連載小説
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リリムと終わらない物語 〜夢の終わり〜
少し不満そうな顔だった。
それが不思議で尋ねたことがある。
なぜ、そんな顔をしているのかと。
「誰も私を見てくれないからよ」
姉はそう言って苦笑していた。
しかし、私には理解できなかった。
リリムの特性を考えれば、見てくれないという事態などあり得ないから。
そう思っていることが顔に出ていたのか、姉は苦笑いのまま私の頬を撫でた。
「あなたもいつかわかるわ。だから、きちんと『あなた』を見てくれる人を見つけなさい―」


意識が覚醒し、同時に目が見開かられる。
少し辺りが暗い。
体内時計もまだ早い時間であることを主張していることから、いつもの起床時間より早くに目が覚めたらしい。
毛布を押しのけて静かに体を起こすと、途端に寒さが体を襲う。
このまま毛布に潜り直して二度寝したいという欲求に駆られるが、一度起きたら二度寝ができない体質なのでそうするだけ時間の無駄だ。
毛布の中の温もりは名残惜しいがすっぱりと諦めてベッドを下りると、素早く寝巻から着替える。
支度を終えると部屋を出る前にベッドに歩み寄って、同じベッドの共有者を見つめた。
彼はまだ夢の世界にいるらしく、眺めていても起きる気配はない。
普段は大人びていて落ち着いた表情しか見せないグレンだが、寝顔だけは無防備だ。
それを見るのが好きで、朝起きた時は必ず見てしまう。
見ていて飽きないから、ほとんど癖になりつつあるのだ。
別に悪いことでもないので満足するまで眺めているのだが、今朝は早めに目が覚めたのだから、この時間は有効に利用しないと勿体ない。
せっかくだし、少し手の込んだ朝食を用意することにしよう。
「さて、なにを作ろうかしら……」
台所に移動して材料と相談すると、果物の数が多い。
苺、パイナップル、バナナ、桃、メロン、ブルーベリーと種類豊富に揃っている。
そういえば、先日の買い出しで安く売られていたからという理由で、どう調理するか特に考えもせずに買ってきたのだった。
どれも腐らないように魔法をかけてあるが、これだけあるとさすがに場所を取る。
邪魔になるほどではないが、いつまで置いておくのもどうかと思うし、今回は果物を使う料理にしよう。
「さて、まずは生地から用意ね……」
ボウルと取り出し、そこに卵と小麦粉を入れる。
そして丁寧にかき混ぜ始めた―。


「なにかあったのか……?」
朝起きてきた彼の第一声はそれだった。
まあ、彼がそう言ってしまうのも無理はない。
台所のテーブルの上にはそれくらい皿が置かれている。
そこにあるのはホットケーキとフルーツサラダ、そしてフルーツパイである。
そのうちのパイがかなりの量になっている。
ちょっとした計算違いで、最初に作った生地だけでは用意した果物を消費しきれなかったのだ。
「ちょっと張りきりすぎちゃったのよ」
席に着くグレンの前に紅茶を用意すると、彼はそれだけで小さく笑った。
「そうか。では、俺も食べる方を張りきるとしよう……」
「無理に全部食べなくていいわ。見ての通りけっこうな量だから、残ったらお昼のデザートにしましょ」
そして始まる朝食の時間。
彼がこの家に来て早くも七日が経った。
グレンがどうなのかはわからないが、私にはこうして二人で食事をすることがすっかり定着しつつある。
今まで一人で食べる食事をつまらないと思ったことはないが、こうして誰かと一緒の食事には敵わない。
ルカと一緒の時とは違って特に会話もしない穏やかな食事だが、これはこれでいいものだ。
その時間を共有するグレンはさくさくする生地に載せたフルーツパイを淡々と食べている。
同じようにパイを口に運びながら、さり気なく彼が食べているところを眺める。
寝顔を見るのも好きだが、こうして食事をしているところも嫌いではない。
一緒に過ごしているうちに、彼の魅力的なところがどんどん見つかっていくのだ。
それが楽しくて、つい目をやってしまう。
おかげで、彼が来てからは毎日が楽しみで仕方ない。
今日はどんなところを見られるかと、つい期待の目を向けてしまうのだ。
そのせいか、今していることが気づかないうちに終わっているということが多くなった。
今回も例外ではなく、ハーブティーを口に運んだ時に何気なくテーブルを見やり、そこにある皿が半分以上空になっているのを見て、いつの間にか朝の分を食べ終わっていることに気づく。
私はそこまで食べた覚えもないので、グレンが頑張ってくれたのだろう。
再び視線を向ければ、いつもの落ち着いた表情で同じようにハーブティーを飲んでいるところだった。
「どうかしたか?」
私の視線に気づいたようで、彼の顔がこちらに向いた。
「どこまで頑張るのかと思ってね」
カップを持つ手を止めたのは一瞬のこと。
すぐに視線がテーブルに落ち、そして上げられた。
「すまない。今はこれ以上は無理だ。昼で片付ける」
「無理はしなくていいわ。それよりグレン、今日はどうしましょうか?」
買い出しはすませてあるし、これといって用事もない。
こういう日は今までならルカとともに散歩に出かけていたが、今はグレンがいる。
「どうしようとは?」
