序曲・2
「……助かった……のか……?」
愛機の操縦桿を握ったまま、私は息を吐いた。燃料計はすでにゼロを指しており、エンジンはとうに止まっている。軽量な偵察機だからこそ、滑空し不時着できたのだ。
一服して気分を落ち着けたいところだが、そうもいかない。町の大通りに降りたものの、この町がすでに敵軍の占領下という可能性も高い。何せ奇妙な雲に迷い込み、自分が何処を飛んでいるのかさえ分からなかったのだ。とりあえず、雑嚢をまさぐってショカコーラの缶を取り出す。眠気覚ましと栄養補給用のビターチョコレートだ。ひと欠片を口に放り込み、後部座席に身を乗り出した。普段は偵察要員が乗っているのだが、今日はライフル銃が一丁置いてあるだけ。頼りになるのはこれだけなのだ。
「できれば空で死にたかったが……」
ぽつりと呟いて苦笑を浮かべてしまうが、そうしているうちに周囲がざわめき出した。周囲の建物から民間人らしき人影が続々と姿を現す。私はライフルに素早く弾を装填し、初弾を薬室に押し込んだ。もっともここが敵地のど真ん中だとしたら、これと拳銃だけではどうにもならないだろうが。だが降伏する気はない。
まず慎重に外の様子を伺うが、民間人たちは遠巻きにして近寄ってこない。兵隊が来る前に逃げ出し、何とか現在位置を把握できれば……そう思ったときだった。
不意に、女性の叫びが聞こえた。英語ともフランス語とも似つかぬ言語で、何かを叫んでいる。その姿を探しても声の主は見えず、代わりに民衆が大慌てで家の中に隠れていった。もう敵兵が来たのか?
私は打って出る覚悟を決め―――目の前にその声の主が『舞い降りた』ことに気づいた。
「な……!?」
私は驚愕した。そこにいたのはイブニングドレスを身に纏った女性。手にしたランプによって、赤い髪や端正な顔立ちがはっきりと見える。しかしそのランプは彼女の道を照らすためではなく、私や民衆に自分の姿をよく見せるためなのかもしれない。
何故なら彼女の背には、人間にあるはずもないパーツが存在した。翼……蝙蝠のそれを思わせる、漆黒の翼があったのだ。
彼女は私に向けて、空いている手で手招きしながら語りかけてくる。言葉は理解できないが、降りてこいと言っているのだろう。だがあのような異形の存在、それも昔話か頭のイった奴の世迷いごとでしか聞かないレベルの生物に歩み寄られ、素直に出て行けるはずもない。幻覚を見ているのか、あるいは馬鹿が季節を間違えてハロウィンパーティでもしているのか。だがあの女の翼の動きは明らかに生物のもので、作り物では真似できないだろう。
お伽噺ではない。本物の『魔物』が、目の前にいるのだ。
続いて、別の人影が近づいてくる。今度は飛んでいるのではなく、二本足で歩いていた。だが暗闇の中に見えるシルエットは目の前の赤毛と同じ……翼を持っている。ギリギリで平静を保つ私に、それは静かに歩み寄ってきた。
そして、その姿がランプに照らされた瞬間、私は息を呑んだ。
――美しい……!
その娘は、その悪魔は、あまりにも美麗だった。まるでランプに照らされているのではなく、彼女自身が光を放っているかのように。
雪を糸に紡いだような髪。
それと近い色なのに、温もりを感じさせる肌。
血のように赤く、それでいて慈しみを宿した赤い瞳。
肌の色を強調するかのような黒い衣装。開けた胸元さえも気品に包まれ、単なる美貌とは言い難い魅力を醸し出していた。翼や角、尾などの異形の部品もそれを引き立てる。
だが私はその悪魔が、ただ外見が美しいだけではないことに気づいていた。強烈に、強制的に男を惹きつける力を、彼女は持っているのだ。
悪魔は私を見て微笑を浮かべる。それだけで夢心地になりそうだが、彼女はさらに手を差し出し、ゆっくり私を手招きした。その指先の動作さえも私を魅了する。
私は操縦席のドアを開けた。その動きに手繰り寄せられるかのように、機体から足を踏み出す。ライフルは初弾を抜いて操縦席に置き去りにした。あの方に武器を向けることなどできない……そんな思いを感じていたのだ。悪魔の方も近づいてきた。足運びの一歩一歩にまで不思議な気配が宿っている。間近まで近寄ったときには頭が重く、妙に良い気分だった。
すっと、白い手が差し出された。彼女が何語だか分からない言葉で何か言っている。その声までもが美しい。
手を取ろうと、私は飛行手袋を外し――
「ー!」
その瞬間、目を開けたまま微睡んでいた私の意識が覚醒する。この手袋を外すという行為が、自分が何者なのかを思い出させた。
即座に拳銃を抜き、悪魔に突きつける。美しい悪魔は驚いたような表情をしたが、すぐにまた微笑を浮かべた。
気がつけばすでに、私は包囲されていた。剣や槍などの原始的な武器を着た兵士達、しかもその半分近くが角や翼を生やしているか、下半身が丸ごと蛇や蜘蛛のそれに置き換わっている異形の兵だ。おぞましいはずの光景だが、目の前にいる白髪の悪魔が妙に緊張感を緩和している。この危機感を失ったら、彼女たちの為すがままにされてしまう……そう考え、私は戦慄した。
白髪の悪魔は再び、私に何か語りかけた。肩をすくめて笑いながら言うその仕草は、おおよそ敵意など感じられない。
私はたまりかねて叫んだ。
「分かる言葉を話してください! ここは何処なんです!? 貴方たちは何者なんですか!?」
こんな状況でも敬語を使ってしまう自分の性格が嫌になる。しかしそれを聞いた悪魔の表情が驚愕に固まった。辺りを取り囲む魔物の兵士たちも、微かにざわめき出す。どうやらこいつらも、私の言葉が理解できないようだ。
飛行機乗りは常に冷静でいなくてはならない。だがこの状況では、拳銃を握る手が自然と震え出す。引き金を引けば終わるのではないか? 或いは自分の眉間を撃ち抜けば確実に終わるのではないか? そんな誘惑が頭を過ぎる。
が、しかし。
「うっ!?」
突然、悪魔の赤い目がぼんやりと光った。それはほんの一瞬のことだったが、その赤い光は私の脳の深くまで浸透していく。先ほどの恍惚感とは違う心地よさが、体に広がっていった。
睡魔。抗いがたい欲求。
駄目だ、駄目だと体に言い聞かせても、銃を握ったままの右手がだらりと下がる。続いて足にも力が入らなくなり、私の体はふっと前のめりに倒れた。
そのまま重力に従い石畳にぶつかるはずが、何かふわりとした感触に受け止められる。ああ、これは……目の前にいる悪魔だ。
抱き留めた私の顔を覗き込みながら、彼女は赤い目を細める。温かい感触。
くそっ、女の腕に抱き留められるとは。このヴェルナー・フィッケルもヤキが回ったな……
心の中で悪態をつきながら……
私は睡魔に屈服した。美しい悪魔の腕の中で……
12/03/03 22:50更新 / 空き缶号
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