第八章 天を仰ぐは誰がために:天の柱B
―4―
天の柱。
有翼種の魔物娘たちが多く住まう、雲を貫き天に届かんばかりのドラゴニア最大の塔。
誰が何の目的で建造したかも定かでないほど大昔。それこそ、魔物がいまの姿となるよりもずっと以前に天の柱は建てられた。一説ではその時代の竜騎士とも呼べる、ワイバーンと心を通わせていた竜工師たちによって建てられたと言われている。
いまでこそ番いの儀の重要な式場として、野生のワイバーンや有翼種の住処として、幸福の鐘の安置場所として、竜騎士が騎竜とともに乗り越えるべき壁として、ドラゴニアにおいて極めて重要な場所とされている。
だが、本来の目的とは何だったのか、それを知る者はいない。
建造されたのがドラゲイ革命以前のものであり、当時を知る竜はいないに等しいからだ。知っていた者は死に、生まれ変わったかドラゴンゾンビとして新たな生を受けていることだろう。文献にも伝聞でも残らなかった以上、夫との交わりを至上とする彼女たちにとっては天の柱の建造理由は然したる問題ではないのだとわかる。
天の柱は塔である。塔の役割には防衛上の見張り台、国力の誇示、宗教的意味合いなどが一般的だ。
見張り台として天の柱はどうだろうか。雲をも貫く巨大な建造物。もはやそれ自体が一個の城とさえ思わせる天の柱は、見張り台どころか要塞の一つと言っても差支えなかったであろう。何せ、その塔を建てたのはワイバーンとともに戦う国である。外敵を発見と同時に出撃も容易であったことは想像に難くない。
なれば国力の誇示として、そびえ立つ天の柱は十分な力を発揮していたと言えよう。ただでさえ険しい切り立った山々に存在するドラゲイは、当時自然の要塞とまで言われていた。そのうえで竜たちにより制空権までも握っていたのである。周辺諸国が幾度となく侵攻を考えてはついぞ叶わなかったことは、これまでドラゲイが存続しドラゴニアへとも変わってもなお続いていることからはっきりと証明されている。
だが、それら国の防衛、国力誇示以上の役割がこの塔にはある。宗教的意味合いと呼べるかは記録に残っていない以上定かではないが、しかしその名がいまなおこうして受け継がれている何よりの証だ。
『天の柱』
何故、古の竜工師たちはこの塔をそう名付けたのか。
天と。柱と。
天。天界、あの世、常世ともされる、誰もが空のさらなる上にあると考えている場所。
柱。建築物においてその支えとなるもの。ある存在において支えとなる中心者。
天の柱とは何か。天上を支える柱、霧の国において「天柱」と呼ばれるものか。
否。それだけではない。
天の柱は何より塔である。人が竜が中へと入り、上方へと至る建造物である。
柱はどこへと立っているのか。明快だ。地上に立ち、天へと繋がっているのである。
この世とあの世。此岸と彼岸。現世と常世。地上と天界。
塔には、天と地上を繋ぐという宗教的意味合いがある。天の柱は人魔問わず、あらゆる者を天上へと運ぶ意味合いが込められているのではないか。
苦難に至りて充足と安息を得る。番いの儀を象徴する一連の流れだ。天の柱が建てられた意味、そこを登る意味、そして帰ってくる意味。塔でありながら柱と名付けたその意味。天は支えられているのか、支えているのか。それとも支え合っているのか。
人魔。対となる存在。その者たちが天の柱に存在するその意味。
「天界でもない、あの世に一番近い場所、それがきっと天の柱だ」
異なる者は引き寄せ合う。磁力のように。
「だから彼は天の柱で生まれた。彼岸より此岸へと来たんだ。僕たちが天へと至るように柱を登って」
だが登った以上はいつか降りなくてはならないときが来る。天上にいつまでも居続けられることはない。地上にいつまでもいられないように。生まれ変わるということはそういうことだ。
「だから彼は登っている。いや、降りているというべきかな」
ミクスは笑う。酷薄に。
「君の出す答えが楽しみだよ、スワロー」
天の柱へと入っていく二人の後ろ姿を見送って、ミクスは一人そう呟いた。
―5―
おれと呈はついに天の柱へと突入した。エントランスのような広々とした広間がおれたちを出迎える。静寂が空間を支配しているが、そこかしこに猛々しく顎を開く竜の彫像や竜にまつわる意匠などが壁に彫られており、寂しさは感じられなかった。
ここは数階吹き抜けになっているが、竜の絵が描かれた天井が視界を遮り、それより上階の様子は伺えない。修復痕の残る支柱が幾本かその天井へと伸びていた。それは竜を取り囲む檻にも、竜に追い詰められたおれたちの檻のようにも見える。
天の柱は外から見る以上に広く、複雑な構造をしている。元々見張り台ないし要塞としての役割があったためか、外敵が侵入してきても容易に上階へと登れないようにしているのだ。ワイバーンであれば外から目的の階へ入れるため理に適った造りではある。
「幾つか道があるね」
「うん。一応どこの道通ってもある程度は登れるよ。次の階段まで遠回りになる道もあるけど」
当然ながらおれたちは最短の道を選ぶ。もうこの道は何度も通っているので地図を見るまでもなく、頭に入り込んでいた。
上層へと行くほどワイバーンの気性の荒さや獰猛さが際立ってくるが、いまはそうでもない。特定のワイバーンには気をつけなくてはならないけど。
「……」
天の柱の中はとても静かだった。ブーツが石床を鳴らす小さな音ですらよく響く。窓のない内側を行くと、薄暗さも相まって音の反響が不気味に聞こえた。壁に埋め込まれている魔宝石の灯りがいまはとても頼りない。
呈とは手を繋ぎながら、一応の周囲警戒をしつつ常に異常を伝え合えられるようにしている。場合によっては声を使えない場合もあるのだ。
「おっと……」
おれは曲がり角で足を止めた。呈も倣って這うのをやめる。おれの手を握る呈の指先に力が籠ったのがわかった。おれは呈の耳元に口を寄せる。
「ちょっと荒そうなワイバーンが向こうの角にいる。遠回りしよう」
区画的には端から端、かなり離れているが周囲を気にする様子のワイバーンがいた。間違いなく男探し中のワイバーンだろう。見つかると面倒だし、おれは道を変えることにした。呈も頷いて、その場からおれたちは離れる。
見つからないのが塔攻略で一番の安全策だ。逃げるはその次。それが叶わない場合も戦うのは最終手段でまずは説得や対話で友好を築くのが安牌だろう。
「ふぅ」
なんとか気づかれずに済んだみたいだ。魔物は男、もとい精の匂いに敏感らしいからあれだけ離れてても簡単に気づく場合があるから怖い。
「呈、大丈夫か?」
「うん。ちょっぴり冷や汗かいたけど……やっぱりこの服は暑いね」
キサラギの計らいで装備は以前の物よりもアップグレードされ、サバト脅威のメカニズム……じゃなくてサバトの技術とアラクネの裁縫能力を合わせた防寒着各種となった。おれは黒。呈は白を基調としている。これらは、防寒機能はそのままに極限まで重量を落とした特注品らしいがそれでも厚い。まだ低地な上に屋内のこの場所では暑いのも無理はなかった。
「もう少ししたら着てて良かったってなるよ」
「うん。きっと上行ったらぼくはこれがあって良かったって言ってるよ」
呈は寒がりだからな。
と、軽い言葉を交わして階段の終わりまで上がったタイミングだった。十字に分かれた廊下の階段と反対方向にちょうどこちらへと向いたワイバーンの姿があった。
目線が合った。おれと呈は一瞬硬直する。見つかったときの対処法の優先順位は、逃げる。
「友好的な感じだけど」
ワイバーンは笑っていた。おれたちを見つけて、竜翼を振りながらこちらへと駆けてくる。確かに一見、友好的な笑みを浮かべているようにも見える。
でも、目の色がはっきりと見える距離まで近づいてそれは違うと気づかされた。
「ッ! 呈!」
おれは呈の返事も聞かないまま十字路を左に曲がった。同時、ワイバーンの目つきが獰猛な捕食者のソレと変化するのを目の端で捉える。
「す、スワロー!?」
「目が笑ってなかった!」
鉤爪が石床を盛大に鳴らす音が後方で響く。
真横に呈が並んだところで手を離す。単純移動なら呈の方が速い。
T字路、十字路とここは区画分けされた階層らしい。個室の数が多く、おそらくは当時天の柱に住んでいたであろう者たちの自室。
「次は右に」
「駄目、こっちだよ!」
右に行こうとしたおれの手を呈は引いて、T字路を左に曲がった。
並んで呈の横顔を見ると、まるで何かが見えているようにぐるぐるとあちらこちらを見渡している。仄かにその紅い瞳には蒼い炎が宿っていた。
そして、呈がおれを止めたことが正しいことを証明するように曲がろうとした先の道で新手のワイバーンが現れた。明らかにおれたちを追っている。
「呈、それ」
「うん、魔法! スワロー、ここから階段への道わかる!?」
頷いておれは呈に指示を出す。何度か道を変えつつも、上階へと行くための階段が見えた。背後には四人のワイバーン。何やら言い争いをしながらも、迷いなくこちらを追ってきている。
長めの階段を一気に登り切り、おれは振り返ってリュックのサイドポケットに手を突っ込み、待った。絡み合いながら我先にと登ろうとする彼女たちが現れる。そして、おれはリュックから取り出したワインレッドの球体を軽く拳で割り、階下へと投げた。ちょうど登り始めたワイバーンたちの前で球体は破裂し、ぶわっと赤紫の煙が瞬く間に広がる。
「吸うなよ、呈。行こう」
陶酔煙玉。害があるものではない。ただちょっぴり酔いの効きが強い魔力とアルコールが含まれた煙なだけだ。吸えば正常な判断と動きを阻害する。発情させる、とも言う。場合によっては逆に窮地に陥りかねないが、少しの時間を稼ぐことはできる。
ワイバーンの追跡を振り切ったおれたちは、次の階層へと歩を進めた。
「はぁはぁ……ふぅ」
次の階層は上方に余裕のある空間が広がっていた。先ほどまでは人の居住域ないし詰所だったが、ここはもっと大きな身体を持つ何かを管理するような場所にも見える。ところどころに何かを嵌めていたであろう穴のようなものが上下に並ぶ狭い部屋もあった。
「ここって檻?」
「かな。昔のワイバーンが暮らしてたとこかも」
暮らしていた、というよりは閉じ込められていた管理されていたと呼ぶべきなのかもしれない。実際のところどうかはわからないが。ただそのような小部屋らしいものが幾つもあった。外へと続く出窓は大きく、竜の姿になったワイバーンでもゆうに通れそうだ。
ここは同階層で大きく幾つかフロア分けされてあるらしく、そちら側へと続く入口と仕切る壁がある。
「階段崩れちゃってるね」
「だなぁ」
小部屋は段ごとにずらされながら重なって作られている。階段はその小部屋に行けるよう、壁から生える形なのだが老朽化のためか大部分が崩れてしまっていた。とは言え、小部屋が段になっているから無理矢理登れないこともない。
「外から行く?」
「いや、さっきのワイバーンたちが酔い醒ましに外に出てるかもしれないからな。別フロアはどうなってたか」
確か以前来たときは別のフロアにも階段があったはず。そっちは頑強な石の階段だったはずだ。こっちを登るのもそちらを確認してからでも遅くはない。ただし。
「うーん、でもそっちのフロア、誰かいるみたい」
「やっぱりそうか」
呈がおれの疑問に答えてくれた。
そういえば、さっきも何か見えてるみたいだったけど。呈の目はいま燃える蒼をたたえて、不思議な魔力を放っている。確か魔法って言っていた。
「いつの間に覚えたの?」
「昨日! ミクスさんに魔力の細かな扱い方を教わったからね、それで魔力であるものを作るイメージを膨らませてみたの。そしたらできた!」
誇らしげに言うけどきちんと小声。
しかし、ちょっと教えてもらっただけで単なる肉体強化だけでないことまでできるようになるなんて。ミクスの教え方が上手だったのか、呈の潜在能力がすごいのか。
「……」
呈がすごいということにしておこう。なんだか癪だし、呈がすごい方がおれも誇らしい。
「それであるものって?」
「うん、えっと、蛇の中にはピット器官っていう温度を目で感知する機能を持つ種類がいるんだけどね。ぼくは魔力で感覚を発達させて温度を感知できるようにしたの。あっ、でもぼくには元々ない機能だからピット器官を魔法で作ったっていうのが正しいかな」
「魔力って何でもありだなぁ……それで外の様子を見たりはできる?」
「えっと……あっ」
呈が目に蒼炎を灯して周囲を見渡すと、ある方向を見て固まった。外ではなく、次のフロアに行くための入口を見てだ。
ちょうど入口から顔だけ覗かせて、こっちを見るハーピーがいた。桃色の髪のおれたち同じくらい幼い外見。ただ、ハーピーの種族は総じて幼い外見をした個体が多いから彼女が子供かどうかはわからない。
おれたちが気づくとハーピーはとててと足を細かく動かしながら入口にびしっと立つ。腕はワイバーンと同じ翼。しかし被膜ではなく、グラデーションがかった紅色の羽根で覆われている。
「男だ。でもお手付き」
ぱたぱたと翼をはためかせながらそのハーピーはおれたちの周囲をぐるぐると回った。逃げようかと思ったけども、さっきのワイバーンたちみたいなギラついた目ではなく、話自体は通じそうな感じだった。
「二人はどうしてここに? 私たちの巣に入ってくれるの? それなら歓迎。男の人欲しいから」
「ち、違いますっ!」
烈火のように叫んでおれにぎゅうっと呈がしがみつく。意思表示の仕方がなんとも蛇らしく、一瞬で足から腰まで尾で絡めとられてしまった。
ハーピーは予想していたのか特に残念そうな顔はしなかった。
「残念。私たちは他種族でも受け入れられるのにな」
「ぼくが無理なの!」
「じゃあ何しにやってきた? 黒さんたちのところに行く気か?」
黒さん?
