雨天に歯車は噛み合い始め
唐突な物事は続くものだ、と思う。
突然雨が降ったと思ったら深夜に美人の管理人さんが自分の部屋に訪れる。
普通有り得ないような事態が、三十路前の中年に対して続くというのは珍しい。
ドアを開けて開口一番、こんな時間にすみません、と彼女は話し始めた。
「部屋で雨漏りがありまして……本当は明日の朝にでも伺う予定だったのですが、
外から貴方が外を見えているのが見えたと他の住人の方から教えて頂きました」
「それだけならもっと明るくなってからの方が良かったのですが、もしも雨漏りにお困りでしたら、と考えたら
居ても立っても居られなくなってしまって……」
確かに常識的にはおかしな話だ。
しかし自分は天音さんの人の良さを知っているし、何より自分の事を考えて怒られるのを承知で来てくれたのは正直嬉しく思う。
夜中に女性が男の部屋を訪ねてきた、というので良からぬ期待をしてしまったが、そのような事を考えてしまった自分が恥ずかしい。
「いえ、いいんですよ。確かに驚いたけど親切でしてくれたのは分かってますから」
雨漏りはありませんし自分ももう寝ますね、と就寝の挨拶をした所管理人さんの様子が少しおかしくなった。
何か言い辛そうに居心地悪くしている。
「その、申し上げ難いのですが……今晩は貴方のお部屋で過ごさせて頂けませんか?」
唐突な申し出に、へ?と空気が抜けた返事しか出来なかった。
え、いやマズいんじゃないか。
今気づいたが今の彼女は薄手のシャツと少々丈の短めのスカートといった服装だ。
特に普段から暴力的に揺れる胸は雨で濡れたシャツを透けて、紫色の下着と共に自己主張している。
雨で濡れた黒髪も艶を放ち、髪から頬、頬から首筋を伝う水滴が奇妙な色香を醸し出している。
まだ部屋の明かりを付けていないので、もしかすると今の彼女は夜の暗さに慣れず自分の姿が分からないのかも知れない。
事実彼女は困っている雰囲気を出しているだけで艶事を期待しているようには見えない。
本来、彼女も自分が相手の迷惑になる事を避けたいのだろう。
しかし何か理由あるのか、こちらの返答をじっと待っている。
こんな、最も自分が抑えが利きそうにない時に視覚の暴力を部屋に上げてしまったら彼女に何をしてしまうか分からない。
せめて事情は聞いて、自分が関わりにくそうなら断らせて貰おう。
「あの、一体どうし「ごめんなさい」
質問が謝罪で遮られる。
「やっぱり図々しかったですよね……自分の部屋に戻ります。さっきの事は忘れて下さいね……?」
お休みなさい、と続け数歩先の階段まで向かおうとする。
一階の管理人室に戻ろうとするその手を、自分は掴んだ。
「ま、待って下さい!ちょっと頭の整理が追いつかなくて……、一体どうされたんです?事情によっては泊めますから教えて下さい!」
普段明るい表情や朗らかな雰囲気を出している彼女がそんな鳴りを潜めて一見して暗い。
困っているのだ。
自分も日常生活で差し入れを貰ったりお裾分けされたりしているし、恩返しをしたい。
いや、困っている彼女を見過ごせない。
先ほどまで無遠慮に彼女の肢体を眺めていた自分を恥じた。
――――――数時間、聖人君子で居ればいいだけだ。それで万事解決だ。
「教えて下さい。どうされたんですか?」
出来るだけ真剣に、彼女の目を見て話す。
少し彼女の顔が赤くなり、糸目が大きくなったように見えた。
心なしか先ほどまでの暗い雰囲気も和らいだようだ。
「はい……ではお話しします。その前に宜しいでしょうか?」
「?はい」
「その……お部屋に上がって宜しいでしょうか?雨が強くて……」
先ほどとは少し違う方向で困ったように彼女が言う。
成る程、もう少し気を利かせるべきだ。自分の至らなさに頭が痛くなった。
自室で着替えて終わった彼女から簡潔に事情を聴く。
聞けば上の階の雨漏りが酷く、それが丁度天音さんの部屋のクローゼットやベッド、果てや床にまで浸水してしまい部屋自体が使えないのだという。
上の階は丁度無人で、雨漏りや浸水の被害を被る住人は入居していなかったのが不幸中の幸いだ、と説明してくれた。
今彼女は濡れた衣類を脱ぎ、代わりに自分のTシャツとハーフパンツを着用している。