「今日は特に予定がないの。今までは私の予定に付き合せてばかりだったでしょ。たまには、あなたの行きたい場所に行こうかと」
「君の予定に付き合うことを面倒だと思ったことはない。気遣いには感謝するが、行きたい場所といわれても思いつかないな」
予想できた言葉だ。
まあ、これで即座に行きたい場所を言うような性格でないことはわかっているのだが。
「ないの?別に、街でないと駄目というわけでもないし、望むのなら反魔物領でも構わないのだけど」
気を遣っているわけでもなく、本当にどこでもいい。
もっと言ってしまえば、別に出かけずとも、のんびりと家で一日を過ごしたっていいと思っている。
ただ、それはグレンがいることが前提だ。
彼が望むなら、その場所でのんびりと過ごすだけ。
そんな私の胸中を察したのか、青い目が伏せられた。
「……では、一つだけ」
「ふふ、あるのね。じゃあ、居間で話しましょ。ここを片付けたら行くわ。先に行って待っていて」
そうと決まれば手早く片付けることにしよう。
空いた皿を重ね、流しへと運ぶ。
そうして次の皿を運んでこようとした時だ。
隣りに彼の気配を感じた。
続けて静かに置かれる皿の山。
「手伝おう……」
思わず手を止めて、彼を見つめていた。
「あなたに家事を手伝わせるつもりはないのだけど」
「それはわかっているつもりだ。だが、ただ待っているだけなら、手伝ったほうがいい。二人なら手早く済む」
ちらりと青い目が向けられた。
手伝いの申し出は嬉しいのだが、好意を受け取るべきか少し悩んでしまう。
やはり彼は客であるという意識があるからか、どうしてもこういう雑事をさせたくないという思いがあるのだ。
ただ、せっかくの彼の申し出を断るのも気が引けてしまう。
「……わかったわ。じゃあ、私は洗い物をするから、あなたは残りのパイを片付けてくれるかしら」
「わかった」
それだけを言うと、グレンは指示通りに残り物を片付けていく。
七日もいれば勝手もわかるのか、意外なほどに手際がいい。
おかげで、私が洗い物をしている間にもテーブルの上はどんどん綺麗になっていく。
「手際がいいのね。慣れているの?」
「独り暮らしの経験が長いからな。料理と家事は一通りできる。……料理は簡単なものだけだが」
また一つ、彼のいいところを見つけてしまった。
母性をくすぐられるとのことで、一人ではろくに家事もできない男がいいという魔物もいるが、こうして家事を手伝ってくれる男も悪くないと思う。
私はどちらが好きだろうかと考えてみるが、すぐに考えるのをやめた。
グレンなら、どちらでもいい。
「結婚したらいい夫になれそうね」
深い意味はなくそう言い、洗い物を終えて振り向くと、グレンは動きを止めていた。
「どうかしたの?」
声をかけると、グレンはゆっくりと振り向いた。
そこに、どこか疲れたような色があるように見えたのは気のせいだろうか。
「……いや、俺には無縁のことだと思っただけだ」
「……本当にそう思う?」
「ああ。それより、こちらの片付けは終わった。君のほうは?」
「終わったところよ」
「そうか。では、先に居間に行っている」
そう言って、グレンは台所から出て行った。
話を微妙に逸らされたことが残念だが、グレンはまだ自分のことを話してくれない。
それが関係しているのなら、私としても無理に追求はしたくなかった。
「一体、どんな事情を抱えているのかしらね……」
ぼやきつつ居間に向かうと、グレンはソファで静かに私を待っていたようだ。
「お待たせ。で、あなたはどこに行きたいのかしら?」
「世界地図はあるか?」
うなずき、棚からそれを取り出すとテーブルに置く。
グレンはそれを広げると、迷うことなく一か所に指を置いた。
「ここなんだが、行けるか?」
彼の指が示すのは、反魔物領の大陸だった。
実際に行ったことはないが、何年か前まで戦争をしていたと聞いた覚えがある。
どういう目的かはわからないが、グレンはそこに行きたいらしい。
「もちろん。これでも反魔物領には何度も遊びに行っているもの。で、行く前に聞きたいのだけど」
「なんだ?」
「なぜ、と聞いてもいいかしら?」
グレンの青い目がこちらに向いた。
じっと見つめてくる彼の顔には、少し悩むような色がある。
しかし、すぐに小さく笑った。
「向こうで説明する。それでは駄目か?」
今度は私が見つめる番だった。
言葉に嘘がないか、見透かすようにその表情を眺めるが、グレンは少しも動じない。
実際に疑っているわけではないのだ。
なにか語ってくれる。
そう直感し、口元に笑みが作られていく。
「わかったわ。じゃあ、行きましょ。場所は……」
「この辺りに山がある。その中腹に行けるか?」
「ええ。では、行くとしましょうか」
手をかざすと転移魔法を使い、空間を歪ませる。
姉曰く夫直通の転移魔法でグレンが望む場所へと繋げると、入るよう手で促す。
「さあ、どうぞ」
歪んだ空間を見て少しだけためらうように足を止めたグレンだが、すぐにそこへ踏み込んでいく。
続けて私もそこへ足を踏み入れると、途端に別世界だった。
大地を覆ってカーペットのように伸びる緑の草、無造作に並ぶ立派な幹の木々、群生する色鮮やかな花。
そこから立ち上る自然独特の香りに、心が安らぎを覚える。
グレンが望んだ場所は自然に満ち溢れていた。
だが、そんな自然に対する感想は出てこなかった。
グレンが山の中腹を選んだ理由。
