告白
魔王の城の最深部。
この世で最も多くの愛が交わされた豪奢な天蓋付きのベッドの上に、二人の淫魔の姿があった。
銀の輝きを束ねたような美しい白髪。最高級のルビーのように深い紅の瞳。
一人は、全ての魔物の頂点たる魔王。
もう一人は、その70番目の娘である魔界の姫。
生ける全てを魅了する絶対の美貌を持つ二人は、しかし幼い娘と母親のように片方の膝に顔を埋めてすすり泣き、また片方は慰めるようにその頭を撫でていた。
「っ、ぅ……妾は……母上の娘、失格じゃ……」
『私達ではダメなんです。……貴女で、なければ』
それだけは。
それだけは――絶対に、彼女達に言わせてはいけなかった言葉だろう。
魔物の姫であるアゼレアは、魔物達が異性を想う気持ちがどれだけ大きな物なのかを誰よりも良く知っている。
だからその一言を口にするのが彼女に達にとっていかに苦しく、悲しい事なのかもよく分かっている。
「……っ、ぅ………っ!」
配下の魔物達をそこまで追い詰め、恋した男は自分の采配の誤りが原因で廃人のようになってしまった。
そんな体たらくで、よくも。
この王魔界と並ぶような国を、作ってみせるなどと。
「………………」
――この子をこうして慰めるのは、何時ぶりだろうか。
自分とよく似た、泣きじゃくる娘の髪を梳くように撫でながら、魔王は思う。
小さい頃は、よくこうして泣きじゃくるこの子を、膝の上で慰めたものだった。
負けず嫌いで。お転婆で。
いつの間にか、すっかり立派になったと思っていたが――きっと彼女の根元の部分は、あの頃から変わっていないのだろう。
だから魔王は、あの頃のようにただじっと娘の頭を撫でていた。
知っているからだ。
「……っ、ぐ、はは、うえ……妾は………」
いつしか涙の止まった彼女が、また自分の力で立ち上がろうとする事を。
「……妾は、どうすればいい…………?」
そして、その為の助言を必要としているという事も。
だから魔王は、彼女の頭をその胸に抱き寄せて言った。
――貴女は今、幸せなのか、と。
「…………え?」
アゼレアはぽかんと口を開けて母親を見上げ、考える。
その言葉の意味を。
これはきっと、とても大切な問いかけなのだ、と。
「…………!」
そうして、思い至る。
アゼレアはごしごしと目元を拭うと、立ち上がった。
一度大きく深呼吸をすると、気合を入れるように自らの両頬を手で叩く。
「ありがとう、母上。…………行ってきます」
――はい、行ってらっしゃい。
これから彼女が向かうのは、魔物娘にとって一世一代の大勝負。
そんな娘の背中に、母は穏やかな表情で手を振るのだった。
―――――――――――――――――――――
ぱちん。ぱちん。
ランプの明かりが灯った病室に、爪を切る乾いた音が響いていた。
手を差し出し、預けているのは身体に幾重にも包帯を巻いた男。
その手を膝に置くのは、紅白の装束を纏った女。
「この爪切り鋏っていうの、便利ですねぇユキちゃん。うちでは、小刀で整えてましたし」
「…………」
ぱちん。ぱちん。
女が感心したような口調で話しかけても、男からの返事は帰ってこない。
乾き切ったその眼球を、じっと伏せたまま。
「『夜中に爪を切ると親の死に目に会えない』なんて言いますが、これなら怪我をする事も無さそうですねー。……まぁ、もう二人とも死んじゃってますけども」
「…………」
男の返事はない。
そんな行綱の爪に、舞は丁寧に鑢掛けをし、切り跡を整えてゆく。
