連載小説
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第二章 想い
 考え事をしながら、俺は山道を登る。本日の仕事は山に仕掛けた罠の回収だ。昨日まで白襟を捉えるべく、俺たちは山のあちこちに罠を仕掛けていた。白襟を仕留めた今となっては、この罠を残しておく必要はなかった。
 山道から外れて藪の中に分け入る。辿っていくのは自分たちの足跡。細心の注意を払いながら歩いたから、一瞥しただけではその痕跡は分からない。それでも降り積もる落ち葉や木片に微かな違和感が残っている。これを辿って、仕掛けた罠に向かった。その間何度も何度も、意識が考え事に引きずり込まれる。でも足跡から逸れることはない。幼いころから父とともに何度も分け入った山だ。目をつぶってもどこにいるのか分かっていた。
 歩いている間、何度も昨日のリーズの言葉が頭を過った。来年にも修道院に――。その度に小枝を靴で圧し折り、下草を踏み倒した。枝が折れる音や、倒れる草の騒めきで我に返ったときにはもう遅い。足元にはしっかりと人間の足跡が残っていた。明らかな痕跡は動物を警戒させる。この道はもう使えないと、普段なら親父にどやされているところだ。幸運にも父は白襟の毛皮をなめすのに手いっぱいだから、怒声が飛んでくることはない。それでも狩人の端くれである以上、自分を恥ずかしいと思わずにはいられなかった。何とか邪念を振り払い、俺は歩に集中しようとする。だがすぐにまたリーズの言葉を思い浮かべるのだった。
 程なくして枝に括りつけられた赤い布切れが見えた。この赤い布切れは罠の目印だ。この布の下に罠が仕掛けられている。俺はしゃがみ込んで罠の回収を始めた。地面は枯れ葉が積り、一瞥しただけでは何かあるようには見えない。だが慎重に表面の枯れ葉を払うと、その下から板の上に乗せられた紐の輪っかが姿を現した。更に枯れ葉を払っていくと、輪は筒から伸びているのが分かる。俺は筒ごと輪を持ち上げた。宙に垂れ下がる輪に何も通されていないことを確認してから、俺は板を押し込んだ。びゅんという音とともに、輪が急にしまった。これが括り罠だ。感圧板を動物が踏み抜けば、筒の中のバネが収縮し、輪の中を通ったその足を締め付ける寸法だ。罠が作動した以上、もう気をつける必要はない。筒を木に括り付けている綱を外せば終わりだった。回収した罠を背嚢にしまうと、むき出しになった地面にもう一度木の葉を被せた。たとえ過去でも罠があったことを動物に悟られないように。人が見張っていると思わず、動物たちがここをまた通るように。
 手を動かしている間は作業に集中することができた。罠を外している間は、雑念に邪魔されることはなかった。だが、一度仕事終えて顔をあげると、俺はまたリーズの言葉を思い出した。リーズのはにかんだ顔も脳裏をよぎる。俺は大きく吸った息とともに、思い浮かんだ言葉を押し込める。そのとき、深く吸い込んだ空気の中に花の香りがした。どこかで嗅いだことのある、甘い香りだった。何の香りだろうか。だが俺がそれを思い出す前に、吹き込んだ風が花の香りを霧散させた。後にはしこりのような違和感だけが残った。それでも俺は首をかしげながら記憶を探る。もっとも、先ほど嗅いだ匂いそのものを思い出せないのではどうしようもない。俺は諦めて次の罠へ向かうことにした。

 大岩の上に腰を下ろしながら、俺はうな垂れた。太陽の位置は頂点に達し、ちょうど昼の頃間だ。木々のない開けたこの場所には、お誂え向きに大岩が転がっている。昼食を取るにはもってこいの場所だった。ひたすら山歩きを続けたから軽い疲労感はある。だがどういうわけか空腹感は感じない。取り出した弁当も食べる気になれなかった。ただ、何度も何度もリーズの言葉が、いやリーズの顔が脳裏をよぎった。
 いつかはこのことが来ることは知っていた。彼女がこの村を離れることはとうの昔に覚悟していた筈だった。だが、いざその未来が姿を見せると、堅く決めた覚悟は容易く吹き飛んでしまった。
 理由は分かっていた。自分の内に閉じ込めたこの想い。リーズの将来を案じ、一線を超えないよう躊躇していたこの想い。
 俺はリーズの事が好きだった。
 想いに気付いたのがいつだったかは覚えていない。遥か昔からリーズの事を考えていた。それこそ、子ヤギを引き連れ共に牧場を走り回った少年時代からずっと。
 想いを伝えることができたらどれ程よかっただろう。その白く細い手を握ることができたらどれ程喜べただろう。か細い彼女の体を抱き締めることができたらどれ程幸せだっただろう。だが、それは叶わない。叶ってはならない。彼女の未来は既に決まっていたからだ。
 幼いころから彼女は神童と呼ばれていた。村長ですら彼女の事を村の誇りと呼んでいた。俺なんかは遠く及ばない彼女の機知と、毎日教会で祈る篤い信仰心。この二つを兼ね備えた彼女が聖職の道を目指すのは当然と言えた。
 穢れなき肉体を捧ぐべく、彼女たちは独身の誓いを立てている。清らかな体と心をもって、衆生を慈しむこの聖女を、一介の狩人が穢してはならないのだ。
 諦められない。抑えられない。だからこそ俺は毎日彼女の下を訪ねる。でも、その度に見せつけられる彼女の祈りは、神に操を立てているようにしか思えなかった。
 顔を手で覆って、俺はリーズのことを想う。今彼女は何をしているだろうか? クレメンテさんは隣町にいくと言っていた。恐らく今頃近くの山道を歩いている筈だ。
 少し藪をかき分ければ、彼女の下に辿り着ける。いつもの村娘の恰好ではなく、見習い修道女として着飾った彼女に会うことができる。そう思うと思わず立ち上がりたくなる衝動にかられた。俺は全霊をかけてその衝動を抑え込んだ。
 今彼女に会えば全てが崩れてしまう。今彼女を見れば全てが溢れてしまう。衝動の赴くままに彼女を抱きしめ、村の人間には届かない山の奥に連れ去ってしまう。彼女の輝かしい未来を奪ってしまう。それはやっては駄目なのだ。

 俺は無心を考える。彼女の姿を思い浮かべないよう、ひたすら黒を想像する。目を閉じて闇に身を落とす。耳から意識を離して無音に身を置く。いつもしてきたように。これまで彼女への想いを押さえつけてきたように。
 そのとき一陣の風が吹き、何かの匂いが鼻をついた。違和感を残してかき消えた、あの甘い花の香りだ。今度は消えることなく、強く確かに漂ってくる。ここまで来てようやく記憶がつながった。これは香水だ。
 巡礼のために聖都を訪れたときにこの匂いを嗅いだことがあった。泊まった宿屋で男衆だけ集めて開かれた宴会で、酒を注ぐために現れた女中たちは一様にこの香りをしていた。決してただ酒を注ぐためだけに彼女たちはやってきたのではない。彼女たちがまとう男をかどわかす淫靡な香りは、真の仕事を暗黙の裡に示すものだった。少なくとも、こんな山奥であってはならない香りだ。
 なぜ? 言葉も出せず、疑問だけが頭の中をぐるぐると回る。そのとき、茂みの向こうから女の悲鳴が響いた。村から隣町に続く山道の方角から。聞きたくなかったリーズの悲鳴が。俺はすぐさま駆け出した。
16/07/31 19:29更新 / ハチ丸
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