第五話:人間の妻(光明編)
いつしか私達二人は言葉数も減っていった。
朝、シャルルはぎりぎりまで私を抱きしめたり、手を繋いで居てくれるのだが、そのあとは何も言わずに出て行くのが当たり前になった。
そして帰って来た時も、何も言わずにお互い服を脱いでベッドの上で肌を重ねる。
夜の営みは決して淡白なわけじゃ無い。むしろその逆で、言葉を交わす暇も惜しい程お互いの身体を激しく求め合い、貪り合っている。
でも、こんな事を続けていていいはずが無い。
昼間は心が壊れそうな程胸を痛めて、夜中は体が軋みを上げる程交わり続けるなんて、魔物だとしても体にいいと思えない。こんなの、異常だ。
このままじゃ、私達の関係が……。
何とかしなければいけないのは分かっていた。けれど、何をすればいいのか分からなかった。どうすれば不安や恐怖が消えるのか、彼と以前のように笑い合えるのか。手がかりでさえ掴めていなかった。
それでも彼を求める気持ちだけは、日に日に強くなっていった。繋がっていなければ寂しくて寂しくて胸が痛くなるくらい、狂おしい程に愛しくてたまらなかった。
……なのに、最近は彼も何も言ってくれない。
もしかして、彼はもう私を愛してくれていないのだろうか。私との営みにももう飽きてしまっていて、私をただの魔力タンクとしか思っていないとしたら?
一度浮かんだ最低の考えは簡単には頭の中から出て行ってくれなかった。私はもう何もしていない事に耐えられなかった。
でも、私一人で出来る事なんて何もなくて……。
気付けば私は、またいつかのように酒瓶を手にしてしまっていた。
食堂に誰もいないのを確認してからグラスとワインを持ち込んだ。
栓を抜いてグラス一杯なみなみと注いで一気に飲み干す。喉とかぁっと熱しながら、液体が食道を下っていく。
これは人間の作ったただのワインだから、余計に体が疼いてしまうと言った事も無い。ただ酔っぱらって忘れるためにはこっちの方が都合がよかった。
二杯目を注ごうとすると、突然隣にもう一つグラスが現れた。
「朝っぱらから酒盛りっすかぁ。飲むならもっと味わってやらないと酒が可哀そうっすよ」
「……ほっときなさいよ」
隣にキリスが座り、勝手に私の手から瓶を奪って二つのグラスに注いでしまう。
偶然見つかってしまったんだろうか。一人で酔いつぶれてやるつもりだったのに、なんだか妙な事になって来てしまった。
「いいんすか。旦那さん放ってこんなところで」
私は二杯目も一気に飲み干して、グラスを机に叩きつけた。
「うっさいわよ。放っとかれてるのは私の方なんだから!」
瓶を奪い返して三杯目を注ぐ。
「あんまり飲まない方が」
「飲みたいの。あんたも人の酒飲みたいならつまみぐらい用意しなさいよ」
「このワインは俺達の嫁が働いた金で」
「その嫁達に美味しいお昼ご飯を作ってあげてるのは私の旦那でしょ?」
「……でしたね」
はぁ、とため息を吐いてキリスは席を立った。
意外だった。どうせ適当に難癖付けて誤魔化してくると思ったのに、今日は妙に素直だ。しかも帰るかと思えば、厨房に立って何やら料理をし始めた。
……雪でも降るんじゃないかな。
と言うか、奴はいつからここに居たんだろう。本当に偶然なんだろうか。まさか私をつけて……いたわけは無いか。
グラスに四杯目を注いでいると、キリスがフライドポテトの乗った皿を持って帰って来た。
しかしワインにフライドポテトって合うのかなぁ。
「どうぞ」
「ありがとう」
試しに一口食べてみる。美味いとか不味いとかじゃなくて口の中が痛くなった。辛い。辛すぎる。そのあとさらに塩辛さが遅れてやってきた。
私は慌ててワインを流し込む。それでもまだ口の中が痛い。一体何なのよもぉ。
「あんたこれ」
怒鳴り付けようとしたが、キリスがあまりにも落ち込んだ顔をしているので毒気を抜かれてしまう。
「何、なのよぉ」
「俺が料理をしない理由っす」
「え?」
「俺、極度の味音痴なんっすよ。味音痴って言うか味が分からないというか。それだって、辛いものの方が酒には合うかと思ってちょっと辛みを付けただけのつもりだったんすけど」
キリスはグラスを空けてから、苦笑いを浮かべる。
「シャルルさんが羨ましいっすよ。滅多に人を褒めないうちの嫁まで認める程っすから。軽く嫉妬してますよ、俺」
「でもあんた、試食の時は美味しそうに」
「美味いものは味だけじゃなく分かるんすよ。食感とか噛みごたえとか、あと体が本能的に求めますから」
キリスは急に笑うのを止めて、少し怖い目で私の方を見る。
「メアリーさん、寂しいんですか?」
「べ、別に私は」
「でも、そうでもなきゃ酒なんて飲んで無かったっすよね。シャルルさんと一緒になってからは酒の匂い全然してませんでしたし、そもそもここにもあまり来てなかった」
私は何も答えられなかった。
それを肯定とみなしたのか、キリスは薄く笑い、私の方に顔を寄せてきた。腕を私の肩に回し、耳元に唇を寄せてくる。
背筋がぞくぞくした。
「だったら、慰め合いません? 二人で」
喜びでは無く、嫌悪感で。
「ぅげえっ」
キリスが胸を抑えながら机の上に突っ伏した。何が起こったのかと思ってよく見てみると、私の肘が彼のみぞおちに食い込んでいた。
考える前に体が動いてしまったんだ。やんわり手をどけるつもりだったんだけど。
「え、あっ! ごめん思わずっ」
「じょ、冗談だって、事くらい、分かって、下さいよぉ」
いいところに入ってしまったのか、キリスは息も絶え絶えだった。ちょっと申し訳ない事しちゃったなぁ。
「でも。シャルル以外にあんな触られ方したら気持ち悪いし……」
「ちょっとその言い方もショックですけど、ともかく、これで分かったでしょう」
キリスは脂汗の浮かぶ顔を無理に歪めながら、親指を立てる。
「メアリーさんにはもうシャルルさんしか居ない。そしてシャルルさんからは、魔物と一緒になった男からは雄の匂いはしないって。……もう気付いてるかと思ってましたよ」
「それはっ。……分かってるわよ。でも怖いのよ。夫の居ないジャ……姉妹達は構わずシャルルの事を男として見るかもしれないし、私だってずっとそばに居てほしいのに、シャルルは料理を作りに出て行っちゃうし」
「メアリーさんはそばに居てほしいって伝えてるんすか?」
私が何も言えずにいると、キリスは口をへの字に曲げた。
「……だって、シャルルがやりたいって言ってたんだもん。みんなの役に立ちたいって。それに料理をしている時のシャルルは、凄く生き生きしてるし」
「多分仕事場に行きながらも心中穏やかじゃないんじゃないすかねシャルルさんも。
炊き出しなんかよりメアリーさんの方が大事でしょうし。それに炊き出ししてるのもメアリーさんの為を思っての事でしょうしね」
なんだかむっとしてくる。私達の事を何も知らないキリスが自信を持って言い切ってくるのが許せない。見ても聞いても居ないこいつに、私達の何が分かるって言うんだ。
「みんなの役に立つ事が私の為なの?」
確かに私は行っていいって言ってる。でも、私の事を想うなら私の言う事なんて聞かずに一緒に居てくれたっていいじゃない。気付いてくれたっていいじゃない。
そう思っては居ても、でもキリスの前では口に出来なかった。
キリスは私の顔を一瞥すると、大きく息を吐いた。
「俺、嫁と結婚する前はこの巣の中でハーレムを作ってやるつもりだったんすよ」
「はぁ? いきなり何よ」
「まぁちょっと聞いてください。もともと俺は見たまんま、何つーか軽い奴だったというか、面倒臭がりだったというか、女何人かはべらせてそいつらのところ渡り歩いて食ってけばいいかなって思ってたんすよ。
……言いたいこと分かりますけど、そんなあからさまに「最低ね」って言う顔するのやめてくれません? 今の俺は嫁一筋なんですから。あ、さっきのは本当に冗談ですからね、メアリーさんになんて死んでも手は出しませんから」
「……そりゃ悪かったわね。あんたなんてこっちから」
「で、ジャイアントアントって勤勉で男を養ってくれるって言うじゃないですか」
こいつ。憎まれ口に言葉被せてきやがってぇ。