「ブラックハーピーたちのこと。仲は悪くないがあっちの子たちは縄張り意識高い。知らずに入ると大変」
ハーピーが上を仰ぐ。上にどうやらブラックハーピーの巣があるようだった。おそらくはおれがこれまで登った場所よりもさらに上に巣を築いているのだろう。
「おれたちはここの頂上に用があるんだ。おれの個人的用事と番い鐘を鳴らすために」
「番い鐘。あの大きな鐘。いいな、私もいつか鳴らしたいな」
翼をバサバサさせて羽根を散らしながら、ハーピーは踵を返した。入口まで戻って振り向く。
「来ないのか?」
「えっと」
当然のように尋ねてくるハーピーにおれたちは顔を見合わせて困惑する。
「大丈夫。襲わない。皆にも言う。こっちから登った方が安全」
「……行こうスワロー。嘘は言ってないと思うよ」
「呈がそう言うなら大丈夫か」
遅れてハーピーの後を追い、別のフロアへと入る。
元いたフロアと部屋の役割はさほど変わりないようだった。檻の名残ともいえる小部屋が幾つもある。階段だけ独立して部屋の奥にあるのが窺えた。
さっきのフロアと明らかに異なるのは、木の枝や草葉、羽毛をまとめたものが小部屋に幾つも敷き詰められ、そこにハーピーが寝転んでいたことだ。雑多に色々と町から持ってきているらしく、パムムやら竜泉饅頭やらの包み紙や、竜の生き血のガラス瓶やらがあちこちに転がっていた。よく見れば何かの書物もある。先ほどまでのダンジョンらしい天の柱から一転生活感のある空間になってしまっていた。
「男だ〜、わ〜!」
不意におれたちはさっきのハーピーよりも小さな子供ハーピーたちに囲まれてしまった。
おれも呈も面食らってその場に立ち往生してしまう。服をあちこちと掴まれてしまって動けない。
「ぼ、ぼくだけがスワローのものだよ!」
対抗してか、またおれにしがみついてくる呈。ますます動けなくなる。
「こら。この男はもうお手付きだ。蛇子もうちの家族にはならん。諦めろ」
「ちぇ〜」
意外と素直らしく、すぐにおれたちは解放された。しかし、興味津々におれたちのことを見ている。囲まなかったハーピーたちも遠巻きにおれたちに視線を送って来ていた。
「すまない。やんちゃ盛り。男も見たことがないからはしゃいでいる」
「ここに住んでいるんですよね? 下の町には降りないんですか?」
「私たちはまだ渡って来てさほど経っていない。あの子たちはもう少し大きくなったら自由に飛び回ってもらう予定」
渡り鳥みたいなものか。
「ここはいい。実りも多い。住まう者、皆、親切だ。食住に困らないのはいい。男もいればなお良かった」
ハーピーは子供ハーピーの頭をそのふわふわな翼で撫でる。くすぐったそうに目を細める子に、彼女は母のような優しい笑顔を浮かべた。
「もう一度聞くが。家族にはならないか?」
「駄目です。ぼくだけがスワローの唯一なんです」
「残念無念」
本当に残念がってるのかわからない微妙な無表情で、ハーピーは階段を指さす。
「頂上まで道はまだまだ長いぞ。頑張れ」
「ありがとう。話がわかる魔物娘で良かったよ」
さっき階下にいたワイバーンたちは問答無用という感じだったからな。
おれたちは階段を見上げる。長い階段が螺旋状に上方へと伸びていた。ここは幾つかぶち抜きの広い場所だったから距離を稼げたが、次もこう行くとは限らない。ハーピーから逃げる必要がないおかげで無駄な時間も失わずに済んだの大きかった。
「飛べないと不便だな。途中までなら送ってやってもいいぞ?」
見送りに来てくれたハーピーがそんな申し出をしてくれる。ありがたいお誘いではあったが答えは決まっている。
「魅力的なお誘いですけど、ぼくたちは二人で登り切らないと駄目なんです。力を合わせて二人で」
「そうか。頑張れ小さな竜騎士。いや、蛇騎士?」
いやどっちでもないけど。確かに竜騎士の隊を率いるためには天の柱の頂上に騎竜と二人で登り切るのが条件だけどさ。
「そういえば、名前を聞いてませんでした」
「ああ、そういえば。おれは」
「いや、いい」
言いかけたところでハーピーが制した。
「私は夫になる者や家族以外の名は覚えられん。忘れる。俗に言う鳥頭だ。馬鹿だ」
そんな真顔で自嘲されても反応に困るんだけど。
「夫になってくれるならば別――」
「なりません」
「冗談だ」
もはやどこまで冗談か、本気で言っているのかわからない。このハーピーは不思議な距離感の持ち主だった。
さてこれ以上ゆっくり話もしていられない。あの階下のワイバーンたちが再びやってくる可能性もなくはないのだ。
「そういえば昨日一昨日、天の柱に住む者に何かを吹き込んでいた者がいた。それから天の柱の中は落ち着きがない。話のわからない奴が多いのはそのせいかもしれない」
「……それって誰かわかる?」
「わからん。会った気もするが覚えていない」
子供ハーピーたちに彼女は聞いてみるが、子供たちも覚えていないようだった。
「気を付けるよ。ありがとう」
そこはかとなく嫌な予感がしたけど、おれは目を瞑った。気にしてもここまできたらどうにもならない。結局は全力を尽くして登り切る他道はないのだ。
階段を登り、ちょうどハーピーの姿が見えなくなる直前。
「蛇の身体に飽きたら、鳥の身体を食べに来い」
そんなことを去り際に投げかけてくる彼女に、呈が不機嫌になるよりも早くおれは断言する。
「いや、絶対に飽きることはないよ」
おれの返答に彼女は母のそれとも違う、面白いものを見るような笑みを浮かべると、
「本気だったんだがな」
そう呟いたと同時に階段の影へと彼女の姿は見えなくなった。
記録更新やった、とは全然思わない。感慨に耽る暇がない。
思っていた以上に、話の分からない奴が多すぎる!
以前、外壁を登り切る直前だったところの階層までおれと呈は辿り着いた。その間、ワイバーンに追われること三度。そして今回で四度目だった。絶賛逃亡中である。
「くっそっ! なんでこんなにいるんだよ!」
似通った姿のワイバーンもいるが、これまで遭遇している彼女たちは全て別個体だ。狭い屋内ゆえに、彼女の真価が発揮できないおかげで今までなんとか逃げ切れている。
「待て待て〜独り占めは良くないぞ〜」
「来ないで! ぼくだけがスワローのものなの!」
「ええ〜、私も一緒に混ぜてよ〜」
にこやかに獰猛な目つきで猛追するワイバーンに呈が怒鳴る。こんな調子で向こうは聞く耳を持たない。
煙玉……はあまりない。そもそも二人で持てる量はたかが知れている。今後を考えると一人相手に使うのはもったいなさ過ぎる。
「スワロー、次は!?」
「ええっと……!」
ここからは道の階層だ。地図は一応一通り目を通しているが全部を頭に叩き込むにはさすがに時間が足りなかった。しかし、インデックスを見ようにもこの状況で悠長に見ていられるはずもない。
「呈の直感に任せた!」
「ええ!? じゃ、じゃあこっち!」
狭い回廊を駆け抜けて、呈の先導に従い右方向へと歩みを進める。
が。
「ッ!」
マジか。
広がるのは足場が崩落した上方に広がる大広間だった。確かキサラギに事前情報で教えられていた、避けるべき場所の一つ。
下階層は見えるが、落ちれば直接戻ってくるのは難しい。何より下には先ほど振り切ったワイバーンたちがいる。落ちればまた鬼ごっこだ。
「ご、ごめんなさい、スワロー」
「呈のせいじゃない。おれがちゃんと地図を頭に入れておけば」
言っている場合じゃない。すぐ後ろでワイバーンの声が聞こえる。
なんとか逃げ道は。考えろ。見定めろ。
壁伝い。崩落から免れた足場はある。が、狭い上に見晴らしがいい。悠長に渡っていたら空を飛べるワイバーンにとっては絶好の獲物だ。
眼前の崩落も全ての床が落ちたわけじゃない。一部柱の周りや階下の壁部分の床は残っている。だが、ある程度は飛んでいけても途中で詰む。跳躍では届かない距離が何か所かあるのだ。
天井は横に網目のように伸びる支柱や蛍光器具の名残のようなものはあったが、別の場所に通じる道が見当たらない。ここから上階へ迎える出口は一つ。直線状の崩落の向こう側にある階段の上だ。
あとは下方にわざと降りて仕切り直すという手もあるが、歩を遅らせれば遅らせるほど、見つかりやすくなり、ワイバーンたちも一か所に集まることとなる。囲まれればおしまいだ。
「腹くくるか」
「え?」
おれは呈の腰を抱いて、少し後ろに戻った。カラビナを呈のベルトに引っ掛け、互いが離れないよう固定する。
「呈、しっかりおれにしがみついてろ。手離すからな」
「えっ? えっ?」
戸惑いつつも言うことを聞いてくれる。崩落した足場から充分な距離を稼いだところで、ワイバーンが廊下の角から現れた。にんまりと笑む彼女はとても淫靡だ。
ちょっと発情しすぎじゃないですかね?
「行くぞッ!」
「も、もしかして!?」
もしかしてだ!
おれは疾駆する。一歩一歩を石の床を踏み抜き、全身の筋肉を駆動させて、一気に最大速度へと加速させた。歩幅は合う。合わせる。最高のタイミングに合わせて、崩落した足場の直前でおれは床を思い切り蹴った。
跳躍。一迅の風となったおれは、空気の抵抗をできるだけ抑えるように姿勢を低くしながら足場へと足を伸ばす。
「ひぅん!?」
足場に無事到着と同時に呈が奇妙な悲鳴をあげる。長すぎた尻尾が階下の壁に当たったみたいだった。しかし、気にしてあげている暇はない。飛べるワイバーンに足場は関係ない。
おれは跳躍の勢いに任せそのまま駆ける。次の足場へ次の足場へ、駆け跳んだ。
「いたた……ス、スワロー! 次は遠いよ!」
「わかってる!」
百も承知!