男女の体格差で衣類が大きい事は予想していたが、上半身の白いTシャツは肩口が見えかけているのに対し下半身の黒いハーフパンツは自分が履くと膝下になるのに管理人さんの足が長いのか見事に膝上になっている。
加えてTシャツ自体、胴の丈が長いタイプだったので普段の清楚な装いから大分ラフな印象を受ける。
最も、ノーブラノーパンという、とんでもないエロ要素を含んだ状態を『ラフ』の範疇に含める、という但し書きはあるが。
「あの、本当に良かったんですか?風呂くらいなら準備できますよ?」
どうせ目が冴えて眠れなかったし、朝方寝て昼間起きるつもりであった。
風邪を引かれるより夜中湯船に湯を張って苦情を言われた方がまだマシだ。
「気にしないで下さい、雨は季節のせいか温かったですし……濡れた体と髪が拭ければ構いません」
「それよりも申し訳ありません。まさか私の服まで全部濡れてるなんて……帰ったらこの服も洗ってお返ししますね」
明日は晴れるといいですわね、と容赦なく降り続く雨を眺めながら苦笑する天音さん。
相変わらずの幼さの残る顔に年上のような表情が乗り、一瞬心拍が跳ね上がる。
「そ…そんな!大丈夫ですよ、気にしないで下さい。俺の方こそもっと気の利いたものを準備出来なくて、すみません」
着ているモデルの素材が良いせいだろう。
彼女が着ると着慣れた自分の服が特別な衣装のように思える。
しかし矢張りそれは自分の服なのだ。
自分を振り返っても、20代を過ぎようとしているオッサンである。
その中年に差し掛かろうとしている自分が着ていた服を渡していたのだから、寧ろ気分を害したろう。
そんな心情を察したのか、管理人さんは微笑みながら答える。
「ふふ。本当に真面目ですね……でも、私は『気にしないで下さい』と申し上げましたよ?」
「だからそんなに畏まらないでください、寧ろ助けて下さる貴方が畏まっては、私の立つ瀬がありませんよ?」
「それとこの服、着心地がとても良いです。普段とは違った楽さ加減で好ましいです」
どうやら杞憂だったようだ。
例え世辞だったとしても本人が気にしない、と言ってくれている以上この話を続ける方が気分を害してしまう。
少し話を変える事にしよう。
……差し当たっては寝床をどうするかである。
「じゃあ、来客用じゃなくて申し訳ないんですが天音さんは俺の布団を使って下さい」
扇風機のタイマーをセットしながら就寝の準備を進める。
そこに小首を傾げる彼女が当然の疑問を投げてくる。
「え?貴方はどうされるのです?まさか―――」
「はい。あっちの台所で寝ます」
用意していた答えを返す。
「今の季節ならあんまり寒くないですし。寧ろ涼しいから寝易いですよ」
床が固いんで薄手の毛布は使いますけどね、と彼女が気にしないように笑いながら答える。
「ダメです!」
予想外の剣幕に思わず一瞬体が竦む。
こちらの様子はあまり気になっていないのか。それとも気づいていないだけなのか知らないが彼女は声を張り上げて続ける。
「貴方が真面目で優しいのは分かります!けれどそれで貴方が体を壊してどうするのです!」
「ちょっ!管理人さん!?」
思わず彼女の口を手で押さえてしまう。
こんな夜中に大きな声を出して近所迷惑になる事は避けたい。
天音さんも気づいたようで、コクコクと頷いて返してくる。
手の平に残る柔らかい感触を必死で頭から叩き出して手を離すと、彼女は先ほどよりも小さく、しかし通る声で話し掛けてきた。
「貴方が犠牲になっても私は嬉しくありません。寧ろ心苦しいので、どうかお止め下さい」
「……では、どうするんです?まさか一緒に寝ろとでも?」
こんなオッサンと、という部分を言外に冗談めかして返す。返した瞬間、彼女は無言となった。
顔は俯いているが暗さになれた目にも分かるくらい真っ赤になり、湯気すら出ているように見える。
―――あ、やばいな。
この状況での冗談としては明らかに不適切で、良く言えば滑った。悪く言えば今すぐ国家権力に突き出されかねない空気を感じる。
下手をするとこの場で制裁されかねないかもしれない。
ここは謝って冗談である事を伝えて安心させなくては、自分の人生が様々な意味で終わるかもしれない。
「あ…ははっ、冗談、冗談です。確かに管理人さんは美人ですけど、流石に自分が吊り合いません」
