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第四章 願い
 静かに見下ろす聖像に向けて、私は祈った。

「主よ邪なる民に穢された私の友をお助けください」

 いつの間にか日は落ち、教会の中は闇に包まれていた。ステンドガラスから降り注ぐ月光が、聖像の姿を青白く照らしていた。

「主よ、哀れな私の友は邪なる民の矢が突き刺さり、臓腑が腐れただれました」

 唱えるのは、聖句第7節シキネスの歌。戦いに敗れ、深手を負った戦士シキネスが主神に縋る歌だ。

「主よ、私の友は歩くこともかなわず、剣をふるうこともできません」

 邪なる民の毒牙により戦うことが適わなくなった彼は、己を侵す毒の治癒と、毒牙にかけた邪なる民への裁きを求め、神に祈るのだ。
「主よ、私の友を、邪なる民を裁いてください」

 聖典によれば、主神は彼の祈りを聞き、邪なる民に裁きを下した。彼らは一様に皮膚はただれ、臓腑は腐り、骨は砕けた。一方で清き行いをしていたシキネスの傷は癒され、立ち上がった。

「主よ、私の友はあなたの声を聴き、あなたのお導きに従いました。不浄に惑わされず、清らかな魂を守りました」

 シキネスは再度邪なる民に戦いを挑み、彼らを打ち払った。彼は邪なる民がいた地に王国を築き、主神をたたえる聖堂を作ったという。

「主よ、どうか邪なる民の不浄を絶ち、穢れぬ魂をもつ私の友を堅く立たせてください」

 本来であれば、この歌はシキネスの祈りであり、救いを求めるのもシキネス自身である。

「私の友の導は神である。神は心の清き者を救われる」

 だがあえて私は聖句の「私」を「私の友」と読み替えた。なぜなら……

「主よ、あなたは穢れを払う神である。あなたは火矢を放ち、穢れを焼き尽くす」

 私が祈るのは私のためではない。私を助けてくれた人。人狼の群れに一人で立ち向かい、その毒によって苦しむあの人のために祈っているだ。

「見よ、邪なる者は自らの毒に侵され行く。穢れは自らを爛れさせ、蠅がその腐肉を食らい尽くす」

 主よ! どうかユベールの毒を癒してください。苦痛と戦うユベールをお救いください! 戦士シキネスは神の奇蹟により死地を脱し、また立ち上がることができました。ユベールもまた同じように奇蹟で魔物の毒を癒してください。

「主よ、私はあなたに感謝をささげます。不浄を許さぬ主の名を歌うであろう」

 祈りを終えると同時に、私は聖像を見上げた。私の祈りがこの像を通じて神に届くことを信じて。だが、聖像は何も返さない。月の光に照らされて、青白くなった姿で私を見下ろすだけだった。

 命からがら村に戻った私は、村の皆に山道で魔物に襲われたことを伝えた。心配そうにして集まった村のみんなにユベールが食い止めてくれたことを語ると、男たちが武器を持ってユベールを助けに向かった。程なく救出隊は帰ってきた。布でぐるぐる巻きになった担架を伴って村に戻った彼らは、待っていた人達にユベールが生きていたと報告した。あの担架の中にユベールがいると悟った私はいてもたってもいられず駆け出した。だけど、救出隊の一人が私の前に立ちふさがった。

「おい、あいつには近づくな!」
「どうして!?」

 立ちふさがる男に私は聞いた。その背後で、担架の上で盛り上がった人影が苦しげにうごめいた。私は脇をすり抜けようとする。でも男は私の肩をつかんで押しとどめた。

「ケガをしてるんでしょう。私は癒しの魔法が使えます。怪我だって治せます」
「違うんだ、そういうことじゃない」

 そう言って男は私を引き戻そうとする。その手を振りほどこうと揉みあっていると、誰かが私の肩を叩いた。

「待つんだリーズちゃん」

 聞き覚えのある声に、私は振り返る。そこには悲しげな目をしたユベールのお父さんがいた。

「魔法が使えるって本当かい?」
「本当です、おじさん。クレメンテさんに教えて貰いました」
「そのクレメンテさんは?」

 その問いに私は思わず言い淀む。おじさんは悲しげにうつむいた。

「いいかいリーズちゃん、クレメンテさんじゃないと駄目なんだ。もっと言えば、リーズちゃんだと駄目なんだ」
「なんで私じゃ駄目なんですか?」

 今度はおじさんが言い淀む番だった。私が詰め寄ると、おじさんはようやく口を開いた

「倅は魔物の毒に侵されてんだ。こいつが回ると盛りのついたヤギみたいになっちまう。女と見れば見境なく襲っちまうんだ。だから、今の倅の面倒を見れるのは男だけなんだ」
「そんなユベールに限って」
「そうしちまうから毒なんだよ」