腰から手を離すが呈はきちんとおれの肩と腰を掴んでくれている。憂いなく次の跳躍に臨める。
おれは速度を緩めることなく、迷いなく次の足場へと跳躍した。
「っっ!」
届かない。呈がおれの腰を強く抱くのがわかる。だが大丈夫、手はある。
おれは腰の巻き取り機からアラクネ印のロープを取り出すと、進行方向上部へ投擲した。目標は網目のように伸びる支柱。
「あっ!」
後方でワイバーンの驚く声が聞こえる。そのまま呆気に取られておいてくれ。
ロープは狙い通り絡まり、鉤爪がしっかりと支柱を捉える。下降に転じかけたおれと呈の身体は、支柱を中心に振り子のように再び上昇した。距離と上昇が最大値に到達した段階で、おれは腕を振るい鉤爪を支柱から剥がす。巻き取り機をオンにしてロープを円筒に戻しつつ、狙いの足場へ到着した。
「す、すご……」
呈を抱えた状態でできるかどうかは不安だったが全く問題なかった。おそらく以前までのおれならば不可能だっただろうが、いまは呈と交わりを繰り返して力をつけている。呈を抱きかかえるに十分な身体に作り替えられたのだ。
ワイバーンさんには悪いけど、おれは呈一筋なんで。
「ううぅ! 待て待てぇっ!」
当然ながらただで逃がしてくれるわけもなく、翼を目いっぱい広げて迫ってきた。走るよりも当然のように速い。あと少しだけど、ギリギリ追い付かれる。
「呈! ワイヤーキューブ!」
「! うん!」
呈は片手でリュックのサイドポケットから拳より一回り小さな半透明の球体を取り出す。
そこに蒼い炎が一瞬だけ灯り、呈はそれをワイバーンの進行方向へ向けて投げた。
「!」
ワイバーンの警戒を肌で感じる。一瞬だけ後ろを見ると、キューブを躱そうと身をよじっていた。だが、キューブはワイバーンに届くよりも早く弾ける。
そして、消える。
「え? なに、不発……きゃあっ!?」
突然、ワイバーンの飛行が乱れた。まるで何かに引っかかったように。
いや。ように、ではなく文字通り引っかかったのだ。
「なに、これ、透明の糸ぉ!?」
ワイヤーキューブ。魔力を込めたあと弾けて透明のワイヤーを壁に向けて張る魔法道具。粘着性のワイヤーはアラクネの糸から作られていて、引っかかった者をその場に絡めとる。弾けるまでのタイムラグは魔力の込める量によって調整可能。キサラギから何度か実験材料にされて完成したマジックアイテムだ。何度絡めとられたことか。その度に風呂に入る羽目になったことか。
その成果をようやくぶつけられた! ……ぶつけたのは呈だけど。
とはいえ、効果はばっちりあのワイバーンにも効いている。
このまま逃げ切れ――。
「? 魔力が…………ッ!? スワロー!」
ワイバーンの動きを追っていた呈の声が響く。警告の色を帯びたおれを呼ぶ声。
「――ブレスが来る!」
振り返ると同時。ワイバーンの口の端から炎が漏れ出た。
「くそっ」
やばい、いま空中だ。回避できるわけがない。
「貴重品なのにっ!」
ワイバーンの口の端の炎が一瞬消える。同時に空気が収束する音。中心はワイバーンの顎。
弾けた。砲声とともにワイバーンの口から紅蓮の炎が逆巻いておれたちを呑み込もうと迫る。
おれは空中でロープにぶら下がった状態のまま、煙玉類とは反対側のサイドポケットから、小さな布袋を取り出した
そして、その中身を迫りくるブレスに向かってぶちまけた。
「これって、ドラグリンデ城のときの」
銀色の粒子がブレスとおれたちの間にぶわっと広がった。ブレスが粒子に触れた瞬間、パチパチと瞬いたかと思うと炎が“拡散”する。
「熱ッ!」
拡散したブレスは勢いを失い、またその圧縮されていた威力すらも殺される。おれは足先をちょっぴり炙られつつも、階段まで逃れることに成功した。
「魔法道具二つも使うなんて卑怯だぞー! こっち来いー!」
「人燃やそうとしておいて馬鹿言うなッ!」
怒鳴ってくるワイバーンにおれは怒鳴り返した。さすがにブレスはやばい。ていうかただでさえ高価なドラゴニウムの粉塵をここで使ってしまったことがかなり痛い。残り二回分しかないだろう。
「大丈夫! 燃えるのは服だけだし、私に欲情するだけだから!」
「もっと駄目です!」
今度は呈が怒鳴り、おれたちは肩を怒らせながら階段を登っていった。
「あれ? この糸どうすればいいの? おーい」
ぶらぶらと空中で揺れるワイバーンを置いて、おれたちはその場を後にした。
ちなみに糸はお湯に浸かるか炎で燃やせば取れる。それを言ってやる義理は当然なかった。
―6―
「呈、周りに人影ある?」
「ううん。大丈夫みたい」
ワイバーンやここを巣としているらしいブラックハーピィに追いかけられること数度。なんとか逃げ切ったおれたちはある部屋で休憩をしていた。
階層的には塔の中腹手前といったところだろうか。正午はとっくに過ぎて、もうしばらくすれば日も傾き始めるだろう。
おれたちは物や姿を透明化できる護符、インビジブルシールを胸元に貼る。これで一定時間は服や所持品を含めた全身が他人からは見えない。一応魔力や精を漏れなくする効果もあるけど、探知に長けたものには効果が薄いので過信は禁物。すでに見つかっていた場合なども無駄だ。よく気を付けて気配を探れば簡単に見つかってしまうからだ。
ちなみにおれと呈は互いに見えるようになっている。服などの所持品についても同様で、これは使用時どこまでを自分の身体の一部と定めるか、誰には見えるようにするかを指定しているからである。傍から見て、服だけが浮いているというようなことはない。
「とりあえず、装備を確認しよう。まさかワイバーンがブレスしてくるなんて思わなかったからな」
「うん。もう少ししてから装備する予定だったもんね」
階層に合わせて装備は変更するつもりだったが、まさか下階層でブレスまで使って捕まえようとしてくるワイバーンがいるなど思いもしなかった。ただでさえ着衣物が多いので着たくはなかったのだけど。そうも言っていられない。
リュックのサイドポケットにマジックアイテムを補充してから、一通りリュックの中身を整理していく。思っていた以上に消費が激しい。ワイヤーキューブはおれと呈の合わせてあと四つ。煙玉はおれが三つ。陶酔煙玉は呈が一つ。逃亡に使うためのアイテムの消費が著しい。反面、傷薬の類は全く消耗していない。体力回復のために竜の生き血を二本飲み干しただけだ。いま使っている護符はあと四回分。足りるかどうかは今後次第だ。
「そういえばあの銀色の粉ってなんなの?」
「あれはドラゴニウムの粉塵だよ。ドラゴニアで採れる希少鉱石を粉末状に精製したもの。あれは貴金属と組み合わせると魔力を拡散する性質を持たせられるんだ」
ドラグリンデ城で教団兵に遭遇したときに撃退できたのはこれのおかげでもあった。突然魔法を使ってきたのでこのマジックアイテムで拡散させて、戸惑っているところを制圧したわけである。
「かなり希少だからあまり使いたくなかったんだけどな」
一袋だけでも相応の値段がする。ドラゴニウムをふんだんに使っている盾一つに迫る値段じゃないだろうか。おまけに基本的に使い捨て。
「まぁ下手に使うと逆にブレスを避けられなくなるけどな」
陶酔煙玉もそうだが、基本的にマジックアイテムとはエッチなことをするために使う物だ。ドラゴニウムの粉塵はもともとブレス浴びながら、文字通り燃えるようなセックスをしたい夫婦に向けて作られたものらしい。少量のブレスでも、熱量の高いブレスでも、ほどよい熱に包まれながらセックスを行えるようだ。
いま使っているインビジブルシールなんかも、他人に姿は見られたくないけど町中でセックスしたいカップルに向けて作られたものらしい。なんだか矛盾している気がするが、色々な嗜好を持つカップルがいるということなのだろう。
「それを逃亡用に使うなんて、大胆というかなんというか。開発した人が苦笑いしてそうだね」
呈が苦笑する。使える物は使うのがおれのポリシーだからな。
簡単に整理を終えたあとは遅まきながらの昼食。壁に背を預けて肩を寄せ合って、持参した食事を布の包みから出す。が、残念ながら内容は寂しい。竜のブレスで燃やした炭で燻製にした魔界蜥蜴の肉と、魔界葡萄の果実水である竜の生き血のみ。
あとはアルラウネの蜜飴やホルスタウロスのミルクチョコレートと歩きながらでもエネルギー補給できるもの。こっちはあとで食べられるときに食べるといった具合だ。
せめてドランスパンが欲しかったところだけどそれを入れる余裕は残念ながらなかった。
「そういえば呈。ブレスしてきたワイバーンのとき、ブレスする前にわかってたよね?」
明らかに口元から炎が漏れ出る前に呈は警告してくれていた。おれの問いに呈は頷く。
「えっとね、ぼくのピット器官だけど、実は魔力の高まりも感知できるみたいなんだ」
「それって魔法を使おうとしていることとかがわかるってこと?」
「うん。あのブレスのときも不自然に胸の辺りに魔力が見えたからもしかしたらって」
そしたら案の定ブレスが吐かれたと。
おれは呈の腰に腕を回してより身を寄せた。呈が嬉しそうに喉を鳴らして受け入れてくれる。蛇の尾もおれたちを囲むように足元でうねった。
「呈が気づいてくれてなかったら確実にブレスにやられてたな。助かったよ、ホント」
あの宙ぶらりん状態では躱す術は間違いなくなかった。
「ぼ、ぼくスワローの役に立ててるかな?」
目を輝かせて期待に満ちた瞳で見上げてくる呈に、おれは大きく縦にかぶりを振る。
「呈の魔法がなかったらすぐ捕まってただろうしな。本当にいてよかったよ」
「えへへ……」
赤く染めた頬を肩にこすりつけてくる呈だったが、しばらくすると顔をあげてさっきとはまた別種の期待の眼差しを向けてきた。ちょっぴり熱を帯びたものだ。
「あのね、ご褒美にちゅーもらっても、いい?」
「呈」
そんなわかりきったことを言う呈に、了承不承も言葉にせず行動で示す。
呈の淡い桃色の唇におれはそっと顔を近づけて、唇を重ねた。舌を迷うことなく桃色のクレバスに侵入させて、呈の舌と絡める。ぐちゅぐちゅと唾液が水音を立てると、燻製の独特な香りに混じって呈の甘い味が口内に広がって、ますます呈とのキスに夢中になった。
「んちゅ、あむちゅちゅっ、んんっ、ちゅるじゅるる、れろ、ちゅっちゅっ」
呈の舌の肉は魔界蜥蜴よりも遥かにおいしく、彼女が飲ませてくれる唾液は竜の生き血よりも甘い。舌の腹同士でこすり合うざらざらとした感触や、おれの舌に渦を巻くように絡みついて一気に引き抜いてくる呈の長い舌に、文字通りおれは舌鼓を打った。二股に割れた呈の舌先をなぞるように舌で撫でると、呈の唾液がたっぷりと出ておれの喉を潤してくれた。
食事の時間よりも長くおれたちはキスを楽しみ、互いを食べ合った。最高のひとときだった。
「エッチは登り切ったときだね」
キスを終えて、肩で息をしながら顔を上気させる呈はそう言った。
「すっごくヤリたい。正直ヤリたいけど……!」
「さすがにバレちゃうもんね」
そうなんだよなぁ。
「さてと、行く前に外套出しておこう。ブレスが直撃したら洒落にならないし」
リュックにしまい込んである耐火の外套をおれと呈は取り出し、それを防寒着の上から羽織る。かさばらない薄さのそれは仄かに熱を持っていた。
黒に近い波打つ赤錆色の外套。着た姿が釣鐘みたいになるから釣鐘外套やクロークと呼ばれたりもしているこれは、裾は膝下少しで袖はない。首の後ろ辺りに深く被れるフードがついている。首元には紐と留め具があり、外套が脱げないよう調整できる。
膨らんだリュックの上から羽織られるほど大きくないけど、リュックは一応耐火能力が付与されているので致命的じゃない。行動に支障が出るほどじゃないけど、やはり動きにくさは感じた。
「ちょっと暖かいね」
「熱の魔力を帯びてるからな。さてと、これで逃げ回らないとなー」
外套は予備にそれぞれあと一着ずつある。薄いのでかさばらないのが幸いした。予備を削ればドランスパンも入れられただろうけど、仕方ない。備えあればなんとやらだ。
おれは外套を取り出す際に出した荷物を仕舞い直す。リュックの奥で紅緋の裾が少しだけ覗いていた。
「……」
これはまだだ。なるだけ使いたくない。これはセルヴィスのもので、女王から賜ったものだ。竜騎士でもないおれが本来持っていてはいけない。
だけど、まぁ。これがここにある意味はある。必ず返さないといけないからな。
「帰るさ、必ず」
おれたちは準備を終えて立ち上がる。とそのときだった。
「おっと」
呈の身体がふらついて倒れそうになる。おれはその肩を支えて抱き寄せた。
「大丈夫?」
呈の顔色は少し疲れが見て取れる。肌が元々真っ白だから余計にそう見えるのだが。
「ご、ごめんね。大丈夫だよ」
「もう少し休んでいこうか」
「ううん、大丈夫。あんまり慣れてないからちょっと立ちくらみしただけだよ」
おれは取り出したアルラウネの蜜飴を呈の口に含ませようとする。
「あ、口移しがいいなぁ」
可愛いらしく上目遣いでおねだりしてくれる呈に、おれはたっぷりと自分の口の中で転がした蜜飴を呈に口移しする。
そんなこんなでまたキスでたっぷり時間を消費してしまうのだが、仕方のないことであった。
次の階層はこれまで追われてきた場所に比べて静かなものだったが、妙に騒がしく感じた。
というのも廊下や、反対側の廊下へ直通で繋がる小部屋などの壁には多種多様の絵画が幾つも並んでいる。どれも竜騎士らしき甲冑姿の男性と、竜形態のワイバーンの姿が描かれていた。
騎竜に跨り大空を駆ける絵。形のない強大な闇に立ち向かう竜騎士と騎竜の絵。燃え盛る大地の上を飛んでいく絵。竜騎士と騎竜が幾人も並び、槍を掲げる絵。天の柱らしき塔の周囲を滑空する竜騎士と騎竜たちの絵。
大小様々な絵画が額縁に入って展示されていた。絵画だけでなく、ワイバーンなど竜に関わりの深そうな意匠の施されたアンティーク品らしき物も途中抜けた部屋にはあった。誰かが生活しているのか、ベッドのある部屋もあったし一定の生活感がある。
絵画自体はここまでの階層で何度か目撃したが、ここまで纏まって、しかも絵画だけじゃなくお宝まであるのは驚きだった。
「確か天の柱にある絵画は誘いの絵画とかって言われてたっけ」
「誘いの絵画?」
「うん。これを見たら竜騎士になりたくなるらしい。いまの竜騎士団の半分はこれのせいでなったとか」
さすがに話を盛ってるだろうけど。
へぇ、と感心しながら呈が絵画を一つずつ注視しながら見ていく。さっきまでよりも興味を抱いたみたいだった。
「案外、幸福の鐘だけじゃなくて冒険者はこういうのも目当てにしてんのかもなー」
天の柱にはたまに冒険者が訪れる。巷では幸福の鐘と呼ばれる、何でも願いを叶える鐘を鳴らすことが目的でだ。残念ながら頂上にあるのは願いを叶えることのできる幸福の鐘でもなんでもなく、夫婦が永遠の愛を誓う番い鐘であるのだが。
「すっごく昔のなのかな? 天の柱ってドラゴニアよりも昔からあるんだよね?」
「うん。それこそ、魔物が全部女性の姿になる前かららしいけど」
一応の周囲警戒をしつつ、絵画などを見て回る。もちろん進行方向沿いのものだけだ。
「でもここって新しそうなものもあるね。わっ、これ可愛い!」
絵画を見ていると不思議と奇妙な気持ちがくすぶり始めていた。なりたい、ならないといけない、なろう、と。この絵に描かれている人たちみたいに。
これが誘いの絵画の効果か。確かに抗い難い。少なくとも天の柱に行った者の大半が竜騎士になったというのは間違いなさそうだ。
そして、そんな気持ちが沸々と湧き上がっていたときだ。呈がそれを見せてきたのは。
デフォルメされた竜騎士と騎竜の絵画。竜騎士はまぁ普通。ただ騎竜が奇妙、いや珍妙だった。
真っ黒な身体に何かを訴えかけるようなまん丸お目々。大事なものを抱えるように竜騎士を腕に抱きかかえているが、どうにも襲い掛かっているようにしか見えない。にょろりと這い出た長い舌が竜騎士を味見しようと伸びているようにも見えた。
んん? かわ、いい?