「おまけに魔物はみんな可愛くて、あそこの具合もいい。ちょっと外見は人間離れしてますけど、俺は子どもなんてどうでも良かったし、何もせずに飯食って女抱いて暮らせればそれでよかったんで、魔物の子と付き合おうと思ったんですよ」
まぁ、ジャイアントアントだけじゃなくて大体の魔物が旦那を養ってくれると思うけどね。養うというか離したがらないというか。性的な意味で。
「まぁでも、ある程度の自由を許してくれる子が良くて、色々探してたんすけど」
あまりそういう意味で自由を許してくれる魔物は少ないだろうなぁ。
「そんな時に見つけたのが今の嫁でした。そこまで押しも強く無くて、ジャイアントアントの癖に、あいつ最初は全然フェロモン出して無かったんすよ」
「え? でも主任は普通にフェロモン出したり嗅ぎ取ったりしてるよね」
「今はそうです。でも付き合い始めた頃は全く。
こっちの理性も保てるし、こりゃあいいと思っていたんすけどね、あいつは付き合ってる頃は魔物の癖に奥手で俺に一切手を出してこなかったんすよ。
もうこっちの方が我慢できなくなって、街中でデートしてる時に路地裏に連れ込んでちょっと強引にやっちゃったんですがね、これがいけなかった。いや、身体は凄く良かったんですけどね」
「あんたって、昔っから人間より魔物寄りの考え方してたのね」
「褒めないで下さいよ。いや、ともかく、やり終わった途端にとんでもなく濃いフェロモンが一気に噴出してきましてね。その場で二回戦が始まって、意識朦朧としながらも求婚してたみたいで、気が付いたら今住んでる部屋のベッドの上でした。
俺の上に乗って恥ずかしがりながら腰振ってる嫁が可愛くて可愛くて。気絶するまで燃え上りましたよ。もちろん今も今で凄くいいんですがね。昨日なんて」
「ああもう分かったわよ。結局何が言いたいの?」
「すみません。言いたかったことは、結局俺はうちの嫁とやって以来、嫁の事しか考えられなくなったって事です。嫁の事が人生で一番大事になった。こいつの為に自分に出来る事は何でもしてやろうって、そう思うようになったんですよ」
キリスは、一人仕事をやり終えたようなすがすがしい表情で、懐かしむように遠くを見る。
多分、おふざけではなく本気で言ってるんだろう。そのくらいは声と目を見れば分かる。
本当に、現場主任だけを愛しているんだろう。でも、私にはジャイアントアントのようなフェロモンは無い。彼等夫婦と同じように考える事は難しい。
だから私は、ついつい軽口を叩いてしまった。
「その割には、料理も洗濯もしないみたいじゃない」
「痛いところ突きますねぇ。いやはや全くその通り、でも」
キリスは急に寂しそうな顔をする。
「あいつ、俺が作った料理を何でも美味いって言って食べちゃうんすよ。さっきメアリーさんが食べたような滅茶苦茶な味の物でもです。そんなもの食ってて腹壊したらと思ったら、もう何も作れなくて。料理を作って嫁が喜ぶより、嫁の身体の方を心配してしまうって言うか。そんなにやわじゃないって分かってても、不味いもの食わせたくなくて。
洗濯にしても俺力加減が下手くそで、嫁に似合う服とかでもすぐ服駄目にしちゃうから」
……そうか。こいつはこいつで悩んでるんだ。いつもはちゃらんぽらんに見えても、しっかり嫁の事は考えてる。
「だからせめて自分に出来る事をしようと思って、嫁と一緒に居られるときはずっと交わり続ける事にしてるんすよ。一晩中、寝ずに。それくらいしか俺には出来ないっすからねぇ」
たははと笑ってキリスは頭を掻いた。私も、なんだかつられて笑ってしまう。
「そんなこと言って、えっちな事したいだけなんじゃないのぉ?」
「ばれました? へへ、それもありますけどね。でもやっぱり、シャルルさんの気持ちわかるんすよ。同じ人間ですから。
人間は、相手の事を大事に思えば思う程、相手が今喜ばないと分かっていても相手の為になると思ったことをしてしまうんです。クズみたいな俺がそうだったんですから、大体の人間がそうでしょう。
魔物は抱いてくれればそれでいいって言うかもしれませんが、えっちだって惚れてる男からしてみればご褒美ですからね。何か、自分に出来る事で恩返ししたくなる。魔物はそんな事いいって言うかもしれませんが、そう言うものなんです。だからきっとシャルルさんだって、メアリーさんの事を思っての行動なんですよ。多分」
「多分って何よ」
「ま、偉そうなこと言っても所詮は他人の考えてることは分かりませんから。あ、今した話は全部内密でお願いしますよ」
「ったく、分かってるわよ。私の話も、秘密にしといてよね」
キリスは親指を立てて歯を見せて笑った。
私は彼のグラスにグラスを合わせ、席を立つ。もう酒を飲む気分でも無かった。
話の内容を全部理解できたわけじゃ無いけど、とても大切な話をしてくれた事は分かった。キリスの主任への気持ち。人間の妻に対する愛。
もしかしたら私はシャルルの気持ちを見ていなかったのかもしれない。だとしたら、ちゃんと考えなくてはいけない。本当のシャルルの気持ちを。
「残りは全部飲んでいいわ。その代わり片付けよろしく」
キリスの不満げな声を笑って無視して、私は食堂を後にした。
人間は交わり以外にも、自分に出来る事で恩を返そうとする。例え相手がその場では喜ばなかったとしても、本当に相手の為になる事をしようとする。言われれば理解は出来るけれど、実感することはなかなか難しい。
正直私には良く分からない。私は寝て、食べて、男と交尾できればそれでよかった。独りが嫌で、だからシャルルにもずっとそばに居て欲しくて。
でも、一緒に居るシャルルがつまらなそうな顔をしているのも嫌で、それで……。
みんなの料理を作る。でも、それは本当に私の為を思っての事なんだろうか。やっぱり住処や食べ物を与えてくれるジャイアントアント達への恩を返しているだけなんじゃないだろうか。
アントアラクネの私は借りたり奪ったりしかしていない。フェロモンさえ借り物だ。
……私といつも一緒に居たのはアンだ。私に一番染み付いているフェロモンはアンのフェロモン。だったらシャルルは……。
駄目だ。こんな考え方じゃいつもと一緒じゃないか。
酒を飲んだのは間違いだったかもしれない。思考が、どうも悪い方へ行ってしまう。
外に出て風に当たろう。そうすれば酔いも冷めて気分も晴れるかもしれない。
地上への穴は既に少し空いていた。仕事に行った連中がちゃんと扉を締めなかったのかな。不用心だなぁ。まぁ、開ける手間が無くていいか。
隙間をすり抜けて地上に出て、私は何日ぶりかの太陽の光を浴びた。
アントアラクネが外に出てすがすがしいと思うなんてねぇ。ちょっと変な気もするけど、たまにはこういうのも悪くない。
木々の間を潜り抜けてきた青い匂いのする風が頬を撫でていく。
私は穴を出てすぐの野原に腰を下ろした。日の光がぽかぽかと暖かくて、なんだか眠くなってしまいそうだ。
でも、ここで眠るのも悪くないかも。
ジャイアントアントの巣の外で、どこでもない野原で眠る。巣の中じゃないから、何かを偽る必要も無い。
シャルルがそばに居てくれればこんな事も考えずに済むのに。シャルルだけが私を孤独から救い出してくれるのに。そのシャルルが今はジャイアントアント達と一緒に行ってしまっている。
身を横たえる。このまま眠ってしまおう。
巣穴は森の中に目印も無くポツンとあるだけだから、あんまり離れてしまうと場所が分からなくなってしまう。でもここは巣穴の近くだし、仮に寝すぎても仕事に行っていた連中が帰ってくれば起こしてくれるだろう。
目を瞑ってのんびりしていると、突然誰かが声をかけてきた。
「ここ、気持ちいいわよね。私も良く昼寝するの」
「へぇ、そうなんだ」
聞き覚えのある声だけど、誰だろう。ジャイアントアントだろうけど、仕事に行ってない子なんて私以外に居たんだ。
「隣、いいかしら」
「うん。別に私はいいよ」
「ありがとう。うふふ、こうしていると本当の親子みたいね、メアリー」
「そうねぇ」
改めてそんなこと言うなんて、変な子だなぁ。それに本当の親子だなんて、私がアントアラクネだなんて夢にも思っていないんだろうなぁ。この巣の子達は本当にお人好しなんだから。
ん、でも、姉妹じゃなくて親子? それにみんなが仕事してる時間に巣に居るって……まさか!
