連載小説
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第四章
 目も当てられない惨状とはきっとこういうことをいうのだとレナードは思った。
 盛大に崩れた崖は大小様々な岩盤となって辺りの景色を不自然なものに変えているだけでなく、カーリ川にまでなだれ込んでいる。おかげで川の水は当然のように濁り、この水が流れ込む町は景観が盛大に損なわれている。
 レナードはその原因の調査に来ているのだが、理由は見ての通り崖崩れだ。よって、崩れ落ちた岩や土砂を撤去すればいいのだが、人手が足りていないせいで現場にいるのはレナード一人だ。国に人員の要請はしてあるが、他の地域でも似たような状況になっているらしく、当分の間、国からの援助は望めないとのことだった。
 おかげでレナードは一人でつるはしとスコップを振るう日々が続いている。
 こうしてやってきている公の調査はレナードの本職ではない上に、そこから更に調査とは縁のない撤去作業をやらされ、鬱憤は日々溜まるに溜まっている。
 レナードの本職は公ではない、裏側の調査だ。不正に利益を得ている役人や悪徳商人の調査が本来の仕事である。しかし、常に裏側の仕事があるわけではないし、仮にあったとしてもレナードの他にもう一人裏側の調査をする者がおり、そちらの方が優秀なので、よほどの案件でもなければレナードに本来の仕事が回ってくることはないのだ。
 よって、現在は表向きの仕事である公の調査員として、町の景観を損ねている原因の排除に当たっていた。
「はあ……」
 口からはため息しか出ない。昼休憩を早めに切り上げて仕事を再開しているが、そもそも一人でどうにかなる作業量ではないため、どれだけ働いても終わりが見えてこない。
 ほとんど生き地獄だなと思いながら、日が沈むまではきちんと撤去作業を続けて帰路につく。町に着くと、いつものように行きつけの酒場であるイコールに立ち寄った。
 イコールは町の端に近い位置取りなので客も普段からそう多くはなく、落ち着いて一杯やれる場所だ。しかし、最近は来店する客が増加したらしく、店に入っても席に着くまで待たされることが多くなった。
 この日は幸いなことにカウンター席に空きを見つけ、レナードはそこに座った。
「ローナちゃん、注文いいかな」
「あ、はい。どうぞー」
 慌ただしく動いていたローナを呼び止めると、彼女はすぐにやってきた。
「とりあえず、ビールと焼き豚」
「はい、分かりました」
 注文を聞いたローナはすぐに厨房に消えていく。そしてビールがすぐに運ばれてきた。
 泡が縁から溢れそうになっているビールを飲むと、疲労困憊の体に瞬時に行き渡る気がする。一日の疲れが取れる瞬間だ。それからつまみとして出てきた枝豆を口に放り込む。程よい塩加減で、酒が進むように味付けされているので、レナードはそれなりに気に入っている。
 焼き豚を待っていると、新たに数人の客が入ってきた。最後の一つだった空きテーブルに着くとさっそく近くにいたリゼを呼んでビールや焼き魚を注文している。
 彼らの話を聞くつもりはなかったのだが、席が近い上に話し声が大きく、嫌でもその内容が聞こえてしまった。
「リゼちゃん、今日はエステルちゃんは?」
「エステルさんなら、厨房を手伝ってますよぉ」
「なんだ、今日もかよ。最近なかなか姿が見れなくて残念だね」
「皆さんがエステルさん目当てに来てたくさん注文するから、エステルさんがフォローで厨房に入っちゃうんですよぉ」
 リゼの皮肉に、男達は苦笑しながら弁解を始めた。ぼんやりとそれを聞いていると、ローナが注文していた焼き豚を持ってきた。
「ローナちゃん、ビールのおかわり頼む」
「はい」
 ジョッキを受け取るとローナはすぐに厨房へと消えていく。その間も先程の男達はエステルの名前を口にしていた。
 この店の常連である自覚はあるため、レナードもローナとリゼの二人は知っているし、向こうもレナードのことは覚えてくれている。だが、エステルなる人物は知らなかった。
