連載小説
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第三話
常ならば少年とその師匠達が修行に励んでいる寺の庭は、一種異様なまでの緊張感に包まれていた。
その中心に居るのは、この捨てられた寺に住む魔物二人。火鼠のリンと人熊猫のメイだ。

「…………」

二人の様子は、普段とはまるで違っていた。常ならば絶えずニコニコとした笑みを浮かべているメイの目は薄く細められ、氷のように冷たい輝きすら放っている。この姿だけを見て普段の彼女の様子を想像出来る者はいないだろうし、逆に普段の彼女の様子だけを知る物が今のメイの姿を想像する事も難しいだろう。
そんな絶対零度の闘気を、対峙するリンは真っ向から受け止めている。余りにも激しく燃え盛る彼女の炎は、もはや四肢や尻尾だけに留まらず全身を包む程の猛火となり、その体は己の発した熱で歪む陽炎の中にゆらゆらと揺れていた。
向かい合った二人は無言のままに一歩を進め、互いに胸の前で右手の拳を広げた左手で包む。

「「いざ」」

彼女達の弟子たる少年が見守る中、視線を互いから外さないままの包拳礼を終えると共に、二人は静かに構えを取った。
リンは身体を正面に向けたまま僅かに重心を落とし、五指を揃えた右前の開手で。
対するメイは半身を引き、両手で握った棍を腰の高さで構える。

一呼吸。

次の瞬間。
引かれ合うように音も無く加速した二つの影が、一瞬にして交錯した。

聞いた者の背中が思わず粟立つ程に鋭い風切り音が、ほぼ同時に二回。
火の粉と共に、はらはらと宙に舞う赤色の髪の毛が数筋。
二人の戦いを傍で見ている少年には、たった今自分の目の前で起こった筈の出来事を理解出来なかった。
風切り音の数だけ振りぬかれた筈の棍の軌道。それを防いだ、もしくは躱した筈のその動き。
確かに目の前で行われている筈の攻防だというのに。確かにこの目の前で起きている筈の光景だというのに。それを認識する自分の目が追い付かない。
二人の距離が、一度大きく離れる。氷のように冷たく細められた目と、見開かれた中に炎を宿した瞳。互いが互いを、その視線で射抜いたまま。

「ふっ!」

次に少年の目が二人を捕えた時には、既にメイの手元にまで踏み込んだリンがその拳を振るっていた。
一体どれほどの速さでその間合いまで踏み込んだのか。だがやはりメイも尋常ではない。残像と火の粉を散らしながら振るわれるリンの手足を、後退しながらもその棍一本で巧みに防ぎ切り、再び間合いを離す隙を虎視眈々と狙っている。



何故、この二人がこれほどまでに本気で戦っているのか?
その発端は、本日の朝食の時間にまで遡る――





――――――――――――――――――――






「………………」

――何だ、これは……。

麓の村での買出しと手伝いを終え帰ってきたランは、朝食の席に着きながら困惑していた。

「は〜いルウ君、あ〜んして下さい〜♪」
「ちょっとメイ、ただでさえルウを抱っこしてるのにズルいわよ!……ほらルウっ、こ、こっちもあ〜んしなさい……?」
「は、はい……」

朝食とは思えない程に多くの料理が並んだ食卓を挟んだ反対側。そこではメイの膝の上に乗せられ、横にはそっとリンに肩を寄せられて座っているルウが、二人がかりで次々と料理を口へと運ばれていた。
身体を寄せ合って座る三人の頬はうっすらと朱く色づいており、空間に漂っている桃色の空気は濃厚過ぎて目に見えてしまうのではないかという程だ。
……一体、自分が昨日一日ここを空けている間に何があったというのか。そんなランの疑問は、向かいに座っている少年の両手首に起きている変化に気が付いた瞬間に氷塊した。

――ああ……。

良く見れば、少年の手首の周囲にはチリチリと僅かな火の粉が舞っているのが見える。だが、少年はそれを熱がるような様子もなく。ならばアレは間違いなく『火鼠の衣』がルウの体に燃え移ったもの。
火鼠が身に纏う毛皮の炎は、男性との性交を通じてその相手へと燃え移るという特性を持っている。ランも旅の途中、共に身体に炎を纏う男性と火鼠の夫婦を何組か見た事があった。
あれが誰から燃え移った火なのかは……考えるまでもない。この寺に居る火鼠はただ一人。リンだけだ。

