連載小説
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3.澄子と私
やがて年が明け、季節はまた春へと移った。絹江さんと知り合って、早一年が経とうとしていた。
この春から、私は綿貫家に下宿することが決まった。元々少ない私の荷物(殆どは本である)を三軒隣の家へ移すだけの引越しはいとも簡単に終わった。世話になった大家に挨拶を済ませ、実家の両親への報告も終わったのは、四月の上旬であった。
私は、綿貫家の二階の部屋をあてがわれることとなった。絹江さんの足では階段を上る事が難しい為に、殆ど使われないまま放っておかれた部屋であった。

絹江さんは、私の申し出に快く応じてくれた。
「たった二人にこの家は広すぎるもの」と絹江さんは笑った。「家族は多い方が、澄子も喜ぶわ、きっと」
二年生になった澄子は、去年は私の腰くらいであった背丈が、今では臍に頭が届く程になった。蛇体の方も少し長くなり、綿貫家の縁側には、背丈を測る柱の傷と一緒に、蛇体の長さを測る目方が床板に刻まれる様になった。
お友達は増えたかい、と尋ねると、「ちょっとだけ」と答える。私が友達の事を訊こうとすると、何故かこの娘は決まってバツの悪そうな顔をして、多くを語ろうとしないのだった。


此の頃私は、早く目覚めるようになっていた。寝泊りする環境が変わった為でもあったと思うが、毎朝階下から聞こえてくる、絹江さんが忙しく立ち働く音の為でもあった。
「お早うございます」
「あらおはよう。お茶碗、並べてくださる?」
私が卓袱台を出し、茶碗と箸を並べ始めると、澄子が身支度を終えて洗面所から出てくる。この家の朝は、概ねこの様に静かに始まるのだった。
卓袱台を囲んで座ると、頂きます、と手を合わせて三人は朝餉に手をつける。私の場所は決まって台所に近い方、縁側と箪笥の上に置かれたラジオが見える位置だった。此処には競い合っておかずを取り合う若者達も、お櫃の側に待ち構えて次々と白飯のお代わりをよそっていく大家もいない。絹江さんが漬物を噛み、澄子が味噌汁を啜る。正月の朝の様な、ただゆったりとした時間が進んでいた。隣の家の玄関が開き、通りがかる人に挨拶をする声までが聞こえてきた。
「そうそう、お父様から葉書が来ていたわよ。澄子の進級のお祝いにって、押し花を送ってくださって。支那のお花だそうよ」
「本当?見せて!」
「帰ってきてからね。そろそろ出る時間でしょう?」
そう言われて時計に目をやった澄子は、慌てて味噌汁の残りをかき込む。「ごちそうさま!」と手を合わせて食器を片しに立った。
「征司さんにも、『進級おめでとう』だそうよ」
絹江さんが私の顔を見て目を細めた。
「それと、『どうか我が家と思ってくつろいで欲しい』って。可笑しいわね、もうずっと前から家族みたいなものなのに…」
「誠に感謝致します…と、どうかお伝えください。お体にお気を付けて、とも」
箸を置くと同時に、私は絹江さんに深々と頭を下げる。ご馳走様でした、と静かに手を合わせた。
「ええ、伝えておくわ。…もう出られるの?」
「はい。今日は朝から講義が在りますので」
そう言って立ち上がる私の横を、立派なランドセルを背負った澄子が「いってきます!」と威勢よく飛び出していく。
「気を付けて行きなさい!」
絹江さんの声と玄関を開ける音を背後に聞きながら、食器を台所に片付けた私は、廊下を通り抜けて玄関に向かう。学帽を被り、革靴を突っかけたその時、
「征司さん、忘れ物よ」
背後から聞こえた声に、私は振り向く。
細く白い手で差し出されたのは、紺の風呂敷で包まれた大き目の弁当箱だった。
「…すみません。いつも有難うございます」
「いいのよ、一人分も二人分もそう変わらないもの。男の子のお弁当ってあまり分からないから、少なかったらごめんなさいね」
「いえ、滅相もない」
おずおずと、私は両の手で弁当を受け取る。前の下宿でも弁当は持たせて貰っていたが、絹江さんの手でそれを作って貰えるという事実に、私は未だ慣れる事ができずにいた。絹江さんの弁当は確かに量こそ多くなかったが、気品が感じられる丁寧な作りで、特にだし巻き卵が旨かった。
「友人が皆羨ましがります。奴ら一口食わせてくれと煩いものだから、いつも弁当を守るのが大変な位ですよ」
「まあ、お上手なんだから」
弁当を鞄に仕舞った私は、玄関を開けて絹江さんに向き直る。外から差し込んだ朝日に、絹江さんの髪が黒く光った。
「では、行って参ります」
絹江さんが微笑んだ。
「はい、いってらっしゃい」