パッと目を開けると、目の前には柔和な笑みを浮かべる女性の顔があった。頭には一対の触角。だがその下の顔は、見慣れた幼さの残る顔では無く、成熟した大人の女の顔だった。
この人は働き蟻じゃない。女王蟻だ!
「じょ、女王、様。すすすすみません」
慌てて立ち上がって居住まいを正して頭を下げる。うぅ、私なんて失礼な事しちゃったんだろう。ため口きいて生返事なんかして。
「メアリー、顔を上げてちょうだい」
「は、はい」
女王様は頬を膨らませながら不機嫌そうな顔でこっちを見上げていた。目を合わせていられなくて、私は視線を反らしてしまう。
何で女王様が外に居るの? 旦那様とずっと一緒なんじゃないの? ていうか今の状況、仕事サボって一人で外に居るところも見られちゃってるし、これって、まずいんじゃ……。
「もう、折角いい感じだったのに。やっぱりまだお母さんとは呼んでくれないのね」
「あの、その。すみません」
女王様は息を吐いて、ふっと表情を緩めた。
「まぁいいわ。そんな事より、聞いたわよメアリー。最近はシャルルさんばかり仕事場に行っていてあなたは部屋の中に居るんですって? 何かあったの?」
そんな事まで知ってるの? え、ど、どうしよう。
「その、体調が……」
女王様は急に表情を険しくした。お、怒られる?
「それはいけないわ。体調が悪い奥さんを放って仕事に行くなんて、シャルルさんは何をしているのかしら。部屋に呼び出してお説教しなきゃいけないわね。仕事なんていいから奥さんを大事にしなさいって。……これは身体に教え込んであげなくちゃいけなくなるかもしれないわ」
身体にって、えぇ!? でも、"女王"蟻だし。まさか、シャルルを鞭で叩く気じゃ……。なんて羨ま、じゃなくてシャルルに触っていいのは私だけなんだから。そういうプレイだって私しかしちゃ駄目なんだから。
女王様にだってシャルルだけは譲る気は無い。それにシャルルは悪くないんだから。
「違うんです。私が行ってって言ったから、だからシャルルは仕事場に」
「あなたはそれで良かったの?」
「だ、だって、シャルルがそうしたいって言ったから」
「そうなんだ。ふぅん。メアリー、あなたやっぱり変わってるわね」
女王様は口元に手を当てて上品に笑った。何よ、変わってるのはあんたたちジャイアントアント達の方じゃない。種族すら違う、見ず知らずの私を仲間だと思い込んで、人が良すぎるにもほどがある。
私は何だかむっとして、言い返してしまう。
「そんな事ありません。確かに私は身体が弱くて、仕事場にはなかなか行けませんけど」
「いいえ、変わってるわ。自分の巣から夫が出ていく事を好きにさせてて、おまけに自分から日光浴の為に外に出てくるアントアラクネなんて、私初めて見たもの」
「……え?」
気付かれていた?
いつから?
いや、まだ冗談と言う可能性もある。ほら、女王様も楽しそうに笑っているし、ただおしゃべりを楽しんでいるようにしか。
「じょ、冗」
「でもあなたがちょっと変わっていて良かったわ。じゃなかったらこうしてアントアラクネのあなたとお日様の下でおしゃべりなんて出来なかったでしょうし」
あ。
終わった。私のこの巣での生活は、全部終わってしまった。
正体がばれてしまえば、いつまでもこの巣に居られるはずが無い。だましている事がバレたら、いくらこの巣の連中がお人好し揃いとは言っても、出て行けと言われるのが当たり前だ。
だって、赤の他人なんだから。
同種だと騙して、ただ飯食って、ベッドや部屋を占拠して、おまけに本当だったらこの巣の誰かの旦那になるはずだった男を奪って自分のものにした。
私なんてただの泥棒。恨まれて当然だ。
でも、アンや主任の口から「出て行け」という言葉だけは聞きたくない。自分でも都合のいい事だと思うけど、好きな人達から糾弾されるのだけは。
出て行くなら、早い方がいいだろう……。
「出て、行きます」
「今から仕事に行くの? でももうお昼よ?」
「違います。この巣から出て行きます。今までお世話になりました。騙していてごめんなさい」
シャルルはお返しします。きっと私なんかよりアンの方がお似合いです。……言わなきゃ、言わなくちゃいけないのに、どうしても言葉に出来ない。涙が出そうになって、喉が詰まって何も言えない。
「メアリー、冗談でもそんな事言うのはやめてちょうだい。悲しくなるじゃない」
女王様が立ち上がり、私の身体を抱きしめる。"母親"の匂いがして、急に自分のお母さんの事を思い出した。お母さんは元気でやっているだろうか。私を産んだあのジャイアントアントの巣で、まだお父さんと仲良くやっているだろうか。
働き蟻には生殖能力は無い。だから、子どもが居る事がバレたら巣から追い出されてしまう。
だから母さんたちを困らせたく無い一心で巣を出てきた。今更巣から追い出されるなんて全然、全然構わなかったのに。そう思っていたのに。
でも違った。女王様に抱きしめられて、私は気付いてしまった。
私はアン達の事、お人好し過ぎるって馬鹿にしながらも大好きで。だからずっと一緒に居たくて。もっと仲良くしたくて。でも、正体がばれてしまうって思ったら踏み込みづらくて。
シャルルの事だって、奪ったような気がしていて。だから取り返されてしまうような気がして怖くて。でも本当に愛しているから、絶対離したく無くて。
出て行きたくない。この巣に居たい。大好きな人達と、愛している夫と一緒に居たい。
「ごめ、ごめんなさい。私ここに居たいです。ジャイアントアントじゃないけど。アントアラクネだけど。迷惑ばかりかけてるけど、でも、この巣のみんなが大好きだから」
「当たり前でしょう? だって、あなたは私の大事な娘の一人なんですから」
「でも私は女王様の子どもじゃないし。種族だって」
「あなたがアントアラクネだって事は、私は最初から分かってました。分かっていたうえで、私はあなたをこの巣に招いたのよ」
その一言は私の頭を真っ白にさせるのに十分な力を持っていた。途中じゃなくて、最初から?
でも気が付いていたなら、どうしてわざわざ大事な巣の中に余計な虫を招き入れたりなんかしたんだろう。わけが分からない。
「なっ。どうして」
「だってあなた、この巣に来たとき『群れからはぐれて行き場が無い』って言ってたでしょう? 種族が違っても、困っている魔物を放っておけないもの」
顔が熱くなってくる。この人は、全く。私はジャイアントアントのふりをして食べ物や男を奪うアントアラクネだって言うのに。女王がこんなだからこの巣の連中はみんなお人好しなんだ。
本当に、本当に馬鹿な連中なんだから……。赤の他人の私を、種族すら違う私を。
「姿かたちも私達にそっくりですからね。だから、あなたを娘にすることにしたの」
視界が歪んで、お母さんの顔が良く見えなかった。
「おか、お母さん」
「あら、やっと呼んでくれたわね」
お母さんの手が私の頭を撫でる。その手は、幼いころに私を撫でてくれた本物の母親の手に似ていた。
それから私達は隣りに座って少しおしゃべりをした。
と言っても、主にしゃべっているのは女王様の方で、私はもっぱら聞き役だったけど。もっとも聞き役としても役割を果たせていたのかどうか自分でも自信が無い。
大体、旦那は昼間娘二人の相手をするので自分は夜しか構ってくれないの、なんて話を聞かされて何て答えればいいのか。どんな顔をすればいいのかさえ、私には分からなかったのだ。
女王蟻とその娘二人のハーレム。旦那様も凄い精力なんだろうなぁ。
「それにしても、よく娘としてるのを許せますね」
「んー。娘も二人とも、あの人の事愛しちゃったからねぇ。あの人も異性として認識してるし、私自身、娘もあの人も愛してるから。
愛する娘が、愛している人に抱きしめられて幸せそうにしてるのを見るのもまた幸せよ」
旦那様も凄いんだろうけど、この人も凄い。
「メアリーはそう言うの駄目なの?」
「……だって、他の子が入ってきたら、ジャイアントアントのフェロモンを前にしたら、私なんてきっと相手にされなくなっちゃいそうだし。私には何の取り柄も」
「そうかしら。みんな「メアリーちゃんは糸を使って旦那様と色んな交わりが出来て羨ましい」って言ってたわよ」
「でも、私にはフェロモンが」
「フェロモンはある意味ではこの巣のみんなが持ってるわよね。でも、旦那様を縛って虜にしてしまう糸は、あなたしか持ってないわ。それはもしかしたらフェロモン以上に旦那様を夢中にさせているかもしれない。いいえ、きっとそうよ。だってみんなが羨ましがっているくらいだもの」
そう、かなぁ。みんなが私を……。ん?