 おじさんの返答には取り付く島もない。ただ、忌々し気に絞り出すその言葉は、自分に言い聞かせているようだった。

「助ける方法はあるんですか?」
「分からねえ。村長も長老も知らねえって言ってた」
「私に何かできることはないですか?」
「今から倅を連れて家に帰る。だから、俺の代わりに教会で祈ってくれ。リーズちゃんの言葉なら、神様もきっと聞いてくれるからよ」

 そう言うと、おじさんは私に背を向けて担架のもとに向かった。担架を包む布は、未だに苦しげに蠢いている。私は何も言えず立ちつくしかできなかった。

 教会に戻ってから私はずっと祈り続けた。それこそ赤い夕陽が落ちて、月明りが差し込むまで。燭台に火を灯すのも忘れて祈り続けた。
 でも祈りの言葉は口癖で呟いているだけだ。本当に思っていることはユベールに何もできない自分への自罰の念だった。
 神に祈るしかできない自分が無力でならなかった。いつもこうだった。ずっと同じことを繰り返してきた。何度も何度も後悔して、でも結局変えることはできなかった。あの時から――

 子供の頃、私はいつも子ヤギのリリと一緒に遊んでいた。リリの首には鐘がつけられていて、歩くたびにカラコロと音を立てた。私によく懐いていて、いつもその音鳴らしながら私の後ろをついてくるものだから、ただ牧草地を歩くだけでも楽しいものだった。
 その日も私はリリと遊ぶべく牧草地に向かった。柵を潜ると、普段思い思いの場所で草を食んでいる筈のヤギたちが集まっていた。珍しいこともあると思いつつも、リリを見つけるべく、私は群れの中を探した。でも不思議とリリはいなかった。群れの中を何度かき分けても、リリの名を何度読んでも、あのカラコロという鐘の音は聞こえない。よくよく見るとヤギたちは集まっているとはいえ、飼っているすべてのヤギが集まっているようではなかった。どうやら群れから離れたどこか遠くにいるらしい。群れから出ると、リリの名を呼びながら牧草地の奥に向かった。
 何度か呼びかけながら進んでいると、不意にかすかな鐘の音が聞こえた。私は呼びかけることを止めて耳を澄ました。程なく、またカラコロという鐘の音が聞こえた。その方角に顔を向けると、小さな丘があった。鐘の音はその斜面の向こうから聞こえる。やっと見つけた。そう思いながら私は丘を駆け上がった。でも、頂上から丘の向こうを見下ろしてもリリはいなかった。いない様に見えた。
 始め見たとき、私はそれが何かわからなかった。黒い何かが丘の下でもぞもぞと蠢いていたからだ。その黒い何か震えると、いつも聞こえたあのカラコロという鐘の音が鳴った。よく目を凝らしてみれば、黒い何かの下に、白と赤のまだら模様の何かがあった。その白と赤の何かから伸びた突起の根元に、あの鐘が括りつけられていた。その先にある突起の先端には子ヤギの首がつながっていた。いつも見ていたリリの首が。
 不意に生ぬるい風が吹いた。濃密な獣と血の臭いが鼻をつく。風に反応したのか、黒い何かの動きがぴたりと止まった。しばらく耳を澄ますように静止したそれは、やがてこちらに振り向いた。血に濡れた狼の顔がそこにあった。
 リリが狼に襲われたと私はようやく理解した。ヤギ達が放牧地の端に集まっていたのも、狼から逃げた結果だったのだ。でも、私がすべてを理解したときは遅すぎた。リリを襲った狼が私のことを視界に捉えていたからだ。
 食事を邪魔されたからだろうか、狼は怒りに顔を歪ませながら唸り声を上げていた。ここで静かに後ろへ下がることができればよかったのだろう。でも私はごろりと転がったリリの頭を見て立ち竦むしかできなかった。警告なのか狼が一声吠えた。だけど私は恐怖で力が抜けて、その場に座り込んでしまった。私は全ての選択を間違えた。そう悟ったときには狼が私に向けて駆け出していた。近づいてくる狼の顔に私は祈るしかできなかった。斜面を駆け上った狼が大口を開ける。血で赤く染まった牙が見えた。神様助けて。そう私が祈ったとき、突然横から飛んできた何かの塊が狼の頭に当たった。きゃん、という悲鳴とともに狼は脇に転がった。