「ふふ、そういえば、覚えてますか?昔、ユキちゃんが小刀で爪を切っていたら、ざっくり手を切ってしまって……中々血が止まらなくて、私ったら大慌てしてしまって……」
返事はない。
ふっ、と息を吹きかける。
乾いた爪が、ランプの光を反射していた。
「思えば……私達は、随分と遠い所に来てしまいましたね」
「…………」
「ねぇ、ユキちゃん」
手を取ったまま、舞は行綱へと語りかける。
「……もう、戦うの、やめちゃいませんか」
「!」
初めて、彼の表情に変化が現れた。
「もしそうなっても、これからの生活に必要なお金は魔王軍が負担して下さるそうです。アゼレア様や皆さんも、ユキちゃんに付き添ってくれると」
「……っ…………!」
青年は、怯えるように首を振った。
だって自分は、戦う事しか知らないのに。
産まれてきてから、それしか教えられていないのに。
それを止めてしまった自分に、一体何が残されているというのか。
縋りつくような行綱に、舞は諭すように語り掛ける。
「では……ユキちゃんはその手でもう一度刀を握って、戦えるんですか?」
「…………」
行綱は、答えを返せなかった。
腹の底が抜けたような喪失感が。あまりにも惨めな無力感が、頭の中を埋め尽くして離れない。
戦場を、死に場所を求めてこの魔界までやってきた筈なのに。
「私は、どんな事があってもユキちゃんの傍に居ます。だから……ユキちゃんのやりたいようにやってみて下さい」
「……やりたい、ように……」
分からなかった。
まともには生きられず、そしてあまりにも無様に死に損なった自分が一体何がしたいのか……いや、何が出来るのか、彼には分からなかった。
「また、様子を見に来ますね。たまにはこうしてゆっくりする事も、ユキちゃんには必要だと思いますよ」
再び俯いてしまった弟に、舞は微笑むと席を立ち、扉の方へと歩き出す。
そうして、扉を開いた先には――弟の想い人である、魔王の娘の姿。
後ろ手に、扉を閉める。
「お待ちしておりました、アゼレア様」
「…………舞」
そうして彼女は、普段の様子とは異なる真剣な表情で背筋を伸ばすと。
深々と頭を下げた。
「あの子の事を――どうか、よろしくお願いいたします」
「っ…………」
まただ。
彼女にも、先のクロエと同じ事を言わせてしまっている。
アゼレアは己の不甲斐なさに拳を握り締め、唇を引き結び……しかし以前とは違うはっきりとした決意の籠った瞳で、前を向いた。
ならばせめて――彼女達のその思いと覚悟を、無駄にしてはいけない。
絶対に。
「……ああ。任せておけ」
背筋を伸ばし、深々と頭を下げたまま舞の横を通り抜けて。
アゼレアは、部屋のドアへと手を掛けた。
――――――――――――――――――――
「……行綱」
薄明かりが照らす病室のベッドの上で、変わらず彼は蹲っていた。
依然と変わらずに。しかしもう血が滲む程に自分の腕を握り締めて、どことも分からぬ虚空を見つめてはいない。
「ひ、め……さま……」
ただ、どうしていいか分からないと言った様子で、怯えるように自分を見ていた。
胸が、ずきりと痛む。
アゼレアはそれを隠す様に微笑むと、ベッド傍の椅子へと腰かけた。
「……調子はどうじゃ、まだ身体は痛むか?」
「………………」
行綱は何か口を開きかけて、そして視線を逸らす様に俯き、黙り込んでしまった。
だが――こちらの声は、確かに届いている。かつてのような無反応ではない。
暫くの間、無言の時間が流れた。