「私がアントアラクネだって気付いてたのって、女王様、いえ、お母さんだけなんじゃ?」
女王様はにっこり笑って首を振った。
「みんな気が付いてるわよ」
え、嘘。いつから?
「あなたがシャルルさんを恋人だって嘘吐いて旦那様にしちゃった日の夜、みんなでお祝いを言いに行こうとしたのよ。でもドアが開かないじゃない?」
嘘吐いてって、そこまでばれて……。
「あの、みんなって」
「アンとか、あの場に居たみんなかなぁ」
あの場に居たみんなって、縛られてたシャルルを取り囲んでいたみんな? 相当数が居たはずなんだけど。
「無理矢理ドアを開けようともしたんだけど、なんだかたくさんの糸が引っかかっていてわずかにしか開かないし、隙間から覗いて見ればベッドの上には縛り付けられたシャルルさんに馬乗りになってるあなたがいるじゃない? シャルルさんもそれらしいこと言っていたし」
全身が熱くなってきて、慌てて私は顔を覆う。やだ。初めてのえっちを見られてたなんて。しかも女王様やアンだけじゃなくてたくさんのみんなに。
「そこでみんなピンと来たみたい。もしかしてメアリーちゃんってアントアラクネなのかなぁって」
「……怒って、ました?」
「みんな安心してたわよ。仕事に出られないのも、すぐ疲れちゃうのも病気じゃ無かったんだね、良かったねって。おまけに誰かの旦那様になったかもしれない男の人を取られたって言うのに、あの子達も素直に喜んじゃっててねぇ。まぁ、あの子たちにとってもメアリーはそれだけ大事な姉妹だったって事よ」
女王様は苦笑いだった。
「自分の娘の事ながら、なんて人のいい子達なんだろうって思っちゃったわよ。あなたを娘にしたのも、自分の娘達に学ばせたいって意味もあったんだけどね」
まぁ確かに良くも悪くも人がいいからなぁ。この巣の中の子達はみんな。
「でも、あなたのおかげでみんなもだんだんやる気が出てきたみたいでね。それからよ、娘達が何人も立て続けに旦那様を見つけ始めたのは」
「私は、何も」
「ううん。気になる男の人が居たら自分から向かって行かなきゃ駄目だって、あなたが教えてくれたのよ。糸で絡み取れない分、自分達は必死で歩いて行ってしがみつかなきゃ駄目なんだって」
何か、褒められてるんだろうか。あまり良く分からない言われ方だ。まるで私が他の子より男にがっついてたみたいな。……いや、間違ってはないか。
まぁ、役に立ってるならそれでいいか。前のジャイアントアントの巣では、役立たずと言われないまでも明らかに不審な目で見られていたし。それが嫌で逃げて来ちゃったわけだし。
それを思えば、この巣は本当に居心地が良いし、姉妹達もみんな気がいい連中だ。
「そう言う意味でも、あなたには出て行って欲しくないのよ。他の姉や妹のいい刺激になって欲しいの。そのためならご飯でも寝床でもいくらでも用意するわ。まぁ娘なんだから一緒に住むのもご飯食べるのも当たり前なんだけどね」
「分かったわよ。もう出て行くなんて言わない。……でもやっぱりお母さんって呼ぶのは恥ずかしいなぁ、女王様じゃ」
「駄目。お母さんって呼んで」
胸に両手を寄せながら祈るような仕草で懇願された。なんというか、この人はやっぱり苦手と言う程じゃないけど、調子を狂わされる。
「お母さん」
「なぁに? メアリー」
本気なのかわざとなのか、すっごく嬉しそうに笑ってるし。今だけじゃない。いつだってこの人も、巣の姉妹達も私なんかと仲良くしようとしてくれる。
やっぱり凄く申し訳なくて、感謝してもしきれない。
「怠け者で面倒臭がりなこんな私を、その、拾ってくれてありがとう」
「何言ってるのよ」
分かっていたけど、やっぱり私の後ろ向きな気持ちは笑い飛ばされてしまった。
「あなたが来てくれた時は嬉しかったのよ? 私の巣もようやくアントアラクネが紛れ込もうとするくらい大きくなったんだなぁって。あなたを見る前はお客さんを迎えるような気持ちで居たの。
でもあなたは捨て犬みたいな寂しそうな顔をしていて、そんな姿を見てしまったらもうお客さんだなんて思えなくなっちゃった。
それに、私の旦那様の方がよっぽど怠け者よ? 一日中ベッドの中から出たがらないし、気分が乗らない時は上に乗って腰振ってくれとか言うし、ご飯食べるの面倒だから口移しで食べさせてくれなんて言うし」
どこかで聞いたことがあるような話だなぁ。あれ、なんか他人とは思えなくなってきた。
一回見てみたいなぁ。でもベッドから出たがらないって話だし、女王様の夫でもあるし会う機会は無いだろうけど。
「そうだ、今度一緒にお食事しましょう。シャルルさん料理が上手なんでしょう? 私も食べてみたいわ」
「じゃ、じゃあ機会があれば」
あら、思ったより早く会えるかもしれない。
「絶対よ。約束よ」
手を握られてじっと見つめられたら、頷くしか無い。
満足そうに頷くと、女王様は急に唇を歪めて欲情に溺れた女の顔になった。
「あぁ、お料理の話をしていたらお腹が減ってきちゃったわ。もうお昼だし、あの人にお腹いっぱいにしてもらわなきゃ」
下腹部に指を滑らせる姿は、獲物を前にした魔物そのものだった。
無垢な子どものようだと思えば、こんな風に男の事しか考えてない雌の顔もする。他にも力では無く言葉をもって相手を制する策士の顔も持っているし、本当にこの人は底が知れない。
「じゃあ、私は行くわね。話が出来て楽しかったわ」
「私も、何かすっきりした気がします」
立ち上がって巣穴に向かう女王様の背中に手を振って見送り、私の周りはまた風の音しかしなくなる。
目を瞑る。シャルルの事を想い、キリスの言葉を思い出し、女王様やアン達ジャイアントアントのフェロモンを思い返し、もう一度シャルルの事を考えてから、私は目を開いて立ち上がった。
人間が、大切だと思っている人の為に役に立とうとすることで愛や想いを表現するのであれば、私もそれを真似すればシャルルも喜んでくれるかもしれない。
シャルルの為に何か出来るだろうか。私にしか出来ない事、何か無いだろうか。
アントアラクネの私に出来る事。蜘蛛のように糸を使える事。
糸、か。
試して、みようかな。
本場のアラクネやジョロウグモには及ばないかもしれないけど、私だってれっきとしたアラクネ種なんだから。
シャルルの事を強く想えば、私にだって糸が紡げるはずだ。
ただシャルルの事を思って糸を紡いだ。
真直ぐに愛しい気持ち、肌を重ねている時の甘い甘い気持ち、腕に抱かれて眠るときの穏やかな気持ち、並んで料理したときの楽しい気持ち、一緒に居るだけで幸せな気持ち。
浮かんでくるのは快い気持ちだけでは無かった。シャルルの事を考えるとどうしても取られてしまうかもしれないという不安や、捨てられてしまうかもしれないという恐怖も混じってしまう。
なかなか一つにまとまり切らない感情がそのまま表れているかのように、気が付けば色とりどりの糸が机の上に並んでいた。
愛しさの白、甘さの桃、楽しさの黄、不安の藍、恐怖の黒。
どれも中途半端な量しか無くて、どう見積もっても洋服一着つくる事も出来そうにない。
やっぱり駄目なのかな。私なんかが頑張ったところで何にもならないのかなぁ。
机の上に突っ伏すと、ちょうどベッドが目に入った。柔らかくて、二人の匂いがたっぷり染み付いたシーツが私を誘っていた。
全て忘れて眠ってしまえば楽になれる。
でも、シャルルはあの時、どんなに目玉焼きを失敗しても上手くいくまで作り続けていた。食べてくれる人の事を、私の事を考えて。
まったく、本当に私はアントアラクネらしく無い。ここに長く居すぎて影響されてきてるのかもしれないなぁ。
机の上の糸を手に取って考える。
雑多にまとまらない私の気持ち。でもこれは間違いなく、不安や恐怖も全部まとめて、私のシャルルに対する大切な気持ちなんだ。
これを使ってシャルルの為に、きっと何か出来るはずだ。
朝、シャルルはぎりぎりまで私を抱きしめたり、手を繋いで居てくれるのだが、そのあとは何も言わずに出て行くのが当たり前になった。
そして帰って来た時も、何も言わずにお互い服を脱いでベッドの上で肌を重ねる。
夜の営みは決して淡白なわけじゃ無い。むしろその逆で、言葉を交わす暇も惜しい程お互いの身体を激しく求め合い、貪り合っている。
でも、こんな事を続けていていいはずが無い。
昼間は心が壊れそうな程胸を痛めて、夜中は体が軋みを上げる程交わり続けるなんて、魔物だとしても体にいいと思えない。こんなの、異常だ。
このままじゃ、私達の関係が……。
何とかしなければいけないのは分かっていた。けれど、何をすればいいのか分からなかった。どうすれば不安や恐怖が消えるのか、彼と以前のように笑い合えるのか。手がかりでさえ掴めていなかった。
それでも彼を求める気持ちだけは、日に日に強くなっていった。繋がっていなければ寂しくて寂しくて胸が痛くなるくらい、狂おしい程に愛しくてたまらなかった。
……なのに、最近は彼も何も言ってくれない。
もしかして、彼はもう私を愛してくれていないのだろうか。私との営みにももう飽きてしまっていて、私をただの魔力タンクとしか思っていないとしたら?
