連載小説
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自覚
魔力で灯されたランプが照らす机の上。書類仕事用のメガネをかけたアゼレアが、山のように積まれた書類にペンを走らせる音が響く。
軍とは、戦闘組織である以上に巨大な官僚組織だ。である以上、いくら規律の緩い魔王軍といえども、その例には漏れず書類物との格闘は避けられない。
……いや、殆どの者達がそれを避けた皺寄せがこの書類の山なのだけれども。まぁ、魔物だし。その辺がいい加減なのはある意味仕方がない。

ぱちん。
うず高く積み上げられた完了済みの書類を指を鳴らして転送すると同時、同量の新しい書類の山を机の上に召喚する。
アゼレアがその一番上の一枚を手に取ると、再びカリカリというペンの音が部屋に響き始めた。

それに、アゼレアはこの誰にも称えられる事のない静かな戦場が、嫌いではなかった。こうして書類に目を通していると、魔王軍に属する様々な個々の姿が見えてくる。
例えば、今手にしている書類はある部隊の休暇申請。半年前に入隊したサキュバスが長めの休暇を申請している。理由を見れば、めでたく夫を捕まえた為じっくりと魔物の愛と快楽を教えてあげたい……との事。入隊時は泣き虫で有名な娘で陰ながら心配していた為、無事に自分の夫を捕まえてくれたのは我が事のように嬉しい。
次の一枚は、武器の新調希望の届け出。この部隊はいつも大変な任務を任せてしまっている。今回の迎撃戦でも頑張ってくれているのだろう、本当に頭が下がる思いだ。次の一枚は――
そうしているうちに、いつの間にやら未処理の書類の山は姿を消し……代わりにアゼレアの反対側に、処理済みの書類の山が出来上がっていた。

「……ん、もう終わりか」

量の割には意外と早く終わったな……と時計を見れば、いつの間にやら昼食の時間が近くなっている。どうやら時間はそこそこ過ぎていたが、集中し過ぎていて気が付かなかっただけらしい。
仕事は終わった。時間はお昼前。となれば、アゼレアが向かう先は一つ。

「ふふ、行綱っ♪」

アゼレアは最後の完了済み書類の山を転送すると、浮かれた足取りで部屋を出て城の廊下を進む。
何せ勇者相手に大金星を上げた翌日だ。昨日は流石に少し疲れているようだったので帰還後そのまま休ませたが、今日は美味しいものを食べさせて、沢山褒めてやらねばならない。
温泉で僅かながらも彼の精を摂取して以来、彼の位置はその精の香りが教えてくれる。アゼレアは迷う事無くその方向へと歩を進め――

「……ん?」

異変に気が付いた。
行綱が普段居る場所といえば、彼の自室か、クロエ達と共に訓練場にいるかのどちらかだ。
だが、今自分が向かっているのはその二つと全くの逆方向。この方向には、魔物達の研究室しかないハズだが。
……とても嫌な予感がする。何というか、例のアレがもうすぐ来そうな。

――ぞくり。

「やっぱり来たぁっ!?」

『見て、またアゼレア様が急いで何処かに向かわれてるわ』『最近多いですよね、どうされたのでしょうか……?』『見初めた殿方が複数人との奪い合いになっているという噂も……』という魔物達のひそひそ話をその背に受けつつ。愛する男の危機を敏感に感知する女の勘に従い、魔王の娘は駆け出した。





――――――――――――――――――――





「ちょっと来て。」

無事に対勇者の出撃も終わり、『散花』の代償も何故か激痛を伴う筋肉痛程度で収まった為、休日を訓練場で過ごそうと考えていた行綱。
そんな彼が自室のドアを開けると、目の前には同じ部隊所属のリッチ――ヴィントが立っていた。

「……何故」
「……あの勇者と戦った後、しんどそうだったから。健康診断。」
「それならば、大丈夫だ。心配をかけてすまない」

そう、こんなもの、当初に想定していた代償からすればあまりにも軽い。それよりも恐ろしいのはあの勇者という存在。紙一重で勝利を収める事はできたものの、その実力は話に違わぬ強大な物だった。
しかも、あれで勇者としては『並』なレベルなのだという……となれば、まだ教団に『並以上』の勇者が控えていると考えるが自然だろう。今の自分では、あれ以上を相手にするのは難しい。だから休んでいる暇なんてない。一刻も早く、もっと強くならなければ。
行綱はそのまま、ヴィントの横を通り過ぎ――

