第三章 群狼
木立を突き破り、山道に躍り出る。目の前には修道服で着飾ったリーズが尻もちをついていた。彼女の正面で奇怪な姿をした女がにじり寄っている。俺はすぐさま鉈を振り回しながら二人の間に割って入った。女は俺の姿を一瞥すると、素早く飛びのいて俺の一撃を躱した。
「ユベール」
背後で声を上げるリーズを背で隠す様に立ちふさがって、正面の女を見据えた。
一見するとボロ切れを身にまとっただけの女に見える。だが、四肢は毛で覆われ、頭部には犬のような耳がぴんと立っている。これは人間の姿をしながらも人間を食らう狼の魔物、人狼(ワーウルフ)だ。
「あら、ダンディな叔父様だけじゃなくて、可愛い坊やまでいるのね。今日は大量だわ」
鉈の切っ先を向けられてもなお、人狼は余裕綽々と言った様子で頬を釣り上げる。その背後で人狼と同じ格好をした女たちの人だかりが蠢いていた。そこからは女の嬌声とともにクレメンテさんの呻き声が聞こえた。クレメンテさんが襲われている。そう悟った瞬間、怒りで体が震えた。
「リーズ、早く逃げろ」
「でも……」
「いいから!」
背後にいるリーズに向かって叫んだ。幾何か逡巡するような間があったが、すぐに遠ざかる足音が聞こえてきた。あとはクレメンテさんを助けるだけだ。俺は鉈を右手でしっかりと握りしめた。傷跡がずきりと疼いた。
「見かけによらずカッコいいじゃないの。お姉さん、昂るわ……」
舐められている。挑発だというのは理解していても、血が上った頭は衝動に任せて身体を人狼に突進させていた。鉈を振りかぶり、駆ける勢いを乗せて切りかかる。だがその切っ先は空しく空を切るだけで、容易く人狼に躱された。降ろし切った腕に力を込めて、逆袈裟で追撃をかける。軋んだ右腕が傷んだが、歯を食いしばって振り上げる。それでも刃は届かなかった。
「ほらほらこっちにいらっしゃい」
誘うように手を広げて、人狼は後ろに下がっていく。その背後でクレメンテさんに群がっていた人狼達がこちらを向いた。俺を視線に捉えると、歓声を上げて次々に立ち上がった。
「皆で気持ちよくなりましょう」
そう言って目の前の人狼は嗜虐的な笑みを浮かべる。その周囲に他の人狼が並んだ。
「わ、かっこいいオトコノコじゃん」
「こっちを睨んじゃって、可愛いのね」
「美味しそー」
嘲笑うように呟きながら、人狼達は俺を取り囲むようににじり寄ってきた。数を増していく人狼達を見れば俺の分が悪いのは明らかだった。鉈を構えながら距離を空けるように二三歩後ずさりする。このまま逃げようか、と臆病な考えが頭をよぎる。人狼に集られているクレメンテさんはどう考えても助かりそうにない。わざわざこの人狼の群れに立ち向かう必要なんてないのだ。だけど――
俺は依然として視線を人狼に向けたまま、背後を伺った。俺が背して立ち塞がる山道は村へと伸びている。すぐ後ろに人の気配はない。だが、この先をリーズが逃げている筈だった。
――後ろにはリーズがいる。そこに人狼達を向かわせるわけにはいかない。
意識を正面に戻すと、俺は改めて人狼達を見据えた。もう後ろに下がることもしなかった。
人狼達が足を踏み出すその瞬間に合わせて、俺は鉈を上段に振りかぶって駆け出した。向かうのは左端から背後に回ろうとしている人狼だ。完全に囲まれる前に、その端を打ち崩す。
人狼に一気に接近し、雄叫びとともに鉈を振り下ろす。だが、人狼は後ろに飛びのき、一閃は届かない。追撃――いや違う。鉈を返すと振り向きざまに背後を薙ぎ払った。案の定、隙を突こうとした人狼達が後ろから俺に接近しているところだった。もっとも、距離はまだ開いており、薙ぎ払いは空振りに終わる。攻撃が届かない歯痒さに舌を打つ。右腕の鈍痛が増していった。
鉈を振り切ったところで背後で気配がした。先ほどうち漏らした人狼の気配だ。俺は鉈を振りかぶると、振り向きながら唐竹切りを図った。身を翻した時には、人狼が鉈の間合いまで接近していた。余裕ぶっていた顔が苦々し気に歪む。必中を確信し俺は体重を乗せて鉈を振り下ろした。ぶうん、と切っ先が空を切り、鉈が重力に加速されて打ち下ろされる。そこに何かを打ち砕く手ごたえはなかった。
人狼は超常的な反応で俺の攻撃を捉えると、人間ならざる身のこなしで渾身の一撃を躱したのだ。避けた先は右。依然として鉈の間合いにいる。逆袈裟で追撃すべく、降ろしきった鉈に力を込める。途端に右腕に激痛が走った。閉じた筈の傷跡から血が噴出する感覚がした。それでも俺は渾身の思いで刃を返す。痛みかき消すように声にならない声を上げながら鉈を振り上げた。
激痛を伴った一閃は、逆袈裟には遠く及ばない。右腕は上がりきらず、胴の高さを力なく薙ぎ払う。当然、そんな弱弱しい軌跡が人狼に届くはずがない。人狼は後ろに下がって刃を回避した。