魔力のランプが仄かに照らす包帯の巻かれた彼の身体には、今回の戦いで付いたものではない大小の傷跡が無数に刻まれている。
「………………」
アゼレアは、彼の人生を想った。
彼の過去。彼の生まれた家。寿命を縮めるという程の過酷な訓練の日々。父親の死。
そして教団の傭兵として故郷を離れ、この魔界で自分と出会うまでの間の事。
どんな思いだったのだろうか。
信仰さえ異なる集団の中に紛れての、長い旅路。
故郷とは異なる風土や食事に苦しんだ事もあっただろう。
雨風に晒されながら歩いた日も、きっとあったのだろう。
どんな思いで、あの重い武器と、鎧だけを持って。
たった一人で。
「…………先程」
行綱の口から、掠れた声が漏れた。
「……姉上から、自分のやりたいようにすればいいと、言われた。戦う事を、辞めてもいいと」
「…………」
ぽつりぽつりと話し始めた行綱の言葉を、アゼレアは黙って聞いていた。
「…………だが」
行綱は、左手で自分の右腕を強く握り絞めた。
「私には。……貴方の、元で。戦う事より、やりたい事が……あるとは、思えない」
彼女に出会って。彼女に仕えて。彼女の為に戦って。その日々は間違いなく幸福だった。
そう。幸せだったと、断言できる。
それが生まれつきの物なのか、生まれてからの環境によって根付いた物かは分からない。
だが自分は間違いなく、そういう人間なのだ。
なのに。
悲痛な程に痩せこけた顔を上げた青年は、絞り出すように呟いた。
「私は……あなたの傍に居るには、弱すぎた」
「……行綱」
なんと恐ろしい家に生まれたのだと思っていた。
我が子の身体を壊す事に躊躇いも見せない親。仕える者も、戦う相手も居ないままに受け継がれる狂気。
だが、今ならはっきりと分かる。
彼らは皆、恐ろしかったのだ。
この無力感が。いつか自分達の子孫が、それに出会う事が。
非人道的な修行?
人間の限界を越える代わりに寿命を削る奥義?
上等ではないか。
そもそも戦場では、勝てなければ、何も残す事が出来ないのだから。
力及ばないこの無念に怯える事に比べれば、それはずっとずっと、ましな事ではないか!
「っ……私は、敵わなかった!」
あれは、あの少年は、桁が違った。隙を見つければ倒せるとか、そういった次元の話ではなかった。
敵う気が、しなかった。
土砂崩れや、鉄砲水の真正面に刀を持って立っているような絶望感。
だから、分からない。彼女の為に戦いたいのに。傍に居たいのに。
そんな自分に、何の価値があるのかが分からない。
それはある種、目を背け続けてきた事でもあったのかもしれない。世界に自分よりも強い存在がいるなどという事は、当然のように理解している。
なのに――自分はそんな、当たり前の事を直視する事が出来ない。
それだけで、気が狂ってしまいそうになる。
いや。
きっと自分は元々、気が触れているのだ。
頭のおかしい、狂人なのだ。
だってそれは突き詰めれば、自分がこの世で一番強くなければ我慢がならないという事なのだから。
神よりも。仏よりも。
目の前に居る主の、両親にすら。
「……なるほど。お前の言いたい事は良く分かった」
「…………」
ぐちゃぐちゃの思考を吐き出すような、彼の途切れ途切れの言葉を聞いたアゼレアは頷き……そして、口を開いた。
「その、何が悪い」
「……え?」
顔を上げた行綱の目をまっすぐと見つめて、アゼレアは言った。
この世で自分が一番強くなければ耐えられない狂人?
