散花
――人の体は、余りにも脆い。
「どうした、行綱。早く立て」
「っ、……しかし、父上、う、うでが……!!」
「知っている。今、私が折ったのだから」
まだ幼い少年は取り落した木刀を拾う事も出来ず、額に脂汗を滲ませて叩き折られた腕を抑えている。それを見下ろす父親の目は、あまりにも冷たく。構えた木刀を下ろす事すらなく、我が子へと歩を進める。
少年は後ろにずり下がりながら、実の親に向かって命乞いをするように、折れていない側の腕を突き出し――
「っ、待って――」
「胴が空いたな」
めきめきっ。
無造作に父の木刀が振るわれ、数本のアバラが折れる音と共に少年の体は木の葉のように吹き飛んだ。床の上を数度跳ね、ごろごろと転がり……壁に打ち付けられて、ようやく勢いが止まる。
少年は、もはや半ば白目を剥き。言葉にならないうめき声を上げながら、細かな痙攣を繰り返している。
「立て」
そんな息子の姿を見ても、父親が発した言葉は、それだけだった。
その様子を正座して見守っていた少年の姉が、震える声を絞り出す。
「お、お父上、もうやめ――」
「舞、お前は口を挟むな」
一瞥。それだけで少年の姉は完全に動けなくなった。
その眼光の威圧感に体は硬直し、肺は満足に空気を取り込まず、言葉を発する事さえできなくなる。
「人の体は、余りにも脆い。こんな玩具で叩かれた程度で、壊れてしまう程に」
彼らの父親は、まだ構えを解かない。
「だが、我が安恒家は主の刀でなければならない」
ならばどうするか。
答えは簡単だ。鍛えるのだ。刀を鍛えるように、何度も何度も叩き、以前よりも強く完治すればまた叩き。戦場に耐えうるようになるまでそれを繰り返せばいい。
それを行う父の目に、躊躇いの色はない。むしろ、己の子の体を戦場に適応させようとする行為に、彼は微かな高揚すら感じていた。
ヴィントが行綱の骨格を想定外と感じたのも無理はない。前時代ならば兎も角、人間を愛する魔物娘となった彼女らが、なぜ考え付くことができるだろうか。
我が子を壊し、回復を繰り替えさせる事で強化するなどいう鍛錬が行われていた事を。
「ぁ、ぁあぁぁぁぁ……!」
父が未だ歩みを止めない事に気がついた少年が、必死に逃げ出そうと板張りの床の上でもがく。
「行綱。痛みを恐れるな。感情を捨てろ。それは刀には不要な物だ」
痛みを恐れる心など、戦場では弱点にしかならない。だから刀に感情はいらない。己の全てを賭けても守りたいと思える主さえ居れば、考える必要すらない。
必要なのは純然たる強さと、それを動かす命令のみ。
「…………っ」
ふざけるな。もうこの国では戦なんか殆ど起こらない。妖怪達も、そのほぼ全てが人間と平和に暮らせるようになった。だったら、殺し合いしか出来ない自分たちが仕える場所なんて、もうないじゃないか。だから、この家は没落してるんじゃないか。
他の武家のようにその技を広く世に広め、精神修行の手段として提供する訳でもなく!みっともなく世界に取り残され、こんな狂った事を続けているだけじゃないか!
少年の心の叫びは、歩み寄ってくる彼の父親には聞こえない。
上段に木刀を構えた父親の影が、少年の上へと落ちる。
「そうなれば、お前も『散花』へと至る事が出来るだろう。その手助けは、私がしてやる」
我が子が、いずれ仕えるべき主を見つけた時。その役目を全うできる事を願って。
――その木刀は、純然たる息子への愛情で振り下ろされた。
――――――――――――――――――――
「はっ!はぁぁっ!!」
その踏み込みはまるで爆発。描く剣閃はまるで稲妻。行綱は恐ろしい速度で繰り出される勇者の剣技を、和槍の中程を持ち、遠心力の乗った穂先と石突で払うようにして攻撃をいなす。
超高速の剣技と、それを長大な武器を用いて防ぐ繊細な技術。二人の戦いは、まるで舞踏の一種であるかのようにすら見える美しさを持っていた。
「……っ!」
もっとも、当人である行綱の心境は優雅な物とは程遠い。相手よりも大物の武器を使い、それに遠心力と鎧の重量を乗せてようやく剣戟が成立しているのだ。……いや、そこまでして辛うじて攻撃を防ぐことが出来ている、と言った方が正しいか。こちらからは反撃に転ずるチャンスを見いだすことができないのだから。
