連載小説
[TOP][目次]
4.絹江さんと私
 人は何を成す為に生まれてくるのかと、誰しも一度は己に問うのだろう。
 そして己はこれを成すのだと、誇らしく言える人間もそう多くはないであろう。
 進次郎さんは言えるのだろうか。
 大学の仲間達は言えるのだろうか。
 私は?
 この私の茫漠たる前途にて、私を待ち受けるものは一体何であろうか?
 ――「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。」
 随分前に死んだ、ある作家の言葉が脳裏によぎった。

 
 或いは人は、何かを成すために死ぬのだろうか?





 梅雨空の雲がもう長いこと太陽を覆い隠していた。家の中に溜まる湿気で私の着物も何だか重く感じられるようなある日のことであった。居間で新聞をめくっていた私の耳に、台所から絹江さんの短い悲鳴と、何かの割れる耳障りな音が飛び込んできた。私は咄嗟に立ち上がって台所へ駆けた。
「どうされましたか」
 見ると、食器棚の前に立った絹江さんが、盆を手に持ったまま青い顔で立ち尽くしていた。その足元には茶碗が二つ転がり、そのうち片方は二つに割れていた。
「ああ、どうしましょう…どうしましょう…」
「動かないで下さい。今紙を持って来ますから」
 私は側に積んであった古新聞と雑巾を手に取ると、絹江さんの足元にかがみ込んだ。飛び散った破片を集め、割れてしまった茶碗と一緒に新聞紙にくるむ。絹江さんが破片で蛇体を傷つけることの無いよう、雑巾で床を一拭きした。
 絹江さんは何も言わず私のする事を眺めていたが、やがて腰が抜けたようにペタンとその場にへたり込んだ。顔色はやはりすぐれなかった。黙って俯いたままの絹江さんに、私は慰めのようなものを口にした。
「大丈夫ですよ。少し手が滑っただけです。近頃はお疲れのようでしたし」
「…夫婦茶碗なんです。あの人との」
ポツリと絹江さんが呟いた。
ハッとして手を止めた。新聞紙と一緒に私がくしゃくしゃに丸めた割れた茶碗は、片割れよりも少し大きかった。

 この頃の絹江さんは、神経が以前より過敏になっているようだった。新聞に玉砕という文字を見付ける度に沈痛な面持ちを見せ、家に訪問者のあるのを恐れているようにも見えた。特に先日山本元帥の訃報を聞いてからというもの、しきりに軍の動向を心配するようになり、支那とは方面が違いますからと私が言っても気は休まらないようであった。進次郎さんからの便りはここ三週間ほど途絶えていた。
 私がかける言葉を選んでいるうちに、絹江さんがまた口を開いた。
「ここへ越してきた時に、上野へ行って二人で買ったんです。まだ澄子が生まれる前で、あの人も将校になりたてで…」
 言葉は訥々と、何かに操られるように口から流れ出ていた。絹江さんの下唇が、微かに震え出した。
「沢山稼いで、今度は美濃焼を買ってやるからって、あの人が…それから戦争が、始まって……男の人って、どうしてみんな戦争に、行ってしまうんでしょう…。どうして、お国のために、死んでくるって…」
 絹江さんの白い手が、割烹着の裾を握りしめた。
「進さんがいなくなったら、私、もう、どうしたら…澄子と二人で、この世の中で生きていくなんて…私のような女が…」
「そんな事を言うものじゃ…」
「だってそうじゃありませんか!こんな、こんなもんぺも履けない女が…、たった一人しか産めなかった女が…」
 ほとんど悲鳴のような感情の迸りが絹江さんの口を衝いて出た。
「世間に顔向けできなくて…!進さんに必要とされなかったら、私に生きる価値なんて…」