それはこのためだったのだと確信する。
どこまでも続く青空と、その下の緑に溢れた肥沃な土地。
なだらかな平原が続くそこはどこか牧歌的で、争い事とは無縁に見える。
「素敵な景色ね……」
「あそこ、見えるか?」
隣りに立つグレンがすっと景色の一点を指差した。
その指先には、点々といくつもの建物が見える。
煙が出ているものもあることから民家らしい。
集落、もしくは村といえるかぎりぎりの規模だ。
「いくつか家があるわね。あそこがどうかしたの?」
「俺の故郷……だそうだ」
「なぜ曖昧な言い方なの?」
グレンの口元に僅かな笑みが作られた。
「物心がついた時には孤児院にいた。そこのシスターから聞かされたんだ。あそこの村、グランワルドが俺の故郷なのだと」
グレンは静かにそう語った。
そこに郷愁の思いはほとんど感じられない。
まるで、自分に言い聞かせているようだった。
「孤児だったの?」
グレンがようやく過去について語ってくれたからか、つい口がそう尋ねていた。
それがどれだけ彼の古傷を抉ることになるかもわからないのに、だ。
「ああ。両親は戦火に巻き込まれて命を落としたと聞いている。顔も思い出せないくらいだから、俺も相当幼かったのだろう」
言い終わると、グレンはくるりと踵を返し、よりかかるように木に背中を預けた。
そして、そのままゆっくりと腰を下ろしていく。
「だが、この景色は憶えている。霞む記憶の中で、隣りにいたのが誰かはわからないが、確かにこうやってともにこの光景を眺めた」
右足だけを抱えるようにして、完全に地面に座り込んだグレンが私を見上げてきた。
ただ、私を見てはいても、そこに私は映ってはいないだろう。
その青い目に映っているのは、恐らくは昔に一緒に来た誰か。
それを少し残念に思いながら、グレンの隣りに同じように座った。
幹が太いおかげで、私達が揃って背を預けてもまだ余裕がある。
それでも、互いに少し体をずらせば肩が触れるくらいの距離だ。
「今日、ここに来たいと言った理由はそれ?」
「ああ……。もう一度、見ておきたいと思った。恐らく、もう戻ることはないからな……」
「それは、故郷に帰る場所がないということ?」
景色を見つめたままで、グレンのほうは向かない。
それでも、気配で彼が首を振ったのはわかった。
「いや、家は残っているそうだ。だが、故郷だと言われても、俺にはあそこで過ごした思い出がないからな。孤児院の方が、まだ愛着がある」
だから、未練はない。
そう言いたそうな雰囲気だった。
「その孤児院へは行かないの?今日はあなたがわがままを言う日よ。望むのなら、連れて行くけど」
「孤児院はもうない。昔、この辺りを治めていた国が滅んだと同時に、孤児院も同じ道を辿った」
「そう……」
こう言っては悪いが、グレンは色々と不幸を経験してきたようだった。
母様が魔王になって、世界は随分と平和になった。
だが、それでも人の不幸はそう簡単にはなくならないらしい。
「あなたは、ずっと孤児院にいたの?」
「いや、働ける歳になったと同時に国に仕える騎士になった」
「騎士……」
さらりと告げられ、彼の横顔を見つめた。
同時に、無駄のない良い体つきなのはそういうことだったのかと納得する。
「意外か?」
「いいえ。あなたが騎士だったという事実は、すごく納得できるわ」
真面目なところが特に、とは心の中で呟くだけにする。
「もっとも、国が滅びたと同時に騎士団も解散になったからな。俺が騎士でいられたのは……五年ほどか」
小さなため息が聞こえた。
見れば、グレンは顔を俯けて僅かに口を笑みの形にしている。
「つまらない話をしたな……。そろそろ戻ろう」
「つまらないわけないじゃない。少しだけ、あなたについて知ることができたもの。私にとっては、大きな収穫だわ」
そう言ってグレンの手に自分の手を伸ばした。
触れると驚いたようにぴくりと反応するが、払われたりはしない。
そのままゆっくりと重ねると、男にしては綺麗な手の感触が伝わってくる。
「ミリア、こういうことは……」
「ねえグレン、今日こうして私とこの景色を見たことも、あなたの記憶に残るかしら?」
驚きと困惑が混ざったような表情のグレンが言おうとしたことを遮り、彼を見つめる。
私は今日のことを決して忘れないだろう。
それだけじゃない。
グレンと過ごしたこの一週間は本当に楽しかった。
この七日間のことは忘れずに、いつまでも記憶に残るはずだ。
できることなら、彼もそうであってほしい。
「……忘れるつもりはない」
それだけを言うと、顔が逸らされた。
即座に照れたと思うが、それを指摘するような真似はしない。
なにより、忘れないと言ってくれたことが嬉しかった。
こんなことで喜んでしまうあたり、私は安い女なのかもしれない。
自嘲の笑みを浮かべながら、重ねた手に意識を向ける。
そこから感じる温かさは手放し難い。
「グレン。もう少しだけ、こうしていてもいいかしら?」
「ああ……」
少しの間を空けて、返事が返ってきた。
だから、彼の好意に甘えてもう少しだけこの時間を楽しむことにする。
もう、私からなにかを話すつもりはない。
グレンも同じなのか、口を開く気配はない。
でも、それでよかった。
二人で肩を並べて座りながら、手を重ねて一緒に目の前の景色をただ眺めるだけ。
それだけの時間が心地良い。