つまり。

――そうか。リンも、少年と……。

その考えに至ったランの胸に、じくじくとした痛みが走る。何故か、これ以上そんな三人の姿を直視したくなかった。『食事の席だ、慎め』と、そんな言葉が口から出て来そうになった。

だが。

「ルウくん、あ〜ん♪」
「ルウ、あ、あ〜ん……」
「あの、師匠方っ!?そんな一度には食べられませんっ!?」

言えなかった。困ったような顔をしている少年の声には、同時にとても幸せそうな響きが含まれていたから。少年がそんな風に甘えるような仕草をしているのを、初めて見てしまったから。
思えば、少年は幼い頃にこの寺に入ってから、ずっと自分達という『師匠』と共に生活をしてきた。
自分はルウの事を弟の様に、家族のように思って接していたつもりだった。

だが……ルウ自身は、この環境をどう思っていたのだろうか。

彼という生真面目な少年は、常に周囲を三人の師匠に囲まれた生活で……果たして、心休まる時間はあったのだろうか。
そんな彼が、メイやリンと交わる事でそんな心の壁を取り除き。あの二人に対して、初めて心から甘えられるようになっているのだとしたら。
そんな風に考えると、ランの口からは言葉が出て来なくなってしまった。

「…………」

ランは無言で食事を口に運ぶ。
いつもと同じ、いや、いつも以上に力が入っているように見えるリンの料理の数々だというのに。なぜかとても味気の無い物に感じられてしまう。
ふと、いつもよりも緩んだ表情のリンと、目が合った。

「えへへ……♪」

幸せそうな、照れてはにかんだような笑み。メイも同じものを顔に浮かべている。かつての旅の途中で、幾つも、幾つも見てきたその表情。
夫を手に入れた、魔物の顔。
彼女達二人は、もう完全に少年の事を共有の、自分達の夫だと認識しているのだ。

無論、それは喜ばしい事の筈だ。メイは勿論の事、普段は強気なリンだって魔物娘。いずれは夫を迎えない訳がない。その相手がルウならば、素性や性格の心配もない。
なのに。なのに。

「…………っ」

なぜ、こんなにも胸がざわつくのだ――?

「ルウくん、私のデザート一緒に食べますか〜?」
「……あの、多分僕がそれを食べると、お腹を壊してしまうと思うんですが……」

メイとルウの会話に、ふと顔を上げる。ルウを膝の上に乗せたままの体勢で、小さな竹の枝を持ったメイがその葉を数枚ずつちぎり、美味しそうに口に運んでいた。

「あ、あれ……?」

それを勧められた少年は、最初は苦笑しながら遠慮していたものの。やがて、不思議そうな顔をしてその葉を一枚手に取った。まるで、生まれて初めて竹の葉を見たような……もしくは、自分の記憶の中にある竹の葉という物と、目の前にある物の間に齟齬を感じているような。そんな顔だった。
そして……少しの逡巡の後、それを口に運んだ。

「っ!?メイ師匠、これ美味しいです!!」
「うふふ、この葉の良さが分かるとは、ルウ君も大人になりましたね〜♪」
「いやメイ、それ大人とかそういうの関係ないから……」

冷静に突っ込むリン。だが、少年の体に大きな変化が起こり始めているという事は確かだった。
房中術によって魔物と気を交換した人間がある程度まで魔物に近い存在に変質すると、その相手となった魔物の特徴が現れ始める事がある。
例えば水棲の魔物であれば、水中での生活能力と遊泳能力。
例えば空を飛ぶ魔物であれば、高高度での薄い空気と低温度への適応。
リンの『火鼠の衣』も、広義で言えばそういった変化の部類に入るだろう。だが、あくまでも『火鼠の衣』は一時的な変化。一度交われば燃え移るが、受け取った分が燃え尽きてしまえば終わりの軽微なもの。
だが、今ルウの体に起こっているのは『食性の変化』。味覚や嗜好、消化能力といった、より体の深い部分からメイに近い存在へと変化ているのだ。

つまりそれは、少年の身体が完全なインキュバスに変わりつつあるという事。
気の交換の効率を上げる為、最近のリンの料理にとろけの野菜が使われていた事や、メイが交わりの際に夫婦の果実を食べさせていた事を考慮しても、獣人の魔物が男性をインキュバスに変化させる期間としては、かなり短い。
つまりは、それだけ良質な気の交換――愛情の籠った交わりを、数多く交わしているという事だ。