鉈を左手に持ち替えながら、俺は辺りを伺った。いつの間にか人狼達に取り囲まれていた。逃げ出せそうな隙間も見当たらない。開いた傷の痛みで右腕は持ち上がらず、だらんと垂らすしかできない。左腕に掲げた鉈で周囲を威嚇し、なんとか人狼の接近を拒むことで精一杯だ。この包囲から脱出できるとは到底思えなかった。
周りを取り囲むのは、神経を逆撫でする様な憎らしい笑み。死に切れない獲物を弄るような嗜虐者の貌だ。無様な命乞いをしたとしても、助けてくれるとは到底思えない。そもそも魔物にそんなものを期待するのが間違っているのだろうが。ともあれ、もう助からない。回避しきれぬ破滅を前にした絶望が、頭の中を占拠する。もう村に生きて戻ることは叶わないという確信もあった。それでも、俺は鉈を握り続けた。
俺が生きている限り、この人狼たちは村に向かわない。俺が立っている限り、人狼たちは山道を降りることはない。俺が狙われている限り、リーズが人狼たちに狙われることはない。ならば、最後まで足掻き続けよう。たとえ敵うことはないと悟っていても、戦い続けよう。戦って、足掻いて、生きてる限り、村の人達に――リーズに魔物の手が伸びるのが遅れるのだ。
気迫を込めて周囲を取り囲む人狼を見据える。隙を伺っているのか、人狼たちは鉈の間合いに入ってこない。何度も振り返って四方の全てに気を配っているおかげか、人狼たちも攻めあぐねている様だった。
もしかしたら助かるかもしれない。リーズが村にたどり着くまで持ちこたえることができれば、この状況を聞いた親父や猟師仲間が助けに来てくれるかもしれない。そして、今の均衡した状況ならば、そこまで耐えられるかもしれない。死を覚悟したこの状況で、かすかな希望が頭をよぎった。
その時、強く握りしめた鉈の持ち手が汗で滑り始めた。鉈を動かして握り直す。その瞬間、背後の気配が動いた。
握りが甘くなっていることを理解しながらも、俺は振り向いて、迫る人狼に切りかかる。握り方も無視した状況だったが、それでもなんとか鉈を滑り落とさずに済んだ。ただし、その代わりとばかりに不恰好になった一閃は人狼に容易く回避された。飛びのいた人狼が俺の背後をみてにやりと笑う。囮だ。悟ると同時に刃を返して、振り向きざまの薙ぎ払いを試みる。だが、そこで手から鉈がすっぽ抜けた。左手だけが虚しく空を切る。背後で勢いをなくした鉈が地面に落ちる音がする。正面では誇示するような笑みを浮かべた人狼が迫っている。俺は叫んだ。
「畜生!」
無念の雄叫びとともに俺は押し倒された。
俺を押し倒した人狼が馬乗りになって見下ろしてくる。相手は辛抱堪らないといった様子で口角を吊り上げていた。涎を漏らす唇から、狼らしい大きな犬歯がはみ出ている。あの牙が俺に突き立てられるのか。覚悟を決めて息を呑む。だが、その予想に反して、人狼は身に着けていたボロを脱いだ。
露わにされた豊かな胸に、俺は思わず目を見張る。相手は魔物とはいえ、一見すると女性と見間違うような容貌をしている。ともすれば下手な人間の女性よりも美しいと感じるくらいだ。そんな魔物が目の前で肌を晒しているのだ。男なら誰だって見つめてしまう。だが、直ぐにクレメンテさんの言葉を思い出し、俺は目を手で覆った。
――かつて魔物は獣のような姿をしており、文字通り人間の肉を食らって生きていました。だが、その脅威は勇者たちの存在によって長く続きませんでした。主の祝福を授かった勇者たちは、この恐ろしい魔物たちを悉く屠っていきました。劣勢に立たされた魔物たちは別の手を取りました。自らを見た目麗しい女性の姿に変えた彼らは、甘い言葉で男を誑かすようになりました。男たちを姦淫の罪へと堕落させようとしたのです。彼女たちの爪は肌を裂かず、彼女たちの牙は肉を噛みしめません。代わりに彼女たちは肉欲の果てにある男たちの精を、肉や血ですらない、より根源的な命の力を喰らうようになったのです――
そうだ。俺は今やつらに食べられようとしているのだ。男なら誰もが持つ邪な思いを利用されて、命そのものを吸い取られようとしているのだ。
「あなたが一番なの? ずるい」
「終わったら交代してよね」
「目をそらしちゃってカワイイ」
周囲で俺を取り囲む人狼達が、俺にのしかかる一番手に羨望の声をあげる。件の人狼は艶めかしい腰つきで自らの股間を俺の股間に擦り付けていた。下穿き越しに伝わる秘裂の柔らかさに、男の本能が否が応でもくすぐられていく。下半身に血が集まっていく熱を感じた。
どうにかしてこの状況を切り抜けなければ、命を吸い取られてしまう。だが人狼に馬乗りにされているこの状況からどうやって脱出する?
