連載小説
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第四話
山中に響く音は時間と共に絶えず変化する。夜明けを告げる鳥達の鳴き声、日中に動き回る動物達の声や、木々を揺らし吹き抜ける風の音。
だが、山頂にほど近いこの滝の周囲には、例えそれがどんな時間であれ、絶えず叩きつけられる水の音が響き続けていた。
その滝の見た目を一言で表すならば、荘厳という言葉が最も相応しいだろう。水源にほど近い上流という事もあって水量は見た目程多くはないが、その滝口は下から見れば遥か見上げる程に高い。その高さから細かい飛沫などは地面に付く事なく霧に変化して周囲を覆っており、それがその滝を見た者に与える印象をより神秘的な物にしていた。

そんな滝の下、水面から顔を出した大きな岩の上に胡坐をかき、落水をその身に受けている影が一つ。

「…………」

聞こえるのは滝の轟音。肌に感じるのは凄まじい勢いで叩きつけられる水の衝撃。
感じる事が出来るのは、それが全て。その極寒の水温も相まって、常人であれば一秒としてその場に居られないであろう環境の中で、しかし彼女は静かに目を閉じ、精神を集中させている。

そんな隔絶された世界の中で、閉じた瞼越しに微かな光を感じた彼女は、うっすらとその目を開いた。

「……ん。もう、朝か」

その台詞からして、まさか一晩中この滝に打たれていたとでも言うのだろうか。
滝の水圧をものともせずに立ち上がった彼女――ランは、静かに半透明な水のカーテンをくぐった。
向かいの山の陰から、白に近い橙色の太陽が顔を見せ始めている。山の中腹から下、麓の里などにはまだこの光は届いていないのだろう。遥か下方に見える人里からは、まだ竈の煙も上がり始めていない。

水から上がり、木の枝で昨晩から未だ小さな火が燻り続けている焚き木の灰を払う。灰の下から大きな土団子のような物を数個取り出すと、乾燥した小枝を代わりに数個放り込む。少し息を吹き込めば、瞬く間に火は枯れ枝に燃え移り、その勢いを増し始めた。
発情期を迎えてからというもの、身体はずっと熱くて仕方がない。暖を取る必要はないが……今日は、彼女の唯一の弟子と試合をする約束の日だ。身の着のままで寺を出て来てしまった為、今の自分は替えの服を持っていない。寺に向かう前に乾かしておかねば、少年に何事かと心配されてしまう。

……ああ、少年。
もう、二週間も会っていないのか。

ランは先程灰の中から取り出した土団子を、慎重にぱきり、と割った。中から出てきたのは――開かれた腹に香草が詰め込まれた、よく火の通った川魚が数匹。
内臓を取り出し代わりに香草を詰めた川魚を、大きな葉で巻く。さらにその外側を粘土質の泥で包んだものを火の中に入れて、そのまま蒸し焼きにする。冒険者などが、調理器具のない野外でキャンプを張る時に使う調理法だ。
たちまち、食欲をそそる香ばしい香りが周囲に漂い始めた。……が、それを口に運ぶランの動きは緩慢なものだ。よく見れば、焚き木の炎に照らされたその目の下には、うっすらとクマが浮かんでいるようにも見える。

思い返せば、自分が出て行く時のメイは何やら妙に張り切っていた。
彼女の実力や手腕に疑いはない。リンというブレーキ役だっている。だが……少年は無茶な修行をして、つらい思いなどをしていないだろうか。

腹ごしらえを終え、土を被せて焚火の跡を消す。衣服も自らの毛皮も、もう十分に乾いていた。
差し込む朝日を水飛沫が反射しキラキラと輝かせている滝に背を向け、山の中腹程にある廃寺へと足を進ませる。

もしくは――この二週間、身体も心も許してくれる二人の師匠と共に過ごす中で。
今度こそ、本当に……少年にとっての自分は、いらない存在になってしまっていないだろうか。

そんな事を考え始めると、気が気でなくて。そんな胸中とは対極に熱くなり続ける身体が腹立たしくて。ランは結局、この二週間まともに一睡も出来ていなかった。
いけない。全くもって自分らしくない。こんな調子では、今日に向けて特訓をしてきたであろう弟子に申し訳が立たない。