 五月のある日、大学から帰って玄関を開けた私の耳に飛び込んできたのは、聞きなれない少女たちの笑い声だった。澄子の声もその中に混じって聞こえてきた。
「あら、お帰りなさい」
絹江さんが廊下の奥から顔を出した。
「今ね、澄子のお友達が遊びに来ているの。こんなこと初めてよ」
嬉しさを隠し切れないといった様子で、絹江さんが言った。「良かったら一緒に遊んでくださる?」
 その言葉に少し興味をそそられ、私は鞄を持ったまま居間へ足を踏み入れる。居間の六畳の畳の上にはカルタが敷きつめられ、その周りを澄子とその友達らしい三人の少女が取り囲んでいた。カルタを並べながら他愛のないお喋りに興じる少女たちに、私が挨拶しようとした時、
「あ!もしかして、征司お兄さんですか?」
こちらを向いていた少女が私に気付いて声を上げた。その姿を見て、私は少々面食らう。金色の髪に金色の尖った耳、腰に生える二本の尻尾から、少女が稲荷と呼ばれる魔物であることが一目で分かったからだった。少女はパッと立ち上がって私に駆け寄る。
「一度会ってみたかったの!澄ちゃんがいつもお兄さんの話をするから…」
「ちょ、ちょっとミッちゃん…!」
稲荷の少女の隣に座っていた澄子が慌てて少女の袖を引っ張るが、少女はお構いなしで私の手を取り、カルタの環の中に私を引き入れる。私は澄子の隣に座らされると、束になった札を手渡された。
「はい!じゃあお兄さんは、札を読む係でいいですか?」
「ミッちゃんてば……ちょっと挨拶するだけって言ったのに…」
私の方をチラチラと気にしながら隣の少女を窘める澄子の姿が、何だか妙に新鮮だった。

「『長門と陸奥は日本の誇り』」
「『子よ孫よ 続けよ建てよ 新東亜』」
「はいっ!」
 私が読み終わらないうちに、少女たちは次々と札を見つけては畳を叩いていく。澄子と、美千代という名らしい稲荷の少女の他は二人とも人間の娘だったが、四人は何のしがらみもなく共に遊んでいるようだった。一年以上前から澄子を見知っている身としては、あの頃は一人遊びばかりしていた澄子が級友と睦まじく遊ぶ姿というものに感慨を覚え、先程の絹江さんの喜びようも理解できる気がしていた。
 私の隣に座る澄子は、カルタが始まってから妙にソワソワした様子で、両隣に座る私と美千代にしきりに視線をやっていた。そんな澄子に、時おり美千代が悪戯っぽい顔で何事かを耳打ちすると、澄子は顔を赤くして俯いてしまうのだった。
「お茶とお菓子、ここに置いておくから、終わったらいらっしゃいね」
 台所から盆を持って現れた絹江さんが、五人分の茶と洋菓子を茶の間の卓袱台に乗せた。私は振り返って礼を言うと、「絹江さんもご一緒にどうですか」とカルタの札を示した。
「そうねぇ…でも、大人が入ったらいけないんじゃないかしら」
 そう言いながらも絹江さんは、蛇体を擦りながら私たちのいる居間へ入ってきた。私が絹江さんの入る場所を空けようともぞもぞ動いていると、早く次を読むよう少女たちに急かされる。
「分かった分かった。ええと…『活かせ社会に 魔物の力』」
 絹江さんが私と澄子の間に座り、再び少女たちのカルタ取りが始まった。
「『狐狸妖怪も 日本の宝』」
「『働かう 人ならざるも 国のため』」
 取り札には、日の丸の鉢巻を頭に巻き、もんぺを履いて勤労奉仕に励む稲荷や刑部狸の姿が描かれている。驚かされたのは、いろはカルタの中にそのような魔物に関する標語が含まれている事である。ほんの数年前に国が始めたばかりの政策が、早くも子供の標語カルタに反映されているという事実。私自身の子供時代と比較しても、世相の移り変わりが如実に表れているように感じられた。十年一昔とはよく言うが、そういえば私の子供時代とはもう十年も昔なのだと、今更ながら気付かされる。
 取り札はもう残り少なくなっていた。私は手元に残った三枚のうち、一枚の札を読み上げる。「『産めよ殖やせよ国のため』」札が少なくなれば勝負は手の速さで決まる。当たりの札のすぐ側に座っていた人間の少女がすぐさま札を取った。
「あれ…?これって…」
 すると、札を取った少女が取り札の図柄をしげしげと眺めて首をひねった。「どういう意味?」
 少女から札を見せられた私は思わず面食らった。そこに描かれていたのは何と寝室に敷かれた一組の蒲団。仲睦まじい家族の図でも描けばいいものを、何故よりによって子供向けのカルタにこの図を描くのか、理解に苦しんだ。(後で知ったことだが、子供に「そちらの方面」の教育を施したいという魔物の家庭からの強い要望により、特別に刷られた版なのだという。)
「私知ってる!これって、赤ちゃんを作る部屋なんでしょ?姉さんが言ってたの!」
 更に困った事には、美千代が得意気な顔で余計な一言を言ってくれた。ませた子供だとは思っていたが、ここまで知識が進んでいるとは、魔物の家庭の教育は一体どうなっているのかと頭を抱えたくなった。何も知らない(はずの)澄子が目を丸くして尋ねる。
「赤ちゃんを?どうやって作るの?」
「そこまでは…知らないけど…。お兄さんは知ってる?」
 幸い美千代はそれ以上の知識を持っていなかったが、不味い事に私にお鉢が回ってきた。少女たちは夫婦の秘密に興味津々と見え、私にその答えを期待した八つの純粋な瞳が私を真っすぐに見つめてくる。
「あー、それは……弱ったな。絹江さん、何かいい説明がありませんかね…」
 たまらず私は絹江さんに助けを求めた。絹江さんは畳を見つめていた。
「絹江さん?」
 私はもう一度呼びかける。返事は無かった。絹江さんの目線は、畳の上、「産めよ殖やせよ」の札があった場所に注がれているようであった。否、注がれているようでいて、何も見えていないような、宙を漂う視線であった。その時の絹江さんの表情を、私は言葉で正しく言い表す術を知らない。あえて表現するならば、そこから何の感情も読み取れない、能面のような顔であった。何か考え事に耽っているのか、心ここにあらずといった風情でありながら、その唇も瞼も微動だにしていなかった。唯一、特徴的な彼女の下がり眉が、普段よりももう少し端を下げているように見えた。
「お母さん?」
「…え?…あ…ごめんなさい。少しぼうっとしていて…。何の話だったかしら?」
 澄子の言葉に、絹江さんはハタと我に返った。慌てて取り繕うような笑みを浮かべ、私の顔を見た。