「絹江さん!」
 私は絹江さんの肩をやや乱暴に掴んだ。ビクリと身体を震わせた絹江さんの目が私を見た。そこから大粒の涙が一粒、頬に零れた。
「絹江さん、茶碗は落ちれば割れます。これが割れたのは貴方が床に落としたからだ。単なる物理法則です」
 無礼な事とは分かっていながら、敢えて強い口調で私は言った。目の前にいる私が何か言わなければ、この人は自分から潰れてしまうと思った。絹江さんは怒るというより、ただただ驚いた顔で私の言葉を聞いていた。私は肩を掴む手に力を込めた。
「…お願いですから、それ以上ご自分を傷つけるのは止めてください。進次郎さんは、進次郎さんは…」
「必ず帰ってきます」と、軍人の妻に向かって言うのは憚られた。私は慎重に言葉を選び、できる限り口調を和らげるつもりで言葉を継いだ。
「…今も向こうで務めを果たしておられます。進次郎さんも信じている筈です。貴方は強い女性だと。私にそう言っていましたから」
「…私の事を…?」
「保障します。だからどうか気を…」
 その時だった。玄関のガラス戸を何者かが叩く音がした。
「綿貫さん!郵便です」
 またビクリと、絹江さんの肩が震えた。一度落ち着きかけた表情に、恐怖の色が蘇ってきた。私は肩から手を離すと、スックと立ち上がった。「私が行ってきます」
 すると絹江さんは、歩き出そうとする私の袖を掴み、縋るような目で私を見上げた。嫌々をする子供のように首を振り、声にならない声で「行かないで」というような懇願をする。
「大丈夫、大丈夫ですから」
 私は無理にそう言うと、絹江さんの手を振り払うように玄関へ向かった。
 もう一度玄関を叩く音がした。私は迷いなく玄関へ歩を進めた。私には妙な信頼があった。否、そう見えるように自分を奮い立たせていた。私とて恐れていた。この来訪者が彼の死を告げるものである事を。それを絹江さんに伝えなければならない時のことを。

 郵便を受け取った私は、足早に台所へ戻った。そして床に座り込んだままの絹江さんに、それを掲げて見せた。
「お便りですよ。重慶からだそうです」
 それは例によって几帳面な細かい字で埋め尽くされ、「検閲済」の判が押された進次郎さんからの葉書だった。それを見た絹江さんは、縋りつくように私の手から受け取り、座ったまま、書かれている文言を初めから終わりまで、何度も何度も噛みしめるように目を通した。そして葉書を胸に当て、愛おしそうにそれを両手で抱きしめた。
 私がすぐ横に立っている事にも構わず、彼女は長い間そうしていた。
「絹江さん」
 その姿を見ていた私の心に、不意にわずかな反骨心のようなものが沸き上がった。待ちに待った進次郎さんからの葉書ばかり眺めている絹江さんに、私は自分の存在を示しておかなければならない気がしたのだ。子供じみた対抗意識だった。絹江さんの笑顔が戻れば、それで満足できた筈だったのに。
「絹江さんを必要としているのは、何も進次郎さんだけじゃありません。澄子だってそうです。それに、……私もです」
 絹江さんが私を見た。
「貴方には毎日これ以上無い程お世話になって、心から感謝しています。貴方がいなければ、今の私は無かった」
「…そんな、大げさだわ。私なんかが…」
「ご謙遜は止して下さい。貴方は素晴らしい女性じゃありませんか。お一人で澄子を育て上げられて、教養が有って、それに…それにこんなにも美しいじゃありませんか」
 動悸がしていた。胸の奥に溜まっていた塊が一度に吐き出されるように、言葉が飛び出していた。一息にまくし立てた後、頭がスッと軽くなった。言わなくても良い事まで口に出してしまっている自分に気が付いた。しかし、もう遅過ぎた。

「…ふふっ、なぁにそれ」
 絹江さんは一瞬きょとんとした顔をすると、不意に吹き出して笑った。手で目元を拭いながら、笑いを堪えられないといった顔で言った。
「私なんて明治生まれのおばさんよ。綺麗だなんて……でも、ありがとう。そうね、私も頑張らなくちゃ。あの人に笑われちゃうわ」
 そう言って立ち上がった絹江さんの表情は、もはや逞しい主婦のものだった。
「後は私が片づけておくから、もう大丈夫よ。本当にありがとう」
「いえ、お役に立てて光栄です」
 私は茶碗の後片付けを始めた絹江さんの背中を見送ると、元いた居間の方へ踵を返した。晴れやかな表情を顔に張り付けて見せたまま。




                 *                   


「…少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
 何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。…」