「どうして『その程度』で収まっているのか、聞きたくない?」

背中に投げかけられた言葉に、固まった。

「……これからも、あれ、使うんでしょ?自分の体の事だし、知っておいた方がいいと思う。」

振り向けば、彼女はいつも通りの無表情で、感情の読めない瞳をこちらへと向けている。
その外見からは彼女の感情を窺い知る事は出来ず……いや、無表情に関してはあまり人の事をどうこうは言えないのだが。
ともかく。隠していたつもりが――完全に見透かされている。

「姫様達には」
「……言ってない。」

そう言うと、ヴィントは背を向け歩き出した。後の話は誰にも聞き耳を立てられない場所で話すから、付いてこいという事なのだろう。
行綱は痛む身体が不自然な歩き方にならないよう注意を払いながら、それに続いたのだった。

ヴィントに案内されたのは、彼女の研究室と思しき部屋。部屋の壁を覆う本棚には刀よりも重量がありそうな程に大きく分厚い本がびっちりと並べられ、怪しげな品々が並べられた机の上では何らかの薬品であろう緑の液体が大きなフラスコに入れられ魔力の火にかけられている。
彼女は行綱を椅子に座らせると「少し待ってて」と言い残し、フラスコの中の液体を小ぶりなビーカー二つの中へと注ぎ分け始めた。

「……はい。」

そしてその一方をこちらへと突き出してくる。
行綱はそれを受け取り、訝しげに緑の液体を眺める。この部屋の様相からして、その中で作られたこの液体も恐らく尋常なものではあるまい。
だから行綱は恐る恐る尋ねた。

「……これは?」
「緑茶。」
「緑茶」

思いっきり尋常なものだった。
……念のため香りを確かめてから、少しだけ口に含んでみる。

「…………」

本当に緑茶の味がした。

「……行綱の国のお茶って、どんな物か気になって。彩に取り寄せてもらった。フラスコに加工をして、中の水が最適な抽出温度で沸騰して、それ以上は温度が上がらないようにして淹れてみたんだけど……不味かった……?」
「いや、美味いには美味いのだが……」

何というかこう、見た目が怪しい薬物を飲まされているようにしか見えないというか……。
しかしヴィントに対してその答えは充分に気を良くするに十分な物だったらしく、やや口元を緩めて行綱と向かい合うように椅子に腰かけた。

「それで、確認だけど……あれは身体のリミッターを外したって解釈で、間違ってない……?」
「ああ」
「そして、思っていたよりも遥かに体へのダメージが無いから、戸惑っている。」
「……ああ」
「でも、アゼレア様に話すと。心配されて使うのを止められそうだから……秘密にしておきたい。」
「……その通りだ」

思っていた以上に完璧に見透かされていた。

「何故、そこまで分かった」
「……ふふ。リッチの観察眼を、嘗めちゃ駄目。」

言いながら、彼女は机の上に置いてあった一冊を手に取ると、パラパラとページを捲り、何事かを書き足し始めた。
そこに書かれていたのは、行綱の身体、運動能力に関するデータの数々。ヴィントは先日の戦いの後、研究室にて数回のシュミレーションを行ったが……その数値をどう弄り回しても、あの勇者を下した瞬間の運動能力は発揮できそうもなかった。
誰かが補助魔法をかけた訳でもない、となれば、意図的に身体のリミッターを外し、限界以上の力を発揮したとしか考えられなかったのだ。

「………」

気のせいだろうか。今、あの本の表紙に火の国の文字で『安恒行綱』と書いていた気がするのだが。まさか、あの分厚い本の埋まっているページには全て自分の情報が……?

いや、まさか。
冷静に考えればそんな事ある訳がないだろう。行綱は自身の自意識過剰ぶりに小さくかぶりを振った。

「……とりあえず、今の行綱は。インキュバス化が進んでいる。」
「……?」

そう言われても何の事やら分かっていなさそうな目の前の青年。仕方ないので、ヴィントは一から説明してあげる事にした。

「……昨日、行綱は勇者と戦ったよね……?」
「……ああ」
「勇者が、人間離れして強いのは。主神が、魔物と戦う為に、加護を与えているから。」

そういえば、クロエに『加護もなく、インキュバス化もせずに自分と互角に戦えるのは凄い』と言われた事があった。そしてクレアは、『ジパングの神の夫である半神や人神と、勇者は似たような者』と言っていた。その文脈から考えるに……


「……それでは、インキュバスとは。魔物の加護を受けた者か」
「……ご明察。」

ヴィント曰く。サキュバス種である魔王の影響を受けた魔物娘らしく、基本的に男性のインキュバス化は魔物との性行によって行われる。だが、魔界と呼ばれるような魔物の魔力に満ちた場所では、大気中の魔力が常にゆっくりと体を浸蝕していくのだという。
そしてこの場所は、魔界の中でも最も魔力濃度の高い魔王の御膝元『王魔界』。故に何もしなくても大気や食物からのインキュバス化が進んでいるのだという。

