第二章:この手で触って確かめあって
あのファイという人間と出会い、そして別れてから、時折体が震えるようになった。
冷気を司る私が寒さを感じるはずもない。にも関わらず、何かを無くしてしまったような、何かがこぼれ落ちていくような感覚とともに体が震えた。
そして十分な糧を得ているはずなのに、時折飢えや乾きに似た感覚に襲われた。
試しに領地の冷気を強めて多めに精気を集めたこともあったが、どんなに集めてみても物足りなさが消えることは無かった。
領地の管理に影響が出るほどでは無かったが、しかしその感覚はふとした瞬間に思い出したかのように私を蝕んだ。
こんなことはこれまでに無かった。私の心はいつも白く澄み切り、静寂だったというのに、今は色や音が無いことで逆に気持ちが落ち着かないような、そんな矛盾したような状態になってしまっていた。
私は変わってしまったのだ。彼との出会いによって。彼のせいで。
忘れられないのならば、こんな思いになるのならば出会わなければよかった。命など助けずに、中庭の白に埋もれさせておけば良かった。
人間なんて、地に満ちるほどに増えすぎているのに。それにあっという間に寿命を迎えて死んでしまうのに。あそこでそのまま野垂れ死にさせておいたとしても、この世界には何の影響もなかったのに。
なのに私は彼を助けてしまった。
あまつさえ、再会を望んでしまった。
あれからどれほどの時間が経ったのだろう。数日しか経っていない気もするし、もう百年以上も時が過ぎてしまった気もする。
人間の、生き物の命は短い。
もしかしたら、彼はもう死んでしまったのかもしれない。
……いや、そもそもファイという若者は本当に存在していたのだろうか。
私が私を自覚するようになってから今に至るまで、私の世界には彼のような存在は居なかった。いくら探しても、似たような存在さえ見つけられず、感じ取れなかった。
私が彼の存在を感じ取れたのは、あの時の一瞬だけだ。
突然現れて、そして最初から誰も居なかったかのように消えてしまった。
その痕跡を何も残さずに……。
冷静に考えれば、人間がこの氷の宮殿にたどり着くなんて事はありえない。ましてや転移魔法の失敗で偶然私の元までたどり着くなんて。それこそおとぎ話のような話だ。
私は、もしかしたら砕けて舞い散る氷の塵の煌きの向こうに、蜃気楼を見ただけだったのかもしれない。
あれが幻では無かったのだと、誰が証明できるだろう。
私は『狂って』しまったのだろうか。だとすれば、いつから『狂って』いたのだろうか。
けれど、それならば私にとっての『正気』とは一体なんなのだろう。私が『正常』かどうかは、誰が教えてくれるのだろうか。
私の世界に、私と対等の者は存在しない。支配し、管理するのは常に私一人。私が『正気』であると保証してくれる存在もまた、誰もいない。
あぁ、私はどうすればいいのだろう。どうなってしまうのだろう。
私が私で無くなるまで、この不愉快な気持ちは私の中にわだかまり続けるのだろうか。
それとも、いつの日か全てを忘れて、また真っ白な自分に戻れるのだろうか。
この世界を管理するためだけの存在に。
……戻ってしまうのだろうか。私にとっては、それが正常なのだろうか。
願わくば、一日も早くその日が訪れることを。……いや。
私は、本当は。これが狂っていると言うのであれば、……私は。
『……様。女王様!』
宮殿の空気がざわめいている。グラキエス達が戸惑いの声を上げている。
私は物思いにふけるのを止めて、寝室からグラキエス達の呼ぶ女王の間へと移動する。
彼と出会った中庭を横切り、幻のような思い出にまた震え出し乱れかかる心を無理矢理に白く塗りつぶして、歩を進める。
女王の間にたどり着くなり、私はいつもと違うただならぬ状況に陥っていることを悟った。
いや、グラキエス達が私を呼ぶということ自体が緊急事態なのだ。最初から気付くべきだった。
女王の間の扉付近にグラキエス達が集まっている。
何かを取り囲んでいるようだったが、彼女達と同期した感覚からはそれに対する敵意は感じられなかった。さりとてそれを歓迎しているというわけでもなさそうだ。
正体がわからず困惑している。そんな様子だ。
「どうしたのですか」
問いかけると、グラキエスの一人が振り向き、私に事情を伝えてくる。
彼女の見たままの情報が直接私に送られてくる。
――*目の前の床に、突然魔法陣が浮かび上がる*――
――*そこから極彩色の燃える光が溢れ出す*――
――*光は冷気の魔力に侵され、外側から少しずつ凍り付いてゆき*――
――*やがて燃え上がる炎の氷が出来上がる*――
――*氷がひび割れ、砕け散ったかと思うと*――
――*そこには黒いローブをまとった人間の男が立っていた*――
――*彼は、こちらに向かってこう言った*――
――*『女王様に会わせてほしい』と*――
その魔法陣に、彼の顔立ちに、見覚えがあった。胸にこびりついたまま忘れられなかった、私の、白以外の色だった。
「事情は分かりました。皆、ありがとう。下がっていいわ」
グラキエス達が離れてゆく。その包囲の向こうに、あの時の彼が居た。
あの時のままの姿で。いや、少したくましくなったかもしれない。けれど、彼で間違いない。
これも私が望んだ幻だろうか。
けれど、今はグラキエス達にも見えている。
私が敢えて、全てのグラキエス達にまで幻を見えるように魔法でも掛けない限りは、彼は間違いなくここにいる。ということになる。
それは、つまり……。
「約束通り、会いに来ましたよ。女王様」
彼の声を聞いただけで、私の心の中には色彩が溢れた。にも関わらず、気持ちは落ち着きを取り戻して心が安らいでゆく。
あぁ。私は待っていたんだ。彼が私の元に来てくれることを。
別れたその日から。その瞬間から。
「待っていました。ファイ」
「女王様。この者は?」
「彼は私の客人です」
「客人? ですが、この宮殿に人間が訪れることなど……」
訝しむグラキエス達に、私は彼との出会いの思い出を伝達する。
驚くもの、困惑するもの、なぜか恥じらうもの、反応は様々だったが、皆彼の事を敵ではないと認めてくれたようだった。
しかし敵ではないとわかった途端、グラキエス達は好奇の視線を彼に向け始める。
これでは彼もかしこまってしまって話が出来ないだろう。
「こちらへ」
私は彼に手招きし、寝所へと向かうことにした。
付いてきていた足音が途中で途切れたので、私も立ち止まり、後ろを、中庭を振り返った。
雪と氷と冷気で形作られた世界では、やはり彼の黒衣はよく目立った。白くて何もない不確かな世界に、ただ一つだけ確かな存在なのだとでも主張するように。
「あのへんですか。僕が倒れていたっていうのは」
「そうね。ちょうどあのあたり」
きっかけの場所。
今はただ白いだけになってしまっているが、私は今でもはっきりとあの時の色合いを覚えている。
「なかなか上手くいかないものですね」
私が見つめていると、彼は困ったように笑った。
「本当は、ここか女王様の寝室に出る予定だったんです。と言うか、そこしか座標が分からなかったから。
だけど結局ずれてしまった」
「でも、お客というものは門から入って来るものなのでしょう」
「あそこも正式な門では無いですけどね。けれど確かに女王様の仰る通り、いきなり寝室に現れたらそれこそ失礼でした」
「私はそれでも良かったけれど」
彼は目を丸くする。
「どこに現れようと、こうして二人きりになるのは変わらないのだから」
今度は頬を染める。彼は本当に、ころころと変化し続ける。私と違って。
「女王様からそんな風に言ってもらえるなんて思いませんでした。もしかしたら門前払いを食らったり、今度こそ殺されてしまうかもしれないという覚悟で来たのに」
「どうして私がそんな事をしなければいけないの?」
「だってあなたはこの国の女王様で、本来は僕なんかが気安く会えるような方じゃないから……」
そう言えば、前もこんなやり取りをしたような気がする。人間の考える事は、やはり私にはわからないことが多い。
「あんな口約束の為にこんな何も無い、そこに在るものも決して凍り付くことからは逃れられない世界に、命の危険をかえりみずに会いに来てくれたのよ。歓迎しないわけが無いでしょう」
再び歩き始めると、彼は慌てて私に付いてきた。
「でもここにはあなたがいる。命の恩人のあなたが」
「あれは、ただの気まぐれよ」
何故か、彼の足音が止まりかける。