互いの武器が接触する度に手に伝わる痺れは、この勇者の太刀筋をまともに受けてはいけないという警告を発している。おそらくまともに受けた瞬間、良くて防御の上から弾き飛ばされ……悪ければ、受けた槍ごと身体を真っ二つにされてしまうだろう。
ならば。行綱は考える。
まともに打ち合っても勝てない相手は、魔界に来てから何人も出会った。クロエやほむら……彼女達に通じた、彼女達が封じようとした自分の戦法は何だったか。
行綱は勝負に出る。槍の刃でエドワードのロングソードを弾くと同時、滑るように一瞬で彼我の距離を離す。
「なっ――!?」
まるで相手が短距離の瞬間移動でもしたかのように突然開いた間合いに、勇者が目を見開く。その視界の中で、ロングソードを弾いた勢いのままに槍を回転させた行綱は、勇者へと石突を向けた渾身の突きを放った。
勇者は後ろに跳んでそれを躱し、さらに二人の距離が開く。奇襲を躱された行綱は、再びロングソードの間合いに入られまいと和槍をやや長めに持ち、後ろに重心を置いて勇者への迎撃態勢を取る。勇者の踏み込みに合わせて後退しつつ、リーチの差で一方的に攻撃を行う構えだ。
「ライトニングっ――!」
「っ!?」
だが、勇者は切りかかっては来なかった。代わりにこちらへと突き出された手のひらから、純白の光球が放たれる。
そうだ、出陣前に渡された資料には、この勇者は剣程ではないにせよ、魔法も実戦レベルで修めているとの記述があった。
地面を蹴り、体制を崩しながらもやや強引にそれを回避する。こちらからの遠距離攻撃手段は、背負っている弓のみ。だが、この勇者の踏み込みの速度、脚力からして……一度弓を持ってしまえば、相手の接近速度にこちらの武器の持ち替えが追い付かない。
ゆえに、相手が切り込んでこないならば避け続けるしかない。幸いなことに、あくまでも魔法は剣の補助として使う程度だったらしく。行綱が普段見慣れているヴィントやミリアの大魔法に比べれば、避けられないものではない。続けて迫る数発を回避し、何とか滑るように移動する足運びで接近出来ないかと隙を伺うものの……流石に、ここまで離れた相手に意を悟られず接近するのは難しい。
一方、焦っているのはエドワードも同じだった。この男、予想以上に強い。だが、早く倒さねば。この瞬間にだって仲間が魔物達の危機に晒されているのだ。
ならば、このまま当たらない魔法に頼っていても無為に時間を浪費するのみだ。やはりこの剣で決着をつける他ない――!
「はぁぁっ!!」
「………っ!」
光魔法を武士の手前の地面に連続して打ち込み、その視界を奪うと同時に武士に切りかかる。
すんでの所で防がれるが、もう関係ない!無理矢理にでもこのまま押し切ってみせる!
「おぉぉぉぉぉっ!!」
渾身の力が籠められたその一撃一撃を防ぐたび、徐々に行綱の体勢が崩れてゆく。
後退する足は次第にもつれ始め、此方の攻撃を捌く速度が追い付かなくなって――
「これで、終わりだぁぁっ!!」
その時、急に。
後退する彼の手の内にある槍が――不自然に、伸びた。ように、見えた。
そしてその石突は、どつ、という鈍い音と共に。今まさにとどめの一撃を踏み込もうとしていたエドワードの鳩尾に直撃する。
「っ、!?ご……ほっ……!?」
行綱は自らの後方で穂先を地面に突き刺して固定し、踏み込んできた勇者につっかえ棒の要領で一撃を与えたのだ。
いかに勇者が優れた身体を持っていたとしても、これは自らの踏みこむ力をそのまま攻撃に転換されたようなもの。鎧の上からとはいえ、カウンター気味に胸を強打したエドワードの視界がぶれ、後方に後ずさりながらよろめく。
そして。
――これが、最後の期!
ここで攻めきれなければ、もう勝ちは無い。行綱は槍を引き抜くと同時、滑るように彼我の距離を詰める。
そうして大上段の構えから、勇者の脳天へと太刀打を叩きつける!
だが。
「っ、舐めるなぁっ!!」
だが、それでも。
そこまで決定的な隙を作っておきながらも、彼我の能力差を埋めるには至らなかった。
一瞬のパニックから回復した勇者と、間合いに入った武士が武器を振り始めたのは、同時。
そして――先に得物を振り抜いたのは。
勇者、エドワード。
彼が断ったのは、頭上より迫っていた……武士の振るう和槍、そのもの。
軽い音をたて、別たれた槍の穂先が魔界の大地へと突き刺さる。
――勝った。
その光景にエドワードは勝利を確信し、安堵した。
安堵、してしまった。
だからこそ、今度こそ――決定的に反応が遅れた!