上等ではないか。
「妾は、そんなお前が好きじゃ」
「……っ」
目を丸くする彼へ、アゼレアは続ける。
「行綱。以前、お前には話したな。妾は、この王魔界と並ぶような自分の国を作ってみせると。……それは、妾にとってこの世で最も素晴らしい国を作る事に他ならぬ」
淡く光る魔灯花の花畑。幻想的な光景。
誰にも負けないと、傍から離れないと、彼女と約束を交わした場所。
彼女が、自分の手を取った。
緊張で潤んだ目で、正面から自分の目を見据えていた。
「……妾は、酷い魔王の娘じゃ。采配の誤りでお前を追い詰め、配下の魔物達に何よりも辛い選択をさせた。じゃが、諦めぬ。必ず、いつか叶えてみせる。だからお前も、いつかなればいい。どんな魔物よりも、神よりも、妾の両親よりも――この世界で一番強い男に、お前はなってみせよ!」
切に訴える赤く輝く瞳が。艶やかな唇が。それらを備えた絶対の美貌が。
吐息がかかるほどの、間近にあった。
「妾の、夫になれ」
「…………っ!」
聞こえた言葉を理解するのに、数秒かかった。
行綱は言葉を詰まらせた。
まるで夢のように嬉しかった。
嬉しいのと同じ位に――苦しかった。
「わ、私、は……」
行綱は弱々しく頭を振り、絞り出すような声で訴えた。
自分の育ってきた環境。ずっと考えていた事。
自分はきっと、まともな親や夫にはなれない、と。
「行綱」
だが――目の前の主は、そんな自分の手をしっかりと握ったまま離さない。
「妾が好きなのは、お前じゃ。誰とも知れぬ、まともな夫とやらではない」
自分達はきっと、そこを間違えてしまっていた。
相手を不幸にしたくない、その想いばかりがお互いに先走って。
自分が何をしたいのか。どうすれば幸せになれるのか。
それを、相手に伝えていなかった。
「お前がお前の恐れているような男になってしまうような事があれば、その時は妾が怒ってやる!いつかお前がこの世で一番強くなっても、クロエ達や、舞や、妾の両親や魔王軍の精鋭達や!あらゆる者を巻き込んででもお前と喧嘩して、止めてやる!……っ、だから、だから……」
大丈夫。
だって自分は魔王の娘。
この世界で最も激しい夫婦喧嘩を見て育った女だ。
だから、きっと大丈夫。
「お前が今、どうしたいか。それだけを答えてくれ。妾は……お前と、ずっと一緒に居たい。その後に起きる困難は、一緒に乗り越えればいいではないか」
アゼレアは今一度、男の目を正面から見据える。
「だから行綱、もう一度言うぞ」
「…………っ」
ああ。
乾ききった男の目から、一筋の涙が零れた。
「お前に……妾の、夫になって欲しい」
「……は、い」
きっと私は――この世界で一番の、幸せ者だ。
この世で最も多くの愛が交わされた豪奢な天蓋付きのベッドの上に、二人の淫魔の姿があった。
銀の輝きを束ねたような美しい白髪。最高級のルビーのように深い紅の瞳。
一人は、全ての魔物の頂点たる魔王。
もう一人は、その70番目の娘である魔界の姫。
生ける全てを魅了する絶対の美貌を持つ二人は、しかし幼い娘と母親のように片方の膝に顔を埋めてすすり泣き、また片方は慰めるようにその頭を撫でていた。
「っ、ぅ……妾は……母上の娘、失格じゃ……」
『私達ではダメなんです。……貴女で、なければ』
それだけは。
それだけは――絶対に、彼女達に言わせてはいけなかった言葉だろう。
魔物の姫であるアゼレアは、魔物達が異性を想う気持ちがどれだけ大きな物なのかを誰よりも良く知っている。
だからその一言を口にするのが彼女に達にとっていかに苦しく、悲しい事なのかもよく分かっている。
「……っ、ぅ………っ!」
配下の魔物達をそこまで追い詰め、恋した男は自分の采配の誤りが原因で廃人のようになってしまった。
そんな体たらくで、よくも。
この王魔界と並ぶような国を、作ってみせるなどと。
「………………」
――この子をこうして慰めるのは、何時ぶりだろうか。