初めて呈と意見の相違が出てしまった。
「これモエニアさんが持ってたマグカップの絵と似てるな〜。流行ってるのかな?」
周囲を見渡す。どれもが油絵などで描かれたらしいリアル調の荘厳な絵ばかりだ。対してポップな感じにデフォルメされた絵はこれのみ。
んんん? 流行、り?
おれには空気が読めてないとしか、いや失礼か。でもなぁ。
前衛的すぎない?
「ね? 可愛いでしょ?」
あまりにも純粋無垢に尋ねてくるものだがら、おれは顔を逸らしながら「ソウダネ」としか言えなかった。おれは空気を読んだ。
おれの中で湧きかけた、絵画の彼らみたいになりたいという欲求は物の見事に払われていた。
「……! スワロー、誰か来てるよ、二人!」
進行方向を向いて呈が警告する。おれはすぐさま途中にあった小部屋に隠れた。足音が遅れて聞こえてくる。息を潜め、通り過ぎるのを待とうとするが、その足音の主はおれたちのいる部屋の前で立ち止まった。
「隠れるな。お前たちが盗賊でないことはわかっている。下手なことをしなければ、私たちは手を出さん」
妙齢らしい女性の声。おれは呈と顔を見合わせて頷く。どちらにしろこの部屋に逃げ場はない。見つかった以上は出ていく他なかった。
「貴様たちは、そうか。祭りの」
おれたちが出ていくと彼女の第一声はそれだった。
鷲らしい翼と猛禽類の爪を持った腕、下半身は獅子の脚を持った魔獣の女性だった。町ではあまり見かけない。この塔でも初めて見る魔物娘だった。彼女の隣にいるのは新緑の鱗を持つワイバーン。むすっとした表情の彼女とは違って、親しみやすそうにニコニコと笑みを浮かべている。
「祭り……?」
「いや、知らんならいい。貴様たちは頂上に向かっている子供二人組で相違ないな?」
頷く。彼女たちはどうやら話の通じる魔物娘だったようだ。すごく威圧的だけど。眼光は鋭い上、敵と認めた者には容赦のなさそうな物騒な空気を放っている。
呈は当然ながら怯えたようにおれの背に隠れた。
「ここ、あんたたちの住処?」
「あんた、だと? この私にはリファールという名がある。貴様ごときにあんた呼ばわりなどされたくないな」
あからさまに不機嫌になったリファールが射殺さんばかりに睨みつけてくる。これまで追ってきたワイバーンたちよりも別の意味で、本当の意味で怖い。
だけど、そこまで殺気を放たれる謂れはない。特に背中の呈をさらに怯えさせたのは許せない。おれは折れずに真っ向からリファールを睨み据える。
「私はリューネ。ごめんね、この娘、グリフォンだから気難しいんだよ」
一触即発の空気になりかけた寸前で、間に割って入ったワイバーンが仲裁するように自己紹介と彼女の種族を教えてくれた。
グリフォン。確か遺跡などの宝を守る魔物娘だったか。
「グリフォンだからという括りで私を定義づけるな、リューネ!」
「はいはい。私は種族関係なく誇りをもって宝物(ほうもつ)を管理している、でしょ。もう耳にたこができるくらい聞いたってば」
「くっ! ここの宝物番は私一人で充分だというのに! 何故こいつまで!」
「任せっきりにすると、あんた全然ご飯食べないし、寝ないでしょ? わざわざ下から馬肉を持ってあげて来てる私に感謝しなさいな」
「私にはこの身を賭して宝物を守るという使命が」
「はいはい。不器用な幼馴染持って私は大変だわぁ」
グリフォンのリファールとワイバーンのリューネの言い合いで、一気に場の空気が弛緩した。
警戒心を少し解いた呈におれは肩を竦めて、こんがらがった状況に呆れる。
なんでも二人はこの階層の宝物の類を守っている魔物娘の幼馴染であるそうだ。今日は忙しいことになりそうだったので、二人で宝物番をすることになったところ、おれたちが来たとのこと。
グリフォンには人間の欲望を敏感に感じ取る能力を持っているらしく、それで盗掘者の居場所を容易に察知できるとのこと。
「ただお前たちには宝物に対する欲望は無いに等しかったからな。感じ取ったときにはすでにあそこまで入られてしまっていた」
不覚だ、と顔をしかめるリファール。
「ちょっとでも欲しがったりしたら問答無用で襲ってたんだけどねぇ」
リューネが獰猛そうに舌なめずりする。襲う気はないようだけど、呈の警戒心は最大まで高まっていて、さっきとは打って変わりおれと彼女たちの間には呈が割っていた。いまはこの次の階層へ向かうための階段に向かっている。
「だが、呈が多少の欲望を見せたのでな。見つけることができた。魔物のでも感知できるものなのだな。魔物は基本的に宝物に興味を持たんからな」
「呈……」
「……」
多分さっきのデフォルメ絵画なんだろうなぁ。顔逸らしても遅いぞ、呈。
「持って帰るのは当然駄目だけど見るだけならタダだからいつでも見に来ていいよ」
「ほ、ホントですか!?」
「うんうん。そのときは色々解説してあげるよ。絵画に描かれてる絵も、空想上のものじゃなくて実際にあったことだからね。例えばさっき見たと思うけど、大地が燃え盛ってるあの絵は当時逃げ出した上民たちに火を放たれた東の荒野なんだよ」
「龍泉様が竜泉郷に変えたところですよね?」
東の荒野の区分に竜泉郷、そこから離れた場所に初めて呈とセックスした場所である竜泉秘境がある。
「よく知ってるね。あれは龍泉様が来てくださるまでに竜と善良な竜騎士たちが協力して、あの一帯に住んでいた人たちを避難誘導していた絵なんだよ。竜たち皆、悪い上の人たちに虐げられてはいたけど、それでも優しい人たちもいっぱいいるって知ってたからね。だから当時の竜達は協力を惜しまなかったんだって」
「へぇ……」
いま歩いている廊下に並んでいる数々の絵画。どれも竜騎士や騎竜の姿を描いているが、別に天の柱以前の話に限ったものではないようだ。
「ここにはドラゴニアの歴史を描いた絵画が並んでるよ。昔のアンティークなお宝もいっぱいね。いつでも遊びに来ていいよ。基本的に私たちは暇だし。ね?」
「暇だと? 私にはこの宝物を守護するという極めて重要な使命が」
「宝物に興味ある独り身の男性がいたらここを教えてあげてね?」
「なっ! 貴様、盗掘者を手引きするようなお願いをするとか正気か!?」
舌をぺろりと出して、リファールの文句をあっさりと受け流すリューネ。多分、いつもこんなやり取りしているんだろうな。それでも本気の喧嘩に至らないということはそれだけ仲がいいのだろう。
「んー、ホント、今日は騒がしいねぇ」
数階に渡る宝物階を彼女たちは受け持っているらしく、二階層分上がったところで、リューネが手を添えて耳を澄まして言った。あちこちにと視線を送っている。
呈も魔法を使いながら辺りを見渡すが特に何も見つけられなかったそうだ。もしかしたら視覚範囲外で、いまもワイバーンが血眼になっておれたちを探しているのかもしれない。
「騒がしいのはごめんだ。貴様たちもさっさと頂上まで登れよ。私は静かに暮らすのが好きなんだ」
「その、お二人は未婚の方ですよね? スワローを襲おうとは思わないんですか?」
呈の問いにふんっとリファールが鼻を鳴らす。
「私は男になど興味はない。あるとすれば愚かにも我が住処の宝物を狙おうとする愚者を徹底的に弄ぶことのみよ」
「とまぁ、グリフォンらしく盗掘者でもないと運命の人認定しないみたいだからね。私もこの娘と同じ男の人がいいし、スワロー君のことは特に手を出すつもりもないよ」
「くっ、何度言えばわかるリューネ、私をグリフォンという種族の定義に縛り付けるなと……!」
言い合いがまたまた始まった。仲良いなぁ。
「下のハーピィたちが、天の柱に住んでる魔物たちに何か吹き込んでる奴がいたって聞いたけど、誰か知ってる?」
「ああ。私たちのところにも来たね、それ」
リューネが答えると、うむとリファールが相槌を打った。
当然、おれはそれが誰か聞くことにする。
「私と同じワイバーンだったけど、あれ誰だったかなぁ。私基本的に町か、この階層にしかいないから、天の柱に住んでる娘全員の顔と名前把握してるわけじゃないんだよね」
リファールも同様だった。むしろこの階層から全くと言っていいほど外に出ない分、彼女の方が知り合いは少ないらしい。
「いや、おれの知ってる奴じゃないみたいなんで、それが聞けてホッとしたよ」
ミクスが何かしたんじゃないかと疑っていたから、それが晴れて一安心ではある。ミクスがおれたちに邪魔立てする理由なんて元々なかったとは思うけど。
「そういえばあのワイバーンは祭りだからとか言っていたな」
「祭り?」
「私たちもよく知らないけど、祭りだから襲って彼と番いになろうって言ってたよ。なれば一緒に番い鐘を鳴らせるって。まぁここのワイバーンたち皆、あの鐘を鳴らすのに憧れてるからねー」
ミクスじゃないにせよ、ワイバーンたちを唆しておれたちを襲わせている存在がいることは間違いないらしい。厄介な話だ。最悪番い鐘の前で待ち伏せされる可能性も考慮しなといけなくなるのか。
「まっ、恨まないであげてよ。天の柱なんてあんまり男も来ないし、人付き合いが得意じゃない娘も多いしね。よその場所から排斥されてここに流れ着いたって娘もいるし、こういう機会に無理矢理襲にでも襲ってみないと一歩踏み出せないってことなんだよ。君はもうすでに番いになってるから、魔物に理解があるってわかって逆に安心できる娘もいるだろうし」
「恨まないですけど、スワローは渡せませんっ!」
ぷくっと頬を膨らませる呈は可愛かった。どちらにしても呈以外と一緒になる自分の姿は想像できない。多分この気持ちは変わらないだろう。ワイバーンたちには悪いけど。
「全く軟弱な者どもだ。愛情だの、情欲だのに溺れるなど。天の柱に住まう者としての誇りが足りんな」
「ホント、堅物ねぇ」
色々上についての情報を教えてもらいながら、階段まで辿り着いた。この宝物のある階層も終わり、リファールとリューネとのお別れだ。
「じゃあ元気でね。無事登り切れることを祈ってるよ」
「うん。助かったよ。他のワイバーンたちにも睨み効かせてくれたみたいだしね」
「この階層で暴れると痛い目を見ることは、もうすでに知らしめているからな」
にやりと不穏な笑みをリファールが浮かべる。いったい何をしたのやら。
「面白い話ありがとうございました。落ち着いたらまた遊びに来ますね」
「ここは遊び場じゃ……」
「うんうん、来て来て。いつでも歓迎するよ」
リファールの言葉を遮って笑顔で答えるリューネにおれは苦笑いで頷く。
さて、と彼女たちに別れを告げて階段を登っているとリューネだけが追ってきて、おれと呈の肩に背中から抱き付いた。
「そういえば言い忘れてた。私があなたたちを襲わない最大の理由」
「っ!?」
ぞくっとした。声は明るい。晴れやかな蒼い大空を想起させるものだ。
しかし、その表情は王魔界のような、淫靡で桃色に濁った悦楽を至上とする笑みだった。
目は正気を失ったように黒い、底なし沼のような闇をたたえている。
「私ね、見たいの。リファールが盗掘者を襲って、犯して、それまで抱いていた使命も誇りも何もかもがその彼を犯すことだけの快楽に塗りつぶされる瞬間が」
おれも、呈も何も言えなかった。ある種の恐怖を抱いていたかもしれない。それほどに彼女の言葉には本気の色があった。
「私はそんなリファールが見定めた男の人に犯されたいの。リファールに犯されて淫乱なことしか考えらないオスになった彼に、メストカゲにされるなんて、すっごく興奮するでしょ?」
舌なめずりをしながらそれだけ言うと、リューネはおれたちから離れる。階層を降りて行く直前に見た彼女の横顔は愛しい人、否、幼馴染のところへと向かう生娘のようだった。
「色んな愛のカタチがあるんだね」
呈の感想におれはただ頷くことしかできなかった。
ワイバーンやハーピィ、グリフォンらに会ってなんとか順調におれたちは天の柱の中腹を越えた。
気性の荒い魔物娘たちに襲われながらも無事乗り越えられたのはきちんと準備してきたからもあるが、それ以上に呈の存在が大きい。
呈の魔法のおかげで危険予測や危機回避がかなり容易になった。魔法を抜きにしても、死角を補え行動力の不足を補うためにも呈がいて助かった場面は多い。バックアップの存在がいることでおれは忌憚なく登頂に全力で臨めた。
順調。
このまま行ける、そう思っていた。思ってしまったことで緩みが出ていたのかもしれない。
おれは気づけなかった。そのときまで。
「……」
声もなく、呈は突然倒れたのだった。
「呈……?」
いつもの白い肌が、いまは真っ赤に染まってしまっていた。浅い呼吸を幾度と繰り返し、しかし全身を寒さに震わしているようだった。
「呈!」
何度も呼びかけるおれに呈が返事をすることはなかった。
天の柱。
有翼種の魔物娘たちが多く住まう、雲を貫き天に届かんばかりのドラゴニア最大の塔。
誰が何の目的で建造したかも定かでないほど大昔。それこそ、魔物がいまの姿となるよりもずっと以前に天の柱は建てられた。一説ではその時代の竜騎士とも呼べる、ワイバーンと心を通わせていた竜工師たちによって建てられたと言われている。
いまでこそ番いの儀の重要な式場として、野生のワイバーンや有翼種の住処として、幸福の鐘の安置場所として、竜騎士が騎竜とともに乗り越えるべき壁として、ドラゴニアにおいて極めて重要な場所とされている。