その男は彼我の能力の差を、本当によく理解していた。
全力で攻撃を防ぎながら、本当に最後の最後、勝負を決する瞬間の一撃を防がれぬよう、注意深く勇者の動きを観察していた。
だから、この一撃が確実に防がれる事を、武士は予め確信していた。
だから、行綱は既にその槍を握ってはいなかった。
彼の右手は刀の柄を握り、左手は鞘の鯉口に添え、姿勢は低く足を広げ――気がつけば、既に互いの剣の間合いの中!
二度目の驚愕。だが勇者は諦めない。
まだ間に合う。敵の得物は依然鞘の中。鞘から抜き、切りかかるまでにはタイムラグがある。剣速の差からしても、先に倒れ伏すのは相手の方――
「――『散花』」
目の前の男が呟くと同時。突然、ぎんっ!という金属同士が超高速でぶつかる音が響いた。
その音に、勇者が手元に視線を落とせば。
「――っ!?」
――数々の戦いを共に潜り抜けた聖剣の刀身が、根本から叩き切られている!?
それは、大陸には存在しない技術だった。
刀の形状が可能とした、「抜く」と「切る」の二動作を一つの動きで完了させる技。
その名は――抜刀術。
何が起こったのかと、瞬きひとつをしている間に。
返す刀の峰打ちで、勇者の意識は刈り取られたのだった。
―――――――――――――――――――――
天使達が倒れ、勇者までも打ち取られた。
「……おい、勇者様までもが……」
「ウソだろ、裏切者の傭兵なんかに……!」
「マズいんじゃないのか、これ……!?」
前線の教団兵の心を支えていた二本の柱は、かくして打ち払われた。
「あぁ、私のダーリンっ♪今迎えに行きますねっ♪」
「ちょっと、私が先に旦那様を手に入れるのよ!」
「隊列を乱すな!今回は男の数は充分に……!」
前線の魔物達を阻んでいた二つの壁は、既に取り払われた。
――そうして起こったのは、二つの狂乱だった。
どちらも目指す方向は同じ。教団兵たちは我先にと後方へ駆け出し、魔王軍はそれを逃がすまいと追いかける。
ただ、その双方が浮かべている表情は、余りにも対照的だった。
片や、恐怖と、焦燥と。
片や、喜悦と、興奮と。
こうまで形勢が決まってしまえば、勝負はついたようなもの。
急激にせり上がってくる前線は、行綱達が居た場所を陣内へと取り込み。第26突撃部隊に平穏が訪れる。
飛龍の姿から人型に戻ったクレアや、空間転移で現れるミリア……全員が行綱の元へと駆け寄っていた。
「すごいじゃん行綱っ!一対一で勇者に勝っちゃったよ!?お姉さんちょっとマジ惚れしちゃったんだけど!」
「……最後の剣を折ったの、何?人間業じゃなかった。」
「え、あれ?というか何で行綱さん一人で戦っていらっしゃったんですか!?」
「えへへ〜♪ミリアが一人でも大丈夫だって思ったから、お兄ちゃんの言うとおり一人で戦わせてあげたんだよ♪」
「……ミリア、お前それ後でアゼレア様に怒られるんじゃ……」
しかし、その行綱の様子がおかしい。
喜びに沸くようなことも無く……それはいつも無表情なのでいいとしても、よく見ればカタカタと。震えているように見える。
そして、その刀をぱちん、と納刀すると同時。彼は、ふらりと前に倒れ込んだ。
「行綱さん、どうしたんですか!?」
「大丈夫か!?」
駆け寄る集団の先頭にいたクロエとほむらが、慌ててそれを抱き留めた。
「……あぁ……」
――『散花』が、終わりかけている。
仲間達に支えられた行綱は、ゆっくりと地面に腰を降ろし。
異変をそれ以上仲間たちに悟られぬよう、身体の震えを押し殺して返事をする。
「……何でもない。少し、疲れただけだ」
『散花』とは、神速の抜刀術によって相手の武器を破壊する技――では、ない。
その正体は、端的に言ってしまえば極限まで研ぎ澄まされた『集中』と『気合』。非人道的とも言えるような修練を積んだ彼ら一族がそれを行う時、一つの奇跡を起こす事が出来る。
