化物
乳母車の中で揺れる赤子を前に。椅子に深く腰掛けた司教は頭を抱え、一人震えていた。
『…………っ』
恐ろしい。これほどまでに恐ろしい事があるだろうか。
仮に。前の前にいる存在が悪魔ならば、まだ取引という概念も通じるのかもしれない。
だが――目の前の、恐らくは勇者であろう赤子には、言葉が通じない。
蒼い硝子玉のように澄んだ瞳からは、感情や思考を窺い知る事も出来ない。
だから――何かの拍子に、あの破壊が引き起こされるかも分からない。
そうして、ここは街はずれの森の中ではない。
町の中心に位置する聖堂、その中の彼の自室。
同じ事が起きれば、その被害は甚大なものになる。
かと言って、今更彼を元の場所に返す事も出来ない。
ならば。
――ああ、神よ。
心の中で祈りを捧げながら、彼は一冊の本を手に取った。
しかし、それは彼の信仰する神の言葉が記されたものではなく。
凶悪な犯罪人から意思と感情を奪い、下した命令のみ従わせる……禁呪と呼ばれる類の魔法が納められた魔導書だった。
それから、時は流れて。
『………………』
何をするでもなく。美しい少女と見紛う程に整った容姿の少年が、今日も椅子に腰掛け、司教に与えられた部屋からただ窓の外を眺めていた。
当然だ。彼は今、何の命令も受けていないのだから。
命令されなければ――彼は、動けないのだから。
『――待たせたね。さぁ、食事にしようか』
テーブルの上にパンとミルクを並べていた司教がそう言うと、ようやく少年は振り返り、感情のない瞳で食物を口に運び始める。
彼は、この勇者の存在を公に報告する事はなかった。
どんな命令にも従う、強大な力を持った勇者。小さくない国の司教という立場上、教団の中にそんな少年を私物化しようとする魑魅魍魎がどれだけいるのかという事を、痛い程に知っていた。
例えば――そう。あの、レスカティエのように。
彼は信仰に厚い人間だった。
だが同時に、主を信仰する教団を作り、動かしているのは――主ではなく、人間だという事を知っていた。
『……すまない。君をこんな風にしておいて、僕は孤児院への巡回の合間くらいしかここに顔を出す事が出来ない』
『………………』
返事はない。
あの日から、彼は常に罪の意識に苛まれていた。
一人の少年を、命令無しでは動けぬ操り人形にしてしまったという、紛れもない事実。
主に力を授けられた勇者を、その使命を果たさせぬままに幽閉しているという自責。
全ては、自分があの日行った事の結果。
『だけど、それももうすぐ終わる』
だから、ずっと準備をしてきた。
私財を擲ち、魔王城への遠征軍における自分の発言力を大きくしてきた。
一度遠征隊として魔界へ入ってしまえば……例え彼の存在を知られようとも、外部から手出しをする事は出来ない。
勇者として大きな戦果を挙げ、それが大々的に広まれば。しかも、先んじてその勇者がすでに『とある司教』によって洗脳され、私物化されていたという事実が明るみになっていれば。
それに続いて彼を私物化する事は、難しくなる。
そして教団の最高位の治癒術士であれば、彼にかけられた禁呪を解除できる者もいる筈だ。
司教はミルクのカップをテーブルに置くと、僅かに帰還を果たした遠征軍から上げられた報告書を取り出した。
そこに記されているのは――極東の国より傭兵として遠征軍に加わり、そして離反した一人の男。
勇者とすら対等に戦い、そしてその戦いの後の様子から、魔王の娘とつがいになっていると見られている。
『…………』
前線に魔王の娘ほどの大物が現れる機会は限られているが……魔物のつがいとなった者は、その魔物と同等の脅威を持つ背信者として扱われる。
この男を殺さぬまま連れ帰り。公衆の面前でその素性を吐かせた後、処刑する事が出来れば。
そうして何を隠そう、彼が倒したという勇者、エドワードを手配したのもこの司教であった。
だから知っている。
目の前の少年が、彼とは比べ物にならない――いや、ほぼ全ての勇者と比べてでさえそうである、まさに神の如き力を持っているという事を。
その翌日、司教は少年へと命令を下した。
『この男を、殺さずに捕らえて帰還しろ』
『この命令が完了するまで、他の命令は一切聞いてはならない』
『例え――それが、自分の名前で下された命令であっても』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
駆け付けた勢いのままに。
あらん限りの力で勇者を殴り飛ばしたアゼレアは、行綱の傍へと膝を付き、涙の滲んだ声で呼びかける。
「……行綱」
返事はない。
風前の灯火のようなか細い呼吸。右腕はあらぬ方向へと折れ曲がり、目の焦点は定まっていない。
彼がいつも欠かさず手入れをしていた黒地の鎧は無惨に砕け、その全身が夥しい血と泥にまみれている。
「………………っ」
全部、自分のせいだ。
自分と一緒に居たせいで、行綱はあの勇者に狙われた。
そしてずっと、その予兆はいつもの予感が教えてくれていたのに。
自分が――それに気付こうとしなかったせいで!!