ふと、両手が自由なことに気が付いた。腰に吊るしたナイフの存在も思い出す。俺に乗っている人狼は股間をこすりつけるのに夢中だ。上手く隙を突けば、人狼の横っ腹にナイフを突き立てて、この窮地から抜け出せるかもしれない。俺は右腕で顔を隠しながら、左手を静かに腰の方へ伸ばした。
人狼が股間を擦り付ける衣擦れの音に水音が混じり始める。下穿き越しでも、俺の陰茎を刺激している人狼の秘裂が濡れているのが分かった。今や人狼は顔を蕩けさせて喘いでいる。耳に響く嬌声もまた艶めかしい。俺の男としての本能が、俺の下腹部にぶら下がる男自身が目覚め始める。
もう我慢するのは止めよう。この淫らな誘惑に抗うのは諦めよう。魔物たちは初めから男の欲望を煽る様にできているのだ。下手に抵抗したとしても敵いっこない。それに、人狼が俺の股間に意識を集中すればするほど、腰のナイフへ伸ばしている俺の左手への注意が逸れるのだ。
抗うことを切り捨てて、俺は人狼から与えられる快楽を受け入れる。股間が充血していくのが分かった。俺の変化を察したのだろう。人狼がにんまりと笑った。
「硬くなった」
その言葉に周囲の人狼達が歓声を上げた。今だ。
俺は素早くナイフを抜き取った。そのまま露わになっている人狼の脇腹にナイフを突き立て――ようとしたが、その腕を何者かが掴んだ。
「あーあ、こんな危ないの持って、いけないんだー」
それは周りを取り囲んでいた人狼の一匹だった。逆転の一撃を防いだその人狼は、俺をからかいながら、女性のような見た目からは想像もつかない膂力でナイフをもぎ取った。
「糞!」
「あーもう、暴れないで。みんな、この子を押さえて」
希望は絶たれたが、それでも俺は足掻いた。両手両足を振り回して抵抗する。だがすぐに人狼達が俺の四肢を押さえつける。
「怖がらなくていいのよ。これからすることはとっても気持ちのいいことなの。お姉さんも気持ちよくしてあげるから。落ち着いて、ね」
頭上から声がしたと思ったらいなや、柔らかい何かが俺の顔を覆った。鼻腔一杯に広がる甘い香り。これは胸だ。気が付いた時には俺の頭は抱えられ、膝の上に乗せられていた。さながら赤子に乳を与えるがごとく、人狼は俺に乳房を押し付けながら、優しい手つきで頭を撫でてくる。
股間に冷気が吹いた。下穿きを脱がされたのだ。既に屹立していた陰茎に、塗れた何かが触れる。視界は依然として人狼の乳房で覆われているが、それが何か分かった。上げようとした悲鳴も顔を覆う乳房に抑え込まれる。恐怖でしなびてしまったらいいものの、俺の陰茎は硬いままだった。
「それじゃあ、いただきます」
柔らかい何かに亀頭が沈み込んでいく。それは間違いなくそれは人狼の生殖器だ。男から命の力を吸い出す器官でもある。死を悟った俺は、最期にリーズのことを想った。どうか無事でいてくれ、と。
「待ちなさい!」
突然、凛とした声が響いた。今まさに俺を食らおうとしていた人狼も、秘裂に亀頭を僅かにめり込ませた状態で腰を止めた。俺の顔に胸を押し付けていた人狼も背筋をピンと伸ばす。おかげで視界が開き、周囲の様子が伺えるようになった。俺を取り囲んでいた人狼たちは緊張した面持ちで声の出元の方を向いていた。視線の先では人狼達の一部が脇に寄って道を作っていた。
ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。山に入ってから幾度となく嗅いだ花の香りだ。その芳香をまき散らすように、新たな人影が姿を現した。人狼とは別の魔物、恐らく高等な淫魔なのだろうか。思わず目を奪われるほど綺麗な女性だった。彼女の身を包むドレスはハートを模したフリルや刺繍がふんだんにあしらわれ、人狼達のボロとは比べるに値しないほど品のある造りになっている。その一方で、胸元や太ももは局部が見えるギリギリまで肌を露出させ、妖艶な色気を漂わせていた。だが、その煽情的な服飾よりも、俺はその上から目が離せなかった。絹の様な白い髪に、艶やかな紅を帯びだ唇と頬。白と紅のコントラストの中で一際輝くのは同じく色素が欠けた紅い瞳。睫毛で強調するように縁どられたその紅に睥睨されたとき、俺はわず息をのんだ。
俺に馬乗りになっていた人狼が、上ずった声をあげた。
「イナンナ様!」
これが彼女の名前なのだろうか。依然として正体は分からない。だが、人狼達の反応を見ると、彼女は魔物の中でも極めて高貴な存在の様だった。それこそ、幾千もの軍勢を打ち破ったと伝え聞くような、魔界の貴族や王族並みに位が高い魔物かもしれない。
全身が総毛立つのを感じた。名だたる勇者ですら討ち果たすことが敵わなかったと思しきこの高等な魔物に、一介の狩人である俺が何ができるだろうか。体を押さえつけられ、逃げることも叶わないとなっては、些細な抵抗すらできそうもなかった。
だが、俺は自問自答せずにはいられなかった。この体の震えは本当に恐怖からきているのか? 早鐘を打つ心臓の鼓動は本当に死を前にした生存本能によるものか? そもそもなぜ俺の体はこんなに熱いんだ?
