赤い月に照らされた魔界の大地を、十重二十重に隊列を組んだ聖騎士達が進軍してゆく。
重装の鎧を帯びているとは思えない程の進軍速度でありながら、その歩みに乱れはない。ただその地に足を踏み入れ、呼吸をしているだけですら身体に影響を及ぼす魔界では、当然ながら食料や水を現地で補充する事すら出来ない。彼らがこの地に留まる事が出来る時間は限られているのだ。
故に魔界の最深部に向かう彼らの歩みに迷いはなく。それを可能とする強靭な肉体と強固な信仰心を兼ね備えた彼らは、今回の魔王討伐遠征における虎の子、切り札とも言える存在であった。
突然。そんな彼らの真正面を、青色の爆炎が横一文字に薙ぎ払った。

｢敵襲！！前方を固めつつ後退、突っ込んでくるぞ！｣

最前線を進んでいた仲間達が吹き飛ばされ、視界が煙で遮られる。突然にそのような状況に陥っても指示系統が死んでいないのは、やはり彼らが精鋭である証拠だと言えるだろう。
騎士達は倒れた仲間を抱え上げると、入れ替わるようにして前面の布陣を固め直す。
どこだ。どこから来る。

｢あはっ｣

そんな騎士達の頭上に、鈴が鳴るように澄んだ女の声が響いた。
何事かと彼らが顔を上げれば――-そこには白衣と緋袴に身を包み、涼やかな笑みを浮かべた黒髪の女。それが濛々と立ち込める煙を一足に飛び越え、今まさに大上段に構えた薙刀を振り下ろさんとしている姿。
そして一閃。

｢あは、うふふふ……｣

目にも鮮やかな紅白の衣装を纏い、長大な得物を手にした女は――赤い月に照らされたこの魔界で、その周りだけが春の日差しに包まれていると錯覚してしまうような、花が咲いたような笑顔で笑っていた。

｢…………｣

そう。仲間を切り伏せたその瞬間を、自分達はたった今目の前で目撃した筈なのに。
騎士たちは、誰一人として動く事が出来なかった。
上品に手で口を押さえ、手毬をつく童女のように無垢に笑う彼女を、自分達の敵であると認識する事が出来なくて。
東洋の生まれである事を示す艶やかな黒髪と瞳が目を引くが、角もない。鱗もない。尻尾も無い。何の異形も確認できない、こんなにも儚げな娘が。
だが、逆に言ってしまえば――むしろ彼らは、その点をこそ訝しむべきであり、気付くべきだったのだろう。
目の前で仲間が襲われた姿を目撃して尚、その現実を疑ってしまう程の可憐さ、儚さ。
それはやはり、『魔性』と呼ぶべき類の物であるという事に。

｢……ふふ。何だかんだと言っても、私もあの家の生まれという事なんでしょうか｣

そんな笑顔のまま。
何の気負いも力みもないまま、薙刀の穂先を下げたままで構えもせず。彼女は自身を包囲する騎士達に向かって歩いてゆく。

｢ああ、楽しいですね。ユキちゃん――｣





何時もならば我先にと先陣を切り、敵陣へと乗り込んでいく26部隊の面々もまた、その様子を茫然とした様子で眺めていた。

｢うわあ……凄いね、お兄ちゃんのお姉ちゃん……｣

ミリアが呟く。
行綱とクロエの駆る魔界馬さえも上回る速度で、滑るように地を駆け抜けていった彼女。
一度その得物を振るえば、それだけで十人からの騎士達が薙ぎ倒される。
一度その指を振るえば、それだけで百に届こうかという騎士達が蒼い爆炎に包まれる。
それはまるで行綱の技量にクロエやほむらの身体能力、そしてヴィントとミリアの魔力を全てその身ひとつに宿しているかのような大立ち回り。それをまるで、花の周りを舞う蝶でも愛でるかのような穏やかな笑みを浮かべたまま行っているのだ。

｢いや行綱、ホントお前の姉ちゃんちょっと凄すぎないかアレ……さっさと追いつかないと、あたし達の出番がなくなっちまうぞ｣
｢…………｣
｢……行綱？｣

反応が無い事を怪訝に思ったほむらが振り返ると、行綱はどこか心ここにあらずといった様子でその光景に目を向けていた。

｢あの、行綱さん。どうかされましたか？｣
｢……すまない。少し、別の事を考えていた｣

続くクロエの呼びかけに、ようやく返事を返した行綱だが……その返答に彼女達は違和感を覚えた。まず、彼が戦場に居るというのに上の空などという事が異常事態だ。
ましてや、肉親が目の前で戦っているという状況を考えれば、その様子は不自然極まりないと言えるだろう。

｢……問題ない。行こう｣

だが――彼女達が言葉を続けるよりも先に。青年は兜を深く被り直すと馬の腹を蹴り、敵陣へと向かって行ってしまったのだった。

｢…………｣

そんな彼らの様子が映し出された水晶を、魔王城の一室からアゼレアが見つめている。

だが、その様子はいつものように行綱を視線で追いかける恋する乙女のそれではなく。かといって、冷静に戦況を見通す魔界軍師としてのそれとも程遠い。それは、まさに心ここにあらずといった様子で。