「リーズ、大丈夫か!?」

 声の方に顔を向けると、棒切れを片手にしたユベールがいた。

「立って!」

 ユベールが私の腕を掴む。そのままユベールに引っ張られて、私はようやく立ち上がることができた。
 背後から狼の唸り声が聞こえた。振り返ると狼が牙を向いてこちらをにらんでいた。ユベールは私の手を振り払って前に進み出た。

「リーズ、逃げて!」

 でも……、と私が答える前にユベールは棒切れで狼に殴り掛かった。狼は飛び退いて棒切れから身をかわす。

「早く!」

 ユベールが顔だけこちらに向けて叫んだ。にらみつける様な厳しい瞳に、私は息を呑んで後ろを向いた。奥歯をぎりぎり鳴るほど噛みしめて、私は駆け出した。背後でユベールの雄叫びが聞こえた。狼の鳴き声も聞こえた。全てを後ろに置いて、私は走った。遠くなっていくユベールの声。最後に、畜生、という苦悶の叫びが聞こえた。けれど、私はそれも捨てて逃げた。
 狼が来ていることは既に知れ渡っていたようだった。牧草地を逃げていると、間もなく弓や鉈を手にした大人たちに出会った。私がユベールの事を伝えると、彼らは次々に駆け出していく。私だけがポツンと立ち尽くして、その背中を見送るしかできなかった。
 村にたどり着いた私は、真っ先に教会に駆け込んだ。聖像の下に跪いて祈る。神様、どうかユベールを助けてください。ユベールを置いて逃げることしかできなかった事を償うように、ただひたすらユベールの無事を祈った。
 しばらくして教会の外が騒がしくなった。大人の男たちの声も聞こえてきた。狼の討伐を終えて帰ってきたようだ。ユベールのことが気になり私は外に出た。村の通りを男たちが一団となっていた。村で待っていた妻や娘たちと討伐の結果を話し合っているようだった。その中の一人の男が棒につるされた狼を見せびらかしていた。狼は無事討ち果たせたらしい。でも、それより私はユベールのことが気がかりだった。ユベールの名を呼びながら一団の中に飛びこむ。すると、中から私を呼ぶ声がした。ユベールの父親だった。私はすぐにユベールのことを聞こうとした。だけどその前に彼が背負っているものが目に入った。体中を血まみれにして、ぐったりと目を閉じた彼の姿に私は最悪の事態を想像して膝をついた。でも、そのとき彼の目が開いた。気だるげに目を開けたユベールは私の瞳を捉えるとはっとした顔つきになりながらもがき始めた。父親が止める声を無視して、その背から飛び降りた。呆然と見つめる私の前に立った彼は、安心したように言った。

「無事でよかった」

 と。私が血まみれの傷を慮ると、彼は胸を張った。

「こんなのへっちゃらだし」

 そんなことない筈なのに。噛み傷から未だに血を流しているのに、彼はさも掠り傷だと言うように平然とした顔をする。私は涙を流しながら謝るしかできなかった。

 強いユベールが羨ましかった。身を差し出してまで私を守ってくれたユベールに何か一つでも報いる方法が欲しかった。だから、あの日からずっと私は神に祈り続けた。
 幼いころは、育ててくれる父母のために祈んり、飼っている家畜のために祈り、そしてユベールの事を思って祈った。ユベールが元気でいてくれるように。ユベールが笑っていられるように。何よりも、明日もまたユベールに出会えるように。
 大人になってからは、村の畑の豊作を祈り、狩人達の大猟を祈り、そしてまたユベールの事を思って祈った。ユベールが怪我をせずにいられるように。ユベールが獲物を仕留められるように。何よりも、今日もまたユベールが無事に帰ってくるように。
 ずっと祈り続けているうちに、ユベールの存在は私の中で大きくなっていった。父よりも母よりも特別な存在になっていた。それを恋心だと気づくにはもう少し時間を要した。
 私はユベールが好きだった。ずっと彼の傍にいたかった。
 でも、どんなにユベールの事を為に祈っても、どんなにユベールの事を想って祈っても、私ができるのはそれだけだった。女である私がユベールの狩りについていくことはできない。弓を背負って村を後にする彼の背中を、私はいつだって見送るしかできなかった。その悔しさから、私はさらに神に祈った。