――それは、わずかな時間のみ人体にかけられているリミッターを外し、通常使う事のできない100%の力を発揮する事。
抜刀術で峰打ちを行う事はできない。故に命を奪わずにあの状況から勝つには、一度武器を破壊し、その後の峰打ちを確実に当てられるようにする必要があった。
しかしあの勇者、エドワードが持っていた剣は、見るだけでもそれと分かるほどの業物。尋常な人間の力では、例え最高の角度と速度で剣の腹を打ったとしても――叩き切る事ができないのは、目に見えていた。
それを成すには、そう。少なくとも、相手の勇者と同等レベルの筋力が必要だった。その分、最後の峰打ちも大分強く打ち据えてしまったが……勇者が本当に魔物達以上の能力を持つとすれば、大事には至っていないだろう。
行綱がそう考えていると。
「――行綱ぁっ!!」
頭上から響いてくる声。それは聞き間違える筈もない、しかしここにはいる筈もない彼の主のもの。
顔を向ければ、アゼレアはちょうど翼を羽ばたかせて魔界の大地に降り立っているところだった。
「……姫様、なぜここに……?」
「はぁ、はぁ……馬鹿者が!妾はミリアと二人で勇者と戦えと言ったはずじゃろう!?それをお前は……!!」
そうだった。彼女は戦場の様子を確認する為に遠見の鏡を持っている。恐らくは自分が主の指示を無視し、単独で勇者と戦った事は筒抜けになってしまっているのだ。いや、それどころか、あの様子では自分がミリアに一人で戦いたいと言いだした事まで聞かれてしまっているのかもしれない。
顔を真っ赤にして、半分目に涙を貯めたアゼレアは、早足で行綱へと歩み寄り。
――鎧の上から、彼を抱きしめた。
「――凄いぞ行綱っ!一人で勇者に勝ってしまうなど、想像以上じゃっ!」
「……姫様」
てっきり命令無視の叱責を受けると思っていた行綱は、鎧越しでも分かるその柔らかな感触に戸惑う。
「じゃが、こんなのは今回だけじゃからな!?妾を心配させおって……ミリアも同罪じゃ!」
「えー、だってお兄ちゃんがどうしてもって……」
「膨れてもダメじゃぞ!?というか魔王軍としてはお前の方が遥かに先達であろう、止めんでどうする!?」
「まーまー、こうして無事に勝てた事だし、いいじゃんかアゼレア様ー」
「……行綱についても、興味深いデータが取れた。」
「あぁぁもう、そういう問題ではないっ!」
密着した身体から伝わってくる鼓動は早鐘を打っており、軽く乱れた息と合わせて、彼女が全力の速度でここまで駆けつけたという事を表していて。目の前の主が本当に自分の事を心配してくれていたのだという事が、痛いほどに伝わってくる。
その想いが、瞳を潤ませている人外の美貌が。その全てが愛おしい。
行綱はその衝動に任せるまま、アゼレアの身体を抱きしめ返そうと――
「………っ」
待て。
自分は今、何をしようとしていた――?
「行綱も、今度から作戦に不満があれば通達の時点で……行綱?どうしたのじゃ?」
「……いえ」
そうだ。思い返せば、何故作戦が伝えられた時点で一対一で戦わせて貰えるように進言しなかった?
正直に言ってしまえば、却下されてしまうであろう事が目に見えていたからか?それが分かっていながら、何故主からの命令を無視をしてまで自分は一対一に拘った?姫様が自分の国を御作りになられる事が遠い未来ではないだろうとはいえ、魔王軍にいれば勇者と戦う機会はまだまだあるだろう。自分は何故こんなにも急いだ?
行綱は己の感情に気が付く事ができない。あれは武士としての、主に対する忠誠ではなく。意中の女性の前で格好をつけたいという――男として、あまりにもありふれた意地が起こした行動だったという事に。
自らに異性へ好意を抱く事を禁じ、その全てを封印して生きてきた男は、己の内面に起き始めている変化に気付く事ができない。
「……?」
そんな彼でも、気が付く事ができたものがある。
それは、先程までアゼレアを抱きしめようと伸びていたその腕。
――なぜ、動く……?