「はいレナードさん。おかわりです」
 ジョッキいっぱいに注がれたビールを置き、ローナが立ち去ろうとする。彼はそれを呼び止めた。
「ローナちゃん」
「はい、何か注文ですか?」
「いや、そうじゃない。さっき聞こえたんだが、エステルちゃんって人は誰だい? 新しい子?」
「ああ、エステルさんですか」
 エステルの名前を出した途端にローナは納得顔になった。その様子から察するに、既に聞き慣れたといった雰囲気だ。
「やっぱり新しい子かい?」
「はい。二週間くらい前から入った人です」
「美人?」
 茶化すつもりで言ったら、ローナは疲れたようにため息をついた。
「頭にすごいとかとてもが付くくらいの美人です。こんなにお客さんが来ているのだって、ほとんどがエステルさん目当てなんですよ?」
 その言葉には驚いた。最近客が増えたのはそんな理由があったらしい。
「そんなにかい? ローナちゃんやリゼちゃんも可愛い方だと思うが」
 世辞でもなんでもなく、ローナとリゼも容姿はいい方だ。それに加えて仕事ができるのだから、男受けは悪くない。この二人を差し置いて人気となると、相当魅力がないと難しい気がする。
 ところが、ローナは再度ため息をついた。
「私やリゼなんて比べ物になりませんよ。私も容姿に自信がないと言ったら嘘になりますけど、エステルさんは別格です。同じ人間だとは思えませんもん。しかも、美人なだけじゃなくてスタイルも良いから、出るとこ出てるんですよ?」
 ローナが胸の辺りで山を作るように手ぶりで説明してくる。ここまで言われると、レナードは本職の癖でつい詳しい話を聞いてみたくなってしまう。
「そんなにすごいのか。しかし、そうなってくると、ローナちゃんは悔しいとは思わないのかい。自分よりも後輩なのに、既に他の客の人気を集めているそのエステルさんとやらに」
 言った後で、少し意地悪な質問だったかもしれないと思った。まあ、もしそれを指摘されたら、酔っていたことにしてしまうつもりだったが。
 しかしローナは少し顔を曇らせただけで、笑顔を崩しはしなかった。
「悔しいとは思ってません。ただ、少し不安ではありますけど」
「不安?」
「ええ。マスターを取られないか、不安です。その点は、リゼも同じですよ」
 意外な事実を聞いてしまった。本職で相手の本音を聞くことは度々あるレナードだが、今回ばかりは本当に驚いた。
「いいのかい? 俺にそんなことを話してしまって」
「誰にでも話すわけじゃありません。レナードさんだから話したんです」
 ローナの言葉に、レナードはますます困惑する。それはどういう意味だと目で問いかけると、ローナは悪戯っぽく笑った。
「だってレナードさん、他の人とは違って、私達目当てでここに来ているわけじゃないでしょ? だからですよ」 
 その時、客がローナを呼んだ。
「はーい。まあそういうわけですから、もしエステルさんを見たいなら、遅くまで残っているといいですよ。注文が落ち着けば、エステルさんも店内の作業に入りますから」
 「そうする場合はきちんと注文もして下さいね」と言い残し、ローナは客の元へ注文を聞きに行ってしまった。
 ますます興味を煽られたレナードは、今度はリゼを呼んで追加のぶどう酒を注文し、それをちびちびと飲みながら時間を潰していたが、エステルは現れそうになかった。時刻が十時半を過ぎても店内の賑わいは衰えるどころか増してさえいるようで、注文が落ち着く気配はなさそうだ。
 もう少し粘ってみるつもりだったレナードだが、疲れた体で結構な量の酒を飲んだからか、酔いが回ってきて眠気に襲われ始めた。
 どうするか少し考えてみたが、これは仕事ではなく単純な興味本位だ。店に居続けるためにこれ以上酒を飲んで、明日に響いてもいけない。
「また明日にするか……」
 体が眠気に白旗を振っていたので、近くを通りかかったリゼを呼び止めて勘定をしてもらい、代金を払うとイコールを後にする。