「ランっ、この様子なら思ったよりも早くルウくんを旅に連れて行ってあげられそうですねっ♪」
「……ああ」

複数の魔物と交わる男は、より早い速度で強力なインキュバスへと変化してゆく。リンも加わるとなれば、本当に……あと数週間もしないうちに、少年の旅立ちの準備は整うのだろう。
ランが箸を運ぶ手が、静かに止まった。少量の料理が残ったままの取り皿と共に、それをことん、と机の上に置く。

「……すまない、どうも今日はあまり食欲がないようだ。……少年、私は先に庭で待っているぞ」
「あ、はいっ、ラン師匠!」
「……あ。ルウ、口の周りが汚れてるわ。ほら、こっち向きなさい?拭いてあげるから……」
「んっ……えへへ、ありがとうございます、リン師匠っ」

静かに席を立ち、背を向けて去っていくラン。
リンとルウの二人は、そんなランの沈んだような様子に気が付けていなかった。それも仕方のない事だと言えるだろう。今まで色恋沙汰を避けて通ってきたリン。それが一晩の内に、己の可愛い弟子が夫という役目も兼ねるようになってしまったのだ。リンはそんな少年の食事の世話をする事に夢中だったし、ルウはそんな師匠に甘える事に夢中だった。

「……ラン……?」

ただ一人――幾分かは二人よりも冷静なメイだけが。心配そうな目で、部屋から去るランの背中を追っていた。





――――――――――――――――





ルウが初めてメイと交わったあの日、確かに自分は平静ではなかった。
寂しかった。少年が、弟のように大切に思っていたあの子が、何か自分の手の届かない、知らない存在になってしまう気がして。その気持ちを紛らわせようと、久しぶりに一人で酒を飲んだ。
だが、酔いの回りとは裏腹に、少しも気分は晴れてくれない。空に浮かぶ満月さえ、そんな自分の気持ちを慰めてはくれない。

そんな時だった。廊下の方から、聞き慣れた足音が聞こえてきたのは。
間違いない。少年の足音だ。少し足取りがおぼつかないのは、寝起きだからだろうか。その足音は、徐々に自分の方へと向かってきて――最後の角を曲がった所で、ぴたりと止んでしまった。

『……ん、少年か』

いつも通りを装ったその声を出すのには、とても神経を使った。ただ振り向くというその行為にも、何故か勇気が必要だった。
そうして、自分の目に映ったのは――

『ちょうどいい、少し話したい事があったんだ。まぁ、座れ』
『は、はいっ』

――良かった。私の知っている通りの少年だ。

当たり前の事だというのに。そんな事が、何故かとても嬉しかった。
だが、困ったのはその後だ。嬉しさから、つい自分の隣に座らせてしまったが……元々は、ただ月を肴に一人酒をしていただけなのだ。改まった話題というのは、なかなか急には思いつかない。

……いや。正確に言えば、頭の中に浮かんできて離れない質問は、あった。

――メイとの夜は、どうだったか。

だが、色恋に疎い自分でも、それはあまりにデリカシーの無い質問だという事は分かっていた。
それに、少年の口からはその答えを聞きたくないという想いもどこかにあった。気になってはいても、聞きたくなかった。
だから……ひとまず、当たり障りのない冗談を言ってみた。

『……少年も、飲むか?』
『え!?いえっ、遠慮しておきます!』
『はは、少年は真面目だな』

あわあわと慌てたように返事をするルウ。やはりいつもと変わらない少年のその姿に、自分の心のもやが晴れていくのがはっきりと分かった。

――そうだ。己の弟子相手に、自分は一体何を警戒しているんだ。

『……その、な。私達は、少年を旅に連れて行ってやりたいと思っているんだ』
『旅に……ですか?』
『ああ』

だから、普通に話す事にした。少年に旅をさせてあげたいと思っている事。彼をメイに任せた理由。自分がかつて旅をしていた時の事。
そんな自分の話を聞くルウの目は、まだ見ぬ世界への興奮と好奇心に満ちていて……弟子の見せる、そんな年相応で素直な反応は、とても可愛いかった。

『少年、私からの話は終わりだ。……明日から、昼間はまたいつも通りの修行だぞ』
『はいっ!』
『うん、いい返事だ。これで私の話はもう終わりだ。……今日は、もう寝なさい』
『はいっ。ラン師匠、おやすみなさい』
『ああ。おやすみ、少年』