グレンが傍にいてくれるだけで心が安らぐ。
このまま少し体を傾けて彼の肩に頭を預けたい誘惑に駆られるが、それをこらえて前方の景色に視線を向ける。
時間だけが静かに過ぎていく。
その後、私達が予定していたかのように立ち上がったのは、昼を知らせる鐘の音が村から聞こえてきてからだった。


家に戻ってきて昼食をすませた後、再びどこに行きたいか尋ねたのだが、グレンの返事は「故郷に行けただけで十分だからもういい」だった。
よって、午後は家でグレンの騎士団時代の話をしてもらうことになった。
騎士だった頃の話は特に嫌というわけでもないのか、グレンもすらすらと語ってくれた。
入団した時から順に流れを追っていき、時に日常の出来事も交えながら語ってくれる内容は聞いていて飽きないものだった。
グレンが騎士として過ごした五年という歳月は、悠久の時を生きられる私にとってはあっと言う間に過ぎてしまう時間だが、それでもそこには相応の出来事があるのだと改めて思った。
やがて国交問題が発生し、戦争へと移るところでグレンは語るのをやめた。
そこから先は面白い話にはならないし、なにより、グレンが抱えている事情へと繋がるからだろう。
気にならないといえば嘘。
だが、言いたくないのなら、もうこのままでも構わないと思えてしまう。
時刻はいつの間にか夕方になっている。
最近は、一日がとても早い。
だから、そこから眠りにつくまでもがあっと言う間だった。
二人してベッドに入り、眠りにつけば一日が終わる。
しかし、今日に限ってはなかなか寝つけなかった。
隣りではすぐに規則正しい寝息が聞こえてきたので、グレンは眠ったのだろう。
それを確認すると、くるりと寝返りをうって彼の方を向く。
私がそうしてもグレンが起きてくる様子はなく、静かに眠ったままだ。
その寝顔を眺めていると、頭にグレンに問われたことが浮かんできた。
一日が早く感じるのはなぜかと。
満たされているからだと私は答えた。
幸せだからなのだと。
私自身がそう感じているのだから、それは間違いない。
グレンと出会ってから、毎日が充実している。
幸せなのだと実感できる。
その理由はもちろんわかっている。
彼の眩しいばかりの蒼い魂は変わらず輝いている。
初めて見た時から私を惹きつけてやまない蒼の光。
しかし、今はその魂だけでなく、彼自身に惹かれている。
声、性格、容姿、ちょっとした仕草……。
例を上げればきりがないが、そのどれもが好きだと言える。
恋をしているのだとはっきりわかる。
手を伸ばせばすぐ届く距離にグレンはいる。
ただ、私達の間には境界線がある。
一緒に寝ると決めたあの日に、襲わないと私自らが引いた境界線が。
単なる同居人でしかない今の状況では、この先へと超えていく気にはならない。
でも、夫婦なら。もしくは恋人なら。
私達の間に二人を分かつ境界線などなく、ぴったりと寄り添うことができるだろう。
他の魔物夫婦と同じように口づけをし、そのまま……。
「……」
そうしたいという欲求がなくもない。
ただ、それは両思いになってからがいい。
グレンはどう思っているのだろう。
目が顔に向かうが、そこにあるのは穏やかな寝顔だけで私の望む答えはない。
嫌われてはいないと思う。
母様譲りのサキュバスの感覚を信用するなら、むしろ好かれている。
ただ、それが私の自意識過剰にすぎないともいえない。
それを否定するだけの根拠がないのだ。
グレンと生活する上で魅了の力は完全に抑え込んでいるが、彼に惹かれているだけに、その力を無意識のうちに緩めて、少しずつ魅了していた可能性だってある。
仮にそうだとしたら、グレンは私を本当に好きになったわけではなく、リリムの力に魅了されて好きになっただけ。
それは、両思いからは程遠い。
自分の、リリムの体質を疎ましいと思ったのはこれが初めてかもしれない。
グレンの目に私は『あらゆる者を魅了するリリム』と『ミリア』、どちらとして映っているのだろう。
彼の好意の真偽がわからないことがもどかしい。
「姉さんもこんな気分だったのね……」
胸の奥に切ない痛みを感じる。
これ以上グレンを見ているとそれが余計に強くなりそうで、再び寝返りをうって彼に背を向けるとため息がもれた。
これ以上あれこれ考えるのはやめよう。
全ては詮無きことだ。
今日の話では、グレンは故郷に戻る気はなさそうだった。
なら、彼はここにいてくれる。
彼がずっと傍にいてくれるのなら、これから私を好きになってもらえばいい。
彼の好意が本物だとわかった時、ようやく夫婦になれる。
だからそう、今の状況は予行練習のようなものだ。
そう考えると気が楽になり、胸の痛みも消えていく。
痛みが引くと、入れ替わるように眠気がやってきた。
瞼が重くなり、意識が薄れていく。
変わらない明日が来る。
彼がいる日常が。
明日も良い一日になりますように。
そう願ったところで意識が途切れた。


控えめな足音が聞こえた。
次いで扉の開閉音。
ぼんやりとした意識がなんとかそれだけを理解し、目を開ける。
しかし、部屋は薄暗く、まだ日も昇っていないようだ。
同時に、背後に彼の気配がないことに気づき、寝返りをうって確認するも、そこにグレンの姿はなかった。
冗談ではなく心臓が一瞬止まる。
さっきの音は、グレンが出て行ってしまった……?