 この日は、エステルなる人物を見ることはできなかった。


 翌日。
 レナードは仕事を早めに切り上げて、再びイコールに向かった。見慣れた扉を開けると、途端に料理の香りが鼻をくすぐり、腹が空腹を訴えてくる。
 昨日よりも早めに来たはずなのに、既に店内はほとんどのテーブル席が占領されており、レナードは薄暗いとの理由で少し不人気な奥のテーブル席に着いた。
 今日こそはエステルを見るため、ビールを頼みたいのを我慢してオレンジジュース選択し、ついでに野菜炒めを注文した。だが、酒を飲まずに時間を潰すというのはなかなかに難しく、十時を過ぎた辺りでついにビールを頼んでしまった。一度口にしてしまうとやはり次も欲しくなってしまうもので、ジョッキを空にしてはおかわりを頼んでしまう。
 酒が入ると途端に時間の間隔が狂い出し、既に何杯目か分からなくなったビールを飲み干したところで店内に目を向けた。
 ビールを飲み始める前は人でごった返していた店内が今はやけに静かだ。時計を見れば、既に十一時半を示している。この時間までいるのは久しぶりだ。
 そんなことを思いながら店内を眺めると、未だに残っている客は二組だけのようで、ローナとリゼがそれぞれの席に着いて客の相手をしている。昔から見られた光景だが、店が繁盛してきてる今でも健在らしい。
 それをぼんやりと眺めていると、隣りから声をかけられた。
「飲み物のおかわりはいかがですか?」
 声のした方を向き、レナードは目を見開いた。そこにいたのはハッとするような美貌の女性だ。今まで見てきた美人など比べ物にならない。レナードは一瞬、酔った勢いでいつの間にか娼館に来ていたのかと錯覚したくらいだ。
 それくらい頭は混乱していたが、同時にあることを理解もしていた。この女性こそがエステルなのだと。
「じゃあ、もらおうかな」
「では、何にします?」
「ぶどう酒を」
 軽く頷き、エステルが静かに厨房へと消えていく。その歩き方は毅然としていて、こんな酒場にいるのが不思議なくらいだった。
 すぐに戻ってきたエステルはぶどう酒のジョッキを置くと、レナードの向かい側に座る。
「仕事はいいのかな」
「見ての通り、店も落ち着きましたから。それに、ローナさんから、私に会いたがっている人がいると聞きましたので」
 そう言って、エステルは微笑んでみせた。そのあまりにも自然な笑顔はレナードの心にするりと入り込み、いとも容易く籠絡させた。
 レナードはほとんど無意識のうちに財布を取り出し、銀貨をエステルの前に置いていた。
「奢るよ。何か好きな飲み物を頼んでくれ。差額はもらってくれて構わない」
「どういう意味ですか?」
 こういった事態に慣れているのか、エステルは少しも取り乱さず、笑顔のままだ。
「これからつまらない愚痴を聞かせるかもしれないからね。そのお詫び代とでも思ってくれればいい」
 エステルはにこりと笑い、銀貨を懐にしまう。そしてすぐに厨房から一本のボトルと二つのグラスを持ってきた。レナードがそれに目をやると、「長くなりそうですから」と軽く笑ってみせる。まるで、レナードの話の内容を予想しているかのようだ。
「まだここに来て間もないと聞いたけど、随分と慣れているようだね」
「接客には自信がありますので。それで、レナードさんでしたね。大分お疲れのようですが、お仕事は何を?」
 エステルの話の進め方は実に見事だった。決してレナードに不快な思いはさせずに、普段言えないことをさり気なく尋ねてくる。それはまるで相談に乗ってもらっているようで、自分の仕事は調査なのに、それとは関係のない土砂崩れの撤去をさせられていること、人手不足で困っていることなど、レナードはここ最近の鬱憤を余すことなく話していた。その過程で注文したぶどう酒はあっと言う間になくなったが、エステルが持ってきたボトルから赤ワインを注いでくれたこともあって、レナードは始終気分よく語り続けた。