「そう、ですか」
「でも、またあなたの元気そうな顔が見られて嬉しいわ」
私は寝室の扉を開けて、彼を招き入れる。
「さぁ、どうぞ」
振り返り見た彼の顔は、また赤くなっていた。赤くなったり白くなったり笑ったり困ったり、見ていて本当に飽きない人間だ。
私は寝台に腰を下ろして彼を隣に誘った。
ファイは最初は遠慮したものの、観念して私の隣に座った。そしてあたりを見回して、懐かしい微笑みを浮かべる。
「あれからしばらく経ちましたけど、何も変わっていませんね。何だか、ちょっと安心しました」
「ここは変わらないわ。遠い過去の彼方から、遥か未来のその先まで。……待って、あれから、しばらくですって?」
「はい。お礼に来るのが遅くなってしまって申し訳ございません」
「どのくらい時間が経っているの」
彼は不思議そうな顔で私を見る。
「一年と、少し、でしょうか」
「一年間」
長かったようにも、短かったようにも思える。けれど人間の寿命を考えれば、私にとっては十分に短い期間だったと言えよう。
この冷気の世界とともにある私にとっては、十年も百年も一瞬のうちに過ぎ去ると言っても過言ではない。
もしも百年経っていたら彼はもうこの世にいなかったであろうし、仮に十年しか経っていなかったとしても彼はもう以前の彼ではなくなっていたことだろう。
変わらぬままの彼と再開できたこともまた、奇跡のように類まれなことなのだ。
「色々と頑張ったんですよ。座標はだいたい分かっていたんですが、なにぶんここは魔力でさえも凍りついてしまうような領域ですから、なかなか上手く繋がらなくって。
転移の魔力自体に炎の属性をまとわせたり、冷気に耐性を持たせる工夫をしたり大変だったんですよ。
もう忘れられてしまっているかもって、諦めようとしたこともあったけど、でも、諦めなくて良かった」
「忘れられるわけがないわ」
初めて実際にこの目で見て、肌で触れた本物の人間なのだから。……けれど、理由は本当にそれだけだろうか。自分でもよく分からないが、それだけではない。そんな気もした。
彼は私の瞳を見つめ、口を開く。だが言葉は出てこず、凍り付いたわけでもないのに、そのまま固まってしまった。
「そう言えば、寒くはないの? ここはさっきもあなたが言っていたように、目に見えないものでさえも凍りつく限界の領域なのだけれど」
「え、ああ。それは大丈夫です。その、前に女王様に助けて頂いたときに」
何がそうさせるのか、彼はまた顔を赤くしながら続ける。
「肌を直接重ねて、女王様の命を分けて助けてもらったときに、一緒にほんの少しですが女王様の力も僕の身に宿ったみたいなんです。つまり、冷気に耐えられるような力を。
ただ、やっぱりここに長時間いるのは負担が大きいみたいで、……実は結構寒くなってきました」
彼の身体は小刻みに震え始めていた。私は何も言わず、彼の身体を抱き締める。
「お礼をしに来たはずなのに。また助けられてしまうなんて」
「服を脱ぎなさい。私のやり方では、あなたの身体以外の物は凍らせてしまう。余計に寒くなってしまうわ」
「でも……」
何をためらうのか、私には理解出来ない。このままではまた凍えて死にかかってしまうというのに。
もどかしくて彼のボタンに手を伸ばす。その手に、彼の手が重ねられた。
「せめて、先にお礼を。
と言っても、何をすればお礼になるのか分からないまま来てしまったんですが。
だからその、とにかく女王様のお役に立てることをしようと思って来たんです。僕に出来る事なら、いえ、今は出来ない事でも頑張って何とかしますから、だから何でも言いつけて下さい」
重ねられた手から伝わってくる彼の情熱。それは誰かを凍えさせて得る糧とはまるで違う、触れたところに熱を宿らせる優しい温かさだった。
この温かさこそ、彼が確かにここにいることの証明だった。離れてからずっと忘れることが出来なかった、探し続けてきたものだった。
それならば、私の求めるものなど決まっている。
彼が確かにここに居ること。私が確かにここに、正気で在り続けていることを、彼に証明して欲しい。だから。
「それならば、あの時と同じようにまたあなたの熱を感じさせて。あの時よりも、もっと強く」
「そ、それは、そんなのお礼になりませんよ」
私はまっすぐ彼の目を見上げる。
「お願い、聞いてもらえないの? それとも、今のあなたでは出来ない事?」
彼は息を呑んで、それからしばらく視線を彷徨わせた。
「出来ない事では、ありません。……でも、女王様にそんな失礼な事は」
「何が失礼なのか、私にはよくわからないのだけれど……。私がしてほしいって頼んでいるのよ? それでも、駄目なの?」
何でもする、出来るまで頑張ると言ってくれた彼が、どうして出来ない事では無い事にここまでの迷いを見せるのか、私には理解出来なかった。
それとも、あぁそうなのだろうか。彼は、私の事を。
「私の身体は冷たいものね。抱き締めるのは苦しいことだわ。ごめんなさい。無理なお願いを言って」
彼は急に慌てたように顔を上げて、大きな声を出した。
「違うんです! 嫌なんてこと全然なくて、むしろ光栄なんです! だけど……。その、上手く出来るか、分からなくて」
彼の急変には驚いたが、しかしその不安も分からないわけではなかった。
あの熱をもう一度浴びてしまったらどうなってしまうかという不安は私にもあった。けれどそれ以上に、あの熱が幻だったのではないかと疑い続けることのほうが苦痛だった。
だからどんな形になってもいいから、彼の熱をもう一度感じたかった。私がここに居るということを、強烈に。
「あの時のように、ただ抱きしめてくれるだけでもいい」
「けど、裸で抱き合っていたら、その、……我慢、出来なくなって、しまうかも」
「あなたがしたいようにしていいわ」
彼は再び勢いを失い、うつむいてしまう。何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。
「知識が無いわけではないのよ。私はこの雪と氷の国で起きている全てを見通しているのだから。獣は交尾して数を増やす。人間もまぐわって子をなす。今では魔物と人間でさえ、愛し合えば命を授かることもあるわ。
実際に体験したことこそ無いけれど、これが人間という生き物にとってどういう意味を持っているかも知っているわ。
だからいいの。私に熱を感じさせてくれるなら、あなたがしたいようにしていい」
重ねられた彼の手に、力が篭もる。その手が、少し熱くなる。
「僕は……、僕はこの一年間、ずっと女王様の事が忘れられませんでした。ここに会いに来たのも、申し訳ありませんが、純粋にお礼をしたかったから、というだけじゃありません。
僕なんかに出来ることはたかが知れているけれど、女王様のためになるなら、あなたが望むことなら何でもしたいって思っています。
あなたのことを大切にしたいんです。だから、そんな誰でもいいみたいな……。自分のことを軽んじるような事を言うのはやめてください」
彼の言葉は、どうにも私には実感できないものばかりだった。人間と氷の女王という種族の違いか、それとも圧倒的な寿命の差のせいだろうか。
けれど彼が真剣な気持ちを言葉に乗せていることだけは、はっきりと分かっていた。
「私に熱を感じさせてくれたのはあなたなのだから、誰でもいいなんて事は無いわ。それに、別に自分のことを軽んじているつもりもない」
私の言葉も彼には届いていないのかもしれない。けれど私は、私の気持ちを言葉にすることしか出来ない。
精霊ではなく、人間である彼に気持ちを届けるためには、言葉を伝えあうしか無いのだから。
「あそこに倒れていたのが僕ではなくても、あなたならきっと助けたでしょうね」
「そうね。多分助けたと思うわ」
「僕は別に特別じゃないんですよね。魔法使いにもなりきれない、どこにでも居るただの男なんです」
「別に私も特別ではないわ」
「あなたは特別ですよ。代わりなんて誰も出来ない、雪と氷の世界を統べる存在じゃないですか」
彼は一向に顔を上げてくれない。
こんなに近くにいるのに、手だって繋いでいるのに、まるで彼を待ち続けていた時間と同じような感じがした。それ以上に離れ離れになってしまったような心地がした。
このまま抱き締めるのは容易い。けれどそれでは、いつまでもこの気持ちのまま変わらない気がした。近くにいても、彼はどこまでも遠ざかってしまう。