『……もう。二人での食事には、誘わないで欲しい』

昨日。出撃前に執務室に現れた彼は、そう言った。
ただ、本当に。その一言だけ。

『え…………』

アゼレアは男がそのまま踵を返して部屋を出て行くまで、その言葉の意味を聞き返す事も出来なかった。
だって、聞くまでもなく分かってしまったから。
普段の眼とも、戦場で敵陣に向かう時の爛々とした目とも違う――これまでに見た事のない、まるで鉄のように無機質な瞳から、冷たいまでの拒絶の意思がはっきりと分かってしまったから。

｢…………｣

……胸が、痛い。苦しい。
一体、自分は何を間違ってしまったのだろうか・
鈍痛のような胸のざわめき。一晩経っても、収まるどころか激しさを増し続けるその感覚は、まるで良くない事が起こる前に感じるそれを何十倍にも煮詰めて濃縮したような――

｢……え？｣

待て。いや、そんなまさか。
そこまで考えて。アゼレアは自身の背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
何を間違ってしまったか、ではなく。
今この瞬間も、自分は致命的な間違いを犯し続けているのではないかという悪寒。

｢大変です、アゼレア様！！｣

それはまるで、答え合わせのように。
顔を蒼白にするアゼレアの執務室へと、一人のサキュバスがただならぬ様子で飛び込んで来たのだった。





――――――――――――――――――――





それは、遡る事少し前の事。
教団内にシスターとして潜入していたアゼレアの部下は、人の気配の無い夜の聖堂を独り歩いていた。

｢…………｣

慎重に。足音を消しながら。
もうすぐ、彼女のターゲットである司教の意見が大きく反映された魔界遠征部隊――大きな人員投入としては最後となる大部隊が魔界へと到達するのだ。
一度魔界へ侵入してしまえば、そこからは伝令を送る事すら容易ではない。つまりその後は、現地の指揮官が全てを取り仕切る事となる。
もうターゲットを泳がせておく必要はない。
つまりは、この任務の報酬を持ち帰っても良いのだ。
先程彼が部屋へと戻ったばかりだという事は、既に確認済み。
抑えきれない昂ぶりの滲んだ笑みを浮かべ、彼女は彼の部屋の扉をノックした。

｢司教様、夜分に申し訳ございません｣

だが、反応はない。

｢…………？｣

扉の隙間からは微かに明かりが漏れており、既に眠ってしまっているという訳でも無さそうなのだが。
続けて数度強く扉を叩いてみるものの、やはり反応は無く。怪訝に思った彼女はドアノブに手を掛け――そしてそれは、何の抵抗も無く回ってしまう。
鍵が、かけられていない。

｢司教様っ！？｣

果たして――ドアを開けた先には。
中身が散乱した何らかの薬瓶と共に、真っ青な顔色の司教が床に横たわっていたのだった。





――――――――――――――――――――





｢舞さん、舞さんっ！？｣

――接敵より三十分足らず。その僅かな間に、戦況は大きな変化を迎えていた。

クロエがいくら呼び掛けても、ぐったりと四肢を投げ出した舞からは眉を微かに動かすほどの反応すら返ってこない。
そうして、地面に倒れているのは彼女だけではなかった。

｢おい、今ちょっとマジでシャレにならねぇ状況だから手加減とか出来ないからな！？来るなら本気でブン殴るぞコラ！？｣

そうして、幾重にも自分たちの周囲を包囲する兵士達を威嚇するほむら。そして同じく周囲に視線を配りながらも口早に回復魔法を詠唱し続けるヴィント。
現状の彼女達の中で動けるのは、その三人だけ。

｢…………｣

ワイバーンのクレアとバフォメットのミリア。
戦闘能力に優れた彼女達の中でも、特にその能力が突出した上位種族の二人までもが、完全に意識を失っていた。
そうしてそんな彼女達の中には、彼が居ない。

｢無事だよな行綱！？こいつらが起きたらすぐにお前に合流する！だから――それまで『そいつ』とだけは戦うんじゃねぇぞ！！｣





倒れた三人を庇いながら周囲を包囲された彼女達とは対極的に、行綱はただ一人の相手と対峙していた。
しかしながら、その状況は彼女達よりも遥かに危険なものであると言っていい。

｢っ、はぁ、はぁ……ッ！｣

滝のような汗と幾筋もの血を流し、大きく肩で息をする彼と対峙する者こそが――彼の姉と仲間達を一撃の元に沈めた、張本人なのだから。

｢…………｣

歳は十代の半ばほどだろうか。すらりと伸びた長い手足。まるで美しい少女と見紛う程に整った顔立ちと体つきをした、金髪碧眼の少年。
確かに行綱の姿を焦点に捕らえ続けているその瞳には、しかしまるで良く出来た人形のように何の感情も浮かんではいない。

敵意はおろか――興味すらも。

｢っ…………！｣

血と汗で滑る刀の柄を握り直し、呼吸を整えながら――焦燥と共に、行綱は奇妙な感覚に囚われていた。
それは、まるで鏡を見せられているような感覚。

ただただ力のみを持ち。
己の感情すら持たず。
ただ、命じられた者に刃を向ける。

すなわちそれは――自分の本来あるべきであった姿ではないか、と。