「……あとは、魔界産の食べ物とか、飲み物とか。」
「……他に。身体が丈夫になる意外に、何か変化はあるのか」
「インキュバスの特性は、番になる、魔物の種類によっても変わるけれど……行綱の場合は、空気と食物からの汚染だから。インキュバスの基本機能だけが、強化される。」

インキュバスの基本機能と言われても、行綱にはピンと来ない。
だから尋ねた。

「つまり……?」
「……とってもえっちになって、寿命が延びて、いつまでもセックスできるようになって……自分の欲望に正直になる。」
「……!?」

驚きで言葉を失う行綱に、リッチは変わらぬ口調で語り掛ける。

「……何を、驚いてるの?」

口調は変わっていない。だが、いつの間にかその表情はいつもの無表情ではなくなっていた。
その口角は緩やかに吊り上がり、逆に目尻と眉尻は媚びるように下へと下がり。
一言で言うならば……雄を誘う、雌の微笑。

「っ、いや、何故、そんな」
「……元々、体が強化されるのも。魔物と、いつまでも交わっていられるようにする為。……私達にとって、精が多く含まれる男の精液は、最高のご馳走。」

彼女は椅子から立ち上がり、こちらに歩み寄り……あの温泉の時のように、じっとこちらの目をのぞき込んでくる。
上半身を前に傾けた体制。仕立てにゆとりのある彼女の衣服。その襟元は重力に従い、小ぶりな彼女の胸の先端近くまでが見えてしまっている。
血色の薄い唇が、続きの言葉を紡ぐ。

「……魔力に汚染されればされる程、インキュバスの力と性欲は強くなる。」

彼女から、目を逸らす事が出来ない。

「空気感染、食物感染……魔力汚染の方法は色々あるけれど。一番効率的なのは、魔物との性行。つまり――」




「――今、ここで私を抱けば、行綱はもっと強くなれるよ……?」





――――――――――――――――――――





長い睫毛に彩られたアメジスト色の瞳は、目の前の男を捉えたま離さない。

「いや、何を言っている……!?」
「……魔物の体は、人間のそれとは比べ物にならないぐらいの快楽を男性に与える事が出来る。」

それに、と不意にヴィントは行綱の手を取った。

「……男性器に生じる快感は。触れている女性の器官との体温差がある程、明瞭に感じる事が出来る。だから――」

ひんやりとした、ヴィントの体温。
行綱の表情の微かな変化から、言葉の意図に気が付いた事を読み取ったヴィントは、軽く口の端を吊り上げ。微かな唾液の音と共に、舌を突き出し。その喉奥までを男に見せつけるように艶めかしく口を開き。

「――きっと、気持ちいいよ……?」
「……っ!!」

目の前の男は、目を見開くと同時、こちらの手を物凄い力で握り返してきた。

――堕ちた。
ヴィントは、そう確信した。
だが、彼の口から発せられた言葉は。

「……
軽々しく、そういう事を口にするものではない」
「……え?」

耳を、疑った。
馬鹿な。半ばインキュバス化しているだけではない。彼が最初に飲んだ緑茶、あれには香りや味で感づかれないように調合した微量の魔界ハーブを混ぜてあった。その上で、生真面目な彼に合わせて『強くなる為』という大義名分まで用意しているというのに。 
ヴィントは改めて目の前の男を観察する。その目は軽く血走り、呼吸もやや乱れ……ハーブの効果は、確かに表れている。ならば、これは彼のやせ我慢。攻め方を少し変えてみるか……?

「……私の事、嫌い……?」
「そういう、問題では……!」
「……じゃあ、アゼレア様は、好き?」
「っ!?」

手ごたえ、アリ。

「……もし、アゼレア様とする事になった時の為に。魔物の体に慣れておいた方がいいと思う。」
「何を、言って」
「……アゼレア様は、魔王様の娘。その体の魔性は、他の魔物とは比べ物にならない。」

――だから、私で練習しておこう……?