だが、本来の目的とは何だったのか、それを知る者はいない。
建造されたのがドラゲイ革命以前のものであり、当時を知る竜はいないに等しいからだ。知っていた者は死に、生まれ変わったかドラゴンゾンビとして新たな生を受けていることだろう。文献にも伝聞でも残らなかった以上、夫との交わりを至上とする彼女たちにとっては天の柱の建造理由は然したる問題ではないのだとわかる。
天の柱は塔である。塔の役割には防衛上の見張り台、国力の誇示、宗教的意味合いなどが一般的だ。
見張り台として天の柱はどうだろうか。雲をも貫く巨大な建造物。もはやそれ自体が一個の城とさえ思わせる天の柱は、見張り台どころか要塞の一つと言っても差支えなかったであろう。何せ、その塔を建てたのはワイバーンとともに戦う国である。外敵を発見と同時に出撃も容易であったことは想像に難くない。
なれば国力の誇示として、そびえ立つ天の柱は十分な力を発揮していたと言えよう。ただでさえ険しい切り立った山々に存在するドラゲイは、当時自然の要塞とまで言われていた。そのうえで竜たちにより制空権までも握っていたのである。周辺諸国が幾度となく侵攻を考えてはついぞ叶わなかったことは、これまでドラゲイが存続しドラゴニアへとも変わってもなお続いていることからはっきりと証明されている。
だが、それら国の防衛、国力誇示以上の役割がこの塔にはある。宗教的意味合いと呼べるかは記録に残っていない以上定かではないが、しかしその名がいまなおこうして受け継がれている何よりの証だ。
『天の柱』
何故、古の竜工師たちはこの塔をそう名付けたのか。
天と。柱と。
天。天界、あの世、常世ともされる、誰もが空のさらなる上にあると考えている場所。
柱。建築物においてその支えとなるもの。ある存在において支えとなる中心者。
天の柱とは何か。天上を支える柱、霧の国において「天柱」と呼ばれるものか。
否。それだけではない。
天の柱は何より塔である。人が竜が中へと入り、上方へと至る建造物である。
柱はどこへと立っているのか。明快だ。地上に立ち、天へと繋がっているのである。
この世とあの世。此岸と彼岸。現世と常世。地上と天界。
塔には、天と地上を繋ぐという宗教的意味合いがある。天の柱は人魔問わず、あらゆる者を天上へと運ぶ意味合いが込められているのではないか。
苦難に至りて充足と安息を得る。番いの儀を象徴する一連の流れだ。天の柱が建てられた意味、そこを登る意味、そして帰ってくる意味。塔でありながら柱と名付けたその意味。天は支えられているのか、支えているのか。それとも支え合っているのか。
人魔。対となる存在。その者たちが天の柱に存在するその意味。
「天界でもない、あの世に一番近い場所、それがきっと天の柱だ」
異なる者は引き寄せ合う。磁力のように。
「だから彼は天の柱で生まれた。彼岸より此岸へと来たんだ。僕たちが天へと至るように柱を登って」
だが登った以上はいつか降りなくてはならないときが来る。天上にいつまでも居続けられることはない。地上にいつまでもいられないように。生まれ変わるということはそういうことだ。
「だから彼は登っている。いや、降りているというべきかな」
ミクスは笑う。酷薄に。
「君の出す答えが楽しみだよ、スワロー」
天の柱へと入っていく二人の後ろ姿を見送って、ミクスは一人そう呟いた。
―5―
おれと呈はついに天の柱へと突入した。エントランスのような広々とした広間がおれたちを出迎える。静寂が空間を支配しているが、そこかしこに猛々しく顎を開く竜の彫像や竜にまつわる意匠などが壁に彫られており、寂しさは感じられなかった。
ここは数階吹き抜けになっているが、竜の絵が描かれた天井が視界を遮り、それより上階の様子は伺えない。修復痕の残る支柱が幾本かその天井へと伸びていた。それは竜を取り囲む檻にも、竜に追い詰められたおれたちの檻のようにも見える。
天の柱は外から見る以上に広く、複雑な構造をしている。元々見張り台ないし要塞としての役割があったためか、外敵が侵入してきても容易に上階へと登れないようにしているのだ。ワイバーンであれば外から目的の階へ入れるため理に適った造りではある。
「幾つか道があるね」
「うん。一応どこの道通ってもある程度は登れるよ。次の階段まで遠回りになる道もあるけど」
当然ながらおれたちは最短の道を選ぶ。もうこの道は何度も通っているので地図を見るまでもなく、頭に入り込んでいた。
上層へと行くほどワイバーンの気性の荒さや獰猛さが際立ってくるが、いまはそうでもない。特定のワイバーンには気をつけなくてはならないけど。
「……」
天の柱の中はとても静かだった。ブーツが石床を鳴らす小さな音ですらよく響く。窓のない内側を行くと、薄暗さも相まって音の反響が不気味に聞こえた。壁に埋め込まれている魔宝石の灯りがいまはとても頼りない。
呈とは手を繋ぎながら、一応の周囲警戒をしつつ常に異常を伝え合えられるようにしている。場合によっては声を使えない場合もあるのだ。
「おっと……」
おれは曲がり角で足を止めた。呈も倣って這うのをやめる。おれの手を握る呈の指先に力が籠ったのがわかった。おれは呈の耳元に口を寄せる。
「ちょっと荒そうなワイバーンが向こうの角にいる。遠回りしよう」
区画的には端から端、かなり離れているが周囲を気にする様子のワイバーンがいた。間違いなく男探し中のワイバーンだろう。見つかると面倒だし、おれは道を変えることにした。呈も頷いて、その場からおれたちは離れる。
見つからないのが塔攻略で一番の安全策だ。逃げるはその次。それが叶わない場合も戦うのは最終手段でまずは説得や対話で友好を築くのが安牌だろう。
「ふぅ」
なんとか気づかれずに済んだみたいだ。魔物は男、もとい精の匂いに敏感らしいからあれだけ離れてても簡単に気づく場合があるから怖い。
「呈、大丈夫か?」
「うん。ちょっぴり冷や汗かいたけど……やっぱりこの服は暑いね」
キサラギの計らいで装備は以前の物よりもアップグレードされ、サバト脅威のメカニズム……じゃなくてサバトの技術とアラクネの裁縫能力を合わせた防寒着各種となった。おれは黒。呈は白を基調としている。これらは、防寒機能はそのままに極限まで重量を落とした特注品らしいがそれでも厚い。まだ低地な上に屋内のこの場所では暑いのも無理はなかった。
「もう少ししたら着てて良かったってなるよ」
「うん。きっと上行ったらぼくはこれがあって良かったって言ってるよ」
呈は寒がりだからな。
と、軽い言葉を交わして階段の終わりまで上がったタイミングだった。十字に分かれた廊下の階段と反対方向にちょうどこちらへと向いたワイバーンの姿があった。
目線が合った。おれと呈は一瞬硬直する。見つかったときの対処法の優先順位は、逃げる。
「友好的な感じだけど」
ワイバーンは笑っていた。おれたちを見つけて、竜翼を振りながらこちらへと駆けてくる。確かに一見、友好的な笑みを浮かべているようにも見える。
でも、目の色がはっきりと見える距離まで近づいてそれは違うと気づかされた。
「ッ! 呈!」
おれは呈の返事も聞かないまま十字路を左に曲がった。同時、ワイバーンの目つきが獰猛な捕食者のソレと変化するのを目の端で捉える。
「す、スワロー!?」
「目が笑ってなかった!」
鉤爪が石床を盛大に鳴らす音が後方で響く。
真横に呈が並んだところで手を離す。単純移動なら呈の方が速い。
T字路、十字路とここは区画分けされた階層らしい。個室の数が多く、おそらくは当時天の柱に住んでいたであろう者たちの自室。
「次は右に」
「駄目、こっちだよ!」
右に行こうとしたおれの手を呈は引いて、T字路を左に曲がった。
並んで呈の横顔を見ると、まるで何かが見えているようにぐるぐるとあちらこちらを見渡している。仄かにその紅い瞳には蒼い炎が宿っていた。
そして、呈がおれを止めたことが正しいことを証明するように曲がろうとした先の道で新手のワイバーンが現れた。明らかにおれたちを追っている。
「呈、それ」
「うん、魔法! スワロー、ここから階段への道わかる!?」
頷いておれは呈に指示を出す。何度か道を変えつつも、上階へと行くための階段が見えた。背後には四人のワイバーン。何やら言い争いをしながらも、迷いなくこちらを追ってきている。
長めの階段を一気に登り切り、おれは振り返ってリュックのサイドポケットに手を突っ込み、待った。絡み合いながら我先にと登ろうとする彼女たちが現れる。そして、おれはリュックから取り出したワインレッドの球体を軽く拳で割り、階下へと投げた。ちょうど登り始めたワイバーンたちの前で球体は破裂し、ぶわっと赤紫の煙が瞬く間に広がる。
「吸うなよ、呈。行こう」
陶酔煙玉。害があるものではない。ただちょっぴり酔いの効きが強い魔力とアルコールが含まれた煙なだけだ。吸えば正常な判断と動きを阻害する。発情させる、とも言う。場合によっては逆に窮地に陥りかねないが、少しの時間を稼ぐことはできる。
ワイバーンの追跡を振り切ったおれたちは、次の階層へと歩を進めた。
「はぁはぁ……ふぅ」
次の階層は上方に余裕のある空間が広がっていた。先ほどまでは人の居住域ないし詰所だったが、ここはもっと大きな身体を持つ何かを管理するような場所にも見える。ところどころに何かを嵌めていたであろう穴のようなものが上下に並ぶ狭い部屋もあった。
「ここって檻?」
「かな。昔のワイバーンが暮らしてたとこかも」
暮らしていた、というよりは閉じ込められていた管理されていたと呼ぶべきなのかもしれない。実際のところどうかはわからないが。ただそのような小部屋らしいものが幾つもあった。外へと続く出窓は大きく、竜の姿になったワイバーンでもゆうに通れそうだ。
ここは同階層で大きく幾つかフロア分けされてあるらしく、そちら側へと続く入口と仕切る壁がある。
「階段崩れちゃってるね」
「だなぁ」
小部屋は段ごとにずらされながら重なって作られている。階段はその小部屋に行けるよう、壁から生える形なのだが老朽化のためか大部分が崩れてしまっていた。とは言え、小部屋が段になっているから無理矢理登れないこともない。
「外から行く?」
「いや、さっきのワイバーンたちが酔い醒ましに外に出てるかもしれないからな。別フロアはどうなってたか」
確か以前来たときは別のフロアにも階段があったはず。そっちは頑強な石の階段だったはずだ。こっちを登るのもそちらを確認してからでも遅くはない。ただし。
「うーん、でもそっちのフロア、誰かいるみたい」
「やっぱりそうか」
呈がおれの疑問に答えてくれた。
そういえば、さっきも何か見えてるみたいだったけど。呈の目はいま燃える蒼をたたえて、不思議な魔力を放っている。確か魔法って言っていた。
「いつの間に覚えたの?」
「昨日! ミクスさんに魔力の細かな扱い方を教わったからね、それで魔力であるものを作るイメージを膨らませてみたの。そしたらできた!」
誇らしげに言うけどきちんと小声。
しかし、ちょっと教えてもらっただけで単なる肉体強化だけでないことまでできるようになるなんて。ミクスの教え方が上手だったのか、呈の潜在能力がすごいのか。
「……」
呈がすごいということにしておこう。なんだか癪だし、呈がすごい方がおれも誇らしい。
「それであるものって?」
「うん、えっと、蛇の中にはピット器官っていう温度を目で感知する機能を持つ種類がいるんだけどね。ぼくは魔力で感覚を発達させて温度を感知できるようにしたの。あっ、でもぼくには元々ない機能だからピット器官を魔法で作ったっていうのが正しいかな」
「魔力って何でもありだなぁ……それで外の様子を見たりはできる?」
「えっと……あっ」
呈が目に蒼炎を灯して周囲を見渡すと、ある方向を見て固まった。外ではなく、次のフロアに行くための入口を見てだ。
ちょうど入口から顔だけ覗かせて、こっちを見るハーピーがいた。桃色の髪のおれたち同じくらい幼い外見。ただ、ハーピーの種族は総じて幼い外見をした個体が多いから彼女が子供かどうかはわからない。
おれたちが気づくとハーピーはとててと足を細かく動かしながら入口にびしっと立つ。腕はワイバーンと同じ翼。しかし被膜ではなく、グラデーションがかった紅色の羽根で覆われている。
「男だ。でもお手付き」
ぱたぱたと翼をはためかせながらそのハーピーはおれたちの周囲をぐるぐると回った。逃げようかと思ったけども、さっきのワイバーンたちみたいなギラついた目ではなく、話自体は通じそうな感じだった。
「二人はどうしてここに? 私たちの巣に入ってくれるの? それなら歓迎。男の人欲しいから」
「ち、違いますっ!」
烈火のように叫んでおれにぎゅうっと呈がしがみつく。意思表示の仕方がなんとも蛇らしく、一瞬で足から腰まで尾で絡めとられてしまった。
ハーピーは予想していたのか特に残念そうな顔はしなかった。
「残念。私たちは他種族でも受け入れられるのにな」
「ぼくが無理なの!」
「じゃあ何しにやってきた? 黒さんたちのところに行く気か?」
黒さん?