「……すまぬ、行綱」
アゼレアは身を屈め……半ば開いたままの唇に自らのそれを重ねた。
「、ぁ…………」
口付けを介して。魔王の娘たる彼女の魔力……生命力が、行綱の身体へと受け渡されてゆく。
あんなにも夢見た、恋焦がれた男との初めてのキスは。
血と、逆流した胃液の味がした。
「…………」
数秒して、唇が離れる。
男の呼吸が微かに確かさを取り戻した事を確認したアゼレアは、涙の混じった安堵の表情を浮かべて……しかしすぐにそれを毅然としたものへと変えると、立ち上がった。
「……あとは任せて、少し休んでおれ」
その視線の先には――あろうことか傷一つ。ダメージ一つ無いような少年が、こちらに向かって歩いてきている。
神の域に達する力を持った勇者。
彼を匿い、育てた司教はそう言っていたというが……強ち、それも誇張表現という訳ではないらしい。
アゼレアは、自身が戦場に立つことは殆どない。だが魔王軍を率いる一人として、ずっと水晶越しにその様子を見続けてきた。
だから分かる。
少なくとも、下級の神程度ならば――この勇者は、容易くねじ伏せてしまうのだろうという事が。
だから、自分では勝てない。
姉妹達の中でも、特に大きな力を持つ者達ならばともかく……力の弱い、自分では。
それでも。
もう、この男に手は出させない。
「勇者よ。一つ取引をしたいのじゃが」
声に魔力を籠める。
淫魔法。チャームやテンプテーションと呼ばれるものの応用。
目の前の勇者の意識を全て自分のみへと集中させ、精神へと直接言葉を刷り込む。
……ああ。本当に愛しい男には、自分を見てほしい男には、使った事のない魔法なのに。
「この男の事は諦めてくれぬか。……それを呑んでくれるのならば、代わりにこの身を差し出そう」
「…………」
例え、どれだけ強さに差が有ろうとも。仮にも魔王の娘、淫魔の姫が行使する淫魔法。
魔力を乗せた言葉だけでは、禁呪の枷を外す事は出来ないが――その命令の内容を、すり替えてしまう事ぐらいは出来るはず。
この少年自身に、全く判断能力が備わっていないということはない筈だ。
そうでなければ、あれだけの力を持っておきながら行綱の命を奪わずに捕らえるという命令はとっくに失敗に終わっている筈。
そうして……彼が育った環境を考えれば、その判断基準は教団の教えに対して極めて忠実である筈だ。
「そもそもこの男を狙ったのは、妾の夫と見込んでの事なのであろう。……ならばそれは検討違いじゃ。その男を連れて帰っても、お前に命令を下した司教の目的は叶わぬ」
筈。筈。筈。
主観的な希望の混じった楽観的が過ぎる推測だという事は自覚している。
それでも、これを成功させなければ。
行綱が、連れて行かれてしまう。
自分のせいで。
「だから、妾自身を連れて行け。魔王の娘を捕らえたとなれば、それだけで前例の無い戦果であろう。……無論、条件を呑んでくれれば抵抗はせぬ。連れ帰った後は煮るなり焼くなり首を刎ねるなり、好きにするが良い」
「………………」
果たして……剣を下げたままの勇者は、行綱ではなくアゼレアへと歩を進め始めた。
……これで、いい。
魅了が使える自分ならば、行綱よりも無事に逃げ出せる可能性はずっと大きい。
そんな、毅然とした態度で勇者を待つアゼレアの背後で。
自らが流した血溜まりから、一人の男が身を起こしていた。
――――――――――――――――――――
恐らく、あの勇者――エドワードの言っていた通りなのだと思う。
一目惚れだったのだ。
あの日、紅い魔界の空から降りてきた彼女を一目見た、その時から。
その事に気付きたくなくて。認めたくなくて。
気付いてしまってからは、恐ろしくて。
歯止めがかからなくなってしまいそうだったから。自制が出来なくなってしまいそうだったから。
「ぁ…………」
何度目か、途切れていた意識。
かすむ視界に映るのは――瞳いっぱい涙を浮かべた、主の姿。
前にも、同じような状況があった気がする。
……あれは一体、いつの事だっただろうか。
「…………」
あの時も、彼女の頬には涙の跡があった。
何が、彼女を守るだ。彼女が、いつか作る国を守るだ。
よくも、よくもそんな事が言えたものだ。