眠気が瞬時に吹き飛び、毛布をはね退けてベッドを下りていた。
そのまま足早に居間へ向かおうと寝室の扉に手が伸びる。
だが、私が触れるよりも先に扉が勝手に開いた。
ぴくりと体が硬直する。
扉を開けた先に私が立っているとは思わなかったのか、向こうも似たような反応をして動きを止めた。
「ミリア……。すまない、起こしてしまったか?」
頭にすうっと染み込んでいく声は紛れもなく彼のもの。
それでも私は立ち止まったまま、グレンの顔を見つめた。
「いいえ、ちょっと目が覚めただけよ。あなたこそ、こんな早い時間にどうしたの?」
「俺も似たようなものだ。少し前に目が覚めて、喉が渇いていたから水をもらいにな」
それを聞いた瞬間、口から安堵のため息がもれた。
「そう……。じゃあ、ベッドに戻ってもうひと眠りするといいわ」
「君は寝ないのか?」
「私も水を飲んでくるわ」
少しとはいえ動揺しているのを悟られたくなくて、グレンの脇を通り抜けて台所に向かう。
そしてコップに水を注ぐと、それを一息に飲む。
冷たい水が喉を湿らせていき、頭が落ち着きを取り戻していく。
冷静に考えれば、グレンが出て行くはずがない。
寝惚けていたせいで、変な早とちりをしてしまっただけだ。
ほっとしてため息をつくと、動揺はほとんど消えてくれた。
「らしくないわね……」
こんなことで動揺するなど、まったく私らしくない。
平常心を取り戻して自分に呆れながら寝室に戻ると、グレンはベッドの前で立っていた。
「どうしたのグレン。まだ寒いのだから、ベッドに入らないと風邪をひくわ」
吐く息が白くなるほどではないが、それでも肌寒いことに変わりはない。
だからベッドに入るように促したのだが、グレンは私に穏やかな表情を見せただけだ。
「グレン……?」
「約束を果たそうと思う。全て話そう。俺のことを」
いつか話してくれると言っていた。
私もそれを待っていた。
でも、違和感を感じる。
なにか、よくないことが起きるような。
グレンの口調から予兆のようなものを本能が感じ取り、咄嗟に口が動いた。
「……急にどうしたの?そういう話なら、朝食の後にゆっくり聞かせてくれれば」
「いや、今話しておきたい。俺の話は……この肌寒い気温でするに相応しいものだからな……」
青い目が真っ直ぐに私を見た。
「少し長くなる。君はベッドに入ってくれ。体が冷えてしまう」
「話はここで聞くわ。一緒に寝ると決めた時と同じよ。あなたがベッドに入らないなら、私も入らない」
口ではそう言ったものの、ほとんど建て前の理由だ。
彼を扉側に立たせたら、話し終わった途端に消えてしまう。
そんな気がした。
「……わかった。では、長くならないように努力する」
私の返事に少し顔を歪めたグレンだが、すぐに気を取り直して語り始めた。
「かつて騎士だったということまでは話したな。俺達の国が戦争に負け、ある程度今後の取り決めが終わった頃だ。俺と親友は、体の異変に気づいた。正確には、ようやく異変に気を回すことができるようになった、だな。俺もあいつも戦争中に、急に体に違和感を感じた。だが、悪いものではない。それどころか、体にいくらでも力が湧いてきた」
唐突に語られた内容は少し現実離れしている気がしないでもなかったが、すぐに察しがついた。
それは恐らく―。
グレンも苦笑に近い表情を浮かべる。
「ともに生活をしていた以上、君ならもう気づいているのだろう?俺は、勇者の一人だ。戦争中に加護を受け、おかげであの戦乱を生き残ることができた」
その可能性を疑問に思わないわけではなかった。
グレンから稀に感じることがあった強い空気。
それは、何度も対峙したから体が覚えている。
グレンを除けば、私が最後に出会ったその空気を持った者はエアリスだ。
人でありながら、私達魔物に匹敵するだけの力を持った存在。
かつての父様と同様の者達。
予想しないでもなかったからか、グレンの口からそう告げられても驚きはしなかった。
ただ、疑問が解決しただけだ。
「俺がいたのは反魔物領だったからな……。俺と親友が主神から祝福を受けたとわかった時、回りの者は揃って名誉なことだと喜んでいた。親友はどうだったかわからないが、俺は正直、ほっとしていた。騎士といえば聞こえはいいが、戦争になればすることは傭兵と変わらない。ただ、敵を殺すだけだ。だから、あの時はもう人を殺さないですむと思っていた」
グレンの顔が床に向けられた。