                  *                   



 私はあの時、自分の想いを半ば絹江さんに打ち明けたも同然であった。
 笑って本気にされなかったとはいえ、彼女に一度は思いの丈を打ち明けてしまったという実感は、モヤモヤと鬱屈した感情と共に、一種の安心感のようなものを、私の心に与えていた。私と絹江さんとで、一つの秘密を共有したような、奇妙な絆が芽生えたような感覚が、私を大胆にした。
 私は、あれから度々絹江さんに「美しい」という言葉を堂々と使うようになった。事あるごとに絹江さんの容姿を褒め、本心からの称賛を口にした。あの日以来すっかり元気を取り戻した絹江さんは、そんな私の言葉を笑って受け止めた。しかし「美しい」という私の言葉が、本人も気づかぬうちに彼女をどんどん美しくしている事を私は知っていた。

 学期の終わりに差し掛かり、私は試験勉強に追われる日々を送っていた。日増しに厳しさを増す暑さの中でうんうんと唸りながら図書館に籠るのが嫌で、私はいつも早めに帰るようにしていた。時には澄子よりも早く帰ってきてしまい、絹江さんに麦茶を淹れて貰うこともあった。
 夜が更けても、蒸し暑い事には変わらなかった。大抵真夜中を過ぎても明かりを点けて試験勉強をしていた私は、ある晩どうにも暑さを喉の渇きに耐えかね、足音を忍ばせて階下の台所へ向かった。
 
 流しで冷たい水を一気に飲み干した後、ふと振り返ると、開け放した襖の向こう、居間に蚊帳の張られているのが目に入った。
 私は見た。蚊帳の中で、浴衣姿の絹江さんが澄子と一緒に横たわっているのを。普段結っている髪が解かれて枕の上へ流れているのを。寝返りと共に露わになった白い胸が、波打つように上下しているのを。気が付けば、私の足は蚊帳のすぐ側まで吸い寄せられていた。細かい網の目を透かして、私は無防備な絹江さんを見下ろしていた。
 一晩、また一晩と、私はその夜這いじみた盗視を重ねた。大体において絹江さんは澄子を早くに寝かしつけてそのまま寝てしまう為に、機会は毎晩のように訪れた。
 真夜中を過ぎると、私は息を殺して階段を下り、廊下或いは茶の間から居間を覗き見る。居間全体を覆うように吊られた蚊帳には、私は決して手を触れる事は無かった。ただ絹江さんの寝息が聞こえる程に、緑の麻の匂いを嗅げる程に近づき、目だけで彼女の肢体を飽きるまで眺めるのである。
 幾度となく重ねられる盗視の中で、私の視線は遂に蚊帳の薄い膜を通り抜け、絹江さんの肌を愛撫するようになった。その柔らかな肢体に触れる感触を、私はありありと思い描く事ができた。開け放たれた雨戸から差し込む月の光で照らされた肌を、私の眼が撫でてゆく。艶めく髪を、淡い唇を、青白い首筋を、私の見えない手がなぞる。乳房の間を通って臍を、下腹部から腰にかけての鱗の生え際を撫でる。黒光りする鱗は油を塗ったようにぬらぬらと照り映える。月の無い夜、外から差し込む光の無い夜は、蚊帳の中の彼女を見る事はできなかった。しかしそれでも、私は蚊帳の傍らに立ち、絹江さんの寝息、衣擦れの音、蛇体が擦れる重い音に耳をそばだてた。闇の中で私の幻の手は、確かな感触と共に彼女の肌の曲線をなぞる事ができた。
 実際には、私は絹江さんの蛇体に触れた事など無かった。澄子の鱗は柔らかく、弾力を持って滑らかであったが、脱皮を重ねた絹江さんの鱗がどのような感触か、私には知る由も無かった。それ故に彼女の蛇体は、未知なる領域として私の想像をかき立てた。絹江さんは寝ている間、無意識に蛇体を柱などに巻き付ける癖があった。そうする事で安心するのか、ある時は家の柱、またある時は丸めた掛布団に、二重三重にその長い尻尾を巻いて眠っていた。二階の自室で眠る私はしばしば、夢の中で絹江さんに巻き付かれる柱になった。手足は動かず、抵抗もできないまま巨大な蛇の尻尾が私の身体を締め上げてゆく。足先から始まり、腰、腹、胸と段々に身体が包まれてゆく。終いには首から上を完全に覆い、呼吸すらも危うくなる。私はそれに幸福を感じていた。