彼女よりも、ずっとずっと弱い癖に。
彼女を泣かせる事しか出来ない癖に。
「……あとは任せて、少し休んでおれ」
……ああ、そうだ。
もう、自分に出来る事は何もない。
行綱は朦朧とした意識の中、両の瞼を下ろそうとして――
「この男の事は諦めてくれぬか。……それを呑んでくれるのならば、代わりにこの身を差し出そう」
「……………!」
気が触れそうになる程の自分への怒りに、叩き起こされた。
いつまで呑気に寝ているつもりだ。
全身を走る激痛を。生存本能を無視し、黙らせる。
自らが流した血溜まりから、引き剥がすように身を起こす。
「…………っ!!!!」
死んでもいい。
死んでも――その人だけは、絶対に連れて行かせない!
次の瞬間。人としての限界のリミッターを外した行綱が左腕一本で刀を握り、獣の如き荒々しさで勇者へと斬りかかっていた。
「行綱っ!?」
防がれてしまう。何度も。何度振るっても。
刀を叩きつけるたび、地を蹴るたびに全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
折れた肋が内蔵を傷つけ、喉奥から血が込み上げて来る。
「ーーお、おぉぉぉぉおッ!!」
それでも尚、行綱は吼えた。
だって、ここで倒れてしまったら。負けてしまったら。
自分のせいで、姫様が連れて行かれてしまうから!
初めてだったんだ。
誰かの側に居られるだけでーーこんなに、幸せだと思えたのは!
「………………っ!」
剣戟の最中、二人の距離が大きく離れた。
ここしかない。
この魔界に来てからもーー例えそれが身体能力で敵わない相手であっても、必ず通用した技!
行綱は地面を滑るようにして、一瞬で勇者の間合へと踏み込んだ!
そして、次の瞬間にはーー
「……ぁ」
刀を握ったまま。
二の腕から断たれた自らの左腕が、宙を舞っていた。
腹の底が抜けたような寒気。燃えるような痛み。
産まれ落ちてより常にあった筈の体の一部が失われてしまったという、途方も無い喪失感。
「あーーぁぁぁぁぁぁッ!!」
それでも尚、男は踏み込む足を止めなかった。
「…………っ!?」
頭突き。
勇者の小さな額に行綱の兜越しの額が打ち付けられ、鈍い音が周囲へと響いた。
予想外の衝撃に、さしもの勇者もたたらを踏み……そうして初めて、微かな感情のようなものが浮かんだ瞳で目の前の男を見る。
正面から、一撃を入れられたのだ。
先程の魔王の娘のような、不意打ちではなく。
「っ、ぁ、げほっ…………!」
先の一撃の衝撃でひしゃげた兜がずるりと滑り落ち、血で赤く染まった黒髪が露わになる。
男には、もう武器を握る事が出来る腕がない。
既に肌や唇からは血の気も失われかけており、立っていられるのも不思議な程で……比喩ではなく、今の彼を倒す事など、赤子の手を捻るよりも簡単な事だろう。
それなのに。
べったりと血に張り付いた前髪の奥で、爛々とした光を宿した二つの瞳が、まるで別の生き物のようにぎょろりとこちらを睨め付け続けている。
この人に、指一本触れてみろ。
刀が振るえないならばーーその喉笛を食い千切ってでも仕留めてやる、と。
「…………ぁ……」
少年は、自分でも気付かぬうちに後退りをしていた。
何だ。
何なんだ、こいつは。
その日。
感情というものを知らずに生きてきた少年は。
生まれて初めて、−−『 』という感情を抱いた。
『…………っ』
恐ろしい。これほどまでに恐ろしい事があるだろうか。
仮に。前の前にいる存在が悪魔ならば、まだ取引という概念も通じるのかもしれない。
だが――目の前の、恐らくは勇者であろう赤子には、言葉が通じない。
蒼い硝子玉のように澄んだ瞳からは、感情や思考を窺い知る事も出来ない。
だから――何かの拍子に、あの破壊が引き起こされるかも分からない。
そうして、ここは街はずれの森の中ではない。
町の中心に位置する聖堂、その中の彼の自室。
同じ事が起きれば、その被害は甚大なものになる。
かと言って、今更彼を元の場所に返す事も出来ない。
ならば。
――ああ、神よ。
心の中で祈りを捧げながら、彼は一冊の本を手に取った。
しかし、それは彼の信仰する神の言葉が記されたものではなく。