 言いたいことを言い終えると同時に、グラスの中身を飲み干す。すかさずエステルがレナードのグラスに注ぐと、ちょうど空になったらしい。グラス一杯分を満たしたところで、ボトルからは僅かな水滴が落ちるだけとなった。
「悪いね、愚痴を聞いてもらった上に、奢ったはずの飲み物までもらってしまって」
「お客さんにお酒を提供するのが酒場ですから、お気になさらず」
 見かけがまだ若いエステルはレナードより年下だと思うが、精神年齢においてはずっと上のようだ。それに甘えるように、レナードはつい口走っていた。
「また、愚痴を聞いてもらってもいいかな」
「機会があれば、いつでもお聞きします。お酒をたくさん飲むお客さんはいつでも大歓迎ですから」
 本当によくできた娘だと思いながら、レナードは財布を取り出してけっこうな額になる支払いをして店を後にする。その際に、エステルは「また来て下さいね」と軽く手を振ってくれた。
 久しぶりに、いい一日だった。そう思いつつ、レナードは家に帰った。


 空に月が輝き、人々が寝静まる時間。静かに流れるカーリ川の傍に佇む一人の影があった。身に纏った紺色のローブから空色の髪を覗かせた彼女は、盛大に崩れた崖と土砂の雪崩れ込んだカーリ川とを見比べ、納得したように頷いた。
 彼女は土砂崩れを迂回し、その先へと進むとすぐに足を止めた。左手には夜でも分かるくらいに綺麗な水面のカーリ川、右手には薄暗い森林がある。それを見て、再び納得したように頷く。
「私の声、聞こえているのでしょう? 出てきてくれないかしら」
 彼女の声が静かに消えていく。応えるものは誰もいなかったが、代わりに風景に少し変化が起きた。
 カーリ川から小さな水球が音もなく浮かび上がったのだ。それだけでなく、森林からは鉱石のような球がやはり静かに彼女の下にやってきた。それを見て、ローブの下で彼女は笑みを浮かべた。
「土砂の被害がないこちら側は水が綺麗だからウンディーネはいると思ったけど、まさかノームまでいてくれるなんてね」
『心外』
 鉱石のような球が空中で僅かに震える。
『魔族の者よ。私達に語りかけてきた目的はなんですか?』
「ずっと彼を見てきたのでしょう? 毎日のようにここに来て、終わりそうもない作業を続ける彼を。レナードというのだけど、彼を助けてあげてくれないかしら」
『彼と契約しろと?』
「ただで力を貸せとは言わないわ」
 そこで言葉を区切ると、彼女は懐から何かを取り出す。それは、手のひらに乗る程度の大きさしかない紫色の球体だった。
「素敵な贈り物をあげるわ」
 言ったと同時に、彼女はそれを静かに握った。途端に、彼女を中心に異常なまでの魔力が発生した。人であれば瞬時に魔物化してしまうほど高濃度の魔力が辺りを覆い、夜の闇を紫色に染め上げていく。
『これは……』
 魔力が二つの球を覆うように絡みつくと、それらは一際大きく震えた。まるで腹の中の胎児が成長していくように、ゆっくりと大きくなりながら、その形が球体から人の形へと変化していく。
 その過程を静かに見つめていたエステルは、二つの球が『彼女』へと変わるまでを見届けると、満足そうな笑みを浮かべた。
13/05/27 23:30更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
どうもエンプティです。
さっそくですが、お詫びを。
感想にて、振られるだけの男がいると指摘を受けましたので、ここで謝罪させていただきます。ご指摘の話は確かに振られたとも読める書き方でした。
こちらの配慮不足で不快に感じた読者の皆さま、本当にすいませんでした。
一応弁解させていただきますと、相手がエステルではないだけで、ディーノにもきちんと魔物娘の嫁を持ってもらう予定です。話の都合上、すぐにとはいきませんが、それはお約束します。
最後になりましたが、いつも読んでいただきありがとうございます。これからも読んでいただければ幸いです。

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