そうして、ルウと別れた後。少年との会話を廊下の陰から聞いていたらしいリンと、二人で酒を酌み交わした。
言葉には出さなかったが、彼女もまたルウがメイと床を共にする事に言い知れぬ不安を感じていたのだろう。
少年が見えなくなってから、何時の間にか胸のちくちくとした痛みはまたぶり返してしまっていたが、それでも最初に抱いていたような不安は無くなっていた。
リンもまた、自分と同じ気持ちだったのだ。やはり自分達の動揺は少年の保護者に近い立場から来るもので、いずれは消えて無くなる類の物なのだ。
それに、この痛みを抱えているのは自分一人ではない。一人では確かに苦しいだろうが、リンも同じ思いならば。やがてくるその時まで、動揺を表に出すこと無く過ごす事が出来る。

そう思っていた。
今朝の、リンのあの幸せそうな顔を見るまでは。
リンのあの態度は。師匠や姉のような存在としての立場からではなく……ルウを、この世でただ一人の雄として見ていたからこその反応だったのだ。

「……あの、ラン師匠……?」

ならば、自分はどうなのだろうか。
あの月の晩、彼女と同じ様な顔をして盃を交わしていた自分は。

……いや、そんな事はあり得ない。
まさか自分も、彼との交わりを欲しているなどと――

「ラ、ラン師匠っ!」
「っ!?」

意を決したような弟子の自分を呼ぶ大きな声で、深い思考の海に沈んでいたランの意識は引き戻された。視線を下げれば、不安そうな顔で見上げる弟子の姿。

「その、今の套路、何かマズかったでしょうか?自分では、上手く出来たと思っていたんですが……」
「あ、ああ……」

そう、今はルウの型稽古の最中。腕を組んだ体制のまま考え事に夢中になってしまっていたらしいランは、歯切れの悪い返事を返す。

「その……なんだ。すまない。少し余所見をしてしまっていてだな……」
「っ、ラン師匠が修行中に余所見をするなんて、そんなハズありませんっ!……い、言えないくらいに、酷かったですか……?」
「いや、だから……」

今までどんな欠点があっても隠さずに指摘してくれていた師匠が見せる初めての態度に、少年の顔にはいつになく不安そうな色が浮かんでいる。
これにはランも困った。少年が自分の事をそこまで信頼してくれているのは嬉しいが……それを完全に裏切ってしまっている現状に、それ以上に心が痛む。

「ルウ?何かあったの?」

ランがどう誤解を解いたものかと悩んでいると、葉が付いた竹を持ったメイと片手に湯呑をもったリンが心配そうな様子で庭に姿を表した。どうやら食後のお茶の最中だったが、普段弱音など滅多に吐かない弟子の様子を気にして出てきたらしい。

「ルウくん〜、どうしたんですか〜……?」
「その、ラン師匠が……」
「……あ〜……」

今にも泣き出しそうな弟子の様子を見ておおよその流れを把握したらしいメイが、意を決したような顔でランへと向き直った。

「ねぇラン、やっぱりランもルウくんに抱いてもらいましょう〜……?」
「「!?」」

その横にいた火鼠とその弟子は、一体突然何を言い出すのかと慌てて後ろを振り返る。
一方。

「……いきなり何を言い出すんだ、お前は」

言葉を投げかけられたランは、存外に平然とした様子でその言葉を切り捨てた。

「だって、ランが今みたいになるのって、発情期に入る前触れでしょう〜……?」
「……否定はしないが、そういった話は人目を憚ってして欲しいものだな」

何故か本人でもないのに『なっ、なっ……!?』と顔を赤くし始めている弟子と火鼠を他所に、人虎と人猫熊の師匠は向かい合う。

「ランとの付き合いも長いですが、今回ほど態度が表に出てしまっているのは今までに覚えがありません〜……。やっぱりランも、ルウくんの事が好きなんでしょう〜……?」
「……確かに、少年の事は好きだ」

その返答に、真っ赤な顔の火鼠と弟子が揃って『っ!?』とランを振り向いた。

「だが、それはお前達のような異性としての物ではない。弟子として、そして幼い頃より育ててきた家族としての好意だ。……第一、この身体の初めてを許すのは、私を打ち倒した男にと決めている」
「……むぅ〜、頑固ですねぇ……」

いつもニコニコとした笑みを浮かべている口をへの字に、眉をハの字に可愛らしく歪めたメイが、のんびりとした口調の中にも神妙な様子が混じった声で言葉を紡ぐ。

「ねぇラン。旅が始まれば、壁の無いお外で夜になる事もあるでしょう。宿に泊まる時も、皆で一つの部屋に泊まる事になる事が多くなると思うんです〜……」
「ああ、そうだな」
「……それでも多分、私とリンはルウくんといちゃいちゃするのを止められないと思うんです〜……」
「ああ。元より、私にそれを止める権限などない」