期待だ。これから行われる行為に対する期待。死の対価として与えられる欲望への充足の期待が、俺の体を震わせているのだ。股下の限界まで開かれたスリットから覗く白い内腿に目を奪われぬ男がいるだろうか? 衣装から今にも溢れそうな胸元の二つの双球と、その間に刻まれた谷間に生唾を飲まぬ男がいるだろうか? そもそも穢れなき高貴さと、背徳に汚れた淫靡さの矛盾が調和したこの美貌に魅入られぬ男がいるだろうか? この美女を抱く様を妄想する下卑た雄の本能を止めることができるだろうか? たとえそれが死へと誘う甘美な罠だとしても。
意識を包み込もうとする欲求を全身全霊をかけて振り払い、俺は彼女の魅惑に抗う。彼女を迎えんがために意に反して動き出そうとする体を押しとどめることにはできた。だが、早まり続ける鼓動と、高まり続ける体の熱と、なによりもその脈動すら感じ取れそうな程怒張した己の陰茎を鎮めることなどできなかった。
イナンナはひとしきり俺のことを見つめると、俺に跨ったままの人狼にむけて手を払った。どけ、という仕草だろう。意図を察知したらしい人狼は慌てた様子で俺の身体から降りた。濡れた亀頭が外気にさらされて冷えていく。それでも、俺は赤い瞳に見つめられ、息をつくことができなかった。
イナンナは俺の傍らに膝をつくと、見定めるような瞳を向けながら、俺に顔を近づけてきた。近づいてくる美貌に頭の中が邪な霞がかかり始める。いつの間にか俺は彼女の瞳ではなく、艶やかな唇を見つめながら頭を持ち上げていた。唇を交わしたい、という欲求が頭の中を占めていたことに今さらながら気付く。俺は邪念を慌てて振り払うと、頭を落として彼女の顔から距離を取った。
じっと目を見つめながらイナンナは俺の眼前まで顔を近づける。さらさらとした彼女の髪が俺の首にかかり、ぞくりとした刺激が走った。甘い芳香がさらに濃度を増し、思考が蕩けるような錯覚をさせる。俺はただ喉を震わせて、誘惑に耐えるしかなかった。
不意に、イナンナが笑った。思わず心臓が跳ね上がる。だが、俺が生唾を呑む前に、彼女は顔を離した。
続いてイナンナは俺の右腕に顔を向ける。
「見せなさい」
指で示しながら、彼女は命令する。人狼はすぐさま抑え込んでいた俺の腕を離した。俺も彼女の言葉に従って右腕を差し出していた。その行為に疑問を挟ませないほど、彼女の声には蠱惑的な力があった。
イナンナは俺の手を取り、右腕を自分の顔へ近づける。眼前まで導いたところで、彼女は俺の腕の袖をめくると、血がにじんでいる包帯に鼻を近づけた。かすかに鼻を鳴らして、彼女は傷口の臭いを確かめ始める。魔物らしく血の匂いが好物なのだろうか、と俺は一瞬だけ考えた。そう、考えたのは一瞬だけ。手を握られているだけなのに、どういうわけか陶酔するような多幸感が沸き起こり、俺の疑問を雲散させた。
俺が指先の感触に酔っている間、イナンナは傷口を嗅ぎ続けた。やがて思わせぶりに微笑むと、俺の腕を放り出す。彼女の手が離れて、残念だ、と思ったところで、ようやく俺は魅了されていた事を自覚した。頭を振ってなんとか自制心を取り戻そうとする。だが、彼女の瞳と目が合うと、その試みも中止に追い込まれた。
「あなたの御名前は何?」
俺の目を見据えて、イナンナは問いかける。その音色は、まるで耳を弄られるような、官能的な声だった。
「ユベールだ」
耳を中から刺激するような快感に耐えながら、俺はなんとか声を出す。イナンナは俺の回答に満足したように微笑むと、顔を人狼達の方に向けた。
「ユベールさんを放してあげなさい」
獲物を前にしながら放つには意外な言葉だった。人狼達も同じことを思ったのだろう、周囲からどよめきが起こる。それを打ち消すように、イナンナはさらに続けた。
「神父の方は捕まえたでしょう。それで我慢なさい。今すぐ、ユベールさんを放しなさい」
立ち上がりながら、イナンナは人狼達を見据える。その声色に反論を許す余地は見られない。俺を押さえつけていた人狼達は不承不承といった様子で拘束を解いていく。俺の頭を抱え込んでいた人狼も、膝枕を解いて俺の頭を地面に降ろす。周囲を取り囲んでいた人狼達も離れていった。
「なぜ?」
俺は問いかけずにはいられなかった。なぜクレメンテさんは駄目で、俺だけが助かったのか。俺の問いにイナンナは笑いながら答えた。
「たった一人でも頑張った、格好いいナイトへのご褒美よ」
信じられるわけがなかった。愉悦そうに細められたその瞳は、明らかに何かを企んでいる。だが、それを確かめる術はない。押し黙る俺にイナンナは続けた。
「そんな人を手ぶらで返すわけにはいかないわ。だから……」
言葉の途中でイナンナはスカートをつまむと、正面に切られたスリットを開くように吊り上げた。刹那、スリットから何かが伸びて俺の右腕に巻き付いた。蛇のような動きをしたそれはイナンナの尻尾だった。俺の右腕に巻き付きながら鎌首を持ち上げるその先端はまるでハートを模したかのように、桃色に膨らんでいた。
「お土産もあげるわ。受け取りなさい」
先端が光を帯び始める。なにを、と俺が呟く前に、光る先端は包帯を巻いた傷口に突き刺さった。
衝撃が体に走った。痛みはなかった。それでも大槌で腕を殴られたかのような衝撃が体中を駆け抜け、思考すらも白くかき消した。緊張しきっていたはずの体は弾かれたように丸まり、右腕を庇おうとする。左手が傷口を覆った時には、巻き付いていた尻尾はイナンナのスカートの中に戻っていた。
俺に何をした? イナンナに問おうとするが、息がうまく吐き出せない。代わりに出たのはか細い喘ぎ声だった。