自分とよく似た、泣きじゃくる娘の髪を梳くように撫でながら、魔王は思う。
小さい頃は、よくこうして泣きじゃくるこの子を、膝の上で慰めたものだった。
負けず嫌いで。お転婆で。
いつの間にか、すっかり立派になったと思っていたが――きっと彼女の根元の部分は、あの頃から変わっていないのだろう。
だから魔王は、あの頃のようにただじっと娘の頭を撫でていた。
知っているからだ。
「……っ、ぐ、はは、うえ……妾は………」
いつしか涙の止まった彼女が、また自分の力で立ち上がろうとする事を。
「……妾は、どうすればいい…………?」
そして、その為の助言を必要としているという事も。
だから魔王は、彼女の頭をその胸に抱き寄せて言った。
――貴女は今、幸せなのか、と。
「…………え?」
アゼレアはぽかんと口を開けて母親を見上げ、考える。
その言葉の意味を。
これはきっと、とても大切な問いかけなのだ、と。
「…………!」
そうして、思い至る。
アゼレアはごしごしと目元を拭うと、立ち上がった。
一度大きく深呼吸をすると、気合を入れるように自らの両頬を手で叩く。
「ありがとう、母上。…………行ってきます」
――はい、行ってらっしゃい。
これから彼女が向かうのは、魔物娘にとって一世一代の大勝負。
そんな娘の背中に、母は穏やかな表情で手を振るのだった。
―――――――――――――――――――――
ぱちん。ぱちん。
ランプの明かりが灯った病室に、爪を切る乾いた音が響いていた。
手を差し出し、預けているのは身体に幾重にも包帯を巻いた男。
その手を膝に置くのは、紅白の装束を纏った女。
「この爪切り鋏っていうの、便利ですねぇユキちゃん。うちでは、小刀で整えてましたし」
「…………」
ぱちん。ぱちん。
女が感心したような口調で話しかけても、男からの返事は帰ってこない。
乾き切ったその眼球を、じっと伏せたまま。
「『夜中に爪を切ると親の死に目に会えない』なんて言いますが、これなら怪我をする事も無さそうですねー。……まぁ、もう二人とも死んじゃってますけども」
「…………」
男の返事はない。
そんな行綱の爪に、舞は丁寧に鑢掛けをし、切り跡を整えてゆく。
「ふふ、そういえば、覚えてますか?昔、ユキちゃんが小刀で爪を切っていたら、ざっくり手を切ってしまって……中々血が止まらなくて、私ったら大慌てしてしまって……」
返事はない。
ふっ、と息を吹きかける。
乾いた爪が、ランプの光を反射していた。
「思えば……私達は、随分と遠い所に来てしまいましたね」
「…………」
「ねぇ、ユキちゃん」
手を取ったまま、舞は行綱へと語りかける。
「……もう、戦うの、やめちゃいませんか」
「!」
初めて、彼の表情に変化が現れた。
「もしそうなっても、これからの生活に必要なお金は魔王軍が負担して下さるそうです。アゼレア様や皆さんも、ユキちゃんに付き添ってくれると」
「……っ…………!」
青年は、怯えるように首を振った。
だって自分は、戦う事しか知らないのに。
産まれてきてから、それしか教えられていないのに。
それを止めてしまった自分に、一体何が残されているというのか。
縋りつくような行綱に、舞は諭すように語り掛ける。
「では……ユキちゃんはその手でもう一度刀を握って、戦えるんですか?」
「…………」
行綱は、答えを返せなかった。
腹の底が抜けたような喪失感が。あまりにも惨めな無力感が、頭の中を埋め尽くして離れない。
戦場を、死に場所を求めてこの魔界までやってきた筈なのに。
「私は、どんな事があってもユキちゃんの傍に居ます。だから……ユキちゃんのやりたいようにやってみて下さい」
「……やりたい、ように……」
分からなかった。
まともには生きられず、そしてあまりにも無様に死に損なった自分が一体何がしたいのか……いや、何が出来るのか、彼には分からなかった。