「……いかんな。こんな情けない姿を少年に見せる気か、私は」

そうだ。二週間ぶりに、可愛い可愛いただ一人の弟子に会えるのだ。一体自分は何を落ち込んでいる。

目的地に近付くにつれ、彼女の足取りは軽くなってゆく。
今日は一体、どんな修行の成果を見せてくれるのだろう。どれだけ自分の期待に応えてくれるのだろう。

そんな想いを抱きながら、彼女は寺の門をくぐったのだった。





――――――――――――――――――――





「お久しぶりです、ラン師匠」
「ああ。久しぶりだな、少年。……ふむ。少し見ない間に、随分といい面構えになった」

寺の庭には、既に準備万端といった様子の弟子と、それを後ろから見守るメイとリンの姿があった。
朝のそよ風を正面に受け、棍を片手に立つ少年の手足には……もう小さな火花などではない、しっかりとした炎が宿っている。顔つきも、心なしかより精悍な物に変わっている気がした。

「ええ。この二週間は、本当に必死で修行しました。……ラン師匠に、勝つために。今日は、その全てをぶつけます」
「……ほう?」

ランは弟子のその言葉に、小さく驚いた。普段の弟子ならば、『師匠に認めて貰う』というような言い回しをしそうなものだが……どうやら、余程やる気に満ちているらしい。
それはとても良い事だ。この二週間の修行の成果、しっかりと見せて貰う事にしよう。

「……ラン、大丈夫なの?目にクマが出来てるけど……」
「ルウくんには棍を持った状態で始めて貰いますけど、いいですよね〜?」
「……ああ、問題ない。始めてくれ」

魔物は生まれつき、あらゆる面で人間を遥かに凌駕する身体的特徴を備えている。もちろん人虎たるランもその例外ではない。
強靭な肉体、凄まじい反射神経、破壊力抜群の巨大な拳、その重心を自在に操る尻尾、金属すら紙の様に切り裂く爪……ましてや、相手は子供。その差からすれば、武器の一本や二本など誤差の内にも入らない。

二人の師弟は庭の真ん中で、静かに向かい合い……互いの胸の前で握った左手を、右手で包んだ。

「いざ」
「いざ」

礼を終えると共に、師弟は静かに構えをとる。
ルウは半身を引き、両手で握った棍を腰の高さで構えて。
ランは深く重心を落とし、弟子と対になるような半身の構えで。

「はっ!」

気合の声と共に、ルウは棍を構えて踏み出した。空気を切り裂く音が遅れて聞こえる程の鋭い一閃。ランは僅かに身体を逸らしてそれを避けるが、円を描く棍の運動は止まらない。すぐさま二撃目がランの胴目掛けて振り抜かれる。
鞭のようにしなりながら迫るそれを半歩分後ろに下がる事で躱しつつ、ランは驚きに目を開いていた。

――これは、なかなか……

棍とそれ以外の棒術で使われる棒の大きな違いは、そのしなりにある。棍の先端まで正しく力が伝わっている事を条件に発生するそのしなりは、末端速度の加速による破壊力の増加と、敵の目測を大きく狂わせる効果を生む。
しかし、彼が使っている棍はメイも愛用する魔界ヤナギ製。選別された良質な素材で作られたそれは魔物の力にも耐え、名剣と切り結んでも傷がつかない程に強靭なもの。よほど正しく力が伝わっていなければ、こうまでは見事にしなるまい。
そしてそれに必要不可欠な――彼の目下の課題でもあった、動きの硬さがない。適度に肩の力が抜けている。教えには忠実に、しかし型には拘り過ぎる事無く。武器の優位を生かし、絶妙に有利な距離を維持している。
少年はまるで己の手足のように棍を操り続ける。時に長く持ち薙ぎ払い、時に短く持って打ち据える。打つ。踏み込んで打つ。身を翻しながら打つ。下がりながら打つ。
その動きは一振りごとに鋭さを増しているようですらあった。事実、始めは紙一重で全ての攻撃を見切っていたランが、攻撃を防ぐ為にその手足を使う回数が徐々に増えてきているのだ。

「……っ」

一見優勢に見えるルウだが、その顔にはむしろ焦りの色が浮かんでいた。これだけ一方的に攻めてもその全てを危なげなく防がれている。すなわちそれは、それだけ完璧に攻撃を見切られているという事に他ならない。
何より、ランのその目――驚きが半分と、こちらを観察しているような様子が半分のその目が、現状が彼女の本気とはかけ離れているという事を物語っていた。
だが、それならば今こそが何よりのチャンス。ランがまだ師匠としての立場から自分を観察しているこの間に、何とかして一撃を入れ、主導権を握る事が出来れば――!