凶悪な犯罪人から意思と感情を奪い、下した命令のみ従わせる……禁呪と呼ばれる類の魔法が納められた魔導書だった。
それから、時は流れて。
『………………』
何をするでもなく。美しい少女と見紛う程に整った容姿の少年が、今日も椅子に腰掛け、司教に与えられた部屋からただ窓の外を眺めていた。
当然だ。彼は今、何の命令も受けていないのだから。
命令されなければ――彼は、動けないのだから。
『――待たせたね。さぁ、食事にしようか』
テーブルの上にパンとミルクを並べていた司教がそう言うと、ようやく少年は振り返り、感情のない瞳で食物を口に運び始める。
彼は、この勇者の存在を公に報告する事はなかった。
どんな命令にも従う、強大な力を持った勇者。小さくない国の司教という立場上、教団の中にそんな少年を私物化しようとする魑魅魍魎がどれだけいるのかという事を、痛い程に知っていた。
例えば――そう。あの、レスカティエのように。
彼は信仰に厚い人間だった。
だが同時に、主を信仰する教団を作り、動かしているのは――主ではなく、人間だという事を知っていた。
『……すまない。君をこんな風にしておいて、僕は孤児院への巡回の合間くらいしかここに顔を出す事が出来ない』
『………………』
返事はない。
あの日から、彼は常に罪の意識に苛まれていた。
一人の少年を、命令無しでは動けぬ操り人形にしてしまったという、紛れもない事実。
主に力を授けられた勇者を、その使命を果たさせぬままに幽閉しているという自責。
全ては、自分があの日行った事の結果。
『だけど、それももうすぐ終わる』
だから、ずっと準備をしてきた。
私財を擲ち、魔王城への遠征軍における自分の発言力を大きくしてきた。
一度遠征隊として魔界へ入ってしまえば……例え彼の存在を知られようとも、外部から手出しをする事は出来ない。
勇者として大きな戦果を挙げ、それが大々的に広まれば。しかも、先んじてその勇者がすでに『とある司教』によって洗脳され、私物化されていたという事実が明るみになっていれば。
それに続いて彼を私物化する事は、難しくなる。
そして教団の最高位の治癒術士であれば、彼にかけられた禁呪を解除できる者もいる筈だ。
司教はミルクのカップをテーブルに置くと、僅かに帰還を果たした遠征軍から上げられた報告書を取り出した。
そこに記されているのは――極東の国より傭兵として遠征軍に加わり、そして離反した一人の男。
勇者とすら対等に戦い、そしてその戦いの後の様子から、魔王の娘とつがいになっていると見られている。
『…………』
前線に魔王の娘ほどの大物が現れる機会は限られているが……魔物のつがいとなった者は、その魔物と同等の脅威を持つ背信者として扱われる。
この男を殺さぬまま連れ帰り。公衆の面前でその素性を吐かせた後、処刑する事が出来れば。
そうして何を隠そう、彼が倒したという勇者、エドワードを手配したのもこの司教であった。
だから知っている。
目の前の少年が、彼とは比べ物にならない――いや、ほぼ全ての勇者と比べてでさえそうである、まさに神の如き力を持っているという事を。
その翌日、司教は少年へと命令を下した。
『この男を、殺さずに捕らえて帰還しろ』
『この命令が完了するまで、他の命令は一切聞いてはならない』
『例え――それが、自分の名前で下された命令であっても』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
駆け付けた勢いのままに。
あらん限りの力で勇者を殴り飛ばしたアゼレアは、行綱の傍へと膝を付き、涙の滲んだ声で呼びかける。
「……行綱」
返事はない。
風前の灯火のようなか細い呼吸。右腕はあらぬ方向へと折れ曲がり、目の焦点は定まっていない。
彼がいつも欠かさず手入れをしていた黒地の鎧は無惨に砕け、その全身が夥しい血と泥にまみれている。
「………………っ」
全部、自分のせいだ。
自分と一緒に居たせいで、行綱はあの勇者に狙われた。
そしてずっと、その予兆はいつもの予感が教えてくれていたのに。
自分が――それに気付こうとしなかったせいで!!