 長い物に巻かれるとは、何か大きな存在に自らを委ねる事である。そしてその感覚は、抗い難い力で以て人を魅惑する。多くの人が、自らを大きな力に委ねる。私にとってはそれが絹江さんであった。絹江さんこそが、私のイデオロギイであった。





 毎夜の秘め事は、もう二週間になろうとしていた。そのうち試験期間も終わり、大学は夏季休業に入ろうとしていた。いよいよ私にも、身の振り方を考えなければならない時期が到来していた。
 その日は、例によって朝から憎らしい程の晴天で、太陽が容赦なく我々の頭上から照りつける土曜日だった。前日の夜更かしが原因で、私は日が高くなるまで蒲団から出て来られなかった。目を覚ました時私は汗だくで、何とか這うように蒲団から抜け出した私は、階段を下りて洗面所へ向かった。澄子はもう学校へ行った様子だった。顔を洗って洗面所を出たところで、バッタリと絹江さんに鉢合わせた。
「あら、今日はお寝坊さんね」
 絹江さんが微笑んだ。私はきまりが悪くなって目を逸らす。
「すみません。今日は講義が午後からなもので」
「いいのよ。朝ごはんは?もうすぐお昼だけど」
「頂きます」
 一旦二階へ上がって身支度を整えた私は、鞄と学帽を持って階段を下りる。茶の間へ入ると、既に絹江さんが簡単な食事を用意してくれていた。頂きます、と手を合わせ、私は朝餉とも昼餉とも言い難い食事に手をつける。絹江さんが、私の横でお茶を注いでくれていた。
 絹江さんが口を開いた。
「もうすぐ夏休みだけれど、ご実家にはいつごろ帰られるの?」
「いえ、今年は……特に用も無いので…」
「あら、どうして?お顔を見せてあげなさいな」
 絹江さんが珍しく強い口調で言った。私は何とも言い返せずに味噌汁を啜る。
 
 実家の両親は、当然の如く私は帰省するものと考えているらしかった。ついこの間送られてきた手紙でも、はっきりとそうは書かれないものの、言外に私が帰る事を想定して話をしている様子だった。しかし帰らなければならない大事な用も無い以上、私は勉強が忙しいとか何とか理由をつけて東京に留まるつもりでいた。特に積極的な理由があった訳では無い。ひとえに、絹江さんと離れたくないためであった。
「せっかく良い大学に入ったのだから、ご両親に色々とご報告してあげないと。親戚とのお付き合いもあるでしょうし」
「いえ、家は兄も大学を出ていますから、私が行った所でどうという事は…」
「それとこれとは別よ。征司さんだって大事なお子さんなんだから」
 田舎の親戚のような事を言う絹江さんに、私は少し閉口させられる。田舎の話になるとここまで絹江さんが強情になるとは、私も知らなかった。そう言う絹江さん自身の田舎についても、私はほとんど何も知らない。以前それとなく尋ねた事があったが、何かきまりの悪そうな顔をしてはぐらかされてしまった。そこに踏み込めない事情があるのだろうと考えていた私は、それに言及する事は避けた。
「…実は、私自身東京に留まりたい理由がありまして」
「あら、そうなの?」
「はい。正直なところ…」
 私の心中にまたしても、秘密を共有する者同士の奇妙な幸福感が頭をもたげてきた。私は一寸笑って言った。
「絹江さんの所に居たいのです。貴方と居ると、本当の実家にいるよりも安心できるので」
 私の言葉を聞いた絹江さんは、以前よりも少し困ったような顔で笑った。
「もう、またそんな事を言って…お世辞が上手なのね」
「本当ですよ。この家は本当に居心地が良いんです」
 絹江さんは肩を竦めると、盆を持って立ち上がった。
「うちを気に入ってくれるのは嬉しいけど、ちゃんとご実家には帰った方がいいわよ」
 そのまま台所へ引っ込もうとする絹江さんに、私は少し面白くないものを感じた。絹江さんは、自分の美しさをちっとも理解していない。人にそれを言われても、決して本気にしようとしない。進次郎さんだけは違うのだろう。あの人の称賛の言葉にだけは、心からの笑顔を返すのだろう。私には許されないのだろうか。彼女の美しさを愛で、彼女を喜ばせる、たったそれだけの事も、私には許されないのだろうか。あまつさえ、彼女は私に、実家に帰るよう促す。実家に帰って親に顔を見せるよりも、私は絹江さんを見ていたいのだと、何故理解してくれないのだろうか。
 秘密を秘密に留めておくのは、もう限界であった。初めて彼女を見かけた時よりゆっくりと育っていた一つの感情は、もはや私の理性を超えて膨れ上がっていた。