一度夫と認識した異性を手に入れた魔物娘が、その相手への欲望を抑える事など不可能だ。
つまりそれは、今のような生活の比ではなく。ルウと彼女達の交わっている姿を遮る物のない夜が……旅をしている間、何度でも訪れるという事。

「本当にランは、そんな生活を続けられるんですか〜……?」
「ああ、問題な――」

ランは、その台詞を最後まで続ける事が出来なかった。突然ひゅっ、と静かな風切り音が聞こえた次の瞬間には、メイがその手に持っている竹の先が、首筋にぴたりと添えられていたからだ。

「メイ師匠っ!?」
「……びっくりするぐらい反応が遅いですよ、ラン。あなたの不調は、あなたが一番良く分かっている筈です」

メイの纏っている雰囲気が、一瞬にして入れ替わっていた。背を向けられている少年の目からその表情を窺い知る事は出来ない。だが、その声にはいつものメイとは真逆の、氷のような冷たい響きすら含まれているように思える。ルウはそんな師匠の声を、今までに聞いた事がなかった。
ランが今まで保っていた平静が、僅かに崩れた。悔しげにぎりっと歯を鳴らしてメイを睨み……しかし、反論の言葉はその口から出る事なく、押し黙ってしまう。
そんなランに、メイは淡々とした声で告げる。

「……ラン、もう一度聞きます。発情期に入る前からそんな有様で、本当にルウくんを守りながら旅が出来るんですか……?」
「っ……!」

一触即発の師匠二人。その様子をおろおろと伺う弟子を、リンは安心させるようにぎゅっと抱きしめた。四肢の炎が少し強くなっているのも、その魔力によって少しでも少年の不安を和らげようとしているのだろう。

「……はぁ」

そんな硬直した状態のまま、少しの時間が流れて――ため息と共に先に体勢を解いたのは、先に仕掛けたメイの方だった。

「とは言っても、私もランの頑固さはちゃんと理解しているつもりなんです〜」
「……そうか。それは助かる」
「それで、提案があるんですが、いいですか〜……?」
「……何だ」

メイの口調がいつものおっとりとしたものに戻り、竹が首筋から遠ざけられて尚、ランはメイを鋭い目で睨み付けたまま。

「旅に出る前に、ランにルウくんと勝負をして欲しいんです〜」
「メ、メイ師匠っ!?」
「……ふむ。つまり、今の私が少年よりも強い事が証明できれば、最低でも少年を守る立場としての体面は保たれる、という訳か?」

慌てたようなルウと対照的に、メイの言葉を聞いたランはやや拍子抜けしたような声で返事を返した。
逆に言えば、もし負けた場合は……大人しくルウに抱かれろ、という事なのだろう。そしてその状況はルウがランを打ち倒さない限り発生しないのだから、成程何も問題は無いという事になる。

「……それでいいのか?言っておくが、流石にこんな状態でも少年に遅れを取る気はないぞ」
「ええ。勿論今のルウくんがランに勝つのは、私も無理だと思います〜」

『な・の・で♪』と、メイは楽しそうにルウの方向へと向き直った。

「私達に、二週間の時間を下さい〜。その間に、リンと私でルウくんに特訓をつけるんです〜」
「たった二週間でどうなるとも思えんが……まぁいい。それでお前が納得するのなら、受けて立とう」

そう言ってランは踵を返し、寺の門へと歩を進め始めた。
二人が少年にどんな特訓をつける気かは知らないが……少なくともそれが自分を倒すための修行である以上、その手の内を自分が知っていては勝負にならないだろう。二週間は山籠もりだ。
理由は不明だが、発情期を制御出来なくなった自身の軟弱な精神を鍛え直すいい機会だ。久しぶりに山頂近くの大きな滝で滝行でもして――……