「勇者として教団に迎えられ、そこからは魔物を討伐する日々が始まった。魔物は人を滅亡へと追いやる邪悪な存在。そう教えられ、そこに疑問を感じることもないまま、盲目的に指示に従い、剣を振るい続けた」
一呼吸置き、グレンはそのまま続ける。
「一年前のある日のことだ。任務で魔物の巣があると思われる場所に向かう途中、二人組の魔物に遭遇した。ラミアの親子だった。向こうも俺が勇者だとわかったのだろうな。表情を強張らせて、すぐに警戒してきた。討伐対象ではなかったが、それでも魔物だ。見過ごすわけにはいかないと、俺は剣を向けた」
声に悲しみが混じり始めた気がした。
それでもなにも言わないまま、続くグレンの言葉に耳を傾ける。
「ラミア種との戦いは初めてではなかったから、それほど苦戦せずに親の方に手傷を負わせて戦闘不能にすると、俺は子の前に立った。勇者を見るのは初めてだったのだろう。彼女は震えていて、動けないようだった。好都合だと剣を振り上げた時だ。重傷を負ったはずの親のラミアが、俺と子の間に体を滑りこませてきた。そして、子をかばうように自分の体を盾にして俺を見つめてきた。彼女の目には、怒りも憎悪もなかった。ただ、必死な目だ……」
「その後は……どうしたの……?」
ほとんど反射的にそう言っていた。
グレンがどうしたかは予想がつくが、それでも答えが聞きたかった。
「殺せなかった……」
そこでグレンはようやく顔を上げ、目が合う。
しかし、綺麗な青い目は逃げるように伏せられた。
「あれは、子を守ろうとする親の姿だった。それを見て、唐突に疑問が浮かんだ。これは、本当に邪悪な存在なのかと。頭に浮かんだ疑問の答えは教えられたはずなのに、それが間違っているように思えたんだ。だから俺は親魔物領をいくつも訪れ、真実を確かめた。そして理解した……」
俯いたまま、そっとグレンは言った。
「魔物は、教団が謳うような存在ではなかった。人と変わらない存在なのだと。あの時は、呆然としたものだ……。騎士になると決めた時点で、他人の命を奪う覚悟はしていた。だが、魔物はそこに含まれず、存在するべきではないものだと当然のように思っていた。しかし、それは間違っていた。そんなことにも気づかないまま、俺は勇者であり続けたのだから、馬鹿な話だ……」
どう声をかけていいかもわからない。
わかるのは、真実に気づいたグレンが苦しんだということだけだ。
まるで胸を締め付けられる思いだ。
一呼吸する度に取り入れる空気がやたらと冷たく感じるのは、私の身体が熱を持っているからに他ならない。
グレンの感じた苦しみを想像するだけで、心が痛み、それが体に現れてくる。
「自分の意思で勇者として生きてきたと思っていた。だが俺は、結局は教団の思うように動く操り人形にすぎなかった……」
彼の握られた拳が震えているのは、寒さのせいではない。
知らぬ間に、自分の望まぬことをさせられていた怒りからくるものだと予想がつく。
だが、手の震えがはたと止まった。
そして、俯いた顔を上げたグレンの目には、強い意思が宿っていた。
「……だが、人形にも意地はある」
なにを言いだすのか、ここまで聞けばわかってしまう。
それは、勇者であるグレンにはとても重大な選択だったはずだ。
「グレン、あなたは……」
「歩むべき道を決められた勇者という人形の、ささやかな礼だ。俺は勇者という立場を利用して、今までとは逆の方向へ力を振るった。殺すのではなく、生かすほうに」
「それを、ずっと続けてきたの……?」
グレンは疲れたように小さく笑った。
その笑みが今は辛い。
「……償いたかった。俺がこの手で殺めてしまった彼女達のために。だが、いくら勇者であっても、人にすぎないからな……。どれだけ手を尽くしても、いずれは品切れだ」
品切れという言葉がなにを意味するのか、嫌でもわかる。
グレンが教団に追われていた理由。
間違いに気づいたグレンは、ずっと魔物を助けてきた。
それが、ついにばれてしまった。
「最初こそよかったが、やがて死体が見つからない任務完了の報告を疑問に思ったのだろうな……。尾行をつけられ、魔物を逃がしているところを押さえられた。そのまま身柄を拘束され、教団の牢に入れられたが、勝手を知っているからな。抜けだすのは容易だった。だが、あの時なぜ逃げたのかが、今でもわからない」
「償いのためではないの?」
それがもっとも可能性のありそうな答えだ。
だが、グレンはゆっくりと首を振る。
「魔物を助けている。それがばれた時点で、俺はどんな処罰も受けるつもりだった。それが死罰であってもな。それが、彼女達への償いだと思っていた」