一度浮かんだ最低の考えは簡単には頭の中から出て行ってくれなかった。私はもう何もしていない事に耐えられなかった。
でも、私一人で出来る事なんて何もなくて……。
気付けば私は、またいつかのように酒瓶を手にしてしまっていた。
食堂に誰もいないのを確認してからグラスとワインを持ち込んだ。
栓を抜いてグラス一杯なみなみと注いで一気に飲み干す。喉とかぁっと熱しながら、液体が食道を下っていく。
これは人間の作ったただのワインだから、余計に体が疼いてしまうと言った事も無い。ただ酔っぱらって忘れるためにはこっちの方が都合がよかった。
二杯目を注ごうとすると、突然隣にもう一つグラスが現れた。
「朝っぱらから酒盛りっすかぁ。飲むならもっと味わってやらないと酒が可哀そうっすよ」
「……ほっときなさいよ」
隣にキリスが座り、勝手に私の手から瓶を奪って二つのグラスに注いでしまう。
偶然見つかってしまったんだろうか。一人で酔いつぶれてやるつもりだったのに、なんだか妙な事になって来てしまった。
「いいんすか。旦那さん放ってこんなところで」
私は二杯目も一気に飲み干して、グラスを机に叩きつけた。
「うっさいわよ。放っとかれてるのは私の方なんだから!」
瓶を奪い返して三杯目を注ぐ。
「あんまり飲まない方が」
「飲みたいの。あんたも人の酒飲みたいならつまみぐらい用意しなさいよ」
「このワインは俺達の嫁が働いた金で」
「その嫁達に美味しいお昼ご飯を作ってあげてるのは私の旦那でしょ?」
「……でしたね」
はぁ、とため息を吐いてキリスは席を立った。
意外だった。どうせ適当に難癖付けて誤魔化してくると思ったのに、今日は妙に素直だ。しかも帰るかと思えば、厨房に立って何やら料理をし始めた。
……雪でも降るんじゃないかな。
と言うか、奴はいつからここに居たんだろう。本当に偶然なんだろうか。まさか私をつけて……いたわけは無いか。
グラスに四杯目を注いでいると、キリスがフライドポテトの乗った皿を持って帰って来た。
しかしワインにフライドポテトって合うのかなぁ。
「どうぞ」
「ありがとう」
試しに一口食べてみる。美味いとか不味いとかじゃなくて口の中が痛くなった。辛い。辛すぎる。そのあとさらに塩辛さが遅れてやってきた。
私は慌ててワインを流し込む。それでもまだ口の中が痛い。一体何なのよもぉ。
「あんたこれ」
怒鳴り付けようとしたが、キリスがあまりにも落ち込んだ顔をしているので毒気を抜かれてしまう。
「何、なのよぉ」
「俺が料理をしない理由っす」
「え?」
「俺、極度の味音痴なんっすよ。味音痴って言うか味が分からないというか。それだって、辛いものの方が酒には合うかと思ってちょっと辛みを付けただけのつもりだったんすけど」
キリスはグラスを空けてから、苦笑いを浮かべる。
「シャルルさんが羨ましいっすよ。滅多に人を褒めないうちの嫁まで認める程っすから。軽く嫉妬してますよ、俺」
「でもあんた、試食の時は美味しそうに」
「美味いものは味だけじゃなく分かるんすよ。食感とか噛みごたえとか、あと体が本能的に求めますから」
キリスは急に笑うのを止めて、少し怖い目で私の方を見る。
「メアリーさん、寂しいんですか?」
「べ、別に私は」
「でも、そうでもなきゃ酒なんて飲んで無かったっすよね。シャルルさんと一緒になってからは酒の匂い全然してませんでしたし、そもそもここにもあまり来てなかった」
私は何も答えられなかった。
それを肯定とみなしたのか、キリスは薄く笑い、私の方に顔を寄せてきた。腕を私の肩に回し、耳元に唇を寄せてくる。
背筋がぞくぞくした。
「だったら、慰め合いません? 二人で」
喜びでは無く、嫌悪感で。
「ぅげえっ」
キリスが胸を抑えながら机の上に突っ伏した。何が起こったのかと思ってよく見てみると、私の肘が彼のみぞおちに食い込んでいた。
考える前に体が動いてしまったんだ。やんわり手をどけるつもりだったんだけど。
「え、あっ! ごめん思わずっ」
「じょ、冗談だって、事くらい、分かって、下さいよぉ」
いいところに入ってしまったのか、キリスは息も絶え絶えだった。ちょっと申し訳ない事しちゃったなぁ。
「でも。シャルル以外にあんな触られ方したら気持ち悪いし……」
「ちょっとその言い方もショックですけど、ともかく、これで分かったでしょう」
キリスは脂汗の浮かぶ顔を無理に歪めながら、親指を立てる。
「メアリーさんにはもうシャルルさんしか居ない。そしてシャルルさんからは、魔物と一緒になった男からは雄の匂いはしないって。……もう気付いてるかと思ってましたよ」
「それはっ。……分かってるわよ。でも怖いのよ。夫の居ないジャ……姉妹達は構わずシャルルの事を男として見るかもしれないし、私だってずっとそばに居てほしいのに、シャルルは料理を作りに出て行っちゃうし」
「メアリーさんはそばに居てほしいって伝えてるんすか?」
私が何も言えずにいると、キリスは口をへの字に曲げた。
「……だって、シャルルがやりたいって言ってたんだもん。みんなの役に立ちたいって。それに料理をしている時のシャルルは、凄く生き生きしてるし」
「多分仕事場に行きながらも心中穏やかじゃないんじゃないすかねシャルルさんも。
炊き出しなんかよりメアリーさんの方が大事でしょうし。それに炊き出ししてるのもメアリーさんの為を思っての事でしょうしね」
なんだかむっとしてくる。私達の事を何も知らないキリスが自信を持って言い切ってくるのが許せない。見ても聞いても居ないこいつに、私達の何が分かるって言うんだ。
「みんなの役に立つ事が私の為なの?」
確かに私は行っていいって言ってる。でも、私の事を想うなら私の言う事なんて聞かずに一緒に居てくれたっていいじゃない。気付いてくれたっていいじゃない。
そう思っては居ても、でもキリスの前では口に出来なかった。
キリスは私の顔を一瞥すると、大きく息を吐いた。
「俺、嫁と結婚する前はこの巣の中でハーレムを作ってやるつもりだったんすよ」
「はぁ? いきなり何よ」
「まぁちょっと聞いてください。もともと俺は見たまんま、何つーか軽い奴だったというか、面倒臭がりだったというか、女何人かはべらせてそいつらのところ渡り歩いて食ってけばいいかなって思ってたんすよ。
……言いたいこと分かりますけど、そんなあからさまに「最低ね」って言う顔するのやめてくれません? 今の俺は嫁一筋なんですから。あ、さっきのは本当に冗談ですからね、メアリーさんになんて死んでも手は出しませんから」
「……そりゃ悪かったわね。あんたなんてこっちから」
「で、ジャイアントアントって勤勉で男を養ってくれるって言うじゃないですか」
こいつ。憎まれ口に言葉被せてきやがってぇ。
「おまけに魔物はみんな可愛くて、あそこの具合もいい。ちょっと外見は人間離れしてますけど、俺は子どもなんてどうでも良かったし、何もせずに飯食って女抱いて暮らせればそれでよかったんで、魔物の子と付き合おうと思ったんですよ」
まぁ、ジャイアントアントだけじゃなくて大体の魔物が旦那を養ってくれると思うけどね。養うというか離したがらないというか。性的な意味で。
「まぁでも、ある程度の自由を許してくれる子が良くて、色々探してたんすけど」
あまりそういう意味で自由を許してくれる魔物は少ないだろうなぁ。
「そんな時に見つけたのが今の嫁でした。そこまで押しも強く無くて、ジャイアントアントの癖に、あいつ最初は全然フェロモン出して無かったんすよ」