聞いていないのか彼女は全く動かない。今の内に台所へ向かおうか。
扉を閉めて仕切ってしまえばこっちには来ないだろう、と安直な考えで振り向こうとした次の瞬間。
「何処へ行くのです?」
何時の間にか顔が近づくくらい近寄った彼女がこちらの両頬に両手を当てて、まるで逃がさないように挟んでくる。
決して強い力ではない。寧ろ腫れ物を扱うような力加減で挟まれている。
だが、まるで振り払おうとする意思を刈り取られたかのように微動だに出来ない。
「素敵な提案を頂きましたのに…是非ご一緒致しましょう?さぁ、こちらへ……」
この距離なら分かる。
彼女の糸目の奥に薄っすらと赤い双眸が煌いている。
妖しく、紅く輝く光を見ているからこそ振り払えないのだ、と確信できた。
今自分の体が彼女に引かれて敷きっぱなしになっていた布団に戻ってくる。
軽く手を引かれ、淫蕩な光を湛えた双眸をした無邪気な笑顔に魅かれながら元居た寝床に戻ってくる。
彼女はゆっくりと俺を押し倒し、彼女自身も俺に覆いかぶさるようにして顔を近づけてくる。
たわわに実った熟れた果実の先端が自分の胸板に当たり、情事に期待を膨らませた瞳は開きつつある。
ひやりとした感触を伴い、紅い瞳は今か今かと怒張を始めた分身を既に捉えようとしていた。
瞬間、カラン、と。
再度氷が解けて崩れた音がした。
その清涼な音を切欠に意識がクリアになる。
この機を逃す訳にはいかない。
彼女が怪我をしないように、しかし全力でその場から逃げようとする。
今の彼女はおかしい。きっと暑さか暑さに混じった魔物娘の淫気に中てられたのだろう。
扇風機は動いているし、自分から離れて涼しくなった部屋で過ごせばきっと、いつも彼女に戻るに違いない。
自分を騙すかのように強引に結論付けて今度こそ台所に向かおうとした所で。
「待って下さい……!行かないで……」
呼び止められた。
か細い、掻き消えるような、しかし通り過ぎようとするのものの歩みを止める位に強い声が自分を縫い止める。
「私がお嫌なのであれば申して下さい」
違う、そうじゃない。
「……確かに夜中突然押し掛けてきた女に好感を持てる事は有り得ないですわ……」
そんな事は無い。初めて会った時からずっと気になっていた。
「糸目ですし、強引ですし、人の準備を待ちません……」
こちらまで釣られて和やかになる笑顔と、他人を放っておけない優しさじゃないか。
「貴方の優しさに甘えていたのです」
成り行きを断りきれない、中途半端で優柔不断な奴なだけだ。俺は貴女のような綺麗な人じゃない。
「……でも、それでも」
「嫌われたくないのです、お願い。『傍に居て下さい』」
何時の間にか振り向いていた。彼女を見ていた。
縋るような雰囲気で、手を伸ばそうとして諦めているような姿。
構って欲しいのに邪魔をしたくない、構ってもらえないままこちらを見ている大人しい猫を見ているような
居たたまれない気持ちにさせる姿で彼女はこちらを見ていた。
糸目に戻っていた瞳に濡らすのは、淫蕩な光ではなく目の前から自分が消える事への喪失感が零れた
涙だろう。
――――――全く、一体一日の短い間で、何回人は自己嫌悪できるのか。
彼女の両肩にそっと手を置く。
思いの他冷たいが、構わず、自分の思いを熱に乗せるように。
なるべく優しく彼女に声を掛ける。
「……わかりました。傍に居ます」
自分は彼女の期待に応えられたようだ。
俯いていた彼女がこちらを見ると目に見えて明るい表情になる。
だが、矢張り泣いていたのか少し睫毛が濡れていた。
その様子に若干安堵する。
続けて、上げて落とす訳ではないがコレだけはハッキリとさせておく必要がある。
「俺は貴女が嫌いな訳ではありません。ただ、俺に貴女は勿体なさ過ぎる」
「傍には居ます、けれど俺からは何もしません」
「だから……貴女も慎んで、俺相手に間違いを犯さないで下さい」
少し魔物の淫気にやられただけでしょうから、と付け加える。
彼女の寂しそうな笑顔は変わらなかったが、小さく頷いて返してくれた。
じゃあ寝ましょうか、と。
俺は聖人君子になる覚悟を決めて努めて明るく言い放った。
13/10/03 08:16更新 / 十目一八
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