「絹江さん」
 彼女が振り返った。
「貴方が居るからです」
 私の口は止まらなかった。
「貴方の事を、側でずっと見ていたいのです。絹江さん、貴方をお慕いしています」
 言葉にするのは一瞬だった。
 事前に考えていた訳でも無いのに、その言葉はするりと私の口から出て来た。出て来てしまった。
 
 私は、その言葉を聞いた絹江さんの表情を忘れる事はできない。
 それは、明らかに「困惑している」顔だった。嬉しいとか恥ずかしいといった感情は微塵も感じられず、ただひたすらに困惑した表情。目の前に突然難題を突き付けられ、驚き戸惑い、どう解決したものかと思案している表情だった。それらの感情を含んだ目で、私は絹江さんに見つめられていた。無論、絹江さんのそのような顔を見るのは初めてであった。これ程長い間お互いの顔を見つめ合うのも初めてであった。
 私は悟った。越えてはならない一線を越えてしまったのだと。これまで築いてきた関係が、絹江さんの目の中で、音を立てて崩れ落ちてゆくのが分かった。今の一瞬で、絹江さんの中でこれまでの私が全く違う人間となってしまった。これまでの言葉の真意が明らかとなった。秘密は、秘密を暴かれた瞬間、許されざる罪へと変じた。
 
 その時、
「ただいまぁ!」
 玄関の扉が開く音と同時に澄子の大きな声が響いた。二人同時に、その声に飛び上がりかけた。
 二人の空間に澄子が闖入した瞬間、私の心に猛烈な罪の意識が襲ってきた。私は、卓袱台に向かって手を合わせると、何も言わずに鞄を手に取り、立ち上がって玄関へ向かった。
 絹江さんは、そんな私に何も声をかけなかった。
 廊下を大股で歩き、玄関に至ると、入って来た澄子と鉢合わせる。
「お帰り、澄子」
「あ、お兄ちゃん!これから学校?」
「そうだよ」
「いつ帰ってくる?」
「分からない」
「早く帰ってきてね!」
 家に上がる澄子を尻目に、私は靴を履いて玄関を出る。後ろを振り返らずに、引き戸を背後で閉めた。

 私は大学へ向かって坂を歩き出す。頭の中には、先程の絹江さんの顔が渦巻いていた。
 後悔しても遅すぎた。絹江さんと私の関係は、今日を境に全く変質してしまった。女主人と書生から、決してあってはならない関係に。
 腹の上側の方にむかむかする塊があった。呼吸が小刻みになった。頭の中は相変わらずぐるぐると回転していた。
 道で人とすれ違う度に、心臓が跳ね上がる。隣家の婦人、下駄履きの男性、自転車に乗った官憲。あらゆる人々の目が、私を射竦めているように見えた。自分の罪に、絹江さんをも巻き込もうとしている私を、監視し糾弾しようとするかに見えた。覚えず私の足は早まっていた。官憲の目、隣人の目、絹江さんのあの目、目、目!
 
 もはや限界であった。
 私は赤門をくぐると、そのまま構内を突っ切って上野へ向かった。
 駅前の文具屋で便箋を買うと、「父が急病との電報あり。急ぎ帰省します」との簡潔な手紙を書き、絹江さん宛てに投函した。
 私の足はそのまま、雑踏に溢れる上野駅へと吸い込まれていった。