「そうね。確かに私は特別な魔物かもしれないし、周りから見ればあなたは特別な人間では無いかもしれない。
だけどあのとき中庭で私の目の前に現れたのはあなたなの。私が見過ごせなくなって助けたのも他の誰でもないあなた。そしてあんな約束とも呼べないような別れ際のわがままを本気で果たすために、ここまでもう一度、命がけで私に会いに来てくれたのもあなた。
人間社会の常識はよく分からないけれど、私にとってはあなたは十分特別な人間よ。代わりになるものは無いかって探してみたけれど、どこにも見つからなかった。あなただけなのよ」
ようやくゆっくり顔を上げた彼の顔には、こぼれた涙が凍って張り付いていた。
宝石のようなそれを、私は指で摘んで口に運ぶ。彼の気持ちも、こんな味なのかもしれない。
「僕は、馬鹿ですね。運が良かっただけなんだ。……その運が良かったことを素直に喜べばよかったのに、散々無駄に悩んで」
「……馬鹿で運が良いだけの人間だったら、二回もここまで来られないわよ。自分の意志でここまでたどり着いた人間は、あなたが初めてよ」
彼は照れたように笑った。彼が隣に戻ってきてくれた、そんな気がした。
「っくしゅ」
「ほら、このままでは身体が冷え切ってしまうわよ。早く脱ぎなさい」
衣服の結び目を緩ませようとする私を、今度は止めたりはしなかった。
凍らせないよう、砕かないよう、気をつけて上着を脱がせてゆくと、彼は自分からも服や下着を脱いでいった。
「なかなかに恥ずかしいです」
「人間は不思議ね。自分が生まれた姿を恥じるというのは、私にはよく分からない感覚だわ。大切なものだから、傷つかぬよう服を着て守っているのでしょう?」
私はドレスを形作っていた氷の結合を開放して、裸体を晒す。
「綺麗だ……」
彼はうっとりとした顔で私の身体に手を伸ばす。乳房の膨らみに触れ、おへそをなぞるようにして、腰のくびれを撫でる。
指が、手のひらが触れるごとに熱が肌をくすぐり、その内側が疼いた。
「んっ」
「あ、すみません」
「いいの。もっと触ってみて」
私は引っ込みそうになった彼の手を掴み、身体を触らせる。そして彼の頬に手を添えて、彼と一緒に寝台の上に転がった。
胸が、お腹が直接触れ合う。互いの背中に腕を回して、しがみつきあう。足を絡めて、離れることさえ拒絶する。
触れている肌が熱い。擦れる度に、溶けてしまいそう。耳元に掛かる彼の吐息が、私が私であろうとすることさえも緩ませてゆく。
「寒くは、ないかしら」
「とても温かいです。女王様」
「……クリスタル」
「え?」
「女王様ではなくて、クリスと呼んでくれないかしら」
息も掛かる程の近くにある彼のこげ茶色の瞳を覗き込みながら、私は懇願する。
「敬語もいらない。対等な立場で、私を見て。私の名前を呼んで。ファイ」
その瞳には私が映っている。私の瞳にも、きっと彼が映っているのだろう。
まだ男にはなりきれない、あどけない子犬のような顔をした若者の、戸惑いながらも高揚して頬を染めるその顔が。
私は彼の、少し癖の付いた黒髪を指先でもてあそぶ。
「クリス」
彼の顔が、大きくなってくる。近づいてくる。
いいえ、近づいていたのは私かもしれない。
けれどどちらだったとしても、大した違いはない。私達はどちらからということもなく、お互いの唇を求めて重ね合った。
柔らかくて、熱い。
一度、二度、三度。重ねるごとに熱くなる。吐息にも熱が帯びる。言葉になる前の気持ちを求め合うように、伝えようとするように。
そして唇の間から、唇よりも熱くぬめるものが私の中に入ってきた。彼の舌だった。
遠慮がちに入ってきたそれが、私の舌を探り当てる。おっかなびっくりと触れてきた彼に、私は舌を絡めあわせることで応じる。
彼の唾液が、熱が、精気が、舌を伝って中に入ってくる。擦れ合う度に、舌を中心に身体が溶けていってしまうような、そんな怖いくらいの熱さを感じる。
背筋がぞわりとする程の。けれど不快ではない、むしろ心地よい。
これが人間がつがいになる理由だろうか。魔物達が人間を求める欲望の根源なのだろうか。
この心地よさが。快楽が。受け入れてくれる相手がいる喜びが。求められたいという願いが。
凍り付いていた身体が溶けていく。白と青しかなかった凍てついた心が彼によって色づけられていくような、そんな感覚。
下腹部に、火傷しそうな程の熱が押し付けられている。
私に、初めて本物の人間の熱を教えてくれたもの。
その熱を身体の中心で受け止めたいという欲望が滾る。
そう、滾っていた。雪と氷の国の支配者である、氷の女王たるこの私が、更なる熱を知りたくて、彼を求めて熱くなっていた。
溶け落ちる事も覚悟して、彼の太陽に指を伸ばす。
「クリス」
「欲しいの。身体の中心で、一番奥であなたの熱を感じたいの」
彼は頷いて、腰の間に隙間を作ってくれた。
私は彼を、私の入り口へと誘う。
「冷たかったら、ごめんなさい。不快だったら、すぐにやめてしまってかまわないから」
「僕の方こそ、痛かったらすぐに言ってね」
彼は難しい顔になって、ゆっくりと身体を動かし始める。
そんなに緊張しなくてもいいのに。何だかとても温かい気持ちが胸の中に満ちて、私は彼の顔を撫でた。
けれど、そんな余裕があったのもそこまでだった。
彼のものがほんの少し、その先端が私の中に入ってきただけで、まるで身体が内側から沸騰していってしまうのではないかという感覚に襲われた。
「ぁあっ」
少しずつ、少しずつ彼は私の中に入ってくる。ゆっくり溶け合うように、一つになってゆく。
世界の感覚が遠くなる。彼の熱だけが全てになる。
内側から、外側から、彼は私を包み込むように温め、溶かしてゆく。
「ファイ。ファイっ」
何だか自分が自分でなくなっていくようで、私は不安に耐えられなくなり彼の身体にしがみつく。
与えられる感覚が激しすぎて、その背に爪を立て、首筋に噛み付いてしまう。
痛みも、苦しみもない。その逆だった。
心地よさ、快楽、期待、予感。言葉にならない圧倒的な感情が、どろどろにとろけきった心の中で渦を巻いている。
「……クリス。もう、やめようか」
「ダメ。やめないで。私に、もっとあなたの温かさを感じさせて」
彼が頷く感覚。それとともに、私の背中に回された腕に力が篭もる。
まぶたの裏に桃色の閃光がきらめいて、全身に激しい感覚が駆け抜ける。私の身体の中心に、一番奥に彼が届いた。
咲き乱れる。極彩色に。
「すごく。きついよ」
「冷たくは、無い?」
「クリスの中、すごく温かいよ。クリスの優しい心みたいに」
「ファイも、とても熱いわ。身体が溶けてしまいそうなくらいに……。とっても、心地いい」
「動いても、いい?」
「いいわ。あなたの好きにして」
頷くと、ファイはゆっくりと身体を揺すり始める。
抜けていってしまう心細さと、温かさに身体が満たされる安らぎが、休む間もなく交互に訪れる。
一番奥に触れられる度に、身体も心も彼の色に染められてゆく。
私はいとも容易くその感覚に振り回された。彼の温かささえ感じられるのなら、あとの事はどうでもよくなってゆく。
やがて彼の身体が私に馴染んでくる。
私の中心は彼の熱で柔らかくとろけて、より深く彼を受け入れ、すみずみまで彼と一つになってゆく。
部屋の中に、この宮殿では聞いたこともないような音が響き始める。
「クリス。好きだよ。大好きだ」
「あぁ、ファイ。私もよ」
私は予感を感じる。これまでにない熱の高ぶり。
彼の腰に足を絡めてぐぅっと引き寄せると、彼もまた私に深く深く沈み込み、強く抱きついてきた。
そして私の身体の真ん中で、彼の熱がはじけた。
沸騰していた。私の中心、生まれたときから固く凍り付いて永遠に変わらないと思っていたそこが、彼の優しく温かな熱で温められて、どろどろに溶けて煮え滾っていた。
その熱は波のように全身に広がってゆく。何も考えられなかった。私はただ、その感覚に身を任せ、浸っていることしか出来なかった。
氷の魔力が溶けてゆく。眠らされていた他の魔力が息を吹き返して芽吹いてゆく。
感情さえも、色鮮やかに。
「クリス。クリス?」
荒い息遣いが聞こえる。私を呼ぶ声がする。ずっと聞きたかった人の声。愛しい人の声。あぁそうだ。愛おしい人。
「ごめん。痛かったかな。それとも、やっぱり僕なんかじゃ」
彼は心配そうに私を見下ろしている。顔が、生暖かい何かで濡れていた。
私の目元を、彼の指先が拭う。
その指先もまた濡れる。
私は、私が、泣いているの?
