連載小説
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第一章 祈り
 教会の戸を開けると聖像に向かって祈りを捧げるリーズの背中が見えた。聖像の足元に跪きながら、小さな背中を丸めて、彼女は祈り続けている。右腕をかざしながら、穏やかな表情でリーズを見下ろす聖像を見ると、まるで洗礼を受けているように見えた。
 俺はつかつかと中に入った。俺の存在に気づかないのか、聖像に向かって垂れる頭は身じろぎ一つしない。肩口でそろえられた栗色の髪の毛も揺れる気配がなかった。主神への祈りに集中しているようだ。あまり近づいて邪魔するのも悪いだろう。俺は教会の中ほどのところで手近な椅子に座り、リーズの祈りが終わるのを待った。
 リーズは牧畜を営む家に住む幼馴染だ。昔は飼っていた子ヤギを引き連れてよく遊んだものだった。もともと物覚えが良く、ミサでその一部を断片的に講釈していた聖典をいつの間にやら暗唱していた。その頭の良さと親譲りの信仰心を買われ、ゆくゆくは都で修道会に入れると神父様は鼻息を荒くしていた。今は毎日教会に通って神父様の雑務を手伝いながら読み書きの勉強している。
 不意にリーズが頭が持ち上がった。うつむいて祈りを捧げる代わりに壁に掲げられた聖像を見上げている。

「主よ、あなたの慈悲が私の寄る辺……」

 ぽつりぽつりと聖典の一節が聞こえ始めた。彼女の祈りも終わりのようだ。日課の礼拝はその日に起きた事柄の感謝から始まり、他の何も寄せ付けない黙祷を経て、聖典の一節の暗唱で終わる。これが終われば彼女は見習い修道女から牧場の娘になり、家の手伝いのために家に帰るのだ。

 ( 主よ、あなただけが私の神です。あなたの指し示す先に向かいます…… )

 不意に自分の口からも聖句が漏れた。リーズの祈りを聞いているうちにいつの間にか覚えてしまった。俺は慌てて口を閉じた。今は大切な日課の最中だ。邪魔してはならない。

「主よ、私はあなたを裏切らないことを誓います。どうかあなたの慈しみで私をお救いください」

 節の最後の一句を呟いてリーズは立ち上がった。そのまま振り返った彼女は、俺の存在に気づいていたかのように俺に微笑を向けてくれた。

「ユベール、帰ってたのね」
「ああ、さっきな」

 俺は答えながらリーズの元に歩み寄った。包帯を巻いた右腕は自然な素振りを装って背中に隠す。

「狼はどうなったの?」

 リーズの問いに俺はにんまりと笑った。

「やっつけたよ。もう大丈夫だ」
「そう、良かった」

 そういってリーズは安心したように息を吐いた。昔、大事にしていた子ヤギを狼に襲われた経験があるからだろう。リーズは白襟のことを一際気にしていた。白襟を狙って森に入る俺達を、リーズは毎日見送ってくれた。

「ユベールは怪我はない?」
「ああ、全然」

 そう言って、俺は無傷の左腕を降った。背中で隠した右腕はまだずきずき痛む。だが怪我はないと言ってしまった手前、それを顔に出すわけは行かなかった。俺も男だ。多少は女の子にいい格好したいのだ。

「そう、でも右腕はどうしたの?」

 リーズが隠した右腕を覗き込もうとする。俺は向き直って更に隠した。だが、不意に背後で戸が開く音がした。

「おやおや、ユベール君、帰っていたようだね。今日はどうだったかな?」
「あ……クレメンテさん、はい、今日こそやっつけましたよ……」

 脇の香部屋から出てきたのは、この教会の主であるクレメンテ神父だ。髭をたたえた温和な神父で、誠実な人柄は村でも評判だ。俺も普段ならもっと畏まった態度をするのだが、流石に今は都合が悪い。背後からこちらに向かってくるクレメンテさんには、隠している右腕が丸見えだ。

「そうかそうか、これで皆安心して眠れるな。……ってその右腕はどうしたんだね? 怪我してるじゃないか!?」
「本当ですか!?」

 バレた。神父様の言葉に反応してリーズが素早く背後に回る。俺は観念して右腕を掲げた。

「白襟に噛まれてね……大したことないですよクレメンテさん」
「とはいっても血が出ているじゃないか」

 クレメンテさんの言う通り、腕に巻いた包帯には血が滲んでいる。教会に寄る前に取り替えたばかりだというのに、これじゃあ大した傷じゃないか。いや、じんじんと痛むその傷は実際のところ大した傷だ。3日くらいは弓を持てそうもない。

「ユベール、どうして隠したの」

 リーズが責めるように言う。俺は、大したことない、ともう一度繰り返してごまかす。だが、なお納得いかないといった様子でリーズが詰め寄ってくる。答えに窮した俺は、ただただ乾いた笑みを浮かべるしかできなかった。そんなときに唐突に脇からクレメンテさんが割り込んできた。

「噛まれたんだろう。狼の呪いが移っているかもしれない。傷を浄化するからこっちに来なさい」

 そう言ってクレメンテさんは香部屋へと踵を返した。これは助け舟だ。そう悟った俺はリーズとの話を打ち切ってクレメンテさんの後を追った。もう、と呆れ交じりといった様子で呟いて、リーズも後ろからついてきた。

 祭りで使う飾りが雑然と並んでいる小部屋でクレメンテさんに言われるまま俺は椅子に座った。正面にクレメンテさんが座り、脇で救急箱を抱えたリーズが見下ろしている。俺は、小さく息を吐いてから包帯を解いた。クレメンテさんとリーズが共に息をのむ声がした。