「え? でも主任は普通にフェロモン出したり嗅ぎ取ったりしてるよね」
「今はそうです。でも付き合い始めた頃は全く。
こっちの理性も保てるし、こりゃあいいと思っていたんすけどね、あいつは付き合ってる頃は魔物の癖に奥手で俺に一切手を出してこなかったんすよ。
もうこっちの方が我慢できなくなって、街中でデートしてる時に路地裏に連れ込んでちょっと強引にやっちゃったんですがね、これがいけなかった。いや、身体は凄く良かったんですけどね」
「あんたって、昔っから人間より魔物寄りの考え方してたのね」
「褒めないで下さいよ。いや、ともかく、やり終わった途端にとんでもなく濃いフェロモンが一気に噴出してきましてね。その場で二回戦が始まって、意識朦朧としながらも求婚してたみたいで、気が付いたら今住んでる部屋のベッドの上でした。
俺の上に乗って恥ずかしがりながら腰振ってる嫁が可愛くて可愛くて。気絶するまで燃え上りましたよ。もちろん今も今で凄くいいんですがね。昨日なんて」
「ああもう分かったわよ。結局何が言いたいの?」
「すみません。言いたかったことは、結局俺はうちの嫁とやって以来、嫁の事しか考えられなくなったって事です。嫁の事が人生で一番大事になった。こいつの為に自分に出来る事は何でもしてやろうって、そう思うようになったんですよ」
キリスは、一人仕事をやり終えたようなすがすがしい表情で、懐かしむように遠くを見る。
多分、おふざけではなく本気で言ってるんだろう。そのくらいは声と目を見れば分かる。
本当に、現場主任だけを愛しているんだろう。でも、私にはジャイアントアントのようなフェロモンは無い。彼等夫婦と同じように考える事は難しい。
だから私は、ついつい軽口を叩いてしまった。
「その割には、料理も洗濯もしないみたいじゃない」
「痛いところ突きますねぇ。いやはや全くその通り、でも」
キリスは急に寂しそうな顔をする。
「あいつ、俺が作った料理を何でも美味いって言って食べちゃうんすよ。さっきメアリーさんが食べたような滅茶苦茶な味の物でもです。そんなもの食ってて腹壊したらと思ったら、もう何も作れなくて。料理を作って嫁が喜ぶより、嫁の身体の方を心配してしまうって言うか。そんなにやわじゃないって分かってても、不味いもの食わせたくなくて。
洗濯にしても俺力加減が下手くそで、嫁に似合う服とかでもすぐ服駄目にしちゃうから」
……そうか。こいつはこいつで悩んでるんだ。いつもはちゃらんぽらんに見えても、しっかり嫁の事は考えてる。
「だからせめて自分に出来る事をしようと思って、嫁と一緒に居られるときはずっと交わり続ける事にしてるんすよ。一晩中、寝ずに。それくらいしか俺には出来ないっすからねぇ」
たははと笑ってキリスは頭を掻いた。私も、なんだかつられて笑ってしまう。
「そんなこと言って、えっちな事したいだけなんじゃないのぉ?」
「ばれました? へへ、それもありますけどね。でもやっぱり、シャルルさんの気持ちわかるんすよ。同じ人間ですから。
人間は、相手の事を大事に思えば思う程、相手が今喜ばないと分かっていても相手の為になると思ったことをしてしまうんです。クズみたいな俺がそうだったんですから、大体の人間がそうでしょう。
魔物は抱いてくれればそれでいいって言うかもしれませんが、えっちだって惚れてる男からしてみればご褒美ですからね。何か、自分に出来る事で恩返ししたくなる。魔物はそんな事いいって言うかもしれませんが、そう言うものなんです。だからきっとシャルルさんだって、メアリーさんの事を思っての行動なんですよ。多分」
「多分って何よ」
「ま、偉そうなこと言っても所詮は他人の考えてることは分かりませんから。あ、今した話は全部内密でお願いしますよ」
「ったく、分かってるわよ。私の話も、秘密にしといてよね」
キリスは親指を立てて歯を見せて笑った。
私は彼のグラスにグラスを合わせ、席を立つ。もう酒を飲む気分でも無かった。
話の内容を全部理解できたわけじゃ無いけど、とても大切な話をしてくれた事は分かった。キリスの主任への気持ち。人間の妻に対する愛。
もしかしたら私はシャルルの気持ちを見ていなかったのかもしれない。だとしたら、ちゃんと考えなくてはいけない。本当のシャルルの気持ちを。
「残りは全部飲んでいいわ。その代わり片付けよろしく」
キリスの不満げな声を笑って無視して、私は食堂を後にした。
人間は交わり以外にも、自分に出来る事で恩を返そうとする。例え相手がその場では喜ばなかったとしても、本当に相手の為になる事をしようとする。言われれば理解は出来るけれど、実感することはなかなか難しい。
正直私には良く分からない。私は寝て、食べて、男と交尾できればそれでよかった。独りが嫌で、だからシャルルにもずっとそばに居て欲しくて。
でも、一緒に居るシャルルがつまらなそうな顔をしているのも嫌で、それで……。
みんなの料理を作る。でも、それは本当に私の為を思っての事なんだろうか。やっぱり住処や食べ物を与えてくれるジャイアントアント達への恩を返しているだけなんじゃないだろうか。
アントアラクネの私は借りたり奪ったりしかしていない。フェロモンさえ借り物だ。
……私といつも一緒に居たのはアンだ。私に一番染み付いているフェロモンはアンのフェロモン。だったらシャルルは……。
駄目だ。こんな考え方じゃいつもと一緒じゃないか。
酒を飲んだのは間違いだったかもしれない。思考が、どうも悪い方へ行ってしまう。
外に出て風に当たろう。そうすれば酔いも冷めて気分も晴れるかもしれない。
地上への穴は既に少し空いていた。仕事に行った連中がちゃんと扉を締めなかったのかな。不用心だなぁ。まぁ、開ける手間が無くていいか。
隙間をすり抜けて地上に出て、私は何日ぶりかの太陽の光を浴びた。
アントアラクネが外に出てすがすがしいと思うなんてねぇ。ちょっと変な気もするけど、たまにはこういうのも悪くない。
木々の間を潜り抜けてきた青い匂いのする風が頬を撫でていく。
私は穴を出てすぐの野原に腰を下ろした。日の光がぽかぽかと暖かくて、なんだか眠くなってしまいそうだ。
でも、ここで眠るのも悪くないかも。
ジャイアントアントの巣の外で、どこでもない野原で眠る。巣の中じゃないから、何かを偽る必要も無い。
シャルルがそばに居てくれればこんな事も考えずに済むのに。シャルルだけが私を孤独から救い出してくれるのに。そのシャルルが今はジャイアントアント達と一緒に行ってしまっている。
身を横たえる。このまま眠ってしまおう。
巣穴は森の中に目印も無くポツンとあるだけだから、あんまり離れてしまうと場所が分からなくなってしまう。でもここは巣穴の近くだし、仮に寝すぎても仕事に行っていた連中が帰ってくれば起こしてくれるだろう。
目を瞑ってのんびりしていると、突然誰かが声をかけてきた。
「ここ、気持ちいいわよね。私も良く昼寝するの」
「へぇ、そうなんだ」
聞き覚えのある声だけど、誰だろう。ジャイアントアントだろうけど、仕事に行ってない子なんて私以外に居たんだ。
「隣、いいかしら」
「うん。別に私はいいよ」
「ありがとう。うふふ、こうしていると本当の親子みたいね、メアリー」
「そうねぇ」
改めてそんなこと言うなんて、変な子だなぁ。それに本当の親子だなんて、私がアントアラクネだなんて夢にも思っていないんだろうなぁ。この巣の子達は本当にお人好しなんだから。
ん、でも、姉妹じゃなくて親子? それにみんなが仕事してる時間に巣に居るって……まさか!