「はぁっ!!」

身体を回転させながらの、全体重を乗せた打ち下ろしの強打。脆い岩石程度ならば砕いてしまうであろうそれを、ランは鍛え上げられた前腕部をもってして顔色一つ変えずに受け止める。
防がれたルウはすぐさま棍を引き戻し、間髪入れずに鋭い踏み込みと共に突きを放った。これも素晴らしい。棍の中心の軸が一切ぶれていない。振る時とは逆に棍が一切しなっておらず、突きの威力が殺されていない。

だが。

「……男子三日会わざれば括目して見よ、とはよく言ったものだな」

その先端がランの身体に届く寸前で。
虎の腕に掴まれたその棍は、ぴたりと静止してしまっていた。

「っ……!?」

動かない。動かせない。
どれだけ力を込めても――まるで山肌にでも棍を突き立てているかのように、これっぽっちも動かせない!

「だが――」
「ルウくんっ!棍から手を放して下さいっ!」

慌てたようにメイが弟子にかけたその言葉は。ほんの少しばかり、タイミングが遅かった。
焦ったルウが棍を引き戻そうと力を込める。まさにその瞬間を感知したランが、それに合わせてその怪力で素早く棍を引き上げたのだ。

結果として。
呆気ない程にふわりと軽く、少年の身体は宙に浮いた。

その身体が向かう先には――巨大な虎の拳を握り固め、深く重心を落としているランの姿!!

「メイの域には、まだ程遠い」
「っ!?」

強烈な踏み込みと共に放たれる、右拳の一閃。
それは破裂音にも似た音と共に、少年の身体を木の葉のように吹き飛ばした。

「リンっ、ルウくんが!ルウくんがっ!?」
「ちょっと苦しいから抱き着かないでメイ!胸で前が見えないから!ルウがちゃんと身体と拳の間に棍を入れてたの見えてたでしょ!?」
「見えてましたけどっ!でも、そんなんじゃランの拳は――」
「……いえ、ギリギリで大丈夫だったみたいよ」

吹き飛ばされたルウは地面に叩きつけられる直前でとんぼを切り、やや体勢を崩しながらも足裏での着地に成功する。
リンの言う通り、棍での防御は間に合っていた。だが、その衝撃を完全に殺す事は出来なかった。火鼠の衣が宿るルウの両腕には、ランの拳の威力を物語るようにビリビリとした痺れが残っている。

――そして、何よりも。

「……っ」

ルウの手の中にある棍は――ランの拳を受けたその場所から、完全に折れ曲がってしまっていた。

少年の額に、冷たい汗が伝う。
この棍のしなりが、ギリギリまで衝撃を吸収してくれていなければ。
もしくはあと僅かでも力が加わり、完全に両断されてしまっていれば――

「どうした、少年。もう終わりか?」

師匠の声に、ルウがハッと顔を上げる。
そうだ、今は余計な事を考えている場合なんかじゃない。まだ出来る。自分は今まで師匠達から教わった事の、半分も出し切っていない。
折れ曲がった棍を静かに足元に置き、両手足に宿る炎の力で己の心を奮い立たせる。

「――いえ、まだです。まだまだやれます!」

無手のまま師匠に向かって構え直し、少年は答えた。
身体を傾けず、ほぼ正面を向いた形で軽く腰を落とす。開いた右手を前に。左手はそれに添え、呼吸は自然に任せる。
彼の師匠の一人、リンが最も得意とする構えだ。対してランは、深く腰を落とした半身の姿勢。

見ているだけで息が詰まるような緊張の中。
師弟の間合いが、じりじりと縮まってゆく。

「……ねぇリン。ランは思った以上に調子が悪いみたいですね〜?」
「ええ。これなら本当に、ルウにも勝ち目があるかもしれないわ……!」

万全のランの拳であれば、例えそれが樹齢百年を超える魔界ヤナギの原木であろうとも容易く打ち砕く威力を持っている。それでもメイであれば練った内功を棍に伝わせ、ランの拳を受けられる程までに強度を上げるといった芸当も可能だが……まだ未熟な少年には、そこまで高度な技術は難しい。
そもそも普段の彼女ならば、あの程度の攻撃を防ぐ為に手足など使わない。

つまり。ランは今日まで雄を求める発情期の本能を押し殺す為に、相当の気力と体力を消耗している。
あと少し。あと少しだけ、彼女の平静を乱す事が出来れば……!

「――ふッ!」

そんな二人が見守る中、師弟が同時に前へと一歩を踏み出した。
ランのそれは攻撃の為。凄まじい震脚によって彼女の見かけ上の体重が一瞬だけ数十倍まで膨れ上がり、その全てが乗せられた右拳がルウへと襲い掛かる。
ルウのそれは接近の為。自分は力や技量もさることながら、まず手足の間合いで大きくランに劣っている。だからまずはその距離まで近づかねばならない。

すなわち、彼女の打撃力を殺し。己の短い手足を最大限武器に出来る距離――零距離に!