彼の混乱は、もはや誰が見ても分かる程までに大きくなっている。後は無理矢理に押し倒しても、抵抗する気力は――

「ヴィント、行綱はおるかの!?」

ヴィントの部屋の扉が、ノックも無く突然開け放たれた。
部屋の中では、至近距離で手をとり見つめ合っている二人。

「っ、ヴィント!?貴様行綱となななな、何を……!!」
「……何って、健康診断。ね、行綱……?」

赤い顔で涙目になりつつ、わなわなと震えているアゼレアに事もなげに返すヴィント。
その表情はいつの間にやら先程の妖艶な微笑から、いつも通りの無表情へ変化している。

「あ、ああ……」

そのあまりに見事な変わり様に、ともすれば先程までの出来事は全て夢なのではないかとすら思えてしまう。

「ほ、本当か……?」
「……勇者と戦って、やっぱりちょっと無理してたみたいだから。念のため、調べる為に私が無理矢理連れ込んだ。心配かけてごめんなさい。」
「い、いや、妾こそノックもせずに……」

……いや、ならば何故自分はあの不安感に襲われたのだ?行綱に何か危険が迫っているのではなかったのか?
他に何か、彼の危機、ひいては、彼が傷つくような事……そこまで考えたアゼレアは、ある可能性に思い至る。

「まさか先程の戦いで、行綱に何か後遺症が……!?」
「……むしろ、インキュバス化が進んでいる事もあって。単純な筋肉痛以外は、健康そのもの。」

そこでヴィントは、視線の先を行綱へと移動させた。
オブラートに包んだ言葉が、彼のみに伝わるように。

「もう少し、魔力汚染が進めば……『あの程度の無茶』をしても、何ともなくなると思う。」
「……!」

即ちそれは、常に『散花』の状態で――勇者と同等の力を持ってして戦えるという事。

「……健康診断は、終わり。……アゼレア様、行綱に何か用事……?」
「う、うむ!行綱、妾の勤めも一区切りついたゆえ、一緒に昼餉を摂りに行かぬかと思って……その、どうじゃ?」
「はっ。喜んで」
「うむっ、よい返事じゃ♪」
「……ん、じゃあ、またね。」

ひらひらと手を振って、本棚の中から一冊を手に取り、黙々と読み始めるヴィント。
もしかすると、本当に先程の出来事は自分の見た白昼夢だったのではないか。そんな事を考えながら、アゼレアに続き研究室の扉をくぐろうとした時だった。

「……行綱。」

そうヴィントに呼び止められて振り返った行綱の背筋に、ぞくりとしたものが走った。
何故ならば。

「……気が変わったら、いつでも言ってね。」

――椅子に腰かけてそう言うヴィントの表情が……先程までの、あの誘うような微笑に戻っていたから。





――――――――――――――――――――





「……美味い」
「そうであろう?ここはデザートの『陶酔の果実スライムゼリー』も絶品での♪」

珍しく「発情しない程度に魔界の食材を使った料理が食べたい」と自分からリクエストしてきた行綱と一緒に『魔界いもと魔界豚ベーコンのホルミルクグラタン』を頬張るアゼレア。
余程味が気に入ったのか、それとも先日の戦闘で体力を使った反動からか、行綱の手元では既に三杯目のグラタンが空になりかけている。

「……では、それも頂きます」
「うむっ♪あ、すまぬ、陶酔ゼリーを二人分――」

行綱はスプーンを口に運びながら考えていた。
先程、ヴィントに言われた言葉を。

『……じゃあ、アゼレア様の事は、好き?』

自分にとっての彼女は、使えるべき主で。命を捨てても惜しくないと思える、守るべきお方だ。魔王陛下のご息女で、いずれはご自身の国を作り、多くの者達と共に新しい世界を歩いてゆくべきお方だ。
決して、自分がそのような対象にしていいような相手ではない。

だが、あの問いを投げかけられた瞬間。
自分の頭は、まるでそれが図星だとでも言うように真っ白になってしまった。
それまでは、何とかヴィントに言葉を返せていたというのに。

――まさか、本当に……?

「お待たせしました、ご注文の陶酔の果実スライムゼリー二人分になります」
「ほら、来たぞ行綱っ♪見た目も綺麗であろうっ?」

――いや。

もしそうであったとしても。いや、本当にそうであるならばこそ。その幸せを願えばこそ、自分は変わってはならない。
そうだ、結局の所、何も変わる事はない。自分は誰とも結ばれたいと願ってはいけない。絶対に子を成してはならない。
インキュバス化が進む事によって性欲が高まるのであれば、それは一人で処理すればいいだけの話だ。
もしこれから先、姫様への恋心が現れる事があれば、それを己の意志の力で握りつぶせばいいだけの話だ。

「……ええ、本当に」

だから今は、少しでも力を手に入れる為に。
行綱は、主が美味しそうにデザートを頬張る姿に幸せな感情を抱きながら。自らの魔力汚染を深めるべく、さわやかな酸味のゼリーを口に運んだ。




17/11/06 14:44更新 / オレンジ
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■作者メッセージ
ゲートが開いたらまず魔界豚とぬれおなご餅が食べたいです

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