。寧ろこの頃は絹江さんを喜ばそうと、大学の課題そっちのけで文学だの歴史だのといった本ばかり読み漁っていたくらいである。
澄子の遊び相手の役目は、相変わらずであった。休暇に入っても他に遊び相手のいない澄子は、以前にも増して私と遊びたがるようになった。流石に家の中だけで遊ぶのはあまり好ましくないだろうと考えた私は、絹江さんに許可を得て私の下宿に澄子を連れて来ることもあった。一月前から同居し始めたむくつけき私の下宿仲間共は、この小さき訪問者にすっかり心奪われたようで、顔をほころばせて澄子の相手をしていた。澄子の方でも、新しい人間と接することで良い刺激を受けている様に私には見受けられた。

その日も、澄子が下宿へ遊びに来ていて、日の暮れるまでお絵描きなどをして過ごしていた。
「せっかくだからお夕飯でも食べて行きなさいな」
台所から顔を出した大家が言った。
絹江さんの方でもう用意しているのではないかと私が言うと、
「それじゃあ征司さん、ちょっと行ってきて下さる。もし良かったら、奥さんも御招きしたらいいわ」

大家に言われるまま、私が絹江さんを呼んで来る事となった。綿貫家の玄関に至り、ガラス戸を軽く叩く。
暫く待つが、返事は無かった。もう一度、今度は少し強めに叩き、絹江さん、と大声で呼んでもみる。それでも返事は聞こえてこない。
失礼とは思いながらも、私はガラス戸に手を掛けた。戸はスルリと開き、奥へと続く板張りの廊下が現れる。
「絹江さん」
もう一度私は声を張り上げた。やはり返事は聞こえてこない。

否、音は聞こえた。私の声に応えるように、微かに、川面に魚が跳ねるような水音が一つ、ぱしゃりと響いた。
私は音のした方へ目を凝らした。風を通す為に開け放たれた襖と障子の間を通して一直線、居間の向こうの裏庭まで視線が届いた。その先に、何か白い物がチラリと動くのが見えた。

ーーその時の私が何を考えていたのかは、今でも思い出せない。ただ私は、まるで普段澄子に会いに来た時の様に、慣れた動きで靴を脱ぎ、綿貫家に足を踏み入れていた。
音を殺して、廊下を一歩、また一歩。廊下の突き当たりにある台所まで至ると、私は柱の陰からそっと片目だけを出して居間を覗き込んだ。

六畳間の向こうの縁側に、此方に背を向けた絹江さんが腰掛けていた。身に付けているのは白く薄い生地の浴衣のみ。水に濡れた布地がしっとりと肌に貼り着き、ほのかに桃色に染まっていた。この暑さで火照っているのか、肌の色は普段より少し赤みがかって見えた。
普段結わえている髪が、解かれて肩口まで垂れていた。髪の房は首筋に沿って左肩の前方に流れ、うなじから襟元までの白い肌が露わになる。絹江さんの手が首筋に伸び、家事の疲れが溜まった其処を揉みほぐすのが見えた。弾力のある肌が細い指に押されて形を変える。
絹江さんが立ち上がった。居間からは見えない腰から下の蛇体は、大き目の金盥にでも浸かっているのであろう、手にした手桶で足元から水を掬うと、肩の上から其れを身体へと掛け始めた。
私は思わず自らの口を押さえていた。深い溜息が出そうになったからだった。息を止める。音が無くなる。他の全ての時間が止まり、私はただ行水をする彼女を見つめることしかできなかった。
それは美しすぎる肢体であった。水で貼り着いた着物がはっきりと身体の曲線を写し取り、滑らかな蛇体へとその曲線が伸びていく様はまるでブロンズの彫刻が女体へと変化してゆく過程を見ている様であった。
否、彫刻という形容は正しくはなかった。水を被る身体に、蠢く蛇体に、私は確かに柔らかい肉体の存在を感じ取っていたからだった。私の視線は絹江さんの肌の表面をなぞる様に滑っていく。水を被りながら身体を擦る絹江さんの手に私の視線が同化し、絹江さんの肌を撫でる感触を私の手が錯覚する。

絹江さんが少し身体を捻った。一瞬チラリと横からの乳房の形が見えると同時に、顔を此方に回しかけたのを見てハッとした私は慌てて身体を引っ込める。
動悸が治まらなかった。顔から汗が吹き出しているのは、暑さのせいばかりでは無い筈だった。不思議な事にそれまで殆ど感じていなかった罪悪感に突如として猛烈に襲われた私は、逃げる様にその場を後にした。
其れからどうなったかは、あまり覚えていない。その後絹江さんが下宿に夕食を食べに来たことは覚えているので、恐らく出直して改めて絹江さんを呼んだのであろう。私はその日一言も絹江さんとは口を利かなかった。
16/03/25 01:25更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
この物語はフィクションです。
実在する人物、事件等とは一部を除いて関係はありません。


もう一個の連載が進まないためリハビリ…

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