人の身体にリミッターが付いているのは、それを超えた駆動に耐えられるように造られていないからだ。
ましてや、一瞬とはいえ勇者に匹敵するほどの力。その代償が微々たる物で済むハズがない。実際行綱が過去に『散花』を行った際には、筋繊維がズタズタに千切れ、各所の骨はひび割れ……3週間以上も苦悶の声が漏れる程の痛みが彼の全身を襲い、その間はまともに身体を動かす事すら出来なかった。
戦果という果実を手に入れる代償に、自らという花を散らせる。それが『散花』なのだから。
だが、今見ている自分の腕は。極度の疲労で微かに震えてこそいるものの、動く。そして、感じている痛みも、過去のそれと比べれば蚊に刺されたようなものだ。
常人の限界を超え、その程度の損傷で済んでいるという事は。
本人すら自覚が無いほどに尋常ならざる精神力で縛られていた、アゼレアへの想いが表面化しつつあるという事は。
即ち、彼は『ただの人間』ではなくなりつつあるという事。
――安恒行綱。
――彼の身体と心は緩やかに、しかし確実にインキュバスの物へと変化しつつあった。
「どうした、行綱。早く立て」
「っ、……しかし、父上、う、うでが……!!」
「知っている。今、私が折ったのだから」
まだ幼い少年は取り落した木刀を拾う事も出来ず、額に脂汗を滲ませて叩き折られた腕を抑えている。それを見下ろす父親の目は、あまりにも冷たく。構えた木刀を下ろす事すらなく、我が子へと歩を進める。
少年は後ろにずり下がりながら、実の親に向かって命乞いをするように、折れていない側の腕を突き出し――
「っ、待って――」
「胴が空いたな」
めきめきっ。
無造作に父の木刀が振るわれ、数本のアバラが折れる音と共に少年の体は木の葉のように吹き飛んだ。床の上を数度跳ね、ごろごろと転がり……壁に打ち付けられて、ようやく勢いが止まる。
少年は、もはや半ば白目を剥き。言葉にならないうめき声を上げながら、細かな痙攣を繰り返している。
「立て」
そんな息子の姿を見ても、父親が発した言葉は、それだけだった。
その様子を正座して見守っていた少年の姉が、震える声を絞り出す。
「お、お父上、もうやめ――」
「舞、お前は口を挟むな」
一瞥。それだけで少年の姉は完全に動けなくなった。
その眼光の威圧感に体は硬直し、肺は満足に空気を取り込まず、言葉を発する事さえできなくなる。
「人の体は、余りにも脆い。こんな玩具で叩かれた程度で、壊れてしまう程に」
彼らの父親は、まだ構えを解かない。
「だが、我が安恒家は主の刀でなければならない」
ならばどうするか。
答えは簡単だ。鍛えるのだ。刀を鍛えるように、何度も何度も叩き、以前よりも強く完治すればまた叩き。戦場に耐えうるようになるまでそれを繰り返せばいい。
それを行う父の目に、躊躇いの色はない。むしろ、己の子の体を戦場に適応させようとする行為に、彼は微かな高揚すら感じていた。
ヴィントが行綱の骨格を想定外と感じたのも無理はない。前時代ならば兎も角、人間を愛する魔物娘となった彼女らが、なぜ考え付くことができるだろうか。
我が子を壊し、回復を繰り替えさせる事で強化するなどいう鍛錬が行われていた事を。
「ぁ、ぁあぁぁぁぁ……!」
父が未だ歩みを止めない事に気がついた少年が、必死に逃げ出そうと板張りの床の上でもがく。
「行綱。痛みを恐れるな。感情を捨てろ。それは刀には不要な物だ」
痛みを恐れる心など、戦場では弱点にしかならない。だから刀に感情はいらない。己の全てを賭けても守りたいと思える主さえ居れば、考える必要すらない。
必要なのは純然たる強さと、それを動かす命令のみ。
「…………っ」
ふざけるな。もうこの国では戦なんか殆ど起こらない。妖怪達も、そのほぼ全てが人間と平和に暮らせるようになった。だったら、殺し合いしか出来ない自分たちが仕える場所なんて、もうないじゃないか。だから、この家は没落してるんじゃないか。
他の武家のようにその技を広く世に広め、精神修行の手段として提供する訳でもなく!みっともなく世界に取り残され、こんな狂った事を続けているだけじゃないか!
少年の心の叫びは、歩み寄ってくる彼の父親には聞こえない。
上段に木刀を構えた父親の影が、少年の上へと落ちる。
「そうなれば、お前も『散花』へと至る事が出来るだろう。その手助けは、私がしてやる」
我が子が、いずれ仕えるべき主を見つけた時。その役目を全うできる事を願って。
――その木刀は、純然たる息子への愛情で振り下ろされた。
――――――――――――――――――――
「はっ!はぁぁっ!!」
その踏み込みはまるで爆発。描く剣閃はまるで稲妻。行綱は恐ろしい速度で繰り出される勇者の剣技を、和槍の中程を持ち、遠心力の乗った穂先と石突で払うようにして攻撃をいなす。
超高速の剣技と、それを長大な武器を用いて防ぐ繊細な技術。二人の戦いは、まるで舞踏の一種であるかのようにすら見える美しさを持っていた。