「ブラックハーピーたちのこと。仲は悪くないがあっちの子たちは縄張り意識高い。知らずに入ると大変」
ハーピーが上を仰ぐ。上にどうやらブラックハーピーの巣があるようだった。おそらくはおれがこれまで登った場所よりもさらに上に巣を築いているのだろう。
「おれたちはここの頂上に用があるんだ。おれの個人的用事と番い鐘を鳴らすために」
「番い鐘。あの大きな鐘。いいな、私もいつか鳴らしたいな」
翼をバサバサさせて羽根を散らしながら、ハーピーは踵を返した。入口まで戻って振り向く。
「来ないのか?」
「えっと」
当然のように尋ねてくるハーピーにおれたちは顔を見合わせて困惑する。
「大丈夫。襲わない。皆にも言う。こっちから登った方が安全」
「……行こうスワロー。嘘は言ってないと思うよ」
「呈がそう言うなら大丈夫か」
遅れてハーピーの後を追い、別のフロアへと入る。
元いたフロアと部屋の役割はさほど変わりないようだった。檻の名残ともいえる小部屋が幾つもある。階段だけ独立して部屋の奥にあるのが窺えた。
さっきのフロアと明らかに異なるのは、木の枝や草葉、羽毛をまとめたものが小部屋に幾つも敷き詰められ、そこにハーピーが寝転んでいたことだ。雑多に色々と町から持ってきているらしく、パムムやら竜泉饅頭やらの包み紙や、竜の生き血のガラス瓶やらがあちこちに転がっていた。よく見れば何かの書物もある。先ほどまでのダンジョンらしい天の柱から一転生活感のある空間になってしまっていた。
「男だ〜、わ〜!」
不意におれたちはさっきのハーピーよりも小さな子供ハーピーたちに囲まれてしまった。
おれも呈も面食らってその場に立ち往生してしまう。服をあちこちと掴まれてしまって動けない。
「ぼ、ぼくだけがスワローのものだよ!」
対抗してか、またおれにしがみついてくる呈。ますます動けなくなる。
「こら。この男はもうお手付きだ。蛇子もうちの家族にはならん。諦めろ」
「ちぇ〜」
意外と素直らしく、すぐにおれたちは解放された。しかし、興味津々におれたちのことを見ている。囲まなかったハーピーたちも遠巻きにおれたちに視線を送って来ていた。
「すまない。やんちゃ盛り。男も見たことがないからはしゃいでいる」
「ここに住んでいるんですよね? 下の町には降りないんですか?」
「私たちはまだ渡って来てさほど経っていない。あの子たちはもう少し大きくなったら自由に飛び回ってもらう予定」
渡り鳥みたいなものか。
「ここはいい。実りも多い。住まう者、皆、親切だ。食住に困らないのはいい。男もいればなお良かった」
ハーピーは子供ハーピーの頭をそのふわふわな翼で撫でる。くすぐったそうに目を細める子に、彼女は母のような優しい笑顔を浮かべた。
「もう一度聞くが。家族にはならないか?」
「駄目です。ぼくだけがスワローの唯一なんです」
「残念無念」
本当に残念がってるのかわからない微妙な無表情で、ハーピーは階段を指さす。
「頂上まで道はまだまだ長いぞ。頑張れ」
「ありがとう。話がわかる魔物娘で良かったよ」
さっき階下にいたワイバーンたちは問答無用という感じだったからな。
おれたちは階段を見上げる。長い階段が螺旋状に上方へと伸びていた。ここは幾つかぶち抜きの広い場所だったから距離を稼げたが、次もこう行くとは限らない。ハーピーから逃げる必要がないおかげで無駄な時間も失わずに済んだの大きかった。
「飛べないと不便だな。途中までなら送ってやってもいいぞ?」
見送りに来てくれたハーピーがそんな申し出をしてくれる。ありがたいお誘いではあったが答えは決まっている。
「魅力的なお誘いですけど、ぼくたちは二人で登り切らないと駄目なんです。力を合わせて二人で」
「そうか。頑張れ小さな竜騎士。いや、蛇騎士?」
いやどっちでもないけど。確かに竜騎士の隊を率いるためには天の柱の頂上に騎竜と二人で登り切るのが条件だけどさ。
「そういえば、名前を聞いてませんでした」
「ああ、そういえば。おれは」
「いや、いい」
言いかけたところでハーピーが制した。
「私は夫になる者や家族以外の名は覚えられん。忘れる。俗に言う鳥頭だ。馬鹿だ」
そんな真顔で自嘲されても反応に困るんだけど。
「夫になってくれるならば別――」
「なりません」
「冗談だ」
もはやどこまで冗談か、本気で言っているのかわからない。このハーピーは不思議な距離感の持ち主だった。
さてこれ以上ゆっくり話もしていられない。あの階下のワイバーンたちが再びやってくる可能性もなくはないのだ。
「そういえば昨日一昨日、天の柱に住む者に何かを吹き込んでいた者がいた。それから天の柱の中は落ち着きがない。話のわからない奴が多いのはそのせいかもしれない」
「……それって誰かわかる?」
「わからん。会った気もするが覚えていない」
子供ハーピーたちに彼女は聞いてみるが、子供たちも覚えていないようだった。
「気を付けるよ。ありがとう」
そこはかとなく嫌な予感がしたけど、おれは目を瞑った。気にしてもここまできたらどうにもならない。結局は全力を尽くして登り切る他道はないのだ。
階段を登り、ちょうどハーピーの姿が見えなくなる直前。
「蛇の身体に飽きたら、鳥の身体を食べに来い」
そんなことを去り際に投げかけてくる彼女に、呈が不機嫌になるよりも早くおれは断言する。
「いや、絶対に飽きることはないよ」
おれの返答に彼女は母のそれとも違う、面白いものを見るような笑みを浮かべると、
「本気だったんだがな」
そう呟いたと同時に階段の影へと彼女の姿は見えなくなった。
記録更新やった、とは全然思わない。感慨に耽る暇がない。
思っていた以上に、話の分からない奴が多すぎる!
以前、外壁を登り切る直前だったところの階層までおれと呈は辿り着いた。その間、ワイバーンに追われること三度。そして今回で四度目だった。絶賛逃亡中である。
「くっそっ! なんでこんなにいるんだよ!」
似通った姿のワイバーンもいるが、これまで遭遇している彼女たちは全て別個体だ。狭い屋内ゆえに、彼女の真価が発揮できないおかげで今までなんとか逃げ切れている。
「待て待て〜独り占めは良くないぞ〜」
「来ないで! ぼくだけがスワローのものなの!」
「ええ〜、私も一緒に混ぜてよ〜」
にこやかに獰猛な目つきで猛追するワイバーンに呈が怒鳴る。こんな調子で向こうは聞く耳を持たない。
煙玉……はあまりない。そもそも二人で持てる量はたかが知れている。今後を考えると一人相手に使うのはもったいなさ過ぎる。
「スワロー、次は!?」
「ええっと……!」
ここからは道の階層だ。地図は一応一通り目を通しているが全部を頭に叩き込むにはさすがに時間が足りなかった。しかし、インデックスを見ようにもこの状況で悠長に見ていられるはずもない。
「呈の直感に任せた!」
「ええ!? じゃ、じゃあこっち!」
狭い回廊を駆け抜けて、呈の先導に従い右方向へと歩みを進める。
が。
「ッ!」
マジか。
広がるのは足場が崩落した上方に広がる大広間だった。確かキサラギに事前情報で教えられていた、避けるべき場所の一つ。
下階層は見えるが、落ちれば直接戻ってくるのは難しい。何より下には先ほど振り切ったワイバーンたちがいる。落ちればまた鬼ごっこだ。
「ご、ごめんなさい、スワロー」
「呈のせいじゃない。おれがちゃんと地図を頭に入れておけば」
言っている場合じゃない。すぐ後ろでワイバーンの声が聞こえる。
なんとか逃げ道は。考えろ。見定めろ。
壁伝い。崩落から免れた足場はある。が、狭い上に見晴らしがいい。悠長に渡っていたら空を飛べるワイバーンにとっては絶好の獲物だ。
眼前の崩落も全ての床が落ちたわけじゃない。一部柱の周りや階下の壁部分の床は残っている。だが、ある程度は飛んでいけても途中で詰む。跳躍では届かない距離が何か所かあるのだ。
天井は横に網目のように伸びる支柱や蛍光器具の名残のようなものはあったが、別の場所に通じる道が見当たらない。ここから上階へ迎える出口は一つ。直線状の崩落の向こう側にある階段の上だ。
あとは下方にわざと降りて仕切り直すという手もあるが、歩を遅らせれば遅らせるほど、見つかりやすくなり、ワイバーンたちも一か所に集まることとなる。囲まれればおしまいだ。
「腹くくるか」
「え?」
おれは呈の腰を抱いて、少し後ろに戻った。カラビナを呈のベルトに引っ掛け、互いが離れないよう固定する。
「呈、しっかりおれにしがみついてろ。手離すからな」
「えっ? えっ?」
戸惑いつつも言うことを聞いてくれる。崩落した足場から充分な距離を稼いだところで、ワイバーンが廊下の角から現れた。にんまりと笑む彼女はとても淫靡だ。
ちょっと発情しすぎじゃないですかね?
「行くぞッ!」
「も、もしかして!?」
もしかしてだ!
おれは疾駆する。一歩一歩を石の床を踏み抜き、全身の筋肉を駆動させて、一気に最大速度へと加速させた。歩幅は合う。合わせる。最高のタイミングに合わせて、崩落した足場の直前でおれは床を思い切り蹴った。
跳躍。一迅の風となったおれは、空気の抵抗をできるだけ抑えるように姿勢を低くしながら足場へと足を伸ばす。
「ひぅん!?」
足場に無事到着と同時に呈が奇妙な悲鳴をあげる。長すぎた尻尾が階下の壁に当たったみたいだった。しかし、気にしてあげている暇はない。飛べるワイバーンに足場は関係ない。
おれは跳躍の勢いに任せそのまま駆ける。次の足場へ次の足場へ、駆け跳んだ。
「いたた……ス、スワロー! 次は遠いよ!」
「わかってる!」
百も承知!