痛くも、苦しくもないのに。
ただ、嬉しいだけなのに。愛を教えてもらえて、誰もいない一人ぼっちの何も無い世界に、ようやく対等の相手を見つけられて。
そうか。この涙は痛みではなくこの感情が流させたんだ。
「ファイ」
私はもう一度彼を抱きしめ、キスをする。
「ずっと会いたかった。会いたくて会いたくて、堪らなかった。会えないうちにあなたが死んでしまうんじゃないかって、もしかしたらあなたは狂った私が産んだ幻覚だったんじゃないかって、不安で不安でたまらなかった。
あなたにもう一度会えて、本当に嬉しい」
返事をするように、彼は私を抱きしめた。
自分が正気なのか、狂っているのか、本当はどうでも良かったんだ。私はただもう一度会いたかったんだ。
独りきりの世界に現れた、私以外の確かな、温かい存在に。
「会いに来たよ。僕はここにちゃんといるよ。クリス」
涙が、止まらなかった。
想いを伝えたあと、私達はもう一度愛し合った。
時間を掛けて、お互いの形を、気持ちを、愛情を確かめ合うように。ここが氷の宮殿の中だということさえ忘れてしまうくらいに、情熱的に。
とても素晴らしい時間だった。今まで過ごしてきて、こんなに濃厚に、生きているということを実感できた時間は無かった。
けれど二人でいる時間が幸せであれば幸せであるほど、私はいずれ来る別れの時を恐れてしまう。
彼はお礼をしに来ただけ。それが終われば帰ってしまうのだろう。
また会いに来てくれるかもしれないが、一人孤独に彼を待ち続ける時間はあまりにも辛い……。
叶うなら、永遠に彼と一緒にいたい。そんな願いさえ抱いてしまう。けれどもそれは、彼の短い青春を奪うことにもなってしまう。
彼は見習い魔法使い。きっと、一人前の魔法使いとなって果たすべき夢があったからこそ、その道を志したのだろう。
それを私のわがままで無にするわけにはいかなかった。
まぐわいの余韻が去ったあとも、私はただただ彼の胸に顔をうずめ続けた。ずっとこの時が続けばいいのに、と祈りながら。
「そうだクリス。こんなのじゃあお礼にはならないけれど、いいものを見せてあげるよ」
「いいもの?」
「部屋の冷気を少し弱くしてもらえるかい」
私は言われるままに、寝室内の冷気の魔力を弱める。
すると部屋の天井付近が急に煌めき始め、様々な色が散り始める。冷気の魔力で光や音が凍って砕けるときとは違う。暖かな魔力の輝きだった。
ずっと見つめるうちに、輝きは像をなし、散りばめられた色は意味を持ち始めていった。
天井に、深緑色の樹海が現れる。雪をかぶっていない森。どこまでも連なる山々。
初めて見る光景に、私は思わず声を上げていた。
「ここが僕の生まれ故郷らしいんだ。もっとも僕は口減らしのために売られたらしいから、思い出は無いんだけどね」
森を行き過ぎると、若草色の草原や、うねるように刻まれた茶色い道が映った。更にその先には、どこまでも果てなく広がる大きな水たまりが見えた。恐らくこれが、海というものなのだろう。
陰影の濃い綿雲が泳ぐ青空と、雄大な藍色の海。同じ白と青なのに、どうしてこの世界はこんなに暖かそうで爽やかなのだろう。
「これが海だよ。僕もこんな風に見たことしか無いんだけど、凄いところだよね」
次に写ったのは、黄色い海だった。風が吹く度に波の形が変わり、風そのものにまで色がついているようにも見えた。水ではなく、砂の海だった。
「師匠についていった先で見た砂漠だよ。もう少し行くとオアシスがあるんだ」
黄色い海に島が現れる。数えるほどの木々と緑の植物、青い小さな池しかない小島ではあったけれど、黄色い海に浮かぶそれは美しかった。
「次は街。僕が住んでいたところだ」
人の作った建物は色とりどりだった。道行く人は皆薄着で、あんな格好では凍えてしまうのではないかと思ったが、考えてみれば外の世界はここまで寒くは無いのだ。
そして光がひるがえって、赤い煉瓦の塔が映される。
「ここが修行していたところ。魔術師達が集まって研究する塔だよ。……そしてこれがその屋上から見える風景」
幻影が浮かび上がるようにして、視線が上がってゆく。赤い塔さえ見下ろせる程の高みから広がった光景は、黄金色の海原だった。
風が吹く度に揺れている。囁く様な音が聞こえてきそうな、これは。
「秋の麦畑さ。一年で一番綺麗な光景なんだ。……いつか、クリスにも本物を見せたいな」
私の世界には無いものばかりだった。
外の世界は騒がしいけれど、全てがいきいきと生命力に溢れている。
それから先も、彼はたくさんの美しい世界を見せてくれた。けれど外の世界を知れば知るほど、そんな世界から彼を切り離すわけにはいかないという気持ちも強くなっていった。
胸の中が冷たくなってゆくのは、決して己の強すぎる冷気のせいだけでは無かった。
「クリス?」
「とても、美しいわ」
もう一度愛し合えれば、きっとこの胸はまた熱を取り戻せる。けれどそうなってしまったら、きっと私は彼にしがみついてしまうだろう。
だったらこのまま、身体の熱が冷めるままに恋も冷ましてしまったほうがいい。
「どうしたの」
なのに彼は素直な瞳で私を覗き込んできて、抱き寄せてくる。
心が凍り始めている。胸の中で張り始めた薄氷が、ひび割れて張り裂けてしまいそう。切なくてたまらない。
身体が震えてくる。全てを投げうって、彼にしがみつけたらどんなに幸せだろう。
「氷の女王も凍える事があるんだね。また温め合おうか」
「ダメ」
彼の指が私の髪を撫でる。
くすぐったい。厚い雪雲の間から差し込んだ陽の光のように優しくて温かい。そのまま心ごと理性まで溶けてしまいそうで、私は彼の手を掴んで止めさせる。
そんな、怒られた子犬みたいな顔で見つめないで。そんな顔をされたら、私は。
「心が元に戻ろうとしているの。冷たく、凍てついた普段の私に。……だからもう、離れてちょうだい」
「どうして」
「これ以上、こんな気持ちを抱えているのは辛いのよ」
心は閉じ始めているのに、言葉はとめどなく溢れ出る。
「……ならせめて、心が完全に凍り付いてしまう前にもう一度だけ抱かせてはくれないか」
彼は真剣な瞳でまっすぐ私を見つめて、とんでもないことを口走る。
「クリスの心を、永遠に凍らないくらいに熱くさせてみせるから」
私はどんな顔をしていいのか分からなくなる。身体が変な感じだった。何も無いのに、急に熱を持ったようになる。特にその感覚は顔に集中していて、まともにファイの顔も見られなくなってしまう。
「む、無駄よ。私は雪と氷の国の象徴、氷の女王。仮に一度心が溶けたとしても、私自身が生まれ持った強い冷気が溶けたままでいることを許さないわ。私の望む、望まないに関わらず、ね」
「やってみなければわからないよ」
彼は私の頬に手を当てて、私を振り向かせる。
彼の顔が少し赤いのは、恥じらいのためなのか、それとも興奮のためか。いずれにしろ、すぐにでも抱きしめたくなってしまうほどに可愛らしい。
「……そこまで言うならいいわ。けれど、条件がある」
「条件?」
「これ以上私を抱くと言うのなら、もう二度と私の心を凍り付かせないで。一度や二度愛し合った程度ではまたすぐに凍りついてしまうでしょうけど、常に私の側にいて私を愛し続けてくれれば、凍り付く間も無く心は溶け続けるかもしれない。
あなたに、そこまでする覚悟はある?」
彼は目を見開いた。
その恐ろしい条件に驚き、おののいたように。
自分でも酷いことを言っているものだと思った。これ以上こうしていられないのなら、最後に一度くらい好きにさせてやればいいのに。
私が望めばきっと彼は会いに来てくれるだろう。けれどずっとそばに居てくれないなら。こんな気持ちをずっと抱えているくらいなら……。
彼はしかし、怒ることも泣くことも無く、私の身体をぐっと引き寄せる。
「そんなこと言うなら、本当にずっとそばにいるよ。クリスの方こそ、それでもいいんだね?」
「……え?」
彼の言葉の意味が分からない。
「クリスの心が永遠に溶けてしまうまで、ずっとそばで愛し続ける」
「だから、私の心は何度でも凍って」
「凍るならその度温めるよ。何度でも抱き締める。クリスの心や身体がどんなに冷たく固くなっても、僕が絶対に溶かしてみせる。
そばにいることを許してくれるなら、僕はずっとクリスのそばに居たい」
それこそ、夢か幻なのでは無いのだろうか。けれど肌に感じる彼の温度も、指や腕の感触もこれ以上無いほどに生々しかった。
「でも、あなたには夢があるんでしょう。一人前の魔法使いになって、やりたいことが」
自分でも、どうしてこんな事を言って突き放そうとしているのか分からなかった。
いや、不安なんだ。私のそばから離れられなくなった彼から、いつの日かあの選択は間違っていたと聞かされるのが。
彼は小さく笑う。誤魔化すように、恥ずかしそうに。
「見習い魔法使いが一人前になれなかったのは、明確な目的が無かったからなんだ」
「目的?」
「そう。クリスが今言っていた、夢さ。
師匠に言われたんだ。お前はもう実力は十分だ。けれど一人前の魔法使いになるためには決定的なものが欠けている。って。
研究に打ち込み、技術に磨きを掛けるための、あらゆるものを差し置いてでもこれを実現したいという情熱さ。