「……っ!」
もっとも、当人である行綱の心境は優雅な物とは程遠い。相手よりも大物の武器を使い、それに遠心力と鎧の重量を乗せてようやく剣戟が成立しているのだ。……いや、そこまでして辛うじて攻撃を防ぐことが出来ている、と言った方が正しいか。こちらからは反撃に転ずるチャンスを見いだすことができないのだから。
互いの武器が接触する度に手に伝わる痺れは、この勇者の太刀筋をまともに受けてはいけないという警告を発している。おそらくまともに受けた瞬間、良くて防御の上から弾き飛ばされ……悪ければ、受けた槍ごと身体を真っ二つにされてしまうだろう。
ならば。行綱は考える。
まともに打ち合っても勝てない相手は、魔界に来てから何人も出会った。クロエやほむら……彼女達に通じた、彼女達が封じようとした自分の戦法は何だったか。
行綱は勝負に出る。槍の刃でエドワードのロングソードを弾くと同時、滑るように一瞬で彼我の距離を離す。
「なっ――!?」
まるで相手が短距離の瞬間移動でもしたかのように突然開いた間合いに、勇者が目を見開く。その視界の中で、ロングソードを弾いた勢いのままに槍を回転させた行綱は、勇者へと石突を向けた渾身の突きを放った。
勇者は後ろに跳んでそれを躱し、さらに二人の距離が開く。奇襲を躱された行綱は、再びロングソードの間合いに入られまいと和槍をやや長めに持ち、後ろに重心を置いて勇者への迎撃態勢を取る。勇者の踏み込みに合わせて後退しつつ、リーチの差で一方的に攻撃を行う構えだ。
「ライトニングっ――!」
「っ!?」
だが、勇者は切りかかっては来なかった。代わりにこちらへと突き出された手のひらから、純白の光球が放たれる。
そうだ、出陣前に渡された資料には、この勇者は剣程ではないにせよ、魔法も実戦レベルで修めているとの記述があった。
地面を蹴り、体制を崩しながらもやや強引にそれを回避する。こちらからの遠距離攻撃手段は、背負っている弓のみ。だが、この勇者の踏み込みの速度、脚力からして……一度弓を持ってしまえば、相手の接近速度にこちらの武器の持ち替えが追い付かない。
ゆえに、相手が切り込んでこないならば避け続けるしかない。幸いなことに、あくまでも魔法は剣の補助として使う程度だったらしく。行綱が普段見慣れているヴィントやミリアの大魔法に比べれば、避けられないものではない。続けて迫る数発を回避し、何とか滑るように移動する足運びで接近出来ないかと隙を伺うものの……流石に、ここまで離れた相手に意を悟られず接近するのは難しい。
一方、焦っているのはエドワードも同じだった。この男、予想以上に強い。だが、早く倒さねば。この瞬間にだって仲間が魔物達の危機に晒されているのだ。
ならば、このまま当たらない魔法に頼っていても無為に時間を浪費するのみだ。やはりこの剣で決着をつける他ない――!
「はぁぁっ!!」
「………っ!」
光魔法を武士の手前の地面に連続して打ち込み、その視界を奪うと同時に武士に切りかかる。
すんでの所で防がれるが、もう関係ない!無理矢理にでもこのまま押し切ってみせる!
「おぉぉぉぉぉっ!!」
渾身の力が籠められたその一撃一撃を防ぐたび、徐々に行綱の体勢が崩れてゆく。
後退する足は次第にもつれ始め、此方の攻撃を捌く速度が追い付かなくなって――
「これで、終わりだぁぁっ!!」
その時、急に。
後退する彼の手の内にある槍が――不自然に、伸びた。ように、見えた。
そしてその石突は、どつ、という鈍い音と共に。今まさにとどめの一撃を踏み込もうとしていたエドワードの鳩尾に直撃する。
「っ、!?ご……ほっ……!?」
行綱は自らの後方で穂先を地面に突き刺して固定し、踏み込んできた勇者につっかえ棒の要領で一撃を与えたのだ。
いかに勇者が優れた身体を持っていたとしても、これは自らの踏みこむ力をそのまま攻撃に転換されたようなもの。鎧の上からとはいえ、カウンター気味に胸を強打したエドワードの視界がぶれ、後方に後ずさりながらよろめく。
そして。
――これが、最後の期!
ここで攻めきれなければ、もう勝ちは無い。行綱は槍を引き抜くと同時、滑るように彼我の距離を詰める。
そうして大上段の構えから、勇者の脳天へと太刀打を叩きつける!
だが。
「っ、舐めるなぁっ!!」
だが、それでも。
そこまで決定的な隙を作っておきながらも、彼我の能力差を埋めるには至らなかった。
一瞬のパニックから回復した勇者と、間合いに入った武士が武器を振り始めたのは、同時。
そして――先に得物を振り抜いたのは。
勇者、エドワード。
彼が断ったのは、頭上より迫っていた……武士の振るう和槍、そのもの。
軽い音をたて、別たれた槍の穂先が魔界の大地へと突き刺さる。
――勝った。
その光景にエドワードは勝利を確信し、安堵した。
安堵、してしまった。
だからこそ、今度こそ――決定的に反応が遅れた!