「――そうだ、少年」
「は、はいっ」

そんな事を考えながら歩を進めていたランは、ふと足を止め、身体だけルウの方へと振り返った。

「何やら妙な事になってしまったが……今の少年の力を見せて貰う、ちょうどいい機会だ。……二週間後、楽しみにしているぞ」
「っ、はいっ!」

いつも通りの元気な弟子の返事に、僅かに表情を崩し――そうしてランの後ろ姿は、門の向こうへと消えて行った。





―――――――――――――――――――





「ルウくん?ルウく〜ん……?」
「……ルウ、大丈夫?完全に目が点になっちゃってるけど……」

メイの『いいですかぁルウくん?敵を知り、己を知れば百戦危うからずと言います〜。試合に備えて、まずは大体のランの実力を知るところから始めましょう〜♪』という一言により、ランとほぼ互角だという二人の全力の組手を見せて貰っていたルウ。
そんな彼女達の全力を始めて目の当たりにした少年は、口をぽかんと開けたまま。呼びかけにも反応せず、信じられない物を見たような顔で固まってしまっている。

「ル、ルウ?ルウっ!?」
「……はっ!?」

流石に心配になったらしいリンが慌てたような様子で少年の頬をぺちぺちと叩くと、少年はようやく反応した。ほっと胸をなで下ろすリン。

「ルウくん、初めて私達の全力を見た感想はどうですか〜?」

先程まで纏っていた氷のような闘気が嘘のように、ニコニコといつもの笑みを浮かべているメイ。
正気を取り戻した少年は、そんな師匠達に、興奮したようにキラキラと瞳を輝かせながら語り始めた。

「す、凄かったです!全部は見えてなかったですし、見えてても僕じゃ気が付けなかった技術とか、一杯あるんだと思いますけど……それでも、凄かったですっ!」

そんな無邪気な弟子の様子に、師匠二人は満更でもないように顔を赤らめながら頭を掻いて……そうして、やっぱり、と顔を見合わせる。
その自分達と同格のランと二週間後には試合をするというのに、この少年からは危機感や焦りというものがほとんど感じられない。『でも、今のラン師匠は全力を出せないんですよね?』などと、勝つ為の可能性にすがる様子すらない。
この山奥で、周りに居るのは師匠三人だけ。共に高め合う同門も、腕を競うライバルもいない。そんな環境で育ったが故の弊害。

「それで、どうですか〜?ランには、勝てると思います〜……?」
「え、いえっ、そんな僕なんか、とんでもないです!」

互いに全力を出し切る試合を、経験した事がない。経験した試合の全ては、師匠たる自分達との稽古の範疇のみ。
つまり……これほど強くなりたいとひたむきに修行に励んでいるにも関わらず。この少年の中で『勝負に負ける事』は単なる修行の一光景、当たり前の事となってしまっているのだ。

「もうっ、戦う前からそんな事でどうするのよ!『やるからには勝ちます!』くらい言ってみせなさいっ」
「だ、だって……」

少年は困ったような顔を見せた。ルウからすれば、何故リンが呆れた顔をしているのかが分からない。
いくら調子が悪いと言ったところで……師匠達からすれば自分なんて力も技術も駆け引きも本当にまだまだで、まともな勝負が成立するとさえ思えないからだ。

「……っ」

これは、マズい。リンは思った。拳法家としての道を歩むならば、その過程で自分よりも強い相手と戦う事なんていくらでもある。
そうしてそんな相手だというのに、逃げられず、なのに決して負けられない戦いにも――いつか必ず、立ち向かわなければならない時が来る。
そんな時、今のルウのままでは絶対に勝てない。リンがランを挑発し始めた時は何事かと思ったが……恐らくは、相手が誰であっても持てる全てを出し尽くし立ち向かう心。旅に出る前に、ルウにそれを気付かせるのが目的なのだろう。
……何となく、それだけではない気もするが。

ともかく、そんな弟子に何と発破をかけるべきかとリンが頭を悩ませていると、その肩にポン、とメイの大きな手が置かれた。
横を向けば、茶目っ気たっぷりにウインクをしているメイの姿。任せておけ、という事らしい。
そんなメイは、膝を屈めてルウと視線の高さを合わせ、いつもの調子で話しかける。

「ルウ君、考えてもみて下さい〜?本人は自覚が無いみたいですが、ランは誰もが振り返るような美人です〜」
「……?は、はい」
「お調子者や荒くれ者の中には、調子に乗ってランに迫る人もいるでしょう。それでランは、さっきみたいに言う訳です〜、『私がこの身体を許すのは、私を打ち倒した者にと決めている』と」

何となくだが、師匠のそんな姿はルウにも容易に想像出来た。虎の気高さを持つ師匠は下卑た笑いの男にも一切動じる事無く、一言で静かに切り捨てるのだ。
そうして、あっという間に相手をやっつけて――