師匠に拾われただけの僕にはそれが無かったんだ。いくら幼い頃から師匠の魔法を見て技術を盗んできたと言っても、肝心の器に入れるべき中身が無かったんだ。だけど」
彼はぎゅっと私を抱き締める。痛いくらいに背中に食い込む彼の指に、心ごと掴まれてしまったように錯覚してしまう。
「見習い魔法使いは、氷の女王に命を救われてようやくそれを見つけたんだ。
あの人にまた会いたい。もっと言葉を交わしてみたい。あの時重ねた肌の温かさをもう一度感じたい。ううん。一度じゃなくて、何度でも。
氷の女王の事もよく調べた。資料は少なかったけれど、自分の心さえも凍らせてしまう強い冷気の魔力を持っていて、ここから動けないって事は分かった。
氷の女王は自分の事など好きになってくれないかもしれない。覚えてさえいないかもしれない。追い返されるかもしれない。
だけどどうしても会いたかった。許してもらえるなら、そばで氷の女王を支えるためにあらゆることをしたい。ううん、しようって決めた。
だから改めて魔法を勉強し直した。ただ魔法を使っただけじゃ駄目だからって、あらゆる工夫を考えた。
そして、ついに僕はここに来たんだ。僕の夢を叶える為に」
私は、とうとう何も言えなくなってしまう。なにを言えばよいのかも分からなかった。
ただ言葉を重ねられただけで胸の氷は再び溶けて、瞳から溢れ出てきてしまう。いや、これこそが彼の魔法なのかもしれない。
だって、そうでなければ氷の女王がこんな風になるわけがない。もう見習いじゃないんだ。彼は本当に、凄い魔法使いになっていたんだ。
「もう、答えは聞かないよ」
彼は私の唇を塞ぐ。
少し強引に、口の中を掻き回すようにして彼の熱意を伝えてくる。
驚いて動かした腕は掴まれてシーツに押し付けられた。脚も動かせないように体重を乗せられた。
「あ、愛してる」
最後まで決まらないところが、とても可愛らしくて愛おしい。
必死で格好つけようとして、私の身体を気取った手つきで弄ってくる。少しこそばゆくて、でも気持ちよくて嬉しくて、私は思わず声を上げてしまう。
私はそんな彼の全てを受け入れる。遠慮なくその背をきつく抱きしめる。
「ありがとう。ずっと、そばにいてね」
溶かされてゆく。私の心が、熱く。
冷気を司る私が寒さを感じるはずもない。にも関わらず、何かを無くしてしまったような、何かがこぼれ落ちていくような感覚とともに体が震えた。
そして十分な糧を得ているはずなのに、時折飢えや乾きに似た感覚に襲われた。
試しに領地の冷気を強めて多めに精気を集めたこともあったが、どんなに集めてみても物足りなさが消えることは無かった。
領地の管理に影響が出るほどでは無かったが、しかしその感覚はふとした瞬間に思い出したかのように私を蝕んだ。
こんなことはこれまでに無かった。私の心はいつも白く澄み切り、静寂だったというのに、今は色や音が無いことで逆に気持ちが落ち着かないような、そんな矛盾したような状態になってしまっていた。
私は変わってしまったのだ。彼との出会いによって。彼のせいで。
忘れられないのならば、こんな思いになるのならば出会わなければよかった。命など助けずに、中庭の白に埋もれさせておけば良かった。
人間なんて、地に満ちるほどに増えすぎているのに。それにあっという間に寿命を迎えて死んでしまうのに。あそこでそのまま野垂れ死にさせておいたとしても、この世界には何の影響もなかったのに。
なのに私は彼を助けてしまった。
あまつさえ、再会を望んでしまった。
あれからどれほどの時間が経ったのだろう。数日しか経っていない気もするし、もう百年以上も時が過ぎてしまった気もする。
人間の、生き物の命は短い。
もしかしたら、彼はもう死んでしまったのかもしれない。
……いや、そもそもファイという若者は本当に存在していたのだろうか。
私が私を自覚するようになってから今に至るまで、私の世界には彼のような存在は居なかった。いくら探しても、似たような存在さえ見つけられず、感じ取れなかった。
私が彼の存在を感じ取れたのは、あの時の一瞬だけだ。
突然現れて、そして最初から誰も居なかったかのように消えてしまった。
その痕跡を何も残さずに……。
冷静に考えれば、人間がこの氷の宮殿にたどり着くなんて事はありえない。ましてや転移魔法の失敗で偶然私の元までたどり着くなんて。それこそおとぎ話のような話だ。
私は、もしかしたら砕けて舞い散る氷の塵の煌きの向こうに、蜃気楼を見ただけだったのかもしれない。
あれが幻では無かったのだと、誰が証明できるだろう。
私は『狂って』しまったのだろうか。だとすれば、いつから『狂って』いたのだろうか。
けれど、それならば私にとっての『正気』とは一体なんなのだろう。私が『正常』かどうかは、誰が教えてくれるのだろうか。
私の世界に、私と対等の者は存在しない。支配し、管理するのは常に私一人。私が『正気』であると保証してくれる存在もまた、誰もいない。
あぁ、私はどうすればいいのだろう。どうなってしまうのだろう。
私が私で無くなるまで、この不愉快な気持ちは私の中にわだかまり続けるのだろうか。
それとも、いつの日か全てを忘れて、また真っ白な自分に戻れるのだろうか。
この世界を管理するためだけの存在に。
……戻ってしまうのだろうか。私にとっては、それが正常なのだろうか。
願わくば、一日も早くその日が訪れることを。……いや。
私は、本当は。これが狂っていると言うのであれば、……私は。
『……様。女王様!』
宮殿の空気がざわめいている。グラキエス達が戸惑いの声を上げている。
私は物思いにふけるのを止めて、寝室からグラキエス達の呼ぶ女王の間へと移動する。
彼と出会った中庭を横切り、幻のような思い出にまた震え出し乱れかかる心を無理矢理に白く塗りつぶして、歩を進める。
女王の間にたどり着くなり、私はいつもと違うただならぬ状況に陥っていることを悟った。
いや、グラキエス達が私を呼ぶということ自体が緊急事態なのだ。最初から気付くべきだった。
女王の間の扉付近にグラキエス達が集まっている。
何かを取り囲んでいるようだったが、彼女達と同期した感覚からはそれに対する敵意は感じられなかった。さりとてそれを歓迎しているというわけでもなさそうだ。
正体がわからず困惑している。そんな様子だ。
「どうしたのですか」
問いかけると、グラキエスの一人が振り向き、私に事情を伝えてくる。
彼女の見たままの情報が直接私に送られてくる。
――*目の前の床に、突然魔法陣が浮かび上がる*――
――*そこから極彩色の燃える光が溢れ出す*――
――*光は冷気の魔力に侵され、外側から少しずつ凍り付いてゆき*――
――*やがて燃え上がる炎の氷が出来上がる*――
――*氷がひび割れ、砕け散ったかと思うと*――
――*そこには黒いローブをまとった人間の男が立っていた*――
――*彼は、こちらに向かってこう言った*――
――*『女王様に会わせてほしい』と*――
その魔法陣に、彼の顔立ちに、見覚えがあった。胸にこびりついたまま忘れられなかった、私の、白以外の色だった。
「事情は分かりました。皆、ありがとう。下がっていいわ」
グラキエス達が離れてゆく。その包囲の向こうに、あの時の彼が居た。
あの時のままの姿で。いや、少したくましくなったかもしれない。けれど、彼で間違いない。
これも私が望んだ幻だろうか。
けれど、今はグラキエス達にも見えている。
私が敢えて、全てのグラキエス達にまで幻を見えるように魔法でも掛けない限りは、彼は間違いなくここにいる。ということになる。
それは、つまり……。
「約束通り、会いに来ましたよ。女王様」
彼の声を聞いただけで、私の心の中には色彩が溢れた。にも関わらず、気持ちは落ち着きを取り戻して心が安らいでゆく。
あぁ。私は待っていたんだ。彼が私の元に来てくれることを。
別れたその日から。その瞬間から。
「待っていました。ファイ」
「女王様。この者は?」
「彼は私の客人です」
「客人? ですが、この宮殿に人間が訪れることなど……」
訝しむグラキエス達に、私は彼との出会いの思い出を伝達する。
驚くもの、困惑するもの、なぜか恥じらうもの、反応は様々だったが、皆彼の事を敵ではないと認めてくれたようだった。
しかし敵ではないとわかった途端、グラキエス達は好奇の視線を彼に向け始める。
これでは彼もかしこまってしまって話が出来ないだろう。
「こちらへ」
私は彼に手招きし、寝所へと向かうことにした。
付いてきていた足音が途中で途切れたので、私も立ち止まり、後ろを、中庭を振り返った。
雪と氷と冷気で形作られた世界では、やはり彼の黒衣はよく目立った。白くて何もない不確かな世界に、ただ一つだけ確かな存在なのだとでも主張するように。
「あのへんですか。僕が倒れていたっていうのは」
「そうね。ちょうどあのあたり」
きっかけの場所。
今はただ白いだけになってしまっているが、私は今でもはっきりとあの時の色合いを覚えている。
「なかなか上手くいかないものですね」
私が見つめていると、彼は困ったように笑った。