ルウは己に迫りくる拳に正面から飛び込み、その側面に右手を打ち込む。
だが、重い。先程棍を掴まれた時と同じ。ピクリとも動かせない。打ち落とせない。逸らせない。

――逸らせないなら……!

ルウは瞬時に動きを切り替えた。打つのではなく、掴む。ランの腕を掴んで引き込み、そこを軸に自身の身体を回転させる事で拳を避けると同時、一瞬でランの体へと肉薄する。
そうしてランの上腹部――鳩尾目掛けて、回転式の肘打ちを叩きこむ!

「……っ!」

防がれた。
見なくても分かる。肘を打ち込んだ先に感じたのは骨や筋肉、内臓の感触ではなく、ぷにぷにとした肉球のもの。もう一方の手で受けられたのだ。
でも――少年は即座にランの姿を正面に捕え直す。近い。互いの肘すら届く距離。接近は、成功した!
歩幅は狭く、腕を短く使う。拳は中指から小指の三本で打ち込む。突き。防がれる。打ち下ろしの拳が迫る。速度が乗る前に、出鼻を打って逸らす!

四肢に宿る火鼠の炎が、勢いを増す。
木人と呼ばれる独特の訓練器具で鍛えた超接近距離からの打撃と、組手で培った接触感覚!
無駄を極限まで省いた、最短最速最適の体術。それが彼がリンから学んだ拳技!

「――ほう」

拳。手刀。掌底。肘打ちに腿。互いの息がかかるほどの至近距離で四肢を振るうルウの攻撃を捌きながら、ランは素直に感心していた。
無論先程の棍と同じく、全体として見ればその動きは自分達に遠く及ばない。
だが――例えば、そう。先程の棍に全体重を乗せた打ち下ろし。接近の際に拳を逸らせないと判断した後の咄嗟の反応。そういった一瞬の動き一つ一つの中に、時折メイやリンの動きが重なって見える事があるのだ。
十歳を少し越えた現在で、これなのだ。いずれは本当にこの弟子が自分を制し……メイやリンと共に彼の腕の中に抱かれ、その胸に頭を寄せて眠る日がくるのかもしれない。


そう……『いずれ』は。


ルウとラン。双方が同時に放った拳を、互いの空いた手で捕える。力で劣るルウはやや押されるが、ランにとっては拳に力を乗せにくい距離である事と、火鼠の衣によって引き上げられた身体能力を以てして何とか踏みとどまった。
互いの両手が封じられた体勢。それは思考か反射か。リンとの組手の中で幾度も仕掛けられた動きを、ルウの身体が自然に模倣する。腿だ。足技は威力が高い代わりに、相手にそれを掴まれると途端に不利な状況に陥ってしまう。

「っ!?ルウっ、蹴っちゃ駄目っ!」

だが、互いの両腕が封じられているこの状況ならばその心配はない。少年はガードの空いているランの左脇腹目掛けて右膝を跳ね上げ





その瞬間に、地面に接していた左足を払われた。





「……あ」

支えを失い、蹴り上げた勢いのままぐるりと回転する視界の中。少年はようやく気が付く。師匠は自分に、先程の拳をわざと掴ませたのだという事に。自分以上にリンの動きを知っているランが、それを模倣している自分がどう動くかなど――予想できない筈がない。
恐らくは脇の防御が空いていたのも、わざとだったのだ。比較的安定感のある下半身を狙った腿法ではなく。重心を浮かせざるを得ない、中段以上への蹴りを誘う為に。

ルウとランの視線が交錯する。
ルウは完全に虚を突かれ、呆気にとられたような目でランを見ていた。状況に思考が、そして思考に表情が追い付いていないのだ。
ランは未だ戦いの中にありながら、我が子の努力を見守る母親のような、慈しみに満ちた目で弟子を見ていた。

「……少年の努力は、この肌身を以て十分に感じさせて貰った」

宙を舞うルウの体に、ランの拳が押し当てられる。

「これからの成長に、大いに期待している」

先程足払いを仕掛けた己の右足を、踏み下ろす。
防御などしようもない零距離からの発頸が、少年の身体を吹き飛ばした。


20/10/06 22:28更新 / オレンジ
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■作者メッセージ
当初の予定では前話この話次回の話を一話に詰め込む予定だったみたいです。

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