 結局、その話がその後どのように片付いたか、私は覚えていない。



 汗ばむ程に晴れた陽気の、初夏の昼下がりだった。私は二階の自室で、書物の山に埋もれるようにして論文用の原稿用紙と格闘していた。教授から課題として出された論文を完成させるため、図書館から借りた日本語の文献だけでなく外国語の雑誌や論文集、更には外国語を読むための辞書までも机の上に積み上げなければならなかった。休みなく走らせる鉛筆を時々計算尺に持ち替えながら原稿用紙を文字と数式で埋めてゆく作業は、肌に張り付くような暑さの中で、果てしなく長い時間のように思われた。窓を開け放しても、そよ風さえ吹き込んではこなかった。
 ふと、背後で物音が聞こえた気がして振り返った。二階の廊下の端、下へ降りる階段の所に、何かもぞもぞと動く影があった。と思えば、ひょっこりとそこから顔を出したのは、四つん這いのような恰好で階段を這い上がってきた澄子だった。澄子は私の姿を見つけると、悪戯っ子の顔で笑った。
「驚いたな。一人で上ってきたのかい?」
 半ば呆れた声で私は言った。人間の足が無い澄子はここまで上ってくるのに相当の苦労をしたらしく、額にはうっすらと汗が滲んでいた。澄子は廊下を這って私の部屋に入ってきた。
「うん。お母さんには内緒ね。危ないって怒られるから」
 そう言うと澄子は、部屋の畳の上にちょこんと座った。私は鉛筆を机に置き、座布団を回して澄子に向き直る。
「それで、俺に何かお話があるのかな?」
「うん。…あのね」
 しばらくの沈黙があった。所在無さげに両手を弄び、小さな唇がもぐもぐと動いていた。考え事をしている時の絹江さんの仕草に似ていた。
「……お兄ちゃんを、寂しくさせちゃったかな、って思って」
 俯いたまま、澄子がポツリと言った。
「寂しい?寂しくさせたって、いつ頃?」
「…この頃、わたしがミッちゃん達とばっかり遊ぶから」
 ここで、澄子は上目遣いに私の顔を見た。
「前はお兄ちゃんがたくさん遊んでくれたのに、二年生になってからわたしが新しいお友達とばっかり一緒にいて…。あんなに遊んでくれたお兄ちゃんを放ったらかして……ごめんなさい」
「ああ…」
 なるほど、と合点がいった。澄子が気まずそうに振る舞っていた理由はこれだったのだ。ずっと負い目に感じていたその事を私に詫びるため、わざわざ苦労して階段を上ってきたのだ。澄子は本当に深刻な様子で私にそれを告白してきていた。しかしそうと分かると、私は思わず顔を綻ばせそうになった。可笑しいというか、いじらしいというか、子供なりの気遣いで自分が心配されていると思うと、少し嬉しくもあった。
「でも、お兄ちゃんと遊ぶのが嫌になったわけじゃないよ?ただ、みんなと外で遊ぶ約束が多くなったから…」
「大丈夫だよ、澄子」
 私は口を開いた。ここで「寂しくない」と言えば配慮に欠けると言えよう。私はできる限りの優しい声音で、言葉を選びつつ話した。
「そりゃあ前のように澄子と遊べないのは寂しいが、友達が増えるのは良い事だろう?澄子の人生のためだ、少しくらいなら俺が我慢するさ」
「本当に…?」
「勿論。それに、この間は友達を家に連れて来て、俺に会わせてくれようとしたんじゃないのかい?」
「…うん」
「優しいな澄子は。そうやって気遣ってくれているんだ、俺はちっとも気を悪くしていないし、これからも澄子と仲良しのお兄ちゃんだ」
 澄子の顔が少し和らいだ。私は両手を広げ、小さく手招きした。
「おいで」
 素直に擦り寄って来た澄子の顔を下から見上げ、その肩を抱き、頭を撫でる。
「何ならまた友達を連れてきたら良い。俺に紹介してくれるかい?」
「わかった」
「よし、じゃあ仲直りだ」
「うん、……うん!」
 澄子の目尻が下がり、表情は満面の笑みに変わった。澄子の小さな腕が、私の首に抱きついてきた。私は背中に腕を回し、ポンポンと叩いてやった。