「本当は、ここか女王様の寝室に出る予定だったんです。と言うか、そこしか座標が分からなかったから。
だけど結局ずれてしまった」
「でも、お客というものは門から入って来るものなのでしょう」
「あそこも正式な門では無いですけどね。けれど確かに女王様の仰る通り、いきなり寝室に現れたらそれこそ失礼でした」
「私はそれでも良かったけれど」
彼は目を丸くする。
「どこに現れようと、こうして二人きりになるのは変わらないのだから」
今度は頬を染める。彼は本当に、ころころと変化し続ける。私と違って。
「女王様からそんな風に言ってもらえるなんて思いませんでした。もしかしたら門前払いを食らったり、今度こそ殺されてしまうかもしれないという覚悟で来たのに」
「どうして私がそんな事をしなければいけないの?」
「だってあなたはこの国の女王様で、本来は僕なんかが気安く会えるような方じゃないから……」
そう言えば、前もこんなやり取りをしたような気がする。人間の考える事は、やはり私にはわからないことが多い。
「あんな口約束の為にこんな何も無い、そこに在るものも決して凍り付くことからは逃れられない世界に、命の危険をかえりみずに会いに来てくれたのよ。歓迎しないわけが無いでしょう」
再び歩き始めると、彼は慌てて私に付いてきた。
「でもここにはあなたがいる。命の恩人のあなたが」
「あれは、ただの気まぐれよ」
何故か、彼の足音が止まりかける。
「そう、ですか」
「でも、またあなたの元気そうな顔が見られて嬉しいわ」
私は寝室の扉を開けて、彼を招き入れる。
「さぁ、どうぞ」
振り返り見た彼の顔は、また赤くなっていた。赤くなったり白くなったり笑ったり困ったり、見ていて本当に飽きない人間だ。
私は寝台に腰を下ろして彼を隣に誘った。
ファイは最初は遠慮したものの、観念して私の隣に座った。そしてあたりを見回して、懐かしい微笑みを浮かべる。
「あれからしばらく経ちましたけど、何も変わっていませんね。何だか、ちょっと安心しました」
「ここは変わらないわ。遠い過去の彼方から、遥か未来のその先まで。……待って、あれから、しばらくですって?」
「はい。お礼に来るのが遅くなってしまって申し訳ございません」
「どのくらい時間が経っているの」
彼は不思議そうな顔で私を見る。
「一年と、少し、でしょうか」
「一年間」
長かったようにも、短かったようにも思える。けれど人間の寿命を考えれば、私にとっては十分に短い期間だったと言えよう。
この冷気の世界とともにある私にとっては、十年も百年も一瞬のうちに過ぎ去ると言っても過言ではない。
もしも百年経っていたら彼はもうこの世にいなかったであろうし、仮に十年しか経っていなかったとしても彼はもう以前の彼ではなくなっていたことだろう。
変わらぬままの彼と再開できたこともまた、奇跡のように類まれなことなのだ。
「色々と頑張ったんですよ。座標はだいたい分かっていたんですが、なにぶんここは魔力でさえも凍りついてしまうような領域ですから、なかなか上手く繋がらなくって。
転移の魔力自体に炎の属性をまとわせたり、冷気に耐性を持たせる工夫をしたり大変だったんですよ。
もう忘れられてしまっているかもって、諦めようとしたこともあったけど、でも、諦めなくて良かった」
「忘れられるわけがないわ」
初めて実際にこの目で見て、肌で触れた本物の人間なのだから。……けれど、理由は本当にそれだけだろうか。自分でもよく分からないが、それだけではない。そんな気もした。
彼は私の瞳を見つめ、口を開く。だが言葉は出てこず、凍り付いたわけでもないのに、そのまま固まってしまった。
「そう言えば、寒くはないの? ここはさっきもあなたが言っていたように、目に見えないものでさえも凍りつく限界の領域なのだけれど」
「え、ああ。それは大丈夫です。その、前に女王様に助けて頂いたときに」
何がそうさせるのか、彼はまた顔を赤くしながら続ける。
「肌を直接重ねて、女王様の命を分けて助けてもらったときに、一緒にほんの少しですが女王様の力も僕の身に宿ったみたいなんです。つまり、冷気に耐えられるような力を。
ただ、やっぱりここに長時間いるのは負担が大きいみたいで、……実は結構寒くなってきました」
彼の身体は小刻みに震え始めていた。私は何も言わず、彼の身体を抱き締める。
「お礼をしに来たはずなのに。また助けられてしまうなんて」
「服を脱ぎなさい。私のやり方では、あなたの身体以外の物は凍らせてしまう。余計に寒くなってしまうわ」
「でも……」
何をためらうのか、私には理解出来ない。このままではまた凍えて死にかかってしまうというのに。
もどかしくて彼のボタンに手を伸ばす。その手に、彼の手が重ねられた。
「せめて、先にお礼を。
と言っても、何をすればお礼になるのか分からないまま来てしまったんですが。
だからその、とにかく女王様のお役に立てることをしようと思って来たんです。僕に出来る事なら、いえ、今は出来ない事でも頑張って何とかしますから、だから何でも言いつけて下さい」
重ねられた手から伝わってくる彼の情熱。それは誰かを凍えさせて得る糧とはまるで違う、触れたところに熱を宿らせる優しい温かさだった。
この温かさこそ、彼が確かにここにいることの証明だった。離れてからずっと忘れることが出来なかった、探し続けてきたものだった。
それならば、私の求めるものなど決まっている。
彼が確かにここに居ること。私が確かにここに、正気で在り続けていることを、彼に証明して欲しい。だから。
「それならば、あの時と同じようにまたあなたの熱を感じさせて。あの時よりも、もっと強く」
「そ、それは、そんなのお礼になりませんよ」
私はまっすぐ彼の目を見上げる。
「お願い、聞いてもらえないの? それとも、今のあなたでは出来ない事?」
彼は息を呑んで、それからしばらく視線を彷徨わせた。
「出来ない事では、ありません。……でも、女王様にそんな失礼な事は」
「何が失礼なのか、私にはよくわからないのだけれど……。私がしてほしいって頼んでいるのよ? それでも、駄目なの?」
何でもする、出来るまで頑張ると言ってくれた彼が、どうして出来ない事では無い事にここまでの迷いを見せるのか、私には理解出来なかった。
それとも、あぁそうなのだろうか。彼は、私の事を。
「私の身体は冷たいものね。抱き締めるのは苦しいことだわ。ごめんなさい。無理なお願いを言って」
彼は急に慌てたように顔を上げて、大きな声を出した。
「違うんです! 嫌なんてこと全然なくて、むしろ光栄なんです! だけど……。その、上手く出来るか、分からなくて」
彼の急変には驚いたが、しかしその不安も分からないわけではなかった。
あの熱をもう一度浴びてしまったらどうなってしまうかという不安は私にもあった。けれどそれ以上に、あの熱が幻だったのではないかと疑い続けることのほうが苦痛だった。
だからどんな形になってもいいから、彼の熱をもう一度感じたかった。私がここに居るということを、強烈に。
「あの時のように、ただ抱きしめてくれるだけでもいい」
「けど、裸で抱き合っていたら、その、……我慢、出来なくなって、しまうかも」
「あなたがしたいようにしていいわ」
彼は再び勢いを失い、うつむいてしまう。何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。
「知識が無いわけではないのよ。私はこの雪と氷の国で起きている全てを見通しているのだから。獣は交尾して数を増やす。人間もまぐわって子をなす。今では魔物と人間でさえ、愛し合えば命を授かることもあるわ。
実際に体験したことこそ無いけれど、これが人間という生き物にとってどういう意味を持っているかも知っているわ。
だからいいの。私に熱を感じさせてくれるなら、あなたがしたいようにしていい」
重ねられた彼の手に、力が篭もる。その手が、少し熱くなる。
「僕は……、僕はこの一年間、ずっと女王様の事が忘れられませんでした。ここに会いに来たのも、申し訳ありませんが、純粋にお礼をしたかったから、というだけじゃありません。
僕なんかに出来ることはたかが知れているけれど、女王様のためになるなら、あなたが望むことなら何でもしたいって思っています。
あなたのことを大切にしたいんです。だから、そんな誰でもいいみたいな……。自分のことを軽んじるような事を言うのはやめてください」
彼の言葉は、どうにも私には実感できないものばかりだった。人間と氷の女王という種族の違いか、それとも圧倒的な寿命の差のせいだろうか。
けれど彼が真剣な気持ちを言葉に乗せていることだけは、はっきりと分かっていた。
「私に熱を感じさせてくれたのはあなたなのだから、誰でもいいなんて事は無いわ。それに、別に自分のことを軽んじているつもりもない」
私の言葉も彼には届いていないのかもしれない。けれど私は、私の気持ちを言葉にすることしか出来ない。
精霊ではなく、人間である彼に気持ちを届けるためには、言葉を伝えあうしか無いのだから。
「あそこに倒れていたのが僕ではなくても、あなたならきっと助けたでしょうね」