                   *
 


 残暑がようやく和らいできた頃、夕暮れの迫る本郷の町。
 下り坂と共に緩やかに曲線を描く通りの両側に、家々がところ狭しと立ち並ぶ。
 通りを行き交う人は無く、野良犬の吠え声の他に音を立てるものは無かった。
 そんな静まり返った街並みを、足早に歩く青年が一人。学生帽に黒い詰襟を着た青年は靴音を立てて一軒の家の前に立ち止まる。青年は右手を上げると、躊躇いがちに玄関の扉を叩いた。
 ややあって、音を立てて引き戸が開かれる。中から現れたのは、垂れ目がちの目元が儚げな印象を与える、半人半蛇の婦人だった。青年の姿を目にした瞬間、婦人は息を呑む。
「征司さん……!」
「ご無沙汰しております。突然帰省してしまって、ご心配をお掛けしました」
「そんな…お父様の具合はもうよろしいの?」
「…ええ、何とか、回復はしたようです」
「そう……それは…良かったわ…」
 二人はお互いに言葉を継げずに沈黙してしまう。二人共お互いの顔を見ようとはせず、足元に視線を落としていた。婦人が一瞬何かを言いかけるが、すぐに口をつぐんで俯いてしまう。
「本日は、ご挨拶に伺いました」
 おもむろに、青年が口を開いた。

「海軍に志願しました。明日、横須賀の基地で入隊します」
 婦人が、目を見開いた。
「え……?」
「これまで本当に、お世話になりました。ご迷惑をおかけしてばかりでしたが、絹江さんには大変…」
「ちょ、ちょっと待ってください……海軍に…?」
 信じられないといった表情で、婦人が青年の言葉を遮る。青年は目を合わせないままだった。
「一体…どうしてそんな……」
「……」
 青年は、言葉を詰まらせていた。少し躊躇うような素振りを見せた後、ぼそぼそと呟くような声音で青年は話し始めた。
「…私は、本当にどうしようもない人間なのです。何事も成さず、働きもせず、ただ人の世話になって日々を生きているだけ…」
 青年の口調は弱弱しく、しかしその言葉はあらかじめ決まっていたかのように、淀みなく次々と口から流れ出ていた。
「進次郎さんは戦っておられます。何万という軍人の方々が、お国の為に命を捨てて戦っておられます。…来月には大学にも、出陣の命令が下ると聞いています」
「でも、征司さんは理系だから…」
「だからこそです。進次郎さんが、何万という軍人の方々が戦っているというのに、私は召集されないが為にのうのうと生きようとしているのです。…私の、私の友人までも戦っているというのに!」
 段々と語調を荒げる青年を、婦人は黙って見つめていた。
「もう自分の不甲斐なさに耐え切れないのです。この二か月散々考えました。私が人様の役に立てる事は、意義のある生き方とは何かと。……もはや、この命を使うより外には無いのです。お国の為に、命を捧げる事しか…」
「…あなた、自分を傷つけるなって、私に言ってくれたんじゃないの…?」
婦人が口を開いた。怒りともとれる強い口調だった。
「自分で言っていたじゃない!あなたそれじゃあ前の私と一緒よ!卑屈になってばかりで、ヤケになったって何も…」
「私は男です!」
 初めて、青年が顔を上げて叫んだ。突然爆発した噛みつかんばかりの剣幕に、婦人は思わずビクリと身を震わせる。
「…日本男児なのです。男と生まれたからには、成さねばならぬ事があります。戦って国を守る事です。両親も、喜んで賛同してくれました」
 一息にまくし立てた青年は、やや落ち着きを取り戻した様子だった。しかし婦人の目は、戸惑いに大きく見開かれたままだった。
「急で申し訳無いのですが、六時には横浜行きの列車に乗らなければいけません。二階の荷物は、近いうち友人たちに処分するよう頼んでいますので」
 言うべき事は言ったとばかりに、青年は淡々と事務的な言葉を並べてゆく。
「本などは、よろしければ差し上げます。必要なければ売るなどしても…」
「…本当に、もう戻ってこないの?」
 婦人が、消え入りそうな声で言った。縋るように、青年の目を見つめた。
「…前のことは忘れて、また一緒に暮らせば良いじゃない。一緒にお夕飯を食べたり、本の話をしたり…」
「入隊はもう決定してしまった事ですので。申し訳ありません」
「…澄子が寂しがるわ」
「本当にすまない、とお伝え下さい。一緒に遊んだ事は忘れない、とも」
 婦人が何を言っても、青年が心を動かされる様子は無かった。ただ一言、婦人の全ての説得の言葉に対する返答の言葉を口にした。
「私がここにいては、貴方に迷惑がかかりますので」