「随分と、立派な傷だね」

 傷口からあふれ出る血を拭いながら、クレメンテさんはようやく呟いた。半円を描く狼の歯形は、組み敷かれたときに散々振り回されたせいか、牙の痕以上に引き裂かれている。クレメンテさんは傷跡をよく見るために何度も麻布で拭った。だが、引き裂かれた無数の歯形はすぐさま血をあふれさせ、クレメンテさんの努力を台無しにする。
 二度三度と繰り返しようやく無意味だと悟ったのだろう。傷口を拭う手を止めたクレメンテさんは、代わりとばかりに腕の根元をきつく縛った。僅かに感じる右腕のしびれ。それでも元を断ったからか、傷口から滴っていた血はようやく止まった。

「今から治療するから、じっとしてるんだよ」

 そう言うとクレメンテさんは傷に手をかざして目を閉じた。これから聖職者だけに伝わる癒しの魔法が唱えられるのだ。

「主よ、私の願いを……」

 クレメンテさんが唱える聖典の一説とともに、傷口にかざされた手が仄かに光を帯びる――筈だった。呪文の冒頭を唱えたところでクレメンテさんはぴたりと口を閉じた。やがて、意味ありげにほくそ笑むと、クレメンテさんは目を開けてリーズに顔を向けた。

「リーズ君、君がやりなさい」

 クレメンテさんの意外な言葉にリーズは戸惑いの声をあげる。でもクレメンテさんは意に介さないといった様子で続けた。

「癒しの魔法はこの間教えただろう? 大丈夫、君ならできる」

 そう言いながらクレメンテさんは立ち上がると、空いた椅子をリーズに勧めた。クレメンテさんの言葉に、リーズは困惑した様子でクレメンテさんと椅子を見比べる。やがて、意を決したのだろう。リーズは胸元に抱いていた救急箱を机の上に置くと、緊張した面持ちで勧められた椅子に座った。

「落ち着いて、まずは深呼吸しよう」

 クレメンテさんに言われるがまま、リーズは深く息を吐いた。強張っていたリーズの肩が僅かに降りる。それを二三度繰り返してから、リーズはきっとした目で傷口に視線を移した。
 もう一度深呼吸すると、リーズは傷口に手をかざした。集中するように目を閉じて、聖なるの言葉を唱え始めた。

「主よ、私の願いを聞いてください。あなたの慈悲を私の下に恵みください。あなたの奇蹟を私の下に示し下さい。私は――」

 リーズの口から洩れる清らかな囁き。この言葉に反応するように、リーズの手が光を帯びた。輝く手に照らされた傷口が熱を持つ。

「主よ、私の身体を侵す不浄を清めてください。私の身体は――」

 ずきずきとした傷口の痛みが熱とともに引いていく。傷口に溜まった血が乾いていく。そう感じる。感じるだけだ。俺は傷口を見ていなかった。なぜなら――。

「主よ、あなたの奇蹟は私の魂を陰府から引きあげてくれました。腐った体は清められ――」

 俺はリーズに目を奪われていた。まだあどけなさを感じる顔立ち。でも、閉じた目を縁どる睫毛は大人の女性のそれだ。唱える呪文とともに動く唇には、分かっていてもなお不埒な思いを抑えることができない。肩口で切りそろえられた栗色の髪の毛がかすかに揺れると、それに合わせて甘い芳香が漂ってくるように思えた。

「主よ、私はあなたの慈しみを永遠に忘れません」

 そう言い切って、リーズは目を開けた。俺は慌てて傷口に視線を落とした。
 リーズの手の輝きはすでに失われ、傷口の熱も引いていた。腕に刻まれた牙の後はかさぶたによって塞がれていた。二三度手を開閉する。強く握れば傷口はまだ痛んだ。それでも、力を入れない限り傷口の痛みは気にならなかった。

「素晴らしい。流石だリーズ君」

 クレメンテさんが感嘆の声をあげる。リーズは大儀そうに大きく息をつくと、虚空を見つめながら背もたれをぎしと鳴らした。少なくとも俺がずっと見つめていたことには気づいていないようだった。
 リーズに変わってクレメンテさんは乾ききった血を拭う。十分に腕が綺麗になったところで、最後に包帯を巻いた。

「明日も来て傷の様子を見せない」

 その言いつけに俺が返す、はい、を遮るようにクレメンテさんは言葉をつづけた。

「と言いたいところだけど、明日は教会を空けるから、明後日来なさい。いいね?」
「何でですか?」

 クレメンテさんが珍しく教会の戸を閉じるといって、俺は思わず聞き返した。主への道はいつでも開かれている、戸を閉ざすのはいつだって人間さ、とクレメンテさんはよく言っていた。風邪をひいているのにミサを開いたことものあるのだからなおさらだ。

「明日は隣町に司教様が来られるから、その礼拝に行くんだ。リーズ君を司教様に紹介するいい機会だしね」

 そう言ってクレメンテさんはリーズに視線を向けた。ようやく気を取り戻したリーズがはにかんだ様に言う。

「修道会の推薦もいただけるって」
「それは凄いじゃないか」

 司教様といえば雲の上の存在だ。ただの猟師である俺では大きな式典で遠くから姿を見ることしかできない。そんな人にお目通りできるリーズのことが誇らしかった。
 でも、ちょっと待てよ。このまま司教様に彼女の才覚が認められれば――

「上手くいけば、来年にも修道院に入れるかもしれないって」

 嬉しそうにリーズは語る。対照的に俺は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。それでもこの衝撃をリーズに悟られてはいけないと考えるくらいには理性は残っていた。嬉しそうだと装いながら、凄い、とまた答えた。自分の笑顔が引きつっていないのか俺には自信が持てなかった。
16/07/31 19:16更新 / ハチ丸
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