「そうね。多分助けたと思うわ」
「僕は別に特別じゃないんですよね。魔法使いにもなりきれない、どこにでも居るただの男なんです」
「別に私も特別ではないわ」
「あなたは特別ですよ。代わりなんて誰も出来ない、雪と氷の世界を統べる存在じゃないですか」
彼は一向に顔を上げてくれない。
こんなに近くにいるのに、手だって繋いでいるのに、まるで彼を待ち続けていた時間と同じような感じがした。それ以上に離れ離れになってしまったような心地がした。
このまま抱き締めるのは容易い。けれどそれでは、いつまでもこの気持ちのまま変わらない気がした。近くにいても、彼はどこまでも遠ざかってしまう。
「そうね。確かに私は特別な魔物かもしれないし、周りから見ればあなたは特別な人間では無いかもしれない。
だけどあのとき中庭で私の目の前に現れたのはあなたなの。私が見過ごせなくなって助けたのも他の誰でもないあなた。そしてあんな約束とも呼べないような別れ際のわがままを本気で果たすために、ここまでもう一度、命がけで私に会いに来てくれたのもあなた。
人間社会の常識はよく分からないけれど、私にとってはあなたは十分特別な人間よ。代わりになるものは無いかって探してみたけれど、どこにも見つからなかった。あなただけなのよ」
ようやくゆっくり顔を上げた彼の顔には、こぼれた涙が凍って張り付いていた。
宝石のようなそれを、私は指で摘んで口に運ぶ。彼の気持ちも、こんな味なのかもしれない。
「僕は、馬鹿ですね。運が良かっただけなんだ。……その運が良かったことを素直に喜べばよかったのに、散々無駄に悩んで」
「……馬鹿で運が良いだけの人間だったら、二回もここまで来られないわよ。自分の意志でここまでたどり着いた人間は、あなたが初めてよ」
彼は照れたように笑った。彼が隣に戻ってきてくれた、そんな気がした。
「っくしゅ」
「ほら、このままでは身体が冷え切ってしまうわよ。早く脱ぎなさい」
衣服の結び目を緩ませようとする私を、今度は止めたりはしなかった。
凍らせないよう、砕かないよう、気をつけて上着を脱がせてゆくと、彼は自分からも服や下着を脱いでいった。
「なかなかに恥ずかしいです」
「人間は不思議ね。自分が生まれた姿を恥じるというのは、私にはよく分からない感覚だわ。大切なものだから、傷つかぬよう服を着て守っているのでしょう?」
私はドレスを形作っていた氷の結合を開放して、裸体を晒す。
「綺麗だ……」
彼はうっとりとした顔で私の身体に手を伸ばす。乳房の膨らみに触れ、おへそをなぞるようにして、腰のくびれを撫でる。
指が、手のひらが触れるごとに熱が肌をくすぐり、その内側が疼いた。
「んっ」
「あ、すみません」
「いいの。もっと触ってみて」
私は引っ込みそうになった彼の手を掴み、身体を触らせる。そして彼の頬に手を添えて、彼と一緒に寝台の上に転がった。
胸が、お腹が直接触れ合う。互いの背中に腕を回して、しがみつきあう。足を絡めて、離れることさえ拒絶する。
触れている肌が熱い。擦れる度に、溶けてしまいそう。耳元に掛かる彼の吐息が、私が私であろうとすることさえも緩ませてゆく。
「寒くは、ないかしら」
「とても温かいです。女王様」
「……クリスタル」
「え?」
「女王様ではなくて、クリスと呼んでくれないかしら」
息も掛かる程の近くにある彼のこげ茶色の瞳を覗き込みながら、私は懇願する。
「敬語もいらない。対等な立場で、私を見て。私の名前を呼んで。ファイ」
その瞳には私が映っている。私の瞳にも、きっと彼が映っているのだろう。
まだ男にはなりきれない、あどけない子犬のような顔をした若者の、戸惑いながらも高揚して頬を染めるその顔が。
私は彼の、少し癖の付いた黒髪を指先でもてあそぶ。
「クリス」
彼の顔が、大きくなってくる。近づいてくる。
いいえ、近づいていたのは私かもしれない。
けれどどちらだったとしても、大した違いはない。私達はどちらからということもなく、お互いの唇を求めて重ね合った。
柔らかくて、熱い。
一度、二度、三度。重ねるごとに熱くなる。吐息にも熱が帯びる。言葉になる前の気持ちを求め合うように、伝えようとするように。
そして唇の間から、唇よりも熱くぬめるものが私の中に入ってきた。彼の舌だった。
遠慮がちに入ってきたそれが、私の舌を探り当てる。おっかなびっくりと触れてきた彼に、私は舌を絡めあわせることで応じる。
彼の唾液が、熱が、精気が、舌を伝って中に入ってくる。擦れ合う度に、舌を中心に身体が溶けていってしまうような、そんな怖いくらいの熱さを感じる。
背筋がぞわりとする程の。けれど不快ではない、むしろ心地よい。
これが人間がつがいになる理由だろうか。魔物達が人間を求める欲望の根源なのだろうか。
この心地よさが。快楽が。受け入れてくれる相手がいる喜びが。求められたいという願いが。
凍り付いていた身体が溶けていく。白と青しかなかった凍てついた心が彼によって色づけられていくような、そんな感覚。
下腹部に、火傷しそうな程の熱が押し付けられている。
私に、初めて本物の人間の熱を教えてくれたもの。
その熱を身体の中心で受け止めたいという欲望が滾る。
そう、滾っていた。雪と氷の国の支配者である、氷の女王たるこの私が、更なる熱を知りたくて、彼を求めて熱くなっていた。
溶け落ちる事も覚悟して、彼の太陽に指を伸ばす。
「クリス」
「欲しいの。身体の中心で、一番奥であなたの熱を感じたいの」
彼は頷いて、腰の間に隙間を作ってくれた。
私は彼を、私の入り口へと誘う。
「冷たかったら、ごめんなさい。不快だったら、すぐにやめてしまってかまわないから」
「僕の方こそ、痛かったらすぐに言ってね」
彼は難しい顔になって、ゆっくりと身体を動かし始める。
そんなに緊張しなくてもいいのに。何だかとても温かい気持ちが胸の中に満ちて、私は彼の顔を撫でた。
けれど、そんな余裕があったのもそこまでだった。
彼のものがほんの少し、その先端が私の中に入ってきただけで、まるで身体が内側から沸騰していってしまうのではないかという感覚に襲われた。
「ぁあっ」
少しずつ、少しずつ彼は私の中に入ってくる。ゆっくり溶け合うように、一つになってゆく。
世界の感覚が遠くなる。彼の熱だけが全てになる。
内側から、外側から、彼は私を包み込むように温め、溶かしてゆく。
「ファイ。ファイっ」
何だか自分が自分でなくなっていくようで、私は不安に耐えられなくなり彼の身体にしがみつく。
与えられる感覚が激しすぎて、その背に爪を立て、首筋に噛み付いてしまう。
痛みも、苦しみもない。その逆だった。
心地よさ、快楽、期待、予感。言葉にならない圧倒的な感情が、どろどろにとろけきった心の中で渦を巻いている。
「……クリス。もう、やめようか」
「ダメ。やめないで。私に、もっとあなたの温かさを感じさせて」
彼が頷く感覚。それとともに、私の背中に回された腕に力が篭もる。
まぶたの裏に桃色の閃光がきらめいて、全身に激しい感覚が駆け抜ける。私の身体の中心に、一番奥に彼が届いた。
咲き乱れる。極彩色に。
「すごく。きついよ」
「冷たくは、無い?」
「クリスの中、すごく温かいよ。クリスの優しい心みたいに」
「ファイも、とても熱いわ。身体が溶けてしまいそうなくらいに……。とっても、心地いい」
「動いても、いい?」
「いいわ。あなたの好きにして」
頷くと、ファイはゆっくりと身体を揺すり始める。
抜けていってしまう心細さと、温かさに身体が満たされる安らぎが、休む間もなく交互に訪れる。
一番奥に触れられる度に、身体も心も彼の色に染められてゆく。
私はいとも容易くその感覚に振り回された。彼の温かささえ感じられるのなら、あとの事はどうでもよくなってゆく。
やがて彼の身体が私に馴染んでくる。
私の中心は彼の熱で柔らかくとろけて、より深く彼を受け入れ、すみずみまで彼と一つになってゆく。
部屋の中に、この宮殿では聞いたこともないような音が響き始める。
「クリス。好きだよ。大好きだ」
「あぁ、ファイ。私もよ」
私は予感を感じる。これまでにない熱の高ぶり。
彼の腰に足を絡めてぐぅっと引き寄せると、彼もまた私に深く深く沈み込み、強く抱きついてきた。
そして私の身体の真ん中で、彼の熱がはじけた。
沸騰していた。私の中心、生まれたときから固く凍り付いて永遠に変わらないと思っていたそこが、彼の優しく温かな熱で温められて、どろどろに溶けて煮え滾っていた。
その熱は波のように全身に広がってゆく。何も考えられなかった。私はただ、その感覚に身を任せ、浸っていることしか出来なかった。
氷の魔力が溶けてゆく。眠らされていた他の魔力が息を吹き返して芽吹いてゆく。
感情さえも、色鮮やかに。
「クリス。クリス?」
荒い息遣いが聞こえる。私を呼ぶ声がする。ずっと聞きたかった人の声。愛しい人の声。あぁそうだ。愛おしい人。
「ごめん。痛かったかな。それとも、やっぱり僕なんかじゃ」
彼は心配そうに私を見下ろしている。顔が、生暖かい何かで濡れていた。
私の目元を、彼の指先が拭う。
その指先もまた濡れる。
私は、私が、泣いているの?