 婦人は、言葉を失ったように立ち尽くしていた。やがて、独り言を呟くように婦人は言った。
「…あなたも戦争へ行くのね」
「はい」
「男の人はみんなそうね。お国のために、二度と帰らない覚悟で戦わなければならないって」
「はい」
「私には分からないわ。女だから。魔物だから。どうして帰りを待ってはいけないのか」
 婦人の言葉は口から零れ落ちるように、二人の間の空気に溶け込んでゆく。婦人は青年の目を見た。
「…ねえ、あなたのご両親は本当に、あなたの出征を喜んでくださったの?」
 青年は、答えなかった。
 返答の代わりに、青年は深々と婦人に向けて頭を下げた。まるでもう軍人としての作法が身に付いているかのような、きびきびとした礼だった。
 礼を済ませた青年は、立ち尽くす婦人を置き去りに、踵を返して坂を下り始めた。
 ハッとして婦人が追いすがろうとする。
「征司さん…!」
 三歩歩いた青年が、その声を聞いて不意に足を止めた。青年は振り返る。
「絹江さん」
 少しだけ柔らかな表情を浮かべ、青年が呟いた。

「人間とは、まことに弱い生き物ですね」













あれから、またいくつかの季節が過ぎました。
たくさんの町が燃え、たくさんの人が死にました。
毎日のように、遠い海の向こうで、たくさんの船が、飛行機が、兵隊さんが散っていく様を聞かされました。
私たちには、それを悲しむ時間も心の隙間も、残されてはいませんでした。

私たちの家も、今はもうありません。本も、蒲団も、ちゃぶ台も、あの晩、東から飛行機が飛んできて、みんな燃えてしまいました。
真っ暗な空から、銀色に光る飛行機から、きらきらと燃える光が降ってくるその光景は、これから先ずっと忘れられないくらい、とても、とても綺麗でした。

 一日、一日があまりにも長く、時間の流れが心をすり減らしました。それでも、私たちは生きていました。地べたを這うように生き続けました。
そうして、あの人が去ってから、何度目かの夏が来ました。




 八月の太陽がじりじりと石畳を焼いていました。私は竹箒で道を掃きながら、時々手水舎からお水を頂いて石畳に撒いていました。
 私たち母娘が今暮らしているのは、元の家からそう遠くない、小さなお宮の境内でした。空襲で焼け出された後、頼るべき田舎もなかった私たちを憐れんで、親切なご近所の方々が永らく使われていなかったここの社務所に住めるよう、手を回してくれたのでした。そのせめてものお礼として、私は毎日のように境内を掃き清めたり、お宮の中を掃除したりして過ごしています。もっとも今の私には、するべきことが他にあるわけではありませんでしたが。
 空には夏らしい大きな入道雲が、むくむくと立ち上がっていました。アブラゼミの合唱が空気を震わせていました。ふと耳を澄ますと、セミの声に交じって、何か重いものを転がす音が遠くから聞こえてきました。
 鳥居の前に出ると、ちょうど娘の澄子が、大きなリヤカーを引きながら坂を上ってくるところでした。澄子は私に気が付くと、大きく手を振って私を呼びました。見ると、澄子とリヤカーの後ろには、後ろからリヤカーを押す年配の男性の姿がありました。
「ご苦労さま。手伝って頂いたの?」
「うん。二丁目の仲代さん。途中で会って、押すの手伝ってもらったの」
「なに、この位いつでも言って貰って構わねえよ」
「まあ、それは…ありがとうございます」
 澄子の額はびっしょりと汗に濡れていました。確かに、これだけのものを引いて坂を上って来るのは、澄子の足ではさぞかし骨が折れたでしょう。私と澄子は、深々と頭を下げて歩み去っていく男性を見送りました。家を失ってからというもの、私たちはこのようなご近所の方々の好意に助けられてばかりでした。
「まさかこんなにあるなんて……疲れたでしょう?お昼があるから、足を洗ってらっしゃい」
「うん」
 澄子は、暑さに火照った蛇の身体を冷やすため、手水舎に向かって行きました。

「みんな焼けたと思っていたけど…案外残ってるものね」
「畳の部屋のはみんな燃えちゃったけどね。逃げる前にお風呂場に投げ込んだのが、けっこう残ってるみたい」
 境内に運び入れたリヤカーを眺めながら、澄子が言いました。社務所の縁側に腰かけ、お昼のカボチャを頬張っていました。
 澄子はこの数年で、見違えるほど大人になりました。背もずいぶん大きくなりました。まだ尋常小学校の四年生であるにも関わらず、わがまま一つ言わず、こうして家の仕事も進んでやってくれています。お友達はみんな田舎へ疎開してしまい、小学校も閉鎖になる中で一人残されたこの子には、子どもらしからぬ苦労をたくさんさせてしまいました。けれども、そうした苦労がかえってこの子を大人にしたのでしょう。
 親として、果たしてそれが良いことだったのか、私には分かりませんでした。