「また、様子を見に来ますね。たまにはこうしてゆっくりする事も、ユキちゃんには必要だと思いますよ」
再び俯いてしまった弟に、舞は微笑むと席を立ち、扉の方へと歩き出す。
そうして、扉を開いた先には――弟の想い人である、魔王の娘の姿。
後ろ手に、扉を閉める。
「お待ちしておりました、アゼレア様」
「…………舞」
そうして彼女は、普段の様子とは異なる真剣な表情で背筋を伸ばすと。
深々と頭を下げた。
「あの子の事を――どうか、よろしくお願いいたします」
「っ…………」
まただ。
彼女にも、先のクロエと同じ事を言わせてしまっている。
アゼレアは己の不甲斐なさに拳を握り締め、唇を引き結び……しかし以前とは違うはっきりとした決意の籠った瞳で、前を向いた。
ならばせめて――彼女達のその思いと覚悟を、無駄にしてはいけない。
絶対に。
「……ああ。任せておけ」
背筋を伸ばし、深々と頭を下げたまま舞の横を通り抜けて。
アゼレアは、部屋のドアへと手を掛けた。
――――――――――――――――――――
「……行綱」
薄明かりが照らす病室のベッドの上で、変わらず彼は蹲っていた。
依然と変わらずに。しかしもう血が滲む程に自分の腕を握り締めて、どことも分からぬ虚空を見つめてはいない。
「ひ、め……さま……」
ただ、どうしていいか分からないと言った様子で、怯えるように自分を見ていた。
胸が、ずきりと痛む。
アゼレアはそれを隠す様に微笑むと、ベッド傍の椅子へと腰かけた。
「……調子はどうじゃ、まだ身体は痛むか?」
「………………」
行綱は何か口を開きかけて、そして視線を逸らす様に俯き、黙り込んでしまった。
だが――こちらの声は、確かに届いている。かつてのような無反応ではない。
暫くの間、無言の時間が流れた。
魔力のランプが仄かに照らす包帯の巻かれた彼の身体には、今回の戦いで付いたものではない大小の傷跡が無数に刻まれている。
「………………」
アゼレアは、彼の人生を想った。
彼の過去。彼の生まれた家。寿命を縮めるという程の過酷な訓練の日々。父親の死。
そして教団の傭兵として故郷を離れ、この魔界で自分と出会うまでの間の事。
どんな思いだったのだろうか。
信仰さえ異なる集団の中に紛れての、長い旅路。
故郷とは異なる風土や食事に苦しんだ事もあっただろう。
雨風に晒されながら歩いた日も、きっとあったのだろう。
どんな思いで、あの重い武器と、鎧だけを持って。
たった一人で。
「…………先程」
行綱の口から、掠れた声が漏れた。
「……姉上から、自分のやりたいようにすればいいと、言われた。戦う事を、辞めてもいいと」
「…………」
ぽつりぽつりと話し始めた行綱の言葉を、アゼレアは黙って聞いていた。
「…………だが」
行綱は、左手で自分の右腕を強く握り絞めた。
「私には。……貴方の、元で。戦う事より、やりたい事が……あるとは、思えない」
彼女に出会って。彼女に仕えて。彼女の為に戦って。その日々は間違いなく幸福だった。
そう。幸せだったと、断言できる。
それが生まれつきの物なのか、生まれてからの環境によって根付いた物かは分からない。
だが自分は間違いなく、そういう人間なのだ。
なのに。
悲痛な程に痩せこけた顔を上げた青年は、絞り出すように呟いた。
「私は……あなたの傍に居るには、弱すぎた」
「……行綱」
なんと恐ろしい家に生まれたのだと思っていた。
我が子の身体を壊す事に躊躇いも見せない親。仕える者も、戦う相手も居ないままに受け継がれる狂気。
だが、今ならはっきりと分かる。
彼らは皆、恐ろしかったのだ。
この無力感が。いつか自分達の子孫が、それに出会う事が。
非人道的な修行?
人間の限界を越える代わりに寿命を削る奥義?
上等ではないか。
そもそも戦場では、勝てなければ、何も残す事が出来ないのだから。
力及ばないこの無念に怯える事に比べれば、それはずっとずっと、ましな事ではないか!