「でも、実際には教団から逃げた。そして、私と出会った。あなたが傷だらけだったのは、追手との攻防の末というわけね」
「正確には、俺は逃げただけになる。裏切ったとはいえ、俺にとって彼らは仲間だ。反撃することは、どうしてもできなかった」
武器がなくとも、勇者ならどうにでもできたはずだ。
それをしなかったのは、グレンにある罪の意識。
裏切っていたという負い目もあり、グレンはきっとなにもしようとしなかったに違いない。
それくらい、グレンが自分を責めているのだと考えると辛かった。
だが、グレンはもっと辛かったはずだ。
教団という所属組織を裏切り、誰にも助けを求めず、償いのために一人魔物を助け続けた。
回りに助けを求められない状況で、一人裏切り行為をする。
それがどれほど過酷なことなのか、私には想像もできない。
「それが……あなたの抱えていたものというわけね……」
「抱えているもの、だな……。だから、受けた傷が原因で死んでも構わないと思っていた。それで罪が贖えるなら、喜んで死を選ぶつもりだった。……君がそうさせてくれなかったが」
ここ最近になって、グレンは笑うようになった。
今もはっきりと口元が笑みの形になっている。
ただ、彼の笑顔を見ても、今は少しも嬉しくない。
「目の前に傷だらけの人がいたら、普通は助けようって思わないかしら?」
「そうだな……。まったくその通りだ。だから、俺には君が眩しく見えた。それこそ、太陽のように」
「おおげさね。私はあなたが思うような存在ではないわ」
紛れもない本音だったが、グレンは小さく笑うだけだ。
「俺から見ればそう映るんだ。言っただろう、俺は汚れていると。殺すことしかできないこの両手は、染みついた血で汚れている。だから、君に触れることは、俺には許されない行為だった」
「じゃあ、私と触れ合っていた時間はずっと嫌だった?」
これで嫌だったと言われたら、泣いていたかもしれない。
しかし、グレンは笑って首を横に振る。
「いや、そう思ったことはない。それどころか、君といる時間は、君と過ごしている間だけは、酷く心が安らいだ。毎日があっと言う間だった。君が言ったように、満たされているのだと実感できた。こんな日々が続くなら、全てを投げ出してもいいと思ってしまうくらいに」
「なら、これからもここにいればいいわ。私はあなたのしてきたことを責めるつもりはない。あなたがどうしようもない過去を後悔し、償おうとする気持ちはわかるつもりよ」
話を聞く限り、グレンはずっと償い続けてきた。
グレンのように、間違いに気づいた勇者は他にもいるはずだ。
その証拠に、魔物の夫となっている元勇者はいくらでもいる。
程度の差こそあれ、彼らの中にはグレンと同じように魔物の命を奪った者だっているに違いない。
それが今は良き夫として、魔物の妻と愛し合っているのだ。
なら、グレンだけが例外ということにはならない。
「やはり君は赦してくれるのだな……」
若干顔を俯け、小さく笑うグレンは私がそう言うことをわかっていたようだった。
「グレン……」
そっと手が伸びる。
グレンが抱えている苦しみを代わってあげることはできない。
だから、責めて少しでも分かち合いたかった。
グレンに触れることで、それができる気がした。
彼へと向かう手があと少しで触れるという時だった。
「だから俺は―」
一瞬、時が止まった。
それが誇大表現ではないくらい、グレンの言葉は私の心に大きな波紋を呼んだ。
遅れて頭が言葉の意味を理解した瞬間、伸びかけていた手に力が入り、グレンをベッドへと突き飛ばしていた。
いきなりそんなことをされるとは思っていなかったのか、面白いぐらい簡単にベッドへと倒れたグレンは驚いた表情で私を見つめてくる。
彼が言ったのは、私にとって言われたくない言葉だった。
それを否定したくて、体が勝手に動いた。
倒れたグレンの上に跨り、彼の両肩を抑えつけるように手を置く。
寒さのせいですっかり冷たくなった手。
それを置いたグレンの肩は温かくて、その温もりが私の中の欲望を煽っていく。
「ミリア……?」
まだ現状が把握できていないグレンは、未だに驚いた表情のままだ。
そんなグレンの顔へと自分の顔を近づけていく。
青い目がどんどん近くなり、彼の息が顔にかかる。
ここに来て、私がなにをしようとしているかようやくわかったらしく、彼の息が詰まった。
その口へと私の唇が近づき、そして―。
「っ!」
咄嗟に顔を離すと、ベッドから飛び退いた。
体が異様に熱い。
私は今なにをしようとしたの……?