「あ、そうだ!」
 不意に澄子が、リヤカーに駆け寄って何かを取ってきました。「これ、ちゃんと残ってたよ」
 澄子が私に手渡したのは、竹細工の大きな箱でした。上蓋は煤で真っ黒に汚れ、角には穴も開いていました。けれども、蓋を開いてみると、中にはふやけて皺くちゃになった何枚もの葉書が、しっかりと積み上がっていました。燃え盛る家から逃げる直前、せめて燃え残ってくれればと、他の大事なものと一緒にお風呂場の浴槽に投げ込んだものでした。私は中の一枚を拾い上げました。水に濡れたせいで他の紙とくっつき、字は滲んでほとんど読めなくなっていました。それでも私は、これらが燃えずに残ってくれた幸運を、天に感謝せずにはいられませんでした。
「あと、これも」
 澄子がまた何かをリヤカーから取り出しました。手渡されたそれは、竹の箱よりも一回り小さな、お菓子の缶でした。外国風のかわいらしい絵で飾られ、元はお気に入りの小物を入れるために、澄子が使っていたものでした。その蓋を開けると、中には葉書がたった一枚だけ入っていました。私は葉書を手に取り、一行一行整った字で書かれた短い便りを眺めました。読み返すうち、私の胸にはあの家で起こった様々の出来事が蘇ってくるようでした。けれどあの場所にも、この手紙の文字の上にも、それらが確かにあったという証は、微塵も残っていませんでした。
 私は竹の箱と、ふやけた葉書の山を縁側に置きました。そしてその隣に、たった一枚しか届かなかった葉書を、並べて置きました。澄子は何も言わず、その並んだ葉書を眺めていました。
 
 しばらくの間、私たちは黙ってカボチャを食べていました。セミは相変わらずやかましい程に鳴き続けていました。
「…澄子は、これからどうするの?」
 ふと、私は澄子に訊きました。私としては、今日はこの後何をするつもりなのか、という意図で質問をしたつもりでした。
 しかし、澄子が受け取った意味は、それとは異なっていたようでした。
「学校に行くよ。みんなが帰ってきたら」
 澄子は言いました。
「いっぱい勉強して、上の学校に進んで、それで…」
「それで?」
「…私、先生になる」
 澄子は前を向いて言いました。
「お兄ちゃんにたくさん教わったから、今度は私がみんなに教える。大学にだって、きっと行くんだから」
 そう言うと澄子は立ち上がり、運んできた荷物の片づけにかかりました。私はその背中を、少しの驚きと共に眺めていました。
 今しがた澄子の口にした夢が、どれほど難しいものか、私には想像するに余りありました。ただ生きることすら難しいこの世の中で、ましてや私たちのような魔物が、澄子の言うような職を得るということ。少なくとも私にとっては、思い描くことすらなかった未来でした。世間知らずな子どもの単なる夢物語でしょうか?
 私はそうは思いませんでした。それを話す澄子の目が、夫に似た丸っこい目が、あまりにも真っすぐに前を見つめていたからです。

 ああそうか、と私は気づきました。
 澄子の生きる時代は、これからどんどん変わってゆくのでしょう。私のこれまでの人生からは、全く予想がつかないような、でもだからこそ、この子の夢を無理だなんて決めつけることはできない時代に。
 だって戦争は、ようやく終わったのですから。私たちがこうして、ここに生きているのですから。
 あの人もきっと帰ってくるでしょう。そしてやり直せるのでしょう。終わってしまった平和な時間を。
 それを信じて、私はこの子と二人で、ここで待っていることにします。


 夏らしい大きな入道雲が、変わることなく空に立ち上がっていました。
16/11/17 23:45更新 / 琴白みこと
戻る 次へ

■作者メッセージ
引用文献:
「或旧友へ送る手記」
(『芥川龍之介全集 第十六巻』、1997年、岩波書店、pp.3)


ここまで読んで頂いた方、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33