「それじゃあ、私はお暇するわ」
彼女の体を桃色の霧が包み始める。
「またね。ユベールさん。今度はもっと気持ちいいときに会いましょう」
その言葉を最後に、イナンナの姿は霧に飲み込まれた。程なく一陣の風が霧をかき消した。だが、そこに彼女の姿はなかった。
ようやく満足した息ができるようになったときには、辺りはしんと静まり返っていた。人狼の群れも姿を消しており、その痕跡すら残っていない。立ち込めていた甘い香りも消え失せており、今は爽やかな森の香りが風と共に吹き込んでいた。
俺は呆然と辺りを見渡していた。イナンナなる淫魔の気まぐれで助けられたと実感するにはかなりの時間を要した。帰ろう。ようやく生の実感が湧いてきた俺は重い体を持ち上げた。その時、不意に魔物に襲われていた時のことが頭をよぎった。
馬乗りになった人狼がボロを脱ぎ捨てる場面。露わにされた人狼の豊満な乳房と、ぴんと立った桜色の先端。それが人狼の腰の動きとともに揺れる様が瞼の裏で鮮明によみがえってきた。
イナンナが俺のことを見定める場面。垂らされた彼女の髪が首元を撫で上げた刺激と、蕩けるような彼女の芳香。それらが今でも俺の体を刺激し、鼻腔を満たしているようだった。
そして、リーズの顔も思い出す。
俺はやっとイナンナにされた行いを理解した。あの尻尾から淫魔の毒を注入されたのだ。その証拠に、淫らな思考が頭の中を占めていく。心の奥で記憶の場面の続き望む欲求が膨らんでいく。そして俺の陰茎は痛いほど勃起していた。
「ユベール」
背後で声を上げるリーズを背で隠す様に立ちふさがって、正面の女を見据えた。
一見するとボロ切れを身にまとっただけの女に見える。だが、四肢は毛で覆われ、頭部には犬のような耳がぴんと立っている。これは人間の姿をしながらも人間を食らう狼の魔物、人狼(ワーウルフ)だ。
「あら、ダンディな叔父様だけじゃなくて、可愛い坊やまでいるのね。今日は大量だわ」
鉈の切っ先を向けられてもなお、人狼は余裕綽々と言った様子で頬を釣り上げる。その背後で人狼と同じ格好をした女たちの人だかりが蠢いていた。そこからは女の嬌声とともにクレメンテさんの呻き声が聞こえた。クレメンテさんが襲われている。そう悟った瞬間、怒りで体が震えた。
「リーズ、早く逃げろ」
「でも……」
「いいから!」
背後にいるリーズに向かって叫んだ。幾何か逡巡するような間があったが、すぐに遠ざかる足音が聞こえてきた。あとはクレメンテさんを助けるだけだ。俺は鉈を右手でしっかりと握りしめた。傷跡がずきりと疼いた。
「見かけによらずカッコいいじゃないの。お姉さん、昂るわ……」
舐められている。挑発だというのは理解していても、血が上った頭は衝動に任せて身体を人狼に突進させていた。鉈を振りかぶり、駆ける勢いを乗せて切りかかる。だがその切っ先は空しく空を切るだけで、容易く人狼に躱された。降ろし切った腕に力を込めて、逆袈裟で追撃をかける。軋んだ右腕が傷んだが、歯を食いしばって振り上げる。それでも刃は届かなかった。
「ほらほらこっちにいらっしゃい」
誘うように手を広げて、人狼は後ろに下がっていく。その背後でクレメンテさんに群がっていた人狼達がこちらを向いた。俺を視線に捉えると、歓声を上げて次々に立ち上がった。
「皆で気持ちよくなりましょう」
そう言って目の前の人狼は嗜虐的な笑みを浮かべる。その周囲に他の人狼が並んだ。
「わ、かっこいいオトコノコじゃん」
「こっちを睨んじゃって、可愛いのね」
「美味しそー」
嘲笑うように呟きながら、人狼達は俺を取り囲むようににじり寄ってきた。数を増していく人狼達を見れば俺の分が悪いのは明らかだった。鉈を構えながら距離を空けるように二三歩後ずさりする。このまま逃げようか、と臆病な考えが頭をよぎる。人狼に集られているクレメンテさんはどう考えても助かりそうにない。わざわざこの人狼の群れに立ち向かう必要なんてないのだ。だけど――
俺は依然として視線を人狼に向けたまま、背後を伺った。俺が背して立ち塞がる山道は村へと伸びている。すぐ後ろに人の気配はない。だが、この先をリーズが逃げている筈だった。
――後ろにはリーズがいる。そこに人狼達を向かわせるわけにはいかない。
意識を正面に戻すと、俺は改めて人狼達を見据えた。もう後ろに下がることもしなかった。
人狼達が足を踏み出すその瞬間に合わせて、俺は鉈を上段に振りかぶって駆け出した。向かうのは左端から背後に回ろうとしている人狼だ。完全に囲まれる前に、その端を打ち崩す。
人狼に一気に接近し、雄叫びとともに鉈を振り下ろす。だが、人狼は後ろに飛びのき、一閃は届かない。追撃――いや違う。鉈を返すと振り向きざまに背後を薙ぎ払った。案の定、隙を突こうとした人狼達が後ろから俺に接近しているところだった。もっとも、距離はまだ開いており、薙ぎ払いは空振りに終わる。攻撃が届かない歯痒さに舌を打つ。右腕の鈍痛が増していった。
鉈を振り切ったところで背後で気配がした。先ほどうち漏らした人狼の気配だ。俺は鉈を振りかぶると、振り向きながら唐竹切りを図った。身を翻した時には、人狼が鉈の間合いまで接近していた。余裕ぶっていた顔が苦々し気に歪む。必中を確信し俺は体重を乗せて鉈を振り下ろした。ぶうん、と切っ先が空を切り、鉈が重力に加速されて打ち下ろされる。そこに何かを打ち砕く手ごたえはなかった。