腰から手を離すが呈はきちんとおれの肩と腰を掴んでくれている。憂いなく次の跳躍に臨める。
おれは速度を緩めることなく、迷いなく次の足場へと跳躍した。
「っっ!」
届かない。呈がおれの腰を強く抱くのがわかる。だが大丈夫、手はある。
おれは腰の巻き取り機からアラクネ印のロープを取り出すと、進行方向上部へ投擲した。目標は網目のように伸びる支柱。
「あっ!」
後方でワイバーンの驚く声が聞こえる。そのまま呆気に取られておいてくれ。
ロープは狙い通り絡まり、鉤爪がしっかりと支柱を捉える。下降に転じかけたおれと呈の身体は、支柱を中心に振り子のように再び上昇した。距離と上昇が最大値に到達した段階で、おれは腕を振るい鉤爪を支柱から剥がす。巻き取り機をオンにしてロープを円筒に戻しつつ、狙いの足場へ到着した。
「す、すご……」
呈を抱えた状態でできるかどうかは不安だったが全く問題なかった。おそらく以前までのおれならば不可能だっただろうが、いまは呈と交わりを繰り返して力をつけている。呈を抱きかかえるに十分な身体に作り替えられたのだ。
ワイバーンさんには悪いけど、おれは呈一筋なんで。
「ううぅ! 待て待てぇっ!」
当然ながらただで逃がしてくれるわけもなく、翼を目いっぱい広げて迫ってきた。走るよりも当然のように速い。あと少しだけど、ギリギリ追い付かれる。
「呈! ワイヤーキューブ!」
「! うん!」
呈は片手でリュックのサイドポケットから拳より一回り小さな半透明の球体を取り出す。
そこに蒼い炎が一瞬だけ灯り、呈はそれをワイバーンの進行方向へ向けて投げた。
「!」
ワイバーンの警戒を肌で感じる。一瞬だけ後ろを見ると、キューブを躱そうと身をよじっていた。だが、キューブはワイバーンに届くよりも早く弾ける。
そして、消える。
「え? なに、不発……きゃあっ!?」
突然、ワイバーンの飛行が乱れた。まるで何かに引っかかったように。
いや。ように、ではなく文字通り引っかかったのだ。
「なに、これ、透明の糸ぉ!?」
ワイヤーキューブ。魔力を込めたあと弾けて透明のワイヤーを壁に向けて張る魔法道具。粘着性のワイヤーはアラクネの糸から作られていて、引っかかった者をその場に絡めとる。弾けるまでのタイムラグは魔力の込める量によって調整可能。キサラギから何度か実験材料にされて完成したマジックアイテムだ。何度絡めとられたことか。その度に風呂に入る羽目になったことか。
その成果をようやくぶつけられた! ……ぶつけたのは呈だけど。
とはいえ、効果はばっちりあのワイバーンにも効いている。
このまま逃げ切れ――。
「? 魔力が…………ッ!? スワロー!」
ワイバーンの動きを追っていた呈の声が響く。警告の色を帯びたおれを呼ぶ声。
「――ブレスが来る!」
振り返ると同時。ワイバーンの口の端から炎が漏れ出た。
「くそっ」
やばい、いま空中だ。回避できるわけがない。
「貴重品なのにっ!」
ワイバーンの口の端の炎が一瞬消える。同時に空気が収束する音。中心はワイバーンの顎。
弾けた。砲声とともにワイバーンの口から紅蓮の炎が逆巻いておれたちを呑み込もうと迫る。
おれは空中でロープにぶら下がった状態のまま、煙玉類とは反対側のサイドポケットから、小さな布袋を取り出した
そして、その中身を迫りくるブレスに向かってぶちまけた。
「これって、ドラグリンデ城のときの」
銀色の粒子がブレスとおれたちの間にぶわっと広がった。ブレスが粒子に触れた瞬間、パチパチと瞬いたかと思うと炎が“拡散”する。
「熱ッ!」
拡散したブレスは勢いを失い、またその圧縮されていた威力すらも殺される。おれは足先をちょっぴり炙られつつも、階段まで逃れることに成功した。
「魔法道具二つも使うなんて卑怯だぞー! こっち来いー!」
「人燃やそうとしておいて馬鹿言うなッ!」
怒鳴ってくるワイバーンにおれは怒鳴り返した。さすがにブレスはやばい。ていうかただでさえ高価なドラゴニウムの粉塵をここで使ってしまったことがかなり痛い。残り二回分しかないだろう。
「大丈夫! 燃えるのは服だけだし、私に欲情するだけだから!」
「もっと駄目です!」
今度は呈が怒鳴り、おれたちは肩を怒らせながら階段を登っていった。
「あれ? この糸どうすればいいの? おーい」
ぶらぶらと空中で揺れるワイバーンを置いて、おれたちはその場を後にした。
ちなみに糸はお湯に浸かるか炎で燃やせば取れる。それを言ってやる義理は当然なかった。
―6―
「呈、周りに人影ある?」
「ううん。大丈夫みたい」
ワイバーンやここを巣としているらしいブラックハーピィに追いかけられること数度。なんとか逃げ切ったおれたちはある部屋で休憩をしていた。
階層的には塔の中腹手前といったところだろうか。正午はとっくに過ぎて、もうしばらくすれば日も傾き始めるだろう。
おれたちは物や姿を透明化できる護符、インビジブルシールを胸元に貼る。これで一定時間は服や所持品を含めた全身が他人からは見えない。一応魔力や精を漏れなくする効果もあるけど、探知に長けたものには効果が薄いので過信は禁物。すでに見つかっていた場合なども無駄だ。よく気を付けて気配を探れば簡単に見つかってしまうからだ。
ちなみにおれと呈は互いに見えるようになっている。服などの所持品についても同様で、これは使用時どこまでを自分の身体の一部と定めるか、誰には見えるようにするかを指定しているからである。傍から見て、服だけが浮いているというようなことはない。
「とりあえず、装備を確認しよう。まさかワイバーンがブレスしてくるなんて思わなかったからな」
「うん。もう少ししてから装備する予定だったもんね」
階層に合わせて装備は変更するつもりだったが、まさか下階層でブレスまで使って捕まえようとしてくるワイバーンがいるなど思いもしなかった。ただでさえ着衣物が多いので着たくはなかったのだけど。そうも言っていられない。
リュックのサイドポケットにマジックアイテムを補充してから、一通りリュックの中身を整理していく。思っていた以上に消費が激しい。ワイヤーキューブはおれと呈の合わせてあと四つ。煙玉はおれが三つ。陶酔煙玉は呈が一つ。逃亡に使うためのアイテムの消費が著しい。反面、傷薬の類は全く消耗していない。体力回復のために竜の生き血を二本飲み干しただけだ。いま使っている護符はあと四回分。足りるかどうかは今後次第だ。
「そういえばあの銀色の粉ってなんなの?」
「あれはドラゴニウムの粉塵だよ。ドラゴニアで採れる希少鉱石を粉末状に精製したもの。あれは貴金属と組み合わせると魔力を拡散する性質を持たせられるんだ」
ドラグリンデ城で教団兵に遭遇したときに撃退できたのはこれのおかげでもあった。突然魔法を使ってきたのでこのマジックアイテムで拡散させて、戸惑っているところを制圧したわけである。
「かなり希少だからあまり使いたくなかったんだけどな」
一袋だけでも相応の値段がする。ドラゴニウムをふんだんに使っている盾一つに迫る値段じゃないだろうか。おまけに基本的に使い捨て。
「まぁ下手に使うと逆にブレスを避けられなくなるけどな」
陶酔煙玉もそうだが、基本的にマジックアイテムとはエッチなことをするために使う物だ。ドラゴニウムの粉塵はもともとブレス浴びながら、文字通り燃えるようなセックスをしたい夫婦に向けて作られたものらしい。少量のブレスでも、熱量の高いブレスでも、ほどよい熱に包まれながらセックスを行えるようだ。
いま使っているインビジブルシールなんかも、他人に姿は見られたくないけど町中でセックスしたいカップルに向けて作られたものらしい。なんだか矛盾している気がするが、色々な嗜好を持つカップルがいるということなのだろう。
「それを逃亡用に使うなんて、大胆というかなんというか。開発した人が苦笑いしてそうだね」
呈が苦笑する。使える物は使うのがおれのポリシーだからな。
簡単に整理を終えたあとは遅まきながらの昼食。壁に背を預けて肩を寄せ合って、持参した食事を布の包みから出す。が、残念ながら内容は寂しい。竜のブレスで燃やした炭で燻製にした魔界蜥蜴の肉と、魔界葡萄の果実水である竜の生き血のみ。
あとはアルラウネの蜜飴やホルスタウロスのミルクチョコレートと歩きながらでもエネルギー補給できるもの。こっちはあとで食べられるときに食べるといった具合だ。
せめてドランスパンが欲しかったところだけどそれを入れる余裕は残念ながらなかった。
「そういえば呈。ブレスしてきたワイバーンのとき、ブレスする前にわかってたよね?」
明らかに口元から炎が漏れ出る前に呈は警告してくれていた。おれの問いに呈は頷く。
「えっとね、ぼくのピット器官だけど、実は魔力の高まりも感知できるみたいなんだ」
「それって魔法を使おうとしていることとかがわかるってこと?」
「うん。あのブレスのときも不自然に胸の辺りに魔力が見えたからもしかしたらって」
そしたら案の定ブレスが吐かれたと。
おれは呈の腰に腕を回してより身を寄せた。呈が嬉しそうに喉を鳴らして受け入れてくれる。蛇の尾もおれたちを囲むように足元でうねった。
「呈が気づいてくれてなかったら確実にブレスにやられてたな。助かったよ、ホント」
あの宙ぶらりん状態では躱す術は間違いなくなかった。
「ぼ、ぼくスワローの役に立ててるかな?」
目を輝かせて期待に満ちた瞳で見上げてくる呈に、おれは大きく縦にかぶりを振る。
「呈の魔法がなかったらすぐ捕まってただろうしな。本当にいてよかったよ」
「えへへ……」
赤く染めた頬を肩にこすりつけてくる呈だったが、しばらくすると顔をあげてさっきとはまた別種の期待の眼差しを向けてきた。ちょっぴり熱を帯びたものだ。
「あのね、ご褒美にちゅーもらっても、いい?」
「呈」
そんなわかりきったことを言う呈に、了承不承も言葉にせず行動で示す。
呈の淡い桃色の唇におれはそっと顔を近づけて、唇を重ねた。舌を迷うことなく桃色のクレバスに侵入させて、呈の舌と絡める。ぐちゅぐちゅと唾液が水音を立てると、燻製の独特な香りに混じって呈の甘い味が口内に広がって、ますます呈とのキスに夢中になった。
「んちゅ、あむちゅちゅっ、んんっ、ちゅるじゅるる、れろ、ちゅっちゅっ」
呈の舌の肉は魔界蜥蜴よりも遥かにおいしく、彼女が飲ませてくれる唾液は竜の生き血よりも甘い。舌の腹同士でこすり合うざらざらとした感触や、おれの舌に渦を巻くように絡みついて一気に引き抜いてくる呈の長い舌に、文字通りおれは舌鼓を打った。二股に割れた呈の舌先をなぞるように舌で撫でると、呈の唾液がたっぷりと出ておれの喉を潤してくれた。
食事の時間よりも長くおれたちはキスを楽しみ、互いを食べ合った。最高のひとときだった。
「エッチは登り切ったときだね」
キスを終えて、肩で息をしながら顔を上気させる呈はそう言った。
「すっごくヤリたい。正直ヤリたいけど……!」
「さすがにバレちゃうもんね」
そうなんだよなぁ。
「さてと、行く前に外套出しておこう。ブレスが直撃したら洒落にならないし」
リュックにしまい込んである耐火の外套をおれと呈は取り出し、それを防寒着の上から羽織る。かさばらない薄さのそれは仄かに熱を持っていた。
黒に近い波打つ赤錆色の外套。着た姿が釣鐘みたいになるから釣鐘外套やクロークと呼ばれたりもしているこれは、裾は膝下少しで袖はない。首の後ろ辺りに深く被れるフードがついている。首元には紐と留め具があり、外套が脱げないよう調整できる。
膨らんだリュックの上から羽織られるほど大きくないけど、リュックは一応耐火能力が付与されているので致命的じゃない。行動に支障が出るほどじゃないけど、やはり動きにくさは感じた。
「ちょっと暖かいね」
「熱の魔力を帯びてるからな。さてと、これで逃げ回らないとなー」
外套は予備にそれぞれあと一着ずつある。薄いのでかさばらないのが幸いした。予備を削ればドランスパンも入れられただろうけど、仕方ない。備えあればなんとやらだ。
おれは外套を取り出す際に出した荷物を仕舞い直す。リュックの奥で紅緋の裾が少しだけ覗いていた。
「……」
これはまだだ。なるだけ使いたくない。これはセルヴィスのもので、女王から賜ったものだ。竜騎士でもないおれが本来持っていてはいけない。
だけど、まぁ。これがここにある意味はある。必ず返さないといけないからな。
「帰るさ、必ず」
おれたちは準備を終えて立ち上がる。とそのときだった。
「おっと」
呈の身体がふらついて倒れそうになる。おれはその肩を支えて抱き寄せた。
「大丈夫?」
呈の顔色は少し疲れが見て取れる。肌が元々真っ白だから余計にそう見えるのだが。
「ご、ごめんね。大丈夫だよ」
「もう少し休んでいこうか」
「ううん、大丈夫。あんまり慣れてないからちょっと立ちくらみしただけだよ」
おれは取り出したアルラウネの蜜飴を呈の口に含ませようとする。
「あ、口移しがいいなぁ」
可愛いらしく上目遣いでおねだりしてくれる呈に、おれはたっぷりと自分の口の中で転がした蜜飴を呈に口移しする。
そんなこんなでまたキスでたっぷり時間を消費してしまうのだが、仕方のないことであった。
次の階層はこれまで追われてきた場所に比べて静かなものだったが、妙に騒がしく感じた。
というのも廊下や、反対側の廊下へ直通で繋がる小部屋などの壁には多種多様の絵画が幾つも並んでいる。どれも竜騎士らしき甲冑姿の男性と、竜形態のワイバーンの姿が描かれていた。
騎竜に跨り大空を駆ける絵。形のない強大な闇に立ち向かう竜騎士と騎竜の絵。燃え盛る大地の上を飛んでいく絵。竜騎士と騎竜が幾人も並び、槍を掲げる絵。天の柱らしき塔の周囲を滑空する竜騎士と騎竜たちの絵。
大小様々な絵画が額縁に入って展示されていた。絵画だけでなく、ワイバーンなど竜に関わりの深そうな意匠の施されたアンティーク品らしき物も途中抜けた部屋にはあった。誰かが生活しているのか、ベッドのある部屋もあったし一定の生活感がある。
絵画自体はここまでの階層で何度か目撃したが、ここまで纏まって、しかも絵画だけじゃなくお宝まであるのは驚きだった。
「確か天の柱にある絵画は誘いの絵画とかって言われてたっけ」
「誘いの絵画?」
「うん。これを見たら竜騎士になりたくなるらしい。いまの竜騎士団の半分はこれのせいでなったとか」
さすがに話を盛ってるだろうけど。
へぇ、と感心しながら呈が絵画を一つずつ注視しながら見ていく。さっきまでよりも興味を抱いたみたいだった。
「案外、幸福の鐘だけじゃなくて冒険者はこういうのも目当てにしてんのかもなー」
天の柱にはたまに冒険者が訪れる。巷では幸福の鐘と呼ばれる、何でも願いを叶える鐘を鳴らすことが目的でだ。残念ながら頂上にあるのは願いを叶えることのできる幸福の鐘でもなんでもなく、夫婦が永遠の愛を誓う番い鐘であるのだが。
「すっごく昔のなのかな? 天の柱ってドラゴニアよりも昔からあるんだよね?」
「うん。それこそ、魔物が全部女性の姿になる前かららしいけど」
一応の周囲警戒をしつつ、絵画などを見て回る。もちろん進行方向沿いのものだけだ。
「でもここって新しそうなものもあるね。わっ、これ可愛い!」
絵画を見ていると不思議と奇妙な気持ちがくすぶり始めていた。なりたい、ならないといけない、なろう、と。この絵に描かれている人たちみたいに。
これが誘いの絵画の効果か。確かに抗い難い。少なくとも天の柱に行った者の大半が竜騎士になったというのは間違いなさそうだ。
そして、そんな気持ちが沸々と湧き上がっていたときだ。呈がそれを見せてきたのは。
デフォルメされた竜騎士と騎竜の絵画。竜騎士はまぁ普通。ただ騎竜が奇妙、いや珍妙だった。
真っ黒な身体に何かを訴えかけるようなまん丸お目々。大事なものを抱えるように竜騎士を腕に抱きかかえているが、どうにも襲い掛かっているようにしか見えない。にょろりと這い出た長い舌が竜騎士を味見しようと伸びているようにも見えた。
んん? かわ、いい?