「……すまぬ、行綱」
アゼレアは身を屈め……半ば開いたままの唇に自らのそれを重ねた。
「、ぁ…………」
口付けを介して。魔王の娘たる彼女の魔力……生命力が、行綱の身体へと受け渡されてゆく。
あんなにも夢見た、恋焦がれた男との初めてのキスは。
血と、逆流した胃液の味がした。
「…………」
数秒して、唇が離れる。
男の呼吸が微かに確かさを取り戻した事を確認したアゼレアは、涙の混じった安堵の表情を浮かべて……しかしすぐにそれを毅然としたものへと変えると、立ち上がった。
「……あとは任せて、少し休んでおれ」
その視線の先には――あろうことか傷一つ。ダメージ一つ無いような少年が、こちらに向かって歩いてきている。
神の域に達する力を持った勇者。
彼を匿い、育てた司教はそう言っていたというが……強ち、それも誇張表現という訳ではないらしい。
アゼレアは、自身が戦場に立つことは殆どない。だが魔王軍を率いる一人として、ずっと水晶越しにその様子を見続けてきた。
だから分かる。
少なくとも、下級の神程度ならば――この勇者は、容易くねじ伏せてしまうのだろうという事が。
だから、自分では勝てない。
姉妹達の中でも、特に大きな力を持つ者達ならばともかく……力の弱い、自分では。
それでも。
もう、この男に手は出させない。
「勇者よ。一つ取引をしたいのじゃが」
声に魔力を籠める。
淫魔法。チャームやテンプテーションと呼ばれるものの応用。
目の前の勇者の意識を全て自分のみへと集中させ、精神へと直接言葉を刷り込む。
……ああ。本当に愛しい男には、自分を見てほしい男には、使った事のない魔法なのに。
「この男の事は諦めてくれぬか。……それを呑んでくれるのならば、代わりにこの身を差し出そう」
「…………」
例え、どれだけ強さに差が有ろうとも。仮にも魔王の娘、淫魔の姫が行使する淫魔法。
魔力を乗せた言葉だけでは、禁呪の枷を外す事は出来ないが――その命令の内容を、すり替えてしまう事ぐらいは出来るはず。
この少年自身に、全く判断能力が備わっていないということはない筈だ。
そうでなければ、あれだけの力を持っておきながら行綱の命を奪わずに捕らえるという命令はとっくに失敗に終わっている筈。
そうして……彼が育った環境を考えれば、その判断基準は教団の教えに対して極めて忠実である筈だ。
「そもそもこの男を狙ったのは、妾の夫と見込んでの事なのであろう。……ならばそれは検討違いじゃ。その男を連れて帰っても、お前に命令を下した司教の目的は叶わぬ」
筈。筈。筈。
主観的な希望の混じった楽観的が過ぎる推測だという事は自覚している。
それでも、これを成功させなければ。
行綱が、連れて行かれてしまう。
自分のせいで。
「だから、妾自身を連れて行け。魔王の娘を捕らえたとなれば、それだけで前例の無い戦果であろう。……無論、条件を呑んでくれれば抵抗はせぬ。連れ帰った後は煮るなり焼くなり首を刎ねるなり、好きにするが良い」
「………………」
果たして……剣を下げたままの勇者は、行綱ではなくアゼレアへと歩を進め始めた。
……これで、いい。
魅了が使える自分ならば、行綱よりも無事に逃げ出せる可能性はずっと大きい。
そんな、毅然とした態度で勇者を待つアゼレアの背後で。
自らが流した血溜まりから、一人の男が身を起こしていた。
――――――――――――――――――――
恐らく、あの勇者――エドワードの言っていた通りなのだと思う。
一目惚れだったのだ。
あの日、紅い魔界の空から降りてきた彼女を一目見た、その時から。
その事に気付きたくなくて。認めたくなくて。
気付いてしまってからは、恐ろしくて。
歯止めがかからなくなってしまいそうだったから。自制が出来なくなってしまいそうだったから。
「ぁ…………」
何度目か、途切れていた意識。
かすむ視界に映るのは――瞳いっぱい涙を浮かべた、主の姿。