人狼は超常的な反応で俺の攻撃を捉えると、人間ならざる身のこなしで渾身の一撃を躱したのだ。避けた先は右。依然として鉈の間合いにいる。逆袈裟で追撃すべく、降ろしきった鉈に力を込める。途端に右腕に激痛が走った。閉じた筈の傷跡から血が噴出する感覚がした。それでも俺は渾身の思いで刃を返す。痛みかき消すように声にならない声を上げながら鉈を振り上げた。
激痛を伴った一閃は、逆袈裟には遠く及ばない。右腕は上がりきらず、胴の高さを力なく薙ぎ払う。当然、そんな弱弱しい軌跡が人狼に届くはずがない。人狼は後ろに下がって刃を回避した。
鉈を左手に持ち替えながら、俺は辺りを伺った。いつの間にか人狼達に取り囲まれていた。逃げ出せそうな隙間も見当たらない。開いた傷の痛みで右腕は持ち上がらず、だらんと垂らすしかできない。左腕に掲げた鉈で周囲を威嚇し、なんとか人狼の接近を拒むことで精一杯だ。この包囲から脱出できるとは到底思えなかった。
周りを取り囲むのは、神経を逆撫でする様な憎らしい笑み。死に切れない獲物を弄るような嗜虐者の貌だ。無様な命乞いをしたとしても、助けてくれるとは到底思えない。そもそも魔物にそんなものを期待するのが間違っているのだろうが。ともあれ、もう助からない。回避しきれぬ破滅を前にした絶望が、頭の中を占拠する。もう村に生きて戻ることは叶わないという確信もあった。それでも、俺は鉈を握り続けた。
俺が生きている限り、この人狼たちは村に向かわない。俺が立っている限り、人狼たちは山道を降りることはない。俺が狙われている限り、リーズが人狼たちに狙われることはない。ならば、最後まで足掻き続けよう。たとえ敵うことはないと悟っていても、戦い続けよう。戦って、足掻いて、生きてる限り、村の人達に――リーズに魔物の手が伸びるのが遅れるのだ。
気迫を込めて周囲を取り囲む人狼を見据える。隙を伺っているのか、人狼たちは鉈の間合いに入ってこない。何度も振り返って四方の全てに気を配っているおかげか、人狼たちも攻めあぐねている様だった。
もしかしたら助かるかもしれない。リーズが村にたどり着くまで持ちこたえることができれば、この状況を聞いた親父や猟師仲間が助けに来てくれるかもしれない。そして、今の均衡した状況ならば、そこまで耐えられるかもしれない。死を覚悟したこの状況で、かすかな希望が頭をよぎった。
その時、強く握りしめた鉈の持ち手が汗で滑り始めた。鉈を動かして握り直す。その瞬間、背後の気配が動いた。
握りが甘くなっていることを理解しながらも、俺は振り向いて、迫る人狼に切りかかる。握り方も無視した状況だったが、それでもなんとか鉈を滑り落とさずに済んだ。ただし、その代わりとばかりに不恰好になった一閃は人狼に容易く回避された。飛びのいた人狼が俺の背後をみてにやりと笑う。囮だ。悟ると同時に刃を返して、振り向きざまの薙ぎ払いを試みる。だが、そこで手から鉈がすっぽ抜けた。左手だけが虚しく空を切る。背後で勢いをなくした鉈が地面に落ちる音がする。正面では誇示するような笑みを浮かべた人狼が迫っている。俺は叫んだ。
「畜生!」
無念の雄叫びとともに俺は押し倒された。
俺を押し倒した人狼が馬乗りになって見下ろしてくる。相手は辛抱堪らないといった様子で口角を吊り上げていた。涎を漏らす唇から、狼らしい大きな犬歯がはみ出ている。あの牙が俺に突き立てられるのか。覚悟を決めて息を呑む。だが、その予想に反して、人狼は身に着けていたボロを脱いだ。
露わにされた豊かな胸に、俺は思わず目を見張る。相手は魔物とはいえ、一見すると女性と見間違うような容貌をしている。ともすれば下手な人間の女性よりも美しいと感じるくらいだ。そんな魔物が目の前で肌を晒しているのだ。男なら誰だって見つめてしまう。だが、直ぐにクレメンテさんの言葉を思い出し、俺は目を手で覆った。
――かつて魔物は獣のような姿をしており、文字通り人間の肉を食らって生きていました。だが、その脅威は勇者たちの存在によって長く続きませんでした。主の祝福を授かった勇者たちは、この恐ろしい魔物たちを悉く屠っていきました。劣勢に立たされた魔物たちは別の手を取りました。自らを見た目麗しい女性の姿に変えた彼らは、甘い言葉で男を誑かすようになりました。男たちを姦淫の罪へと堕落させようとしたのです。彼女たちの爪は肌を裂かず、彼女たちの牙は肉を噛みしめません。代わりに彼女たちは肉欲の果てにある男たちの精を、肉や血ですらない、より根源的な命の力を喰らうようになったのです――
そうだ。俺は今やつらに食べられようとしているのだ。男なら誰もが持つ邪な思いを利用されて、命そのものを吸い取られようとしているのだ。
「あなたが一番なの? ずるい」
「終わったら交代してよね」
「目をそらしちゃってカワイイ」
周囲で俺を取り囲む人狼達が、俺にのしかかる一番手に羨望の声をあげる。件の人狼は艶めかしい腰つきで自らの股間を俺の股間に擦り付けていた。下穿き越しに伝わる秘裂の柔らかさに、男の本能が否が応でもくすぐられていく。下半身に血が集まっていく熱を感じた。
どうにかしてこの状況を切り抜けなければ、命を吸い取られてしまう。だが人狼に馬乗りにされているこの状況からどうやって脱出する?