パッと目を開けると、目の前には柔和な笑みを浮かべる女性の顔があった。頭には一対の触角。だがその下の顔は、見慣れた幼さの残る顔では無く、成熟した大人の女の顔だった。
この人は働き蟻じゃない。女王蟻だ!
「じょ、女王、様。すすすすみません」
慌てて立ち上がって居住まいを正して頭を下げる。うぅ、私なんて失礼な事しちゃったんだろう。ため口きいて生返事なんかして。
「メアリー、顔を上げてちょうだい」
「は、はい」
女王様は頬を膨らませながら不機嫌そうな顔でこっちを見上げていた。目を合わせていられなくて、私は視線を反らしてしまう。
何で女王様が外に居るの? 旦那様とずっと一緒なんじゃないの? ていうか今の状況、仕事サボって一人で外に居るところも見られちゃってるし、これって、まずいんじゃ……。
「もう、折角いい感じだったのに。やっぱりまだお母さんとは呼んでくれないのね」
「あの、その。すみません」
女王様は息を吐いて、ふっと表情を緩めた。
「まぁいいわ。そんな事より、聞いたわよメアリー。最近はシャルルさんばかり仕事場に行っていてあなたは部屋の中に居るんですって? 何かあったの?」
そんな事まで知ってるの? え、ど、どうしよう。
「その、体調が……」
女王様は急に表情を険しくした。お、怒られる?
「それはいけないわ。体調が悪い奥さんを放って仕事に行くなんて、シャルルさんは何をしているのかしら。部屋に呼び出してお説教しなきゃいけないわね。仕事なんていいから奥さんを大事にしなさいって。……これは身体に教え込んであげなくちゃいけなくなるかもしれないわ」
身体にって、えぇ!? でも、"女王"蟻だし。まさか、シャルルを鞭で叩く気じゃ……。なんて羨ま、じゃなくてシャルルに触っていいのは私だけなんだから。そういうプレイだって私しかしちゃ駄目なんだから。
女王様にだってシャルルだけは譲る気は無い。それにシャルルは悪くないんだから。
「違うんです。私が行ってって言ったから、だからシャルルは仕事場に」
「あなたはそれで良かったの?」
「だ、だって、シャルルがそうしたいって言ったから」
「そうなんだ。ふぅん。メアリー、あなたやっぱり変わってるわね」
女王様は口元に手を当てて上品に笑った。何よ、変わってるのはあんたたちジャイアントアント達の方じゃない。種族すら違う、見ず知らずの私を仲間だと思い込んで、人が良すぎるにもほどがある。
私は何だかむっとして、言い返してしまう。
「そんな事ありません。確かに私は身体が弱くて、仕事場にはなかなか行けませんけど」
「いいえ、変わってるわ。自分の巣から夫が出ていく事を好きにさせてて、おまけに自分から日光浴の為に外に出てくるアントアラクネなんて、私初めて見たもの」
「……え?」
気付かれていた?
いつから?
いや、まだ冗談と言う可能性もある。ほら、女王様も楽しそうに笑っているし、ただおしゃべりを楽しんでいるようにしか。
「じょ、冗」
「でもあなたがちょっと変わっていて良かったわ。じゃなかったらこうしてアントアラクネのあなたとお日様の下でおしゃべりなんて出来なかったでしょうし」
あ。
終わった。私のこの巣での生活は、全部終わってしまった。
正体がばれてしまえば、いつまでもこの巣に居られるはずが無い。だましている事がバレたら、いくらこの巣の連中がお人好し揃いとは言っても、出て行けと言われるのが当たり前だ。
だって、赤の他人なんだから。
同種だと騙して、ただ飯食って、ベッドや部屋を占拠して、おまけに本当だったらこの巣の誰かの旦那になるはずだった男を奪って自分のものにした。
私なんてただの泥棒。恨まれて当然だ。
でも、アンや主任の口から「出て行け」という言葉だけは聞きたくない。自分でも都合のいい事だと思うけど、好きな人達から糾弾されるのだけは。
出て行くなら、早い方がいいだろう……。
「出て、行きます」
「今から仕事に行くの? でももうお昼よ?」
「違います。この巣から出て行きます。今までお世話になりました。騙していてごめんなさい」
シャルルはお返しします。きっと私なんかよりアンの方がお似合いです。……言わなきゃ、言わなくちゃいけないのに、どうしても言葉に出来ない。涙が出そうになって、喉が詰まって何も言えない。
「メアリー、冗談でもそんな事言うのはやめてちょうだい。悲しくなるじゃない」
女王様が立ち上がり、私の身体を抱きしめる。"母親"の匂いがして、急に自分のお母さんの事を思い出した。お母さんは元気でやっているだろうか。私を産んだあのジャイアントアントの巣で、まだお父さんと仲良くやっているだろうか。
働き蟻には生殖能力は無い。だから、子どもが居る事がバレたら巣から追い出されてしまう。
だから母さんたちを困らせたく無い一心で巣を出てきた。今更巣から追い出されるなんて全然、全然構わなかったのに。そう思っていたのに。
でも違った。女王様に抱きしめられて、私は気付いてしまった。
私はアン達の事、お人好し過ぎるって馬鹿にしながらも大好きで。だからずっと一緒に居たくて。もっと仲良くしたくて。でも、正体がばれてしまうって思ったら踏み込みづらくて。
シャルルの事だって、奪ったような気がしていて。だから取り返されてしまうような気がして怖くて。でも本当に愛しているから、絶対離したく無くて。
出て行きたくない。この巣に居たい。大好きな人達と、愛している夫と一緒に居たい。
「ごめ、ごめんなさい。私ここに居たいです。ジャイアントアントじゃないけど。アントアラクネだけど。迷惑ばかりかけてるけど、でも、この巣のみんなが大好きだから」
「当たり前でしょう? だって、あなたは私の大事な娘の一人なんですから」
「でも私は女王様の子どもじゃないし。種族だって」
「あなたがアントアラクネだって事は、私は最初から分かってました。分かっていたうえで、私はあなたをこの巣に招いたのよ」
その一言は私の頭を真っ白にさせるのに十分な力を持っていた。途中じゃなくて、最初から?
でも気が付いていたなら、どうしてわざわざ大事な巣の中に余計な虫を招き入れたりなんかしたんだろう。わけが分からない。
「なっ。どうして」
「だってあなた、この巣に来たとき『群れからはぐれて行き場が無い』って言ってたでしょう? 種族が違っても、困っている魔物を放っておけないもの」
顔が熱くなってくる。この人は、全く。私はジャイアントアントのふりをして食べ物や男を奪うアントアラクネだって言うのに。女王がこんなだからこの巣の連中はみんなお人好しなんだ。
本当に、本当に馬鹿な連中なんだから……。赤の他人の私を、種族すら違う私を。
「姿かたちも私達にそっくりですからね。だから、あなたを娘にすることにしたの」
視界が歪んで、お母さんの顔が良く見えなかった。
「おか、お母さん」
「あら、やっと呼んでくれたわね」
お母さんの手が私の頭を撫でる。その手は、幼いころに私を撫でてくれた本物の母親の手に似ていた。
それから私達は隣りに座って少しおしゃべりをした。
と言っても、主にしゃべっているのは女王様の方で、私はもっぱら聞き役だったけど。もっとも聞き役としても役割を果たせていたのかどうか自分でも自信が無い。
大体、旦那は昼間娘二人の相手をするので自分は夜しか構ってくれないの、なんて話を聞かされて何て答えればいいのか。どんな顔をすればいいのかさえ、私には分からなかったのだ。
女王蟻とその娘二人のハーレム。旦那様も凄い精力なんだろうなぁ。
「それにしても、よく娘としてるのを許せますね」
「んー。娘も二人とも、あの人の事愛しちゃったからねぇ。あの人も異性として認識してるし、私自身、娘もあの人も愛してるから。
愛する娘が、愛している人に抱きしめられて幸せそうにしてるのを見るのもまた幸せよ」
旦那様も凄いんだろうけど、この人も凄い。
「メアリーはそう言うの駄目なの?」
「……だって、他の子が入ってきたら、ジャイアントアントのフェロモンを前にしたら、私なんてきっと相手にされなくなっちゃいそうだし。私には何の取り柄も」
「そうかしら。みんな「メアリーちゃんは糸を使って旦那様と色んな交わりが出来て羨ましい」って言ってたわよ」
「でも、私にはフェロモンが」
「フェロモンはある意味ではこの巣のみんなが持ってるわよね。でも、旦那様を縛って虜にしてしまう糸は、あなたしか持ってないわ。それはもしかしたらフェロモン以上に旦那様を夢中にさせているかもしれない。いいえ、きっとそうよ。だってみんなが羨ましがっているくらいだもの」
そう、かなぁ。みんなが私を……。ん?