疑問に思ったのは一瞬のこと。
本能が体を支配し、グレンの唇を奪おうとした。
それに気づいて彼から離れたまではよかったが、サキュバスの本能が目覚めてしまった。
神経を中心に燃えるような感覚が広がっていく。
その熱を糧として、身体がグレンを求めて動き出そうとする。
こんな状態で彼と口づけをしたら、絶対にそれだけではすまない。
それだけですむはずがない。
きっとその先を求めてしまう。
サキュバスの身体の良さを彼に味あわせて魅了し、彼の言葉を否定する。
本能がそうしようとしたのだ。
しかし、それは私の望む結末ではない。
だから、彼から離れた。
だが、目覚めた本能は静まりそうになかった。
それを抑え込むように両手で自分の身体を抱きしめるが、気休めにもならない。
まるで自分の身体ではないみたいだ。
気を抜けば、身体が勝手に動きそうだった。
彼を手に入れようと、身体の内側で本能が暴れている。
そんな状態になって、自分に呆れる笑みが浮かぶ。
「所詮、私もリリムというわけね……」
他の姉妹と姿が異なっていても。
性欲が低くとも。
それでも、リリムだから。
最高位のサキュバスである母様の娘だから。
だから、本能には勝てない。
愛しい男を求めてしまう本能には。
「ミリア……?大丈夫なのか……?」
目を向ければ、心配そうな顔のグレンがこちらを見ていた。
彼と目が合うと、それに合わせて身体が過剰なまでに反応し、なんとか顔を逸らす。
名前を呼ばないでほしい。
グレンに名を呼ばれただけで、身体が彼の下へと動き出そうとするのだから。
際限なく込み上げてくる欲望は本能を刺激し、身体の主導権を奪おうとする。
このまま本能に身を任せてしまえば、どんなに楽だろうとは思う。
グレンと肌を重ね、そのまま夫婦となり、ずっと幸せな日々を送る。
それが魅力的でないわけがない。
だが、結末が同じならその過程はどうでもいいとは、どうしても思えないのだ。
きちんと両想いになってから結ばれたい。
我ながら少女のようだと思う。
ただ、それだけは譲れないのだ。
その意地がなんとか本能を抑え込んでいる。
しかし、それも時間の問題だ。
いくら意思と意地で本能を抑え込んでも、それが長くは続かないことを理解している。
どれだけ理想を守ろうと、結局はグレンを求めていることに変わりはない。
彼を縛るしがらみを全て忘れさせるくらいに愛してあげたい。
本当は、心がそう思っているのだから。
だから、意地が本能に負ける前に今の状況をどうにかするしかない。
グレンに襲いかかり、魅了してしまわないようにするにはどうすれば。
余裕のない頭はそれでもすぐに答えを出した。
それは、私は望まないこと。
それでも、グレンが望むのなら……従おう。
グレンに襲いかかり、魅了して手に入れてたくなどないのだから。
そういう意味では、お互いに最善の選択のはずだ。
矛盾する馬鹿馬鹿しい言い訳を手に入れ、意思と意地で身体を動かす。
自分の腕が異様なほど重い。
心と身体、本能の全てがこれからしようとしていることを拒んでいるからだ。
それでもなけなしの意地がゆっくりと右腕を持ち上げ、グレンに向けられる。
「グレン、あなたの故郷はグランワルドだったわね……。今からそこに送るわ……」
「それは……」
なにかを言いかけるグレンだったが、続く言葉はない。
私も、それ以上話す余裕はなかった。
「これが……あなたの望むことなのでしょう?私も賛成よ。あなたはなにもかも忘れて、故郷でゆっくりと暮らすべきだわ。そうすれば、いつか、自分のことを赦せるはずだから……」
ベッドを中心に転移魔法陣が展開される。
そして、そのまま躊躇わずに転移魔法を発動した。
「ミリア……」
眩い光に包まれたグレンが別れを惜しんでいるように見えたのは、きっと希望的観測だろう。
魔法陣の光は強さを増していき、そして―。
唐突に光が消えた時、そこに彼の姿はなかった。
求めていた彼が消え去り、欲望の矛先を失った身体から力が抜けていく。
立っていられず、膝から崩れ落ちると触れた床は冷たかった。
本能が暴れたせいで身体はまだ熱を持っているが、それもやがて冷めていくだろう。
これでよかったのだ。
これが、私とグレンの最善の選択だったのだから。
心が痛い。
それをこらえるように、声を絞り出した。
「さようなら、グレン……」
13/02/05 00:01更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
どうも、エンプティです。
気がつけば今月で今年も終わりと早いですね。
今回で話も少し進んだことで、この作品も後は片手で数えられる程度となりました。
書かないはずだったイチャイチャですが、なぜか冒頭で書いておりましたw
まあ、控えめだしいいよねと言い訳しておきます。
さて、本編は半端なところで終わっていますが、今年の更新はこれで最後となります。
次回は新年ということで、お楽しみに。


「あなたのせいよ……」


彼がいない。
その事実が彼女の心を傷つけていく。
そこから溢れ出した想いに気づいた時、彼女は……。


では、次回でまた会いましょう。

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