 いつの間にか私は村で一番熱心な信者と言われていた。あれだけ事あるごとに神に祈っていたら、そう勘違いされるのも当然だった。さらに私は他の人より記憶力が良かった。両親から、有り難いから聞いておけ、と言われていたので、私はクレメンテさんの言葉をよく注意して聞いた。家に帰って神父様の言葉を繰り返して、よく分からなかったところを父に聞くと、父は目を丸くした。それ以後、私は村の皆から神童と呼ばれることになった。
 クレメンテさんに目をつけられたのはこの頃だった。もっとも、村一番の秀才と呼ばれる子が度々神に祈っている姿が、敬虔な神父であるクレメンテさんの目に留まらないわけがなかった。いつの間にか私はクレメンテさんと一対一で講義を受けるようになった。それが特段辛かったわけじゃない。文字を教えてもらって読み書きするのは楽しかったし、聖典に記された様々物語を聞くのも面白かった。ただクレメンテさんの熱意の原因を考えるたびに私は複雑な思いにかられた。
 クレメンテさんは私を修道女にするつもりの様だった。熱心に教会に通い詰めているは私は、傍から見るとそれを望んでいるように見えたのだろう。それは神の教えを広めるというクレメンテさんの望みとも一致していた。だからこそクレメンテさんの指導には熱が入っていた。でも本当の私の願いは違うのだ。私はただ、大好きなユベールが無事に帰ってくることを祈っていただけだった。ひたすら祈るのも、私ができるのはそれだけだったからだ。
 本心を押し殺したのはクレメンテさんの善意だけじゃなかった。いつの間にか私は村中の期待を集めていた。町にある聖堂に時たま呼ばれる度に、村長さんは村の誉だと私のことを誇ってくれた。父や母も鼻高々だった。そして、ユベールは嬉しそうに話を聞いてくれて、いつも最後に私のことを褒めてくれた。彼の笑顔と羨望の眼差しを見るたびに、私の想いは心の奥底へと押し込まれていった。
 想いを吐き出せず、時間だけが過ぎていく。そのうちに私が進む修道女への道は、後戻りできないところまで達していた。
 修道院は神から直接の祝福を受けている。村の教会よりも神の座に近いはずだ。ならば私の声もよく届くだろう。ユベールの幸せを願る私の祈りも聞いてくれるかもしれない。そんな乾いた希望で自分を慰めて、私はユベールへの想いを諦めていた。
 でも、私はまだ村にいる。そして、村には魔物に襲われ深い傷を負ったユベールがいた。

「主よ、ユベールのことを助けてください」

 聖像に向かって私は叫んだ。聖典に記された奇蹟が起こることを願って。でも、石造りの神は動かない。彫り込まれた瞳が静かに見下ろしているだけだった。
 いつもこうだ。祈りを捧げる聖像は――神の姿を象った石像は、何も返さない。見返りを期待するなかれ、とはクレメンテさんも言っていた。だけど、どんなに成功を祈っても、肩を落としたユベールが手ぶらで村に帰ってくることはなくならなかった。どんなに無事を祈っても、ユベールの怪我はなくならなかった。どんなに健康を祈っても、今のユベールが風邪をひかない年はなかった。私の祈りはことごとく無視され続けた。これで蔑ろに感じずにいられるだろうか。
 何よりも、ここまで軽んじられてもなお、これしか出来ないからと言って神にすがり続ける自分が滑稽でならなかった。

「せめて助ける術を教えてください」
「私が教えてあげるわ」

 情けない思いとともに石像に問いかけると、意図しない声が背後から返ってきた。聞き覚えのない、耳にまとわりつくような女の声だ。私は声の方へ振り返る。入り口近くの暗がりに人が立っていた。

「誰?」

 戸を開ける音はしなかった。誰かが教会に入ってくる気配は全く感じなかった。でもそれは確かに立っていた。

「あなたの味方よ」

 そう言って、人影は足音を立てながらこちらに向かってくる。ヒールが敷石を叩く甲高い足音が教会内に響いた。
 ふと、甘い香りが鼻をついた。香水だろうか。村では一度も嗅いだことのない、甘い花の香りがその人影から漂ってきた。
 やがてそれは窓から差し込む月明りに身をさらした。その姿に私は思わず息をのんだ。闇の中からあまりにも対照的な白い肌が浮かび上がる。月明かりにきらめく白色の髪を垂らしたその女性は、女の私でも見とれるような美貌を備えていた。

「一つだけ、ユベールさんを助ける方法があるの。それをあなたに教えてあげるわ」

 艶やかな唇を動かして、彼女は言った。色素の薄い真っ赤な瞳が私を誘うように見つめている。私はその目から視線を離せなかった。
16/07/31 20:43更新 / ハチ丸
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