連載小説
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・悪魔
 豚小屋の場所から開けた土地が見える。そこは作物を育てる農地だった。
 時間をかけてそこまで着くと、一面に広がる畑を挟んでむこうがわに、立派な木造りの住居が建っていた。
 
「あれが町長の家です。このあたりの風景が好きだというので、あそこに暮らしているんです」
「ご主人さま、お話より早くオルバスさまを」

 ラブラがそう促し、三人はまたゆっくりと歩き始めた。
 畑の間に引かれた狭いあぜ道に苦労し、時々けつまずきそうになりながら、少しずつ町長の家へと近づいてゆく。
 時折、涼しい風が顔を撫でてゆき、オルバスの沈んだ気分を少しだけ和らげた。
 別のあぜ道の上では、農夫たちが場所を譲り合い、挨拶を交わしながらすれ違って行く。
 農閑期のせいなのか、多くの人数は見えないが、それでも畑の中で作業している人影がちらほらと見える。
 実におだやかな田園風景だ。

「おい、なんだ、あれは……」

 人間でないものが混じっていることを除けば。

「待て、なぜ植物がひとりでに動く」
「オジギソウだって動くじゃないですか」
「待て、なぜ馬の首に人の体が乗っている」
「オルバスさま、それより自分のお体を心配なさってください」
「待て、なぜニワトリが二本足で立っている」
「ニワトリは最初から二本足ですよ」
「待て、なぜウサギまで二本足で立っている」
「オルバスどの……、本当に大丈夫なのですか?」

 その一言が余計だった。
 オルバスはいきなり激しくもがいて、脇を抱えていた二人を振りほどいた。

「きゃあ!」

 ガボンがとっさにラブラをかばったが、受け止めきれず二人とも地面に尻もちをついてしまう。

「もう、もう我慢ならんっ!」

 さっきまで足腰の弱い老人のような状態だったのが嘘のようである。
 二人がオルバスのほうを振り返ると、彼は肩や腕をわなわなとふるわせ、姿勢はコロッセオに解き放たれた猛獣のごとく、首を突き出し歯をむき出しにし、今にも飛び掛からんばかりの形相であった。

「よくも今まで犬だ猫だ牛だ豚だと馬鹿なことをぬかしてくれたな! どうしようもないボンクラの貴様にもわかりやすく教えてやる、あれはすべて魔物だ! 御主の敵なのだぞ!!」
「彼女たちは誓ってそのようなことは一度たりとも言ったりなど――!」
「言うかっ!!」
 オルバスは服の中にしまっていた経典をつかむと、思い切り地面に叩きつけた。これだけでも重大な涜神行為なのだが、乱心となった彼にそんなことを気に掛ける余裕など残っているはずがない。

「告発してやるっ、貴様らを全員告発してやる!!」
「オルバスどの気を確かに!」

 オルバスは人差し指を立てた右手をビュンビュン振り回して、あたり構わず大声で罵りだした。風が吹くたびに審問官の服がはためき、土を被った経典のページがバラバラとめくれ、まるで悪魔の召喚でも始まったかのようだ。
 ガボンは膝立ちになってラブラを支えてやることしかできず、そのラブラもすっかりおびえきっていて、耳をぺたんと伏せたまま神父の服にしがみついて震えている。
 畑で作業をしていたものたちも、このただ事ではない事態に狼狽するばかりでどうすることもできない。
 のどかな田園風景は完全に破壊されてしまった。

「なんじゃなんじゃ騒々しい」
「あっ、町長!」

 ラブラが後ろからやってきた人物に気がついた。しかし、腰が抜けてしまって立てない彼女は座り込んだままだ。
 町長と呼ばれた者は、そんなラブラを気づかうようにそばまで近寄ると、怒り狂う男のほうをちらりと見やった。

「このかたはいったいどうなされたのじゃ」
「実はこちらに来られたときから少し様子がおかしくて――」

 オルバスは、ラブラと話している何者かに気づいた途端、まぶたが裂けんばかりに目をひん剥き、顔が真っ赤を通り越して熟れすぎたトマトのように赤黒く染まった。
 特徴を見ればはっきりわかる。姿は幼子のようになってしまっているが、町長だというそいつはバフォメットではないか! 
 オルバスの逆上は頂点を突破した。

「町長?! 町長だと! ふざけるなっ、何故化け物が町長なのだ!!」
「オルバスどのしっかりしてください! 彼女は化け物ではありません!」

 オルバスがバフォメットに殴りかかろうとしたので、ガボンがその前に立ちふさがってなんとか取り押さえようと頑張った。こうなってくると、今まで遠巻きに見ていたものたちも、町長に何かあっては大変と、みんなしてこちらに駆け寄ってくる。