前にも、同じような状況があった気がする。
……あれは一体、いつの事だっただろうか。
「…………」
あの時も、彼女の頬には涙の跡があった。
何が、彼女を守るだ。彼女が、いつか作る国を守るだ。
よくも、よくもそんな事が言えたものだ。
彼女よりも、ずっとずっと弱い癖に。
彼女を泣かせる事しか出来ない癖に。
「……あとは任せて、少し休んでおれ」
……ああ、そうだ。
もう、自分に出来る事は何もない。
行綱は朦朧とした意識の中、両の瞼を下ろそうとして――
「この男の事は諦めてくれぬか。……それを呑んでくれるのならば、代わりにこの身を差し出そう」
「……………!」
気が触れそうになる程の自分への怒りに、叩き起こされた。
いつまで呑気に寝ているつもりだ。
全身を走る激痛を。生存本能を無視し、黙らせる。
自らが流した血溜まりから、引き剥がすように身を起こす。
「…………っ!!!!」
死んでもいい。
死んでも――その人だけは、絶対に連れて行かせない!
次の瞬間。人としての限界のリミッターを外した行綱が左腕一本で刀を握り、獣の如き荒々しさで勇者へと斬りかかっていた。
「行綱っ!?」
防がれてしまう。何度も。何度振るっても。
刀を叩きつけるたび、地を蹴るたびに全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
折れた肋が内蔵を傷つけ、喉奥から血が込み上げて来る。
「ーーお、おぉぉぉぉおッ!!」
それでも尚、行綱は吼えた。
だって、ここで倒れてしまったら。負けてしまったら。
自分のせいで、姫様が連れて行かれてしまうから!
初めてだったんだ。
誰かの側に居られるだけでーーこんなに、幸せだと思えたのは!
「………………っ!」
剣戟の最中、二人の距離が大きく離れた。
ここしかない。
この魔界に来てからもーー例えそれが身体能力で敵わない相手であっても、必ず通用した技!
行綱は地面を滑るようにして、一瞬で勇者の間合へと踏み込んだ!
そして、次の瞬間にはーー
「……ぁ」
刀を握ったまま。
二の腕から断たれた自らの左腕が、宙を舞っていた。
腹の底が抜けたような寒気。燃えるような痛み。
産まれ落ちてより常にあった筈の体の一部が失われてしまったという、途方も無い喪失感。
「あーーぁぁぁぁぁぁッ!!」
それでも尚、男は踏み込む足を止めなかった。
「…………っ!?」
頭突き。
勇者の小さな額に行綱の兜越しの額が打ち付けられ、鈍い音が周囲へと響いた。
予想外の衝撃に、さしもの勇者もたたらを踏み……そうして初めて、微かな感情のようなものが浮かんだ瞳で目の前の男を見る。
正面から、一撃を入れられたのだ。
先程の魔王の娘のような、不意打ちではなく。
「っ、ぁ、げほっ…………!」
先の一撃の衝撃でひしゃげた兜がずるりと滑り落ち、血で赤く染まった黒髪が露わになる。
男には、もう武器を握る事が出来る腕がない。
既に肌や唇からは血の気も失われかけており、立っていられるのも不思議な程で……比喩ではなく、今の彼を倒す事など、赤子の手を捻るよりも簡単な事だろう。
それなのに。
べったりと血に張り付いた前髪の奥で、爛々とした光を宿した二つの瞳が、まるで別の生き物のようにぎょろりとこちらを睨め付け続けている。
この人に、指一本触れてみろ。
刀が振るえないならばーーその喉笛を食い千切ってでも仕留めてやる、と。
「…………ぁ……」
少年は、自分でも気付かぬうちに後退りをしていた。
何だ。
何なんだ、こいつは。
その日。
感情というものを知らずに生きてきた少年は。
生まれて初めて、−−『 』という感情を抱いた。
20/11/09 16:06更新 / オレンジ
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