「それで、ランが負けちゃったらどうしますか〜?」



「っ!?」

唐突に投げかけられた、あまりにも想定外のメイの言葉に、少年は身体を強張らせた。

「そ、そんなこと……!」
「ええ、普通なら太陽が西から上るくらいにありえない事です〜」

でも、と一呼吸置いてから、メイはルウに諭すように語りかける。

「現実として、今のランは、本格的な発情期の前にも関わらず、弟子の稽古中に別の事を考えるぐらいに集中力が保てていません〜。これがもし、もっと酷くなったらどうなると思いますか〜……?」
「っ……!」

耳を塞いてしまいたくなるようなメイの言葉に、少年の脳内でどんどんと最悪の光景が形作られてゆく。
あの師匠は、自分が一度口にした事は絶対に反故にしない。もしそんな事になってしまえば……内心がどうであれ、表面上は平静を保ったままで。下卑た笑みの男に腰に手を回され、そのまま街の人混みの中に消えて――

「そうでなくても、世界は広いですからね〜。ランよりも強い男の人が普通に現れて、ランをお嫁さんにして連れて行ってしまうかもしれません〜。……そうしたらもう、ルウくんはランと一緒にいられませんね〜?」
「っ、い、嫌です!そんなの、絶対に……っ!!」

目を潤ませ、今にも泣き出しそうな声で叫ぶルウを抱きしめながら。メイはよしよし、とその頭を優しく撫でる。

「もちろん、そんなのは私も御免です〜。だから旅に出る前にランに勝って、今のうちにランをルウくんの物にしてしまいましょう〜?」
「……は、はいっ!」
「勿論普通ならとても無理な事をする訳ですから、この二週間はいつもよりずっと大変な思いをする事になりますよ〜……?」
「っ、大丈夫です!どんな修行でもこなして見せます!」

涙目ながらも力強く宣言する弟子の頭を、メイは満足そうな笑みを浮かべてわしゃわしゃと撫でまわす。

「ん〜、ルウくんはいい子ですね〜♪……では、早速特訓を始めましょうか。その前に、一度顔を洗ってさっぱりして来て下さい〜?」
「は、はいっ!」

駆け足で去っていく弟子の姿を満足そうに見守るメイ。

「……メイって、見た目の割に物凄く計算高いわよね……」

そんなメイに、横から一部始終を見ていたリンが、何とも言えないような顔でぼそっとつぶやいた。

「ん〜、何の事ですか〜?」
「……分かってるんでしょ。今ルウに言った状況が、起こる訳無いってこと」
「うふふ、もちろんじゃないですか〜♪」

メイのおせっかいが無ければ、今のランと大差ない状態だったであろうリンには分かる。本人は絶対に認めないだろうが、やはりランもルウの事を男として意識してしまっているのだ。
リンは試しに、今の話のランの立場を自分に置き換えて考えてみたが……結論から言うと、いつも以上の全力で相手を叩きのめせる気しかしなかった。むしろ己の全力を超える相手であっても必ず倒す。この身体をルウ以外の男に許すなど、あってたまるものか。その自覚はなくとも、きっとランも自分と同じ結果にたどり着くはずだ。

「旅立ちの前に、少しでもルウくんを成長させてあげたいのも勿論ですけど……出来ればランの想いも叶えてあげて、四人で仲良く笑いながらの、楽しい旅にしたいですから〜……」
「……ん、まぁそんな事だろうと思ってたけど……」

リンはランが出て行く際に通った寺の正門に視線を移した。
自分の場合は、気恥ずかしさだった。それ故ルウに対する自分の想いに素直になれず、メイに強引に巻き込まれる事で、こうして弟子と結ばれる事が出来た。

ならば、ランの場合は?彼女は何故これ程までに、自分の想いを誤魔化そうとするのか?

「ああ見えて、ランはとってもロマンチストですからね……」
「……そうね」

彼女はきっと、待ち続けているのだ。あれ程の強さを身に着けながらも、いつかそれを備えた自分を乗り越え、自分に愛を囁いてくれるであろう想い人の姿を。
『自分を倒したものに、己の初めてを許す』。彼女の外見や性格から、いかにも女武侠的な響きを持つように聞こえる言葉だが。その本質はきっと、白馬の王子様が自分を迎えに来る事を夢見る西洋の少女のような……憧れのようなものだという事を、この二人は感じ取っていた。
ランの旅路は、己の内の獣と戦いながらという苦行に満ちたものになるのか。それともこのチャンスを少年が掴み、ランに夫として認められる事になるのか。