「お勉強してたの?」
 しばらくそうした後、澄子が私の机を見て言った。私は机の方へ向き直り、胡坐の上に澄子を座らせてやった。澄子の頭の上に私の顎が乗っかる形になった。私の胸に背中を預けた澄子の体重を感じ、下半身の鱗がひんやりとして気持ちが良かった。
「そうだよ」
「何のお勉強なの?」
「そうだな…物理…と言っても難しいか。まあ、学校の理科がうんと難しくなったようなお勉強だよ。お米の粒よりももっと小さい、目には見えないくらい小さなものを調べているんだ」
「目に見えないのに、どうやって調べるの?」
「考えるのさ。理屈と算術を使って、こうやって紙の上でね」
「ふぅん…難しそう…」
 机の上の書物を手に取って難しい顔をしてみせる澄子だが、当然理解できる筈もなく、やがて私の顔を見上げて尋ねた。
「お兄ちゃんは、大きくなったら何になりたいの?」
「…何に、か」
 子供特有の無邪気な質問が、私の心を深く刺した。それは、実を言えば私にとって致命的な質問だった。
 理論物理学なぞをやっていると、それが将来何の役に立つのかといった質問は嫌という程投げかけられる。それはいわゆる実学重視の輩からの揶揄だけではなく、親兄弟からの、私自身の将来に資するのかという心配でもあった。
「あ、わかった。お船を作るんでしょ。お父さんが前に言ってた!」
「いや…これは船だとか飛行機を作る学問とは違うんだよ。もっと、こう、理屈を働かせるような学問なんだ」
 確かに、以前は工学系の道に進もうと考えていた事もあった。しかし、今や私の心を占めているのは、世界の構成原理を解き明かしたい、物理法則の深淵を明らかにしたいという学問的興味であった。そして実際にその道を進みつつあった。その一方で、世間の良識が私を絶えず圧迫していた。このご時世、男子たる者が国家や軍部に貢献しない事があるか、いわんや帝大に身を置く者が、である。(その頃、物理学者は軍部による新型爆弾の開発に駆り出されているという噂もあったが、私の研究室とは無縁だった)
「じゃあ何になるの?」
「何だろうな……このまま行けば学者か、研究員か…いや、先の事はまだ分からないな」
 畢竟、私はまだ選択の最中にいるのであった。定められた道などありはしなかった。私は逆に問いを返した。
「澄子は何になりたいんだい?」
「私も…わかんない。やりたい事、たくさんありすぎるから」
 そう言いながら澄子は、書物を眺めるのに飽きたのか、机の上の原稿用紙を丸めて望遠鏡のように持ち、窓の外を眺め始めた。私は大切な原稿が弄ばれるのを、ただ黙って眺めていた。
「何が見える?」
「お空!お兄ちゃんも見る?」
 私は紙の望遠鏡を受け取り、それを正面に向けながら覗き込んでみた。
 
隣の家の壁が見えるのみであった。
16/11/04 17:59更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
ホント遅筆でごめんなさい。
次で完結と言いましたがすいません、もう一回分続きます。

関係ないですが図鑑で鰻女郎さんが公開されたとき、自分の中の絹江さんのイメージそのまんまだったのでビビりました。

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