「私がアントアラクネだって気付いてたのって、女王様、いえ、お母さんだけなんじゃ?」
女王様はにっこり笑って首を振った。
「みんな気が付いてるわよ」
え、嘘。いつから?
「あなたがシャルルさんを恋人だって嘘吐いて旦那様にしちゃった日の夜、みんなでお祝いを言いに行こうとしたのよ。でもドアが開かないじゃない?」
嘘吐いてって、そこまでばれて……。
「あの、みんなって」
「アンとか、あの場に居たみんなかなぁ」
あの場に居たみんなって、縛られてたシャルルを取り囲んでいたみんな? 相当数が居たはずなんだけど。
「無理矢理ドアを開けようともしたんだけど、なんだかたくさんの糸が引っかかっていてわずかにしか開かないし、隙間から覗いて見ればベッドの上には縛り付けられたシャルルさんに馬乗りになってるあなたがいるじゃない? シャルルさんもそれらしいこと言っていたし」
全身が熱くなってきて、慌てて私は顔を覆う。やだ。初めてのえっちを見られてたなんて。しかも女王様やアンだけじゃなくてたくさんのみんなに。
「そこでみんなピンと来たみたい。もしかしてメアリーちゃんってアントアラクネなのかなぁって」
「……怒って、ました?」
「みんな安心してたわよ。仕事に出られないのも、すぐ疲れちゃうのも病気じゃ無かったんだね、良かったねって。おまけに誰かの旦那様になったかもしれない男の人を取られたって言うのに、あの子達も素直に喜んじゃっててねぇ。まぁ、あの子たちにとってもメアリーはそれだけ大事な姉妹だったって事よ」
女王様は苦笑いだった。
「自分の娘の事ながら、なんて人のいい子達なんだろうって思っちゃったわよ。あなたを娘にしたのも、自分の娘達に学ばせたいって意味もあったんだけどね」
まぁ確かに良くも悪くも人がいいからなぁ。この巣の中の子達はみんな。
「でも、あなたのおかげでみんなもだんだんやる気が出てきたみたいでね。それからよ、娘達が何人も立て続けに旦那様を見つけ始めたのは」
「私は、何も」
「ううん。気になる男の人が居たら自分から向かって行かなきゃ駄目だって、あなたが教えてくれたのよ。糸で絡み取れない分、自分達は必死で歩いて行ってしがみつかなきゃ駄目なんだって」
何か、褒められてるんだろうか。あまり良く分からない言われ方だ。まるで私が他の子より男にがっついてたみたいな。……いや、間違ってはないか。
まぁ、役に立ってるならそれでいいか。前のジャイアントアントの巣では、役立たずと言われないまでも明らかに不審な目で見られていたし。それが嫌で逃げて来ちゃったわけだし。
それを思えば、この巣は本当に居心地が良いし、姉妹達もみんな気がいい連中だ。
「そう言う意味でも、あなたには出て行って欲しくないのよ。他の姉や妹のいい刺激になって欲しいの。そのためならご飯でも寝床でもいくらでも用意するわ。まぁ娘なんだから一緒に住むのもご飯食べるのも当たり前なんだけどね」
「分かったわよ。もう出て行くなんて言わない。……でもやっぱりお母さんって呼ぶのは恥ずかしいなぁ、女王様じゃ」
「駄目。お母さんって呼んで」
胸に両手を寄せながら祈るような仕草で懇願された。なんというか、この人はやっぱり苦手と言う程じゃないけど、調子を狂わされる。
「お母さん」
「なぁに? メアリー」
本気なのかわざとなのか、すっごく嬉しそうに笑ってるし。今だけじゃない。いつだってこの人も、巣の姉妹達も私なんかと仲良くしようとしてくれる。
やっぱり凄く申し訳なくて、感謝してもしきれない。
「怠け者で面倒臭がりなこんな私を、その、拾ってくれてありがとう」
「何言ってるのよ」
分かっていたけど、やっぱり私の後ろ向きな気持ちは笑い飛ばされてしまった。
「あなたが来てくれた時は嬉しかったのよ? 私の巣もようやくアントアラクネが紛れ込もうとするくらい大きくなったんだなぁって。あなたを見る前はお客さんを迎えるような気持ちで居たの。
でもあなたは捨て犬みたいな寂しそうな顔をしていて、そんな姿を見てしまったらもうお客さんだなんて思えなくなっちゃった。
それに、私の旦那様の方がよっぽど怠け者よ? 一日中ベッドの中から出たがらないし、気分が乗らない時は上に乗って腰振ってくれとか言うし、ご飯食べるの面倒だから口移しで食べさせてくれなんて言うし」
どこかで聞いたことがあるような話だなぁ。あれ、なんか他人とは思えなくなってきた。
一回見てみたいなぁ。でもベッドから出たがらないって話だし、女王様の夫でもあるし会う機会は無いだろうけど。
「そうだ、今度一緒にお食事しましょう。シャルルさん料理が上手なんでしょう? 私も食べてみたいわ」
「じゃ、じゃあ機会があれば」
あら、思ったより早く会えるかもしれない。
「絶対よ。約束よ」
手を握られてじっと見つめられたら、頷くしか無い。
満足そうに頷くと、女王様は急に唇を歪めて欲情に溺れた女の顔になった。
「あぁ、お料理の話をしていたらお腹が減ってきちゃったわ。もうお昼だし、あの人にお腹いっぱいにしてもらわなきゃ」
下腹部に指を滑らせる姿は、獲物を前にした魔物そのものだった。
無垢な子どものようだと思えば、こんな風に男の事しか考えてない雌の顔もする。他にも力では無く言葉をもって相手を制する策士の顔も持っているし、本当にこの人は底が知れない。
「じゃあ、私は行くわね。話が出来て楽しかったわ」
「私も、何かすっきりした気がします」
立ち上がって巣穴に向かう女王様の背中に手を振って見送り、私の周りはまた風の音しかしなくなる。
目を瞑る。シャルルの事を想い、キリスの言葉を思い出し、女王様やアン達ジャイアントアントのフェロモンを思い返し、もう一度シャルルの事を考えてから、私は目を開いて立ち上がった。
人間が、大切だと思っている人の為に役に立とうとすることで愛や想いを表現するのであれば、私もそれを真似すればシャルルも喜んでくれるかもしれない。
シャルルの為に何か出来るだろうか。私にしか出来ない事、何か無いだろうか。
アントアラクネの私に出来る事。蜘蛛のように糸を使える事。
糸、か。
試して、みようかな。
本場のアラクネやジョロウグモには及ばないかもしれないけど、私だってれっきとしたアラクネ種なんだから。
シャルルの事を強く想えば、私にだって糸が紡げるはずだ。
ただシャルルの事を思って糸を紡いだ。
真直ぐに愛しい気持ち、肌を重ねている時の甘い甘い気持ち、腕に抱かれて眠るときの穏やかな気持ち、並んで料理したときの楽しい気持ち、一緒に居るだけで幸せな気持ち。
浮かんでくるのは快い気持ちだけでは無かった。シャルルの事を考えるとどうしても取られてしまうかもしれないという不安や、捨てられてしまうかもしれないという恐怖も混じってしまう。
なかなか一つにまとまり切らない感情がそのまま表れているかのように、気が付けば色とりどりの糸が机の上に並んでいた。
愛しさの白、甘さの桃、楽しさの黄、不安の藍、恐怖の黒。
どれも中途半端な量しか無くて、どう見積もっても洋服一着つくる事も出来そうにない。
やっぱり駄目なのかな。私なんかが頑張ったところで何にもならないのかなぁ。
机の上に突っ伏すと、ちょうどベッドが目に入った。柔らかくて、二人の匂いがたっぷり染み付いたシーツが私を誘っていた。
全て忘れて眠ってしまえば楽になれる。
でも、シャルルはあの時、どんなに目玉焼きを失敗しても上手くいくまで作り続けていた。食べてくれる人の事を、私の事を考えて。
まったく、本当に私はアントアラクネらしく無い。ここに長く居すぎて影響されてきてるのかもしれないなぁ。
机の上の糸を手に取って考える。
雑多にまとまらない私の気持ち。でもこれは間違いなく、不安や恐怖も全部まとめて、私のシャルルに対する大切な気持ちなんだ。
これを使ってシャルルの為に、きっと何か出来るはずだ。
12/12/08 18:12更新 / 玉虫色
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