「っ……私は、敵わなかった!」
あれは、あの少年は、桁が違った。隙を見つければ倒せるとか、そういった次元の話ではなかった。
敵う気が、しなかった。
土砂崩れや、鉄砲水の真正面に刀を持って立っているような絶望感。
だから、分からない。彼女の為に戦いたいのに。傍に居たいのに。
そんな自分に、何の価値があるのかが分からない。
それはある種、目を背け続けてきた事でもあったのかもしれない。世界に自分よりも強い存在がいるなどという事は、当然のように理解している。
なのに――自分はそんな、当たり前の事を直視する事が出来ない。
それだけで、気が狂ってしまいそうになる。
いや。
きっと自分は元々、気が触れているのだ。
頭のおかしい、狂人なのだ。
だってそれは突き詰めれば、自分がこの世で一番強くなければ我慢がならないという事なのだから。
神よりも。仏よりも。
目の前に居る主の、両親にすら。
「……なるほど。お前の言いたい事は良く分かった」
「…………」
ぐちゃぐちゃの思考を吐き出すような、彼の途切れ途切れの言葉を聞いたアゼレアは頷き……そして、口を開いた。
「その、何が悪い」
「……え?」
顔を上げた行綱の目をまっすぐと見つめて、アゼレアは言った。
この世で自分が一番強くなければ耐えられない狂人?
上等ではないか。
「妾は、そんなお前が好きじゃ」
「……っ」
目を丸くする彼へ、アゼレアは続ける。
「行綱。以前、お前には話したな。妾は、この王魔界と並ぶような自分の国を作ってみせると。……それは、妾にとってこの世で最も素晴らしい国を作る事に他ならぬ」
淡く光る魔灯花の花畑。幻想的な光景。
誰にも負けないと、傍から離れないと、彼女と約束を交わした場所。
彼女が、自分の手を取った。
緊張で潤んだ目で、正面から自分の目を見据えていた。
「……妾は、酷い魔王の娘じゃ。采配の誤りでお前を追い詰め、配下の魔物達に何よりも辛い選択をさせた。じゃが、諦めぬ。必ず、いつか叶えてみせる。だからお前も、いつかなればいい。どんな魔物よりも、神よりも、妾の両親よりも――この世界で一番強い男に、お前はなってみせよ!」
切に訴える赤く輝く瞳が。艶やかな唇が。それらを備えた絶対の美貌が。
吐息がかかるほどの、間近にあった。
「妾の、夫になれ」
「…………っ!」
聞こえた言葉を理解するのに、数秒かかった。
行綱は言葉を詰まらせた。
まるで夢のように嬉しかった。
嬉しいのと同じ位に――苦しかった。
「わ、私、は……」
行綱は弱々しく頭を振り、絞り出すような声で訴えた。
自分の育ってきた環境。ずっと考えていた事。
自分はきっと、まともな親や夫にはなれない、と。
「行綱」
だが――目の前の主は、そんな自分の手をしっかりと握ったまま離さない。
「妾が好きなのは、お前じゃ。誰とも知れぬ、まともな夫とやらではない」
自分達はきっと、そこを間違えてしまっていた。
相手を不幸にしたくない、その想いばかりがお互いに先走って。
自分が何をしたいのか。どうすれば幸せになれるのか。
それを、相手に伝えていなかった。
「お前がお前の恐れているような男になってしまうような事があれば、その時は妾が怒ってやる!いつかお前がこの世で一番強くなっても、クロエ達や、舞や、妾の両親や魔王軍の精鋭達や!あらゆる者を巻き込んででもお前と喧嘩して、止めてやる!……っ、だから、だから……」
大丈夫。
だって自分は魔王の娘。
この世界で最も激しい夫婦喧嘩を見て育った女だ。
だから、きっと大丈夫。
「お前が今、どうしたいか。それだけを答えてくれ。妾は……お前と、ずっと一緒に居たい。その後に起きる困難は、一緒に乗り越えればいいではないか」
アゼレアは今一度、男の目を正面から見据える。
「だから行綱、もう一度言うぞ」
「…………っ」
ああ。
乾ききった男の目から、一筋の涙が零れた。
「お前に……妾の、夫になって欲しい」
「……は、い」
きっと私は――この世界で一番の、幸せ者だ。
21/08/14 02:34更新 / オレンジ
戻る
次へ