――……あとはあの子が、どれだけ頑張れるか、ね……。





――――――――――――――――――――





「さあルウくんっ、地獄の二週間のスタートですよ〜♪」
「は、はいっ……!!」
「……メイ、ニコニコしながら地獄とか言うの止めなさいよ。ルウが怖がってるじゃない」

それでも、ルウの目には何時にも増して強い意志が宿っているように見える。『ランを倒す』という途方もなく巨大で、しかし成し遂げなければならない目標が出来た為だろう。
だが、まだそれでも満足ではないらしいメイは、ルウにびしぃっ!とその爪先を突きつける。

「ルウくんっ、この二週間でルウくんがまず鍛えるべきは、技術以上にその心ですっ。どんな事をしてでも勝つんだという気迫!そして己を信じる心それすなわち自信っ!……ルウくんには、この二つを身に着けて貰いますっ!」
「は、はいっ、メイ師匠っ!」
「……具体的にはどうするの?」

リンが聞いた。普通ならば、そういったあれこれは同レベルの相手と切磋琢磨し、勝利を収める中で少しずつ積み重ねていくものだ。彼からその経験を抜かしてしまった事は、完全に師匠たる自分達の落ち度。
だが……本調子ではないとはいえ、あと二週間でランと戦うのだ。それこそ、これからの二週間は地獄と呼んでも差し支えない修行を詰め込んで、それでもまともに戦えるようになるかも怪しい。
今から悠長に山を下りて、同格の練習相手を探して……そんな時間の余裕はない。

「うふふ、そんなの決まってるじゃないですか〜♪」

一体どんな修行が待っているのかと、少年がごくりと唾を飲み込む。
悪戯げに口元に手を当てたメイが、じっくりと間を持たせた後……ぴっ、と一本の爪を天に向かって立てた。

「一つ目は、私達とのえっちです〜♪」
「ちょっとメイっ!?」

一瞬で顔を真っ赤に染めたリンが慌ててメイを引き寄せ、少年に背を向けて小声でメイとのやり取りを始める。

「メイっ、真面目にやりなさいよ!?」
「む〜、私はいつだって真面目ですよ〜?男の子に自信と覇気をつけさせるには、女を抱かせるべしと、古来より相場は決まっています〜」
「……た、確かに、英雄色を好む、とは言うけど……」

思ったより普通に反論され、言葉に詰まるリン。メイは楽しそうに言葉を続ける。

「さらにランをそこに加える野心をルウ君が持ってくれれば、もう言う事ナシです〜♪」
「……むぅ……」

言われてみれば確かにそれは効果的な方法な気もしてきて……リンは何とも言えない顔で口を噤んだ。
それを納得と受け取ったのか、メイは少年の方へと向き直り、二本目の爪をぴっ、と立てた。

「二つ目は、今も少しだけリンから燃え移っている『火鼠の衣』。これをランと戦うまでに、もっと大きな炎にするんです〜」

身に纏う事で精神を高揚させ、身体能力を限界まで引き出す炎。精神だけではなく、肉体的な強化も房中術による変質単体より格段に速く望める。
その火鼠の衣を燃え移らせる方法は――

「――結局えっちじゃない!?」
「えへへ、そうですよ〜?」

期待通りの反応をするリンに笑顔で返し。
その視線を、少年へと移動させる。それにつられるように、リンも。

「……勿論、それだけでは勝てっこありませんから、昼の間は私達のレベルに照準を合わせた修行をするつもりです〜」
「ルウ、その……正直、本当につらい二週間になると思うけど……」
「……はい」

この師匠達が、ここまで念を押すのだ。
本当に厳しい修行になるのだろう。

でも。

「よろしくお願いします!絶対に、弱音は吐きませんっ!」

胸の前で右手の拳を広げた左手で包み、深く頭を下げる。
そんな弟子の返事に、彼の師匠二人は満足そうに顔を綻ばせた。

「ん〜、ルウくんは本当にいい子ですね〜♪」
「ふふっ、それでこそ私達の弟子ね。……さぁ、早速私から始めるわよルウ、構えなさいっ!」
「はいっ、リン師匠っ!!」




こうして――少年が経験した十数年の中で、最も濃厚な二週間が幕を開けたのだった。

20/10/06 22:31更新 / オレンジ
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■作者メッセージ
毎話エロ入るって言ってたんですがここで切らないと分量的にちょっと読みにくくなりそうなので一度切りますゴメンナサイ!

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