初めて呈と意見の相違が出てしまった。
「これモエニアさんが持ってたマグカップの絵と似てるな〜。流行ってるのかな?」
周囲を見渡す。どれもが油絵などで描かれたらしいリアル調の荘厳な絵ばかりだ。対してポップな感じにデフォルメされた絵はこれのみ。
んんん? 流行、り?
おれには空気が読めてないとしか、いや失礼か。でもなぁ。
前衛的すぎない?
「ね? 可愛いでしょ?」
あまりにも純粋無垢に尋ねてくるものだがら、おれは顔を逸らしながら「ソウダネ」としか言えなかった。おれは空気を読んだ。
おれの中で湧きかけた、絵画の彼らみたいになりたいという欲求は物の見事に払われていた。
「……! スワロー、誰か来てるよ、二人!」
進行方向を向いて呈が警告する。おれはすぐさま途中にあった小部屋に隠れた。足音が遅れて聞こえてくる。息を潜め、通り過ぎるのを待とうとするが、その足音の主はおれたちのいる部屋の前で立ち止まった。
「隠れるな。お前たちが盗賊でないことはわかっている。下手なことをしなければ、私たちは手を出さん」
妙齢らしい女性の声。おれは呈と顔を見合わせて頷く。どちらにしろこの部屋に逃げ場はない。見つかった以上は出ていく他なかった。
「貴様たちは、そうか。祭りの」
おれたちが出ていくと彼女の第一声はそれだった。
鷲らしい翼と猛禽類の爪を持った腕、下半身は獅子の脚を持った魔獣の女性だった。町ではあまり見かけない。この塔でも初めて見る魔物娘だった。彼女の隣にいるのは新緑の鱗を持つワイバーン。むすっとした表情の彼女とは違って、親しみやすそうにニコニコと笑みを浮かべている。
「祭り……?」
「いや、知らんならいい。貴様たちは頂上に向かっている子供二人組で相違ないな?」
頷く。彼女たちはどうやら話の通じる魔物娘だったようだ。すごく威圧的だけど。眼光は鋭い上、敵と認めた者には容赦のなさそうな物騒な空気を放っている。
呈は当然ながら怯えたようにおれの背に隠れた。
「ここ、あんたたちの住処?」
「あんた、だと? この私にはリファールという名がある。貴様ごときにあんた呼ばわりなどされたくないな」
あからさまに不機嫌になったリファールが射殺さんばかりに睨みつけてくる。これまで追ってきたワイバーンたちよりも別の意味で、本当の意味で怖い。
だけど、そこまで殺気を放たれる謂れはない。特に背中の呈をさらに怯えさせたのは許せない。おれは折れずに真っ向からリファールを睨み据える。
「私はリューネ。ごめんね、この娘、グリフォンだから気難しいんだよ」
一触即発の空気になりかけた寸前で、間に割って入ったワイバーンが仲裁するように自己紹介と彼女の種族を教えてくれた。
グリフォン。確か遺跡などの宝を守る魔物娘だったか。
「グリフォンだからという括りで私を定義づけるな、リューネ!」
「はいはい。私は種族関係なく誇りをもって宝物(ほうもつ)を管理している、でしょ。もう耳にたこができるくらい聞いたってば」
「くっ! ここの宝物番は私一人で充分だというのに! 何故こいつまで!」
「任せっきりにすると、あんた全然ご飯食べないし、寝ないでしょ? わざわざ下から馬肉を持ってあげて来てる私に感謝しなさいな」
「私にはこの身を賭して宝物を守るという使命が」
「はいはい。不器用な幼馴染持って私は大変だわぁ」
グリフォンのリファールとワイバーンのリューネの言い合いで、一気に場の空気が弛緩した。
警戒心を少し解いた呈におれは肩を竦めて、こんがらがった状況に呆れる。
なんでも二人はこの階層の宝物の類を守っている魔物娘の幼馴染であるそうだ。今日は忙しいことになりそうだったので、二人で宝物番をすることになったところ、おれたちが来たとのこと。
グリフォンには人間の欲望を敏感に感じ取る能力を持っているらしく、それで盗掘者の居場所を容易に察知できるとのこと。
「ただお前たちには宝物に対する欲望は無いに等しかったからな。感じ取ったときにはすでにあそこまで入られてしまっていた」
不覚だ、と顔をしかめるリファール。
「ちょっとでも欲しがったりしたら問答無用で襲ってたんだけどねぇ」
リューネが獰猛そうに舌なめずりする。襲う気はないようだけど、呈の警戒心は最大まで高まっていて、さっきとは打って変わりおれと彼女たちの間には呈が割っていた。いまはこの次の階層へ向かうための階段に向かっている。
「だが、呈が多少の欲望を見せたのでな。見つけることができた。魔物のでも感知できるものなのだな。魔物は基本的に宝物に興味を持たんからな」
「呈……」
「……」
多分さっきのデフォルメ絵画なんだろうなぁ。顔逸らしても遅いぞ、呈。
「持って帰るのは当然駄目だけど見るだけならタダだからいつでも見に来ていいよ」
「ほ、ホントですか!?」
「うんうん。そのときは色々解説してあげるよ。絵画に描かれてる絵も、空想上のものじゃなくて実際にあったことだからね。例えばさっき見たと思うけど、大地が燃え盛ってるあの絵は当時逃げ出した上民たちに火を放たれた東の荒野なんだよ」
「龍泉様が竜泉郷に変えたところですよね?」
東の荒野の区分に竜泉郷、そこから離れた場所に初めて呈とセックスした場所である竜泉秘境がある。
「よく知ってるね。あれは龍泉様が来てくださるまでに竜と善良な竜騎士たちが協力して、あの一帯に住んでいた人たちを避難誘導していた絵なんだよ。竜たち皆、悪い上の人たちに虐げられてはいたけど、それでも優しい人たちもいっぱいいるって知ってたからね。だから当時の竜達は協力を惜しまなかったんだって」
「へぇ……」
いま歩いている廊下に並んでいる数々の絵画。どれも竜騎士や騎竜の姿を描いているが、別に天の柱以前の話に限ったものではないようだ。
「ここにはドラゴニアの歴史を描いた絵画が並んでるよ。昔のアンティークなお宝もいっぱいね。いつでも遊びに来ていいよ。基本的に私たちは暇だし。ね?」
「暇だと? 私にはこの宝物を守護するという極めて重要な使命が」
「宝物に興味ある独り身の男性がいたらここを教えてあげてね?」
「なっ! 貴様、盗掘者を手引きするようなお願いをするとか正気か!?」
舌をぺろりと出して、リファールの文句をあっさりと受け流すリューネ。多分、いつもこんなやり取りしているんだろうな。それでも本気の喧嘩に至らないということはそれだけ仲がいいのだろう。
「んー、ホント、今日は騒がしいねぇ」
数階に渡る宝物階を彼女たちは受け持っているらしく、二階層分上がったところで、リューネが手を添えて耳を澄まして言った。あちこちにと視線を送っている。
呈も魔法を使いながら辺りを見渡すが特に何も見つけられなかったそうだ。もしかしたら視覚範囲外で、いまもワイバーンが血眼になっておれたちを探しているのかもしれない。
「騒がしいのはごめんだ。貴様たちもさっさと頂上まで登れよ。私は静かに暮らすのが好きなんだ」
「その、お二人は未婚の方ですよね? スワローを襲おうとは思わないんですか?」
呈の問いにふんっとリファールが鼻を鳴らす。
「私は男になど興味はない。あるとすれば愚かにも我が住処の宝物を狙おうとする愚者を徹底的に弄ぶことのみよ」
「とまぁ、グリフォンらしく盗掘者でもないと運命の人認定しないみたいだからね。私もこの娘と同じ男の人がいいし、スワロー君のことは特に手を出すつもりもないよ」
「くっ、何度言えばわかるリューネ、私をグリフォンという種族の定義に縛り付けるなと……!」
言い合いがまたまた始まった。仲良いなぁ。
「下のハーピィたちが、天の柱に住んでる魔物たちに何か吹き込んでる奴がいたって聞いたけど、誰か知ってる?」
「ああ。私たちのところにも来たね、それ」
リューネが答えると、うむとリファールが相槌を打った。
当然、おれはそれが誰か聞くことにする。
「私と同じワイバーンだったけど、あれ誰だったかなぁ。私基本的に町か、この階層にしかいないから、天の柱に住んでる娘全員の顔と名前把握してるわけじゃないんだよね」
リファールも同様だった。むしろこの階層から全くと言っていいほど外に出ない分、彼女の方が知り合いは少ないらしい。
「いや、おれの知ってる奴じゃないみたいなんで、それが聞けてホッとしたよ」
ミクスが何かしたんじゃないかと疑っていたから、それが晴れて一安心ではある。ミクスがおれたちに邪魔立てする理由なんて元々なかったとは思うけど。
「そういえばあのワイバーンは祭りだからとか言っていたな」
「祭り?」
「私たちもよく知らないけど、祭りだから襲って彼と番いになろうって言ってたよ。なれば一緒に番い鐘を鳴らせるって。まぁここのワイバーンたち皆、あの鐘を鳴らすのに憧れてるからねー」
ミクスじゃないにせよ、ワイバーンたちを唆しておれたちを襲わせている存在がいることは間違いないらしい。厄介な話だ。最悪番い鐘の前で待ち伏せされる可能性も考慮しなといけなくなるのか。
「まっ、恨まないであげてよ。天の柱なんてあんまり男も来ないし、人付き合いが得意じゃない娘も多いしね。よその場所から排斥されてここに流れ着いたって娘もいるし、こういう機会に無理矢理襲にでも襲ってみないと一歩踏み出せないってことなんだよ。君はもうすでに番いになってるから、魔物に理解があるってわかって逆に安心できる娘もいるだろうし」
「恨まないですけど、スワローは渡せませんっ!」
ぷくっと頬を膨らませる呈は可愛かった。どちらにしても呈以外と一緒になる自分の姿は想像できない。多分この気持ちは変わらないだろう。ワイバーンたちには悪いけど。
「全く軟弱な者どもだ。愛情だの、情欲だのに溺れるなど。天の柱に住まう者としての誇りが足りんな」
「ホント、堅物ねぇ」
色々上についての情報を教えてもらいながら、階段まで辿り着いた。この宝物のある階層も終わり、リファールとリューネとのお別れだ。
「じゃあ元気でね。無事登り切れることを祈ってるよ」
「うん。助かったよ。他のワイバーンたちにも睨み効かせてくれたみたいだしね」
「この階層で暴れると痛い目を見ることは、もうすでに知らしめているからな」
にやりと不穏な笑みをリファールが浮かべる。いったい何をしたのやら。
「面白い話ありがとうございました。落ち着いたらまた遊びに来ますね」
「ここは遊び場じゃ……」
「うんうん、来て来て。いつでも歓迎するよ」
リファールの言葉を遮って笑顔で答えるリューネにおれは苦笑いで頷く。
さて、と彼女たちに別れを告げて階段を登っているとリューネだけが追ってきて、おれと呈の肩に背中から抱き付いた。
「そういえば言い忘れてた。私があなたたちを襲わない最大の理由」
「っ!?」
ぞくっとした。声は明るい。晴れやかな蒼い大空を想起させるものだ。
しかし、その表情は王魔界のような、淫靡で桃色に濁った悦楽を至上とする笑みだった。
目は正気を失ったように黒い、底なし沼のような闇をたたえている。
「私ね、見たいの。リファールが盗掘者を襲って、犯して、それまで抱いていた使命も誇りも何もかもがその彼を犯すことだけの快楽に塗りつぶされる瞬間が」
おれも、呈も何も言えなかった。ある種の恐怖を抱いていたかもしれない。それほどに彼女の言葉には本気の色があった。
「私はそんなリファールが見定めた男の人に犯されたいの。リファールに犯されて淫乱なことしか考えらないオスになった彼に、メストカゲにされるなんて、すっごく興奮するでしょ?」
舌なめずりをしながらそれだけ言うと、リューネはおれたちから離れる。階層を降りて行く直前に見た彼女の横顔は愛しい人、否、幼馴染のところへと向かう生娘のようだった。
「色んな愛のカタチがあるんだね」
呈の感想におれはただ頷くことしかできなかった。
ワイバーンやハーピィ、グリフォンらに会ってなんとか順調におれたちは天の柱の中腹を越えた。
気性の荒い魔物娘たちに襲われながらも無事乗り越えられたのはきちんと準備してきたからもあるが、それ以上に呈の存在が大きい。
呈の魔法のおかげで危険予測や危機回避がかなり容易になった。魔法を抜きにしても、死角を補え行動力の不足を補うためにも呈がいて助かった場面は多い。バックアップの存在がいることでおれは忌憚なく登頂に全力で臨めた。
順調。
このまま行ける、そう思っていた。思ってしまったことで緩みが出ていたのかもしれない。
おれは気づけなかった。そのときまで。
「……」
声もなく、呈は突然倒れたのだった。
「呈……?」
いつもの白い肌が、いまは真っ赤に染まってしまっていた。浅い呼吸を幾度と繰り返し、しかし全身を寒さに震わしているようだった。
「呈!」
何度も呼びかけるおれに呈が返事をすることはなかった。
17/10/15 18:27更新 / ヤンデレラ
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