「離せこの異端者めっ!」
「落ち着いてくださいっ、どうか落ち着いて!」

 振りほどこうとする審問官と追いすがる神父――。あぜ道の上でつかみ合いを繰り広げるが、荒事に慣れていない僧侶たちはどちらもモタモタと手こずっていてなかなかに決着がつかない。
 はずみで畑に転がり落ち、髪を振り乱し手足をばたつかせ、靴は脱げ服は裂け、顔まで泥だらけになり、ゼイゼイと喘ぎ声を発しだすころには、お互いを支えにしながらフラフラと、収穫後で掘り返されたイモ畑の中をさまよっているような有様だった。
 あれが神の信徒なのかと眉をひそめたくなるくらい、まことにみっともない絵面である。
 そうこうしているうちに地元民が二人のそばまで集まってくると、皆でオルバスをあおむけに突き倒して上から押さえつけにかかった。
 
「悪魔どもめっ! こんな町など――、つ、つ、つぶしてやるっ! 早く俺をっ、都にっ、呼び戻せぇえ!!」
「オルバスどの町長は――、ん、町長は、化け物などでは、ありません」

 地面にはりつけにされたオルバスへ、ガボンが息を切らしながら声をかけてくる。さらに何かしゃべろうとしていたが、この神父は息の整え方すら知らないのか、自分の呼吸で喉を詰まらせて咳き込んでしまう。
 オルバスはもはや言葉になっていないたけり声をあげ、唯一自由になる首を激しく動かして抵抗していたのだが、それがよくなかった。興奮し続けているうちに、また目の前の視界が白んできて、体に力が入らなくなってきたのだ。
 そこへガボンが、意識の途切れかけたオルバスに顔を近づけてきて、ようやく一言、こう告げてきた。
 
「彼女はヤギです」





 オルバス審問官は、町長の家まで担ぎ込まれると、二階にある客人用のベッドに寝かされた。
 彼が目を覚ました時には、窓の外はすでに日が沈んで暗くなっていた。
 窓の反対側を向くと、ガボンが椅子に座ってこちらを見守っている。

「長旅と慣れない土地で疲れていたのでしょう。今はゆっくりお休みください」

 ガボンがその場を離れようとして立ち上がると、オルバスの手が神父の袖をつかんで引き留め、しぼりだすような声でこううめいた。

「ヤギが町長など……、私は、ゆるさんぞ……」

 ガボンはなだめるようにオルバスの腕を布団へ戻すと、部屋から出てゆき、外から扉の鍵を閉めてしまった。
 もうどうすることもできない。起き上がりたいのだが全身の筋肉や関節が痛んで、身じろぎすることすら嫌になってくる。
 オルバスは仕方なく、ここまでの記憶をたどるために、自分の身に降りかかった災難の数々を思い出そうとした。しかしそれもしばらくしないうちに、だんだんと頭の中で前後の脈絡が曖昧になってゆき、ついにはまた、泥のような眠りへと落ち込んでいった。





 ガボン神父が一階へ降りると、階段の下でラブラが待っていた。だが、町長の姿が見えない。

「ラブラ、町長は?」
「教会に泊るそうです。この家は私たちに貸してくださると」

 町長は、自分がオルバスの近くにいると却ってややこしくなると考えたらしい。ラブラにことづけをして、家を離れたようだ。

「そうか……。ラブラ、怪我は?」
「大丈夫です。それよりもご主人様が」
「服が破れたくらいだ、大したことはない」

 お互いを気遣い、労わり、二人は会話を通して、あの恐ろしい出来事を何とか受け入れようとしていた。
 そのうち当然というか、話題は上の階で寝ている審問官をどうするかについてのこととなった。

「困ったものだ。疲労があったにしてもあそこまで乱心なされるとは」
「よほど大きな悩み事を抱えていらっしゃったのでしょうか……」
「わからない。だがどちらにせよこのままにはしておけない。あんな状態で山道を帰らせるのは危険すぎる」

 神父の深刻そうな表情を、ラブラが心配そうに見つめている。
 ガボンの言うことはもっともだった。仮に山道を誰かが付き添って送って行ったとしても、山を下りてから都までの道を、今のオルバスが一人で無事に帰れるとは到底思えない。どこかでいきなり蒸発でもされたら、それこそ大変な騒ぎである。
 しかし幸いなことに、この町には、傷ついた人間の心をいやす伝統的な治療法があった。動物と長い付き合いを続けてきたこの土地ならではの方法だ。
 ガボンはラブラに尋ねた。

「牧場に余った羊はいるだろうか」
「その子に任せるのですか?」
「他に適任がいれば検討するが……」
「とりあえず声だけでもかけておきましょう」
「そうしてくれるか?」

 こうして、オルバスに「治療」がほどこされることとなった。
16/02/20 23:00更新 / 祈祷誓詞マンダム
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