痛くも、苦しくもないのに。
ただ、嬉しいだけなのに。愛を教えてもらえて、誰もいない一人ぼっちの何も無い世界に、ようやく対等の相手を見つけられて。
そうか。この涙は痛みではなくこの感情が流させたんだ。
「ファイ」
私はもう一度彼を抱きしめ、キスをする。
「ずっと会いたかった。会いたくて会いたくて、堪らなかった。会えないうちにあなたが死んでしまうんじゃないかって、もしかしたらあなたは狂った私が産んだ幻覚だったんじゃないかって、不安で不安でたまらなかった。
あなたにもう一度会えて、本当に嬉しい」
返事をするように、彼は私を抱きしめた。
自分が正気なのか、狂っているのか、本当はどうでも良かったんだ。私はただもう一度会いたかったんだ。
独りきりの世界に現れた、私以外の確かな、温かい存在に。
「会いに来たよ。僕はここにちゃんといるよ。クリス」
涙が、止まらなかった。
想いを伝えたあと、私達はもう一度愛し合った。
時間を掛けて、お互いの形を、気持ちを、愛情を確かめ合うように。ここが氷の宮殿の中だということさえ忘れてしまうくらいに、情熱的に。
とても素晴らしい時間だった。今まで過ごしてきて、こんなに濃厚に、生きているということを実感できた時間は無かった。
けれど二人でいる時間が幸せであれば幸せであるほど、私はいずれ来る別れの時を恐れてしまう。
彼はお礼をしに来ただけ。それが終われば帰ってしまうのだろう。
また会いに来てくれるかもしれないが、一人孤独に彼を待ち続ける時間はあまりにも辛い……。
叶うなら、永遠に彼と一緒にいたい。そんな願いさえ抱いてしまう。けれどもそれは、彼の短い青春を奪うことにもなってしまう。
彼は見習い魔法使い。きっと、一人前の魔法使いとなって果たすべき夢があったからこそ、その道を志したのだろう。
それを私のわがままで無にするわけにはいかなかった。
まぐわいの余韻が去ったあとも、私はただただ彼の胸に顔をうずめ続けた。ずっとこの時が続けばいいのに、と祈りながら。
「そうだクリス。こんなのじゃあお礼にはならないけれど、いいものを見せてあげるよ」
「いいもの?」
「部屋の冷気を少し弱くしてもらえるかい」
私は言われるままに、寝室内の冷気の魔力を弱める。
すると部屋の天井付近が急に煌めき始め、様々な色が散り始める。冷気の魔力で光や音が凍って砕けるときとは違う。暖かな魔力の輝きだった。
ずっと見つめるうちに、輝きは像をなし、散りばめられた色は意味を持ち始めていった。
天井に、深緑色の樹海が現れる。雪をかぶっていない森。どこまでも連なる山々。
初めて見る光景に、私は思わず声を上げていた。
「ここが僕の生まれ故郷らしいんだ。もっとも僕は口減らしのために売られたらしいから、思い出は無いんだけどね」
森を行き過ぎると、若草色の草原や、うねるように刻まれた茶色い道が映った。更にその先には、どこまでも果てなく広がる大きな水たまりが見えた。恐らくこれが、海というものなのだろう。
陰影の濃い綿雲が泳ぐ青空と、雄大な藍色の海。同じ白と青なのに、どうしてこの世界はこんなに暖かそうで爽やかなのだろう。
「これが海だよ。僕もこんな風に見たことしか無いんだけど、凄いところだよね」
次に写ったのは、黄色い海だった。風が吹く度に波の形が変わり、風そのものにまで色がついているようにも見えた。水ではなく、砂の海だった。
「師匠についていった先で見た砂漠だよ。もう少し行くとオアシスがあるんだ」
黄色い海に島が現れる。数えるほどの木々と緑の植物、青い小さな池しかない小島ではあったけれど、黄色い海に浮かぶそれは美しかった。
「次は街。僕が住んでいたところだ」
人の作った建物は色とりどりだった。道行く人は皆薄着で、あんな格好では凍えてしまうのではないかと思ったが、考えてみれば外の世界はここまで寒くは無いのだ。
そして光がひるがえって、赤い煉瓦の塔が映される。
「ここが修行していたところ。魔術師達が集まって研究する塔だよ。……そしてこれがその屋上から見える風景」
幻影が浮かび上がるようにして、視線が上がってゆく。赤い塔さえ見下ろせる程の高みから広がった光景は、黄金色の海原だった。
風が吹く度に揺れている。囁く様な音が聞こえてきそうな、これは。
「秋の麦畑さ。一年で一番綺麗な光景なんだ。……いつか、クリスにも本物を見せたいな」
私の世界には無いものばかりだった。
外の世界は騒がしいけれど、全てがいきいきと生命力に溢れている。
それから先も、彼はたくさんの美しい世界を見せてくれた。けれど外の世界を知れば知るほど、そんな世界から彼を切り離すわけにはいかないという気持ちも強くなっていった。
胸の中が冷たくなってゆくのは、決して己の強すぎる冷気のせいだけでは無かった。
「クリス?」
「とても、美しいわ」
もう一度愛し合えれば、きっとこの胸はまた熱を取り戻せる。けれどそうなってしまったら、きっと私は彼にしがみついてしまうだろう。
だったらこのまま、身体の熱が冷めるままに恋も冷ましてしまったほうがいい。
「どうしたの」
なのに彼は素直な瞳で私を覗き込んできて、抱き寄せてくる。
心が凍り始めている。胸の中で張り始めた薄氷が、ひび割れて張り裂けてしまいそう。切なくてたまらない。
身体が震えてくる。全てを投げうって、彼にしがみつけたらどんなに幸せだろう。
「氷の女王も凍える事があるんだね。また温め合おうか」
「ダメ」
彼の指が私の髪を撫でる。
くすぐったい。厚い雪雲の間から差し込んだ陽の光のように優しくて温かい。そのまま心ごと理性まで溶けてしまいそうで、私は彼の手を掴んで止めさせる。
そんな、怒られた子犬みたいな顔で見つめないで。そんな顔をされたら、私は。
「心が元に戻ろうとしているの。冷たく、凍てついた普段の私に。……だからもう、離れてちょうだい」
「どうして」
「これ以上、こんな気持ちを抱えているのは辛いのよ」
心は閉じ始めているのに、言葉はとめどなく溢れ出る。
「……ならせめて、心が完全に凍り付いてしまう前にもう一度だけ抱かせてはくれないか」
彼は真剣な瞳でまっすぐ私を見つめて、とんでもないことを口走る。
「クリスの心を、永遠に凍らないくらいに熱くさせてみせるから」
私はどんな顔をしていいのか分からなくなる。身体が変な感じだった。何も無いのに、急に熱を持ったようになる。特にその感覚は顔に集中していて、まともにファイの顔も見られなくなってしまう。
「む、無駄よ。私は雪と氷の国の象徴、氷の女王。仮に一度心が溶けたとしても、私自身が生まれ持った強い冷気が溶けたままでいることを許さないわ。私の望む、望まないに関わらず、ね」
「やってみなければわからないよ」
彼は私の頬に手を当てて、私を振り向かせる。
彼の顔が少し赤いのは、恥じらいのためなのか、それとも興奮のためか。いずれにしろ、すぐにでも抱きしめたくなってしまうほどに可愛らしい。
「……そこまで言うならいいわ。けれど、条件がある」
「条件?」
「これ以上私を抱くと言うのなら、もう二度と私の心を凍り付かせないで。一度や二度愛し合った程度ではまたすぐに凍りついてしまうでしょうけど、常に私の側にいて私を愛し続けてくれれば、凍り付く間も無く心は溶け続けるかもしれない。
あなたに、そこまでする覚悟はある?」
彼は目を見開いた。
その恐ろしい条件に驚き、おののいたように。
自分でも酷いことを言っているものだと思った。これ以上こうしていられないのなら、最後に一度くらい好きにさせてやればいいのに。
私が望めばきっと彼は会いに来てくれるだろう。けれどずっとそばに居てくれないなら。こんな気持ちをずっと抱えているくらいなら……。
彼はしかし、怒ることも泣くことも無く、私の身体をぐっと引き寄せる。
「そんなこと言うなら、本当にずっとそばにいるよ。クリスの方こそ、それでもいいんだね?」
「……え?」
彼の言葉の意味が分からない。
「クリスの心が永遠に溶けてしまうまで、ずっとそばで愛し続ける」
「だから、私の心は何度でも凍って」
「凍るならその度温めるよ。何度でも抱き締める。クリスの心や身体がどんなに冷たく固くなっても、僕が絶対に溶かしてみせる。
そばにいることを許してくれるなら、僕はずっとクリスのそばに居たい」
それこそ、夢か幻なのでは無いのだろうか。けれど肌に感じる彼の温度も、指や腕の感触もこれ以上無いほどに生々しかった。
「でも、あなたには夢があるんでしょう。一人前の魔法使いになって、やりたいことが」
自分でも、どうしてこんな事を言って突き放そうとしているのか分からなかった。
いや、不安なんだ。私のそばから離れられなくなった彼から、いつの日かあの選択は間違っていたと聞かされるのが。
彼は小さく笑う。誤魔化すように、恥ずかしそうに。
「見習い魔法使いが一人前になれなかったのは、明確な目的が無かったからなんだ」
「目的?」
「そう。クリスが今言っていた、夢さ。
師匠に言われたんだ。お前はもう実力は十分だ。けれど一人前の魔法使いになるためには決定的なものが欠けている。って。
研究に打ち込み、技術に磨きを掛けるための、あらゆるものを差し置いてでもこれを実現したいという情熱さ。
師匠に拾われただけの僕にはそれが無かったんだ。いくら幼い頃から師匠の魔法を見て技術を盗んできたと言っても、肝心の器に入れるべき中身が無かったんだ。だけど」
彼はぎゅっと私を抱き締める。痛いくらいに背中に食い込む彼の指に、心ごと掴まれてしまったように錯覚してしまう。
「見習い魔法使いは、氷の女王に命を救われてようやくそれを見つけたんだ。
あの人にまた会いたい。もっと言葉を交わしてみたい。あの時重ねた肌の温かさをもう一度感じたい。ううん。一度じゃなくて、何度でも。
氷の女王の事もよく調べた。資料は少なかったけれど、自分の心さえも凍らせてしまう強い冷気の魔力を持っていて、ここから動けないって事は分かった。
氷の女王は自分の事など好きになってくれないかもしれない。覚えてさえいないかもしれない。追い返されるかもしれない。
だけどどうしても会いたかった。許してもらえるなら、そばで氷の女王を支えるためにあらゆることをしたい。ううん、しようって決めた。
だから改めて魔法を勉強し直した。ただ魔法を使っただけじゃ駄目だからって、あらゆる工夫を考えた。
そして、ついに僕はここに来たんだ。僕の夢を叶える為に」
私は、とうとう何も言えなくなってしまう。なにを言えばよいのかも分からなかった。
ただ言葉を重ねられただけで胸の氷は再び溶けて、瞳から溢れ出てきてしまう。いや、これこそが彼の魔法なのかもしれない。
だって、そうでなければ氷の女王がこんな風になるわけがない。もう見習いじゃないんだ。彼は本当に、凄い魔法使いになっていたんだ。
「もう、答えは聞かないよ」
彼は私の唇を塞ぐ。
少し強引に、口の中を掻き回すようにして彼の熱意を伝えてくる。
驚いて動かした腕は掴まれてシーツに押し付けられた。脚も動かせないように体重を乗せられた。
「あ、愛してる」
最後まで決まらないところが、とても可愛らしくて愛おしい。
必死で格好つけようとして、私の身体を気取った手つきで弄ってくる。少しこそばゆくて、でも気持ちよくて嬉しくて、私は思わず声を上げてしまう。
私はそんな彼の全てを受け入れる。遠慮なくその背をきつく抱きしめる。
「ありがとう。ずっと、そばにいてね」
溶かされてゆく。私の心が、熱く。
16/12/18 22:25更新 / 玉虫色
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