その男は彼我の能力の差を、本当によく理解していた。
全力で攻撃を防ぎながら、本当に最後の最後、勝負を決する瞬間の一撃を防がれぬよう、注意深く勇者の動きを観察していた。
だから、この一撃が確実に防がれる事を、武士は予め確信していた。
だから、行綱は既にその槍を握ってはいなかった。
彼の右手は刀の柄を握り、左手は鞘の鯉口に添え、姿勢は低く足を広げ――気がつけば、既に互いの剣の間合いの中!
二度目の驚愕。だが勇者は諦めない。
まだ間に合う。敵の得物は依然鞘の中。鞘から抜き、切りかかるまでにはタイムラグがある。剣速の差からしても、先に倒れ伏すのは相手の方――
「――『散花』」
目の前の男が呟くと同時。突然、ぎんっ!という金属同士が超高速でぶつかる音が響いた。
その音に、勇者が手元に視線を落とせば。
「――っ!?」
――数々の戦いを共に潜り抜けた聖剣の刀身が、根本から叩き切られている!?
それは、大陸には存在しない技術だった。
刀の形状が可能とした、「抜く」と「切る」の二動作を一つの動きで完了させる技。
その名は――抜刀術。
何が起こったのかと、瞬きひとつをしている間に。
返す刀の峰打ちで、勇者の意識は刈り取られたのだった。
―――――――――――――――――――――
天使達が倒れ、勇者までも打ち取られた。
「……おい、勇者様までもが……」
「ウソだろ、裏切者の傭兵なんかに……!」
「マズいんじゃないのか、これ……!?」
前線の教団兵の心を支えていた二本の柱は、かくして打ち払われた。
「あぁ、私のダーリンっ♪今迎えに行きますねっ♪」
「ちょっと、私が先に旦那様を手に入れるのよ!」
「隊列を乱すな!今回は男の数は充分に……!」
前線の魔物達を阻んでいた二つの壁は、既に取り払われた。
――そうして起こったのは、二つの狂乱だった。
どちらも目指す方向は同じ。教団兵たちは我先にと後方へ駆け出し、魔王軍はそれを逃がすまいと追いかける。
ただ、その双方が浮かべている表情は、余りにも対照的だった。
片や、恐怖と、焦燥と。
片や、喜悦と、興奮と。
こうまで形勢が決まってしまえば、勝負はついたようなもの。
急激にせり上がってくる前線は、行綱達が居た場所を陣内へと取り込み。第26突撃部隊に平穏が訪れる。
飛龍の姿から人型に戻ったクレアや、空間転移で現れるミリア……全員が行綱の元へと駆け寄っていた。
「すごいじゃん行綱っ!一対一で勇者に勝っちゃったよ!?お姉さんちょっとマジ惚れしちゃったんだけど!」
「……最後の剣を折ったの、何?人間業じゃなかった。」
「え、あれ?というか何で行綱さん一人で戦っていらっしゃったんですか!?」
「えへへ〜♪ミリアが一人でも大丈夫だって思ったから、お兄ちゃんの言うとおり一人で戦わせてあげたんだよ♪」
「……ミリア、お前それ後でアゼレア様に怒られるんじゃ……」
しかし、その行綱の様子がおかしい。
喜びに沸くようなことも無く……それはいつも無表情なのでいいとしても、よく見ればカタカタと。震えているように見える。
そして、その刀をぱちん、と納刀すると同時。彼は、ふらりと前に倒れ込んだ。
「行綱さん、どうしたんですか!?」
「大丈夫か!?」
駆け寄る集団の先頭にいたクロエとほむらが、慌ててそれを抱き留めた。
「……あぁ……」
――『散花』が、終わりかけている。
仲間達に支えられた行綱は、ゆっくりと地面に腰を降ろし。
異変をそれ以上仲間たちに悟られぬよう、身体の震えを押し殺して返事をする。
「……何でもない。少し、疲れただけだ」
『散花』とは、神速の抜刀術によって相手の武器を破壊する技――では、ない。
その正体は、端的に言ってしまえば極限まで研ぎ澄まされた『集中』と『気合』。非人道的とも言えるような修練を積んだ彼ら一族がそれを行う時、一つの奇跡を起こす事が出来る。
――それは、わずかな時間のみ人体にかけられているリミッターを外し、通常使う事のできない100%の力を発揮する事。
抜刀術で峰打ちを行う事はできない。故に命を奪わずにあの状況から勝つには、一度武器を破壊し、その後の峰打ちを確実に当てられるようにする必要があった。
しかしあの勇者、エドワードが持っていた剣は、見るだけでもそれと分かるほどの業物。尋常な人間の力では、例え最高の角度と速度で剣の腹を打ったとしても――叩き切る事ができないのは、目に見えていた。
それを成すには、そう。少なくとも、相手の勇者と同等レベルの筋力が必要だった。その分、最後の峰打ちも大分強く打ち据えてしまったが……勇者が本当に魔物達以上の能力を持つとすれば、大事には至っていないだろう。