ふと、両手が自由なことに気が付いた。腰に吊るしたナイフの存在も思い出す。俺に乗っている人狼は股間をこすりつけるのに夢中だ。上手く隙を突けば、人狼の横っ腹にナイフを突き立てて、この窮地から抜け出せるかもしれない。俺は右腕で顔を隠しながら、左手を静かに腰の方へ伸ばした。
人狼が股間を擦り付ける衣擦れの音に水音が混じり始める。下穿き越しでも、俺の陰茎を刺激している人狼の秘裂が濡れているのが分かった。今や人狼は顔を蕩けさせて喘いでいる。耳に響く嬌声もまた艶めかしい。俺の男としての本能が、俺の下腹部にぶら下がる男自身が目覚め始める。
もう我慢するのは止めよう。この淫らな誘惑に抗うのは諦めよう。魔物たちは初めから男の欲望を煽る様にできているのだ。下手に抵抗したとしても敵いっこない。それに、人狼が俺の股間に意識を集中すればするほど、腰のナイフへ伸ばしている俺の左手への注意が逸れるのだ。
抗うことを切り捨てて、俺は人狼から与えられる快楽を受け入れる。股間が充血していくのが分かった。俺の変化を察したのだろう。人狼がにんまりと笑った。
「硬くなった」
その言葉に周囲の人狼達が歓声を上げた。今だ。
俺は素早くナイフを抜き取った。そのまま露わになっている人狼の脇腹にナイフを突き立て――ようとしたが、その腕を何者かが掴んだ。
「あーあ、こんな危ないの持って、いけないんだー」
それは周りを取り囲んでいた人狼の一匹だった。逆転の一撃を防いだその人狼は、俺をからかいながら、女性のような見た目からは想像もつかない膂力でナイフをもぎ取った。
「糞!」
「あーもう、暴れないで。みんな、この子を押さえて」
希望は絶たれたが、それでも俺は足掻いた。両手両足を振り回して抵抗する。だがすぐに人狼達が俺の四肢を押さえつける。
「怖がらなくていいのよ。これからすることはとっても気持ちのいいことなの。お姉さんも気持ちよくしてあげるから。落ち着いて、ね」
頭上から声がしたと思ったらいなや、柔らかい何かが俺の顔を覆った。鼻腔一杯に広がる甘い香り。これは胸だ。気が付いた時には俺の頭は抱えられ、膝の上に乗せられていた。さながら赤子に乳を与えるがごとく、人狼は俺に乳房を押し付けながら、優しい手つきで頭を撫でてくる。
股間に冷気が吹いた。下穿きを脱がされたのだ。既に屹立していた陰茎に、塗れた何かが触れる。視界は依然として人狼の乳房で覆われているが、それが何か分かった。上げようとした悲鳴も顔を覆う乳房に抑え込まれる。恐怖でしなびてしまったらいいものの、俺の陰茎は硬いままだった。
「それじゃあ、いただきます」
柔らかい何かに亀頭が沈み込んでいく。それは間違いなくそれは人狼の生殖器だ。男から命の力を吸い出す器官でもある。死を悟った俺は、最期にリーズのことを想った。どうか無事でいてくれ、と。
「待ちなさい!」
突然、凛とした声が響いた。今まさに俺を食らおうとしていた人狼も、秘裂に亀頭を僅かにめり込ませた状態で腰を止めた。俺の顔に胸を押し付けていた人狼も背筋をピンと伸ばす。おかげで視界が開き、周囲の様子が伺えるようになった。俺を取り囲んでいた人狼たちは緊張した面持ちで声の出元の方を向いていた。視線の先では人狼達の一部が脇に寄って道を作っていた。
ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。山に入ってから幾度となく嗅いだ花の香りだ。その芳香をまき散らすように、新たな人影が姿を現した。人狼とは別の魔物、恐らく高等な淫魔なのだろうか。思わず目を奪われるほど綺麗な女性だった。彼女の身を包むドレスはハートを模したフリルや刺繍がふんだんにあしらわれ、人狼達のボロとは比べるに値しないほど品のある造りになっている。その一方で、胸元や太ももは局部が見えるギリギリまで肌を露出させ、妖艶な色気を漂わせていた。だが、その煽情的な服飾よりも、俺はその上から目が離せなかった。絹の様な白い髪に、艶やかな紅を帯びだ唇と頬。白と紅のコントラストの中で一際輝くのは同じく色素が欠けた紅い瞳。睫毛で強調するように縁どられたその紅に睥睨されたとき、俺はわず息をのんだ。
俺に馬乗りになっていた人狼が、上ずった声をあげた。
「イナンナ様!」
これが彼女の名前なのだろうか。依然として正体は分からない。だが、人狼達の反応を見ると、彼女は魔物の中でも極めて高貴な存在の様だった。それこそ、幾千もの軍勢を打ち破ったと伝え聞くような、魔界の貴族や王族並みに位が高い魔物かもしれない。
全身が総毛立つのを感じた。名だたる勇者ですら討ち果たすことが敵わなかったと思しきこの高等な魔物に、一介の狩人である俺が何ができるだろうか。体を押さえつけられ、逃げることも叶わないとなっては、些細な抵抗すらできそうもなかった。
だが、俺は自問自答せずにはいられなかった。この体の震えは本当に恐怖からきているのか? 早鐘を打つ心臓の鼓動は本当に死を前にした生存本能によるものか? そもそもなぜ俺の体はこんなに熱いんだ?
期待だ。これから行われる行為に対する期待。死の対価として与えられる欲望への充足の期待が、俺の体を震わせているのだ。股下の限界まで開かれたスリットから覗く白い内腿に目を奪われぬ男がいるだろうか? 衣装から今にも溢れそうな胸元の二つの双球と、その間に刻まれた谷間に生唾を飲まぬ男がいるだろうか? そもそも穢れなき高貴さと、背徳に汚れた淫靡さの矛盾が調和したこの美貌に魅入られぬ男がいるだろうか? この美女を抱く様を妄想する下卑た雄の本能を止めることができるだろうか? たとえそれが死へと誘う甘美な罠だとしても。
意識を包み込もうとする欲求を全身全霊をかけて振り払い、俺は彼女の魅惑に抗う。彼女を迎えんがために意に反して動き出そうとする体を押しとどめることにはできた。だが、早まり続ける鼓動と、高まり続ける体の熱と、なによりもその脈動すら感じ取れそうな程怒張した己の陰茎を鎮めることなどできなかった。
イナンナはひとしきり俺のことを見つめると、俺に跨ったままの人狼にむけて手を払った。どけ、という仕草だろう。意図を察知したらしい人狼は慌てた様子で俺の身体から降りた。濡れた亀頭が外気にさらされて冷えていく。それでも、俺は赤い瞳に見つめられ、息をつくことができなかった。
イナンナは俺の傍らに膝をつくと、見定めるような瞳を向けながら、俺に顔を近づけてきた。近づいてくる美貌に頭の中が邪な霞がかかり始める。いつの間にか俺は彼女の瞳ではなく、艶やかな唇を見つめながら頭を持ち上げていた。唇を交わしたい、という欲求が頭の中を占めていたことに今さらながら気付く。俺は邪念を慌てて振り払うと、頭を落として彼女の顔から距離を取った。
じっと目を見つめながらイナンナは俺の眼前まで顔を近づける。さらさらとした彼女の髪が俺の首にかかり、ぞくりとした刺激が走った。甘い芳香がさらに濃度を増し、思考が蕩けるような錯覚をさせる。俺はただ喉を震わせて、誘惑に耐えるしかなかった。
不意に、イナンナが笑った。思わず心臓が跳ね上がる。だが、俺が生唾を呑む前に、彼女は顔を離した。
続いてイナンナは俺の右腕に顔を向ける。
「見せなさい」
指で示しながら、彼女は命令する。人狼はすぐさま抑え込んでいた俺の腕を離した。俺も彼女の言葉に従って右腕を差し出していた。その行為に疑問を挟ませないほど、彼女の声には蠱惑的な力があった。
イナンナは俺の手を取り、右腕を自分の顔へ近づける。眼前まで導いたところで、彼女は俺の腕の袖をめくると、血がにじんでいる包帯に鼻を近づけた。かすかに鼻を鳴らして、彼女は傷口の臭いを確かめ始める。魔物らしく血の匂いが好物なのだろうか、と俺は一瞬だけ考えた。そう、考えたのは一瞬だけ。手を握られているだけなのに、どういうわけか陶酔するような多幸感が沸き起こり、俺の疑問を雲散させた。
俺が指先の感触に酔っている間、イナンナは傷口を嗅ぎ続けた。やがて思わせぶりに微笑むと、俺の腕を放り出す。彼女の手が離れて、残念だ、と思ったところで、ようやく俺は魅了されていた事を自覚した。頭を振ってなんとか自制心を取り戻そうとする。だが、彼女の瞳と目が合うと、その試みも中止に追い込まれた。
「あなたの御名前は何?」
俺の目を見据えて、イナンナは問いかける。その音色は、まるで耳を弄られるような、官能的な声だった。
「ユベールだ」
耳を中から刺激するような快感に耐えながら、俺はなんとか声を出す。イナンナは俺の回答に満足したように微笑むと、顔を人狼達の方に向けた。
「ユベールさんを放してあげなさい」
獲物を前にしながら放つには意外な言葉だった。人狼達も同じことを思ったのだろう、周囲からどよめきが起こる。それを打ち消すように、イナンナはさらに続けた。
「神父の方は捕まえたでしょう。それで我慢なさい。今すぐ、ユベールさんを放しなさい」
立ち上がりながら、イナンナは人狼達を見据える。その声色に反論を許す余地は見られない。俺を押さえつけていた人狼達は不承不承といった様子で拘束を解いていく。俺の頭を抱え込んでいた人狼も、膝枕を解いて俺の頭を地面に降ろす。周囲を取り囲んでいた人狼達も離れていった。
「なぜ?」
俺は問いかけずにはいられなかった。なぜクレメンテさんは駄目で、俺だけが助かったのか。俺の問いにイナンナは笑いながら答えた。
「たった一人でも頑張った、格好いいナイトへのご褒美よ」
信じられるわけがなかった。愉悦そうに細められたその瞳は、明らかに何かを企んでいる。だが、それを確かめる術はない。押し黙る俺にイナンナは続けた。
「そんな人を手ぶらで返すわけにはいかないわ。だから……」
言葉の途中でイナンナはスカートをつまむと、正面に切られたスリットを開くように吊り上げた。刹那、スリットから何かが伸びて俺の右腕に巻き付いた。蛇のような動きをしたそれはイナンナの尻尾だった。俺の右腕に巻き付きながら鎌首を持ち上げるその先端はまるでハートを模したかのように、桃色に膨らんでいた。
「お土産もあげるわ。受け取りなさい」
先端が光を帯び始める。なにを、と俺が呟く前に、光る先端は包帯を巻いた傷口に突き刺さった。
衝撃が体に走った。痛みはなかった。それでも大槌で腕を殴られたかのような衝撃が体中を駆け抜け、思考すらも白くかき消した。緊張しきっていたはずの体は弾かれたように丸まり、右腕を庇おうとする。左手が傷口を覆った時には、巻き付いていた尻尾はイナンナのスカートの中に戻っていた。
俺に何をした? イナンナに問おうとするが、息がうまく吐き出せない。代わりに出たのはか細い喘ぎ声だった。
「それじゃあ、私はお暇するわ」
彼女の体を桃色の霧が包み始める。
「またね。ユベールさん。今度はもっと気持ちいいときに会いましょう」
その言葉を最後に、イナンナの姿は霧に飲み込まれた。程なく一陣の風が霧をかき消した。だが、そこに彼女の姿はなかった。
ようやく満足した息ができるようになったときには、辺りはしんと静まり返っていた。人狼の群れも姿を消しており、その痕跡すら残っていない。立ち込めていた甘い香りも消え失せており、今は爽やかな森の香りが風と共に吹き込んでいた。
俺は呆然と辺りを見渡していた。イナンナなる淫魔の気まぐれで助けられたと実感するにはかなりの時間を要した。帰ろう。ようやく生の実感が湧いてきた俺は重い体を持ち上げた。その時、不意に魔物に襲われていた時のことが頭をよぎった。
馬乗りになった人狼がボロを脱ぎ捨てる場面。露わにされた人狼の豊満な乳房と、ぴんと立った桜色の先端。それが人狼の腰の動きとともに揺れる様が瞼の裏で鮮明によみがえってきた。
イナンナが俺のことを見定める場面。垂らされた彼女の髪が首元を撫で上げた刺激と、蕩けるような彼女の芳香。それらが今でも俺の体を刺激し、鼻腔を満たしているようだった。
そして、リーズの顔も思い出す。
俺はやっとイナンナにされた行いを理解した。あの尻尾から淫魔の毒を注入されたのだ。その証拠に、淫らな思考が頭の中を占めていく。心の奥で記憶の場面の続き望む欲求が膨らんでいく。そして俺の陰茎は痛いほど勃起していた。
16/07/31 20:31更新 / ハチ丸
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