行綱がそう考えていると。
「――行綱ぁっ!!」
頭上から響いてくる声。それは聞き間違える筈もない、しかしここにはいる筈もない彼の主のもの。
顔を向ければ、アゼレアはちょうど翼を羽ばたかせて魔界の大地に降り立っているところだった。
「……姫様、なぜここに……?」
「はぁ、はぁ……馬鹿者が!妾はミリアと二人で勇者と戦えと言ったはずじゃろう!?それをお前は……!!」
そうだった。彼女は戦場の様子を確認する為に遠見の鏡を持っている。恐らくは自分が主の指示を無視し、単独で勇者と戦った事は筒抜けになってしまっているのだ。いや、それどころか、あの様子では自分がミリアに一人で戦いたいと言いだした事まで聞かれてしまっているのかもしれない。
顔を真っ赤にして、半分目に涙を貯めたアゼレアは、早足で行綱へと歩み寄り。
――鎧の上から、彼を抱きしめた。
「――凄いぞ行綱っ!一人で勇者に勝ってしまうなど、想像以上じゃっ!」
「……姫様」
てっきり命令無視の叱責を受けると思っていた行綱は、鎧越しでも分かるその柔らかな感触に戸惑う。
「じゃが、こんなのは今回だけじゃからな!?妾を心配させおって……ミリアも同罪じゃ!」
「えー、だってお兄ちゃんがどうしてもって……」
「膨れてもダメじゃぞ!?というか魔王軍としてはお前の方が遥かに先達であろう、止めんでどうする!?」
「まーまー、こうして無事に勝てた事だし、いいじゃんかアゼレア様ー」
「……行綱についても、興味深いデータが取れた。」
「あぁぁもう、そういう問題ではないっ!」
密着した身体から伝わってくる鼓動は早鐘を打っており、軽く乱れた息と合わせて、彼女が全力の速度でここまで駆けつけたという事を表していて。目の前の主が本当に自分の事を心配してくれていたのだという事が、痛いほどに伝わってくる。
その想いが、瞳を潤ませている人外の美貌が。その全てが愛おしい。
行綱はその衝動に任せるまま、アゼレアの身体を抱きしめ返そうと――
「………っ」
待て。
自分は今、何をしようとしていた――?
「行綱も、今度から作戦に不満があれば通達の時点で……行綱?どうしたのじゃ?」
「……いえ」
そうだ。思い返せば、何故作戦が伝えられた時点で一対一で戦わせて貰えるように進言しなかった?
正直に言ってしまえば、却下されてしまうであろう事が目に見えていたからか?それが分かっていながら、何故主からの命令を無視をしてまで自分は一対一に拘った?姫様が自分の国を御作りになられる事が遠い未来ではないだろうとはいえ、魔王軍にいれば勇者と戦う機会はまだまだあるだろう。自分は何故こんなにも急いだ?
行綱は己の感情に気が付く事ができない。あれは武士としての、主に対する忠誠ではなく。意中の女性の前で格好をつけたいという――男として、あまりにもありふれた意地が起こした行動だったという事に。
自らに異性へ好意を抱く事を禁じ、その全てを封印して生きてきた男は、己の内面に起き始めている変化に気付く事ができない。
「……?」
そんな彼でも、気が付く事ができたものがある。
それは、先程までアゼレアを抱きしめようと伸びていたその腕。
――なぜ、動く……?
人の身体にリミッターが付いているのは、それを超えた駆動に耐えられるように造られていないからだ。
ましてや、一瞬とはいえ勇者に匹敵するほどの力。その代償が微々たる物で済むハズがない。実際行綱が過去に『散花』を行った際には、筋繊維がズタズタに千切れ、各所の骨はひび割れ……3週間以上も苦悶の声が漏れる程の痛みが彼の全身を襲い、その間はまともに身体を動かす事すら出来なかった。
戦果という果実を手に入れる代償に、自らという花を散らせる。それが『散花』なのだから。
だが、今見ている自分の腕は。極度の疲労で微かに震えてこそいるものの、動く。そして、感じている痛みも、過去のそれと比べれば蚊に刺されたようなものだ。
常人の限界を超え、その程度の損傷で済んでいるという事は。
本人すら自覚が無いほどに尋常ならざる精神力で縛られていた、アゼレアへの想いが表面化しつつあるという事は。
即ち、彼は『ただの人間』ではなくなりつつあるという事。
――安恒行綱。
――彼の身体と心は緩やかに、しかし確実にインキュバスの物へと変化しつつあった。
17/10/10 01:25更新 / オレンジ
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